Ⅰサムエル記17章1~30節

サムエル記第一17章前半から学びます。ここには、ダビデがペリシテ人ゴリヤテを倒すという有名な話が記されてあります。これを前半と後半の二つに分けて学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテ人ゴリヤア(1-11)

まず、1~11節までをご覧ください。
「1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。4 一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」

ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集しました。彼らはいつもイスラエルを攻撃する機会をうかがっていましたが、その好機がやって来たと判断したのです。それでユダのソコという所に集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。一方イスラエルは、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをしました。両者の間には谷があったので、お互いにそう簡単には相手側に攻め込むことができませんでした。それで、対峙したまま膠着状態が続いていたのです。

そのとき、一人の代表戦士がペリシテ人の陣営から出て来て、一つの提案をしました。それは、「一人を選んで、おれたちのところによこせ」(8)ということでした。つまり、代表戦士同士の戦いによって決着をつけようというものです。その戦いで負けた方は、勝った方の奴隷となって仕えなければなりませんでした。これは当時よく行われていた習慣でした。しかし、ペリシテ人の陣営から出て来た代表戦士は、普通ではありませんでした。その名はゴリヤテで、ガテの生まれで、背の高さは6キュビト半もありました。1キュビトは約44センチですから、6キュビト半ということは2メートル86センチになります。今年NBAで活躍している八村塁選手は2メートル3センチですから、それよりも80センチも高い巨人です。しかも、この男が装備していた武具がすごいです。頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていました。胸当ての重さは青銅で五千シェケル(約57キロ)です。足には青銅のすね当てを着け、背中には青銅の投げ槍を負っていました。槍の穂先は手地で、600シェケル(約6.8キロ)もありました。完全武装です。このゴリヤテが、イスラエル人の前に立って、「今日、この日、おれがイスラエルの陣営を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負しようではないか。」(10)と言って来たのです。

このペリシテ人ゴリヤテのことばを聞いた時、サウルと全イスラエルはどのように反応したでしょうか。11節をご覧ください。
「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」ゴリヤテの目的は、まさにここにありました。非常に大きな武器を身につけ、その巨体を
見せつけて、脅し文句を口から吐くことで、彼らに恐れを抱かせようとしたのです。戦いに
おける最大の敵は心の中の恐れです。これを相手に抱かせることができれば、勝利を手中に
収めたと言っても過言ではありません。案の定、サウルもイスラエルの兵士たちも、恐れの
ために縮み上がり、立ち向かうことができませんでした。彼らはまんまとゴリヤテの戦法に
はまってしまったのです。

今、世界中をコロナウイルスの猛威が吹き荒れています。確かに、この問題を軽く見てはいけないでしょう。しかし、私たちはこの敵を見て恐れてはなりません。この敵の攻撃でさえ神のご支配の中にあり、神がすべてを働かせて益としてくださると信じ、神に信頼しなければならないのです。

C・S・ルイスが、このように言っています。「サタンは、「人々に不安や恐れ、パニックを引き起こし、ビジネスを停止させ、学校や礼拝所、スポーツイベントを閉鎖し、経済を混乱させてやる。」と主張するが、ジーザスは、「人々を一つにし、家庭を回復させよう。食卓に食べ物を並べ、みんながペースを落とし、人生の中の本当に大切なものに目を向けられるよう助けよう。子供たちには、この世ではなく、お金や物でもなく、私に信頼することを教えよう。」と言われる。」

それにしても、いったい彼らはなぜ恐れてしまったのでしょうか。その原因はどこにあったのでしょうか。それは元をたどれば、サウルが主に背いたことで、主の霊が彼から去って行ったことです。その結果、彼は勇気をもってゴリヤテに対抗することができませんでした。恐れは人を身動きできない状態に陥れ、苦しめます。しかし、神が共におられるなら、たとえ敵がどのような巨人であっても、また罵声によって脅してきても恐れる必要はありません。神が戦ってくださるからです。

もしあなたが神を信じ、神の前に正しく歩んでいるなら、突如襲ってくる悲劇を恐れる必要はありません。神があなたとともにいて戦ってくださるからです。あるいはそれは、より大きな勝利をもたらし、父なる神に栄光を帰す機会となるかもしれません。ですから、私たちにとって最も大切なのは敵がどのような者であるかではなく、誰と共に歩むのかということです。私たちが経験する悲劇は、より大きな勝利をもたらすための戦場であることを覚え、いつも神を第一とし、神とともに歩むことを求めましょう。

Ⅱ.戦場に遣わされたダビデ(12-23)

次に、12節から23節までをご覧ください。
「12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。
17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。」

ベツレヘムのエッサイには8人の息子がいましたが、そのうちの上の3人の息子たちが、サウルに従って戦いに出ていました。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマがそれです。ダビデは末っ子で若かったので、戦いに行くことはできませんでした。彼はサウルのところへ行ったり、帰ったりしていました。サウルのところへ行ったのは、サウルがわざわいの霊によっておびえるときに竪琴を弾いて心を穏やかにさせるためです。ベツレヘムの自分の家に帰ったのは、羊を世話するためでした。彼がそのように王宮と家との間を行ったり来たりしているとき、例のペリシテ人ゴリヤテは、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て、イスラエルの軍勢をあざけり、罵倒していました。しかしダビデは、イスラエルが非常な危機に直面していることを、まだ知りませんでした。

そんな時です。父エッサイから兄さんたちのために、炒り麦1エパと、パン10個を陣営に急いで持って行くようにと言われました。エッサイは老人になっていたので、自分で行くことができなかったので、ダビデを遣わすことにしたのです。遣わした目的は、3人の息子たちの安否を確かめることでした。入り麦とパンとチーズを千人隊長に届けたのは、息子たちの安否を確かめ、彼らを安全な所に置いてもらうように依頼するためだったのでしょう。そして、彼らが無事であるというしるし(証拠)を持ち変えるようにと命じました。

それでダビデは翌朝早く、父エッサイに言われたとおりに、羊を番人に預け、言われた物を持って出かけて行きました。それはちょうど軍勢が陣地に向かうところでした。ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に向かって走って行き、兄たちに安否を尋ねると、なんと、ちょうどそのとき、ゴリヤテがペリシテ人の陣営から上って来たのです。それでダビデは、ゴリヤテの言葉を聞いたのです。

これは小さなことのようですが決して偶然のことではなく、主の導きによるものでした。ちょっとした出来事ですが、ここにも神の摂理の御手が働いているのを見ることができます。このことによってダビデはゴリヤテの罵声を聞くことになったからです。そして、このことが事態の転換点となりました。それは人間が計画したことではなく、神から出たことでした。父エッサイは息子たちの安否を気遣ってダビデを戦場に送りましたが、ダビデを戦場に送り、ゴリヤテと戦うように導かれたのは神です。私たちの人生にもこのようなことが起こります。自分の人生に起こっていることがどういうことなのかわからないことがありますが、すべては神の導きによるのです。神は私たちの計画を用いて、それよりもさらにすばらしいことを成さろうとしておられるのです。それゆえ、私たちにも求められていることは、そこに神の不思議な摂理の御手を認めることです。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
心を尽くして主に拠り頼むなら、主があなたの道もまっすぐにしてくださるのです。

Ⅲ.生ける神の陣(24-30)

その結果、どのようなことが起こったでしょうか。24節から30節までをご覧ください。
「24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」30 ダビデは兄から別の人の方に向き直り、同じことを尋ねた。すると、兵たちは先ほどと同じ返事をした。」

ゴリヤテは上ってくると、イスラエル軍を罵倒しました。それを聞いたイスラエルの人はみな、非常に恐れ、彼の前から逃げ出しました。彼らは、ゴリヤテを討ち取る者がいれば、サウルがその者に多額の賞金を与え、自分の娘を妻として与え、その者の家の者には兵役や納税の義務を免除するということを聞いていましたが、だれもゴリヤテと戦おうとする者はいませんでした。

しかし、ダビデだけは例外でした。彼は生ける神の陣をそしるゴリヤテに対して、そばに立っている人たちに言いました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」(26)
すごいですね。自分の倍もあるような巨人を目の前にしても、ダビデにとってそんなことは全く関係ありませんでした。彼にとって重要だったことは、だれと共におられるのかということでした。確かに敵は強そうに見えましたが、彼は無割礼の者です。しかし、こちらには生ける神がついています。その生ける神の陣をそしるというのは、神ご自身をそしることであって、決して許されることではありません。ダビデは、この敵に義なる憤りを感じました。ここにダビデの信仰を見ることができます。

ダビデが人々と話しているのを見た兄のエリアブは、ダビデに怒りを燃やして言いました。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」(28)
エリアブは、なぜダビデに怒りを燃やしたのでしょうか。ダビデの言動が生意気だと思ったからでしょう。確かに人間的に見れば、ダビデの言動は横柄に見えたかもしれません。しかし、問題はダビデの態度ではなく、エリアブがダビデのことを何も理解していなかったことです。彼は、ダビデが羊を置き去りにして勝手にやって来たかのように思ったようですが、そうではなく彼は父に頼まれて来たのです。しかも、羊はちゃんと番人に預けて来ました。ですから、ダビデはただの興味本位で来たわけではなく、自分に与えられた責任を果たすために来たのです。エッサイは、そのことを分かっていませんでした。

そんなエリアブに対してダビデは何と言ったでしょうか。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」彼は兄の無理解な態度に怒ることなく、丁重に反論しつつも、自分に与えられた使命をしっかりと果たしました。これがもしサウルだったらどうだったでしょうか。自分が悪く言われたことで、非常に怒って、そのことをずっと思っていたでしょう。これが、人を恐れる人と、神のことを思っている人の違いです。

このようなことが私たちの人生にもよくあります。主の働きに献身しようとするとき、あるいは意味のある働きを始めようとするとき、一番近くにいて応援してもらいたいと思っていた人たちから理解してもらえなかったり、蔑まれたりすることがあるのです。それでも、ダビデが、そのことで怒ったり、わめいたりせずに、丁寧に、冷静に対処していったように、私たちも信仰によって霊性に対処しなければなりません。

それは、私たちの主イエスに見られる態度です。「22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:22-24)とあります。私たちも人から批判されることがあっても、そのような人たちの声によって失望する必要はありません。神のみこころを歩むなら、必ず道が開かれるからです。大切なのは、正しくさばかれる主にすべてをお任せすることなのです。