ヤコブの手紙1章19~25節「みことばを実行する人に」

きょうは、「みことばを実行する人に」というタイトルでお話します。22節には、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあります。聖書のことばを聞くとき、そこには二種類の人がいます。すなわち、みことばを聞くだけの人と、みことばを実行する人です。ただ聞くだけの人は、自分の生まれつきの顔を鏡で見るような人です。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。みことばもそれと同じで、みことばを聞いても、「ああいい話だった」とか、「為になった」で終わってしまうと、いつまでたってもみことばが身に着かず、従って、生活が変わることがありません。しかし、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあるように、聖書のみことばは私たちの内側にある本質を明るみにし、それを本当に変えることができるのです。ですから、ただみことばを聞くだけでなく、それを実行することが大切です。きょうは、みことばを実行することについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.みことばを聞く(19-20)

 

まず19節と20節をご覧ください。ここには、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。

 

ヤコブはここで、「あなたがたはそのことを知っています。」と言っています。「そのこと」とは何のことでしょうか。ヤコブは前の箇所で、「父はみこころのままに、真理のみことばをもって私たちをお生みになりました。」と言っています。ですから、それは真理のことばによって新しく生まれたことを知っているということです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちはそのことを知っていました。しかし、知っているだけではだめです。そのことを知っているならば、それを実際の生活の中に生かさなければ意味がありません。それが実際の行為となって具体的に現われることを求めなければならないのです。そのために必要なことは何でしょうか。

ヤコブは、そのためには、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、と言っています。どうして聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければならないのでしょうか。

 

当時ユダヤ教の教師は、学者の気質には四つの型があると考えていました。一つは、聞くには早く、忘れるに早い型です。この型は長所と短所が五分五分で、互いに打ち消し合うので結局何も残りません。もう一つの型は、聞くに遅く、忘れるのに遅い型です。この型は、短所が長所によってちょうど補うことができます。三つ目の型は、聞くに早く、忘れるのに遅い型です。この型の気質を持つ人は知者です。そして四つ目の型は、聞くに遅く、忘れるに早い型です。このタイプの人は、手に負えない型です。このことからもわかるように、知者とはどのような人かというと、聞くに早く、語るに遅い人です。

 

ラビ・シメオンは、こう言いました。「私は生まれてからこのかた知者たちに取り囲まれて育てられたが、人間にとって沈黙以上の良いものは見出されなかった。ことばを多くする者は誰でも罪を引き起こす者である。」

 

ですから、箴言には性急すぎることばへの警告に満ちているのです。

「ことば数が多い所には、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」(箴言10:19)

「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)

「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」(箴言17:28)

「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言29:20)

 

E・B・ホルトは、「本当によい人間は、自分自身の意見を傲慢にくどくどとかん高くわめき散らすよりは、神のことばに耳を傾けることに熱心な人である。」と言っています。

 

私たちは真理のことばをもって新しく生まれさせていただいた者です。であれば、その真理のみことばを聞くことが必要なのです。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。そのみことばをよく聞かなければなりません。みことばを聞かない人は、語ることにおいて、また、怒ることにおいても必ず失敗することになります。知性と感情が神のみことばによって支配されていなければ、すぐに思いついたことを口走ってみたり、感情を露わにして、神の御名と主にある兄弟姉妹を傷つけてしまうことになってしまうからです。

 

ヤコブはここで聞くには早く、語るにはおそくというだけでなく、怒るにはおそいようにしなさいと言っているのはそのためです。なぜここで怒るにはおそくあるべきだと忠告しているのかというと、人の怒りは、神の義を実現するものではないからです。怒りそのものは神が与えてくださったもので悪いものではありませんが、それが神のことばによってしっかりと統制(支配)されていないと、短気で自己中心的ないらだちの弁解でしかなくなり、逆に害を与えてしまうことにもなりかねません。ですから、神のことばをよく聞いて、語るのにおそく、怒るのにおそいようにしなければならないのです。

 

アテネの哲学者デモナクス(80頃ー180頃)は、人間はいかにして最善の支配ができるかと尋ねられた時、「怒ることなく、語ること少なく、聞くこと多く」と答えました。自分のことを語ることを少なくし、神のことばを聞くことを多くすることが、自分を最善に保つ秘訣であるというのです。ある人は人間には二つの耳と一つの口が与えられているのには意味があると言いました。それはしゃべることを抑えて、より多くのことを聞くためだ・・・と。私たちは、時にはストップウオッチを使って自分のおしゃべりの長さを計る必要があるのかもしれません。それよりももっと神のみことばを聞き、人の話に耳を傾けなければなりません。

 

Ⅱ.みことばを受け入れる(21)

 

第二のことは、みことばを受け入れることです。21節をご覧ください。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

私たちのたましいを救い、私たちを変える真理のことばをどんなに聞いても聞くだけでは意味がありません。その聞いたみことばを実行しなければならないからです。そのためには、心に植え付けられたみことばを、素直に受け入れなければなりません。

 

イエス様は、種まきのたとえの中でみことばを受け入れる四種類の人の心を話されました。まず、道ばたです。道ばたに落ちた種はどうなったかというと、鳥が来て食べてしまいました。このタイプの人はみことばを聞いても全く無関心なので、せっかくみことばを聞いてもすぐに奪われてしまいます。

次に、岩地です。岩地に蒔かれた種はどうなったでしょうか。岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。このタイプの人は、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるので芽を出しますが、しばらの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

次は、いばらです。いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、伸びることができませんでした。このタイプの人は、みことばを聞きますが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ぶことができません。

しかし、良い地に落ちた種は違います。良い地に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。このタイプの人は、みことばを聞いて悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのです。

 

つまり、どのように聞くかが重要であるということです。ですから、イエスさまは、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:9)と言われたのです。耳のある者は聞きなさいって、みんな耳を持っているんじゃないですか。それなのに、耳のある者は聞きなさいとはどういうことですか。それは、聞き方に注意しなさいということです。というのは、確かに聞いてはいても悟らず、見てはいてもわからず、触れてはいても感じない人がいるからです。その心は鈍く、その耳は遠く、その目はつぶっているということがあるからです。だから、どのように聞くかはとても重要なことなのです。

 

ここでヤコブは、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」と言っています。どのようにみことばを聞かなければならないのでしょうか。どのようにみことばを受け入れなければならないのでしょうか。まず、すべての汚れやあふれる悪を捨てには「脱ぎ捨てる」と訳されているように、古い汚れた衣服を脱ぎ捨てる様を表しています。つまり、ヤコブはここで汚れた服を脱ぐように、また蛇が脱皮するようにすべての汚れを脱ぎ捨てるようにと命じているのです。

 

ところで、この「汚れ」ということば(ギルパリア)ですが、これはギルポスということばが語源になっていて、これが医学的な意味で用いられる時には、耳垢を意味していました。つまりヤコブは、真理のことばに耳を傾けさせることの妨げになっている一切のものを取り去れ、といっているのです。耳の中に耳垢がたまると人の耳が聞こえなくなるように、人間の罪も神に対してその耳を閉ざすことになります。

 

また「悪」については、「あふれる悪」と言われています。それは伐採しなければならないほど無闇に茂ったやぶのことを指しています。そのように悪が心にあふれていると神のことばが届かなくなります。ですから、そのようなあふれた悪を伐採しなければなりません。そのようにして、神のことばが心に植え付けられるのです。

 

そのようにしてすべての汚れを脱ぎ捨て、あふれる悪を切り取ったならば、次にしなければならないことは、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れるということです。すなおに受け入れるとはどういうことでしょうか。「すなお」と訳されたことばは「プラウテス」ということばですが、これは憤慨しないでとか、怒ることをせずに、謙遜に、穏やかに聞く姿勢のことです。たとえば、私たちが主から「~こうしなさい」と示された時、どのように反応するでしょうか。「なるほど、やっぱり聖書は神のことばだな。知恵に満ちている。そのようにしてください」と反応するときもありますが、時には、「いや、そんなことをしたら、周囲との関係がうまくいかなくなるし、変に思われる」「そのようなことになったら自分の立場が不利になるし、都合悪い」「それはあまりにも犠牲が大き過ぎる。そんなに時間と労力がとられるのは困る」といった思いを持つことがあるのではないでしょうか。中には、「冗談じゃない。そんなことできるはずがないじゃないか・・」と怒りを覚えることもあるかもしれません。しかし、そのように怒ったり、憤慨するのではなく、示されてことに対して淡々と従うこと、それがこのことばが意味している姿勢です。

 

Ⅰペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。ですから、それは生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求めるように、純粋なみことばの乳を慕い求めることなのです。なぜなら、神のみことばは大いなる力をもって私たちを新しく生まれさせ、神のみこころにかなった者へと成長させることができるからです。

 

Ⅲ.みことばを実行する(22-25)

 

第三のことは、みことばを実行することです。22節から27節までをご覧ください。まず22節から24節までをお読みします。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」

 

神のみことばを聞き、それを心に受け入れることは大切なことです。しかし、もっと大切なことは、その聞いたみことばを実行することです。イエス様もこのように言われました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

 

ですから、これはヤコブの教えというよりもイエス様ご自身の教えでもあるのです。教会の礼拝で語られる聖書のことばを聞くだけでは十分ではありません。また聖書のことばを勤勉に学ぶだけでも十分ではありません。その聞いたことや学んだことを実際の生活の中で実行しなければ何の意味もないのです。そのような信仰についてヤコブは、具体的な例として2章で取り上げていますが、それは自分を欺くことになるのです。というのは、神様から「・・しなさい」と聞いても、いろいろな理屈をこねて、従わないで自分を正当化するからです。たとえば、「私は年をとっていますから、できなくてもしかたがないのです」とか、「私はまだ子どもだから、それは無理です」とか、「私は献身者ではないので、そこまでしなくてもいいでしょう」等々、言い訳をします。そのように、自分に思い込ませるわけです。それは自分を欺くことです。ですから、真理のみことばに対して、上手に理屈をこねて言い訳せずに、みことばを実行しなければなりません。

 

ヤコブはここで、みことばを聞いても実行しない人を、生まれつきの顔を鏡で見る人のようだと言っています。しばらく間自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのような顔であったのかを忘れてしまうので、身だしなみを整えることをしないのです。当時の鏡はガラスではなく、高度に磨き上げた金属でできていました。その人は自分の顔を見苦しくしている汚れや髪の毛がもつれているのを見ますが、鏡の前を立ち去ると、「あれっ、自分の顔がどんなふうだったかな」と忘れてしまい、身だしなみを整えるのを省いてしまうのです。せっかく鏡を見ても、身だしなみを整えるのでなければ全く意味がありません。

 

この場合の生まれつきの顔とは、自分の心のことを表わしています。また、鏡は聖書のみことばのことです。聖書は、私たちの心をありのままに照らす鏡なのです。真実のことばを聞くことによって、私たちは現在の自分とあるべき自分の姿を明確に知ることができます。しかし、どんなにそれを知ったとしても、それを直さなければ何の意味もありません。それと同じように、どんなにみことばによって心が照らされて、あるべき真の姿が示されても、それを実行しなければ全く意味がないのです。

 

現代の医学で言えば、それはCTスキャンとかレントゲンにたとえることができるかと思います。それによって病状がわかったら、手術をするなり、何らかの処置をしてもらわなければなりませんが、ただ病状を聞いて、「そうですか、ありがとうございました。」と言って、立ち去ってしまうとしたら、何の意味もありません。それを撮るのは自分の病状を映し出してもらうことで、どこに問題があるのかを知り、正しく処置をしてもらうためなのです。しかし、そのように映し出してもらうだけで、鏡を見るだけでイエス様のもとを立ち去る人が多いことでしょう。

 

私は高校時代、半年の間寿司屋でアルバイトをしたことがあります。お金を貯めてアメリカへ行こうとしたのですが、結局お金がたまらず行けませんでした。寿司屋でアルバイトといっても、初めは何をしたらよいか、全くわかりませんでした。それでその店のマスターがいろいろ教えてくれました。どんなに教えてもらっても、最初のうちは、それを頭の中で思い出してやっていたので、時々忘れることがありましたが、毎日やっているうちに、いつの間にか身についていきました。からだで覚えたのです。そして、もう忘れるということはありませんでした。

みことばも同じです。日々実行しているなら、身についていきます。聖書のどの箇所に書かれていたかは覚えていないかもしれませんが、からだで覚えているのです。そして、この場合、忘れることはありません。みことばを覚えているというのは、記憶だけの問題ではないのです。みことばを実行するなら、身についていきます。そして、その生活が変えられていくのです。それで、忘れることはありません。逆に、実行しなければ、決して身につくことがなく、生活も変わりません。それで、忘れていくのです。その結果、神様からの祝福も失ってしまうのです。ですから、聖書は、みことばを実行する人になりなさい、と言っているのです。

 

では、どうしたらみことばを実行することができるのでしょうか。25節をご覧ください。ここには、「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」とあります。

 

聞いたみことばを「よし、それじゃ実行するぞ!」と、自分の力や意志で行おうとしても、それは無理なことです。私たちのたましいは罪の力に縛られているので、自分の力ではどうすることもできないからです。しかしここには、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。」とあります。「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめる人は、事を、みことばを、実行する人になれるのです。では、完全な律法とか、自由の律法とは、何でしょうか。

 

神は、イスラエルを神の民として選び、一方的な恵みの契約を結び、イスラエルの民に救いの恵みに対する応答として律法を与えられました。その律法は、神を愛し、隣人を愛することを命じるものでしたが、イスラエルの民は、その神の律法を守ることができず、契約の民として失格したのでした。律法は完全なものですが、不完全な人間はどうしてもそれを行うことなどできなかったからです。律法というのは、ヤコブ2章10節にあるように、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となるからです。律法のすべてを完全に行うことができる者などだれもいないのです。よって、すべての人が罪びとであり、だれもこの律法を守り行うことができる者などいません。それなのに、その律法が自由を与えるものであるというのは、それが文字による規則や決まりではなく、エレミヤが言っているように、主が人の中に置き、その人の心に書き記されたものだからです。エレミヤ31章33節にはこう書かれてあります。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれをかきしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 

この新しい契約は、旧約の律法のように外側から守るように呼びかけられるようなものではなく、その人の心に書き記されるものです。それは神がひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、このお方の十字架と復活を通して罪の贖いを通して、この方を信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるというものでした。この方によって私たちは罪の支配から解放され、御霊の力によって神と人とを愛することができるようにされたのです。つまり、この「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、イエス・キリストとイエス・キリストの福音のことなのです。

 

それはイエス様のことばからもわかります。イエス様は、ヨハネの福音書8章31節でこう言われました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

何があなたを自由にするのでしょうか。真理です。真理はあなたがたを自由にします。その真理こそイエス・キリストご自身なのです。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。

 

ですから、イエス様が私たちを自由にしてくださいます。私たちは自分のちからで罪に打ち勝とうとしてもできません。みことばを実行しようとしても、私たちにある罪の力や肉の力が強力で、実行できないのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様はそんな弱い私たちを助け、自由にしてくださるのです。

 

ですから、私たちに必要なのは、このイエス様と一つになることです。歯を食いしばって、自分で何とかやってやろう、と言うことではなく、イエス様に信頼することなのです。このイエスに信頼して、その交わりの中にとどまることなのです。

 

イエス様はそのことを、ぶどうの木のたとえを通して教えられました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

(ヨハネ15:5)

 

皆さんは多くの実を結びたいですか。そうであるなら、イエス様にとどまってください。枝が木についていなければ、枝だけで実を結ぶことはできません。だけど、木についている枝は実を結びます。つまり、イエス様にとどまっていることが、多くの実を結ぶ秘訣なのです。キリストが私たちに、みことばを実行したいという願いを持たせて、それを実行させてくださると信じて歩むなら、キリストが実行させてくださり、私たちは多くの実を結ぶことができるのです。

 

ですから、みことばを実行する秘訣は、いつもイエス様と一体であることを覚えて、イエス様を信頼して歩むことです。それが自由の律法を一心に見つめて離さないということです。そういう人は、みことばを実行する人になります。そして、その行いによって祝福されるのです。

 

あなたはどうですか。みことばを聞いていますか。みことばを聞いて、それを心に留めておられますか。また、みことばを実行しているでしょうか。そのためにもどうぞイエス様から目を離さないでください。イエス様を信じて、このイエスのうちにしっかりと留まってください。そうすれば、あなたもみことばを実行する人になり、その行いによって祝福される人になるのです。