ヨハネの福音書11章17~27節 「わたしはよみがえりです いのちです」

きょうは、「わたしはよみがえりです いのちです」というタイトルでお話します。ヨハネの福音書には「わたしは・・である」という宣言が7回出てきますが、これはその中の5番目のものです。また、ヨハネの福音書にはイエスが神から遣わされたメシアであることを示すしるしがやはり7回出てきますが、このラザロを生き返らせるという奇跡は、その7番目のものであり、最大のものです。というのは、それはただラザロを生き返らせるというだけでなく、このことを通して主はご自身がよみがえりであり、いのちであることを示してくださったからです。ラザロは生き返りましたが、また死にました。しかし、キリストは再び死ぬことのないからだ、霊のからだによみがえられました。それはこの方を信じる者がみな、イエスのように死んでも霊のからだによみがえり、永遠のいのちが与えられるという聖書の約束が真実であることを示すためだったのです。よみがえりであり、いのちであるイエス・キリストを信じる者は、死んでも生きます。また、生きていてこの方を信じる人は、永遠に決して死ぬことはありません。私たちにはこのことを信じなければなりません。

 

私たちの人生には、ある日突然、予想だにしなかったことが起こります。先週の台風19号はそうでしょう。まさかあんなに大きな災害をもたらすなんて思いませんでした。それは災害だけでなく病気もそうですし、事件、事故などもそうです。中にはそうしたことで死ぬことさえあります。そんなことが起こるとき、私たちは「どうしてこんなことが起こるの?」と思ってしまいます。しかし、それがどんなことであっても、私たちはそれを乗り越えることができます。なぜなら、イエスはよみがえりであり、いのちであり、そのイエスが私たちともにいてそうした問題を乗り越える力を与えてくださるからです。

 

きょうは、このイエス様の御言葉から三つのことをお話しします。第一のことは、私たちの信じているイエスがどのような方であるのかを正しく理解しましょう、ということです。第二のことは、イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きる、ということです。そして第三のことは、あなたは、このことを信じますか、ということです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.もしここにいてくださったなら(17-22)

 

まず、17~22節をご覧ください

「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

 

イエスは、ラザロが病んでいるということを聞いてからも、そのときいた場所になお二日とどまられました(6)。「そのときいた場所」とは、ヨルダン川の川向うのことです。そこはかつてバプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた所です。イエスは彼を殺そうとしていたユダヤ人たちの手から逃れるために、そこに退いておられたのです。それからラザロがいたベタニアにやって来ましたが、それはラザロが死んで墓に葬られてすでに四日もたっていた時でした。ベタニアはエルサレムに近く、3キロメートルほど離れた所にありました。大勢の人々がマルタとマリアを慰めるために来ていました。マルタはイエスが来られたと聞いてすぐに迎えに行きましたが、マリアは家で座っていました。兄弟ラザロが死んだことがあまりも悲しくて、そこから動けなかったのかもしれません。

 

マルタは、イエス様に会うなりこう言いました。21節です。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どういうことでしょうか。32節を見ると、実はマリアも同じように言っていたことがわかります。ここに、彼女たちが、どれほどイエスが来られるのを待っていたのかがわかります。あるいは、待ってはいてもなかなか来てくれないイエス様のことを残念に思っていたのでしょう。これまで一生懸命に尽くしてきたのだから、何を差し置いてもすぐに飛んで来てくれると思ったのにそうではない。イエス様がエルサレムに上られた時は、彼らの家に宿泊することが多かったようですが、その時にはいつも決まった時間に来てくれたではないですかるそれなのにこんな大事な時に来てくださらないとはどういうことか、彼女の中に不満というか、失望があったかもしれません。彼女たちは、ラザロが死ぬと頼るべき対象を失い絶望していたのです。ラザロの死は、彼女たちに大きな悲しみと虚しさを与え、生きる意欲と希望を奪って行きました。このように死は、死んだ人ではなく生きている人を支配するのです。

 

そんな中でもマルタは、かすかな期待を持っていました。そして、こう言いました。22節です。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」どういうことでしょうか。この言葉には、イエスに対する不十分な理解というものが見られます。彼女は、それまでイエスが行われた数々の奇跡というものを忘れていました。それはイエスが力ある神だからというよりも、イエスのとりなしの祈りに効果があるのであって、イエスが神に求めることは何でも神は聞いてくださると考えていたからです。マルタはイエスを全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたのです。21節で彼女が「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と言ったのも、同様の理由からです。イエスがここにいてくだされば何とかなったかもしれませんが、いてくれなかったので兄弟ラザロは死んでしまったのだ、と言っています。でも、イエスはそこにいなければ何もできないのでしょうか?そうではありません。あのカペナウムの王室の役人の息子が癒された時もそうでした。彼がイエスの所に来て、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」(4:49)と懇願したとき、イエスは、「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(4:50)と言っただけで癒すことができました。イエスがその場に行かなくても、ただ言葉を発しただけで癒すことができたのです。イエスは全能の神です。そこにいなくても御言葉を発するだけで癒すことができる方なのです。彼女はそのことを忘れていました。

 

しかし、それはマルタだけではありません。私たちもイエスは死人をも生き返らせることができる全能者であるということを頭ではわかっていても、いざその現実に直面すると信仰がどこかに吹っ飛んで行くというか、すぐに慌てふためくのではないでしょうか。

 

今、さくらの祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、エジプトを出たイスラエルが荒野に導かれた時、行き場を失う場面が出てきます。目の前には紅海が広がっています。後ろからはエジプト軍が追いかけて来る。絶対絶命です。その時、イスラエルの民はモーセに向かってつぶやきました。「エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」(出エジプト記14:11)そんなことをしたらエジプト軍が追いかけて来て自分たちを捕らえてしまうでしょう。もっとひどいことになる。モーセよ、あなたは、エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのかと言って、叫んだのです。これは信仰の叫びではなく不信仰の叫びです。皆さん、叫びには二種類の叫びがあります。それは信仰の叫びと不信仰の叫びです。彼らの叫びは不信仰の叫びでした。確かに彼らはエジプトになされた主のみわざを見て主を信じましたが、こうした困難に直面すると、その信仰はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもイエス様を信じています。しかし、こうした困難に直面すると、マルタのように、またイスラエルの民のように、不信仰になってすぐに不平不満を漏らしてしまうのです。いったい何が問題なのでしょうか。それは、キリストに対する理解が欠如していることです。私たちの信じている主イエスがどのような方であるのかを正しく理解していないのです。確かに、マルタとマリアは紛れもなくイエスを信じていました。そういう意味では真のクリスチャンです。しかし、その信仰には欠けがありました。確かにイエスを見てはいましたが、そこには不信仰が入り混じっていました。それはちょうどすりガラスを通して観るようにぼんやりとしたものでした。知ってはいましたが部分的でした。信じていましたがキリストの力を自分の頭で制限していたのです。あなたはどうでしょうか。どのようにキリストを理解しているでしょうか。あなたの理解は、どれほど深く、広いものになっているでしょうか。また、その理解は日々深まっているでしょうか。私たちは聖書の御言葉を通して、キリストを正しく理解しなければなりません。

 

那須でバプテスマを受けられた小島兄夫妻と継続的に学びの時を持っていますが、先日のテーマは「三位一体」でした。私たちが信じている聖書の神は、三位一体の神です。三位一体とは何ですか。三位一体とは、神は実態において唯一の神であり、父と子と聖霊という三つの位格によって存在するということです。位格とは人格と置き換えることができます。つまり、神はただ一人、唯一ですが、三人いるということです。単純に考えると理解できません。複雑に考えても理解できません。だって一人だけれど3人なんですから。目がくるくる回りそうです。聖書には三位一体という言葉は出てきませんが、そういう神概念を啓示しています。すなわち、父なる神は神としての性質を持っているということ、子なる神も神としての性質を持っているということ、そして、聖霊なる神も神としての性質を持っているということです。だから、三位一体を頭で理解することはできないのですが、啓示された神の言葉を受け入れるなら、これを信じなければならないのです。これは理解できるかできないかということではなく、信じるかどうかの問題です。

 

ところで、エホバの証人の方は、キリストは神の子であっても神ではないと主張します。神に近い人間だけれども神ではないと。皆さん、どう思いますか。そうだね、なんて言わないでください。聖書そのものをみると、イエス・キリストが神であるということは至るところに出てくるのですから。たとえば、ヨハネ1:1~3には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。もうこれだけでもキリストが神であるのは明らかです。ここには、キリストは「ことば」として表されていますが、それは神を啓示された方という意味です。そのことばは「初め」から存在していました。この「初め」とは永遠の初めのことです。何も存在していなかった永遠の昔からキリストは存在していたのです。それは、ヨハネ8:58で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」とあることからもわかります。イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられました。アブラハムが生まれたのはいつですか。B.C.2000年です。イエスはそれよりも先におられたというのは、イエスは霊において永遠の昔から存在しておられたということです。それが時至って今から2,000年前に人間の姿を取ってこの地上に来てくださいました。キリスト永遠なるお方なのです。これだけでもキリストは神であるということがはっきりしています。でも、そればかりではありません。ここには、「ことば神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここにはっきりと、「ことばは神であった」とあります。キリストは神ご自身であられるのです。それは、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」と言う言葉からもわかります。この方は、創造主なる神なのです。

 

これだけ見ても、キリストが全能の神であられるということがわかります。しかし、そればかりでないのです。たとえば、私たちはこれまでずっとヨハネの福音書を学んできましたが、その中でこの方が成されたわざを見れば、どれほど偉大な方であるかがわかります。キリストは王室の役人の息子の病気を癒したり、ベテスダの池の周りで38年間も伏せていた人を癒されました。そして、生まれつき盲人の目を開けて見えるようにしました。これだけでもすごいのに、それだけではありません。何とガリラヤ湖を舟で渡っていた弟子たちが嵐のため漕ぎあぐねているのを見ると、水の上を歩いて近づかれました。近づいて「どうした」と言われるのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、おもしろいですね。そして、そんな嵐に向かって、「嵐よ、静まれ」と言われると、波はなぎになりました。自然界をも支配されたのです。先の台風19号が襲来したとき、だれがその自然の猛威を静めることができたでしょうか。だれもいませんでした。台風が来るのでいのちを守ってくださいと言うことはできても、その嵐に向かって「静まれ」ということができる人など一人もいませんでした。しかし、キリストはその自然界さえも治めることができました。

そしてここでは死んだラザロを生き返らせます。だれがそんなことができるでしょうか。だれもできません。しかし、キリストはおできになるのです。なぜなら、キリストは神だからです。キリストは神であられ、どんなことでもおできになる全能者なのです。あなたはそのことを本当に信じていますか。

 

20世紀の偉大な聖書学者、J・B・フィリップスの著書に、「あなたの神は小さすぎる」という本があります。あなたは、自分の小さな箱の中に、偉大な神様を、閉じ込めている、というのです。あなたはどうでしょうか。この偉大な神であられるイエス・キリストを、限界のある、人間の脳みその中に、押し込んでいる、ということはないでしょうか。私たちの主イエス・キリストは全能の神であることを信じ、いざというときに、その信仰を働かさなければなりません。

 

Ⅱ.わたしはよみがえりです。いのちです(23-26a)

 

第二のことは、イエスはよみがえりであり、いのちであるということです。23節から26節前半までご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

そこでイエスは、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタのあいまいなキリスト観というものを正そうと導こうとして発せられた最初の御言葉です。いつ、どのように生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロが生き返ると言われたのです。

 

それに対してマルタは何と言いました。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される時のことです。その日にクリスチャンがよみがえるというのは聖書の約束であり、それを信じる信仰は確かにすばらしいものです。しかし、その信仰が今の彼女が当面している問題に対して何の解決も与えてくれないとしたら、それは生きた信仰とは言えません。彼女はイエスを信じていながらも現実的には悲しみ、絶望していました。今の彼女にとっては何の力にもならなかったのです。しかし、主が望んでおられたことは、その信仰が現実の生活の中に生かされることでした。死からよみがえるという復活の信仰に生きることだったのです。信仰と現実が一致することです。信仰は心の平安のために、でも実際の生活は自分の力でというのではありません。信仰が実際の生活の中で生かされることなのです。ですから、イエスは彼女に対して力強い約束と宣言のことばを語られました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

イエスはこれまで何回も「わたしは・・です」と宣言されました。たとえば、「わたしはいのちのパンです」と言われました。6:35です。また、8:12では「わたしは世の光です」とも言われました。そして、10:7では「わたしは羊たちの門です」と言われました。また、そのすぐ後の10:11では「わたしは良い牧者です」とも言われました。イエスはこれまで4回も「わたしは・・です」語られましたが、これらはみな比喩として語られました。ところが、今回は単なる比喩としてではなく、そのものズバ語られたのです。つまり、イエスはよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリであられるということです。よみがえりであり、いのちであられるのです。

 

そして、これが現在形で書かれていることからもわかるように、よみがえりであり、いのちであられるキリストは、私たちが今、現在抱えている様々な問題のただ中にそのような方として存在しておられるのです。信仰とは過去や未来ではなく現在です。私たちは現在においてイエスを信じなければなりません。過去において信じていましたとか、いつか信じるでしょうというのではなく、今、信じなければならないのです。それは線のようにずっと継続していくものなのです。ですから、この終わりの日だけでなく、今イエスを自分のよみがえり、いのちと信じるなら、イエスは当面している今の問題を、その復活の力によって解決してくださるのです。よみがえりであり、いのちであられる主は、死んだ人にいのちを与えてことができます。しかし、それは死んでからのことだけでなく、生きている今、この瞬間にも、もたらされるのです。イエスはヨハネ5:24でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

イエスの言葉を聞いてイエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。将来において移るでしょう、たぶん移るはずです、きっと移りますと言うのではなく、今、この瞬間に移っているのです。イエスを信じたら、その瞬間に天国です。天国とは神の支配です。神が共におられるところです。そういう意味では、信仰は本当に神秘的です。私たちがイエスをいのちの主として信じ受け入れる時、その瞬間にそこに驚くべきことが起こるからです。死からいのちに移ります。私たちはこれまで死の勢力が支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。その時、それ以上死が支配することができないのです。代わりにいのちが私たちを支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。使徒パウロは復活されたイエスに出会い、人生が全く変えられました。彼は次のように言いました。

「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:55-58)

 

すごいでしょ。以前、NHKで死の医学というものを提唱した精神科医の西川喜作さんのドキュメント番組を放映しました。これは作家の柳田邦夫さんも「死の医学」という本に書いています。

西川さんは精神科医として、まさに働き盛りの頃、その仕事に生き甲斐をもって全力を打ち込んでいました。ところがある日、血尿が出たため検査を受けたところガンの兆候であることがわかりました。それからというもの、検査、検査の毎日が続き、からだはその検査のためにクタクタになり、自分の生き甲斐である仕事も思うようにできなくなっていきました。やがて、彼は自分がガンであることを悟ります。担当医は、症状が少しでも進まないように、仕事から離れて静養することを勧めるのですが、彼にとっては仕事が何よりの生き甲斐でしたから、ドクター・ストップを振り切って、これまでどおりに手がけてきた仕事に全力を傾けていきました。

そうした中で、彼は医者として、現代の医療のあり方に対して非常に強い疑問を抱くようになるのです。確かに科学が進歩し、医療技術も進歩して、1日も長く寿命を延ばすことができるようになったけれども、ただそれだけのことではないか。自分が今抱えている死に対する不安や焦り、恐れ、そうした心の苦痛に対して、現代の医療は何も解決を与えてくれない、ということを痛感したのです。そして、「死の医学」を提唱し始めたのです。

症状が着実に進んでいきました。ガンは全身に転移し、力尽きてベッドに寝たままとなってしまいました。弱々しい姿に変わり果てながらも、訪問してくれる同僚や先輩の医者たちに対して、死についての真剣な対話を求めます。「死の向こうに何かあると思いますか。あなたは来世を信じていますか。」・・など。しかし、同僚や先輩たちは何も答えてくれませんでした。誰も真の意味で慰めてはくれない。死の恐れから彼を慰めるものは何もなかった、誰もいなかったのです。

私はそのドキュメントを見ながらとても痛々しかったのを覚えています。絶望感、虚無感、なぜ、どうしてという虚無感に襲われながらも何一つつかまるところのないその姿はとてもかわいそうでした。

私たちもいずれ例外なく、自分の死に直面します。これだけはみな平等です。その確立は100%です。しかし、この死の恐れ、死の不安に対して、本当の慰め、本当の勝利を持っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。人生の終わりに自分がどこへいくのかわからない、そんな人生はとても悲惨です。その人が人生で成してきたことが、死に対してなんの力にもならないのです。私たちがどこへいくのかはっきりと知ってこそ、どうなるのかを知ってこそ、はじめて死の恐れから解放されて生きることができるのです。

 

イエスはこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがなく、永遠の命を持つということ、つまり、キリストが今この復活の力を持って、この方を信じるすべての人の問題をも解決することができるということを信じて、ここに慰めと希望を持ちたいと思うのです。

 

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26b-29)

 

ですから、第三のことは、このことを信じましょう、ということです。26節後半から29節までをご覧ください。

「あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。」

 

イエスは、ご自分がいのちであり、真理であられるということ、そして、このことを信じる者は死んでも生きるというだけでなく、生きていてこのことを信じる者は、決して死ぬことはない、と言われると、マルタに向かって「あなたにとって少し慰めになりましたか」とか、「ちょっと楽になりましたか」などとは言いませんでした。、「あなたは、このことを信じますか」と言われました。「このこと」とは何ですか。それは、死んでも生きるというだけでなく、生きていて信じる者は、決して死ぬことがないということ、つまり、その復活のいのちをもって、今、当面している問題をも解決することができるということです。このことを信じますか、と問われたのです。

 

すると彼女は、このようにイエスに言いました。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」どういうことですか。これは彼女がイエスの意図しておられるような意味で信仰を持ってはいなかったということを表しています。というのは、確かに彼女はイエスが世に来られる救い主であると信じていましたが、それ以上のお方としては信じていなかったからです。それ以上の方とは、この方が、今、現在、当面している問題をも解決することができる方であるという信仰です。この場合で言うなら、ラザロが生き返るということです。マルタのこの信仰告白は間違いではありませんでしたが、それは、漠然とした一般的な告白にすぎなかったのです。

 

クリソストムという神学者は、ヨハネの福音書の註解の中で次のように述べています。「マルタはキリストの語られた内容を理解していないように思われる。その重大性には気付いていたが、意味を十分に把握していなかった。そのため、的外れの返答をしたのである。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

また、トレトスという神学者はこう述べています。「マルタはキリストが、約束された真のメシアであると信じ、キリストが語られた一切の事柄を信じていると考えた。確かに彼女は信じてはいたが、その信仰は完全ではなく、漠然としていた。あたかも、よく把握していない信仰の教義について訪ねられた際、よく考えもせず、「私は公同の教会を信じます」と答える人に似ている。ここでのマルタも同様であり、「主よ、私は、あなたが真のキリストであること、また語られた事柄すべてが真実であることを信じますと述べてはいるが、その内容を十分に悟っていなかった。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

つまり、彼女は確かにイエスを神の子キリストであると信じていましたが、また、そういう意味では神の子とされ、永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世でのさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力がある方としては理解していなかったのです。いわばそれは私たちの信仰と同じであったということです。私たちもイエスを信じれば天国に行くことができると素朴に信じています。しかし、それがこの世の現実の生活においてはどうなのかと言われると、どこか首をかしげることがあるのではないでしょうか。なかなかそこまで信じることができません。

 

マルコの福音書に、口をきけなくする霊につかれた息子が連れて来られた時、イエスがその息子を癒される出来事が記録されています。人々がその子をイエスのもとに連れて来ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。イエスはその子の父親に、「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」と尋ねると、父親は、こう答えました。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでください。」(マルコ9:21-22)するとイエスは何と言われたでしょうか。イエスは、こう言われました。「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(9:23)

 

皆さん、私たちもこの父親のように言うのではないでしょうか。「もしおできになるなら・・・」。確かにイエスは全能者であると信じていますが、まさか目の前にある問題は解決できないでしょう。だから、「もし、おできになるなら」と言ってしまうのです。そこに「もし」が付くのです。もしできるなら、お願いします。しかし、信仰には「もし」はないのです。信じる者にはどんなことでもできるのです。その父親は自分の不信仰を悔改めてこう言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

私たちも、目の前の問題が大きければ大きいほどイエス様に限界を設け、「もしできるなら」と言ってしいますが、信じる者にはどんなことでもできるのです。問題はイエス様に限界があるのではなく、私たちの側に限界があるのです。イエスはよみがえりです。いのちです。イエスを信じる者は死んでも生きます。また、生きていて、イエスを信じる者は、決して死ぬことはありません。私たちはこのイエス様の言葉を信じなければなりません。もし私たちの中にあの父親のような不信仰が少しでもあるなら、今悔い改めましょう。そして、彼が「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言ったように、聖霊によってイエスを主として、全能の主として信じることができるように祈ろうではありませんか。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

そして、この主の問いかけに対して、私たちも「はい、信じます」と告白することができますように。私たちは信じないで滅びる者ではなく、信じていのちを得る者とさせていただきましょう。

 

出エジプト記16章

きょうは、出エジプト記16章から学びたいと思います。エジプトを出たイスラエルの民は、紅海を渡りシュルの荒野に導かれました。しかし、三日間荒野を歩いても、飲み水が見つかりませんでした。マラに来たときやっとの思いで飲み水を見つけたと思いきや、その水は苦くて飲むことができませんでした。それで彼らはモーセに向かって不平を言いました。三日前には主を賛美した彼らが、今度は不平を言ったのです。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示されたので、それを水の中に投げ入れました。するとその水は甘くなりました。その後、彼らはようやくエリムに到着しました。そこには12の水の泉と70本のなつめ椰子の木がありました。まさに砂漠の中のオアシスです。人生にはマラのような体験もあれば、エリムのような体験もあります。マラを通ってエリムに到着することができます。それは信仰の訓練でした。主は、苦い水を甘い水に変えられたようにいやしを与えてくださる方ですが、それは主が命じられたことに聞き従い、その命令を守り行い、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守ることによってもたらされる恵みです。棚ぼた式に与えられるのではなく、積極的に主のみことばに取り組む中での祝福なのです。今回はこのこと、つまり、神のみことばによって生きることについて学びます。  Ⅰ.主の試み(1-12)

 

まず1~12節をご覧ください。1節には、「イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。」とあります。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の15日ですから、ちょうど一か月が経過したことになります。彼らがエジプトを出た時に持って来た種なしパンも、そろそろ尽きてきた頃です。彼らはエリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。  そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言いました(2)。 なぜでしょうか。3節には、彼らの不平の原因が次ようにあります。「イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

彼らは、現状への不満を口にしました。食べ物がないということです。それにしても「飢え死にさせようとしている」というのはひどいです。彼らにはエジプトから連れて来た大量の家畜がいたはずです。パンはなくなったかもしれませんが、その肉を食べようと思えば食べられたはずなのです。また、エジプトで肉のなべを食べ、パンを満ち足りるまで食べていたとき、私たちは主の手にかかって死んでいた方がよかったのに・・・」と言っていますが、それは事実ではありません。彼らがエジプトにいたときは奴隷生活があまりにも酷かったので、日々叫び、うめいていました。彼らは、過去をあまりにも美化しすぎています。私たちも試練がおとずれると、このように過去を美化する傾向があります。あの時は良かった・・・と。しかしそれはただ、古い生活がいかにひどかったかということを忘れているだけのことです。それに、「私は主の手にかかって死んでいたらよかったのに」と言っていますが、これはあまりにもひどいいい方です。エジプトに下った10の災いがどれほど激しいものであったかを思えばそこから救い出されたことを感謝すべきなのに、厳しい現状の前に、彼らはここまで否定的になっていました。

 

信仰とは、今に感謝し将来に希望を持つことです。彼らは、エジプトに下った10のわざわいから守られました。なぜそれに感謝しないのでしょうか。彼らは、紅海を渡ることかできました。甘くなった水も飲むこともできました。さらに、エリムに導かれました。なぜこれらのことに感謝しないのでしょうか。もし主が彼らを殺すつもりなら、とっくの昔に滅びていたはずです。それなのに滅びないでいたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもないことを肝に銘じるべきでした。

けれども、それはこの時のイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもイスラエルと同じように、主がこれほど良くしてくださったのにそのことを忘れ、現状の不満を口にすることが多いからです。詩篇103篇には、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(103:2) とありますが、主が良くしてくださったことに感謝して、信仰をもって歩ませていただきましょう。

 

次に、4~12節をご覧ください。イスラエルの民のつぶやきに対して、主からの答えがありました。4,5節です。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」」

ここに「見よ」とあります。何か驚くべき主のみわざが起ころうとしているのです。それは、パンが天から降ってくるということでした。この約束には命令が伴っていて、それは、毎日、その日の分を集めなければならない、ということでした。しかし、六日目には、日ごとに集める分の二倍を集めることができるということでした。なぜ六日目には二倍の量を集めるのでしょうかそれは後で出てきますが、安息日には集めないようにするためです。いったいなぜ主はこのような命令を与えたのでしょうか。4節にその理由が記されてあります。

「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」

イスラエルが祝福されること、物質的な必要が満たされることは、実は二義的なことだったのです。主が彼らに求めていたのは、彼らが主に信頼して歩むかどうかということです。彼らが神のみことばにとどまり、それによって、彼らが神の中に生きる、神の民になることが、この奇跡の目的だったのです。  人間の願望は、一時的に大量のものを集め蓄えを増やすということでしょう。蓄えが増えると安心感が与えられますが、同時に神から離れた生活、自立した生活につながる恐れがあります。主イエスは、金持ちが天国に入ることがいかに困難なことであるかを語られました(マタイ19:23~24)。金持ちは誤った安心感を抱くようになるので、神に信頼することが難しくなるのです。私たちはどうでしょうか。そのような思いがないかどうかを、聖霊によって点検していただきましょう。自分でそう思っていなくても、いつしか熱くもなく、冷たくもない、生ぬるい信仰に陥っていることがあります。生活の安定を求めることは決して悪いことではありませんが、そのことで主に信頼することが失われていることがないように注意したいものです。

 

6~12節をご覧ください。

「それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」

イスラエルの民は、モーセとアロンが自分たちをエジプトから導き出したと言って、モーセとアロ

ンに対してつぶやきましたが、彼らをエジプトから導き出されたのはモーセとアロンではなく主ご自身でした。そのことを証明するために、主は夕方には彼らに肉を与え、朝には主の栄光を見るようになると言いました。それは主が彼らの不平を聞かれたからです。具体的には、夕方には肉を食べ、朝には満ち足りるほどのパンを食べるようになるということです。そして、このことをモーセがアロンに告げ、アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、主の栄光が雲の中に現れました。その雲の中から、主はモーセにこう告げられました。

「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(12)

主は、イスラエル人のつぶやきをお聞きになられました。そのつぶやきに対する主の答えは、彼にが夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるということでした。その目的は何ですか。それは、彼らが、主こそ彼らの神、主であることを知るようになるためです。これは、主が契約の神、恵み深い神、必要なものはすべて与えてくださる神であるということを知るようになるという意味です。

私たちの神は、私たちの必要をすべて知っておられます。この方にきょうも信頼を置いて歩もうではありませんか。

「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)

 

Ⅱ.イスラエル失敗(13-30)

 

次に、13~21節をご覧ください。

「すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。」  すると、その日の夕方に、うずらが飛んで来て宿営をおおいました。また、朝になると、宿営の周り一面に露が下りました。その露が消えると、一面には薄く細かいもの、地に落ちた霜のような細かいものがありました。「これは何だろう」と言い合っていると、モーセが彼らに言いました。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンだ。」と。それを自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメルずつ、集めなければなりませんでした。1オメルとは約2.3リットルです。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取るのです。そこで、イスラエルの子らがそのとおりにすると、ある者はたくさん集め、ある者は少しだけ集めましたが、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。

 

これはとても大切なことです。つまり、神は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えているのです。そして、必要以上のものが与えられたら、それを必要が満たされていない人に分け与えなければなりません。パウロが、この箇所を引用して、献金のことを話しました。Ⅱコリント8:13~15です。

「私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。」

 

また、この天からのパンは、朝まで残しておいてはいけませんでした。それは、主が日々の糧を供給してくださることを学ばせるためです。ところが、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておきました。恐らく、それを蓄えておこうとしたのでしょう。自分の欲から出た思いですね。要するに、不信仰だったのです。彼らは、翌日もマナが供給されることを信じていなかったのです。しかし、残ったマナには虫がわき、臭くなりました。これはマナが腐りやすいということではありません。これは、彼らの不信仰に対する神のさばきです。モーセは、民が神の命令に従わなかったのを見て、怒りました。それで民は朝毎に、各自が食べる分を集め、日が高くなると、それは溶けました。このマナは、主イエスを象徴しています。主イエスは、ご自身のことを「天から下って来たパンです。」と言われました(ヨハネ6:58)。それは日ごとに集めなければならないのです。つまり、日々主イエスと交わりを持たなければならないということです。日々主イエスと交わり、いのちのパンをいただいている人は何と幸いでしょうか。

 

22~30節をご覧ください。 「六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者た

ちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。

『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残っ

たものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで

取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今

日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。

六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」七日目になっ

て、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。主はモーセに言

われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主が

あなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えてい

る。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」

それで民は七日目に休んだ。」

 

六日目には二倍のパンを集めるようにというのが、主の命令でした(5)。ここにその理由が記

されてあります。それは、七日目が主の聖なる安息日だからです。ですから、六日目のマナは

保存しておくことができました。彼らがそれを朝まで取っておいても、それは臭くもならず、そこに

はうじ虫もわきませんでした。ですから、七日目にはマナは降りません。集めに行っても無駄です。その日は主を礼拝するために仕事をしなくても良いように、主がちゃんと備えてくださるからです。それなのに、民の中のある者たちは、この七日目も集めに出て行きました。その人たちは食べ物が足りなくて出て行ったのではありません。モーセが語った言葉が本当かどうかを確かめるために出て行ったのです。結局、何も見つけることができませんでした。それをご覧になられた主は、彼らが戒めを守らないことを叱責し7日目に休むようにと命じられました。

このように、主は安息日を非常に尊ばれました。イスラエルの民が自分の働きをやめることと、主を礼拝することをとても大切にされたのです。それで、彼らが休んだときに得られない分のパンの必要も満たしてくださったのです。  ここから私たちは、自分の日々の働きをやめ主に礼拝をささげるとき、主は必ず必要を満たしてくださることを知ることができます。勉学にしろ、仕事にしろ、私たちは礼拝を守る日にもそれを続けたくなる誘惑がありますが、主の日を守るなら、私たちの日々の必要は奇蹟的に満たされるようになるのです。また、彼らは前日に2日分パンを集めなければなりませんでしたが、同じように、私たちも礼拝を守るために、前もって準備する必要があります。考えられる用事を前もって行ない、主の日の礼拝のために備えなければならないのです。  Ⅲ.マナ(31-36)

 

最後に、31~36節までをご覧ください。 「イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜

を入れた薄焼きパンのようであった。モーセは言った。「主が命じられたことはこうだ。『それを一オメル分、あなたがたの子孫のために保存しなさい。わたしがあなたがたをエジプトの地から導き出したときに、荒野であなたがたに食べさせたパンを、彼らが見ることができるようにするためである。』」モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。一オメルは一エパの十分の一である。」

イスラエルの家は、それを「マナ」と名付けました。「マナ」という名称は、「これは何だろう」という意味の「マン・フー」から来ています。特徴は、コエンドロの種のようで、白く、その味は密を入れた薄焼きパンのようであるということです。コエンドロというのは、その実を香辛料や薬用に用いるそうです。その種は白色です。

 

主はそのマナを一オメル分を壺に入れ、それを主の箱の前に置いて保存するようにと命じられました。今度は、二日分腐らずに保存できるようにしてくださるどころか、イスラエルが約束の地に住んでからも腐らずに残るようにされたのです。それは何のためでしょうか。それは、イスラエルの子孫がそれを見ることができるようにするためです。それは彼らが荒野を旅する40年間続きます。イスラエルの民が約束の地に入った時点で、マナの供給は止みます(ヨシュア5:10~12)。彼らは、そこでの産物を食べるようになるからです。

 

それにしても、イスラエルをエジプトから導き出された神は、最後まで彼らをお守りになりました。私たちが信じている神は、ご自身の約束に忠実な方であり、私たちがこの人生の旅路を送るに当たり足りないものは何一つないように備えてくださる方なのです。確かにイスラエルの民は毎日、同じマナを食べて飽きることもあったかもしれません。また、荒野の旅には苦しみがあり、飢えと渇きもありました。しかし、過去を振り返ってみると、何一つ乏しいことはなく、すべての必要が見事に満たされたことを見ることができます。神は必要を備えてくださる真実な方なのです。

ヨハネの福音書11章1~16節「神の栄光のために」

きょうは、「神の栄光のために」というタイトルでお話しします。皆さんはいったい何のために生きておられるでしょうか。これがわからないと、私たちの人生は無味乾燥なものになり、生きてはいても死んだようなものになってしまいます。逆に、このことがわかるとたとえ苦難があってもそれを乗り越えることができ、むしろそのことを通しても神の栄光が現されるようになるのではないでしょうか。

きょうは、このことについて三つのことをお話しします。第一のことは、私たちが苦しみに会うとき、主は最善を成してくださると信じ、すべてを主にゆだねなければならないということです。

第二のことは、その苦しみは何のためにあるのでしょうか。それは神の栄光のためです。すべてのことが神の栄光のためであると信じなければなりません。

そして、第三のことは、それはあなたの信仰の成長のためです。神はあなたの信仰の成長のためにそうした苦難を用いられるのです。

 

Ⅰ.神のみこころにかなった願い(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください

「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 

ある人が病気にかかっていました。ベタニアという村に住んでいたラザロという人です。この人はマリアとその姉妹マルタの兄弟でした。このマリアは、「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアとあるように、主を深く愛していた人でした。そのマリアの兄弟ラザロが病んでいたのです。

 

その時、マルタとマリア姉妹は、このことを伝えるために主イエスのところに使いを送りました。というのは、その時イエスはユダヤ人たちの手を逃れ、ヨルダンの川向こう、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けておられた場所に滞在しておられたからです。ベタニアからはその所までは、徒歩で約1日かかりました。マルタとマリアは、そのイエスのところに使いを送ってこう言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(3)

 

どういうことでしょうか。何と麗しい信仰でしょうか。このような時普通なら何と言うでしょう。「主よ、あなたが愛しておられるラザロが病気です。お願いですから早く来て、癒してください。私たちはあなたをこよなく愛し、あなたのためならば何でもしました。それはあなたが誰よりもご存知なはずです。今こそあなたが応えてくださる番です。お願いです。助けてください。」そう言うのではないでしょうか。つまり、自分の願うようにイエスに動いてもらおうと、必死になってイエスを納得させようとするのです。それが信仰だと思っているわけです。でも彼女たちは自分の思いや願いを押し付けたり、自分たちの信仰の正当性を訴えてイエスに動いてもらおうとしたのではなく、ただ事実だけを申し上げたのです。なぜでしょうか。それは神のみこころが成ることが最善であると信じていたからです。これが信仰です。信仰とは自分の思いが成ることではなく、神のみこころがなること、神のみこころに焦点を合わせることです。もちろん、自分の願いを申し上げることが間違っているのではありません。イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ7:9)と言われました。「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(ルカ7:10)熱心に求めることは大切なことです。しかし、それは私たちの思い通りになるということではなく、あくまでも私たちが良いものを求めるなら、ということです。良いものとは何でしょうか。それは神のみこころです。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

これが、私たちの神に対する確信です。であれば、私たちは自分の思いや考えを主に押し付けるのではなく、神のみこころが何であるかを求め、それが成るように祈らなければなりません。そのためには聖書を通して神のみこころを悟ることが大切で、そうでないと、自分の常識や正義感、あるいは人間の尺度で、これが神のみこころだと勝手に決めつけてしまうことになるからです。

 

ここでマルタとマリアはイエスのところに使いを送り、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と言いました。それだから、どうしてくださいとか、どうするのが当然ですといった押し付けがましいことは一切言いませんでした。ただ事実だけを伝えたのです。もちろん、一刻も早く来てほしいという思いはあったでしょう。しかし、いつ、どのようにして癒してくださるのかは主の御手の中にあるのであって、主が成してくださることが最善であるという信仰があったのです。

 

ルカ10:38~42には、イエスが彼らの家に来られたとき、彼らがイエスをもてなした時の様子が記されてあります。妹のマリアは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていましたが、姉のマルタはどうだったかというと、そんな妹の姿にイライラして、イエス様のところに来てこう言いました。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

するとイエス様は何と言われたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

 

あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱していませんか。しかし、どうしても必要なのはわずかです。いや一つだけです。それは何でしょうか。それは、主のみことばを聞くことです。こうした信仰は、みことばに聞き入ることから生まれてくるのです。

 

私たちの人生にも、愛する者が病気になることがあります。自分でもどうしたらよいのかわからない問題に直面することがあります。そのような時どうしたら良いのでしょうか。私たちはどうしても自分の思いが先走り、「主よ、こうしてください」とか、「ああしてください」と言うようなことがありますが、大切なのは、主が成されることが最善であると信じてすべてを主にゆだねることなのです。

 

Ⅱ.神の栄光のために(4-6)

 

第二のことは、苦難の目的です。いったい私たちの人生に、どうしてさまざまな苦難が起こるのでしょうか。それは、神の栄光のためです。4~6節をご覧ください。

「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」

 

ラザロが病気であると聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」と言われました。彼女たちが「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えたのは、すぐに助けに来てほしいという思いがあったのは明らかです。でもイエスは彼女たちが願ったとおりには行動されませんでした。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われたのです。イエスがそのように言われたのは、マルタとマリアを、そしてラザロを愛しておられたからです。しかし、イエス様は、そのことを聞いてもすぐに出発しなかったばかりか、そこになお2日もとどまられました。愛しておられたのに、なぜそこになお2日もとどまられたのでしょうか。愛しておられたのであれば直ぐにでも駆け付けて癒してやろうとするのが普通です。それなのになぜなおもそこに2日もとどまられたのか。それはラザロが死ぬのを待つためです。新改訳聖書第3版には、この「しかし」を「そのようなわけで」と訳しています。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」これを常識的に読むと、イエス様は彼らを愛しておられたので、ラザロが死ぬまで何も行動を起こさなかったとなります。どういうことでしょうか。

それを解く鍵は、4節のイエス様のことばにあります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」すなわち、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのです。

 

私たちの人生には、私たちが願ったとおりにならないことがたくさんあります。そのような時でも、神は最善以外のことをなさらないという確信を持っていなければなりません。すべてのことが神の栄光のために動いているからです。

 

同じ保守バプテスト同盟の婦人伝道師で、かつて山形で伝道された陶山節子先生のお話を聞いたことがあります。陶山先生は、1941年のある日、東京のある橋の上に立っていました。死のうと思っていたのですが、出来ませんでした。陶山先生は波乱万丈の人生を送っていました。夫は神奈川県の重要な政治家でしたが、結核でなくなりました。30代にして、未亡人となったのです。6年間の結婚生活は、意地悪な姑に悩まされる日々でした。たとえば、姑が風呂に入るときは、着物の中で一番良いものを着て姑の背中を流すように強要されました。それは、戦況が暗さを増していく頃のことでした。

陶山先生は横浜で育ち、恵まれた環境の中、大学にも進み、英語も流暢に話せ、将来有望な人でしたが、その時は何もかもが失われたかのように見えました。

しかし、何とかその暗い年月を乗り越え、やがて戦後、多くの宣教師たちが希望を携えて日本に押し寄せてきました。陶山先生はあちらこちらで、彼らの説教の通訳や翻訳で忙しくなりました。そんなある日、ある説教者の祈りを通訳し、自分が涙で出来た水たまりの中に立っていると気が付いたのです。そこで彼女はイエス様に出会ったのでした。

英語が話せたおかげで、いくらでも仕事の機会はやってきました。マッカーサー元帥のGHQ総司令部から雇用の話がきたことさえありました。しかしその時、彼女はジョセフ・ミーコという宣教師夫妻に出会います。彼らは山形県の奥地にある、まるで世の中の流れに取り残されたようなへんぴな場所に引っ越そうとしているところでした。そこは東京とはずいぶん違った場所でした。

陶山先生は、神様の導きを感じていました。しかし、それは大きな変化を意味していました。それでも、彼女は一歩踏み出すために大変な選択をします。生活の安定と数々のビジネスチャンスを捨てて、何の保証もないまま、おそらく霊的には日本で最も暗い東北で、ミーコ宣教師夫妻の開拓伝道を助けることを申し出たのです。

山形での努力は、国内では最も実を結んだ教会開拓の歩みとなりました。10年間で、12にも及ぶ教会が次々に生まれました。またその他にも、幼稚園が数件、女性の聖書研究会が28グループ、数えきれないほどの子供の聖書クラブ、しかもある日の日曜学校には、450人以上の子供たちが参加したのです。

陶山先生は、様々な地域で多くの人々の救いに関わったと同時に、山形の教会の霊的祖母として知られています。1993年には、その傑出した奉仕と、日本の伝道における歴史的影響力の故に、日本福音功労者賞を授与されました。2000年に行われた陶山先生の葬儀は、勝利に満ちたものとなり、メサイヤのハレルヤコーラスの合唱で最高潮に達したと言われています。

このような栄光はどのようにしてもたらされたのでしょうか。それは、夫を結核で失い、30代にして未亡人となるという苦しみの中から生まれたのです。陶山先生は、ご主人の癒しのためにどれほど祈られたことでしょう。まだその時にはイエス様と出会っていませんでしたが、その死によって宣教師の通訳の仕事へと導かれ、その中からミーコ先生との出会いが与えられました。そして、信仰によって一歩踏み出したとき、神様はそこに大いなるみわざをなされたのです。

 

苦しみは、できれば避けて通りたいとものですが、神様はその苦しみを通してご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そうです、その病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものなのです。ですから、主が私たちの祈りにすぐに答えてくださらないということがあっても、あるいは、私たちが願ったとおりに応えてくださらないことがあっても、それはイエス様があなたを愛しておられないからではなく、むしろ愛しておられるからであって、また、主は、ご自身の栄光のために、私たちが考えている以上に、もっとすばらしい方法で解決を与えてくださるからであると、信仰によって受け止めなければなりません。主は愛する者の信仰の成長を願い、時にはそこに障害物を置かれることがあるからです。

 

Ⅲ.あなたがたが信じるため(7-16)

 

第三のことは、それはあなたがたが信じるためであるということです。7~16節をご覧ください。7節と8節にはこうあります。

「それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

それから、どうなったでしょうか。それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。「それから」とは、そのときいた場所になお二日とどまられてからです。すると、弟子たちは驚いて、イエス様に言いました。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」「ついこの間」というのは、あの宮きよめの祭りの時のことを指しています。その時、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。なぜなら、イエス様が「わたしと父とは一つです」(10:30)と言って神を冒涜したと考えたからです。それでイエスは彼らの手を逃れ、ヨルダン川の向こう側にやって来ていたのですが、そのユダヤにもう一度行こうと言われたので、弟子たちは驚いたのです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。9節と10節をご覧ください。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」どういうことですか。ユダヤ人は、1日12時間を昼の時間と考えていました。この時間は太陽が照らしているので、倒れたり、躓いたりすることはありません。しかし、夜になると働くことができません。光がないからです。この「夜」とは、イエスが十字架につけられる時のことを指しています。つまり、イエスはご自分が死ぬ時はまだ来ていないので、ユダヤに行っても殺されることはないと言われたのです。

 

イエスがこのように話されると、ラザロについてこのように言われました。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11)聖書では、しばしば人が死んだ時「眠った」と表現することがあります。しかし、弟子たちにはその意味が理解できませんでした。それで彼らはイエスに言いました。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」彼らはイエスの語られたことばの意味を理解できませんでした。

それでイエスは彼らにこう言われました。14節と15節です。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(14-15)

ここでイエスはラザロが病気になったとき、ご自分がベタニアのラザロのところに居合わせなかったことを喜んでいると言いました。なぜなら、もしそこにいたなら、すぐにでも飛んで行くことができたので彼は癒されたことでしょうが、こんなに遠く離れているわけですからそのようにすることができません。結果、ラザロは死んでしまいました。しかし、ラザロが死んだので彼にいのちを与え、彼を生き返らせることで、もっと大きな主のみわざを行うことができるからです。それはラザロが癒されるよりももっとすごいことでした。主はそのような計画を持っておられたのです。ですから、そこに居合わせなかったことを喜んでいると言ったのです。

 

しかし、この箇所を注意してよく見てみると、イエスはここで「わたしはラザロが死んだことを喜んでいる」とは言っていません。イエスが言われたのは、「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます」ということでした。しかもそれはマルタとマリアとラザロためにではなく、「あなたがたのため、あなたがたが信じるため」です。どういうことかというと、イエスは、ひとりひとりが苦しんだり、悲しんだり、死んだりするのをご覧になって喜んでおられるのではないということです。そうではなく、ある人々の苦しみを通して、多くの人が信仰の益を受け、祝福されるのを望んでおられるということです。ここでは「あなたがたが信じるためには」とはそのことです。あなたがたとはだれのことですか。そうです、弟子たちのことであり、私たち一人一人のことです。弟子たちが信じるためには、本当に多くの時間がかかりました。その弟子たちの信仰の教育のためには、このことが必要だったのです。だから、イエスはその場に居合わせなかったことを喜んでいると言われたのです。

 

案の定、デドモと呼ばれるトマスは、そんなイエスの思いを全く理解することができませんでした。そして仲間の弟子たちに、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言いました。だから、違うというのに・・・。なかなか理解できませんでした。しかし、それはトマスだけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の弟子たちも、やがて主が逮捕された時には、主を捨てて逃げ去ってしまいます。

 

でも、私たちはそんな彼らを決して笑うことはできません。というのは、私たちもこのトマスが言ったようなことを、大まじめに言うようなことがあるからです。主のみこころとはかなり違ったことを言ってしまうことがあります。ですから、私たちは、まだまだイエス様の心を心とするには遠い者ですが、私たちが主のみこころに歩めるようになるために、主は私たちに試練を与えておられるということを覚え、謙虚な心で、主のみこころに従っていきたいと思うのです。

 

ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に掲げられている一患者の詩です。これは「病者の祈り」という題名がつけられている有名な詩です。この詩を読むと、この詩人が神のみこころをしっかりと受け止めていたことがわかります。

 

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた

神の意にそぐわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 

私たちもなぜこのようなことが・・と思うようなことがありますが、私たちの人生に起こる一つ一つのことが神の栄光のために用いられていることを知り、すべてを主にゆだね、ますます主のみこころに歩ませていただきたいと思います。

Ⅰサムエル記5章

サムエル記第一5章から学びます。

 

Ⅰ.アシュドデに運ばれた神の箱(1-8)

 

まず、1~5節までをご覧ください。

「ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」

 

イスラエルがペリシテ人との戦いのときに、自分たちの形勢が不利になったとき、契約の箱を自分たちの陣営に運び入れました。彼らは神の箱が来たことで大歓声を挙げ、それは地がどよめくほどでしたが無惨にも戦いに敗れ、神の箱はペリシテ人に奪われてしました。ペリシテ人は神の箱を奪うと、エベン・エゼルからアシュドデに移しました。エベン・エゼルはイスラエルがいた陣営です。そこからアシュドデに移したのです。アシュドデは、ペリシテ人の五大都市のうちの一つです。「力強い」という意味があります。

 

それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び、ダゴンの傍らに置きました。ダゴンとはペリシテ人が拝んでいた神です。アシュドデという所にこのダゴンの神殿がありました。ダゴンというのは「魚」という意味で、上半身は人の姿をしており下半身は魚で半魚のような格好をしていました。ペリシテ人たちはもともと地中海の暮れた島から来た民ですから、海と関わりのある神ということでこのような偶像を神としていたのです。

 

しかし、「ダゴン」にはもう一つ「穀物」という意味もありました。それは穀物をもたらす神、すなわち、豊穣の神ということにもなります。魚と穀物では全く相いれないものであるように感じますが、もともと彼らは海から来た民族でしたし、カナンの地に定着したこともあるので、その両面を備えてくれるものとして称えていたのでしょう。すなわち、自分たちの願望をかなえてくれる神、それがダゴンでした。

 

3節をご覧ください。「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。」

驚くべきことが起こりました。ダゴンは主の箱の前にうつぶせになって倒れていたのです。これはまさにひれ伏している格好です。ダゴンというペリシテ人の神が、イスラエルの神の前でひれ伏していたのです。それで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻しました。ダゴンは自分で起き上がれないのでペリシテ人たちの助けがなければ動けなかったのです。起こして欲しいのはこちら側なのにこちら側で起こしてあげなければならないというのは滑稽です。彼らは、倒れてしまったら自分で起き上がれない神を信じていたのです。人間に起こしてもらわなければ起き上がれないような情けない、ふがいない神を信じていました。それが偶像礼拝の実態です。偶像は全く無力です。人間が助けてあげないと何もできません。それは本物の神ではありません。全く頼りになりません。にもかかわらず人々は、それでも偶像を慕います。それでも偶像礼拝を止めようとしないのは不思議ですね。

 

4節をご覧ください。次の日、朝早く起きて見ると、やはりダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていました。しかも今度は頭と両手が切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残されていました。胴体だけがそこに残っていたというのは、魚が半身になって残されていた状態です。想像してみてください。彼らが信じていた偶像がいかに空しいものであるかがわかります。

 

詩篇115:4-8には次のようにあります。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

これが偶像の実態です。こんなものに信頼してどうなるのでしょう。どうにもなりません。ただ空しいだけです。ダゴンはまさに人間が作った偶像にすぎません。倒れても自分の力では起き上ができません。首も両腕も切り取られても元に戻すことはできません。彼らはこうした神を本気になって信じていたのです。いったいどうして彼らはこのような偶像を神として信じていたのでしょうか。二つの理由があります。

 

一つは、それでも彼らには神への恐れがあったからです。5節には、「それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」とあります。ダゴンの頭と両手が切り離されて敷居のところにあったのでそこを神聖な場所とし、敷居をまたがないようにしたのです。私たちも「敷居をまたがない」ということを聞くことがあります。それは、敷居が昔から人の頭を表しているからです。その敷居を踏むということはその家の主人の頭を踏みつけるということ、すなわち、主人の顔に泥を塗るということなので、敷居は踏まないのです。しかし、ここでは少し意味が違います。そこに頭と両手が転がっていたので、そこを神聖な場所としたので踏まないようにしたのです。いわゆる神への恐れがあったからです。普通ならこんな無力な神を信じるなんて全くナンセンスなことですが、それでも彼らは神の祟りを恐れて、逆にそこを神聖な所としました。

 

もう一つとして考えられるのは、このダゴンが豊穣をもたらす神であったということです。すなわち、自分たちの願望を叶えてくれる存在であったということです。それゆえ人々は、どんなことがあっても残しておきたかったのです。すなわち、自分たちに都合の良いものから離れることができないのです。これが人間の性です。そのような意味では、私たちも同じではないでしょうか。コロサイ3:5には、「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。何が偶像礼拝ですか?こうした貪欲が偶像礼拝です。むさぼりが偶像礼拝なのです。であれば、私たちにもこうしたむさぼりがあります。あれが欲しい、これが欲しいと、神よりもそれを一番大事にしたいのです。そこから離れることができなくて苦しむのです。その首が取れ、腕が取れても、そこからなかなか離れられないのはそのためです。そこから離れると都合が悪いのです。自分にご利益をもたらしてくれるものを神としたいと思うのは昔も今も変わりません。

 

でも、こした偶像には力がありません。倒れてもだれも起こしてくれません。自身があったらだれかに助け手もらわなければなりません。情けないです。そんな偶像を神とすることがないようにしましょう。もし私たちの中に貪欲があるなら、それを取り除きましょう。

 

6節に戻ってください。主の箱がアシュドデにある間、アシュドデの人たちは大きな災難に見舞われます。6節から8節までをご覧ください。

「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。」

 

主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかりとは、それが神のさばきであったことを表しています。本当の神ではないものを神とする者には、神のさばきがくだります。それはどんな災いだったでしょうか。アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かしたのです。この腫物がどのような病気であったのかはわかりません。へブル語では「オーフェル」という語で、「盛り上がっているもの」を意味しています。人間の体にできる盛り上がるものといったら腫物なので、腫物と訳されているのです。英語のキングジェームズ訳ではこれを「hemorrhoid」と訳しています。「hemorrhoid」とは「痔」のことです。なぜ「盛り上がるもの」が「痔」となるのかわかりません。まあ「痔」にもいろいろあって盛り上がるものもあります。でも実際にこれが何であるかはわかりません。何が盛り上がったのか、皮膚が盛り上がったのか、お尻の穴が盛り上がったのかわかりませんが、いずれにせよ、それは神のさばきでした。それでも彼らは真の神に立ち帰ろうとはしませんでした。偶像の神になど何の力もないということがわかっていても、そこから離れられなかったのです。

 

そこでアシュドデの人々はどうしたでしょうか。アシュドデの人々はこの有様を見て、こう言いました。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」

彼らは神の箱を別の町に移そうと計画しました。それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、イスラエルの神の箱をどうしたらよいか話し合った結果ガテに移すように決め、そのようにしました。ガテもペリシテ人の五大都市の町ですが、その中でも最大の都市です。そこに移せば大丈夫だろうと思ったのです。

 

Ⅱ.ガテに運ばれた神の箱(9)

 

それで神の箱がガテに移されるとどうなったでしょうか。9節をご覧ください。

「それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。」

 

神の箱がガテに移されると、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らも腫物ができました。ガテの領主には、ペリシテ人最大の都市としての自負心があったのでしょう。あるいは、アシュドデの人々のふがいなさを見下して、主の箱など怖くないという傲慢な思いがあったのかもしれません。けれども、ふたを開けてみるとアシュドデに起こったのと同じことが起こりました。この町に恐慌が引き起こされ、彼らはみな腫物で打たれました。それで彼らはどうしたかというと、今度はそれをエクロンに送りました。

 

Ⅲ.エクロンにやって来た神の箱(10-12)

 

10-12節をご覧ください。

「ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。」

 

ガテの人たちが神の箱をエクロンに送ったとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言いました。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」今度はペリシテの領主たちの会合によって決まったのではなく、ガテの住民たちの一方的な決定によって送り込まれたようです。エクロンもまたペリシテ人の姉妹都市で、五大都市の一つです。エクロンの町でも死の恐慌がありました。死ななかった者も腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は、天にまで上りました。それでエクロンの人たちは人を遣わして、ペリシテの領主たちを集め、イスラエルの神の箱を、元の場所に戻すようにと言いました。

 

これが偶像を拝み、偶像に仕える者たちの結果です。偶像は何も彼らを助けることができませんでした。そこにあったのは神のさばぎでした。神の箱が運び入れられたどの町でも主の手が重くのしかかり、その地域の人たちを腫物で打ちました。そこには死の恐怖が迫りました。こんなにひどい目に合うのならまことの神を信じたらいいのに、それもしませんでした。むしろ、本物の神に背を向け、自分たちから遠ざけようとしました。ダゴンの神がただの偶像であることがわかっていても、真の神に背を向け、それを遠ざけてしまったのです。なぜでしょうか。なぜなら、神よりも自分を愛していたからです。それが罪の本質です。罪とは神中心ではなく、自分中心であることです。だから自分の欲望を満足させようとしてこうした偶像を作るのです。ダゴンの神がただ偶像であるということがわかっていても、そこからなかなか抜けきれないのはそのためです。人はみな自分を愛しているからです。

 

それは何もダゴンの神を信じていた人たちだけのことではありません。私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも真の神を信じているはずなのに自分に都合が悪いと神に背を向け、神を遠ざけようとすることがあります。わかっているのに教会に行かなかったり、わかっているのに聖書を読もうとしません。わかっているのに神の家族の交わりよりも自分の好むことを優先することがあります。わかっているのに快楽を求めてしまいます。私たちも残念ながら同じような過ちを犯してしまう弱さを持っているのです。わかっているのにやめられない、わかっているのに認めたくない、そしてわざわざ本物の神に背を向け、神を遠ざけようとしているのです。悔い改めることをしません。この神の前にへりくだることをしません。そして自我を通そうとします。それは悲劇だということはこの箇所からもわかることです。でも神に立ち帰ろうとしないのです。

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。神の箱をあなたの心に運び入れることです。神の箱がダゴンの神殿に運び入れられた時どうなったでしょうか。ダゴンはだんごのように倒れてしまいました。同じように、あなたの心に神の箱を運び入れるなら、あなたのダゴンも倒れます。たとえば、ギャンブルがやめられない、お酒がやめられないという方がおられますか。それはあなたのダゴンです。でもそんなダゴンも神の箱が運び入れられたら、倒れてしまいます。この神には力があるのです。この神の箱をあなたの心に運び入れられるなら、そのとたんにダゴンは倒れて主の前にひれ伏すようになります。あなたはなかなか離れられないで苦しんでいたさまざまなむさぼりから解放されるのです。神の聖霊にあなたの心を支配していただきましょう。そうすれば、あなたもダゴンから解放され、神の絶対的な力に満たされるようになるのです。そして、真の神だけを拝み、真の神に仕えましょう。

 

ヨハネの福音書10章31~42節 「わたしのわざを信じなさい」 

きょうは「わたしのわざを信じなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。エルサレムで宮きよめの祭りがあった時、イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)はっきりと言ってくださいと言っても、もう何回もはっきりと言ってきました。それなのに、彼らが信じなかったのは、彼らがイエスの羊の群れに属していないからです。イエスの羊の群れに属しているなら、イエスの声を聞き分けイエスについて行きますが、そうでないと言うことは、彼らがイエスの羊の群れに属していないという証拠です。

 

不思議なことですが、世の中にはイエスの声を聞くとすべての羊がそれについて行くかというとそうではなく、ついて行く羊とそうではない二種類の羊がいます。彼らはどうしてイエスを信じなかったのでしょうか、あるいは、信じたのでしょうか。きょうは、そのことについて共に学びたいと思います。そして、信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.イエスを石打ちにしようとした人たち(31-36)

 

まず、31~36節をご覧ください。ここにはイエスを信じなかったというよりも、イエスを石打にして殺そうとした人たちの姿が描かれています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒?のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」

 

先ほども申し上げたように、22節からは場面が、宮きよめの祭りでイエスが宮にいた時のことです。イエスはご自分について来る者に永遠のいのちを与えると約束されました。そればかりか、彼らは永遠に、決して滅びるとこがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしませんと言われました。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、イエスが彼らの手をしっかりと掴んでいてくださるからです。31節には「わたしと父とは一つです」とありますが、イエスは全能の神です。その方が掴んでいてくださるなら、どんなことがあっても決して離れることはありません。

 

そのように言うと、ユダヤ人たちが、イエスを石打ちにしようとしました。どうしてかというと、イエスが神を冒涜したと思ったからです。イエスが「わたしと父とは一つです」と宣言しました。人間でありながら、自分を神と等しい者とするとは何事かと烈火のごとく怒り、イエスを殺そうとしたのです。

 

イスラエルにはモーセによって与えられた十戒がありました。その戒めの第一戒にはこうあります。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)

人間を神とする、自らを神とすることは神を冒涜することであり、この戒めに背くことになります。ですから、彼らはイエスがこの戒めを破り自分を神としたことで、神を冒涜したと考えたのです。もしイエスがただの人間であったのなら、彼らの主張も正しかったでしょう。でもイエスはただの人間ではありませんでした。イエスはもともと神であられる方なのに、人間の姿を取ってこの世に来てくださったのです。ですから、イエスが言っていることは正しいのです。そのイエスのことばを受け入れることができず、そのお方をさばき、石を投げつけるとしたら、その人の方がはるかに神を冒涜していると言えます。

 

イエスはそのことを証明するために、ここで二つの理由を挙げておられます。その一つが34~36節にあります。ここには、「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒している』と言うのですか。」」とあります。どういうことでしょうか?

 

主イエスがここで引用した言葉は、詩篇82篇6節の御言葉です。詩篇82篇6節にはこうあります。「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」(詩篇82:6)

この「おまえたち」とは、この世の裁判官や権力者たちのことのことです。ここで彼らは「神々だ」と呼ばれているのです。どうしてそのように呼ばれていたのかというと、人を裁く役目を担っていたからです。ある面でそれは神と同じ働きをしていたわけです。それで彼らは「神々だ」と呼ばれていたわけですが、であれば、神から遣わされ、人々を正しく裁く権威を持っておられる方を神と呼んだからと言ってどうしてそれが神を冒涜したと言えるのかというのです。

 

実は、旧約聖書においては、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、その人々を神々と呼ばれています。たとえば、出エジプト記4:16には、「彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる」とあります。「彼」とはモーセの兄アロンのことですが、神は口下手なモーセに代わってアロンをモーセの口としました。そして、モーセは「彼」すなわちアロンにとって神の代わりとなるのです。モーセが神の代わりとなるといったら大変なことになります。それこそモーセを神の地位まで高めたということで神を冒涜したと言われても不思議ではないでしょう。でも、ここではそういう反発はありません。また同じ出エジプト記7:1には、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」と言われました。ここでも、モーセがエジプトの王ファラオにとって神とすると言われています。つまり、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、「神々」と呼ばれていたのですが、であれば、父から遣わされた神の御子自身を神と呼ぶのは当然であって、決して神を冒涜していることには当たらないでしょ、というのです。

 

誤解しないでください。ここでイエスが言っておられることは、本当はご自身は神ではないけれども神から遣わされている人々を「神々」と呼んだのだから、自分もそのように呼ばれても構わないのではないかということではなく、イエスは本当に神であって、父なる神と一つであられる方ですが、彼らがなかなか信じようとしなかったので、彼らが信じていた旧約聖書を引用して、神と呼ばれていたのは自分だけではないということを取り上げることで、ご自身が「わたしは神である」と言ったことが決して神への冒涜ではないということを示そうとされたのです。そうです、イエスはまことの神であり、父なる神と等しい方なのです。あなたはイエスをどのような方であると受け止めていますか。イエスを神の子、キリストとして信じましょう。

 

Ⅱ.わたしのわざを信じなさい(37-39)

 

第二のことは、イエスが行われたわざです。もしイエスが神のわざを行っているとしたら、それこそイエスが神ご自身であられ、父なる神と一つであるということの証拠となります。37~39節をご覧ください。ここには、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。」とあります。

 

イエスは、たとえわたしを信じられなくても、わたしのわざを信じなさい、と言われました。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば信じることができます。イエスはまさに、神の子としてふさわしいわざを行われました。ガリラヤのカナでは、結婚式に水をぶどう酒に変えて、式が損なわれることがないようにされました。カペナウムでは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒されました。エルサレムでは、38年間も病気で伏せっていた男を癒されました。また、ガリラヤ湖畔では、イエスの説教を聞いていた5000人の人たちの空腹を、5つのパンと2匹の魚をもって養われました。そして9章では、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされました。

 

これを書いたヨハネは、この福音書の最後でこのように述べています。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあります。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められません。イエスはそれほど多くのわざを行われたのです。それは、イエスが行われたわざを見ることによって、イエスが神の子、メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、イエスの名によっていのちを得るためです。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば、この方が神のもとから来られた方であることを自ずと知ることができるのです。私たちも人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうかを確かめるためには、その人が行なっていることを見るのではないでしょうか。それと同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしいわざを行なわれたのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちのうちにイエスのわざが行なわれているでしょうか。目が開けられた人は、単にイエスの言葉を聞いてイエスを信じたのではありません。イエスのわざが自分のうちに行なわれたことを体験して、イエスを信じたのです。彼はこう言っています。「あの方が罪人であるどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

 

つまり、イエスの言葉には実質が伴っていたということです。聖書は、イエスを信じると言うことは、そこに実質が伴うことであると教えています。たとえば、Ⅰヨハネ2:29には、「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」とあります。神が正しい方であると信じているなら、その神から生まれた者もみな正しいこと、義を行うはずなのです。また、3:6には、「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。ここも同じです。さらに4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。神を愛する者はみな、兄弟をも愛します。なぜなら、愛は神から出ているからです。つまり、その行いを見れば、何を信じているのかがわかるわけです。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのわざが私たちのうちに起こってくるのです。ですから、もし私たちの言葉を信じることができなくても、私たちのわざ、行いを見れば、イエス様が本当に救い主であることがわかるはずなのです。

 

中国人の任さんと聖書を学んでいますが、先週、信仰告白に導かれました。本当はもう少し学んでから「どうですか、イエスさまを信じますか」と尋ねるのですが、「もう信じている」と言うので、まだ3回目ですが、信仰の告白に導いた方がいいと思いました。なぜなら、ローマ10:9-10に、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるからです。それで、このみことばを示しながら、「任さん、任さんは心の中でイエスさまを信じています。だから今、それを告白しましょう。なぜならここに、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」書いてあるからです。今、私の後に続いて祈ってください。これは、新生の祈りと言って、信仰告白の祈りです。任さんが声を出してこの祈りをすることによって、任さんは新しく生まれます。今までのすべての罪が赦されて、神の子どもとなります。いいですか、それじゃ祈りましょう」と言って、一緒に祈りました。祈り終わった後でキョトンとしているので、「任さん、任さんはクリスチャンになりました。すべての罪が赦されて神のこどもになりました。いつ死んでも天国です。今も神がともにいてくださいます。良かったですね。」と言うと、「ん、良かった。罪全部赦されたね。良かった。今まで悪いことたくさんしてきた。ただ警察に捕まらなかっただけよ。でもその罪全部赦さんだね。感謝します。」と言いました。おもしろいです。中国人がみんなそうだとは思いませんが、自分でも、中国人は強いから・・と言われるのです。はっきりしています。悪いこともたくさんする。でも、本当に素直なんです。いろいろな人と接する機会がありますが、実におもしろいというか、とても爽やかです。

 

そもそも任さんが聖書を学びたいと思うようになったのは、中国に住む娘さんから、「お母さんもイエスさまを信じてください」と言われたからです。普通なら、娘にそう言われても「はい、そうします」という親は多くないと思います。「キリスト教なんて信じたって何も得しない。私は自分の思うように生きていきたい」と言うでしょう。でも、任さんは違いました。娘さんがそう言うので、自分もイエスさまを信じたいと思いました。娘さんを非常に尊敬しているんです。娘は普通の人じゃない、本当にすばらしいのです。何がそんなにすばらしいのかとお聞きすると、こう言いました。

娘さんは、大学生の頃にクリスチャンになりました。それから結婚しましたが、旦那はクリスチャンじゃなかったので、娘さんをひどく迫害しました。娘さんが熱心に祈っていると「気ちがい!気ちがい!」と言い、娘さんが教会に行くと言うと、娘さんを叩いたり、髪の毛をむしり取りました。「教会になんて言っているヤツは愚かなヤツばかりだ」と言うと、娘さんは「確かに、愚かかもしれません。でも実際に来てみてください。本当に謙遜で、立派な人たちばかりです。」と言いました。

ある日この旦那が教会にやって来ました。すると、最初のうちは聖書のことはわかりませんでしたが、そこにいる人たちが皆、優しいのです。今まで抱いていたイメージと全く違いました。しかも、社会的に地位のある人や人格的に優れた人たちがたくさんいました。それで続いて教会に来るようなると、旦那もイエス様を信じたのです。ただ信じたのではありません。熱心にイエスさまに仕えるようになり、今では伝道者になって世界中を飛び回り、貧しい人たちや困っている人たちを助けるような人になったというのです。すごいじゃないですか。何が奇跡かって、人が変えられることほど大きな奇跡はありません。イエス様は、私たちを変えてくださいます。そのみわざがどれほど大きいものであるかがわかります。

 

しかし、それだけだったら任さんもそこまで聖書を学びたいと思わなかったでしょう。しかし、この娘さんはイエスさまの教えに徹底して歩んでいるんですね。こんなことがありました。実は任さんにはもう一人の息子がおられるのですが、この息子さんから、こんなことを言われたそうです。「お母さん、お母さんはマンションを2つ持っているよね。それはお母さんが死んだら遺産として自分たちに相続されるんだから、だったら死ぬ前にその1つを自分の名義にしてください。嫁がそう言うようにとうるさいんだよ。」

それで、任さんは娘さんに相談しました。「弟がそのように言っているんだけど、どうしたらいい。」すると娘さんがこのように答えました。

「お母さん、私はマンションなんていりません。私には天国があるのでそれで十分です。天国は朽ちることも、消えて行くこともありません。この世のものはすべて一時的なもので、すぐに消えて行きます。天国に持って行くこともできません。でも、天国は永遠です。永遠にイエスさまと一緒に過ごせるんです。それがあれば十分です。何もいりません。お母さんのマンションは二つとも弟にあげてください。私は何もいりませんからでも、お母さん、お母さんには感謝しています。私を生んでくれたこと、そして、ここまで大切に育ててくれたこと、本当に感謝しています。こうして健康でいられるのも、お母さんのお陰です。ありがとう!お母さん。」

 

こんなことばを聞いて感動しない親はいないでしょう。任さんも娘の言葉を聞いたときびっくりしました。普通ならマンションちょうだい、お金もちょうだい、自分にはもらう権利があると主張するところでしょうが、娘さんは全然違いました。それで、「これは本物だ」と思いました。自分は悪いことばっかりやってきましたが、イエスさまを信じて天国に行きたいと思ったのです。

 

キリスト教が本物であるかどうかは、聖書の教えを聞いただけではわからないことがあります。でもそこに実質が伴っているならそれが本物であることを知り、信じることができます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

 

イエスさまのわざとは、何も病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、不思議なわざが起こったりすることだけではありません。イエスさまの最大のみわざは、私たちがイエスを信じることです。イエスさまを信じて永遠のいのちを受け、そのいのちが溢れることです。それより大きな奇跡はありません。あなたがイエスさまを信じて救われたこと、救われて大きく変えられたこと、それよりも大きなみわざはないのです。聖書にあるイエスのわざを見たり、初代教会のクリスチャンたちの生活や行いを見ても、一つだけ言える確かなことは、イエスは神の子であり、信じる者はその名によっていのちを持つということなのです。

 

Ⅲ.イエスを信じた人々(40-42)

 

第三のことは、その結果です。40~42節をご覧ください。

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。」

 

イエスの愛に満ちたメッセージにも関わらず、パリサイ人たちのかたくなな心が砕かれることはありませんでした。彼らはイエスを捕らえようとしましたが、イエスは彼らの手から逃れられました。それはまだイエスの時が来ていなかったからです。

 

そして、ヨルダン川の向こうに行かれ、そこに滞在されました。そこはバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所です。すると、多くの人々がイエスのところに来てイエスを信じました。なぜこの人々はイエスを信じることができたのでしょうか。ここに「彼らは「ヨハネは何もしるしを行なわなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。」(41)とあります。「この方についてヨハネが話したこと」とは何でしょうか。私たちはすでに1章のところで、ヨハネの証を見てきました。1:26,27には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあります。バプテスマのヨハネは人々からキリストではないか、光ではないかと思われていましたが、自分はそのような者ではなく、その方の履き物のひもを解く値打ちもないと言いました。そしてその翌日、イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と言いました。つまり、イエスが彼らのところに来たとき、彼らはかつてバプテスマのヨハネが語った言葉を思い出し、それがこの方のことであったことに気付きイエスを信じたのです。

 

いったい死ぬために生まれてきた人がいるでしょうか。いません。もちろん、どんな人でも最後には死にます。しかし、死ぬことを目的として生まれ、死ぬことを目的として生きているわけではありません。しかし、イエス・キリストは死ぬために生まれ、死ぬために生きられました。バプテスマのヨハネが言ったように、この方は世の罪を取り除く神の子羊として来られたのです。人間は、生まれながら罪人です。その罪を取り除いたり、赦したりできるのは、神以外にはおられません。イエスはその神の子羊として来られました。彼らはそのことがわかったのです。それで、その地で多くの人々がイエスを信じることができたのです。

 

私はここに深い慰めを感じます。すなわち、彼らが信じることができたのは、そこに彼らが信じることができるようにバプテスマのヨハネという人物の道備えがあり、主がその証を用いて信じることができるように助けてくださったからなのです。もし私がその場にいたら、どうだったであろうかと想像します。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が自分は神の子であると主張しているのです。果たして、そのような人物をどこまで素直に信じることができたでしょう。もしかしたら、受け入れられなかったかもしれません。そもそもそんなことどうでも良いと思ったかもしれない。それでも彼らは信じることができました。それは一方的な神の恵みによるのです。

 

それはあの使徒パウロも同じでした。「パウロ 愛と赦しの物語」という映画を観ました。パウロも、最初はイエスを救い主として信じることはできませんでした。むしろイエスを信じる者たちを激しく迫害していました。そのようなパウロが180度変わったのは、復活されたキリストが彼に近寄ってくださったからです。彼がクリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっていた時、復活の主イエスが彼に現れて言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)

「あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

どういうことか、パウロはわけもわからず、ただイエスが言われたように、ダマスコに行ってみると、そこにアナニアという兄弟がいて、彼を通して目が見えるようになりました。それは肉眼だけでなく、彼の心の目も開かれました。それは、一方的な神の恵みのみわざであることがわかったのです。

 

イエスさまはご自分が良い羊飼いであると言われました。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。羊が守られるのは、羊飼いに従うことにもよりますが、それ以上に、そこに羊飼いたちのいのちをかけた愛があるからです。同じように、私たちはイエスさまを信じていますが、それは私たちの努力によるものというよりも、神の力、神の恵みわざによるのです。主がそのことに気付かせてくださいます。これまでの様々な人たちとの出会いや、ある時に聞いた救いの証し、聖書のメッセージ、これまで経験した一つ一つのことが、ヨルダンの川向うの人たちが、「ヨハネが話したことはすべて真実であった」と気付いてイエスを信じたように、必ずや、そのような時が来て、イエスを信じることができるように導いてくださるのです。そのことが見えるとき、私たちはそこに深い慰めと平安が与えられます。私たちは神の恵みによってこそ信じることができ、今あることを覚え、神に感謝したいと思います。そして、ますます信仰に堅く立って、動かされることがないように、いつも主のわざに励みたいと思います。

出エジプト記15章

出エジプト記15章から学びます。

Ⅰ.モーセの歌(1-18)

まず1~18節までをご覧ください。1~3節をお読みします。

「 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」

「そのとき」とは、主がイスラエルをエジプト人の手から救われたときです。主は圧倒的な御業で、

イスラエルをエジプト人の手から救われました。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そのときです。

 

モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌いました。まずモーセは、「主に向かって歌おう」と、民に呼びかけています。それは、「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」からです。まことに、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」と。

モーセはここで、神がどのような方なのかを歌いました。主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、その名は「主」です。「主」とは、「わたしは、あるというものである」という意味でしたね。他の何ものにも依存しなくても存在することができる方、自存の神です。ここで重要なのは、この主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神であると言っていることです。つまり彼らは、神を体験したのです。その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになりました。

 

この「神を知る」ということが重要です。単に、神がどのような方であるのかを頭で知るということ以上に、この方を自分の救い主として体験することです。パウロは、エペソ1:17~19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

あなたは、神を知っているでしょうか。私たち神を信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができるように祈りましょう。

 

次に4-10節までをご覧ください。

「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦

の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。彼らが葦の海に沈んだのはどう

してでしょうか。それは、主が右の手で敵を打ち砕かれたからです。8節には、「あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。」とあります。「鼻の息」とは、強い東風のことです。東風は自然現象ですが、それによって、「水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった」というのは、超自然現象です。主がその風を吹かせると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈みました。

 

次に11-18節をご覧ください。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。」」  主なる神と他の神々とを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通り過ぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしてもできません。そうです、主は全能者なのです。であれば、私たちはいったい何を怖がる必要があるでしょうか。神が、このように偉大な方であることを知るならば、何も怖がることなどありません。

 

そして、神はただ力ある方であるというだけでなく、13節には、この方は恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。この「恵み」という語は、ヘブル語では「ヘセッド」という語ですが、これは非常に重要な概念を含んでいる語です。これはただ「恵み」というだけでなく、神の契約に基づく「恵み」のことです。神は、アブラハム契約をいつまでも覚えておられ、その約束を忠実に守ってくださるお方であるということです。モーセはここで、この「ヘセッド」を思い起こし、将来において大きな希望を見いだしているのです。そして、17節にあるように、主は彼らを導き、彼らをゆずりの山に植えられます。「ゆずりの山」とは「相続の山」のことで、約束の地のことを指しています。つまり、主は彼らを約束の地に導かれるということです。そして、そこで主は、とこしえまでも統べ治められるのです。

 

これはすべて主の恵みによるのです。そして、この恵みは、私たちにも注がれています。ローマ10:12には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。」とあるからです。この主を呼び求めましょう。そして、この主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまでです(詩篇107:1)。

 

Ⅱ.ミリアムの歌(19-21)

 

次に、19-21節までをご覧ください。ここにはモーセの姉ミリアムの歌が記されてあります。  「ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ6:4を見ると、彼らだ

けでなく、彼らの姉ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたことがわかります。彼女もまた、主がファラオの馬や戦車、騎兵を海の中に沈めたとき、そして、イスラエルが海の真ん中で乾いた地面を歩いて行ったとき、この歌を歌いました。彼女はただ歌ったのではなく、踊りながら賛美しました。ここには、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た、とあります。ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんになっていましたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのです。

21節のことばは、1節と同じ内容です。おそらくコーラスになっていたのでしょう。古代世界では、儀式的な踊りや歌は、男女別々に行いました。モーセは男たちの賛美の先頭に立ち、ミリアムは女たちの賛美の先頭に立ったのです。

 

ここでミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。恐らく、モーセは幼い頃から家を出てエジプトの王宮にいたために、ミリアムはアロンの姉としてイスラエルの民の間に知られていたのでしょう。「女預言者」という言葉は、ここで初めて出てきます。彼女は、そのような指導的な役割が与えられていたということです。。

 

いずれにせよ、モーセも、アロンも、ミリアムも、イスラエルの民を指導する立場にありましたが、彼らは主をほめたたえ、主を心から賛美しました。指導者にとって、特に、主をほめたたえることが重要です。主が自分の人生においてなしてくださった恵みのみわざを思い起こし、また、今、様々な困難な中にあっても、主が勝利を与えてくださることを信じて、主をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.マラでの体験とエリムでの体験(22-27)

 

さて、このようにイスラエルの民は主の大いなる恵みによって葦の海から旅たちました。しかし、それはバラ色の世界ではなく、すぐに困難が彼らを襲いました。22-27をご覧ください。

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

 

イスラエルの民は、主の奇跡的なご介入によって、紅海を渡ることができました。そして、そのように勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌いました。さあ、いよいよ荒野の旅が始まります。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。しかし、その後彼らはすぐにつぶやくことになります。彼らには水が見つかりませんでした。3日間水を飲めないのは辛いということを越えて、命の危険が伴います。3日間という言葉は、生死にかかわる時によく使われる言葉でもあります。その3日間歩いても、水が見つからなかったのです。そして、「マラ」に来た時に水がありましたが、そこの水は苦くて飲めませんでした。その時、イスラエルの民はどうしたでしょうか。24節には、「民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」とあります。3日前に喜び踊った民が、モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、全然身についていませんでした。しかし、それはイスラエルの民だけではありません。それは私たちも同じです。調子がいい時は喜べますが、そうでないとすぐに不平をもらしてしまいます。それが習慣化しています。すぐに不平が出るのです。このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、神のさばきを招くことになります。私たちは、このイスラエルの民の失敗から教訓を学ぶ必要があります。

 

さて、その民のつぶやきに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは、すぐに主に祈りました。すると主は一本の木を示されたので、モーセがそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。その木に癒しの力があったというよりも、モーセの信仰が、超自然的な神の力を引き出したということです。このようなことが、これ以降のイスラエルの荒野の旅において何回も繰り返されることになります。それは、彼らがそのことによって、主が自分たちの必要を満たしてくださる方であるという教訓を学ぶためでした。しかし、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、自分たちの必要が満たされるとすぐにその教訓を忘れてしまうということの繰り返しでした。

 

しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも同じです。私たちも人生の荒野においてイスラエルの民のように苦しくなるとすぐにつぶやいてしまいます。その中で主が私たちの必要を満たしてくださるのに、すぐにその恵みを忘れ、つぶやきを繰り返してしまうのです。私たちは、この人生の荒野の中で、信仰の教訓を学びましょう。26節、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

どんなに苦しくても、主の御声に聞き従いましょう。そのとき、主はエジプトで下したような病気は何一つ下しません。主は、私たちの癒し主であると信じて、この方に信頼し、その声に聞き従いたいと思います。

 

「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(27)    こうして彼らはエリムに着きました。「エリム」とは、「なつめやし」という意味です。なつめやしのあるところに、水の泉があります。そこは砂漠のオアシス、完璧なやすらぎの場所です。そこには12の泉と70本のなつめやしの木がありました。12も70も完全数です。イスラエルは、その水のほとりに宿営することができたのです。これまでの荒野の旅の後に行き継いだオアシスですから、どれほど癒されたことかわかりません。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる恵みであり、私たちの信仰の歩みです。マラがありますが、その後でエリムがあります。ですから、マラでとどまるのではなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。そのとき、私たちも完全な癒しを体験することができるのです。

Ⅰサムエル記4章

サムエル記第一4章から学びます。

 

Ⅰ.ホフニとピネハスの死(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。ペリシテ人はその歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう」と言った。そして主の箱が陣営に来たと知ったとき、ペリシテ人は恐れて、「神が陣営に来た」と言った。そして言った。「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。」

 

サムエルが主の預言者として全イスラエルに知れ渡っていたころ、イスラエルにとっての最大の敵はペリシテ人でした。ペリシテ人は、地中海沿岸地域に住む海洋民族であり、ヨーロッパや北アフリカの地中海沿岸地域にもいた民族です。彼らは当時、イスラエルが持っていなかった、鉄で出来た武器を持っており、非常に強い民でした。イスラエルは、このペリシテとの戦いに出て行きます。彼らはエベン・エゼルあたりに陣を敷き、ペリシテ人は、シロの西方30㎞あたりにあったアフェクに陣を敷きました。戦いが広がると、イスラエル人はペリシテ人に打ち負かされ、約4,000人が戦場で打ち殺されました。

 

兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは、どうしてペリシテに打たれたのかを考え、その原因が主の契約の箱が無かったからではないかと結論付けました。それで彼らは、シロから主の契約の箱を自分たちの陣営に持って来ることにしました。そうすれば、その箱が、自分たちを敵の手から救ってくれると思ったのです。ここには大きな誤解がありました。主の契約の箱を持ってくれば、自動的に勝利がもたらされるということはないからです。主はそのような箱に縛られるお方ではありません。主はどこにでもいることができる方であって、そのようなものにとらわれるお方ではありません。それなのに彼らは、その箱さえ運び込めば主が助けてくれると勘違いしました。もともと契約の箱は、神の臨在を象徴するものです。イスラエルの民が神に忠実であったら、契約の箱があるなしにかかわらず、主は彼らを勝利に導いてくださったはずです。それなのに、それがなかったら、たとえ契約の箱を運び込んだからと言って勝利が与えられるはずかありません。それは彼らの大きな誤解でした。

 

4節をご覧ください。イスラエルの兵たちはシロに人を送り、そこからケルビムに座しておられる万軍の主の箱を担いで来させます。そこには、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいました。主の契約の箱がイスラエルの陣営に運ばれて来ると、全イスラエルは大歓声をあげました。それは地がどよめくほどのものでした。これは、実にむなしいことです。大歓声をあげ、どんなに地がどよめいても、そこに神の息吹はなければむなしいのです。熱心さや勢いはあっても、主の御霊がおられなければ何の意味もないからです。宗教的に熱心であることは良いことですが、それが必ずしも主の臨在を保証するものではありません。

 

ペリシテ人はその歓声を聞いて動揺しました。そして、神の箱が陣営に来たことを知ると、ペリシテ人たちは恐れて、「神が陣営に来た」と言いました。ペリシテ人たちはなぜそれほど恐れたのでしょうか。それは、かつてイスラエルの神がありとあらゆる災害をもってエジプトを打ったことをうわさで聞いて知っていたからです。これはすごいですね。なぜなら、その出来事は300年以上も前の出来事だからです。彼らはそれを記憶していたのです。彼らは、イスラエルの神が力ある神であることを知っていて、恐れたのです。それでペリシテ人のリーダーたちはどうしたかというと、「男らしくふるまえ」と叱咤激励しました。

 

その結果どうなったでしょうか。こうしてペリシテ人が戦うと、イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕へ帰って行きました。その日倒れたイスラエルの兵は30,000人で、それはイスラエルにとって大きな打撃となりました。そればかりでなく、神の箱も奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死にました。これは2:23で預言されたとおりのことです。それがここで成就したのです。主が語られたことばは一つも地に落ちることがありません。すべてが成就します。

 

しかし、神の箱が奪われたからと言って、イスラエルの神が捕虜になったわけではありません。主はすべての神々にまさって大いなる方であり、大いに賛美されるべきお方です。この方は、人間によって支配されるようなことは全くありません。ペリシテ人がイスラエル人よりも優位に立つのはサウル王の時代までで、その後ダビデの時代には完全に制圧されることになります。神の箱が奪われたからといって神が死んでしまったわけではありません。やがて時が来れば、それが明らかになるでしょう。私たちはそのことを覚えて、たとえ今、神が見えなくなっているような時でも、この神の臨在と力を覚えて、ひれ伏し、伏し拝む者でありたいと思います。

 

Ⅱ.エリの死(12-18)

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「一人のベニヤミン人が戦場から走って来て、その日シロに着いた。衣は裂け、頭には土をかぶっていた。彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。 エリがこの泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ」と言うと、男は大急ぎでやって来てエリに知らせた。エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。」

 

ひとりのベニヤミン人が戦場から走って来てシロに着きます。戦場となっていたアフェクからシロまでは30㎞の上り坂です。その距離を一気に走って来たわけですから、それがいかに緊急のものであったかがわかります。その使者は、衣が裂け、頭には土をかぶっていました。これは、ユダヤ人たちが嘆き悲しんでいたことを表しています。

 

彼がシロに着いたとき、エリはちょうど、道のそばにいすに座って見張っていました。つまり、戦況の報告が届くのを待っていたのです。神の箱のことを気遣っていたからです。そして、この男が町に入って報告すると、町中こぞって泣き叫びました。イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ、多くの戦死者が出たからです。そればかりではなく、エリのふたりの息子も死に、神の箱も奪われてしまいました。

 

それを聞いた時、エリはその椅子からあお向けになって倒れ、首を折って死んでしまいました。年寄りで、からだが重かったからです。しかし、何といっても、神の箱が奪われてしまったのがその大きな理由です。エリは、イスラエルが敗北することと、ふたりの息子が死ぬことはある程度予期していましたが、まさか神の箱が奪われるとは思っていませんでした。彼はそのことのショックで椅子から倒れ落ち、死んでしまったのです。98歳でした。

 

彼は40年にわたってイスラエルをさばきましたが、その最後はあまりにも悲惨なものでした。それは彼が息子たちへの訓戒を怠ったための悲劇でした。しかし、こうした悲劇的な死の中にも希望があります。サムエルという後継者を育てたことです。また、彼は二人の息子たちよりも、神の箱が奪われたことに深い関心を持っていました。つまり、確かに彼は死にましたが、彼は霊的な人物であり、霊的救いに与っていた人であったということです。エリの死は確かに悲惨で突然のものでしたが、それでも、霊的救いに与っているなら、永遠のいのちの希望があるのです。

 

私たちもいつ来るかわからない死に備えて、自らの救いを確認しておく必要があります。教会では今、墓地の取得に向けて動いていますが、自分の死のことについてはなかなかピンと来ないかもしれません。でも、それは確実にやって来ます。しかもある日突然やって来るのです。それがいつのことであっても、救い主イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちが与えられたという確信を持って、主に最後まで従う者でありたいと願わされます。

 

Ⅲ.「イ・カボテ」栄光はイスラエルから去った(19-22)

 

最後に19節から22節まで見て終わりたいと思います。

「彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であったが、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたから」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから。」」

 

神の箱が奪われたという知らせを受けてエリはショックを受け、倒れて死んでしまいましたが、その悲劇は、臨月を迎えていたピネハスの妻にまで及びました。ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近でしたが、神の箱が奪われ、しゅうとと夫が死んだと聞いたとき、陣痛が起こり身をかがめて子どもを産みました。出産後彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたよ」と励ましましたが、それは彼女にとって何の慰めにもなりませんでした。彼女は何も答えず、気にも留めず、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子を「イ・カボテ」と名付けました。それは栄光がないという意味です。それは神の箱がイスラエルから奪われたからです。

 

エリの死同様に、ピネハスの死も悲惨なものでした。しかし、このような中にも希望が見られます。それは、彼女も自分の夫やしゅうとの死よりも、神の箱が奪われたことに衝撃を受けていたことです。つまり、彼女は夫のピネハスよりも霊的な人物であったのです。エリ同様、彼女もまた霊的救いを体験していました。彼女は、「栄光はイスラエルから去った」と二度叫んでいますが、それはある意味で正しいことですが、ある意味では間違っています。なぜなら、確かに神の箱はペリシテ人によって奪われましたが、それがペリシテの領土にとどまるのは一時的なことだからです。神ご自身が働きを始め、ペリシテ人をさばかれるとき、それはイスラエルの地に戻るようにされるのです。

 

自分の思いや感情の中に、主の大きさを制限することがないようにしましょう。また、一時的にそうなったからと言って、それですべてが終わってしまったわけではありません。神は私たちの知性や感情の中に閉じ込めておけるような方ではありません。今、栄光の御座に座しておられる主は、この天地の造り主であられ、すべてを支配しておられる方であることを認め、やがて必ずみわざをなしてくださると信じて、すべてをおゆだねしようではありませんか。

ヨハネの福音書10章22~30節 「わたしの羊たち」

きょう私たちに与えられているみことばは、ヨハネ10:22~30です。きょうは、この箇所から「わたしの羊たち」というタイトルでお話します。「わたしの」とは、イエスさまのことです。イエスさまはご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでくださいます。イエスさまの羊たちとはどのような羊でしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、キリストの羊たちはキリストについて行くということです。そして第二のことは、そのようにキリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださいます。そして、第三のことは、そのように永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないということです。

 

Ⅰ.キリストの羊はキリストについて行く(22-27)

 

まず、22~26節をご覧ください

「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」

 

ここから場面が変わります。これまでは生まれながら目が見えなかった人が、イエスさまによっていやされたことから、ユダヤ人の指導者たち、パリサイ人たちとの間に起こった論争が描かれていましたが、ここからはエルサレムで宮きよめがあった時の出来事に変わります。「宮きよめの祭り」とは、ここにしか言及されていない祭りです。これは紀元前164年のことですが、当時ユダヤはシリアという国に支配されていましたが、そのシリアの王でアンティオコス・エピファネスという人が自分こそ神であると宣言しエルサレムの神殿の祭壇にギリシャの偶像を立て、律法で禁じられていた豚をささげて神殿を汚した時、ハスモン家の祭司でユダ・マカバイという人が立ちあがり、彼が中心となってユダヤ民族の独立のために戦い、エルサレム神殿を奪回し、祭壇から一切の憎むべき偶像を取り除くことに成功したことを記念して行われるようになった祭りです。今の暦で毎年12月に一週間、宮きよめの祭りとして祝われるようになりました。「時は冬であった」とあるのはそのためです。旧約聖書にこの祭りについての言及がないのは、これが旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれたてから、新約時代が始まるまでの400年の間、これを沈黙の時代とか、中間時代と呼ばれていますが、その期間に起こった出来事だからです。

 

この宮きよめの祭り時に、イエス様が宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を取り囲んでこう言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

これは、19節から21節までのところをご覧なっていただくと分かりますが、当時ユダヤ人たちの間に分裂があったからです。ある人たちは、イエスは悪霊につかれて頭がおかしくなっていると言い、他の人たちは、イエスのことばを聞く限り悪霊につかれているとは考えられないと言いました。そんなスッキリしない中で、ユダヤ人たちはイライラしていたのでしょう。彼らはそうしたいらついた気持ちをイエスにぶつけたのです。

 

それに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。25~27節です。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(25~27)

 

イエス様はすでにご自分がメシアであることを何度も語ってきましたが、彼らは信じませんでした。「わたしの羊の群れに属していないからです。」イエス様の羊であればイエス様の声を聞き分け、イエス様について行きますが、そうでないということは、イエス様の羊ではないということです。誤解しないでください。これは彼らがイエスの群れに属していないので信じないというのではなく、彼らが信じないということがイエスの群れ属していない証拠であるということです。だから今イエス様を信じていないのは自分がイエス様の羊ではないからだと諦めないでください。イエス様の声を聞いて彼に従うなら、あなたもイエスの群れに属することができるのです。それにしても、彼らはなぜキリストを信じることができなかったのでしょうか。

 

そこには、この宮きよめが関係しているのではないかと思われます。すなわち、この宮きよめは、あの荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスからユダ・マカバイという人が中心となって、宮をきよめたことを記念する祭りですが、彼らが期待していたメシアとは、そのように政治的、軍事的に自分たちを救ってくれる人だと思っていたからです。しかし、イエス様が語られるメシアとは羊のためにご自分のいのちを捨てる人のことでした。いわゆる霊的メシアです。その受け止め方にギャップがありました。それゆえに彼らはイエス様をメシアとして信じることができなかったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。聖書のことばが自分の思いや考えとちょっとでも違うと納得するまでは信じないということがあります。あるいは信じていても、自分に都合が良いことは受け入れられても、そうでないことは割り引いてしまうということがあります。でも、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。」「彼らはわたしについて来ます。」とあるように、キリストの羊は、キリストの声を聞き分け、キリストについて行きます。それ以外のものにはついて行きません。羊飼いの声を知っているからです。

 

今聖書をマナでおられる任さんは、中国にいる娘さんから「お母さんもイエス様を信じてください。教会に行ってください。」と言われ、自分もイエス様を信じたいと思いましたが、どこに行ったら良いのかわかりませんでした。そんな時エホバの証人の方がご自宅を訪ねてこられました。そして、「自分たちが信じているのはイエス様よりも偉い方で、イエス様のお父さんですよ」と言われたとき、「あれっ、ちょっとおかしいなぁ。」と思いました。「イエス様は神様じゃないの?イエス様よりも偉い人なんているの?ちょっとおかしい」そうこうしているうちに、この方のご主人が創価学会の方にわずかばかり寄付をしたことで、「じゃ、創価学会の会館に来てください」と言われたので行ってみると、「おめでとうございます、あなたは今日から創価学会の会員です」と1枚の紙を手渡されました。会員証ですね。いや、自分はただ寄付をしただけで、別に会員になるつもりはありませんと言うと、何度もやって来ては「会員になりました、会員になりました」と言うのです。そのしつこさは異常で、これは絶対に違うなと思いました。そんな時教会の前を通ったら看板に十字架があるのを見つけました。小さな十字架でした。キリスト教会は控えめですね。もっと大きな十字架を掲げればいいのに、小さな十字架でした。でも、ここはキリスト教の教会ではないかと思って思いきって訪ねて来られたのです。そして、娘さんが通っておられる中国の教会の動画を見せてくれました。それが「歌いつつあゆまん」だったのです。私がこの賛美を知っているとそれに合わせて歌ったら、「これホンモノね」と聖書を学ぶようになりました。

 

キリストの羊はキリストの声を知っています。それでキリストについて行くのです。そうでない羊はその違いが分かりません。あなたはどうでしょうか。あなたはキリストの声を知っていますか。キリストの心を知っていますか。どうぞイエス・キリストを信じてください。キリストは良い牧者です。あなたのためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。ですから、その声を聞き分け、この方を救い主と信じ、この方に従ってついて行ってください。そのような人こそキリストの羊なのです。

 

Ⅱ.キリストは彼らに永遠のいのちを与えます(28a)

 

第二のことは、そのようにイエス様について行く者に、イエス様は永遠のいのちを与えてくださるということです。28節の前半をご覧ください。ここには、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とあります。これは、羊飼いであられるイエス様に従う者の特権です。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。イエス様はご自分について来る者に永遠のいのちを与えられます。それは罪の赦しと、来るべき世における栄光のいのちです。

 

18世紀のイギリスにおける伝道者で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジャン・ウエスレーは、臨終を前にして最後の言葉を伝えるために家族を集めました。彼は最後の60秒間、起き上がってこう言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そして再び横になり、両手を高く上げて、最後の力を振り絞ってもう一度言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そう言って彼は、息を引き取りました。

 

一番良いことは、神が私たちとともにおられることです。神がともにおられることと神がそばにおられることでは次元が違います。神は聖なる方ですから、罪ある者と共にいることはできません。神がともにいてくださるには、その罪が赦され神の子どもにされなければなりません。神はそのためにひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが、私たちの罪が赦されるための神の永遠のご計画だったのです。それが時至って、今から二千年前に、キリストは旧約聖書にある預言のとおりに来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、この方を信じる者はみな永遠のいのちを受けるのです。永遠に神が共にいてくださいます。ここでイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」と言っておられます。これは現在形で書かれています。それはやがて私たちの肉体が滅んだ後に受ける栄光のいのちだけでなく、イエス様を信じるすべての人がその瞬間から持つことができる神との交わりであり、神がともにおられることです。ウエスレーは、この永遠のいのち、神様が私たちとともにおられることが一番良いことです、と言ったのです。あなたは、この永遠のいのちを受けておられるでしょうか。

 

昨日、スーパーキッズが行われ、2階でお母さんたちの聖書の学びを持ちました。少し遅れて参加した一人の方が、2年前から仕事をしているのだが、最近なんだか空しく感じることがあるというのです。何のために働いているのかがわからない。別に働かなければならないというわけではないが、今のうちに働いていないと後で年をとってから働けなくなるのではないかと思って、ちょっとしたこずかい稼ぎのために働いているんだけど、これでいいのかなぁと思うようになったのです。いったい何のために生きているのかがわからない。「何のために生きているんですか。生きる目的はありますか」と聞かれるのです。「あります。イエス・キリストです」というとポーとしたお顔で聞いておられるので、話を続けたのです。私たちは肉体だけのいのちではなく、精神的、霊的な存在です。だから、霊が満たされなければどんなに肉体的に、物質的に満たされても幸せになれないんです。逆に、霊が満たされていれば、肉体的に辛いことがあっても、物質的に足りないことがあっても、乗り越えることができます。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けることが、私たちの生きる目的なのです。神がともにおられること、それが私たちにとって一番良いことなのです。

 

Ⅲ.キリストの羊は永遠に滅びることがない(28b-30)

 

第三のことは、彼らは永遠に滅びることがないということです。28節から30節までをご覧ください。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

これはものすごい約束です。イエス様は、ご自身を信じ、ご自身に従う者に永遠のいのちが与えると約束されましたが、そればかりではなく、だれも彼らをご自身の手から奪い去ることはできないと言われました。これはどういうことでしょうか?これは、どんなことがあっても救いから落ちることはないということです。たとえあなたが罪を犯すことがあっても、あなたがキリストの羊の群れに属しているなら、その救いから漏れることは絶対にないということです。問題は、この羊の群れに属しているかどうかです。イエス様を信じて永遠のいのちを受けているかどうかです。いったいどうやってそれを知ることができるのでしょうか。イエス様を信じて、バプテスマをうけたのであれば、永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか。

 

でも、この箇所にはそのようには記されてありません。ここには、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける」とあります。また「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」とあります。これがキリストの羊の群れに属している羊たちです。すなわち、キリストの羊たちは、キリストの声を聞いて、キリストに従うということです。これは、全く罪を犯さないということではありません。羊は愚かで、弱く、無力です。すぐに道に迷ってしまう動物です。イエス様について行ってるようでも、すぐに道を踏み外してしまいます。おっちょこちょいなんですね。落ち着きがありません。でもそういうことは全く関係ないのです。大切なのは、キリストの声を聞いて、キリストについて行くかどうかです。自分が道に反れてしまったと思ったなら、キリストの声を聞いて悔い改めればいいのです。それを聞かないで、自分は立派な者だと思っているとしたら、それこそキリストの声に従ってしない証拠と言えます。ですから、表面的には見分けがつきません。ただ一つ言えることは、キリストの羊はキリストの声を聞き分けて、キリストについて行くということです。もしそうであるなら、あなたはキリストの羊です。その人は永遠のいのちを受けるだけでなく、だれもキリストの手から奪い去られることはありません。

 

パウロは、この真理を次のように述べています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)

だれも、また何も、どんなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは父なる神と一つになって、私たちの手をしっかりと握り締めていてくださるからです。救いについてこれほど確かな保証はありません。

 

私たちはしばしば信仰というものを私たちが神の御手をつかんでいることだと考えていますが、それは大きな間違いです。もしも信仰というものがそのようなものであれば、疲れたり、躓いたりしたら、手を離してしまう危険があります。よく「私は意志が弱いので、信じても長続きしないのではないかと思います」と言われる人がいますが、そのような人は、信仰というものを自分の意思で続けていくものだと思っているのです。でも、信仰とはそのようなものではありません。信仰は私たちが神様の御手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださることです。

たとえば、小さな子供が親の手をつかんで歩いているのを想像してみてください。もしもその時子供が何かに躓いたら、子供は手を離して転んでしまうでしょう。しかし、もしも親が子供の手をつかんでいたら、たとい子供が躓いても親がしっかりと子供の手をつかんでいるので転ぶことはありません。それと同じで、私たちの救いというのは、私たちが神の御手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手をつかんでいてくださることなのです。そうであれば、たとい私たちが何かにつまずくことがあっても、決して倒れてしまうことはありません。

 

私たちの周りには、キリストの羊を、キリストから奪い去り、罪の中に引き戻そうとするものがたくさんあります。絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。でも、もしあなたがキリストの羊であるなら、あなたはキリストの手の中で守られており、決して滅びることはありません。なぜなら、キリストがあなたの手をつかんで離さないでいてくださるからです。

 

最後に30節を見ておわりたいと思います。ここには、その手がどれほど確かなものであるかが記されてあります。それは「わたしと父とは一つです」という言葉です。これは、イエス様と永遠の父とは全く一つであるということです。その本質と力において、また意志において全く一つなのです。つまり、イエス様は父なる神と同等の力を持った神であるという意味です。この箇所を見ても、イエス様よりもお父さんの方が偉いというエホバの証人の主張が間違っていることがわかります。イエス様と父なる神は全く一つであって、その神があなたの手をつかんでいてくださるのです。であれば、だれがあなたを奪い去ることができるでしょうか。あなたはキリストの手の中で完全に守られており、神が約束してくださった永遠のいのちを受け、永遠に神がともにいてくださることを体験することができるのです。

 

ですから、あなたにとって最も大切なことは、あなたはキリストの羊の群れに属しているかどうかということです。キリストの羊は、キリストの声を聞いて、その声に従います。あなたもキリストの声を聞いて、キリストを信じ、キリストの羊の囲いに属してください。そうすれば、何も、だれも、どんなことも、あなたをキリストから奪い去ることはできないのです。この不透明な時代、何があるかわかりません。一寸先は闇です。しかし、目の前がどんなに暗くても、キリストがあなたの手を握っていてくださいます。つかんで離さないようにしています。これほど確かな平安はありません。今週も何が起こるかわかりませんが、何が起こっても、キリストの声を聞いて、その声に従いましょう。あなたはイエス・キリストの囲いに属している羊なのですから。

出エジプト記14章

出エジプト記14章から学びます。

 

  1. パロの追跡(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」

 

いよいよ出エジプトのクライマックスを迎えます。主の力強い御手によってイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地に向かって行きます。イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13:20)。エタムは荒野の端にあります。つまり、その先は荒野(シナイ半島)であるということです。そこから荒野の旅が始まります。その荒野は、「シュルの荒野」と呼ばれていますが、「エタム」はそのシュルの荒野の一部です。その「エタム」に宿営していた時、主がモーセに告げられました。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と。

何ということでしょう。折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、「引き返して」というのですから。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンに宿営せよと命じられたのです。いったいなぜ主はそのように命じられたのでしょうか。3節、4節をご覧ください。それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。

「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。」

そこは、海と山に囲まれたような所でした。つまり、迷路のように間違ったところに入ってしまったか

のように思えるような場所だったのです。ですから、ファラオは、イスラエル人が道に迷ったと思い、あとを追って来るでしょう。その結果、神の民を苦しめたエジプトに最終的なさばきが下されることになるのです。このエジプト軍のさばきこそ、出エジプトの一連の出来事のクライマックスです。この出来事を通して、神はご自身の性質と力を示され、ご自身の栄光を現されるのです。その結果、エジプトは、主こそ神であるということを知るようになります。また、イスラエルの民も、主が自分たちのために戦われるということを知るようになるのです。イスラエルの民は、主が仰せられるとおりに、引き返しました。皆さんはどうでしょうか。それが自分の思いと違っても、主の言葉に従うでしょうか。

 

5節から9節までをご覧ください。

「民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。」

 

イスラエルの民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちはイスラエルの民に対する考え方を変えてこう言いました。

「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」

そこで、ファラオは、戦車を整え、自分でその軍勢を率いてイスラエルの民を追跡しました。そして、ファラオの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツァフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたイスラエルの民に追いつきました。これはイスラエルにとっては予想外の展開でした。海辺に宿営していたので、逃げ場がなかったのです。また、主の導きによってその地に宿営するようになったのに、窮地に追い込まれてしまったのです。

 

物事がうまく行っている時はだれでも喜べますが、問題は、そうでない時はどうかということです。なかなか受け入れられないのが現実です。しかし、試練の中に置かれた時は神のお許しなしには何一つ起こらないことを思い起こし、忍耐することを学びましょう。時が来れば、神のみわざが現されるようになるからです。

 

  1. 絶体絶命のピンチの中で(10-18)

 

そのような状況の中で、イスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10-12節をご覧ください。

「ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 

ファラオは間近に迫っているのを見たイスラエルの民は、大いに恐れて主に向かって叫びました。

この叫びは主に助けを求めての叫びではなく、主につぶやくための叫びでした。いわゆる不信仰の叫びです。叫びには二種類の叫びがあります。一つは信仰の叫びであり、もう一つは不信仰の叫びです。彼らの叫びは信仰によるものではなく不信仰によるものでした。それはその後のところで、彼らがモーセに対して非難していることからもわかります。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(12)

 

彼らは、どのようにモーセを非難しましたか。イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。これは皮肉です。荒野で死ねば、埋葬の心配はいりません。要するに、信仰の冒険よりも奴隷としての安全が欲しかったのです。いわば奴隷根性ですね。奴隷根性が彼らの心を支配していました。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという思いです。

 

これは、罪の奴隷から解放された私たちも抱きがちな思いです。物事が順調に進んでいる時は良いのですが、ちょっとでも困難に直面すると、こんなことならいっその事、信じなければ良かった・・・というようなことを口走ってしまうことがあります。信仰によって前進しないと、こうした罪の奴隷になってしまいます。

 

確かに、彼らのこれからの荒野での生活は過酷です。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼

らには主がともにおられ必要を備えてくださり、敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生き

ていることを、荒野の旅を通して知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒

野の旅をするようになります。けれどもそれは、主だけがすべての源であり、主との関係があらゆる祝

福にまさることを知るためなのだということを覚えていなければなりません。

 

13節、14節をご覧ください。

「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

動揺するイスラエルの民に向かって、モーセは何と言ったでしょうか?モーセはまず、「恐れてはならない」と言いました。つまり、ファラオとその軍勢を恐れてはならないということで、恐れるべき方を畏れよ、ということです。恐れは信仰と相容れない感情です。信仰の反対が恐れです。イエス様は、何度も「恐れてはならない」と言われました。

 

次に、しなければならないことは、しっかりと立つことです。つまり、逃げ出そうとするなということです。「しっかり立って」とあります。私たちはこうした状況に直面すると、すぐにそこから逃げだそうとします。しかし、主が私たちに命じておられることは逃げることではなく、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:9)。と言いました。

 

そして次に、「今日あなたがたのために行われる主の救いを見な」ければなりません。つまり、主からの解決を待ち望まなければならないということです。それは「今日」もたらされます。明日ではなく「今日」です。それはすみやかにもたらされるのです。主の救いは近いのです。

 

その結果はどうなりますか?「あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」つまり、今見ているエジプト人はいなくなるという意味です。モーセは、それがどのようにしてもたらさるのかわからなかったでしょう。しかし、彼は自分たちの目の前からエジプト人が消え去るということを確信していたのです。

 

主があなたがたのために戦われます。戦うのは自分ではありません。主があなたがたのために戦ってくださいます。主は、海と風を軍勢して戦ってくださいます。ですから、自分たちに戦闘の経験がなくても心配する必要はありません。

 

ですから、私たちに必要なことは何でしょうか。私たちに必要なことは、「ただ黙っていなさい」ということです。つまり、何かに脅えて叫んだり、自分の感情で動いたりするのではなく、主がなされることを待ち望まなければなりません。霊的な戦いにおいて自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが教会の中に蔓延していると、だれがそんなうわさを流したのかと捜し回りたくなるでしょうが、それこそが敵の策略なのです。そうなると大変なことになります。「主よ。すべてをあなたにゆだねます。あなたが戦ってください。」と祈るなら、勝利がもたらされるのです。

 

15節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」」  モーセは、主に叫んでいました。それはイスラエルの民のように不信仰の叫びではなく、信仰の叫びでした。モーセは叫ぶようにして祈っていたのです。そんなモーセに対する主の言葉は、「イスラエルの子らに、前進するように言え」ということでした。前進すると言っても、それは大変なことです。背後から敵が迫っていたのですから。前進するためには海に向かって進まなければなりません。イスラエルの民は、海がまだ分かれていない状態で前進しなければなりませんでした。それが信仰です。海が分かれてから前進するのは信仰とは言いません。それは確認と言います。でも、海がまだ分かれていないのに前進するなら、それは信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないことを確信させるものだからです。彼らに求められていたのは、主の言葉を信じて前進することでした。

 

いったいどうやって前進して行ったらいいのでしょうか。主はモーセに、「あなたの手を挙げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい」と言われました。そうすれば、イスラエルの子らは海の中の乾いた地面を行くことができます。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?ここに「エジプトは、わたしが主であることを知る。」とあります。主とは、「わたしは、あるというものである」です。他の何ものにも依存することなく存在することができるという意味です。すなわち、全能者であられます。この天と地と海と、その中のすべてのものを造られた主は、海を分けることなど簡単におできになるのです。問題は、この主のことばに対して、どのように応答するかです。もし信じて従うなら、主の栄光を見るでしょう。エジプトは主こそ神であるということを知るようになるのです。

 

私たちが信じている神がいかに偉大なお方であるかを思い巡らしましょう。そして、この神にすべてをゆだね、そのおことばに信仰をもって応答したいと思うのです。

 

Ⅲ.紅海を渡る(19-31)  最後に、19節から31節までをみて終わりたいと思います。

「イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。「主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

 

イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この「神の使い」は、雲の柱の中にいる受肉前のキリストのことです。イスラエルの陣営の前を進んでいた雲の柱は、民のうしろに移動し、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に立つ分離壁となりました。それは真っ暗な雲でした。エジプトの陣営は、この真っ暗な雲の中に迷い込ませられたので、イスラエルの陣営に近づくことができませんでした。

 

次に、モーセが手を海の上に伸ばすと、強い東風が吹いて来て、紅海の水が右と左に分かれて、そこに乾いた地ができました。それでイスラエルの民は、その海の真中の乾いたところを進んで行きました。世界中のだれが、このような奇蹟を体験したことがあるでしょうか。ないでしょう。考えられません。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能者であられるのです。  それから主は、モーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車と、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)と言われました。モーセがそのようにすると、朝明けに海が元の通りに戻りました。水が元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおったので、彼らはみな海に沈んでしまいました。残った者は一人もいませんでした。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのです。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見ました。彼らは今こそ真の意味で、エジプトの奴隷の状態から救い出されたことを確信しました。自分たちを支配していた者は海辺に死にました。古い時代の象徴であったエジプトは、すでに海のかなたに葬られたのです。そして、目の前には自分たちが進んで行く新しい世界が広がっていました。それはまさに罪の奴隷であった古い人に死に、新しいいのちに生まれ変わったことを象徴しています。私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマによって、罪の奴隷から解放されたのです。

彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを。もう自分たちを襲ってくるものは何

一つありません。完全な勝利です。私たちも古い自分はもう死んでしまったということを、信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死んだのです。それがあなたを支配することは決してありません。私たちは今、それを信仰にもって受け止めなければならないのです。もう罪は葬り去られたのです。罪はもはや私たちを支配することはありません。詩篇103:12に、「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」とあります。また、ミカ7:19には、「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」とあります。

 

31節をご覧ください。

「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

イスラエルの民は、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。それまでは信じていなかったのでしょうか。それまでも信じていましたが、半信半疑でした。しかし、今、この大いなる御力を見て確信したのです。これは、私たちにとっても言えることです。イスラエルが、主の大きな御力を見て信じたように、私たちはキリストの十字架と復活を信じて信じました。このことがはっきりしていることが大切です。自分がキリストとともに十字架で死に、キリストにあってよみがえったという事実にしっかりと立っているなら、たとえ自分が罪から解放されていないように感じることがあっても、実際には、キリストとともによみがえったという事実を見て、いのちに歩み続けることができるからです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。

ヨハネの福音書10章~18節 「わたしは良い牧者です」

きょうは、「わたしは良い牧者です」というタイトルでお話しします。すでにお話ししてきたように、ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です」という表現が七回出てきます。まず、6章35、41節でしたね、「わたしはいのちのパンです」とありました。それから、8章12節には、「わたしは世の光です」とありました。そして前回見た10章7,9節には、「わたしは門です」とありました。きょうの箇所に出てくる「わたしは良い牧者です」とは、四回目となります。

 

イエス様はここで、ご自分を良い羊飼いにたとえでいらっしゃいます。私たちの周りには羊がいないので、羊飼いとはどのようなものなのかについてあまりよくわかりませんが、当時のパレスチナではよく羊が飼われていたので、イエス様がこのたとえを話された時、これを聞いていた人々はピンときたのではないかと思います。いったい良い羊飼いとはどのようなものなのでしょうか。イエス様はここで良い牧者について三つの特徴を取り上げておられます。

 

Ⅰ.良い牧者は羊のためにいのちを捨てる(11-13)

 

第一に、良い牧者は羊のためにいのちを捨てるということです。11~13節をご覧ください

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 

この箇所の直前に「わたしは羊たちの門です」とたとえで話されたイエス様は、今度はご自身が羊たちの牧者であると言われました。ただの牧者ではありません。良い牧者です。良い牧者とはどのような者でしょうか。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。牧者ではない雇い人はどうかというと、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりするのです。しかし、良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

旧約聖書に登場するダビデは、元々羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦って羊を守りました。羊飼いは、羊が奪われたとき、ただ羊を食われましたと言うだけではだめでした。その際に実際に野獣と戦った証拠として、その足取り返してきたとか、耳を取り返してきたというのを見せなければなりませんでした。確かにこの人は戦ったけれども仕方なく食われてしまったとか、そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならなかったのです。それで、結構多くの羊飼いが命を落とすことがあったのです。実際にそういうことを見たという方もいます。その様な経験を通してダビデはこう言いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:1-4)

主はこのような羊飼いでした。ダビデは実際に羊飼いだったのでそのことをよく知っていました。それにしても、良い羊飼いはどうして羊のためにいのちを捨てるのでしょうか。それは雇い人ではないからです。雇い人ではないので自分の利益や報酬のために生きているのではなく、羊のために仕えていたからです。それで狼などがやって来ると、羊たちを危険から守るためにいのちがけで戦ったのです。また、羊を養うために牧草地へ導いて行ったり、いこいの水のほとりに連れて行きました。その時にも危険が伴いますが、いのちがけで羊を守ったのです。

 

しかし、雇い人はそうではありません。雇い人はそこまでしません。羊よりも自分の方が大切なので、そうした危険に直面するとすぐに逃げ出してしまうのです。そこまでして守りたいとは思いません。彼らはただ雇われているだけなので、羊たちのことなど全然心にかけていないのです。このような牧者に養われている羊たちは可哀想そうですね。何かあったらすぐにどこかにいなくなってしまうのですから。いたとしても羊たちのことなど心にかけていません。そこまでして犠牲を払いたいとは思わないのです。本当に羊のことを心にかけていれば、羊が何百匹いても、その1匹1匹を心にかけるはずです。それが出来るのが良い羊飼いです。

 

エゼキエル書34章に次のようにあります。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」(エゼキエル34:1-11)

 

これはエゼキエルを通して語られた主のことばです。イスラエルの牧者たちは何のために牧会しているのか、羊を養うためなのか、それとも自分を養うためなのか?羊たちのことを顧みず、自分を養っている牧者たちに対して、羊を飼うのをやめさせると言われたのです。これは言い換えると、羊飼いになろうとしているのか、雇い人になろうとしているのかということです。非常にきつい言葉です。あなたは羊飼いになろうしているでしょうか、それとも、ただの雇い人でしょうか?

 

私は牧師として、いつもこのことを問われることがあります。一生懸命に養っているようでも、それがただの見せ掛けのような時があるからです。自分の本質を見ると、自分もこのイスラエルの牧者とちっとも変わらない者ではないかと思わされます。真の意味でこのような牧者であり得るのはイエス様だけです。なぜなら、イエス様は羊のためにいのちを捨てられるからです。そうです、これはイエス様の十字架の死の預言だったのです。イエス様は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。自分のためにいのちを捨てる方がいることを知るなら、私たちの生き方も少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

 

先日、知り合いの牧師が、その話の中で教会に集っている一人の姉妹のことをお話ししてくれました。その姉妹は、自分を受け入れてくれる人には心を開きますがそうでない人には貝のように心を閉ざされるので、自分には心を開いていろいろ打ち明けてくれるのでいいのですが、他の方々には全く心を開かないので困っているとのことでした。それで他の姉妹たちと不協和音が生じ、姉妹たちの中にはそれが原因で教会から出て行こうとする人までいるとのことでした。姉妹たちからすれば、牧師がその姉妹のことで振り回されてしまい、教会全体を見られなくなっているという不満がうっ積していました。とは言っても、他の人が関わってくれるのではあればいいですが、そういう人がだれもいないという状況で、もし自分がやらなければいったいこの姉妹はどうなってしまうのかと思うと放っておくこともできず、結局、牧師自身が追い詰められていたのでした。

その話を聞いていてすごいなぁと思ったのは、この牧師はたとえ自分がどんなに辛くても、その人を決して置き去りにしたり投げ出したりしないで、いつも心にかけ、一つ一つ丁寧に対処しようとしていたことです。また、確かにそのことで教会の中に不協和音が生じても、むしろ、そのことを通してキリストの愛を学ぼうとしていたことでした。ある姉妹がそのことで我慢できなくなり、「わかりました。それじゃ、私はもう教会から出て行きますから」と言ってドアを開けた時、「ちょっと待ってください。このような時こそイエス様の愛を学ぶ時ではないですか。イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言うと、その姉妹は、「わかりました」と言ってそのことばを受け止められました。牧師も牧師ですが、姉妹も姉妹ですね。自分の感情に従うのではなくイエス様のみことばに従って行こうという姿勢がすばらしいと思ったのです。

 

そうです、大切なのは、イエス様ならどうされるのかということです。イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。私たちの愛は、このイエス様のいのちがけの愛から生まれているのです。イエス様は良い牧者です。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。

 

Ⅱ.良い牧者は羊のことを知っている(14-15)

 

第二に、良い牧者は羊のことを知っているということです。14節と15節をご覧ください。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

 

イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛している方にすべて知られているなら安心ですね。でも、知らないこともあるでしょう。おそらく、人間の社会において一番よく知っているのは夫婦ではないかと思いますが、夫婦はお互いのことを一番よく知っているようで、意外に知りません。「もう何年も一緒にいるのに、うちの旦那は私のことをちっともわからないの・・・」とか、「お父さんは、何年も一緒にいるのにお母さんの好きな料理もわかんないんだから」と言うのを聞くことがあります。分かっているようでわかっていません。

 

しかし、イエス様は私たちのことを完全に知っておられます。どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じようにです。父である神は御子であられるイエス様をどれほど知っておられるでしょうか。また、御子なるイエス様は、父なる神をどれほど知っておられるでしょう。父なる神も子なる神も完全であられますから、完全に知っておられるわけです。しかもただ単に知的に知っているということ以上に、そこには親密な交わりがあります。深い関心と愛情をもっておられるということです。イザヤ書の中にこのようなみことばがあります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

人があなたのことを忘れても、母親が乳飲み子を忘れても、わたしはあなたを忘れません。あなたに深い愛情を持っておられるのです。これはまさに目からうろこではないでしょうか。

 

しかし、ここには単に牧者であられるイエス様が、羊である私たちのことを知っているというだけでなく、羊である私たちも、牧者であられるイエス様のことを知っているとあります。皆さんは、自分の牧者であるイエス様のことを、どれだけ知っているでしょうか。3、4節には、牧者が自分の羊たちを連れ出し、その先頭に立って行くと、羊たちはそれについて行くとあります。彼の声を知っているからです。今、世の中にはいろいろな声があふれています。けれども私たちは、イエス様の声を聞き分けなければなりません。どうしたらイエス様の声を聞き分けることができるでしょうか。それはいつも本物にふれていることです。何が本物ですか。

 

先月から、中国人の任さんと聖書を学んでいます。中国の娘さんから教会に行ってほしい、イエス様を信じてほしいと言われ、教会を探しているんだけれども、教会にもいろいろあるでしょう、危ない。だから、間違いのない教会を探しているんですと、ある日、教会を訪ねて来られました。すると、この教会は本物かと聞くのです。本物かって、自分たちは本物だと思って聖書を学んでいますが、どの団体も自分たちが本物だと信じているわけですから、何を根拠に自分たちが本物であるかを説明するのは難しいです。

すると、娘さんは中国の教会で、聖歌隊で歌っているのですが、そのユーチューブの動画を見せてくれました。それは「歌いつつあゆまん」という賛美でした。私がそれに合わせて歌ったら、「それ、ホンモノね」と言って、一緒に学ぶことになりました。別に「歌いつつ歩まん」を賛美しているから本物だというわけではないでしょうが、少なくても、イエス様を救い主として信じている教会というのは間違いないということで、信じていただけたのでしょう。でも、本当は聖書を見なければなりません。聖書にあるイエス様とはどのような方なのかを知り、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み、イエス様に信頼して生きていくことが大切なのです。そのようにして、私たちがイエス様を深く知る時に、イエス様の心が見えてきます。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってきます。そのような関係が出来てくるのです。私たちはそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。

 

韓国のアン・リスクさんという人が書いた「たとえそうでなくても」という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、それを拒否し信仰を貫いたために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくのです。

そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来られたらだれの所にいくであろうと考えました。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、直ぐにそうじゃないと気づかされました。それじゃどうされるかと言えばと、あの満州の女性の所に行くのではないかと気づかされたのです。この人こそが一番可哀想な人。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、自分が今成すべきことは、この人に愛を与えることだと気づかされました。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いてくれるようになっていました。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼みました。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がないのです。アンモニア臭がすごかったからです。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けました。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちます。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えました。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていきました。

本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクさんはそのように出来たのです。私たちも本当にイエス様の心を知っていくなら、喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないでしょうか。これが信仰生活の鍵です。どれほどイエス様を知っておられるかということです。あなたはどうでしょう。どれほど知っておられるでしょうか。私たちもそのように主を知っていく者となっていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.良い牧者は一つの群れ、一人の牧者となる(16-18)

 

第三のことは、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」」

 

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなければなりません、と言われました。それらも導いて、一つの群れ、一人の牧者となるのです。どういうことでしょうか。イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられるというのです。それが、イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、教会のことです。どのようにして一つの群れとするのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかって死なれることによってです。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られたのです。そして、それらの人々を一つの群れにするためでした。教会とはまさに、イスラエル人の信者と異邦人の信者が、キリストをかしらとする「新しい一人の人」とされたものなのです。

 

このことについてパウロは、エペソ2章14~16節で次のように言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)

 

イエス様がここで「一つの群れ、一人の牧者となる」と言われたのは、このことだったのです。ユダヤ人信者と異邦人の信者によって造り上げられる新しい一人の人です。それがキリストの教会です。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。十字架こそ敵意を打ち砕き、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄し、二つのものを一つにすることを実現してくださるものでした。この十字架によって、私たちは一つになることができるのです。そして一つになることが主のみこころだということがわかると、私たちもまた様々な偏見や憎しみを捨てて、お互いに愛し合い、一つとなるために務め励むことができるのではないでしょうか。

 

教会では先月からイングリッシュ、ワーシップが行われていますが、これはすばらしいことだと思います。なぜなら、様々な国の人たちが一つの所に集まり、言葉の違い、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、イエス・キリストにあって一つになろうとすることだからです。そのために、イエス様が十字架で死んでくださいました。キリストの十字架によってすべての敵意が廃棄されました。キリストの十字架によって私たちは一つとされ、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになったのです。ハレルヤ!これがイエス様のみこころです。今、韓国との関係が最悪だと言われています。中国との関係も微妙です。アメリカとの関係も貿易の問題があります。でも、私たちはキリストにあって一つになることができるのです。すばらしいですね。ここに本当の平和があります。本当の平和は政治的にはもたらされるものではありません。経済によっても無理です。ただイエス・キリストによってのみもたらされます。イエス様が十字架にかかって流されたその血によって、すべての敵意が取り除かれたので、私たちは一つになることができるのです。これが本当の平和です。イエス様はそのために来てくださいました。それは、決して教理を無視し、ただ一つになれば良いということではありません。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖書に啓示されてあるキリストのみこころに従って一つになるということです。聖書の御言葉に堅く立ち、御霊による一致を求めることです。そうした御言葉に立っている人たちと一致協力し、世界宣教に励まなければなりません。

 

あなたは、イエス・キリストの十字架によって神と和解しましたか。そして、兄弟姉妹との間に、またあらゆる人との間に平和がもたらされたでしょうか。どうかイエス様を信じてください。イエス様は良い牧者です。良い牧者は私たち羊のためにいのちを捨ててくださいました。また、良い牧者は、羊である私たちのことをよく知っておられます。そして、良い牧者は、さまざまな破れ口に立って、その関係を修復してくださいます。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはありません。主がともにおられますから。」この方によって導かれる人生はどんなに幸いでしょう。この方を信じ、この方にすべてをゆだね、この方に全く信頼しましょう。イエス様は必ずあなたを救ってくださいますから。なぜなら、イエス様は良い牧者であられるからです。