伝道者の書10章12~20節「わざわいな国と幸いな国」

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今日は、伝道者の書10章後半から学びます。この箇所も、前回に続いて、知恵を正しく用いることの大切さを教えています。

 

Ⅰ.愚か者の唇はその身を滅ぼす(12-15)

 

まず、12~15節をご覧ください。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」

 

愚か者の定義は、10章前半でも見ました。たとえば、3節には「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とありました。「あの人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ってみたり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するわけです。また、4節には「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とありました。すぐにカッとなって怒りをぶちまけ、その場を立ち去ってしまいます。我慢することができません。

 

ここでも、そのことばについて言及されています。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を?み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。」

その人が発することばを聞いていると、その人が知恵ある人なのか、愚かな人なのかがよくわかります。というのは、知恵ある者が語ることばは優しく人を生かしますが、愚かな者が語ることばは相手に不快感を与え、結局、自分自身を滅ぼしてしまうことになるからです。最初は単なる冗談のつもりで言ったことが、最後には悪い結果をもたらすのです。

 

その特徴は何かというと、よくしゃべるということです。永遠にしゃべり続けます。彼は黙っていることができません。黙るタイミングを知らないのです。その結果、しゃべらなくてもいいようなことをしゃべっては、墓穴を掘るようなことをしてしまいます。たとえば、自分の将来のことや、これから後に起こることを知ったかぶりしてしゃべるのです。これから後に起こること、これから先、自分の身にどんなことが起こるかなんてだれも知りません。それなのに、それを得意になってしゃべっているとしたら、それこそ自分がどれほど愚かな者であるのかを露呈しているようなものです。賢い人は、自分が無知であること、人間の知識には限界があることをよく心得て慎重に言葉を選んでしゃべりますが、愚かな人は自分の限界をわきまえずに多くのことを言って誇るのです。しかし、ことば数が多ければ失敗も多くなり、罪が露わになります。

 

このように言葉に関する言及は、箴言の中にもたくさん出てきます。たとえば、箴言15章4節には、「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。」とあります。また、箴言16章24節にも、「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」、27節には「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。」とあります。ヤコブの手紙にも、私たちの舌はわざわいであり、小さな火でも大きな森を燃やすように、人生の車輪を焼き尽くす、と言われています(ヤコブ3:5-6)。では何もしゃべらなければ良いのかというとそうでもありません。人間関係は心のキャッチボールですから、ことばのやり取りを通して良いコミュニケーションを図ることが求められます。問題は、どんな時に、どんな言葉を語るのかということです。ここには、知恵のある者が口にすることばは恵み深くとありますから、恵み深いことば、優しいことばをかけて、人の成長に役立つ言葉を語り、聴く人に恵みを与えなければなりません。

 

元医師で、「子どもの家福音寮」の寮長をしていた井上哲雄牧師は、あるとき男の子が廊下で立ち小便をしているのを見つけました。子どもはすぐにでも怒鳴られるのではないかとおどおどしていると、井上牧師は、「君はがまんできなかったんだね」と優しく言っただけで、何もとがめませんでした。

何年か過ぎ、成人したその少年は、「このときの寮長先生の思いやりの言葉が、今も忘れられない」と、しきりに感謝していました。

このことを聞いたカウンセラーの伊藤重平氏は、こう言っています。「がまんできなかったんだね」という言葉は、その行動を裁かず、ゆるす愛となる。

小さい親切、小さい愛の言葉が、地上を天国のように幸福にするのを手助けにする反面、偽りの舌、愚かなことばが、自分の人生ばかりか他人の人生さえも滅ぼしてしまうことになるのです。

 

15節には「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」とあります。それはことばだけのことではありません。労苦にも言えることです。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせます。彼は町に行く道さえ知らないのです。「町に行く」というのはもっとも単純な行為ですが、それさえも知らないため道に迷ってしまうのです。そのような者がこれから後に起こることを論じるなど論外でしょう。私たちはキリストを信じ、神にかたどり造られた新しい人を着た者として、悪いことばではなく、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える者になりたいと思います。

 

Ⅱ.わざわいの国と幸いな国(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。「わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。」

 

ここには「わざわいな国」と「幸いな国」が比較されています。どのような国がわざわいな国で、どのような国が幸いな国なのかということです。愚かさと幸いのレベルが個人から国家レベルで語られています。ここには「王」ということばがありますが、これは支配者に置き換えることができます。夫婦であれば夫であり、家庭であれば親ですし、会社であれば社長、教会であれば牧師、役員、国であれば為政者となります。それを治めている人たちのことです。その王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をしているような国は、わざわいです。この「若輩で」ということばは「子どもじみて」という意味です。リーダーが子どものように幼い国は、わざわいであるということです。なぜなら、そのような王は国を治め、導く力がないからです。高級官僚たちが仕事に就かず、朝から晩までパーティー三昧です。どんちゃん騒ぎをしています。本当は仕事の準備をしなければならないのに、仕事はそっちのけで快楽にふけっているのです。こういう人が国家元首だったらどうなるでしょうか?その国は混乱することになります。そういう人が会社の社長だったら、会社は潰れてしまうでしょう。そういう親だったら家庭は崩壊してしまうことになります。そういう牧師だったら、教会は混乱するでしょう。

 

それに対して、王がしっかりしている国は幸いです。その王は人格者であり、高貴な家の出であります。彼には知恵があり、高級官僚たちが食事をするのも遊びにふけったり酔っぱらったりするためではなく、しっかり仕事をするためです。力をつけるとはそういうことです。国を治める人が怠惰であれば、国家は傾き、わざわいを招くことになります。国家の栄子盛衰は、その国の指導者がどれほど神の前にへりくだり誠実であるか、つまり、知恵があるかにかかっているのです。

 

幸いにも、私たちの国、神の国を治めておられる王は完全な方です。その方は主イエス・キリストです。キリストはこの世界に王として来られました。この方が王となって治めておられる国に住むことができるのは本当に幸いなことです。使徒ヨハネは次のように証言しています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:10-12)

ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の王として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの王となって働いてくださり、祝福に導いて下さるのです。イエス・キリストが治めてくださる国は幸いな国です。この国が傾いたり、わざわいを招くことは決してありません。王であられるキリストが完全に治め、導いてくださるからです。

第一に、キリストはご自身の民を正しい道に導いて下さいます。イザヤ30:21に「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」とあります。キリストは王として私たちの人生の決断の時や、岐路に立つ時、必ず正しい道に導いてくださいます。

 

第二に、キリストはご自身の民を安全に守ってくださいます。2テサロニケ3:3には「しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」とあります。私たちの人生は「一寸先は闇」と言われるように、何が起こるかわからない不確かさに満ちています。しかし、主はすべてを支配し守って下さいます。この王なるキリストに導かれる人は「一寸先は光」となるのです。

 

そして第三に、ご自身の民の必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4:19に「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。王の責任は、自分の民が豊かな生活をすることができるように心を配ることです。ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の主として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの人生で王として働いてくださり、祝福してくださるのです。

 

あなたはこの方を王として迎えておられますか。そして、恵みとまことに満ちた人生を送っておられるでしょうか。神の国の王であられるキリストによって支配された国、その民であることは、何と幸いなことでしょうか。

 

Ⅲ.自分の口に見張りを置く(18-20)

 

最後に、18~20節までを見て終わりたいと思います。「怠けていると天井が落ち、手をこ

まねいていると雨漏りがする。パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」

 

怠けていると天上が落ち、手をこまねいていると雨漏れがするとは、16節で語られたことのたとえです。国のリーダーなり、組織のリーダーが、自らなすべきことをなさずにいると、その屋台骨まで揺らいでしまうことになるということです。怠けていると、天井が落ち、雨漏りすることになります。私たちが最初に購入した家は築30年の古い家でしたが、少しでも教会らしくしようと瓦の屋根でしたが塔を取り付けました。するとその塔と瓦屋根の隙間から雨が入り込み雨漏りしました。結局、開拓15年目の年に新会堂を建設しましたが、その際に撤去して雨漏りしないようにしました。それで新会堂を建築する際に業者の肩に一つだけお願いしたことは雨漏りだけはしない会堂を作ってください、ということでした。「大丈夫だから、雨漏りなんてしないから」と言ってくださったので安心していたら、半年も経たないうちに雨漏りがしたのです。どうも2階のベランダのシートの隙間から雨が浸みこんだようですが、それが会堂全体に回りいろいろな所から雨漏れしたのです。ここに怠けていると天井が落ちるとありますね。そのままにしておけばやがて天井が落ちてしまうことになりますから早急に業者にお願いして修理してもらいましたが、何度点検しても雨漏りが続いて大変だった苦い思い出があります。

 

しかし、これは建物が壊れるというだけでなく家庭や教会、社会、国が崩壊してしまうということです。自分の家、自分の国も、怠けているといつの間にか雨漏りすることになります。問題が起きてから手をこまねいていると、いつまでも手をつけないでその問題を棚上げにしていると、結局、すべてが崩壊していくことになります。

 

19節には、「パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。」とあります。パンを作るとは、料理教室のことではありません。和気あいあいとパン作りを楽しむということではないのです。食事を作ることです。食事は楽しいですよね。食事の場は笑いのためであり、ぶどう酒は人生に楽しみをもたらしてくれます。どちらかというと私は食事を楽しむというよりも、とにかく食べることしか考えられないため妻からいつも言われます。「もう少しゆっくり食べなさい。食事は楽しみながら食べるものよ」。

 

また、伝道者は「金銭はすべての必要に応じる」と言っています。これはどういうことかというと、「お金さえあれば何でも買える」ということです。これは正しいでしょうか?これは間違っています。確かにお金があれば食物やぶどう酒を買うことができます。また、私たちに必要なものも買えるでしょう。でも、金銭で買えないものもあります。たとえば、愛とか、喜びとか、平安とか、希望といったもの、何と言っても天国への切符を買うことはできません。お金では、真の幸福を買うことはできないのです。ですから、ここで伝道者が言いたかったことは、金銭によってほとんどのものを手に入れることができる、お金は必要のために用いられるということです。お金がすべてではありません。

 

20節をご覧ください。ここには、「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」とあります。日本語のことわざにも、「壁に耳あり、障子に目あり」ということばがあります。まさに、そのような人の悪口とか噂話は、巡り巡って必ずその人に知られることになるのです。なぜ?なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。おもしろいですね、鳥が運ぶのです。つまり、予期せぬ方法で、予期せぬ人物によって、そのことが伝えられることになるということです。ですから、たとえ王が未熟であっても、あるいは悪い者であっても、それを呪ってはいけません。「寝室でも」とは、家族や親友の前でさえ、という意味になります。まさか夫婦や家族のごく親しい人にだけ言ったことが外部に漏れることはないだろうと思いますが、空の鳥がその声を運び、翼のある者がそのことを告げるのです。つまり、自分の口に見張りを置く人こそ知恵のある人だというのです。

 

あなたはどうですか。自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となることを求めているでしょうか。人々にこぼしていた不平不満が神にささげる祈りと変えられるように求めていきたいと思います。

 

星野富弘さんの詩の中に、「花が上を向いて咲いている。私は上を向いてねている。あたりまえのことだけど、神様の深い愛を感じる」という詩があります(「風の旅」立風書房、p30)。

どんな草花も暗闇に向かって咲くことはありません。みな、光の方、天に向かって咲きます。冬がくれば枯れますが、春になるとまたいのちが芽吹きます。私たちにはさまざまな人生の冬がありますが、それは春になって芽吹くためです。光に向かって咲くためです。突然の出来事に、一時は火山が噴火したかのような驚きを感じることがありますが、そこにも神様の守りの御手があるのです。この神様としっかりつながっていること、祈りによって神に向かうこと、それこそが、人々にこぼしていた不平不満が、神にささげられる祈りへと変えられる秘訣です。

 

聖書には全部で31,173節ありますが、その真中の節は詩篇118篇8節です。そこにはこうあります。「主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。」人に信頼するよりも最初から神様のもとに行けということです。ちなみに、ギリシャ語の聖書の中で一番短い節はⅠテサロニケ5章17節です。そこにはこうあります。「絶えず祈りなさい。」人に信頼するのではなく神に信頼すること、その神に絶えず祈ること、それこそ自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となるための秘訣なのです。愚かな者にならないで、知恵のある者となるために神に向かい、神に祈りましょう。人に信頼するよりも神に信頼しましょう。それが、聖書が求めている知恵のある人なのです。

ヤコブの手紙1章19~25節「みことばを実行する人に」

きょうは、「みことばを実行する人に」というタイトルでお話します。22節には、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあります。聖書のことばを聞くとき、そこには二種類の人がいます。すなわち、みことばを聞くだけの人と、みことばを実行する人です。ただ聞くだけの人は、自分の生まれつきの顔を鏡で見るような人です。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。みことばもそれと同じで、みことばを聞いても、「ああいい話だった」とか、「為になった」で終わってしまうと、いつまでたってもみことばが身に着かず、従って、生活が変わることがありません。しかし、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあるように、聖書のみことばは私たちの内側にある本質を明るみにし、それを本当に変えることができるのです。ですから、ただみことばを聞くだけでなく、それを実行することが大切です。きょうは、みことばを実行することについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.みことばを聞く(19-20)

 

まず19節と20節をご覧ください。ここには、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。

 

ヤコブはここで、「あなたがたはそのことを知っています。」と言っています。「そのこと」とは何のことでしょうか。ヤコブは前の箇所で、「父はみこころのままに、真理のみことばをもって私たちをお生みになりました。」と言っています。ですから、それは真理のことばによって新しく生まれたことを知っているということです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちはそのことを知っていました。しかし、知っているだけではだめです。そのことを知っているならば、それを実際の生活の中に生かさなければ意味がありません。それが実際の行為となって具体的に現われることを求めなければならないのです。そのために必要なことは何でしょうか。

ヤコブは、そのためには、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、と言っています。どうして聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければならないのでしょうか。

 

当時ユダヤ教の教師は、学者の気質には四つの型があると考えていました。一つは、聞くには早く、忘れるに早い型です。この型は長所と短所が五分五分で、互いに打ち消し合うので結局何も残りません。もう一つの型は、聞くに遅く、忘れるのに遅い型です。この型は、短所が長所によってちょうど補うことができます。三つ目の型は、聞くに早く、忘れるのに遅い型です。この型の気質を持つ人は知者です。そして四つ目の型は、聞くに遅く、忘れるに早い型です。このタイプの人は、手に負えない型です。このことからもわかるように、知者とはどのような人かというと、聞くに早く、語るに遅い人です。

 

ラビ・シメオンは、こう言いました。「私は生まれてからこのかた知者たちに取り囲まれて育てられたが、人間にとって沈黙以上の良いものは見出されなかった。ことばを多くする者は誰でも罪を引き起こす者である。」

 

ですから、箴言には性急すぎることばへの警告に満ちているのです。

「ことば数が多い所には、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」(箴言10:19)

「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)

「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」(箴言17:28)

「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言29:20)

 

E・B・ホルトは、「本当によい人間は、自分自身の意見を傲慢にくどくどとかん高くわめき散らすよりは、神のことばに耳を傾けることに熱心な人である。」と言っています。

 

私たちは真理のことばをもって新しく生まれさせていただいた者です。であれば、その真理のみことばを聞くことが必要なのです。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。そのみことばをよく聞かなければなりません。みことばを聞かない人は、語ることにおいて、また、怒ることにおいても必ず失敗することになります。知性と感情が神のみことばによって支配されていなければ、すぐに思いついたことを口走ってみたり、感情を露わにして、神の御名と主にある兄弟姉妹を傷つけてしまうことになってしまうからです。

 

ヤコブはここで聞くには早く、語るにはおそくというだけでなく、怒るにはおそいようにしなさいと言っているのはそのためです。なぜここで怒るにはおそくあるべきだと忠告しているのかというと、人の怒りは、神の義を実現するものではないからです。怒りそのものは神が与えてくださったもので悪いものではありませんが、それが神のことばによってしっかりと統制(支配)されていないと、短気で自己中心的ないらだちの弁解でしかなくなり、逆に害を与えてしまうことにもなりかねません。ですから、神のことばをよく聞いて、語るのにおそく、怒るのにおそいようにしなければならないのです。

 

アテネの哲学者デモナクス(80頃ー180頃)は、人間はいかにして最善の支配ができるかと尋ねられた時、「怒ることなく、語ること少なく、聞くこと多く」と答えました。自分のことを語ることを少なくし、神のことばを聞くことを多くすることが、自分を最善に保つ秘訣であるというのです。ある人は人間には二つの耳と一つの口が与えられているのには意味があると言いました。それはしゃべることを抑えて、より多くのことを聞くためだ・・・と。私たちは、時にはストップウオッチを使って自分のおしゃべりの長さを計る必要があるのかもしれません。それよりももっと神のみことばを聞き、人の話に耳を傾けなければなりません。

 

Ⅱ.みことばを受け入れる(21)

 

第二のことは、みことばを受け入れることです。21節をご覧ください。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

私たちのたましいを救い、私たちを変える真理のことばをどんなに聞いても聞くだけでは意味がありません。その聞いたみことばを実行しなければならないからです。そのためには、心に植え付けられたみことばを、素直に受け入れなければなりません。

 

イエス様は、種まきのたとえの中でみことばを受け入れる四種類の人の心を話されました。まず、道ばたです。道ばたに落ちた種はどうなったかというと、鳥が来て食べてしまいました。このタイプの人はみことばを聞いても全く無関心なので、せっかくみことばを聞いてもすぐに奪われてしまいます。

次に、岩地です。岩地に蒔かれた種はどうなったでしょうか。岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。このタイプの人は、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるので芽を出しますが、しばらの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

次は、いばらです。いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、伸びることができませんでした。このタイプの人は、みことばを聞きますが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ぶことができません。

しかし、良い地に落ちた種は違います。良い地に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。このタイプの人は、みことばを聞いて悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのです。

 

つまり、どのように聞くかが重要であるということです。ですから、イエスさまは、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:9)と言われたのです。耳のある者は聞きなさいって、みんな耳を持っているんじゃないですか。それなのに、耳のある者は聞きなさいとはどういうことですか。それは、聞き方に注意しなさいということです。というのは、確かに聞いてはいても悟らず、見てはいてもわからず、触れてはいても感じない人がいるからです。その心は鈍く、その耳は遠く、その目はつぶっているということがあるからです。だから、どのように聞くかはとても重要なことなのです。

 

ここでヤコブは、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」と言っています。どのようにみことばを聞かなければならないのでしょうか。どのようにみことばを受け入れなければならないのでしょうか。まず、すべての汚れやあふれる悪を捨てには「脱ぎ捨てる」と訳されているように、古い汚れた衣服を脱ぎ捨てる様を表しています。つまり、ヤコブはここで汚れた服を脱ぐように、また蛇が脱皮するようにすべての汚れを脱ぎ捨てるようにと命じているのです。

 

ところで、この「汚れ」ということば(ギルパリア)ですが、これはギルポスということばが語源になっていて、これが医学的な意味で用いられる時には、耳垢を意味していました。つまりヤコブは、真理のことばに耳を傾けさせることの妨げになっている一切のものを取り去れ、といっているのです。耳の中に耳垢がたまると人の耳が聞こえなくなるように、人間の罪も神に対してその耳を閉ざすことになります。

 

また「悪」については、「あふれる悪」と言われています。それは伐採しなければならないほど無闇に茂ったやぶのことを指しています。そのように悪が心にあふれていると神のことばが届かなくなります。ですから、そのようなあふれた悪を伐採しなければなりません。そのようにして、神のことばが心に植え付けられるのです。

 

そのようにしてすべての汚れを脱ぎ捨て、あふれる悪を切り取ったならば、次にしなければならないことは、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れるということです。すなおに受け入れるとはどういうことでしょうか。「すなお」と訳されたことばは「プラウテス」ということばですが、これは憤慨しないでとか、怒ることをせずに、謙遜に、穏やかに聞く姿勢のことです。たとえば、私たちが主から「~こうしなさい」と示された時、どのように反応するでしょうか。「なるほど、やっぱり聖書は神のことばだな。知恵に満ちている。そのようにしてください」と反応するときもありますが、時には、「いや、そんなことをしたら、周囲との関係がうまくいかなくなるし、変に思われる」「そのようなことになったら自分の立場が不利になるし、都合悪い」「それはあまりにも犠牲が大き過ぎる。そんなに時間と労力がとられるのは困る」といった思いを持つことがあるのではないでしょうか。中には、「冗談じゃない。そんなことできるはずがないじゃないか・・」と怒りを覚えることもあるかもしれません。しかし、そのように怒ったり、憤慨するのではなく、示されてことに対して淡々と従うこと、それがこのことばが意味している姿勢です。

 

Ⅰペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。ですから、それは生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求めるように、純粋なみことばの乳を慕い求めることなのです。なぜなら、神のみことばは大いなる力をもって私たちを新しく生まれさせ、神のみこころにかなった者へと成長させることができるからです。

 

Ⅲ.みことばを実行する(22-25)

 

第三のことは、みことばを実行することです。22節から27節までをご覧ください。まず22節から24節までをお読みします。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」

 

神のみことばを聞き、それを心に受け入れることは大切なことです。しかし、もっと大切なことは、その聞いたみことばを実行することです。イエス様もこのように言われました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

 

ですから、これはヤコブの教えというよりもイエス様ご自身の教えでもあるのです。教会の礼拝で語られる聖書のことばを聞くだけでは十分ではありません。また聖書のことばを勤勉に学ぶだけでも十分ではありません。その聞いたことや学んだことを実際の生活の中で実行しなければ何の意味もないのです。そのような信仰についてヤコブは、具体的な例として2章で取り上げていますが、それは自分を欺くことになるのです。というのは、神様から「・・しなさい」と聞いても、いろいろな理屈をこねて、従わないで自分を正当化するからです。たとえば、「私は年をとっていますから、できなくてもしかたがないのです」とか、「私はまだ子どもだから、それは無理です」とか、「私は献身者ではないので、そこまでしなくてもいいでしょう」等々、言い訳をします。そのように、自分に思い込ませるわけです。それは自分を欺くことです。ですから、真理のみことばに対して、上手に理屈をこねて言い訳せずに、みことばを実行しなければなりません。

 

ヤコブはここで、みことばを聞いても実行しない人を、生まれつきの顔を鏡で見る人のようだと言っています。しばらく間自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのような顔であったのかを忘れてしまうので、身だしなみを整えることをしないのです。当時の鏡はガラスではなく、高度に磨き上げた金属でできていました。その人は自分の顔を見苦しくしている汚れや髪の毛がもつれているのを見ますが、鏡の前を立ち去ると、「あれっ、自分の顔がどんなふうだったかな」と忘れてしまい、身だしなみを整えるのを省いてしまうのです。せっかく鏡を見ても、身だしなみを整えるのでなければ全く意味がありません。

 

この場合の生まれつきの顔とは、自分の心のことを表わしています。また、鏡は聖書のみことばのことです。聖書は、私たちの心をありのままに照らす鏡なのです。真実のことばを聞くことによって、私たちは現在の自分とあるべき自分の姿を明確に知ることができます。しかし、どんなにそれを知ったとしても、それを直さなければ何の意味もありません。それと同じように、どんなにみことばによって心が照らされて、あるべき真の姿が示されても、それを実行しなければ全く意味がないのです。

 

現代の医学で言えば、それはCTスキャンとかレントゲンにたとえることができるかと思います。それによって病状がわかったら、手術をするなり、何らかの処置をしてもらわなければなりませんが、ただ病状を聞いて、「そうですか、ありがとうございました。」と言って、立ち去ってしまうとしたら、何の意味もありません。それを撮るのは自分の病状を映し出してもらうことで、どこに問題があるのかを知り、正しく処置をしてもらうためなのです。しかし、そのように映し出してもらうだけで、鏡を見るだけでイエス様のもとを立ち去る人が多いことでしょう。

 

私は高校時代、半年の間寿司屋でアルバイトをしたことがあります。お金を貯めてアメリカへ行こうとしたのですが、結局お金がたまらず行けませんでした。寿司屋でアルバイトといっても、初めは何をしたらよいか、全くわかりませんでした。それでその店のマスターがいろいろ教えてくれました。どんなに教えてもらっても、最初のうちは、それを頭の中で思い出してやっていたので、時々忘れることがありましたが、毎日やっているうちに、いつの間にか身についていきました。からだで覚えたのです。そして、もう忘れるということはありませんでした。

みことばも同じです。日々実行しているなら、身についていきます。聖書のどの箇所に書かれていたかは覚えていないかもしれませんが、からだで覚えているのです。そして、この場合、忘れることはありません。みことばを覚えているというのは、記憶だけの問題ではないのです。みことばを実行するなら、身についていきます。そして、その生活が変えられていくのです。それで、忘れることはありません。逆に、実行しなければ、決して身につくことがなく、生活も変わりません。それで、忘れていくのです。その結果、神様からの祝福も失ってしまうのです。ですから、聖書は、みことばを実行する人になりなさい、と言っているのです。

 

では、どうしたらみことばを実行することができるのでしょうか。25節をご覧ください。ここには、「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」とあります。

 

聞いたみことばを「よし、それじゃ実行するぞ!」と、自分の力や意志で行おうとしても、それは無理なことです。私たちのたましいは罪の力に縛られているので、自分の力ではどうすることもできないからです。しかしここには、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。」とあります。「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめる人は、事を、みことばを、実行する人になれるのです。では、完全な律法とか、自由の律法とは、何でしょうか。

 

神は、イスラエルを神の民として選び、一方的な恵みの契約を結び、イスラエルの民に救いの恵みに対する応答として律法を与えられました。その律法は、神を愛し、隣人を愛することを命じるものでしたが、イスラエルの民は、その神の律法を守ることができず、契約の民として失格したのでした。律法は完全なものですが、不完全な人間はどうしてもそれを行うことなどできなかったからです。律法というのは、ヤコブ2章10節にあるように、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となるからです。律法のすべてを完全に行うことができる者などだれもいないのです。よって、すべての人が罪びとであり、だれもこの律法を守り行うことができる者などいません。それなのに、その律法が自由を与えるものであるというのは、それが文字による規則や決まりではなく、エレミヤが言っているように、主が人の中に置き、その人の心に書き記されたものだからです。エレミヤ31章33節にはこう書かれてあります。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれをかきしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 

この新しい契約は、旧約の律法のように外側から守るように呼びかけられるようなものではなく、その人の心に書き記されるものです。それは神がひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、このお方の十字架と復活を通して罪の贖いを通して、この方を信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるというものでした。この方によって私たちは罪の支配から解放され、御霊の力によって神と人とを愛することができるようにされたのです。つまり、この「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、イエス・キリストとイエス・キリストの福音のことなのです。

 

それはイエス様のことばからもわかります。イエス様は、ヨハネの福音書8章31節でこう言われました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

何があなたを自由にするのでしょうか。真理です。真理はあなたがたを自由にします。その真理こそイエス・キリストご自身なのです。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。

 

ですから、イエス様が私たちを自由にしてくださいます。私たちは自分のちからで罪に打ち勝とうとしてもできません。みことばを実行しようとしても、私たちにある罪の力や肉の力が強力で、実行できないのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様はそんな弱い私たちを助け、自由にしてくださるのです。

 

ですから、私たちに必要なのは、このイエス様と一つになることです。歯を食いしばって、自分で何とかやってやろう、と言うことではなく、イエス様に信頼することなのです。このイエスに信頼して、その交わりの中にとどまることなのです。

 

イエス様はそのことを、ぶどうの木のたとえを通して教えられました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

(ヨハネ15:5)

 

皆さんは多くの実を結びたいですか。そうであるなら、イエス様にとどまってください。枝が木についていなければ、枝だけで実を結ぶことはできません。だけど、木についている枝は実を結びます。つまり、イエス様にとどまっていることが、多くの実を結ぶ秘訣なのです。キリストが私たちに、みことばを実行したいという願いを持たせて、それを実行させてくださると信じて歩むなら、キリストが実行させてくださり、私たちは多くの実を結ぶことができるのです。

 

ですから、みことばを実行する秘訣は、いつもイエス様と一体であることを覚えて、イエス様を信頼して歩むことです。それが自由の律法を一心に見つめて離さないということです。そういう人は、みことばを実行する人になります。そして、その行いによって祝福されるのです。

 

あなたはどうですか。みことばを聞いていますか。みことばを聞いて、それを心に留めておられますか。また、みことばを実行しているでしょうか。そのためにもどうぞイエス様から目を離さないでください。イエス様を信じて、このイエスのうちにしっかりと留まってください。そうすれば、あなたもみことばを実行する人になり、その行いによって祝福される人になるのです。

伝道者の書10章1~11節「知恵は人を成功させる」

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伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 

しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

 

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

 

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 

まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

 

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

 

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

 

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

 

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

 

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

 

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

 

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

 

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

 

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

 

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

 

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

 

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

 

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

 

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

 

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

 

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

 

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

 

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

 

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

 

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

 

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

 

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

 

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

 

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

 

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

 

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。

Ⅱサムエル記6章

きょうは、2サムエル6章から「神の臨在を求めて」というテーマでお話しします。私たちの信仰生活にとって最も大切なのは、神が共におられること、神の臨在を求めることです。きょうは、その神の臨在を求めたダビデからそのことについて学びたいと思います。

Ⅰ.神の臨在を求めたダビデ(1-5)

まず1~5節までをご覧ください。「ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上げようとして、自分とともにいたすべての兵と一緒に出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の【主】の名でその名を呼ばれている。彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。それを、丘の上にあるアビナダブの家から神の箱とともに移したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、【主】の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。」

これはちょうどダビデかがイスラエル全体の王となりエルサレムを首都とした直後のことです。ダビデは30歳で王となり、40年間イスラエルの王でした。ヘブロンで7年6カ月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダの全体を治めました。そのエルサレムでの統治にあたり、ダビデはまずエブス人を攻略し、そこを攻め取りました。これが「ダビデの町」、エルサレムです。そして、彼はそこに王宮を建て、神の都としました。

その後、ダビデが真っ先に取り掛かったのが、神の箱をエルサレムに運び入れることでした。神の箱はペリシテ人との戦いによって奪い取られると、7年6カ月の間ペリシテ人の神ダゴンの神殿に置かれていましたが、ダゴンがうつぶせになって倒れたり、アシュドテの人たちを腫物で打ったりと災いをもたらしたので、彼は相談してイスラエルに送り返すことにしました。それで彼らは二頭の雌牛を取り、それを車につなぎ、主の箱を載せてイスラエルにあるベテ・シェメシュに運びましたが、ベテ・シェメシュの住民は、主の戒めに反して神の箱を見たので主の怒りが彼らの上に下り、主が民を激しく打たれたのです。

それでベテ・シェメェシュの人たちはどうしたかというと、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろうか。私たちのところから、だれのところに上って行くだろうか。」(Ⅰサムエル6:20)と言って、結局、彼らはキルアテ・エアリムのアビナダブの家に運びました。(Ⅰサムエル7:1)それから50~60年が経っていました。

キルアテ・エアリムは、エルサレムから北西に15㎞くらいの所にありますね。ど巻末の聖書の地図を見て確認しましょう。それにしても、どうしてダビデはこの神の箱をエルサレムの自分の町に運び入れようとしたのでしょうか?それは、主の臨在を求めていたからです。ここに彼の信仰がどのようなものであったかが表われています。彼はイスラエルを統一してエルサレムに都を定めたとき、主の臨在がなければイスラエルを治めることはできないと思ったのです。それは私たちも同じです。私たちも主の臨在がなければ信仰の歩みをすることはできません。私たちの信仰生活にとって最も重要なのは、主が私たちとともにおられるということなのです。

人生には何事にも秘訣があります。長寿の人に「長生きの秘訣は何ですか」と尋ねると「な〜に、簡単なことだよ。死なないことだよ」とか「息をするのを忘れないことです」とか答えが返ってきますが、どうやら長生きの秘訣はユーモアを忘れないことなのかもしれません。聖書は私たちが力強く生き生きと生きる秘訣を教えています。その秘訣とは神と共に歩むこと、そして、神に導かれて歩むことです。ダビデは、この神の臨在を求めたのです。

いったい彼はどのように神の箱を運び入れたでしょうか?1節を見ると、精鋭三万をことごとく集めた、とあります。精鋭三万というのは、ペリシテ人との戦いで動員した兵士の数と同じです。高さ66㎝、長さ110㎝の机くらいの大きさの箱を運ぶのに3万人もの精鋭を集めたのです。それは、このように大規模な隊列を組むことによって、この事業がどれほど大切なものであるかを民に示そうとしたからです。この事業はダビデにとってそれほど重大な出来事だったのです。

また3節には、「彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。」とあります。いったいなぜ彼らは神の箱を新しい車に載せて運ぼうとしたのでしょうか。というのは、民数記4章15節には、神の箱を運ぶ時には、神輿のように、担いで運ばなければならないとあるからです。「宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。これらは、会見の天幕でケハテ族が運ぶ物である。」

しかも、それを運ぶことができたのはレビ人の中でもケハテ族に属する人たちだけでした。それ以外の人は運ぶことができませんでした。彼らが担いで運ぶことができるように箱の四隅には金で出来た環が取り付けてあり、そこにアカシヤ材で出来た棒が通されてあったのです。

彼らが新しい車に乗せて運ぼうとしたのは、ペリシテ人が神の箱をイスラエルに戻したとき、そのようにしたからです(Ⅰサムエル6:7-8)。彼らはそれを真似て運ぼうとしたのです。つまり、の臨在を求め、神を礼拝しようとしたことはすばらしかったのですが、その方法は間違っていました。神のみこころではなく、この世の方法を取り入れてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。主の臨在を求め、心から神を礼拝しようとしていながらも、この世の方法を取り入れているということが。主に従っているようでも、このような点で間違っていることがあるのです。自分では信仰に歩んでいると思っていても、それが神のみこころからズレていることもあるのです。動機は良くても方法が間違っていることがあります。4~5節を見ると、彼らは、丘の上にあるアビナダブの家から神の箱とともに運び出したとき、歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊りました。すばらしいことです。しかし、どんなに楽器を奏で、主の御前で喜び踊っても、それが主の示された方法によるのでなければ、主に喜ばれることはありません。それが次のところに出てくるウザの事件です。私たちがしていることがすべての点で主のみこころにかなっているかどうかを点検しなければなりません。

Ⅱ.ウザの死(6-11)

次に6~11節までをご覧ください。「彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。すると、【主】の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。ダビデの心は激した。【主】がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツ・ウザと呼ばれている。その日、ダビデは【主】を恐れて言った。「どうして、【主】の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」ダビデは【主】の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。【主】の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。【主】はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。」

ここで一つの事件が起こります。彼らが神の箱を運んでナコンの打ち場まで来たとき、ウザが神の箱に手を伸ばして、それをつかみました。牛がよろめいたために、神の箱がひっくり返りそうになったからです。すると主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれて死んでしまいました。何が問題だったのでしょうか。7節には「神はその過ちのために」とあります。いったい彼はどんな過ちを犯したのでしょうか。彼が神の箱に手を伸ばしたのは、牛がよろめいてひっくり返そうとしたからです。そういう意味では、彼がやったことは、むしろ正しいこと、すばらしいことです。それなのに彼は神に打たれて死んでしまいました。

ここで、先ほどの間違いが問われることになります。すなわち、神の箱はレビ人が肩にかついで運ばなければならないのであって、牛車に乗せて運ぶのは律法違反であったということです。しかも、これを運ぶのはレビ人の中でもケハテ族に属する人たちだけでした。また、たといケハテ族であっても、この聖なる箱に触れるなら必ず死ぬという警告が与えられていました(民数記4:15)。この警告が与えられたのは、この箱が聖なる神の臨在を象徴していることをイスラエルの民に教えるためでした。ウザは、善意で箱に触れたのですが、それは人間的な善意に過ぎず、神のみこころではなかったということです。神への正しい恐れがなかったのです。神の臨在に対する畏れです。長い間神の箱とともに生活しているうちに、神の臨在に対する畏怖の念を失っていたのです。彼が安易に神の箱に手を伸ばしたのは、彼の中にそうした思い上がりの心があったからだと考えられます。いわゆる、なれ合いですね。

一方、オベデ・エドムの人たちは違いました。それを見たダビデの心は激しました。主がウザに対して怒りを発せられたからです。それで彼は、神の箱を運び上がることによって多くの人が死ぬのではないかと恐れ、それをガテ人オベデ・エドムの家に回しました。主の箱はオベデ・エドムの家に三カ月とどまりましたが、その間、主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福されました。それは、彼らが主の御前にへりくだり、謙遜な態度で神の御前に出ていたからです。彼らは、神の箱を自分の家に安置することを断りませんでした。すなわち、彼は謙遜な態度で神の箱を自分の家に迎え入れたのです。不敬虔な態度でキリストに近づくことは危険なことですが、敬虔な態度でキリストを求めるなら、そこに大きな祝福をもたらされます。

コロナウイルスで礼拝に来られなかったフィリピン人の姉妹があることで相談に来られました。コロナウイルスの中でも英語礼拝は休まずに行われていましたがズームでも礼拝をしているので別にいいだろうと、自分のアパートでオンラインで礼拝をささげていました。いざ礼拝が始まり、ズームを観ているうちに、別に向こうからは見えないだろうと、朝食を食べながら観ていたのですが、そのとき彼女の心が主の御霊によって刺されました。自分はいったい何をしているんだろう。食事をしながら礼拝するなんて。教会にいたらそんなことは絶対に出来ないのにそれができるというのは、自分の中に神への思いがズレでいるからではないか・・。」それで翌週から礼拝に来るようになりました。

別に自分のアパートでも礼拝ができます。どこで礼拝するかが問題なのではありません。問題はどのような心で礼拝しているかです。そのような状態が続くと霊的にも麻痺してしまい、神への恐れるのではなく自分中心の信仰に陥りがちになりますが、そうした彼女の心が聖霊様によって刺されたのは、彼女に神を慕い求め、神を恐れる心があったからでしょう。神を恐れ、神の御前にへりくだり、敬虔な態度で主を求め、主の祝福に与るものでありたいと思います。

Ⅲ.神の箱をダビデの町に運ぶ(12-19)

次に12~19節までをご覧ください。「「【主】が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。【主】の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上げた。【主】の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が【主】の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。人々は【主】の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは【主】の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の【主】の御名によって民を祝福した。そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。」

ダビデは、「主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせを聞くと、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げました。どのように運び上げたでしょうか。13節には、「主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとしてささげた」とあります。今度は、モーセの律法が命じるとおりに、レビ人たちが主の箱を担ぎました。彼は前回の失敗から教訓を学んだのです。ここがダビデのすばらしいところですね。彼も完全ではありませんでした。失敗もしました。でも、彼はそこから学びました。

そして、なんと主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、肥えた牛をいけにえとしてささげたのです。やせている牛ではなく肥えた牛です。彼はなぜそのようにしたのでしょうか。主からの怒りが下って来ないことを確かめるためです。彼はこの神の業を慎重に進めて行ったのです。また、神が守ってくださることを感謝し、最後まで導いてくださるようにと祈りつつ神を礼拝したのです。

それは、ダビデの服装や態度にも表れていました。14節には「ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」とあります。ダビデは王服を脱いで亜麻布のエポデをまとっていました。これはどういうことかというと、ダビデが主の御前にへりくだったということです。この亜麻布のエポデとは祭司が着る服でした。それはダビデが祭司の役を果たしたということではありません。そんなことをしたらあのサウルと同じ罪を犯してしまうことになります。そうではなく、彼は王としての自分の立場を忘れ、まことの王であられる主の御前にへりくだっていたということです。それは彼が主の前で力の限り踊った、跳ね回ったということからもわかります。ダビデは全身全霊をもって主を礼拝したのです。

主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘でダビデの妻となっていたミカルが窓から見下ろしていました。彼女はダビデが主の前で跳ねたり、踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑みました。ミカルはダビデの心を全く理解することができなかったのです。

一方ダビデはというと、主の箱を運び込んで、天幕の真中の定められた場所に置くと、主の前に、全焼のいけにえをささげました。彼は全焼のささげものと交わりのいけにえを献げ終えると、万軍の主の御名によって民を祝福しました。そして、すべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形のパン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えました。それによってすべての民もまた、この日が特別な喜びの日であることを確認することができました。

神の箱があることが大きな喜びであり、祝福であるなら、イエス・キリストが心におられることはより大きな祝福です。イエス・キリストを信じてすべての罪が赦され、神が私たちとともにおられることは、何にもまして大きな祝福なのです。私たちもダビデのように、救い主イエスを、全身全霊をもって礼拝しようではありませんか。

Ⅳ.ダビデを侮辱するミカル(20-23)

最後に20~23節を見て終わりたいと思います。「ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、【主】の民イスラエルの君主に任じられた【主】の前だ。私はその【主】の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。」

イスラエルのすべての民を祝福したダビデは、次に自分の家族を祝福しようと王宮に戻ると、ダビデの最初の妻であったミカルが出迎えて、水を差すようなことを言いました。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」

どうしてミカルはこのように行ったのでしょうか。プライドがあったからです。彼女はサウルの娘として、王としての威厳を保つには軽々しく踊り回ってはならないと考えていました。ダビデが着ていたあの服(エポデ)は、彼女の目では裸同然だったのです。彼女にはダビデのような信仰はありませんでした。彼女は、自分は王家の娘であるというプライドだけは人一倍持っていました。また、父の影響によるのか、群衆を見下げるような態度も身に着けていたのです。

それに対してダビデは何と言ったでしょうか。21節です。彼はミカルにこう言いました。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、【主】の民イスラエルの君主に任じられた【主】の前だ。私はその【主】の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」

つまり彼は、主はプライドの高いサウル家ではなく、自分のような卑しい者を選んでくださったことを感謝し、その主の御前で踊るのであるということ、そして、ミカルが言うような卑しめられている女奴隷たちから敬われたいのだ、と言ったのです。

「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。」これは、ダビデがそれ以降、ミカルと夫婦関係がなかったことを意味しています。そのため、ミカルには生涯子供が与えられませんでした。当時のイスラエルでは恥辱とみなされていた不妊を、彼女は生涯耐え忍ばなければならなかったのです。本来ならば、ミカルの息子が王位を継承するはずでしたが、彼女には子供がいなかったので、バデ・シェバの子が王位継承権を手に入れることになりました。

家族が信仰のことを理解しないために、苦しんでいる人は多くいます。霊的な人と、人間的なことしか考えていない人の間には亀裂が生じ、わだかまりが生じます。ダビデもまたそのひとりでした。しかしダビデはミカルから侮辱されたとき、彼女に反撃を加えようとはせず、そのさばきをすべて主にゆだねました。これは信仰のことを理解できない家族に対してどのように接したらよいかの教訓となります。すなわち、家族が信仰に対して反対したとしても、それで何か反撃を加えたり、傷つけ合ったりするのではなく、すべてを神にゆだねなければならないということです。神はすべてをご存知であられます。その神が最善に導いてくださいます。そう信じて、キリストの香りを放ちつつ、忠実に福音を語り続けたいと思います。

それは、私たちにはこの神の箱があるからです。主イエスは、「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。実に、この神の箱はイエス・キリストの象徴でもありました。私たちには神の箱よりもすばらしい祝福が与えられているのです。私たちには、私たちのために十字架で死なれ、その死から復活し、今も生きておられるキリストが共にいてくださるのです。そのことを覚え、この主の臨在を求め、主の御前にへりくだり、主を喜ぼうではありませんか。これこそ私たちが最も求めていかなければならないことなのです。

伝道者の書9章11~18節「知恵は力にまさる」

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今日は、9章後半の箇所から「知恵は力にまさる」というタイトルでお話しします。前回の9章前半のところで伝道者は、すべての人に臨む死の問題を取り上げ、すべての人が死人のところに行くのであれば、生きていることに何の意味もないのではないかと問いかける中で、しかし、人には拠り所があることに気付かされます。生きている犬は死んだ獅子にまさるのです。どんなに偉大なライオンであっても死んでしまったら何の力もないように、生きていること自体に意味があります。生きている限りまだ望みがあるのです。救い主を信じて永遠のいのちを持つことができます。そして、その神のいのち、神の与えてくださる一つ一つの恵みを楽しむことができるのです。どんな恵みですか。それはパンやぶどう酒といった日ごとの糧もそうですし、ここには「あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい」とありますが、それぞれの伴侶もまた、神が与えてくださった恵みなのです。だからあなたはいつも白い衣を着よ、頭には油を絶やしてはならない、とあるのです(9:8)。「白い衣」とは祭りの装いのことでしたね。油は喜びの象徴です。ですから、私たちに与えられたこの地上でのいのちの日の間に救い主イエス・キリストを信じ、神が与えてくださった一つ一つの恵みを楽しめばいいのです。

 

今日はその続きです。伝道者が再び、日の下で行われていることを見て、その不条理に空しさを感じるわけですが、その中で知恵について三つのことを見出します。第一に、すべてのことに神の時があるということです。しかも、人は自分の時を知らないのです。であれば、その時を支配しておられる神にすべてをゆだね、たとえ問題にぶつかったとしても、神に信頼して祈るべきです。第二に、知恵は力にまさりますが、その知恵さえ蔑まれることがあるということです。しかし、どんなに蔑まれても、この知恵のことばを受け入れ、この知恵のことばを聞かなければなりません。その知恵のことばとは何でしょうか。十字架のことばです。十字架のことばは、滅びる人たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)ですから、第三のことは、この十字架のことばに信頼し、このことばに従いましょう、ということです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の支配者の叫びよりもよく聞かれるのです。

 

Ⅰ.人は自分の時を知らない(11-12)

 

まず、11~12節をご覧ください。「私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。」

 

伝道者が再び日の下を見ると、そこにもう一つの不条理があるのを見ました。それは、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇士の者でもない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない、ということです。

 

「競争は足の速い人のものではなく」そうですね、足が速い人が、必ずしも競争に勝つかというとそうでもありません。今年の7月に延期になった東京オリンピック、開催されるかどうか微妙な状況ですが、たとえば、世界記録を持っているアスリートがオリンピックで必ずしも金メダルをとれるかというとそうとは限りません。思わぬハプニングが生じることがあるからです。

 

「戦いは勇士のものではない。」それでは、勇敢な兵士がいれば戦いに勝てるのかというと、そうでもありません。私は大河ドラマが好きでよく観ていますが、前回は「麒麟が来る」の最終回でした。戦国時代の武将たちを見ると、必ずしも力のある武将が天下を取ったかというとそうではありません。たとえば、武田信玄はその一人でしょう。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で、徳川軍を撃破すると、いよいよ織田信長の本拠地・尾張に攻め入ろうとした時、持病が悪化し、やむなく撤退を決めます。1572(元亀3年)年4月、武田信玄は病気が回復することなく、甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。戦国最強と謳われ、天下の織田信長を恐れさせながらも、天下を取ることは叶いませんでした。あの時、武田信玄が病気にならなかったら、歴史は代わっていたかもしれません。

 

「パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではない。」そうですよね、知恵があるからといって、裕福になるわけではないし、悟りがあるからといって、事業に成功するわけでもありません。「愛顧」とは、口語訳では「恵み」と訳しています。新共同訳では「好意」と訳していますね。「知識があるといって好意をもたれるのでもない。」と。そうですね、知恵があれば好意を持たれるかというとそうでもなく、逆に煙たがれることもあります。

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「すべての人が時と機会に出会うからだ」。どういうことでしょうか。すべての人が時と機会に出会うからだとは。これはすでに3章で言われてきたことです。3章1節に「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とあります。たとえば、生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時があります。この時と機会に恵まれなければ、成功することはできません。どんなに力があっても、どんなに知恵や悟りがあっても、必ずしも成功するとは限らないのです。問題は、人は自分の時を知らないということです。12節には、「しかも、人は自分の時を知らない」とあります。残念ながら、人はその時を知りません。魚が網にかかるように、また、鳥が罠にかかるように、人の子らにも、突如として試練や不幸が襲いかかることがあるのです。そのようにして人はわざわいの時に捕らえられ、最後は死を迎えることになります。それはあんまりではありませんか。しかし、それが私たちの人生なのです。であれば、私たちはそのような不確かな世界にあってどのように生きれば良いのでしょうか。この時と機会を支配しておられる神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈るべきです。

 

私たちクリスチャンは、神の許しなしには何も起こらないと信じています。また、神の愛に応答して全力で生きることが、神に喜ばれることであることも知っています。ですから、この神の主権を認め、神を恐れて生きればいいのです。そうすれば、何も恐れることはありません。すべての出来事は神の御手、神の摂理の中で起こりますが、神はすべての出来事の中に働いて益としてくださるからです。すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るならば、すべてのことが自分にとって最善となるのです。

 

主イエスは弟子たちを伝道に遣わされる際に、そこで遭遇するであろう様々な迫害に対して、どのように対処したらよいかを次のように教えられました。マタイ10章28~33節です。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ10:28-33)

 

有名なみことばですね、「そんな雀の一羽でさえ」。そんな雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはありません。そんな雀とはどんな雀なのかというと、ここに、二羽の雀が一アサリオンで売られているではありませんか、とありますね。一アサリオンというのはお金の単位ですが、当時の労働者の一日の賃金相当の額でした。そうですね、仮に時給1,000円とすると一日8,000円ですが、この十六分の一ですから、500円ということになります。そうすると一羽の雀の値段はその半分となりますから250円なのですが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がありませんでした。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものを表しています。そんな一羽の雀でも、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃったのです。つまり天の父である神様は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀でさえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。であれば、雀よりも価値があるあなたのために、神が何もしてくださらないということがあるでしょうか。私たちは自分のことを、全く価値がないとか、無力な者だと思っているかもしれません。自分の周囲には、立派な人がたくさんいて、あれも出来る、これも出来ると、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれも出来たのにこれも出来たのに、社会の中である地位や役割を持っていたのに、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまったと思っている人もいるかもしれません。自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないかと思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苛まれ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちにイエス様はここで、神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられると言われたのです。

 

それは雀だけではありません。あなたの髪の毛のことも考えてみなさい、というわけです。30節には「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」とあります。一本残らず数えられているのです。私たちは自分の髪の毛の数などありません。数えきれないのです。「ああ、また抜けたなぁ」とか、「大分少なくなってきたなあ」ということくらいはわかりますが、何本あるかなんて数えられません。しかし、神様はその数まで数えておられるというのです。つまり、私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神様は私たちのすべてのことを知っておられるということです。それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。だから、恐れることはないのです。問題は、あなたがこのすべてを支配しておられる神を認め、神を恐れて生きているかということです。あなたがこの神を認めるなら、神によってあなたも認められます。しかし、もし認めないなら、神に認められることもありません。人生の不条理の人生の中で神を恨み、人生を呪い、不平不満を言いながら生きるのではなく、神を認め、すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るべきです。そうすれば、すべてのことがあなたにとって最善となるのです。

 

Ⅱ.知恵は力にまさる(13-16)

 

次に、13~16節までをご覧ください。「私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」

 

伝道者はまた、知恵について、日の下でもう一つの不条理を見ました。それは彼にとって大きなことでした。それはどんなことかというと、わずかな人々が住む小さな町がありましたが、そこに強大な王、大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いたのです。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれる防壁のことです。砦ですね。普通は攻めてくる敵の侵入を防ぐために築かれるものですが、ここでは逆に、その町を攻めるために築かれました。ですから、城壁を破って町に侵入するのも時間の問題です。

すると、その町に、一人の貧しい知恵のある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救いました。それで彼は町の英雄になりましたが、だれもその人のことを記憶にとどめておくことはありませんでした。彼の存在は完全に忘れられてしまったのです。

 

それを見た伝道者は、こう言って嘆きます。16節、「私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」どういうことでしょうか。

確かに、知恵は力にまさります。敵の攻撃から救い出す力があります。聖書は知恵の宝庫ですから、聖書からの知恵によって危機を脱出したという例がたくさん聞きます。しかし、その知恵がやがて蔑まれるようになり、だれにも顧みられなくなることがあるのです。そして、やがて忘れられてしまいます。つまり、知恵が無力に感じられことがあるというのです。

 

これは、私たちの信仰にも言えることではないでしょうか。この貧しい一人の知恵ある者ですが、これをイエス様に置き換えることがいます。また、この町を攻める大王とは悪魔のことです。悪魔は、小さな町である私たちを攻め立てる大王です。そこに砦を築いて攻撃してくるので、私たちの力ではどうすることもできません。しかし、その町にいる貧しい一人の知恵者が、その知恵を用いてその町を救ってくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れる道を用意してくださいました。それが十字架のみわざです。神はキリストの十字架のみわざを通して、私たちを罪から救う道を用意してくださいました。にもかかわらず、多くの人はこの十字架のことばを受け入れず、キリストを信じることもせず、自分勝手な道に進んで行ってしまいました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

神はこの十字架のことばを通して、信じる人を救おうとされました。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、召された者たちにとってキリストは、神の力、神の知恵なのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。それゆえ、キリストのことば、十字架のことばを受け入れ、キリストを通して父なる神に感謝をささげる人こそ幸いな人なのです。

 

あなたは、この貧しい人の知恵のことばを聞いていますか。そのことばを受け入れているでしょうか。その知恵のことば、十字架のことばに生きていますか。私たちは忘れっぽい者です。すぐに忘れてしまいます。しかし、私たちの人生で多くのことを忘れても、このことだけは忘れないでください。十字架のことばは、滅びる人たちにとっては愚かであっても、救われる私たちには神の力なのです。

 

Ⅲ.知恵は武器にまさる(17-18)

 

第三に、17~18節までをご覧ください。「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」

 

貧しい者の知恵は無視されたり、軽視されたり、忘れられたりしますが、それでも価値があります。ここには、「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれる」とあります。愚かな権力者たちが大声で叫ぶよりも、知恵ある者が静かに語ることばの方が良く聞かれるのです。より力があるというのです。

 

例えば、Ⅰサムエル記を見ると、アビガイルという一人の女性が登場します。彼女はナバルという人の妻でした。ナバルはカルメルという所で事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていましたが、彼はその名のごとく「愚か者」でした。それで、そのすべての財を失いかけますが、その危機から救ったのが妻のアビガイルでした。

ある日のこと、ダビデは彼のもとに10人の若者を遣わして、何か手もとにある物を与えてほしいと頼みました。長きにわたる放浪生活で食べ物がなく困窮していたのです。しかし、ナバルの答えはダビデの期待を裏切るというか、その気持ちを逆なでするようなものでした。彼はその若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(Ⅰサムエル25:10-11)と大口をたたいてダビデの要請をきっぱりと断ったのです。

それを聞いたダビデは激怒し、部下たちに「各自、自分の剣を帯よ。」と命じ、ただちにナバル討伐に向かいました。すると、その出来事を聞いた妻のアビガイルは、多くの食べ物をもってダビデのもとに出で生き、ダビデの足もとに触れ伏してこう言いました。

「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(Ⅰサムエル25:24-31)

 

彼女は自分の罪を認めて告白した上で、その罪を赦してほしいと懇願しました。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐することを主が止められたのだと告げ、その主が復讐してくださるようにと祈ったのです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになるので、そういうことをせず、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

 

それでダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、ナバル討伐をやめました。そして、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けたのです。ダビデはこのアビガイルと出会わせてくださった神をほめたたえ、神に感謝しました。そして、その後、主がナバルを打たれたので彼は死に、アビガイルはダビデの妻になりましたが、本当に聡明な女性です。彼女の知恵によって、ナバルの家だけでなく、ダビデ自身も罪を犯すことがないように守られたのですから。その忠告に耳を傾けたダビデもさすがですが、その忠告をダビデにしたアビガイルは実に知恵のある賢明な人でした。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりも力があるのです。

 

一方、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊します。知恵は武器にまさりますが、一人の愚か者によってすべてのものがぶち壊されることがあるのです。例えば、今のアビガイルの例で言うなら、ナバルはそうでしょう。「ダビデとは何者だ」と大口をたたいて、すべてをぶち壊そうとしました。

それは、10章1節に出てくる死んだハエと同じです。10章1節に「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。10章からは、その知恵ある者と愚かな者が対比されて語られていきますが、この愚かな者の言動がどのような影響を及ぼすのかを、死んだハエにたとえているのです。調香師が調合した香油には、高価な価値があります。しかし、そこに一匹のハエが飛び込んで来て、死んだとしたらどうでしょうか。すべてが台無しになってしまいます。香油は異臭を放ち、腐らせます。そんな香油を使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。ナバルの言動とは、まさにこの死んだハエのようでした。

 

しかし、知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれます。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。私たちは愚かな人の叫びではなく、静かに聞こえる知恵ある者のことば、キリストのことばを心に刻まなければなりません。ひとりの知恵ある者が町を救ったのとは反対に、ひとりの罪人が共同体を壊すことがあります。私たちはこのような愚かな者にならないように、いつも悪魔の声、この世の声に警戒しなければなりません。そして、キリストのことばを心に蓄え、神の知恵、真理のことばによって共同体を建て上げる者でありたいと思います。この知恵によって歩む一人一人に、神の力、神の祝福が豊かにありますように。

出エジプト記40章

いよいよ出エジプト記の最後の章になりました。今日は40章からご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.モーセへの命令(1-15)

 

まず、1~15節までをご覧ください。8節までをお読みします。「【主】はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。あなたはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎる。机を運び入れて備品を並べ、燭台を運び入れて、そのともしび皿を載せる。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛ける。会見の天幕である幕屋の入り口の前には、 全焼のささげ物の祭壇を据え、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。」

 

前回まで、主の知恵に満たされた人たちが、幕屋とその用具を作り、モーセがそれを点検したことを学びました。そして、イスラエルの子らが、すべて主が命じられたとおりに行ったことを見たモーセは、彼らを祝福しました。

いよいよ実際に幕屋を建設する時がやって来ました。主はモーセに、第一の月の一日に、会見の天幕である幕屋を建設するように告げられました。それはイスラエルがエジプトを出てから1年、シナイ山の麓に到着してから9カ月後のことでした(19:1)。その間、モーセは二度にわたってシナイ山で40日間を過ごしました。すなわち、イスラエルの民は約半年の間に幕屋のすべての部品を完成させたことになります。驚くほどのスピードです。

 

モーセはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎらなければなりませんでした。そして、机を運び入れ備品を並べ、燭台を運び入れて、ともしび皿を載せます。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛けます。中庭には全焼のささげ物の祭壇を据え、その祭壇と会見の幕屋との間に洗盤を据え、これに水を入れます。また、庭の門に垂幕を掛けました。

 

この位置関係が非常に重要です。門は東側にありました。そこから入って行きますが、門から入ると正面に青銅の祭壇があります。次に洗盤があり、その先に幕屋がありました。そして幕屋の幕をくぐると、聖所に入ります。そこは燭台の光で輝き、板は金でおおわれ金色に輝いていました。正面に向かって右側に供えのパンの机が置かれ、左には燭台が置かれました。正面には、聖所と至聖所の仕切りになっている垂れ幕に接して、香壇が置かれました。その仕切りの垂れ幕の先が至聖所で、そこには契約の箱とその上に贖いの蓋が置かれました。   これを礼拝の順番として考えると、次のようになります。私たちが礼拝するときは、まず東の門から入らなければなりません。その門とはキリストのことです。ある人は仏教、ある人は神道、ある人はイスラム教、ある人はお金、名声、結婚などなど、いろいろな方法で救われようとしますが、救いは唯一イエス・キリストによってのみです。主イエスが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)と言われました。イエスだけが救いに至る唯一の門であって、それ以外に救われる門はありません。

 

その門をくぐると青銅の祭壇があります。これは神のさばきを象徴していました。キリストは神のさばきを受けて十字架で死んでくださったということです。

 

そして聖所に向かいますが、その前に洗盤によって手足を洗わなければなりません。それはバプテスマを表していました。キリストの十字架の贖いを信じること、バプテスマはそのことを表しています。これは鏡で出来ていました。つまり、神のみことばによる洗いを受けなければならなかったのです。

 

そして聖所に入ると、供えのパンがありました。これはキリストご自身を指しています。キリストは、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)と言われました。このパンを食べること、すなわち、聖餐にあずかり、キリストとの親密な交わりにあずかることができました。そしてともしびの油が表わしていた聖霊の働きを受け入れます。また、香壇が示しているように祈りをささげなればなりませんでした。そして、聖所と至聖所の仕切りの垂れ幕はキリストの肉体を表わしていました。この方の十字架のみわざによって、天におられる父なる神に大胆に近づくことができるのです。これを上空から見れば、十字架の形をしています。神の栄光はキリストご自身であり、その十字架のみわざによって現されたのです。

 

次に、9~15節までをご覧ください。「あなたは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものの油注ぎを行い、それと、そのすべての用具を聖別する。それは聖なるものとなる。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具の油注ぎを行い、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。洗盤とその台の油注ぎを行い、これを聖別する。また、あなたはアロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で洗い、アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」」

 

次に注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに注がなければなりませんでした。つまり、聖別しなければならなかったということです。祭司であるアロンとその子らにも油を注いで聖別しなければなりませんでした。この聖別によって、アロンの家系は「代々にわたる祭司職」とされました。これは聖霊の働きを意味しています。この地上において、主のために聖別されるためには、聖霊の油注ぎが必要なのです。どんな働きにも聖霊の油注ぎ、聖霊の満たしがなければ、神の働きを行なうことはできません。ですから、私たちはどんな時でも祈り、聖霊の油注ぎを受ける必要があります。

 

また、大祭司が油注がれたのは、キリストが神の聖霊を無限に受けた大祭司であることを表していました。それゆえ、私たちはキリストを通して、大胆に神に栄光の御座に近づくことができるのです。

 

Ⅱ.幕屋の完成(16-33)

 

次に、16~33節までをご覧ください。「モーセは、すべて【主】が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。モーセは幕屋を設営した。まず、その台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕の覆いを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、さとしの板を取って箱に納め、棒を箱に付け、「宥めの蓋」を箱の上に置き、箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の内部の北側、垂れ幕の外側に机を置いた。その上にパンを一列にして、【主】の前に並べた。【主】がモーセに命じられたとおりである。会見の天幕の中、机の反対側、幕屋の内部の南側に燭台を置き、【主】の前にともしび皿を掲げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。それから、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、その上で香り高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、会見の天幕である幕屋の入り口に全焼のささげ物の祭壇を置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。」

 

モーセは、すべて主が命じられたとおりに行いました。前回までのところには、イスラエルの子らは、すべて主が命じられたとおりに行い、それを見たモーセが彼らを祝福しましたが、ここでは、モーセ自身が主から命じられたとおりに行い、その仕事を終えました。モーセは、主が命じられたとおりに行ったという記述が、ここに7回繰り返されていることに注目してください(19,21,23,25,27,29,32節)。7は完全数です。この表現は、幕屋が神の計画どおりに建設されたことを示しています。神が命じられたとおりに生きる人は幸いです。そのような人は、主に祝福された人生を歩むことができます。私のもとには毎日のように相談の依頼が舞い込んできますが、すべての問題の解決の鍵は、主が命じられたとおりに行うことです。自分の思いや考えではなく、主が何と語っておられるのかを正しく受け止め、その通りに行うことです。そうすれば、すべての問題が解決します。なぜなら、主のみことばは私たちが正しく生きるための完全な道しるべだからです。

イスラエル民は、金の子牛の事件から立ち直り、モーセに導かれて幕屋の建設を終了させました。だれも完璧な人などいません。だれでも失敗を犯します。しかし、大切なことは、それでも悔い改め、そこから立ち直ることです。私たちには、モーセ以上の解放者であられる主イエスがおられます。この主の恵みに信頼して、希望の明日に向かって歩み始めようではありませんか。

 

ところで、モーセは幕屋を建設しました。彼は、主が命じられたとおりに幕屋を建設したのです。そして、第二のモーセであられるイエスは、ご自身の教会を建設されました。マタイ16:18には「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」とあります。「この岩の上に」とは、ペテロが告白した信仰告白、すなわち、イエスこそ、神の御子キリストです、という信仰の告白の上にということです。教会はこの告白の上に建っています。したがって、これと違うものがその土台にあるとしたら、それは教会として成り立たないことになります。つまり、キリストの教会の土台は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目によみがえられたことという、この福音を信じ、主イエスを救い主として受け入れることです。それを信じた者だけがこの神の幕屋、神の教会に加えられ、神との交わりを持つことができるのです。

 

イエスは地上でのすべての仕事を終えられました。イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになられました。最後まで、実に十字架の死に至るまで忠実に父なる神に従い、そのとおりに救いのみわざを成し遂げてくださいました。私たちもキリストにならい、主が命じられたとおりに歩む者でありたいと思います。
Ⅲ.栄光の雲(34-38)

最後に、34~38節を見て終わります。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」

そのとき、すなわち、モーセがすべての仕事を終えたとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。それでモーセは会見の天幕に入ることができませんでした。この栄光は、人間が直視することができないほどの輝きだったからです。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とありますが、この「私たちの間に住まわれた」とは、「幕屋を張られた」という意味です。神が人間の肉体の姿を取られて現れてくださいました。イエス・キリストは、まさにイスラエル人が幕屋において栄光の雲を見るように、神の栄光の輝きとなって現われてくださったのです。ですから、私たちはキリストから目を離さないようにしなければなりません。キリストこそ神の栄光の現われであり、私たちをその栄光で照らしてくださるからです。

 

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立ちました。雲が上らないと、上る日まで、旅立ちませんでした。彼らが旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからです。雲がイスラエル民を導きました。昼は主の雲が幕屋の上にありました。それは雲が、彼らが行くべき道を示し日陰となって太陽の陽から守ってくださったということです。また、夜は火の柱が彼らとともにありました。それは、同じように彼らの行くべき方向性を示し、外敵から宿営を守られたということです。ですから、彼らがすべきことは何であったかというと、この雲を見上げることだけでした。主イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。いつもともにいてくださる主を見ること、それが私たちにゆだねられていることです。主がいつもともにおられると信じて、この主を見上げて、主の導きに従って、私たちの信仰の旅を歩んでまいりましょう。

伝道者の書9章1~10節「神に会う備えをせよ」

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伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

 

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

 

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

 

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

 

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

 

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

 

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

 

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

 

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

 

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

 

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

 

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

 

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

 

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

 

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も 怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

 

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

 

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

 

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

 

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 

Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 

では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 

7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 

8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 

そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 

また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

 

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

 

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

 

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

Ⅱサムエル記5章

Ⅱサムエル5章に入ります。まず、1~5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.イスラエルとユダ全体の王となったダビデ(1-5)

 

「イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。【主】はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」イスラエルの全長老はヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで、【主】の御前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。ヘブロンで七年六か月ユダを治め、エルサレムで三十三年イスラエルとユダの全体を治めた。」

 

サウル家の王であったイシュ・ボシェテは、2人のベニヤミン人レカブとバアナによって殺されたため、サウル家にはヨナタンの子でメフィボシェテはいましたが、足が萎えていたため王や将軍がいなくなりました。

そこでイスラエルの全部族は、ヘブロンにいたダビデのもとに来て言いました。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」(2-3)

彼らは、サウルが自分たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした、と告白しています。彼らはこのことに気づいていました。主の御霊がサウルから去り、ダビデに臨まれたということを。第三者的に見ても、それを認めることができたのです。私たちの働きも同じです。御霊の働きがなければ、どんなに体裁を整えても、他の人から認められることはありません。けれども主の御霊の注ぎがあれば、その人がどのように低められていようと、だれもが認めるようになります。大切なのは、自分がどのような立場にあるかということではなく、主の御霊の注ぎがあるかどうかということです。それは、主がダビデに語られた預言のことばでもありました。かくして、ダビデは彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王としました。

 

ダビデが油注ぎを受けるのは、これで3回目です。一度目はサムエルによって(Ⅰサムエル16:13)、二度目はユダの人々によって(Ⅱサムエル2:4)、そして三度目が今回です。ダビデがイスラエルの王となったのは、彼が30歳の時でした(4)。ヨセフがエジプトで支配者となったのも30歳の時でした。なぜ30歳だったのでしょうか。それは、ダビデもまたヨセフも、後に来られるキリストを指し示していたからです。イエス様がその働きを始められたときも、およそ30歳でした(ルカ3:23)。ダビデは、とこしえの神の国の王となられるキリストを指し示していたのです。

 

先月の聖書同盟の「みことばの光」の聖書通読の箇所は民数記でした。民数記の4章には、おしろいことに、主の幕屋で奉仕することができる祭司の年齢が記されてあります。それは30~50歳までの人です。私は今年60歳になりますから、アウトです。それはどうでもいいとして、なぜ30歳からだったのかというと、この祭司もまたキリストを表していたからです。イエス様は、王としても、祭司としても、油注がれたメシヤ、キリストであられたのです。

 

ダビデは30歳で王となり、40年間、イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6か月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダの全体を治めました。それにしても、何と忍耐を強いられたことでしょう。30歳でユダとイスラエルの王となるまで、実に様々な試練を通らされました。しかし、こうやってみると、それは彼が王としての働きを全うしていくために必要な訓練の時であったことがわかります。主の働きに召される者には多くの責任が伴いますが、それを成し遂げていくためには、信仰や判断力、人格などあらゆる面で整えられる必要があるのです。ダビデが王になるまでの試練は、そのための訓練の時だったのです。彼が王としてふさわしい姿になったとき、神は彼に統一王国の王としての働きをゆだねられました。へブル12章7~11節にこうあります。「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

私たちも、どうしてこのようなことが・・と思うことがありますが、訓練と思って耐え忍びましょう。神がちょうど良い時に引き上げてくださり、平安な義の実を結ばせてくださるからです。

 

Ⅱ.ダビデの町(6-10)

 

次に、6~10節までをご覧ください。「王とその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行った。すると彼らはダビデに言った。「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」彼らは「ダビデがここに攻めて来ることはできない」と考えていたのである。しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。その日ダビデは、「だれでもエブス人を討とうとする者は、水汲みの地下道を通って、ダビデの心が憎む『足の萎えた者どもや目の見えない者ども』を討て」と言った。それで、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった。ダビデはこの要害に住み、これを「ダビデの町」と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、【主】が彼とともにおられた。」

 

ダビデとその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行きました。遊びに行ったわけではありません。その地を占領するためです。ヘブロンは統一王国を治めるためにはあまりにも南に位地していたので、もう少し北に移そうと思ったのでしょう。また、そこはユダ族の領地でもあったので、統一王国の首都としてはふさわしくありませんでした。そこでダビデが新しい首都として選んだのが、シオンの要害、エルサレムでした。そこはユダ族とベニヤミン族の境に位地していたので、どの部族にも偏らないところにあったのです。

 

エルサレムは、300年ほど前に、主がヨシュアを通して語られた命令に従い、ユダ族が攻め取った町でした(士師1:8)。しかし、ユダ族が攻め取った後も、彼らはそこを自分たちのものとしなかったので、エブス人がいつまでも居座り、紀元前約1000年になっていたダビデの時代にも、まだエブス人の手の中にあったのです。エブス人がダビデに、「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」と侮辱していますが、それもそのはず、エルサレムはその地形からして三方を山に囲まれた、難攻不落の天然の要塞だったからです。

 

しかし、ダビデはこのシオンの要害を攻め取りました。これが「ダビデの町」です。ダビデは、ユダのベツレヘムの出身ですので、ダビデの町とはそのベツレヘムのことを指しますが、この時ダビデがエルサレムを攻め取り、そこを政治的、軍事的な中心地としたことから、これを「ダビデの町」と呼ぶようになったのです。こうして、この時からエルサレムはユダヤ人のものとなりました。

 

どうして彼らはこのエルサレムを攻め取ることができたのでしょうか。その理由が10節にあります。「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。」万軍の神、主が彼とともにおられたからです。主がともにおられることこそ、クリスチャンの力であり、祝福の源です。私たちのすべての行為は私たちが行っていても、神が行っているとも言えるのです。神はそのような者を祝福してくださいます。

 

一方、エブス人たちはどうだったかというと、大変傲慢でした。ダビデがエルサレムに攻めても、目の見えない者どもや足の萎えた者どもでも追い出せると豪語しました。このような自信過剰な態度は大変危険であると言えます。彼らはダビデの力と知恵を侮っていました。しかし、最後はそのダビデによって滅ぼされる結果となってしまいました。いつの時代でも、神を恐れない者たちは、どんなに危険が迫っていても、傲慢で油断しています。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その霊の戦いにおいて勝利するために、主の御前にへりくだり、主とともに歩ませていただきましょう。万軍の神、主がともにおられることで勝利ある者とさせていただきましょう。

 

Ⅲ.ダビデの家族(11-16)

 

次に、11~16節までをご覧ください。まず11~12節です。「ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。ダビデは、【主】が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」

 

神の都エルサレムにイスラエルの新しい都が確立されました。次に必要なのは、その都にふさわしい王国です。しかし、当時のイスラエル人は主に農業と牧畜に従事していたので、木材や石材を加工して建物を建築するのに慣れていませんでした。そのような時に、ダビデのもとに素晴らしい知らせが届きました。ツロの王ヒラムが、ダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送ってきたのです。ツロは今のレバノンにある町です。エルサレムからは120㎞ほど北方にある外国の町でした。そのツロからこれだけの資材が送られて来たというのは、ヒラムがダビデと友好条約を結ぼうとしていたということです。彼はダビデの偉大さを認め、敵に回すよりも友人になった方が得策だと考えたのです。

 

ヒラムは異邦人でした。この異邦人のヒラムがイスラエルと契約を結ぶ姿は、新約の時代になって異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンと一つになることを予表していました。これはパウロを通して表された神の奥義でもありました。パウロはこの奥義を次のように語っています。エペソ3章5~6節です。「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」

これは、旧約の時代には知らされていなかった奥義です。しかし、このような形で示されていたのです。キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということを。これがキリストの教会です。

私たちも、ヒラムがダビデにしたように、ダビデの子であられる主イエスを信じ、この契約の中に入れられた者です。ですから、ともに同じからだ、キリストのからだにつらなって、このからだを立て上げ、教会を通して神の栄光を現すものとなりたいと思います。

 

12節には、「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」とあります。ダビデはよく知っていました。主が自分をイスラエルの王として立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったということを。それはすべて主から与えられたものであるということを知っていたのです。自分は神に用いられている器にしかすぎないのであって、したがって自分はただ主を恐れ、主に言われていることを行なうだけであるということを知っていたのです。サウルのときと比べてみてください。彼はイスラエルを自分の所有物であるかのように考え、自分の国が栄えることだけを考えていました。自分の縄張りを作っていました。しかしダビデはそうではなく、それは主のものであり、主がご自身のために自分を立ててくださったと、認識していたのです。彼にあったのは、ただ主を慕うその心だけでした。

 

とは言え、彼もまた完全な者ではありませんでした。次のところを見るとそれがわかります。13~16節をご覧ください。「ダビデは、ヘブロンから来た後、エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎えた。ダビデにはさらに息子たち、娘たちが生まれた。エルサレムで彼に生まれた子の名は次のとおり。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、イブハル、エリシュア、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレテ。」

 

ここには、ダビデがヘブロンから来た後、エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎え、彼女たちによって生まれた子どもたちの名前が記されてあります。3章には、ダビデがヘブロンにいた時に生まれた子どもたちのことが記されてありましたが、そこには6人の妻たちがいました。これでも多すぎるのに、エルサレムに来てからさらに多くの妻と側女たちをめとりました。これは3章でも述べましたが、主の戒めに背く行為です。申命記17章17節には、王は、多くの妻を持ってはならない、とあります。心がそれることがないためです。それなのに彼は、さらに多くの側女たちと妻たちを迎えました。ダビデのこの罪は、やがて深刻な呪いを招くことになります。その子ソロモンもまた、やがて同じ罪を犯すようになります。これは、慢心というか、彼の心に隙が生じたからです。サウルの家との間に激しい葛藤があったときには主に信頼していたダビデでしたが、統一王国を成し遂げた後に、こうした落とし穴が待っていたのです。人は成功を手に入れることよりも、成功したあとをどうするかのほうが難しいように感じます。成功は人を慢心と油断に陥れます。主の祝福を受けた後でも主を愛し、主に信頼し、へりくだって主に従うことができる人は幸いです。

 

ところで、エルサレムで生まれた子どもたちのうち、最初の4人、シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモンは、バテ・シェバによって生まれた子どもです。この中で特にナタンとソロモンに注目してください。ダビデの王位を継承し、エルサレムに神殿を建設するのはソロモンです。ソロモンはその名が示す通り、「平和の子」です。一般的には、ソロモンがメシヤであられるイエスの先祖となったと考えられていますが、実際はソロモンではなくナタンです。マタイの福音書にある系図を見ると、確かに1章6節に「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とあります。そして、その子孫にイエスの父ヨセフが生まれ、ヨセフによってイエスが誕生しました。しかし、本当の父はだれかというと、聖霊です。イエスは聖霊によって母マリヤの胎に宿ったのです。ですから、正確にはヨセフはイエスの義父であったということになります。血のつながりはありませんでした。

一方、ルカの福音書にあるイエスの系図を見ると、イエスはソロモンではなくナタンを通して生まれたとあります(ルカ3:31)。いったいこれはどういうことでしょうか。

 

この二つの系図にはいろいろな違いが見られますが、これはこの系図が間違っていたということではなく、イエスは二つの家系を通して生まれてきたことを示しているのです。そして、ルカはマリヤの家系を、マタイは、ヨセフの家系をたどって記録したのだろうと考えられています。マタイはイエスの法律上の父であるヨセフの家系を、ダビデの息子ソロモンを通して、だどったのに対して、ルカはマリヤ(イエスの血肉の親戚)の家系をダビデの息子ナタンを通して、たどったということです。「義理の息子」というギリシャ語はないので、ヨセフはエリの娘マリヤと結婚することで、エリの息子と考えられたわけです。どちらの家系をたどっても、イエスはダビデの子孫であり、かつメシヤとしての資格があるということです。母方の家系をたどった系図というのは普通ないことですが、処女降誕も普通なかったことです。ルカの説明は、イエスはヨセフの息子「と考えられていた」のです。(ルカ3章23節)

このように見ると、神の計画は人知をはるかに超越したものであり、同時に、完璧なものです。この全地全能の神に全面的に信頼しようではありませんか。

 

Ⅳ.ペリシテ人との戦い(17-25)

 

最後に、17~25節を見て終わりたいと思います。まず17~22節までをご覧ください。「ペリシテ人は、ダビデが油注がれてイスラエルの王となったことを聞いた。ペリシテ人はみな、ダビデを狙って攻め上って来た。ダビデはそれを聞き、要害に下って行った。一方、ペリシテ人はやって来て、レファイムの谷間を侵略した。ダビデは【主】に伺った。「ペリシテ人のところに攻め上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」ダビデはバアル・ペラツィムにやって来た。ダビデはそこで彼らを討って、「【主】は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。彼らはそこに自分たちの偶像を置き去りにした。そこでダビデとその部下はそれらを運び去った。」

 

ダビデが油注がれて王となったことを聞いたペリシテ人は、ダビデを狙って攻め上って来ました。彼らはこれまでダビデを自分たちの家来だと思っていましたが、そのダビデが、エルサレムを攻め取り、そこを新都と定め、王宮まで建設したということを聞いて、そのダビデの権力が強大なものにならないうちに、早急に彼を討っておこうと思ったのです。不思議ですね、ダビデが王位に就くとすぐに、敵が彼を滅ぼそうと動き出しました。これは、ダビデの場合だけでなく、いつの時代でも言えることです。イエス様もヨルダン川で洗礼を受けるとすぐに悪魔の攻撃を受けました。私たちクリスチャンも霊的な祝福を受けた途端、こうした悪魔の攻撃を受けることがあります。しかし、主とともに歩むなら、必ず、圧倒的な勝利がもたらされます。

 

ダビデの場合はどうだったでしょうか。それを聞いたダビデは、要害に下って行きました。彼は、ペリシテ人たちがレファイムの谷間を侵略したと聞いたとき、まず主に伺いを立てました。彼は、自分で勝手に判断して動くことをしませんでした。ペリシテ人がやって来ているのだから、攻めに行くのは当たり前です。けれども当たり前だと思われることさえ、彼は主に伺ったのです。彼はいつも、自分の前に主を置いていたのです。

 

すると、主はダビデに言われました。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」この主の答えは、ダビデにとってどれほど心強かったことでしょう。主は必ず、ペリシテ人を彼の手に渡すと言われたのです。それでダビデは、バアル・ペラツィムにやって来て、彼らを討ちました。そのときダビデはこう言いました。「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」。それで、その場所の名は、「バアル・ペラツィム」と呼ばれるようになりました。意味は、「偶像が討ち破られた場所」です。ペリシテ人たちが置き去りにした偶像は、運ばれ、捨てられ、焼却されました。主が約束されたとおりに、圧倒的な勝利がもたらされたのです。

 

次に、22~25節までをご覧ください。「ペリシテ人は、またも攻め上り、レファイムの谷間を侵略した。ダビデが【主】に伺うと、主は言われた。「上って行くな。彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かえ。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき【主】はすでに、ペリシテ人の陣営を討つために、あなたより先に出ているからだ。」ダビデは【主】が彼に命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討った。」

 

ペリシテ人たちは、またもレファイムの谷間から攻め上って来ました。執拗な攻撃です。悪魔の攻撃も、このように執拗です。一度勝利したらそれでおしまいというのではなく、何度も攻撃してきます。

ダビデはそれにどう対応したでしょうか。彼は再び主に伺いました。彼は、前回勝利したときと同じ戦略を実行しようとしませんでした。ここが、ダビデの偉大なところです。彼は再び主に伺いを立てました。彼は、戦略ではなく、主の臨在こそが勝利をもたらす秘訣であると知っていたのです。

 

すると、今度は前回とは全く違う戦略が示されました。上って行くのではなく、彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かうようにと言われたのです。そして、バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、攻め上るようにと言われたのです。そのとき主はすでに、ペリシテ人の陣営を討つために、ダビデの先に出ているからです。それでダビデは主が命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討ったのです。

 

ダビデが二度目の戦いに勝利できたのは、彼が主の方法とタイミングに従ったからです。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、その時に攻め上れ、というのは、それは主の軍勢がダビデの先に立って行進していることを暗示していました。その音を聞くまで待たなければなりませんでした。その音を聞いたとき、すなわち、主の軍勢が戦いのために行進するのを聞いたとき、彼は攻め上らなければなりませんでした。そのとおりにしたとき、ダビデは圧倒的な勝利を収めることができました。

 

これはビジョン2025に向かって進んでいる私にとって大きな示唆を与えてくれます。ビジョン2025とは、2025年までに新しい教会を生み出すというものですが、これまでのやり方ではだめです。これまでは真正面から攻め上って戦ってきました。でも今度は違います。今度は上って行くのではなく、彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みから彼らに向かわなければなりません。いつまでですか?そのサインは行進の音です。行進の音が聞こえたら、そのとき、攻め上ればいいのです。

 

皆さんはどうですか。「主の軍勢の行進の音」が聞こえるでしょうか。それとも、その時を待つべき時でしょうか。今がどのような時なのかを聞き分け、行動しなければなりません。主の戦いに勝利するには、主の方法とタイミングによらなければならないのです。私たちも主の時を見極めて、主の勝利を体験させていただきたいと思います。

伝道者の書8章9~17節「すべては神のみわざ」

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きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる  雨が降っていたのだ  あの音のようにそっと
世のためにはたらいていよう
雨があがるように
しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。
この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

出エジプト記39章

出エジプト記も残すところ39章と40章だけとなりました。ここには、かつて主がモーセに命じられた祭司の装束を、彼らがどのように行ったかについて記されてあります。まず1~3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.祭司の装束(1-31)

 

まず1~31節までをご覧ください。3節までをお読みします。「彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。」

 

「彼ら」とは、知恵の御霊に満たされた職人たちのことです。彼らは、幕屋の中にあるさまざまな用具を作りました。ここで彼らはアロンの聖なる装束を作りました。金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いてエポデを作ったのです。彼らは、金を延ばして、それを撚り糸の中に織り込みました。金は神のご性質と神の栄光を表していました。

 

次に、4~7節をご覧ください。「エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。彼らは縞めのうを金縁の細工の中にはめ込んだ。それには、イスラエルの息子たちの名が、印章を彫るように刻まれていた。彼らはそれらをエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

大祭司が着るエポデには、左右両方に肩当てが作られ、それぞれエポデの両端に結ばれました。その肩当てには、金の枠にイスラエルの息子たちの名が刻まれていた縞めのうが付けられていました。それは、イスラエルの息子たちが覚えられるための石です。これは、大祭司がイスラエルの民を代表していることを象徴していました。また、イザヤ46:3-4に、「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とありますが、主が彼らを背負って救い出すことを表していました。また、エポデの上に来るあや織りの帯をエポデと同じように作りました。これは主がモーセに命じられたとおりです(28:6-14)。

 

次に、祭司の胸当てです。8~14節をご覧ください。「また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。」

 

彼らはまたエポデを作る時と同じように、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で胸当てを作りました。これは正方形で二重になっていました。これは「さばきの胸当て」と呼ばれていたもので、その中にウリムとトンミムと呼ばれる石が入れられていました(28:30)。

この胸当てには肩当てと同じように宝石が3個ずつ4列に埋め込まれました。この宝石もイスラエル12部族の民を表していました。大祭司の心にこの12の部族が刻まれていたのです。それは同時に、私たちクリスチャンが大祭司であられるキリストの心に刻まれていることを表しています。クリスチャンはみなそれぞれ違う石で、輝きも違いますが、どれもみな宝石のように価値あるものです。キリストによって贖われたので、代価を払って買い取られたので、価値ある者にされたました(イザヤ43:3-4)。クリスチャンはみなキリストの胸にしっかりと刻まれているのです。

 

ここに出てくる宝石は、黙示録に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています(黙示録21:11-21)。それらの土台石は12使徒を表わしていましたが、そのうち9つがここの宝石と同じものです。門はイスラエル12部族を表していましたが、それらはみな真珠で出来ていました。それは神の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在していることを象徴しています。

次に、純金の鎖です。15~21節をご覧ください。「また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作った。彼らは金縁の細工二個と金の環二個を作り、二個の環を胸当ての両端に付けた。胸当ての両端の二個の環には、二本の金のひもを付けた。その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付けた。さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付けた。また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付けた。胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

この鎖は胸当てをエポデに固定するためのものです。胸当ての四隅に金の環が付けられ、それを青いひもで結んだのです。なぜこんなことをしたのかというと、胸当てがエポデからずり落ちないためです。この胸当てには12の宝石が埋め込まれてありましたが、これはイスラエルの12部族、また、私たちクリスチャンのことを表していました。これが主の胸からずり落ちないためです。私たちはこの青いひもでしっかりと結ばれているので、決してずり落ちることはありません。ちなみに金の環は神の愛、青いひもは天の恵みを表しています。ですから、私たちが神の愛からずり落ちないのは、一方的な神の愛によるのです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに行いました(28:22-30)。

 

次に、22~26節をご覧ください。「また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけで作った。青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

これは、エポデの下に着る長服のことです。これは1枚の布でできた筒状の長福で、頭を入れる穴だけ開いていました。その裾にはざくろと純金の鈴がつけられました。それは、風が吹いても長服の裾がめくれないようにするためです。ざくろは、肥沃と豊かさ、そしていのちを象徴していました。それはキリストのいのちの豊かさを象徴していたのです。鈴は、大祭司が至聖所で聖なる務めを果たしていることを音によって外部の人に知らせるためのものです。それは金で出来ていました。それはキリストのとりなしを象徴していました。同じ鈴が香炉にも付けられていたからです。キリストは私たちの大祭司となって、私たちのために神にとりなしてくださいます。彼らはこれも主がモーセに命じられたとおりに作りました(28:31-35)。

 

次に、27~29節です。「彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繍を施して飾り帯を作った。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

また、彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服と、亜麻布のかぶり物、亜麻布のターバン、そして、撚り糸で織った亜麻布のももひきを作りました。この「ももひき」は、彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないためです(20:26)。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:39-40)。

 

さらに、30~31節をご覧ください。「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「【主】の聖なるもの」という文字を記した。これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

さらに、彼らは聖別の記章の礼を純金で作り、その上に印象を掘るように「主の聖なるもの」という文字を記し、それを青ひもで、かぶり物の上の方に結び付けました。これはアロンがイスラエルの代わりに咎を負い、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを表していました。これは私たちの罪咎を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストを表しています。エペソ1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」とありますが、そのことです。私たちは、大祭司であられるイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、聖い者とされているのです。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:36-38)。

 

Ⅱ.主が命じられたとおりに行ったイスラエルの子ら(32-42)

 

次に32~42節をご覧ください。「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、机と、そのすべての備品、臨在のパン、きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。」

 

こうして、彼らは会見の天幕のすべての奉仕を終えました。ここに何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言葉です。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして、今読んだ32節と42節です。彼らは自分たちで考え自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。  実は、出エジプト記はこの言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときいろいろな言い訳をしました。「私は、口べたで、預言をすることはできません。」とか、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。しかし、モーセとアロンがファラオのところに行ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しが続くのです。その中で十の災いがエジプトに下り、ファラオはイスラエルをエジプトから出て行かせることになります。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きるようになったのです。

 

このことは、私たちクリスチャンのあるべき姿でもあります。私が何々をした、というのではなく、主がこう言われたということが中心になるべきなのです。そうすることで、その人の生活を見るときに、確かに主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるようになるのです。

 

Ⅲ.モーセによる祝福(39:43)

 

それを見たモーセはどうしたでしょうか。43節をご覧ください。「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」

 

モーセがそのすべての仕事を見ると、彼らは、主が命じられたとおりに行っていたので、モーセは彼らを祝福しました。一度は金の子牛を造り、それを礼拝した民でしたが、ここではモーセから祝福を受けているのです。民が主の命じられたとおりに行ったのを見たとき、モーセは感動したのでしょう。このように、イスラエルの民が祝福を受けたのは、モーセから聞いた主の命令に彼らが忠実だったからです。

 

それは、私たちにも言えることです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:14-15)

イエスを愛することは、その戒めを守ることです。私たちも主の戒めを守るなら、主は私たちを祝福してくださいます。この新しい年も、主のみことばをしっかりと握り締め、主のみことばに歩みましょう。主のみことばに歩むお一人お一人に、主の祝福が豊かにありますようにお祈りします。