今回は、レビ記13章から学びます。12章では、女が身重になり、子どもを産んだ時は汚れるということについて学びました。それは、出産した女の人が汚れているとか、罪を犯しているということではなく、アダムとエバによってもたらされた罪の汚れを引き継いでいることの象徴でした。この13章と14章に出てくるツァラアトも同じです。ツァラアトに冒された人も汚れた者とされ、隔離され、宿営から追放されますが、それはツァラアトという病気の衛生的な理由よりも、そのツァラアトが象徴していたものが罪、汚れであったからなのです。
ところで、このツァラアトという言葉は、ヘブル語をそのまま記しています。新改訳聖書第二版では、これを「らい病」と訳しました。しかし、このツァラアトの症状とらい病の症状が少し違うことと、らい病と訳すことによってらい病の方々への偏見と差別をなくす配慮から「ツァラアト」と訳すようにしたようです。ちなみに、らい病というのは、結核菌によく似たライ菌によって起こる感染症で、体温の低い皮膚の下の神経細胞に住み着き、痛さや熱さを感じなくなる病気で、ここに記されている症状とは少し違います。
1.ツァラアトの患部が現れたときは(1-8)
それでは、まず1節から8節までをご覧ください。ここには、ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚にツァラアトの患部が現れたときは、どうしたら良いかが書かれています。その場合、彼を、祭司アロンか、祭司であるその子らのひとりのところに連れて来なければなりませんでした。祭司はそのからだの皮膚の患部を調べます。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えるなら、それはツァラアトの患部であり、祭司は、彼をツァラアトと宣言しなければなりませんでした。
これはどういうことでしょうか?ここで大切なのは、それがツァラアトであるかどうかを祭司アロンか、祭司であるその子らのひとりのところに連れて来なければならなかったということです。祭司はじっくりと、その人が負っている傷がツァラアトであるかどうか調べなければなりませんでした。この大祭司、あるいは祭司は、イエス様のことを象徴しています。ヘブル書にも、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・・・」とありますが、イエス様は私たちの大祭司です。そのイエス様に、私たちの中に罪、汚れはないか、調べてもらわなければならないということなのです。私たちはイエスさまを信じて罪が赦されました。そして、イエスさまの霊、聖霊が私たちのうちに住んでおられます。そのような私たちにとって必要なことは、私たちの中にツァラアトのような罪、汚れがないかどうかを調べていただき、あるなら悔い改めて聖めていただきながら、とこしえの道に導いていただかなければなりません。
詩篇139篇23~24節を開いてください。ここでダビデは、次のように言っています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)
私たちは、自分の醜い部分を見たくないし、見られたくないという思いがありますが、私たちがとこしえの義の道を歩むためにはこうした汚い部分、醜い姿を見ていただき、聖めていただく必要があるのです。主は私たちの心のすべて知っておられ、私たちが心を開いて、主にお見せすることを願っておられるのです。
もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患部を七日間隔離します(4)。祭司は七日目にもう一度彼を調べます。そして、もし患部が広がっていなければ、祭司は彼をさらに七日間隔離し、七日目に、すなわち十四日目に再び彼を調べます。それで、もし患部が薄れ、皮膚に広がっていないなら、それはツァラアトではありません。かさぶたにすぎません。祭司は彼をきよいと宣言します。しかし、きよいと宣言されても、その後に、かさぶたが皮膚に広がってきたら、再び祭司に見せなければならなければなりません。そのかさぶたが皮膚に広がっているならそれはツァラアトであって、汚れていると宣言しなければなりませんでした。
執拗なほどの調べようです。いったいなぜこれほど調べなければならなかったのでしょうか?ここで問題になっているのは、その患部が広がっているかどうかです。広がっていれば汚れており、広がっていなければそうではありませんでした。つまり、汚れているか、そうでないかの判断規準は患部が広がっていたかどうかにあったのです。
これはどういうことかというと、私たちの罪の赦しを表しています。私たちは、イエス・キリストを信じたとき、すべての罪が赦されます。イザヤが預言したように、キリストの打ち傷によって、私たちがいやされたのです。けれども、罪の痕跡は残ります。それがかさぶたです。罪が赦されると、もはやその罪によって支配されることはありませんが、その痕跡(痛み、不安、苦しみ)は残るのです。それは、私たちが、初めどのような存在であったかを思い出させるためであり、また、神の恵みを知るためです。けれども、直っていたと思われていた傷が、実は直っていなかったことに気づくことがあります。それはどういう時でしょうか?患部が広がっている時、かさぶたが皮膚に広がっていく時です。罪が赦されたにもかかわらず、まだ罪の中に歩んでいるときがあるのです。ですから、クリスチャンはいつも悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神は赦してくださいます。神は、クリスチャンになってからもまだ傷を持っている私たちを受け入れてくださるのです。そして、私たちを調べ、すべての罪からきよめてくださいます。
2.慢性のツァラアト(9-17)
次に、9節から17節までを見ていきましょう。ツァラアトの患部がある人が祭司のところに連れて来られ、祭司が調べて、もし皮膚に白いはれものがあり、その毛も白く変わり、はれものに生肉が盛り上がっているなら、それは慢性のツァラアトです。その場合、祭司は彼を隔離する必要はありません。はっきりツァラアトであると認めることができるので、隔離する必要はないのです。
ところで、12節と13節には不思議なことが記されてあります。そのツァラアトが、その患部の皮膚全体、頭から足までおおっているときは、祭司はその患部をきよいと宣言しました。いったいこれはどういうことでしょうか?一部だけでも汚れていれば「汚れている」と宣言されたのに、全体が汚れていれば「きよい」のです。これは、罪についてとても大切なことを教えてくれます。すなわち、私たちが自分は罪深い者で、自分の中には何も良いものがないと知ったときは、私たちはきよめられる一歩手前にいるということです。私たちが、自分のうちに何か良いものがあると思っているうちは、自分で何とかやっていけると思っているうちは、まだ主のみもとに行こうとしません。自分で解決しようとします。したがって神の救いを必要としないのです。けれども、全身が汚れていて「もうだめだ」というとき、私たちは神に救いを求めるようになります。
たとえば、イザヤは聖い神を見たとき、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(6:5)と言いました。しかし、もうその時点でイザヤは聖いのです。なぜなら、その万軍の主に頼らなければならなかったからです。ですから、その後、すぐに彼のもとに天使のひとりセラフィムが飛んで来て、その手に持っていた燃えさかる住みを、彼の口に触れたのです。彼は、「もうだめだ。」と完全に砕かれたとき、聖められたのです。
また、パウロもローマ人へ手紙でこう言っています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(7:24)」と叫んだ。けれども、その次に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(7:25)」
彼は、自分が本当に罪深くて、どうしようもない人間だと悟ったとき、自分ではなく主イエス・キリストに救いがあることを知ったのです。自分で自分を救うことができない、罪を償うことが決してできないと知った人のみが、本当の意味で聖められるのです。
しかし14節を見ると、生肉が現れるときは、汚れる、とあります。すべてが白くなっても、生肉が出てくると汚れていると宣言されたのです。これはどういうことでしょうか?生肉は、まさに私たちの肉を表しています。私たちが聖められても、私たちの醜い肉が、このようにして表れることがあるのです。クリスチャンでも、いや、クリスチャンであるからこそなおのこと、明らかに、罪の汚れが現れることがあるのです。それは教会の中にも現れます。自分は聖められたと思っているので、むとろややこしいのです。主は、自分が立っていると思っている人は、倒れないように気を付けなさい、と言われましたが、それはこのことです。自分は立っている、自分は正しい、自分は間違いない、自分は義人だと思っている人は、倒れないように注意しなければなりません。主はそんな醜い私たちをすべてご存知のうえで、受け入れてくださったのです。まさに私たちは罪赦された罪人にすぎないことを覚えておきたいと思います。
3.腫物とやけどのあとにできるツァラアト(18-28)
次に、18節から28節までを見ていきたいと思います。18節には、人のからだに腫物ができ、それがいやされたとき、その腫物の局所に白い光る斑点があれば、それを祭司に見せなければならない、とあります。祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、その毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言しなければなりませんでした。それは、その腫物に吹き出たツァラアトの患部だからです。つまり、ツァラアトは腫物から派生することがあるということです。
21節を見てください。もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、反対に薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離しました。もしそれが一段と広がってくればツアラアトであり、そうでなければただのできものなので、きよいと宣言されました。つまり、かさぶたのときと同じように、ここでも広がっているかどうかが判断の基準になったのです。
24節からのところをご覧ください。人のからだの皮膚にやけどがあって、そのやけどの生肉に赤みがかった白色、または白色の光る斑点であれば、祭司はこれを調べます。もし光る斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深く見えるなら、これはやけどに出て来たツァラアトです。祭司は彼を汚れていると宣言しなければなりません。祭司がこれを調べて、その光る斑点に白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司は彼を七日間隔離します。もしそれが一段と皮膚に広がっていれば、祭司は彼を汚れていると宣言します。これはツァラアトの患部です。
このように、聖書に説明されているツァラアトは、種物ややけどのような他の症状がきっかけとなって広がる事があります。これも、私たちがどのようにして罪を犯すのかについて教えてくれます。すなわち、ある痛みをともなう出来事がきっかけとなって起こるということです。たとえば、イスラエルの民がそうでした。彼らは、荒野の中の旅において、水がなく、食べ物がないところで、神に不平不満を言い、罪を犯してしました。それは、神がとても良くしてくださっていることを学ぶ良い機会であったのに、逆に神に不平不満を言って罪を犯してしまいました。そのようなことが私たちにもあります。不幸に不幸が重なると、神様を信じていても何の役にも立たないし、むしろ疲れさせるだけだ。こんなことを続けていていったい何になるだろう・・・と疑い、信仰から離れてしまうことがあるのです。特に、信仰を持ったばかりの人はそうです。まだこの世の価値観が抜け着れていませんから、ちょっとでもつまずくと離れ(罪を犯してしまう)がちになります。でも、私たちの主は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で私たちと同じようになられました。ですから、おりにかなった助けをいただくために、大胆に恵みの御座に近づかなければなりません。さまざまな試練や苦しみは、それを耐え忍ぶことによって、さらに主との交わりを深めるきっかけとなるのです。あなたはやけどを負っていませんか?あるいは、腫物がありませんか?それがどのような症状でも、神を信じて、神の慰めをいただいて、主の道を歩ませていただきましょう。