ゼカリヤ書1章1~6節「わたしに帰れ」

Loading

きょうからゼカリヤ書に入ります。ゼカリヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還後に活躍した預言者です。その時代に活躍した預言者は3人います。一人はこれまで学んできたハガイであり、もう一人はマラキであり、そしてもう一人がこのゼカリヤです。1節に、彼が預言者として召された年が書かれてありますが、それはダレイオス王の第二年のことでした。それは西暦に換算するとB.C.520となりますが、これは前回まで見てきたハガイと同じ年です。ハガイ書1:1には、「ダレイオス王の第二年、第六の月に・・・・主ことばがあった」とあります。ハガイが預言者として召されたのは、このゼカリヤよりもわずか2か月前のことでした。第六の月にハガイが主のことばを語ると、その2か月後には今度はゼカリヤが預言するというように、交互に預言していたのです。すなわち、ゼカリヤもハガイ同様、エルサレムの神殿を再建していたユダの民を励ますために神のことばを語っていたということです。ただ違うのは、ハガイの預言活動はわずか4か月であったのに対して、ゼカリヤ書はかなりの長きにわたって活動をしました。それは2:4をみると、そこに「あの若い者」とあるように、これはゼカリヤのことですが、彼は若い頃から活動していたからです。でも預言活動に歳の差は関係ないですね。高齢のおじいちゃん預言者ハガイと若い青年預言者ゼカリヤが互いに補い合いながらコンビのようにして預言し、神殿再建をしていたユダの民を励ましたのです。いったいそれはどのような内容だったのでしょうか。それは「わたしに帰れ」というメッセージでした。

Ⅰ.主は覚えておられる(1)

まず、1節をご覧ください。「ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。」

ここには、預言者ゼカリヤは「イドの子ベレクヤの子」とあります。ゼカリヤの祖父は「イド」という人物でした。これは別に日本語の井戸のことではありません。そこに井戸があったということではなく、単なる名前です。でもこの名前は他の箇所にも見ることができます。ネヘミヤ記12:4です。1節から読みますが、そこには「12:1 シェアルティエルの子ゼルバベルおよびヨシュアと一緒に上って来た、祭司とレビ人は次のとおりである。セラヤ、エレミヤ、エズラ、12:2 アマルヤ、マルク、ハトシュ、12:3 シェカンヤ、レフム、メレモテ、12:4 イド、ギネトイ、アビヤ、」とあります。

これは総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアと共に、バビロンから最初にエルサレムに帰還した民のリストです。ここにこのイドという名前があるのです。1節を見るとわかりますが、このイドは祭司でした。ですからゼカリヤは預言者として召されましたが、祭司の家系でもあったのです。ということはどういうこというと、彼はこの神殿再建プロジェクトに並々ならぬ情熱を持っていたに違いないということです。祭司は神殿に仕える人ですから、それは自分の職場の再建でもあったわけです。ですから、普通の人以上に情熱があったに違いありません。これは神からの使命だという感覚を持っていたことでしょう。そして祭司でもありましたから権威もありました。その上で、神の預言者として神からのメッセージを語ったのです。必然的に彼のメッセージには力がこもっていたことでしょう。そして意気消沈していた帰還民を励まし、奮い立たせたのです。

この「イド」という名前ですが、意味は「神の時」です。それは言い換えると「ちょうど良い時」ということです。そしてお父さんの名前は「ベレクヤ」です。「ベレクヤ」という名前は、ヤハウェー(主)は祝福するという意味があります。そして「ゼカリヤ」ですね。「ゼカリヤ」という名前は、ヤハウェーは覚えておられる、です。この名前の人は旧約聖書に少なくとも31人登場しています。「ザカリヤ」という名前も同じです。とてもポピュラーな名前であったことがわかります。それもそうでしょう。その名前の意味がすばらしいです。主は覚えておられる。

この3人の名前が、このゼカリヤ書のテーマといっても良いでしょう。すなわち、主は忘れてはおられるということです。そして、神の時、ちょうど良い時に祝福してくださいます。それはあなたに対するメッセージでもあります。主はあなたのことも覚えておられます。主は決してあなたを忘れてはいません。それは人の目から見たら頓挫したかのように見えるかもしれません。遅々として前に進んでいないように見えるかもしれない。でも神はちゃんと覚えておられるのです。そしてちょうど良い時に、神の時に祝福してくださいます。ひょっとしたらそのために16年という歳月を待たなければならないかもしれませんが、ちょうど良い時に、神が祝福してくださいます。Ⅰペテロ5:6に、「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」とあるとおりです。ちょうど良い時に、神はあなたを高くしてくださいます。

創世記に登場するヨセフはそうでしょ。17歳の時にお兄さんたちに売られてエジプトの奴隷となりました。エジプトで囚人となったこともあります。しかし彼が30歳になった時、神は彼を高くしてくださいました。エジプトのファラオに次ぐ第二の地位に就き、すべての管理を任されるまでになりました。そして、飢餓で苦しんでいた家族がエジプトに移り住むきっかけとなりました。そのために彼は13年間も待たなければなりませんでしたが、神の時に、神は彼を高くされたのです。

それはあなたにも言えることです。神の働きは時として無駄に見えることがありますが、それは決して無駄ではありません。最後の最後に、神はあなたを祝福してくださるからです。なぜですか?主は覚えておられるからです。ご自身が約束されたことを決して忘れることはないからです。私たちはそうではありません。私たちはすぐに忘れてしまいます。どんなに忘れないようにと思っていてもすぐに忘れてしまいます。それが私たちの性質なのです。だからイエス様は聖餐式を制定されたのです。忘れないように。「わたしを覚えてこれを行いなさい」と。まさかイエス様のことを忘れるなんてあり得ないと思うかもしれませんが、私の罪のために十字架で死んでくださったイエス様のことを忘れるなんてとんでもないと思うでしょう。でも実際には忘れてしまいます。そうでしょ?もし忘れなければ、不安や恐れなどないはずです。だってイエス様は嵐さえ沈められた方ですから。その方が共におられるなら何も恐れる必要はありません。それなのに恐れたり、心配するのはどうしてかというと、イエス様のことを忘れているからです。イエス様がどのようなお方なのか、何をされたのかを忘れているからなのです。人に裏切られたり、見捨てられても悲しむ必要はありません。なぜなら、イエス様も裏切られ、見捨てられましたから。そのイエス様は決してあなたを見離さず、見捨てないと言っておられるからです。あなたはそれほど愛されているのです。それならばどうして悩んだり、悲しんだりする必要があるでしょうか。将来のことで悲観する必要もありません。なぜなら、イエス様は死からよみがえられたのですから。私たちもよみがえるのです。すごいじゃないですか。もうすぐイースターですが、今年のイースター礼拝ではお話しないのできょうはっきりと言っておきますが、イエス様はよみがえられました!イエス様は死にも打ち勝たれたのです。そのお方があなたとともにおられるのです。どんな逆境だって乗り越えられます。私たちにはそういう希望があるのです。そうでしょ。アーメン!以外と私たちはイエス様を信じているとは言っても、それが口だけのことが多いのです。だれかとお話しているとよくお金の話になります。「お金はどうするんですか」と。新しい教会を開拓したいと思っているんです。「お金はどうするんですか」と。どうやって生活するんですかと。でも聖書には何と書いてありますか。もう忘れましたか。ハガイ書2:8には、「銀はわたしのもの、金もわたしのもの」とありました。銀は主のもの、金も主のものです。主はすべてを持っておられます。主がすべての必要を満たしてくださるのです。大切なのは、お金があるかどうかではなく、それが神様のみこころかどうかです。それが神のみこころならば、必ず主は必要を満たしてくださいます。だって聖書にそう書かれてありますから。私が願っていることは、聖書に何と書いてあるかを知り、そのみことばに信頼して生きることです。自分の考えや自分の感情ではなく、主のみことばの上に堅く立つことです。私たちはイエス様を信じていると口では言っても、全然信じていないような行動をしてしまうことがあります。何を食べるか、何を飲むか、何を切るかということで心配しています。イエス様はおっしゃいました。それは異邦人が切に求めているものだと。でも神はあなたがたにこれらのものが必要であることを知っておられます。だから、「神の国とその義とを第一に求めなさい。」と言われたのです。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられますと。これが私たちの信仰です。男だけで五千人の人たちを、5つのパンと2匹の魚で養われた方は、あなたのすべての必要を満たしてくださいます。これが聖書の約束です。だからイエス様を覚えるなら何も心配しなくても良いのです。もう不平不満も必要ありません。大切なのはイエス様を覚えていることです。へブル12:2には「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」とあります。イエス様から目を離さないでください。聖書のみことばに生きることです。そうすれば、主は必ずあなたを祝福してくださいます。ちょうど良い時に。ハバクク2:3を開いてください。ここには、「この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」とあります。

もし遅くなってもあきらめないでください。それは必ず来ます。遅れることはありません。主はあなたを覚えておられますから。主はあなたを祝福する用意は出来ています。その時を定めておられるのです。その時を待ちましょう。すべてが神の御手の中にあると信じて、神が祝福してくださるときを待ち望みたいと思います。ユダの民は16年間、何も前に進んでいないかのように見えたかもしれません。でも神の時に、ちょうど良い時に、神は祝福してくださいます。神は覚えておられるからです。神は約束されたことを忘れることは決してありません。この約束を信じて、私たちも一歩前進していこうではありませんか。

Ⅱ.わたしに帰れ(2-4)

次に、2~4節をご覧ください。「1:2 「【主】はあなたがたの先祖に激しく怒った。1:3 あなたは人々に言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。』1:4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。──【主】のことば──」

「主はあなたがたの先祖に激しく怒った」とは、主のイスラエルの先祖たちに対する歴史の評価です。イスラエルの民は神の民であり、神から特別な使命を受けたにもかかわらず、その使命を全うすることができなかったばかりか、主との契約を破り、偶像礼拝に走りました。そのイスラエルの先祖たちに対して、主は激しく怒られました。その象徴的な出来事がバビロン捕囚であったわけです。

だからと言って、それで終わりではありませんでした。イスラエルがどんなに神との契約を破っても、神は約束を破られる方ではありません。神はご自身を否むことができないからです。Ⅱテモテ2:13にあるとおりです。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

私たちは身勝手な者で簡単に契約を破るようなものですが、神は決してそのようなことはなさいません。神は常に真実なのです。神は約束したことは最後まで守られます。

それゆえ神は何と言っていますか。ここには「わたしに帰れ」とあります。3節をご覧ください。ここには「あなたは人々に言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。』」とあります。

ここには「万軍の主」ということばが3回も繰り返して書かれてあります。このことばはゼカリヤ書全体で52回使われています。これがゼカリヤ書のキーワードです。これは神の全能の力を示す御名です。敵がどんなに多くても、どれほど強大でも、あなたがたにはこのわたし、万軍の主がついておられるのだ。その万軍の主はこう言われると。「わたしに帰れ」と。「そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と。これは約束のことばです。万軍の主が間違いなく約束しておられるのです。バビロン捕囚は矯正的な裁きでした。彼らを懲らしめ、教育するためのさばきだったのです。彼らを滅ぼすための裁きではありません。そのバビロン捕囚から帰還したということは、新しい時代が到来したことを示しています。その新しい時代において、神の民イスラエルはどうあるべきなのでしょうか。その新しい時代にふさわしい神との関係に入る必要がありました。

4節をご覧ください。でも彼らの先祖はそれに応答しませんでした。主のことばに聞き従わず、悪の道と悪しきわざわいから立ち返ることをしませんでした。でも、新時代に生きる民はそうであってはいけません。新時代に生きる民は、悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。そうすれば、主も帰って来てくださいます。

これは新時代を生きる私たちクリスチャンにも言われていることです。「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と。ヤコブ4:8にはこうあります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」

もしあなたが神に近づくなら、神もあなたに近づいてくださいます。これが神の約束です。もしかしたらあなたは神を近くに感じないかもしれません。神様がどこへ行ってしまったのではないかと思っているかもしれない。神様に祈ったし、神様を求めたけれど、神は全然答えてくれないと。近くにいるどころか、どこか遠くにいるように感じる。いったい神はどこへ行ってしまったのか・・・と。

逆です。神がどこかへ行ってしまったのではなく、あなたがどこかへ行ってしまったのです。確かにあなたは神に祈ったかもしれません。神を求めたかもしれない。でも、その求め方が間違っていたのです。神はどこにでもおられます。だからどこかへ行ってしまうということはないのです。どこかへ行ってしまうとしたら、それは神ではなくあなたの方です。

最初の人アダムが罪を犯した時のことを思い起こしてください。彼は園の中央にある木の実について、「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と命じられたにも関わらず、その命令に背いて食べたとき、主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そのとき、神である主は人に呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか」。神はどこにも行きませんでした。行ったのはアダムの方でした。彼は神の御顔を避けて、木と木の間に隠れたのです。

ですから、神がどこかへ行ってしまうことはありません。私たちが勝手にどこかへ行ってしまうのです。神の許から離れ去ってしまいます。だから神は「帰れ」と言っておられるのです。「神に近づきなさい」と言っておられるのです。勝手に出て行ってしまった私たちに「帰れ」、「近づきなさい」と言ってくださるのです。これは愛と恵みに富んだことばじゃないですか。一般的にはどうでしょう。勝手に家を出て行った息子にこんな優しいことばをかけないでしょ。もう二度と帰ってくるな、家の敷居は跨ぐなとか言うんじゃないですか。でも神様はそういうお方ではありません。勝手に出て行った私たちに対して「帰れ」とおっしゃってくださいます。

皆さんもよくご存知の放蕩息子の父親はそうでした。父親の財産の半分を受け取り、自分の荷持ちをまとめて遠い国に旅だったかと思ったら、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たしてしまった息子が帰って来たとき、父親は遠くから彼を見つけるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そしてしもべに一番良い着物を持って来させ、手には指輪をはめさせ、足に履き物をはかせました。そして肥えた子牛を引いてきてお祝いしました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」(ルカ15:24)と言って。なぜこの父親はそうしたのでしょうか。この息子が悔い改めて帰って来たからです。それほどうれしかったのです。それが何よりも父親が望んでおられたことだったのです。それが主なる神の思いです。

万軍の主はこう言われます。「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」これはあなたに対する約束のことばでもあります。神に帰りましょう。神に近づきましょう。そうすれば、神も帰って来てくださいます。あなたに近づいてくださいます。神はあなたのことを決してお忘れにはなりません。ずっと覚えておられますから。あなたが神に帰ることをいつも待っておられるのです。

Ⅲ.そのとおりになる(5-6)

最後に、5~6節のみことばを終わりたいと思います。「1:5 あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きるだろうか。1:6 しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。それで彼らは立ち返って言ったのだ。『万軍の【主】は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と。」」

「あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか」とは、イスラエルの民への問いかけです。当然答えは、彼らは預言者たちが預言したとおり死にました。では預言者たちはどこにいるのか。彼らは永遠に生きているだろうか。答えはノーです。預言者たちも同じように死にました。でも違うことがあると言うのです。それは6節にあるように、「しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。それで彼らは立ち返って言ったのだ。『万軍の【主】は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と。」ということです。どういうことでしょうか。

確かに預言者たちも彼らの先祖たちと同じように死にましたが、違うことがあります。それは何か。それは、確かに預言者たちも死んでしまいましたが、その預言のことば、つまり神のことばは生きていて、イスラエルの先祖たちに悔い改めを迫ったということです。つまり、神のことばは無駄には帰らなかったということです。言い方を変えると、歴史を見なさいということです。歴史を振り返りなさいと。わたしが言ったとおりになったでしょう。そのことばを信じなさいと言っているのです。だから16年間も閉ざしていた神殿再建プロジェクトに対しても、わたしのことばをもう一度握り締めなさい、と言って励ましているのです。どんなに迫害があろうが、どんなに反対があろうと、モチベーションが下がろうと、情熱が失せてしまおうと、燃え尽きて疲れ果ててしまおうと、わたしのことばは変わらないから、わたしに帰り、わたしのことばを信じて実行しなさい、と励ましているのです。

これは現代に生きている私たちも語られていることです。中には聖書のことばは古臭い。それは聖書が書かれた時代の人々に対して語られたことであって現代の私たちには関係のないことだ。第一あまりにも非科学的すぎると考えている人がいますが、そうじゃないのです。それは今も生きて働いているのです。そのことばに従わなければなりません。そうすれば神の祝福を受けることができます。

これはイザヤ書40:6~8に記されている原則そのものです。イザヤ書40:6~8にはこうあります。「40:6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。40:7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」」

これが聖書の原則です。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に堅く立ちます。ペテロはこのイザヤのことばを引用し、「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです(Ⅰペテロ1:25)。と言っています。皆さん、これがあなたに宣べ伝えられた福音のことばです。これは昔も今も変わらない神の原則なのです。

ゼカリヤはこの書の冒頭でイスラエルの民に、悔い改めて主に帰るように勧めました。もし主に帰るなら、主もまた帰ってくださると。この真理は今も変わらないということです。あなたが神に帰るなら、神もあなたに帰ってくださいます。この神の約束のことばに信頼し、罪から離れ、神に立ち返る人は幸いです。神がその人を覚えておられますから。ちょうど良い時、神の時に、引き上げてくださいます。祝福してくださる。私たちもそのような道を歩ませていただきましょう。それが預言者ゼカリヤを通して神が私たちに語っておられることなのです。