ヘブル人への手紙12章18~29節 「揺り動かされない御国」

きょうは、「揺り動かされない御国」というタイトルでお話したいと思います。御国とは天国のことです。私たちにはこんなにすばらしい天国が約束されているのですから、感謝をもって歩もうではありませんかということです。

 

私たちの信仰生活はマラソンのようなものだということをお話ししてきましたが、長いマラソン競争の中にはいろいろなことが起こってきます。しかしそれがどんなことがあっても弱り果ててしまうことがなく最後まで走り続けるために、この手紙の著者はいろいろな勧めをしてきました。前回の箇所ではその一つがすべての人との平和を追い求めなさいということであり、聖い生活を追い求めなさいということでした。また、この世のものにしか関心がなく、信仰のことにはまったく関心がなかったエサウのようにならないように注意しなければならないということでした。

 

今日、私たちが学ぼうとしている箇所には、その理由が述べられています。新改訳聖書には訳されていませんが、実は18節の文章の最初には、原文で「なぜなら」という言葉があって、その理由が述べられているのです。なぜ平和を追い求めなければならないのか、なぜ聖い生活を追い求めなければならないのか、なぜエサウのようにこの世のことばかりに関心を持っていてはならないのか、なぜなら、私たちにはほんとうにすばらしい天の御国に入るという特権が与えられているからです。私たちがマラソンをする上で重要なことはどこに向かって走っていくのかということです。それがわかっていればどんなに苦しくてもそれを乗り越えて進んで行くことができますが、そうでないとちょっとした困難にぶつかっても「や~めた」と言って途中でリタイヤすることになってしまいます。そこでこの手紙の著者は、私たちの信仰のゴールである天国がどれほどすばらしいものであるかを見せることによって、その信仰にしっかりと留まるように励ましているのです。それでは、天国とはどういうところでしょうか。

 

Ⅰ.すばらしい天国(18-24)

 

まず、18節から24節までをご覧ください。ここには旧約聖書に出てくるシナイ山と比較して、天国はそのようなものとは全く違うものであると述べられています。18節と19節には、「あなた方は、手でさわられる山、燃える火、黒い雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。」とあります。

 

これはどういうことかというと、昔イスラエルがエジプトを出てから十戒が与えられたあのシナイ山に近づいた時のことを指しています。神が臨在していると言われていたシナイ山に近づこうとしていた時、それはどのようなものだったでしょうか。「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができず、その光景があまりにも恐ろしかったので、イスラエルの民は皆、震えおののいていました。つまり、あの十戒はどのようにして与えられたのかというと、恐れの中で与えられたのです。神様はあまりにも聖いお方なので、罪に汚れた人間が近づこうものならばたちまち滅ぼされてしまったのです。

 

それは人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを教えるためには必要なことでした。神は全く聖い方なので、少しでも罪を持っていたり汚れた人間が近づくことはできませんでした。すなわち、神の律法がモーセによって与えられたのは、人間がいかに罪深い者であり、自分の力では到底律法には従えない存在であることを自覚させるためだったのです。ですから、それが与えられた時の状況も、当然それにふさわしい雰囲気であったわけです。厳かな感じです。軽くありません。日本の国家はそんな感じですね。とても厳かです。あまりにも厳かすぎて沈みそうになります。十戒が与えられたのはそのような厳かな雰囲気の中で、神に近づこうものならたちまち打たれてしまうような恐ろしさがあったのです。

 

しかし、私たちが行こうとしている天国は、決してそのような所ではありません。それは、私たちの罪がイエス様の十字架の死によって取り除かれたからです。ですから、神は全く聖く、威厳のある方ですが、私たちは何の恐れもなく大胆に神に近づくことができるのです。22節から24節までをご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルよりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

 

これが神の恵みよって、クリスチャンに与えられている行き先です。それはシナイにある山ではなく、シオンにある山です。地上のエルサレムではなく、天にあるエルサレムです。そこは、生ける神が臨在しているところなのです。それはこの書の11章に出てきたアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰に生きた人たちが待ち望んでいた都でした。ヨハネの黙示録21章に出てくる幻は、まさにこの神の都、天国の光景だったのです。

 

その神の都、天のエルサレムの特徴は、シナイ山における恐ろしいさばきではなく、無数の御使いたちによる大祝会です。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言われましたが、そうした無数の天使たちの喜びが沸き起こっているところ、それが天国なのです。この天国が私たちに近づいているのです。やがて私たちはこの天のエルサレム、永遠の都に住むようになるのです。

 

そして、そこには天に名が登録されているすべての聖徒たちがいます。パウロやペテロといった聖書に登場している人もいれば、最近死んだクリスチャンの肉親や友人たちもいます。そこにはイエス様を信じて、天に名が書き記されたすべての聖徒たちがいて、主をほめたたえているのです。

 

私が初めて韓国の教会を訪問したのは1993年のことでしたが、ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われている光林教会での礼拝を今でも忘れることができません。そこには何千人もの礼拝者がいましたが、礼拝が始まると礼拝堂の両脇のカーテンが自動的に閉まると、何百人で構成されたオーケストラが讃美歌を奏でたのです。するとこれまた何百人の聖歌隊が現れて、一緒に「来る朝ごとに」という讃美歌を歌いました。体が震えるほどの荘厳さと感動を覚えました。でも、天国での賛美はそんなものではありません。無数の御使いたちとともに何千、何万の聖徒たちが賛美をささげているのですから、ものすごい喜びと感動にあふれていることでしょう。

 

そればかりではありません。そこには私たちをそこに入ることができるようにしてくださった新しい契約の仲介者であられるイエス様がおられます。天国が恐ろしいところではなく喜びに満ち溢れた所であるのは、もっぱらそのイエス様がおられるからなのです。なぜなら、イエス様はその血によって私たちの罪を贖ってくださった方だからです。イエス様の血によって私たちのすべての罪が赦されました。もはやあなたの罪が思い出されることはありません。ですから、あなたは何も恐れることなく大胆に神のみもとである天国に行くことができるのです。

 

この「近づいている」という言葉は、そのことを表しています。原文では完了形といって、もうすでに起こった決定的なことを意味しています。そうです、イエス様が十字架で私たちのために死なれ、私たちのために血を流してくださったので、私たちの罪は取り除かれ、大胆に神のみもとに行けるようになりました。確かに今はまだこの地上にあってさまざまな問題で悩みで苦しまなければなりませんが、神の聖霊が私たちの心の中に住んでおられるので、この聖霊によって、そうした問題に悩まされることがあっても、さながら天国のような喜びにあずかることができるのです。そのことをペテロはこう言っています。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまは見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

何とすばらしい約束でしょうか。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども、このイエスを信じたことで、その中に入れていただきました。そして、ことばに尽くすことができない栄えに満ちた喜びに踊っているのです。

 

皆さんは、この喜びに踊っていますか。皆さんが近づいているのは恐ろしいシナイの山でしょうか、喜びにあふれたシオンの山でしょうか。だれでもイエス・キリストを信じるなら、この天国に名が書き記されるのです。そして何の恐れもなく、大胆に神のもとに近づくことができるのです。私たちが見なければならないのはこの天の御国です。天国を見れば希望が与えられます。そして、目の前にどんな問題があってもそれを乗り越えて走り続けることができるのです。

 

Ⅱ.天国の一員として(25-27)

 

第二のことは、天国がそれほどすばらしいところであるならば、その一員としての自覚と責任を持たなければならないということです。25節から27節までをご覧ください。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どんな場合でも、すばらしい特権にあずかれば、必ずそれに伴った責任があります。それは、どのような場合でも同じです。多くの子どもたちは早く大人になりたいと思っています。大人になれば何でも自由で、自分の思うように出来ると思っているからです。しかし、大人になれば自分の思うように出来ると同時に、自分のすることに対して責任を持たなければなりません。最近では必ずしもそうではないようですが、しかし多くのサラリーマンは社長になりたいと思っています。社長になればあれも出来る、これも出来ると、何でも出来ると思っているからです。送り迎えは運転手付きの車で、混雑した通勤電車に乗らなくても済みます。しかし、社長ほど大変な立場はないのです。というのは、社長には大きな責任があって、自分が下す決断いかんによっては、社員とその家族の生活がかかっているわけで、まかり間違うと、彼らを路頭に迷わしかねません。そういうことを考えると、オチオチ眠ってなどいられないのです。

 

それは私たちクリスチャンも同じで、クリスチャンにも大きな特権が与えられていて、その特権というのは大人になるとか社長になるといったものとは比べものにならないくらいすばらしいものです。神が永遠に共におられる天国へ行くことができるのですから。これほどすばらしい特権はありません。天国のすばらしいさがわからない人にとっては、それは絵に描いた餅のようなものでしかないかもしれませんが、そのすばらしさが少しでもわかっている人にとっては、道草を食ったりしないで、一目散に天国へ向かって行きたいと思うほどです。

 

しかし、そのような特権にあずかっているのに道草を食っている人がいるので、この手紙の著者はこのように語りかけているのです。「語っている方を拒まないように注意しまさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どういうことでしょうか。イスラエルの民は、エジプトを出てから荒野を旅している間、モーセを通して神のことばを聞いていましたが、彼らは繰り返し、繰り返しそれに従わず、つぶやいたり、不平不満を言って神に逆らったがために、エジプトを出た時に成人していた六十万人の中で約束の地に入ることができたのはたった二人しかいなかったのです。それはヨシュアとカレブという人だけで、他の人たちはみな、荒野で死ななければなりませんでした。約束の地に入ることができなかったのです。それは、彼らが神の仰せに従わなかったからです。であれば、神そのものであられるイエス様が仰せになられたことに従わなかったら、どれほど大きな罰を受けるかは明らかなことです。昔イスラエルが約束の地に入ることができなかったように、神が約束してくださった天の御国に入ることはできないのです。それが、天国へ行く私たちクリスチャンに与えられている責任なのです。昨日の信仰があすの信仰を保証するわけではありません。神の前ではきょう真実であることが重要なのです。ですから、語っておられる方を拒まないように注意しなければなりません。

 

「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:7-14)

 

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

 

皆さんはいかがでしょうか。イエス様の御声を聞いて、それに従っておられるでしょうか。それとも、悪い不信仰の心になって生ける神から離れているということはないでしょうか。「きょう」が大切です。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないように注意しましょう。そして、もし神から離れているなら、神に立ち返らなければなりません。それが悔い改めるということです。悔い改めてもう一度、あなたの人生の主人としてイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、主はあなたを赦してくださいます。この確信を最後までしっかりと保ちたいと思います。そうすれば、私たちはキリストにあずかる者となるのです。

 

26節と27節をご覧ください。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」どういうことでしょうか。

 

「あのとき」というのは、あのシナイ山で神が語られた時のことです。あのときは、神の御声が全地を揺り動かしましたが、今度は、地だけでなく、天も揺り動かすと、神は言われます。何のためでしょうか。決して揺り動かされることのないものが残るためです。これは何のことを言っているのかというと、この世の終わりのことです。聖書はこの世には終わりの時があって、その時にはすべてのものが滅ぼし尽くされると書かれてあります。天地万物のものがふるいにかけられるのです。ペテロ第二の手紙3章をご覧ください。1節から14節に次のように記されてあります。

「愛する人たち。・・・当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれて去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

 

このように聖霊はペテロを通してお語りになりました。万物が揺り動かされる時が来るのです。ペテロは個人的にも揺り動かされました。神殿も揺り動かされて壊れました。なぜでしょうか。本物が残るためです。本物が残るためにすべてのものが揺り動かされて、ふるい落とされるのです。

それが近くなればなるほど悪がはびこります。今、ほんとうに悪がはびこっています。それは、主がもう近くまで来ているという証拠でもあります。私たちが見ているものはすべて崩れ去ってしまいます。しかし、これらすべてが揺り動かされても、決して揺り動かされないものがあります。決して滅びないものがあるのです。それが天の御国です。神は私たちのために新しい天と新しい地とを用意しておられるのです。そして、私たちクリスチャンは、この神の国の一員とされている者なのです。何とすばらしい特権でありましょう。

 

Ⅲ.揺り動かされない御国を受けているのですから(28-29)

 

ですから、結論は何かというと、28節です。

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」

 

すべてのものが揺り動かされ、崩れ落ちる日が来ます。それはちょうどノアの日のようだとイエス様は言われました。人々が平和だ、平和だと言っているような時に、突然、盗人のように襲ってくるのです。しかし、私たちには盗人のようにはきません。私たちはそのことをすでに神の言葉を通して知っています。そして私たちは、その恐ろしい日に会うことはありません。どうぞ安心してください。キリストを信じている人はさばきに会うことがなく、死から命へ移っているからです。私たちは決して揺り動かされることのない神の国に入れられ、キリストとともに共同相続人とされているからです。ですから、私たちは感謝しようではありませんか。恐ろしいところに近づいているのなら感謝などできません。そこにあるのはただ恐れだけでしょう。しかし、私たちは恵みに近づいているのです。神の国に近づいているのです。そここそ、私たちのゴールなんです。やがてそこから主が来られます。だから私たちは感謝しようではないか、というのです。

 

元々罪人であった私たちは、最後の日に万物がふるいにかけられるときには、到底それには耐えられない者でした。ただ恐れて、震えるしかない者でした。しかしそんな私たちが決して揺り動かされることがないように、神はご自身の御国に入れてくださいました。それは本当に感謝なことです。

 

そして、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。私たちは救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。良い行いによるのではありません。信じるだけで救われました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。すべての人にこの恵みが提供されています。でもこの恵みを拒み続けるならば、最後のところに書いてあるように、私たちの神は焼き尽くす火です。罪が残れば、その罪のゆえにさばかれてしまいます。神の前に隠すことは誰も、何もできません。でも神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。

 

ですから滅びることがないように、神は私たちを愛して御子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは世をさばくためではなく、御子イエス・キリストによって世が、あなたが救われるためです。そのようにヨハネの福音書3章17節に書かれてあります。神は私たちを救いたいのです。御子を与えてくださったほどに愛してくださいました。このキリストを信じるようにというのが、聖書のメッセージなんです。そして信じた者は、この神の愛から引き離そうとする者に気をつけなさいということを、この手紙の著者は繰り返し、繰り返して言っています。罪の誘惑があります。苦難もあります。迫害もあるでしょう。そうしたものを私たちは避けて通れません。だから、信仰の先達者たちを見なければなりません。彼らはそのような中にあっても最後まで信仰の道を走り通しました。何よりも私たちが見なければならないものは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様です。この方を見なければなりません。この方から目を離してはなりません。そこには苦難はたくさんありましたが、みな栄光のゴールに入りました。キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、このキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないのです。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続けましょう。

申命記26章

 

 申命記26章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.初物のいくらかを捧げなさい(1-4

 

「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。」

 

モーセはこれまで、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきかについて具体的に語ってきました。まず5章から11章までのところで神に対する基本的なあり方として、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することが語られ、12章からはその具体的な適用について詳細に語られてきました。今回の箇所は、その最後の部分となります。

 

イスラエルの民は今、ヨルダン川の東側にいますが、もうすぐ神が約束してくださった相続地に入ります。そして約束の地に入れば、これまでの荒野での生活とは異なり、その土地からの産物を収穫できるようになります。そうしたら収穫するその地のすべての産物の初穂をいくらか取って、かごに入れ、主の御名が置かれた場所、これは神の祭壇のことですが、そこへ持って行かなければなりませんでした。なぜでしょうか。主の祭壇に供えるためです。それは主にささげる礼拝の供え物としてささげられました。神はこのようにして、イスラエルの民が神の恵みに感謝するようにされたのです。3節の報告は、カナンの地に入ってから、最初の収穫を得たことへの神に捧げる感謝の告白とともに、最上のものを主にささげるという信仰の表明でもあったのです。というのは、初穂は最上のものだからです。(出エジプト23:19,34:26)私たちも、私たちの持っている一番良い物で、神に感謝をささげましょう。すべてのものに、神を第一とする訓練を積みたいものです。

 

2.神を知ること(5-11

 

 次に5節から11節までをご覧ください。

「あなたは、あなたの神、主の前で、次にように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。」

 

ここには、初物を捧げる時に唱えなければならない内容が記述されています。それは極めて簡略化されたイスラエルの歴史として、エジプトに下ったヤコブから始まり、神が、どのようにしてエジプトの奴隷生活から解放してくださり、約束の地カナンに導いてくださったのかということです。それは神の一方的な恵みによるものでした。彼らが主に叫ぶと、主はその声を聞いてくださり、彼らの窮状と労苦と圧迫をご覧になられ、その力強い御手と、恐ろしい力、しるしと、不思議をもって、彼らをエジプトから連れ出し、この約束の地カナンへと導いてくださいました。それをその地の産物の初穂とともに主の前に供えて礼拝しなければなりませんでした。そのように唱えることによって神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを思い起こし、その神を喜び、礼拝したのです。

 

私たちはどれほど神によって与えられた恵みと奇跡を思い起こしているでしょうか。神に願う時には必至に祈っても、それがかなえられた瞬間に「ああ、良かった」と思いとともに、神様のことをすっかり忘れているということが多いのではないでしょうか。それは神を求めているからではなく、自分の祝福を求めているからです。しかし、イスラエルが神から祝福されたのはその祝福のためではなく、その祝福によって、神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを知るためでした。私たちは自分が祝福されるために神を求めるのではなく、神を求めるならば神は祝福してくださるということを信じて、神を知ることを求めて行かなければなりません。

 

3.十分の一をささげなさい(12-15

 

次に12節から15節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

 

神は、初物を捧げるだけでなく、レビ人、在留異国人、やもめに与えるために、その収穫の十分の一をささげるように命じられました。この十分の一は、各自が住んでいる町に集められ、在留異国人、みなしご、やもめに分け与えられました。それは「贈り物」と呼ばれ、主の前に区別してささげられました。そのようにして十分の一をことごとく主の前に持って来た者は、15節にあるように、「御民イスラエルとこの地を祝福してください。」と大胆に祈ることができました。感謝と喜びをもって神の命令に従うとき、私たちは神の恵みと祝福を期待することができるのです。

 

また14には「そのいくらかでも死人に供えたこともありません。」とありますが、当時カナンの地でも日本と同じように、死者に供え物をする習慣があったようです。生きている時に家族を大切にするのではなく、死んでから死者のためにたくさんのお金をかけます。しかし、聖書の神は、生きている者の神であり、生きている人々を大切にされます。死んだ人についてはすべて神の御手の中にあるので神にゆだね、生きている人々に慈善を行なうことが求められているのです。

 

このように神への礼拝は、他の人々への思いやり、愛の業となって表れます。神を礼拝するということは神のいのちに生きることによって、そのいのちを人々に分かち合うことでもあるのです。神の愛がその人のうちにとどまっていなければ、その礼拝は形式だけのものであり、死んだものです。礼拝をとおしてキリストの愛に駆り立てられて、それが具体的な行いへと向かっていくのです。勿論、この順序は大切です。まず神への礼拝があって、そこから隣人への愛の業が生まれます。私たちの礼拝はどうでしょうか。キリストの愛に駆り立てられて、それが困っている人々への思いやりとなって表れているでしょうか。

 

 4.主の宝の民、聖なる民(16-19

 

 最後に、16節から19節をご覧ください。

「あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」

 

ここには、「きょう」という言葉が3回も繰り返されています。これは、モーセがヨルダン川の東側モアブの荒野でイスラエルに語ったみことばですが、そこで語られた日のことを指しています。それはモーセを通して語られた神のおきてと定めとを守り行うと彼らが宣言した日のことです。その応答に対して神は彼らを「主の宝の民」、「主の聖なる民」であると宣言してくださいました。つまり、イスラエルは、主のすべての命令を守り行うと誓うことによって主の宝の民とされ、主の所有とされているということです。これは旧約時代のイスラエルだけでなく、新約時代におけるクリスチャンにも言えることです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7私たちがイエス様にとどまり、イエス様のことばが、私たちのうちにとどまっているなら、何でもほしいものを求めなさい・・・と。それがかなえられるのは、私たちがイエス様にとどまっていることによって、イエス様のいのちと祝福に与ることができるのであって、そうでなかったらそれらを期待することはできません。

 

イスラエルは主のいましめと定めとを守り行うと宣言したことで、主の宝の民、聖なる民となりました。私たちも神の定めとおきてである聖書にとどまり、これを守り行うとき、主の聖なる民、宝の民になるのです。私たちが主に愛され、罪から救われたことがわかるなら、それはもはや義務ではなく、心からの喜びとなるはずです。

 

ペテロはこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(Ⅰペテロ2:9-10私たちは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのことがわかると、神のみことばに従うことは喜びとなるのです。

ヘブル12章12~17節「神の恵みから落ちないように」

きょうは、「神の恵みから落ちないように」というタイトルでお話したいと思います。信仰生活はよく長いマラソンのレースにたとえられますが、その長いレースの途中にはほんとうに苦しいことが多く、最後まで走り続けることはそんなに楽なことではありません。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちも度重なる迫害や困難の中で、霊的にかなり疲れが出ていました。マラソンの場合そうですが、出発する時はだれもが元気一杯に勢いよく飛び出すものですが、やがて二十キロ地点、三十キロ地点になりますと先頭集団との間にかなりの距離が出きて来て、もうついてはいけない思い脱落していくように、彼らも霊的にかなり疲れ、衰弱していました。手は弱り、ひざは衰えて、ついには集会に出席することさえ止めるようになっていたのです。それはマラソンでいうなら途中棄権の一歩手前という状態です。そこでこの手紙の著者はそんな彼らを励まし、だれも神の恵みから落ちることがないようにと勧めるのです。いったいどうしたら最後まで走り抜くことができるのでしょうか。きょうはそのために必要な三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.まっすぐにしなさい(12-13)

 

まず、第一のことは、まっすぐにしなさいということです。何をまっすぐにするのでしょうか。弱った手と衰えたひざです。また、自分の前に置かれた走路、道ですね、それをまっすぐにしなければなりません。12節と13節をご覧ください。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道をつくりなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは相当疲れ果てていました。手は弱り、ひざは衰え、足はなえて関節をはずす一歩手前になっていました。どうして彼らはそれほどまでに弱り果てていたのでしょうか。それは、彼らを弱める者がいたからです。それは悪魔であり、その手下である悪霊どもです。悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。彼らにいろいろな困難が起こるようにして、彼らの霊的力を弱めようとしていたのです。しかし、彼らの手足が弱り果てていたのはそうした悪魔の巧妙な働きもさることながら、この文脈から考えると、特に二つの原因があったことがわかります。一つは、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあるように、そうした重荷や罪とを捨てることができなかったことです。そのため彼らの手足は完全に麻痺し、だらけてしまったのです。もう一つの理由は、5節に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」とありますが、それを神の懲らしめとして受け止めることができなかったことです。それで彼らはいつまでもいじいじして、立ち上がることができないでいました。

 

そのような彼らに必要だったのはどういうことでしたか。ここには、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにすることでした。また、彼らの足のためには、まっすぐな道を作るということでした。なぜかとうと、そのようにすることによって、彼らのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるからです。

 

これはとても大切なポイントではないかと思います。普通、私たちはだれかが霊的に疲れているとか、いろいろなことで落ち込んでいるとき、どうやってその人を励まそうとするかというと、その人に同情することによって励まそうとすることが多いのではないかと思います。「それは大変ですね、しばらくゆっくり休んでください」とか、「気分転換に自分の好きな事でもしてみたらどうですか」というふうにしてです。勿論、時にはそのようにして相手の気持ちに寄り添ってあげることは大切ですが、必ずしもそのようにすることによっていやされるかというとそうでもなく、そのようにすることによってかえって深い溝にはまってしまうことも少なくありません。では聖書はそのような時にどのようにするようにと勧めているかというと、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにするようにと勧めています。つまり、あなたが疲れ果てているなら、もうだめだと思うなら、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするようにと言うのです。あなたのなえた足が関節をはずさないため、いやむしろいやされるためです。実際のところ、何もしないでいることが問題をもっと悪化させたり、回復をもっと遅らせてしまうことがあります。それはもっと弱らせてしまうことになるからです。手足が衰えた時、心が落ち込んだ時に必要なことは、そうした手足をまっすぐにすることです。そうでないと歩くことがおっくうになってきて、そのうちに本当に歩けなくなってしまうことにもなりかねません。

 

私は、今年始まってすぐに胆のうを摘出しました。胆石が悪さをしてしばしば発作を起こすので、一番の解決は胆のうを摘出することだと医者から言われ、そうすることにしたのです。数年前に一度手術をする予定でしたが病院の都合で手術が延期となったので、これはしばらく様子をみなさいということだと勝手に思い込み、というか手術がこわかったので、病院から抜け出しましたがその後も何度か発作に見舞われたので、これはしょうがないなぁと観念して手術を受けることにしたのです。医師の説明によると、これは腹腔鏡によって行われるので楽ですよと言われたのですが、実際は思っていたよりもひどく、麻酔がきれる頃は熱で意識がもうろうとしたほどです。それに身体中に点滴の管とか、血栓予防のマッサージなども取り付けられて身動きできない状態で、一日がとても長く感じられまた。その時、医者が信じられないことを私に言いました。「大橋さん、明日には歩けるようになりますからね。」明日には歩けるようになりますからと言われても、こんな状態でどうやって歩けというのか、無理でしょう、と思いましたが、医師の説明によると、最近の医学では、手術後、できるだけ早くリハビリした方が回復も早いということで、翌日には歩くようにしているということでした。何もしないでじっとしている方が、むしろ身体には悪いというのです。なるほど、じっとしていた方が身体にはやさしいのではないかと思われがちですが、実際には逆で、身体を動かした方がいいのです。

 

それは霊的にも言えることで、私たちの心が疲れ果ててもう立ち上がれないというときや、霊的に落ち込んだときに、もうだめなんですとじっとしていると逆に筋肉が硬くなって、なかなか立ち上がれなくなってしまいます。そのような時にしなければならないことは何かというと、その弱った手と衰えたひざをまっすぐにすることなのです。

 

それでは、その弱った手と衰えたひざとをまっすぐにするとはどういうことでしょうか。このまっすぐにするということばはルカの福音書13章13節にも使われていますが、そこでは「腰が伸びて」と訳されています。18年もの間、腰が曲がったままであった女性がイエス様のところに行くと、イエス様は彼女に、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、彼女の腰はたちどころに伸びたのです。彼女はどのようにして腰が伸びたのでしょうか。それはイエス様のところへ行ったからです。彼女はイエス様に呼び寄せられたとき、そのことばに従ってみもとに行ったので、いやされたのです。イエス様はこう言われました。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのころに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 

いやされるために必要なことは何もしないでいることではなく、イエス様のもとに行くことです。そうすればイエス様がいやしてくださいます。イエスのもとに行くなら、イエスがあなたの弱った手と足をいやし、強めてくださるのです。

詩篇103篇3~5節にはこうあります。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされるからです。あなたの若さは鷲のように、新しくなるからです。(詩篇103:3-5

また、イザヤ書53章4~5節にはこうあります。イエス様はあなたの病を負い、あなたの痛みをになったからです。彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちはいやされたからです。(イザヤ53:4-5)

ですから、イエス様のもとに行くなら、だれでもいやされるのです。

 

あなたはイエスのもとに行って、あなたの重荷をおろしていますか。あなたの弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしているでしょうか。だったらどうしてこんなに苦しまなければならないのでしょうか。どうしていつまでも困難や苦しみが続くのでしょうか。それはあなたがイエス様のところに行っていないからです。イエス様を信じますと言いながらも、実際にはイエス様のことばよりも他の人のことばを頼りにしているからです。それは短い毛布のようで、あなたを温めることはできません。あなたが真にいやされたいと願うなら、イエス様のところに行かなければなりません。イエスのもとに行ってイエス様をほめたたえ、イエス様に祈り、イエス様のみことばをいただくなら、あなたはいやされるのです。

 

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作らなければなりません。これは、あなたの道を整えなさいということです。信仰のマラソン競争をする上で障害となるもの、つまずきとなるもの、誘惑となるもの、足を引っ張るものがあるならそれらを取り除いて、まっすぐな道を整えなさいということです。これがないと困るんです、私にはそれが必要なんですと、長年執着してきたものに未練を残してはいけません。不要なものは一切捨てなければならないのです。そうでないと、あなたはいつも後ろ髪を引かれるようになかなか前に進んでいくことができないからです。

 

Ⅱ.平和と聖さを追い求めなさい(14)

 

第二のことは、平和と聖さを追い求めなさい、ということです。14節をご覧ください。ここには、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。これは、どういうことでしょうか。

 

信仰のレースにおいて邪魔になるもの、重荷になるものは捨てなければなりませんが、逆に良いものは取り入れなければなりません。ここにはその取り入れるべき二つの良いものが取り上げられています。それはすべての人と平和を保つこと、そして聖められるということです。

 

まず、すべての人との平和を追い求めなさいとあります。一部の人とか気の合う人とだけでなく、すべての人との平和を求めなければなりません。信仰生活において疲れ果ててしまう大きな原因の一つに、人間関係がうまくいっていないことがあります。ですから、すべての人と平和であることは大切なことで、それを追い求めるようにと勧められているのです。信仰生活がマラソンの競争にたとえられているからといっても、そこに競争があるわけではありません。競争があるとお互いに勝ち負けを争うようになり、敵対関係を作ることになってしまいます。そういう生き方には安心感とか喜びといったものはなく、いつも孤独と不安にさいなまれることになってしまいます。しかし、信仰生活における原理は競争ではなく共生であり、ほかの人を蹴落とすことではなく、ほかの人と一緒に生き、天国を目指してお互いに助け合うものです。ですから、すべての人との平和を追い求めていく必要があるのです。

 

どうしても赦すことができない人とどこかでばったり顔を合わせた時に、そこから逃げ出したくなるような生き方に、本当の自由や喜びがあるでしょうか。パウロは、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)と言っていますが、少なくても自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保つことを求めていかなければなりません。

自分はそのつもりでいても必ずしも相手がそれに応じようとしない場合もありますからうまくいかない場合もありますが、自分にできないことは神様にゆだねて、自分にできることとして、自分にできる限りは平和を保つようにベストを尽くすことが求められるのです。勿論、信仰に関することは妥協してはいけませんが、意外とそうでないところで自分を主張して争っていることがあるのではないでしょうか。そのような態度は百害あって一利なしで、何の益ももたらしません。イエス様も、「平和をつくる者は幸いです。」(マタイ5:9)と言われました。私たちは無用な争いを避け、平和をつくることを求めていかなければならないのです。そのためには、聖霊の力をいただかなければなりません。それは自分の力ではどうすることもできないことだからです。ですから、イエス様が平和を備えてくださいました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄してくださいました。このイエスを見上げるなら、聖霊の神がそれを可能にしてくださいます。

 

それからもう一つのことは、「聖められることを追い求めなさい」とあります。聖められることとはどういうことでしょうか。この「聖い」という言葉は、「清い」と少し違います。「清い」とは、よごれ、にごりなどがなく美しいこと、心に不純なところがないこと、清廉潔白を意味しますが、「聖い」とは、「区別する」という意味があります。英語ではHolyです。CleanとかPureではなくHolyなのです。この書物が何ゆえに「聖書」と呼ばれるのかというと、それはこの世の書とは異なっている書だからです。区別された書だからなのです。聖書は人が考え出した本ではなく、神ご自身が自らを啓示された書という意味で、区別されているのです。ですから、普通に私たちが本を読むように読んでも理解できません。なぜなら、聖書は神の息吹によって書き記されたので、同じ神の息吹(聖霊)を受けなければ理解できないからです。たとえ、大学の教授であっても、神の息吹を受けていなければ、トンチンカンな理解しかできません。それは光がなくて読むようなものです。ですから、あてずっぽうで、的を射てはいません。神がそのようにしたのです。

 

被造物と区別された聖なる神が、人やモノとかかわりを持たれる時、はじめてそれらが「聖なるものとなる」ということが可能になります。つまりこのヘブル12章14節の「聖なるものとなることを追い求めなさい」というのは、聖なる神とかかわった私たちが、そのかかわりにふさわしく生きることを意味しているのです。それを別な言葉で表現するなら、「聖別」ということばで表わされます。それは神の聖にならった倫理的生活のことで、きよい生活、この世にありながら、この世のものではない生き方、神のみことばに従った生活を意味しています。

 

たとえば、私たちは今こうして礼拝をささげていますが、なぜ礼拝をささげるのでしょうか。それは神を最優先にして生きているからです。この世にあってはいろいろな用事で日々忙しく走り回っていますが、その中にあって神を神として認め、この神を中心にして生きているという信仰の表明として礼拝をささげているのです。だれも暇なひとなどいないでしょう。みんな忙しくしています。しかし、その忙しさの中にあっても神を神として敬っているからこそ礼拝をささげるのです。だからこれを「聖別」というのです。この世と区別するのです。私たちは神に贖われた者として、神のものとして生きているので、この時間を神にささげるのです。もし余った時間、疲れて消耗しきった時間だけを神にささげて、「神さま。どうぞ言いたいことがあったら言ってください。」というのであれば、どんなに神様が語りたくても語りたくなくなります。自分のためには多くの時間を使いながら、神との時間のためには、わずかな時間しか割り当てられないとしたら、神からの良いものを得ることは期待できるはずはありません。

 

この世とのかかわり方においてはどうでしょうか。神から贖われたもの、神の所有の民として、神が願っておられるように生きているでしょうか。この世の価値観ではなく、神の価値観を持って生きているでしょうか。神の価値観が社会の風潮と相反するものだと分かっても、その価値観をしっかりと握って生きているでしょうか。

 

たとえば、ザーカイは取税人で金持ちでしたが、当時取税人というのはイスラエル人でありながらローマに協力して税金を取り立てていました。多くの場合、不正をして必要以上に税を取り立て、ローマに渡す以外のお金を自分たちで着服し、金持ちになっていました。ですからその不正直さとローマに協力したという理由でイスラエル人から嫌われていました。そのようなところにイエス様がやって来られると、いちじく桑の木に登って見ていたザーカイに向かって、「ザーカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。私はこれってものすごいことだなぁと思いました。もちろん、ザーカイと名前を呼ばれたということもすごいことですが、それよりも、このザーカイが取税人でみんなから嫌われていたことを百も承知のうえで彼の名前を呼ばれ、彼のところに行って客となられたことです。案の定、それを見ていた人々はつぶやいて言いました。「あの方は罪人のところに行って客となられた」

皆さんだったら行きますか。みんなから白い眼で見られ、みんなから嫌われている人の友となることをされるでしょうか。しないと思います。そんなことをしたら自分も白い眼で見られ、自分の立場が悪くなるだけです。けれども、イエス様はそうされました。イエス様は罪人の友となられたのです。本当に救いが必要な人というのはこのような人であることを示されたのです。私たちはむしろこういう人たちを受け入れ、こういう人たちのところに行って友とならなければならないのです。それはこの世の見方、考え方とは全く逆かもしれません。しかし、この世がどのように見ようとも、私たちはこの世の見方ではなく、神の見方、イエス様の見方で物事を見なければならないのです。それが聖であるということです。

 

神の民とされた私たちは、海の上に浮かぶ小さな船のようなものです。水の上に浮いて限りは大丈夫ですが、ひとたび船の中に水が入ってくるならば、沈むのは時間の問題です。もし私たちの舟の中にこの世の水を入れるなら、その船は沈むしかありません。私たちはこの世にあって、この世のものではないという生き方が求められているのです。その生き方がどのようなものか、私たちは聖書の歴史を通して学ばなければなりません。聖書はこの世とは区別された書、聖なる書であるからです。

 

なぜ私たちは聖められることを追い求めなければならないのでしょうか。それは、聖くなければ、だれも主を見ることができないからです。イエス様もこう言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから。」(マタイ5:8)神を見るためには、心がきよくなければならないのです。

 

イスラエルが40年の荒野の放浪生活が終え、いよいよ約束の地カナンに入っていく時を迎えていた時、イスラエルは南のシナイ半島の荒野からカナンの地に入るために、ヨルダン川の東の方に移動していきました。そしてエモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破ると、それを聞いたモアブの王バラクは恐ろしくなり、あることを思いつきました。それは預言者バラムを雇いイスラエルを呪わせるということでした。そこでバラムが出かけて行こうとすると、その途中で、ロバの前に御使いが立ちはだかりました。それが見えたロバは驚いて、駆け出したり、乗っているバラムを石垣に押し付けたり、道にうずくまってしまいました。そこでバラムがロバに鞭をあてて打つと、ロバが口を開いて言いました。「どうして三度もぶつんですか。これまでに、私が一度でもこんなことをしたでしょうか。」そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いがそこに立っているのを見ることができたのです。

 

いったいバラムがなぜバラクのところに行こうとしたのか。それは彼の心の奥深くに利得を求める心があったからです。そのためにバラムは神が見えなくなっていました。それが破滅をもたらすことだったので、神は御使いを遣わして止めようとしたのです。ロバはその御使いを見ることができたのに、預言者バラムは見えなませんでした。そのためにロバを三度も打ったのです。これが神が見えていない人の姿です。

 

私たちも同じではないでしょうか。神が見えていない状態の時には、自分の思うどおりにならないことが起こると、同じようになってしまいます。預言者バラムはどうして神が見えなかったのでしょう。それは利得に目がくらんでしまったからです。私たちも気をつけなければなりません。神が語られることの中に生きるようにと私たちは召されたのです。それが「聖別」されること、つまり、「聖められること」なのです。

 

Ⅲ.神の恵みから落ちないように(15-17)

 

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。15節から17節までをご覧ください。「そのためには、あなたがたは良く監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されることかのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 

ここには、だれも神の恵みから落ちないようにとあります。私たちは、神の恵みによって救われました。私たちが何かをしたから、できたから救われたのではなく、救われるためには私たちができることは何もなかったのに、イエス・キリストを信じるだけで救われたのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

であれば、私たちはこの恵みにとどまっていなければなりません。だれもこの神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

この一つの事例としてとりあげられているのがエサウです。エサウはイサクとリベカの息子で、双子の兄弟のお兄さんの方でしたが、ここに書いてあるように俗悪な者でした。彼は霊的なことよりも物質的なことにいつも心が奪われていました。ある日、彼が猟から帰って来ると、そこにとてもいい匂いがしたので何だろうと思って見てみると、弟のヤコブが煮物を煮ていたのです。彼は猟で疲れていたし、お腹もペコペコだったので、ヤコブに言いました。「どうか、その赤いのを、その赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」

するとヤコブは言いました。「じゃ、今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」長子の権利をゆずるなら、これをあげましょう。するとエサウは、「長子の権利なんて、どうでもいい。そんなの今の私に何にもならない。そんなのお前にあげてやる。それよりもその赤いのを食べさせてくれ。俺は腹がへって死にそうなのだから。」と言って、それをヤコブに売ってしまったのです。それは神の特別な祝福でした。それなのに彼はその神の祝福を一杯の食物と引き換えに売ってしまったのです。彼は神の祝福よりも、自分の欲を満たすことにしか関心がなかったのです。彼は腹を満たすために神の祝福を捨てたのです。彼は四十歳になったとき、ヘテ人エリ娘エフディナとヘテ人エロンの娘バセマテという神を信じていない二人の女性と結婚しましたが、彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種であっと書かれてあります。(創世記26:35)

神の恵みから離れて不信仰になると、貪欲な者、俗悪な者となり、多くの人に悪い影響を及ぼすようになります。そして、後になって祝福を相続したいと思っても後の祭りで、祝福されるどころか、彼の心を変えてもらうことさえできず、むしろ弟のヤコブを憎むようになり、殺そうとまで思うようになったのです。

 

だから、神の恵みから落ちないように、また、不信仰という苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることがないように注意しなければなりません。

 

あなたの信仰生活というマラソンは今どのような状態でしょうか。二十キロ地点、三十キロ地点に差し掛かり、疲れ果てていないでしょうか。腕はだらんとなって振る力がなくなり、ひざは衰えてがくがくしてはいないでしょうか。足はなえて関節をはずしそうにはなっていませんか。弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい。また、あなたの足のためには、まっすぐに道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。そして、神の恵みの中を最後まで走り続けようではありませんか。

申命記25章

 申命記25章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.正しい判決に従う(1-4

 

「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」

 

人と人との間に争いがあった場合、彼らは裁判に出廷し、判決を受けなければなりませんでした。そして、悪い方を悪いとする判決が下さるとき、その罪に相当する刑罰(むち打ち)を受けさせなければなりませんでした。そうでないと、人々が罪を犯すことをためらわなくなるからです。この単純で明瞭なことが人のかたくなさによって無視されることで、社会の秩序がどれほど崩されていることでしょう。

しかし、このように公義が行われる時でも、憐みを忘れてはなりませんでした。どんなにむちを打つ場合でも、四十を越えて打ってはなりませんでした。それは非人道的な処置となるからです。公義が行われる時でも、憐みを忘れない神の姿は、私たちにとっても必要なことなことです。

 

4節には、「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」とあります。くつことは、牛や馬の口にはめる「かご」のことです。これをつけることによって、牛や馬が食べられないようにしたのです。脱穀の作業というのは、なかなかの重労働で、重い石臼を引いてえんえんと回るわけですから疲れます。それは牛とか馬といったたとえ引く力の強い動物であっても同様で、喉が渇いたり、おなかがすいたりするわけです。それで脱穀でこぼれた麦を食べようとするのですが、そのこぼれた麦でさえ食べないようにと、その口にくつこをかけたのです。

しかし、ここでは、そのように脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならないと命じられています。たとえ家畜であっても、そうした冷酷な扱い方をしてはならないのです。たとえ動物であっても一生懸命、汗だくで働いてくれるからこそ自分たちは食べることができるのであって、せめて落ちた小麦ぐらいは牛に食べさせてあげなさい、くつこをといてあげなさい、というのです。

 

パウロは、この箇所を引用して、主の働き人がその働きによって報酬を得るのは当然である、と語っています。(Ⅰコリント9:9、Ⅰテモテ5:18)霊の働きに携わる牧師や長老が、金銭的な報酬を得るのは当然のことだというのです。牧師は金銭的な報酬のために働いているわけではないので、それが当然だと考えることが正しいかどうかわかりませんが、少なくとも神の民であるクリスチャンがそのような認識を持つことは大切なことだと思います。なぜなら、そのような考えをしっかりと持つことによって自覚と責任が生まれ、神に喜ばれるような信仰へと成長していくことができるからです。

 

2.家系の継承(5-12

 

 次に5節から10節までをご覧ください。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。」

 

 これはレビラート婚というユダヤ人の特殊な婚姻法です。これは、当時の社会的な状況を考えなければ理解することができません。当時、家系を継承させるということはとても重要なことでした。なぜなら、各家系単位に、相続地が割り当てられていたからです。ですから子孫がなければ土地を相続することができなくなり、したがって、生計の手段を失うことになったのです。このような措置が命じられている理由は、後継ぎを生むことなく夫を失った妻を保護するための神のあわれみのためでした。ですから、兄の妻を妻として受け入れないなら弟は訴えられ、公衆の面前で「兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒む者」と呼ばれ、兄嫁から顔に唾をかけられ、靴を脱がされて、弟の子孫も「靴を脱がされた者の家」と呼ばれたのです。

 

「ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。」とは、ありふれた行動ではないにしても、時々このような事件が起こったのでしょう。そして、このような行為に対して容赦のない処罰が下されたのは、先の、イスラエルの名を残さなければならないことと関係があったからだと思われます。つまり、隠しどころをつかむことは、その男が子孫を残すことを阻むことを意味しているということです。したがって、その罰は厳しく、手を切り落とさなければならないほどでした。

 

3.正しい秤(13-16

 

  次に13節から16節までをご覧ください。

「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」

 

 ここには、物を売買する時、正しい重り石と枡を使用するようにと命じられています。なぜなら、神は正しい売買を喜ばれ、そのようにする者たちを祝福し、反対に不正を忌み嫌われるからです。それは、レビ記192節に、「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあるとおりです。主は全く聖なる方であるので、そのような不正を嫌われるのです。私たちは、大小異なる天秤をよく手にしているのではないでしょうか。たとえば、人には厳しいはかりを持っていて、自分には優しいはかりを持っていることです。人をさばくことを、私たちはしばしばします。けれども、神は公正な方です。へこひいきをされずに、人をさばかれるのです。イエス様も、「あなたがたは、人を量る計りで、自分の量り返してもらうからです。」と言っているように、私たちがどのような量りで量るかが重要なのです。

 

 4.アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない(17-19

 

 最後に17節から終わりまでをご覧ください。

「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。」

 

アマレク人は、イスラエル人がエジプトを出てから、レフィデムに留まっていた時、攻撃してイスラエルと戦いました。その時モーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルの中から幾人かを選び、アマレクと戦うようにと命じました。その時モーセは丘の頂に立ち、神の杖を持って祈るからです。ヨシュアはモーセが言ったとおりに出て行き、モーセとアロンとフルは丘の頂に登りました。そして、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。それで、モーセの手が下がらないようにと、片方の手をアロンが、もう片方の手をフルが支えたので、イスラエルはアマレクに勝利することができました。そのとき主がモーセに言いました。「このことを記録として、書き物に記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」(出エジプト17:14

 

しかし、その後イスラエルがカデシュ・バルネアで、神の命令に逆らって約束の地に上っていかなかったとき、彼らは向きを変えて出発しなければなりませんでした。長い40年の荒野の旅の始まりです。しかしその中に、自分たちは罪を犯したのだからとにかく主が言われた所へ上って行ってみようという人たちがいて、それに対してモーセは「上って行ってはならない」と言っても、彼らは従いませんでした。そして、上って行った結果、このアマレク人とカナン人に打ち倒されてしまいました。(民数記14:43)ですから、このアマレクを絶滅し、その記憶を天の下から消し去らなければならないのです。

 

つまり、アマレクはイスラエルにとって食うか食われるかの相手であって、根絶やしにしなければ絶えず彼らを脅かし、襲いかかってくるのです。それで、主はサムエルをとおして、サウルに、アマレクを徹底的に打ち滅ぼすように命じましたが、サウルは、アマレク人を打ち倒したものの、家畜が欲しくなって生かしたままにしておき、またアマレク人の王を殺しませんでした。結局、このことがサウルをイスラエルの王位から退かせる原因にもなったのですが、そのようにアマレクは絶えず神の民に戦いを挑んでくるのです。そういう相手を完全に根絶やしにしなければなりません。

 

それが悪魔の策略なのです。アマレクがイスラエルの弱いところに攻撃してきたように、悪魔は絶えず私たちの弱いところに襲いかかってきます。そのような敵である悪魔に勝利するための一番良い方法は、根絶やしにするということです。そのためにキリストは十字架で死なれ、三日目によみがえってくださいました。イエス様は完全に悪魔に勝利されました。この神の力をもって悪魔に立ち向かっていかなければなりません。私たちにとって必要なのは、罪に対しては死んだものとみなすことです。生かしておいてはいけません。根絶やしにしなければならないのです。そうでないと、悪魔がたえずやって来てあなたのいのちを脅かしてしまうからです。そのためには、神に従わなければなりません。自分の思いや考えに頼るのではなく、神に従い、悪魔に立ち向かわなければなりません。それこそが、神の民であるクリスチャンが約束の地で勝利ある人生を送るための最大の秘訣なのです。

ヘブル12章4~11節 「神の訓練」

きょうは、ヘブル人への手紙12章4~11節のみことばから、「神の訓練」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、私たちの信仰生活は長距離競争のようなもので、そこにはいろいろなことが起こってきますが、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、忍耐をもってゴールを目指し、最後まで走り続けようではないかと勧めました。イエス様をちゃんと見てれば大丈夫です。なぜなら、イエス様は罪人たちの反抗を忍ばれ、十字架の死という究極的な苦しみを味わわれた方だからです。私たちもいろいろな苦しみを経験することがありますが、そこまでの苦しみを経験したことはありません。まあ、ちょっとしたはずかしめを受けることはあっても、殴られたり、殺されたりといったことはありません。しかし、イエス様は痛められ、苦しめられ、そして最後には十字架に付けられて死なれました。これほどの苦難を受けた方はいないでしょう。しかし、それほどの苦しみを受けた方だからこそ、どんな苦しみの中にある人をも理解し、慰めることができるのです。このイエスを見るなら、あなたは心に元気をいただき、立ち上がることができるのです。

 

しかし、この手紙を受け取った読者たちには、ここで一つの疑問が生じました。それは、イエス様を信じることで、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかということです。苦しみに会ったとき彼らの信仰は弱り始めていました。神が私を愛しておられるなら、こんな苦しみに会わせるはずがない、神は私を見捨てられたに違いないと、生き消沈していたのです。そこでこの手紙の著者は、彼らがそのような苦しみを経験しているのはなぜなのか、すなわち、それは彼らが神の子どもであり、神が彼らを愛しておられるからであることを説明し励ますのです。いったい神の懲らしめ、神の訓練とはどのようなものなのでしょうか。

 

Ⅰ.子として扱っておられる(4-9)

 

まず、第一のことは、神は私たちを子どもとして扱っておられるということです。4節から9節までをご覧ください。まず4節から6節までのところです。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」

 

いったいなぜ私たちは苦しみに会うのでしょうか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。そして、この上もない関心を持っておられるからです。ですから、もし私たちが苦しみに会うとしたら、それは、私たちは神の子として愛され、受け入れられているという証拠なのです。というのは、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。これは箴言3章11,12節の引用ですが、彼らがずっと学んできた聖書の中にちゃんと記されてあったのに、彼らはその神のことばを忘れていたのです。それで、自分がこんな苦しいのはあんなことをしたからだ、こんなことをしたからだ、だからこういうことが起こっているんだと思っていたのです。違います。あなたがそんな苦しみに会うのはあなたのこれまでの行いに対して神が怒っておられるからではなく、神があなたをご自分の子として扱っておられるからであり、あなたをこよなく愛しておられるからなのです。なぜなら、主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。

 

それは親が子どもをしつけることと同じです。7,8節をご覧ください。子どもを懲らしめることをしない父親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、ほんとうの子ではないということです。私生児というのはあまり聞かないことばですが、法律上の婚姻関係にない男女の間に生まれた子どもで、父に認知されていない子どものことを言うそうです。ですから、ほんとうの子どもではないので本来受けるはずの懲らしめを受けることができません。そして小さい時にそのようなしつけを受けられないと、その子どもの心は歪み、勝手気ままになり、やがて破壊的な行動に発展することさえあるのです。

 

聖書には、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)とありますが、人はみな生まれながら罪を持っているので、何が良いことで正しいことなのかがわかりません。ですからだれからも教えられていないのに悪いことをするのです。それは人が生まれながらに悪であり、何が正しいことなのかを知らないので、自己中心的になっているからなのです。ですから、何が良いことで正しいことなのか、何が悪いことなのかを教えてあげなければなりません。子どもが悪いことをすればそれが悪いことであるということを理解させなければならないのです。そして、悪いことを繰り返さないように、根気よく、しつけなければならないのです。・・・しなさいとか、・・・しなきゃだめだよ、というのは、口うるさいかもしれませんが、いくら口うるさいと言われても、わかるまで何度も何度も言って教えてあげなければなりません。もしことばで教えてもわからないときは、あるいは命の危険を感じるような時には、たたいてでも教えてあげなければなりません。ただし、その場合でも感情的にならないように、また、子どもに恐怖心を与えないように十分注意しなければなりません。

 

私たちは、言葉で言っても聞かない時、あるいは、命の危険がある時にはたたいてでもしつけることにしましたが、どちらかというと家内は言うことを聞かない時には、言うことを聞くまで何度も繰り返して言い聞かせていたように思います。でも車が来ているのに平気で横切ろうとしたり、命の危険を感じるようなときには、スパンクをしてでも教えてわからせました。普通はやらないので、やる時はすごいですよ。見ている側で涙がでるほどでした。娘のおしりをたたくってどんなに苦しいことかと思いますが、どうしてもしつけたい時にはたたいて教えることもあるのです。でもそれは子どもを虐待することとは違います。虐待は暴力であり、子どもに恐怖心を与えることですが、子どもを懲らしめことは、子どもを愛し、子どもに正しいことを教えるために行うものです。ですから、子どもはそれが自分のためにやっているということがわかるので、その時は、「いちいちうるさいなあ。」とか、「本当に面倒くさい。」、「何かあるとすぐにガミガミ言うんだから。」と思うかもしれませんが、後になると、「ああ私のためにやってくれたんだ」ということがわかり、心から親を尊敬するようになるのです。しかし、たとえむちを加えるようなことがあっても、小学校に入るまででした。あとは言葉だけで十分なんですね。

 

いずれにせよ、あなたに苦しみに会うのはあなたが神に見捨てられているからでも、過去のことで罰を受けているからでもありません。あなたが苦しみを受けているとしたら、それは神があなたを愛し、あなたを子として扱っておられるからなのです。あなたが立派なクリスチャンとして成長するために、あえて懲らしめを与えておられるのです。であるならば、私たちはたとえ困難や苦しみにぶつかることがあったとしても、この神の愛を確信して、ゴールに向かって走り続けていきたいと思うのです。

 

Ⅱ.ご自分の聖さにあずからせるために(10)

 

次に10節をご覧ください。ここには、神が私たちを懲らしめる理由が書かれてあります。それは、私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分の良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

 

人間の父親は不完全なので、自分が良いと思うまま懲らしめるのですが、そこには間違いもあります。けれども、私たちの霊の父である神様は、完全な方であり、間違いのない方なので、本当の意味で、私たちにとって、益となるために懲らしめるのです。それは私たちをご自分の聖さにあずからせるためであるということです。私たちのクリスチャンライフの目標は、キリストのようになるということです。キリストに似た者になること、キリストのご性質に変えていただくということです。いったいどうしたらそのようになるのでしょうか。それは苦しみを通してです。苦しみを通して私たちの品性を整えてくださるのです。だからパウロはこう言っているのです。ローマ5章3~5節です。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

 

パウロは、キリストによって神の子とされたということ、神との平和を持っているということを喜びましたが、それだけではく、患難さえも喜んでいると言いました。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っていたからです。どうやってキリストのような品性、愛、聖さ、心の広さを持つことができるのでしょうか。患難によってそのような品性、そのような人へと整えられていくのです。

 

アブラハムの孫で、イサクの子であったヤコブは神と格闘して、もものつがいがはずされてしまいました。それは彼の力が砕かれたことを意味します。彼のプライド、自信、能力、自己主張、自慢、肉の性質のすべてが砕かれたのです。それで彼は自分の力ではやっていけないことを悟り、神の力に全面的により頼む者に変えられたのです。人間的にずるがしこい者から神によって勝利する者、イスラエルへと変えられたのです。

 

またモーセは、人々から羨望のまなざしを向けられていた栄光の人生を歩んでいましたが、だれにも知られない孤独の荒野の人生に導かれることによって、へりくだること、従順を学びました。このように患難や苦しみを通して、私たちの品性は磨かれ、整えられ、神の聖さにあずかるようになるのです。

 

福島第一の半谷さんという姉妹は、入信の当初から厳しい主の訓練を受けました。田舎の檀家総代の長男の嫁として嫁いだため、キリスト教徒になることが許されず、即離縁して出て行くようにとお姑さんから言い渡され、それ以来、半年間大家族の中で口をきいてもらえなかったと言います。けれども、そのことが彼女の信仰を筋金入りにする素晴らしい恵みの機会となったのです。

 

世界的に有名なリバイバリストであったD.L.ムーディーの母親は、夫が五人の子どもを残して亡くなりましたが、少しも落胆したり、失望したりすることなく、苦しい生活の中にあっても、子どもたちに信仰による教育を与えました。彼女は、子どもたちを孤児院に入れるようにという勧めを断り、次のように言いました。「私の両腕が生きて私についている限り、私の子どもを孤児院や親戚に送ることはできません。母親ほど、子どもを思い、子どものために祈ってやれる人はこの世のどこにもいないのですから。」やがて彼女の子どもたちの中から、アメリカとイギリスをゆさぶった偉大な主のしもべ、ムーディーが誕生したのです。

 

ですから、苦しいからとあきらめないでください。いったいその苦しみは何のためなのかを覚えていただきたいのです。そしてそれは神があなたをご自身の聖さにあずからせようとしてあなたに与えておられる賜物なのです。それがわかったら、あなたはむしろ喜んでそれを受け止めることができるのではないでしょうか。

 

トルストイの「靴屋のマルチン」は、おじいさんが奥さんを亡くし、さらに一人息子も病気で失い、生きる力を亡くしているところから始まります。ところが、聖書を読むように示されて読み始めると、不思議な生きる力が内から沸き上がるのを体験するようになるのです。

聖書の語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。かえって、試練の中でどうして立っていられるのだろうかと思うような、天来の力に満ちた希望なのです。泥水の中に身を置いてなおキリスト者は、いぶし銀のような信仰からくる希望の花を咲かせることができるのです。

 

Ⅲ.平安な義の実を結ばせる(11)

 

最後に、このように神の懲らしめを受けた人々はどうなるのかを見て終わりたいと思います。11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

これはスポーツでも、勉学でも、ビジネスでも、どの世界でも同じですが、その過程、プロセスにも痛みが伴います。スポーツのトレーニングで、筋肉に負荷をかけない限りは、筋力はついてきません。筋肉を傷めることで、筋肉が強くなっていくのです。同じように、信仰も負荷をかけることによって強くなっていきます。その負荷こそ懲らしめ、苦難なのです。それはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

 

ある人々は、苦しみを避けたいと考えます。苦しみは自分の穏やかな信仰生活を破壊するかのように思えるからです。だから、できるならあまり問題や煩わしいことに関わりたくないと思うのです。しかしながら、苦しみは信仰を破壊するどころか、かえって強くします。苦しみは神との交わりから私たちを遠ざけるのではなく、むしろ神との交わりを強固なものとし、神なしには生きられないということを体験させてくれるのです。こうして、私たちが神の御心にかなった信仰生活を送れるようにしてくれるのです。

 

余り賢くない親は、子供を育てる時、子供の前に置かれている障害物を取り去り、なるべく楽なコースを歩めるようにしてやることが良いことだと考え、いろいろ手を貸し、子供を助けようとしますが、それは決して良いことではありません。それによってひ弱で、自分のことしか考えられないようなエゴイストになってしまうからです。よく「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがありますが、子供が可愛いと思うなら、甘やかして育てるのではなく、世間の厳しさを教えて育てた方がしっかり育つのです。ディズニーの「ライオンキング」を思い出します。「百獣の王ライオンは、我が子を谷底に落とし、這い上がってきた子供だけを育てる」のです。自分の子どもがかわいいと思うなら、むしろそこに適当な障害物を置いてやり、それを自分で乗り越えて行けるように仕向けなければならないのです。苦しみを経験した人でなければ、苦しんでいる人の気持ちを本当の意味で理解することはできません。苦しんだことがある人は、苦しんでいる人に対する思いやりを持つことができ、あわれみ深い人になることができるのです。

 

神が与えてくださる苦しみもそれと同じでそれをまともに受け止める人は、神の御心にかなった人になることができるわけです。わざわざ誰かに障害物を置いてもらわなくても、最初からそこに障害物があるということは、そのことを自然に学ぶことができるわけですから、それほど感謝なことはないのです。それゆえ、詩篇の記者はこう言ったのです。

 

「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びまた。」(詩篇119:71)

 

苦しみに会ったことは、私にとって不幸なことでした、ではありません。幸いなことでした。なぜなら、あなたのことばを学んだからです。神がどのような方であるかを学んだ。神がいかにあわれみ深く、恵み深いかを学びました。神がどれほど私を愛しておられるのを学びました。私たちは神のことをもっと知りたいと思ってもなかなか知ることができませんが、苦しみを通してそれがわかった。それは幸せではないでしょうか。

 

そして、これによって訓練された人々に、平安の義の実を結ばせるのです。平安の義の実とは何でしょうか。これは直訳では、「義という平安の実」となります。それは神の御心を意味します。それは平安をはじめとする御霊の実を意味すると言ってもいいでしょう。つまり、神が与えてくださる苦難や試練を嫌がらずに受け止める時、御霊の実を豊かに結ぶ神の御心にかなった人、イエス様のような人になることができるということです。

 

であれば、どんな苦難の中にあっても、どんな試練が襲いかかろうとも、何度倒れても立ち上がり、信仰のレースを、忍耐をもって最後までゴールを目指して走り続けようではありませんか。それができるようにと、主イエスはいつもあなたのすぐそばにいて、あなたを助けておられるのです。

申命記24章

 

 申命記24章です。まず1節から5節までをご覧ください。

 

 1.結婚、離婚、再婚について(1-5

 

「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」

 

ここには、人が妻をめとり、その妻に何か恥ずべき事を発見して、気にいらなくなり、離婚した場合、どうしたら良いかが教えられています。まずここには「妻に何か恥ずべき事を発見したため」とありますが、この恥ずべき事とはいったいどんな事でしょうか。多くの学者は、これは姦淫のことではないかと考えていますが、これは決して姦淫ではないことは明らかです。なぜなら、姦淫を行った者は、離婚ではなく死をもって償わなければならなかったからです。ですから、それ以外の何かで、夫が気にいらない事があった場合ということなのでしょう。そのような場合は、夫は離婚上を書いて彼女を家から去らせることができました。

 

あれっ、ちょっと待ってくださいよ。妻が気に入らなくなった場合、勝手に離婚しても良かったのですか?このことについてイエス様はこう言っています。マタイの福音書193節から9節です。ここではパリサイ人がイエス様のところにやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と尋ねます。それに対してイエス様はこう言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりはではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6そして、「だれでも、不貞のためではなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9と言われたのです。つまり、妻を離別することは、神のみこころではないということです。それならばなぜここで、妻が気に入らなくなったら、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなさいとあるのでしょうか。それはイエス様も言われたように、人々の心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。つまり、離別することは神のみこころではなく、罪なのですが、自己中心的な人間はそういうことをするので、そういうことをする場合は、そのようにしなさいと言われたのであって、初めからそういうわけではなかったのです。

 

しかし、ここで問題になっているのは離婚しても良いかどうかということよりも、そのように離別された妻が、ほかの人の妻となり、次の夫も彼女をきらい、離婚状を書いてその女を去らせた場合、あるいはまた、その夫が何らかの理由で死んだ場合、最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることができるかということです。できません。彼女は汚されているからです。それは主の忌みきらうことであります。そのようなことをして主の相続地を汚してはならないのです。

 

これはどういうことでしょうか。ここで、彼女は汚れていると言われていますが、彼女は好きで汚れたのではありません。それはすべて男の身勝手な思いによってそうさせられたのであって、彼女には何の罪もないのです。ですから、ここで問題になっているのは彼女が汚れているかどうかということではなく、最初の夫の身勝手な行動が戒められているのです。嫌になったから別れたいとか、やっぱりあなたがいいから戻って来てという不誠実な態度を、主は忌み嫌われるということなのです。ですから、この女性がほかの男性と再婚することは禁じられていないのです。そのように一方的に夫から離婚させられ、家から去らせられても、再婚は許されていました。女の権限が全くなかった古代社会で、離婚と再婚が許されていたことは、妻により大きな傷を与えないための神の方法だったのです。

 

このことは、男と女の関係だけのことではなく、キリストと私たちの間にも当てはまることです。私たちは神の恵みにより、キリスト・イエスを信じることで神の子とされました。それはある意味でキリストとの婚姻関係に入ったことを意味しています。しかし、現実の生活は厳しくて、このまま信仰を続けていくことは困難なのでもう信仰を捨てよう、そして、もう少し落ち着いたら、人生を精一杯満喫して、もういいです、もう何の未練もないです、という時に再び信仰生活を始めようというのであれば、それはこの最初の夫がしていることと同じことです。もちろん、信仰から離れていた者が再び戻ってくるということは神のあわれみによって行なわれるかもしれませんが、しかし初めからそのようなことを考えて信仰から離れるということがあるとしたら、それは汚れることであり、再び戻ることはできないということを覚えておかなければなりません。

 

ところで5節を見ると、ここには、新しく結婚して1年間は、その夫を戦場に送ったり、他の社会的な義務を負わせてはならない、と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、もし、彼が戦争に出て死亡した場合、子孫もなく、妻を未亡人にしてしまうからです。夫は、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければなりません。このことからも、神はあわれみ深い方であり、結婚を通して私たちに喜びを与えてくださる方であるかがわかります。

 

2.貧しい者、弱い者たちに対する配慮(6-16

 

次に6節から15節までをご覧ください。6節には、「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。」とあります。ひき臼は、家族のための日ごとのパンを作るのに、必要不可欠な道具でした。毎朝、女たちがひき臼を回して穀粒ををひき、その日のパンのための粉にしました。従って、ひき臼、あるいは上石を質に取られてしまうなら、家族が食べることができなくなり、いのちそのものが取られることになってしまいます。それで、ひき臼を質に取ることが禁じられているのです。朝ごとにひきうすの音が聞こえるのは、平和と幸せのしるしだったのです。

 

7節には、「あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」とあります。人をさらい、奴隷として外国に売り飛ばすといったことの禁止です。このようなことは主が忌みきらわれることであり、主の相続の地においてはあってはならないものなのです。

 

また、ツァラートの患部には気を付けて、レビ記にあったように、祭司が教えるとおりにしなければなりませんでした。祭司はそれをよく調べ、それがツァラートであると判断したら、隔離してもう一度調べなければなりませんでした。そして、きよめられた者だけが宿営に戻ってくることができました。なぜ、そのように慎重にしなければならなかったのでしょうか。なぜなら、9節にあるように、それが神からの罰であったかもしれないからです。モーセはここでイスラエル人に、ミリヤムのことを思い起こさせていますが、それはミリヤムがモーセを非難したために、主の前に連れて来られ、その罪のためにツァラートなりました。彼女は七日間、宿営の外にとどまっていなければなりませんでした。そのように、それが神からの刑罰であるかもしれないのです。

 

10節から13節には、担保を取ることに関する規定が記されてあります。すでにひき臼や上石を担保として取ることについては6節で禁止されていましたが、それ以外の担保を取って金を貸す場合のことです。10,11節には、担保を取るために、その家に入ってはならないと言われています。外に立っていなければなりませんでした。どうしてでしょうか。お金を貸す者がその家に入っていけば、その人の家に何があるかと注意深く見て回り、担保物件として取ってしまう危険があったからです。担保物件の設定は、あくまでもお金を借りる者が決めなければなりませんでした。ここにも、貧しい者への神のあわれみが示されています。

 

また、12節には、もしその人が貧しい人であるなら、その担保を取ったままで寝てはならないと命じられています。日没のころには、その担保を必ず返さなければなりませんでした。なぜなら、その上着は夕方になって寝るとき、彼の身体を寒さから守る唯一の物であったからです。ですから、彼がそれを着て寝ることができれば、彼はあなたを祝福するだろうし、また、それは神の前に喜ばれることなので、結局のところ、あなた自身が祝福されることになるというのです。そのことがここでは「義」となるとまで言われています。それは神の前に義なる行為として認められるということです。神によって贖われた私たちにふさわしい態度は、この神にならってあわれみ深くあることであり、貧しい人たちを顧みることなのです。

 

14節は、貧しい雇い人を働かせる場合の規定です。貧しい雇い人を働かせる場合は、日没前までに、賃金を払わなければなりませんでした。この定めは、それが同胞イスラエル人であっても、在留異国人であっても、同じように適用されました。彼らは貧しいことで、その日の収入で、その日を食べていかなければならないため、賃金を先送りされては、生きていくことができなかったからです。ですから、賃金を先送りすることは、彼らをしいたげることであり、罪なのです。このことを見ても、神が貧しい人たちのことをどれほど顧みておられる方であり、あわれみ深い方であるかがわかります。

 

16節には、各個人が自分の罪の結果として死刑になる以外に、親が子どもの罪のために殺されたり、子どもが親の罪のために死刑にされるようなことがあってはならないと教えられています。家族が罪を犯すと、多かれ少なかれ、その親や子どもが影響を受けることになりますが、あくまでもそれはその罪を犯した本人の問題であり、家族がその責任を受けるということがあってはならないのです。

 

3.在留異国人やみなしごに対して(17-22

 

最後に17節から22節を見て終わりたいと思います。17節には、「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」とあります。在留異国人やみなしごの権利を侵してはいけません。なぜなら、彼らもかつてはエジプトで奴隷だったからです。そのような彼らを、神はあわれみをもって救い出してくださいました。であれば、今度は彼らがそのような不遇な人たちに対してあわれみ深くなければなりません。

 

19節から21節には、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。」とあります。

 

レビ記19:9や、23:22には、「畑の隅々まで刈ってはならない。収穫の落穂を集めてはならない。」と述べられていました。農作物を収穫する時に、完全に収穫するのではなく、わざわざ一部を残しておかなければならなかったのです。それは、在留異国人や、みなしご、やもめたちが、残っている未収穫分を食べて生きることができるためです。ここにも在留異国人やみなしご、やもめに対する配慮が語られています。そのようにすることによって、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためです。

 

今日の社会では、文字通り適用することは難しいかもしれませんが、しかし、その精神は継承され、実践されなければならない大切な信仰の基準です。不遇な隣人たちに対してどのように思いやり、彼らの必要に対してどのように支援できるかを、より具体的に実践する必要があります。それは必ずしも経済的な支援に限らず、霊的、精神的な支援も含みます。今日の社会では、どれほど多くの人たちが生活に困窮していることでしょう。

 

先日さくらチャペルで行われたキッズの集会の時、ふたりのお母さんとヨハネの福音書9章から聖書の学びの時を持ちました。生まれつき目が見えない盲人に対して、弟子たちが、「この人がこのように生まれたのはこの人が罪を犯したからですか、それとも、この人の両親が罪を犯したからですか。」と尋ねると、イエス様は、「この人が罪を犯したからではなく、この人の両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3と言われました。すると、このふたりのお母さんは、それぞれ自分の子どものことで悩みを打ち明けられたのです。はた目では何の問題もないかのようでも、みんな何らかの問題を抱えておられるんだなぁと思ったとき、そのような問題に取り組むことは、こうした在留異国人やみなしご、やもめたちのために労することでもあるということを思わされました。

 

ジョージ・ミューラーは1805917日、ドイツ領プロセインで生まれ、英国に長く暮らしました。彼はA.H.フランケの生涯を読んで深く感銘を受け、30歳の時、英国ブリストルで孤児院を始めました。彼が初めて孤児院を始めた時、準備したものはもらいものの皿3枚とフォーク4つ、そして野菜をおろすおろしがね1枚だけでした。それから62年間、750万ドル以上がその孤児院に送られてきましたが、彼は一度も人に頼んだり、訴えたりしたことはありませんでした。

英国の地に足を踏み入れてから、彼はその日誌にこう書き記しています。「私の残りの人生すべてを生きておられる神にささげる。」彼は聖書のみことばに基づいた原理にそって生きました。そして彼の人生は死ぬまで一貫していました。彼はだれにも助けを求めたり、それをほのめかしたりしませんでした。

晩年、彼は42か国にわたりほぼ20万マイルを回り、300万人のたましいに福音を伝えました。このように神に仕えた後、18983月10日の早朝、93歳でこの世を去りましたが、彼の生涯は、ただ神に祈り、神が導かれた孤児院の子どもたちにあわれみを示すということでした。それは彼のヒューマニズムから出たことではなく、この神の教えから示されてのことだったのです。

 

イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37と言われました。私たちに示されていることは違うかもしれませんが、原則は同じです。すなわち、在留異国人やみなしご、やもめたちをあわれむことです。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深い者でありたいと思います。それがエジプトから救い出された者としての、罪の奴隷の中から贖われた者にとって、ふさわしいあり方なのです。

ヘブル12章1~3節 「イエスから目を離さないで」

きょうは、ヘブル人への手紙12章1~3節から、「イエスから目を離さないで」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、11章で信仰に生きた人たちを例に取り上げ、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と勧めました。では、どのようにして走り続けたらいいのでしょうか。聖書にはしばしば私たちの信仰生活が競技やスポーツにたとえて説明されていますが、ここでも信仰生活を競技にたとえ、そのために必要な三つのことを教えています。

 

Ⅰ.いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てる(1)

 

まず、第一のことは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てるということです。1節に、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と勧められています。ここでは競争とありますが、どちらかというと短距離走よりも長距離走をイメージしてください。長距離走、あるいはマラソンを走るのに、荷物を背負って走る人はいません。できるだけ身を軽くして走ります。靴にしても、ウエア―にしても、できるだけ軽くして走るわけです。それと同じように、信仰のレースをする人も、レースの障害になるようなものを取り除かなければなりません。

 

では、信仰の競争において障害となるものは何でしょうか。ここには、いっさいの重荷とまとわりつく罪とあります。いっさいの重荷とまとわりつく罪とは、具体的にはどんなものを指すのでしょうか。

この「捨てる」という言葉の原語は「アポティセミー」という言葉ですが、これはローマ人への手紙13章12節でも使われています。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着ようではありませんか。」この「やみのわざを打ち捨てて」の「打ち捨てて」が「アポティセミー」です。ではこのやみのわざとは具体的にどのようなものかというのが、次の13節にこうあります。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」です。ですから、信仰のアスリートとして、走り続けたいと思うなら、ここにあるようなやみのわざを捨てなければなりません。

 

また、この言葉はエペソ人への手紙4章22節でも使われていて、そこには、このようにあります。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活については言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」

この「脱ぎ捨てるべきこと」の「脱ぎ捨てる」が「アポティセミー」です。信仰のアスリートとして勝利するためには、余分なもの、邪魔なもの、重荷になるもの、障害になるものは、脱ぎ捨てなければなりません。それは私たちが以前身に着けていた、人を欺く情欲といったものです。

 

また、同じエペソ人への手紙4章25節にも使われていて、そこには、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。ここでは捨てるべきものとして挙げられているのは、偽りです。隣人に対して偽りではなく、真実を語らなければなりません。

 

また、コロサイ人への手紙3章8節もこの言葉が使われていて、そこには、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。ここでは、怒り、憤り、そしり、また、口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい、とあります。

 

また、ヤコブ1章21節には、「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 とあります。みことばがなかなかすなおに受け止められませんという人は、もしかしたらここに原因があるのかもしれません。それは、捨て去っていないことです。私たちはすべての汚れやあふれる悪を捨て去らなければなりません。それらのものを捨て去って、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなければならないのです。

 

次にⅠペテロ2章1、2節を開いてください。ここには、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。

ここではすべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるようにと言われています。私は信仰を持って何年も経つのになかなか成長していないという方がおられます。謙遜に言う場合もありますが、本当にそのような方もおられます。いったいどこに原因があるのでしょうか。捨てていないことです。ここには、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、とあります。そのようなものを捨てなければなりません。そして、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるなら、それによって成長し、救いを得ることができます。それを捨てなければ、それらを身にまとっているなら、いつになっても成長することはできません。

 

また、思い煩うこと、心配することも大きな重荷です。なぜなら、思い煩いは霊的な力を削いでしまうからです。人は自分の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことなのです。私たちは、未来の不確かなことや、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。

 

ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないことであり、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。だからイエス様はこう言われたのです。

 

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。

 

明日のことは神に委ねて、その日その日を精一杯に生きることが必要なのです。こうした思い煩いや心配が、私たちの信仰のレースを重くし、前に進むことを妨げてしまうのです。

 

ところで、「重荷」と訳されていることばの原語の意味は、重要なものとか、突出しているもので、それが転じて重荷だとか、邪魔もの、やっかいなもの、足手まといのものと訳されるようになりました。非常に興味深いことです。私たちにとって、重要なもの、目立つもの、突き出てるものが、時として不必要な重荷となって、信仰のレースの足手まといになることがあるということです。これは大切なんです、これがないとダメなんですというものがあるとしたら、もしかしたらそれが重荷となってあなたの信仰のレースを妨げていることもあるのです。

 

ある婦人が携挙の夢を見ました。他の人はみんなスーと空中に挙げられていくのに、自分だけなかなか天に引き挙げられていかないので、「あれっ、どうしたのかなぁ、ちょっと体重が増えたからかなぁ」と思ってよく見たら、足首にロープが巻き付けられていて、そのロープの先を見ると、自分の家財道具がいっぱい縛り付けられていたというのです。それがゆえに、なかなか上に挙がっていかなかったんですね。その夢を見た方ははっとさせられたと言います。

 

私たちにもそのような重荷があるのではないでしょうか。そうしたものが障害になって、なかなか前へ進めないことがあるのです。物を持つこと自体は罪ではありません。しかし、その物が場合によってはあなたの足を引っ張ることにもなりかねないのです。物を持つことは、お金を持つこと、お金を貯めることは、必ずしも悪いことではありませんが、それに執着したり、そのこだわりがあると、霊的に成長するための障害物になることがあるということを覚えておかなければなりません。そういえば、イエス様は種まきのたとえの中で、いばらの中に蒔かれた種は、いばらが成長を塞いだで実を結ぶことができなかったと言われました。いばらとは何でしょう。この世の心づかいや富の惑わしです。そういったものがあると実を結ぶことができないのです。

 

旧約聖書の聖徒たちも、さまざまな重荷を抱えました。その時彼らはチャレンジを受けました。それを捨てるべきか、それとも持ち続けるべきか。11章を見る限り、彼らはその重荷を捨て去ることができたことがわかります。

 

また、ここにはいっさいの重荷だけでなく、まとわりつく罪を捨てて、とあります。この罪ということばの原語は「ハマルティア」です。ハマルティアは、アーチェリーで的を外すということばから来ています。ですから、的はずれが直訳です。皆さんは今、的に向かって信仰のレースをまっすぐに走っているでしょうか。それとも、的からはずれているでしょうか。勝手に自分で的を設定して、これがゴールだと、これがクリスチャンとしての私の目指すべきところだと突っ走ってはいないでしょうか。それは自分が設定したゴールであって、そのゴールに向かって走っているのは的はずれです。そうすると、遅々としてなかなか信仰の歩みが進まない、霊的に成長しないということも起こってきます。ですから、私たちにとって的が外れていることがないかどうかを、聖霊様によって示していただかなければなりません。聖書には、みこころに反することは罪だと言われています。信仰から出ていないこともそうです。なすべき正しいことをしないのも罪だとも言われています。ですから、だれの目にも罪だというのがあれば、あなた個人にとって罪だというものもあります。そのような罪も捨て去らなければなりません。

 

詳訳聖書では、この「まとわりつく罪」を、「たやすく、巧妙に、悪賢くまといつく、私たちを巻き込む罪」と訳しています。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。それほど巧妙に、罪の誘惑が仕掛けられているのです。ですから、私たちは常にそのことを意識して、聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし私たちの中に罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。

 

ダビデは詩篇の中でこう歌っています。「 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

 

この祈りを、私たちの祈りとしたいものです。そして、私たちにまとわりつく罪があるならば、それを捨てて、神が定めてくださった信仰の走路に立ち返り、その道を走り続けなければなりません。幸いなことに、私たちには、こうした重荷や罪といったものよりもはるかに大きな力を持っておられる神がともにいて助けてくださるので、それらのものをかなぐり捨てることができるのです。

 

 

Ⅱ.イエスから目を離さないで(2)

 

第二のことは、イエス様から目を離さないということです。2節をご覧ください。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離すなとありますが、それが勝利の秘訣です。マラソンランナーはじっとゴールを見ています。後ろばかり見ていたら遅れをとってしまいます。また、回りのランナーばかり見ていたら、焦ってペースを乱し、遅れをとってしまうことになります。もしあなたが優秀なランナーならただゴールを目指して一心不乱に走っていきます。そのゴールとはイエス・キリストです。そのイエスはただのゴールではなくスタートでもあります。イエス様は信仰の創始者であり完成者なのです。イエス様は私たちに救いを与えてくださった方であり、それを完成してくださる方です。

 

新改訳聖書には、この「創始者」ということばに※が付いていますが、下の欄外を見ると「指導者」とあります。ですから、イエス様は単に私たちに信仰を与えてくださったというだけでなく、その完成に向かって共に歩み、指導してくださる方であります。まさにイエス様は信仰のリーダーであり、信仰の先駆者であり、信仰の指導者なのです。常にイエス・キリストが私たちのリーダーであるということです。このイエスが目標です。私たちよりも先にこの信仰のレースを走ってくださいました。先ほど1節に、信仰の先輩者たちも私たちを応援する力強い応援団であるということを見ましたが、何よりの励みはイエス・キリストが私たちを応援してくださることです。完成に向けて指導してくださるということです。イエス様がいなければ、私たちはこの信仰のレースを走り抜くことはできません。

ピリピ人への手紙1章6節にはこうあります。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるということを私は堅く信じているのです。」

イエスが信仰の創始者であるならば完成者でもあります。始められたことを中途半端で投げ出される方ではありません。イエス様がイニシアチブをとってこの世に来てくださり、イエス様が先に私たちを愛してくださって、イエス様が先に信仰のレースを走り抜いてくださいました。全部イエス様が先なんです。初穂となって最初に死の中からよみがえられました。そのあとに続くのが私たちです。ですから、イエス様が始められたレースを、続いて走っているわけです。ですから、そのイエスが最後までその信仰のレースを完了させてくださる、ゴールを切らせてくださると約束しておられるのです。

 

そのイエスから目を離さないでいなければなりません。この「離さない」ということばは、他のものから目をそらして、あるものにしっかりと目を留めること。凝視することです。他のものからきっぱりと目を離して、イエスだけを凝視するということです。これは大切なことです。なぜなら、私たちは同時に二つのものを見ることができないからです。人は、神にも仕え、富にも仕えることはできません。二つのものを見ようとすれば遅れをとってしまうからです。コースから外れてしまうのです。そういうことがないように、イエス様が模範となってくださいました。ですから、このイエスを見続けるならコースから外れることがなく、最後まで信仰のレースを走りつづけることができるのです。

 

ところで、イエスさまはなぜ、このような苦しい信仰のレースを走り抜かれたのでしょうか。その理由が次のところに書かれてあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 

ここには苦しみだけでなく、喜びもあったことがわかります。苦しみの中にも喜びがあります。ゴールのないマラソンを走るような人はいないと思います。それはただむなしいだけです。何のためにこんなに苦しい思いをしなければならないのか、何のために生きなければならないのか、それがわからなければ苦しいだけですが、ゴールがわかり、その先にどのようなものが待っているかがわかっているなら、どんなに苦しくとも、その喜びを胸に、それを先に見て、前に進むことができます。

 

それでは、イエス様の喜びとは何だったのでしょうか。それはその後にご自身が復活するということ、そして、その十字架と復活を通して成し遂げられた救いの御業を信じる者に永遠のいのちがもたらされるということでした。それをちょっと垣間見ることができたのが、イエス様と一緒に十字架に付けられた強盗の一人が、イエス様を信じた瞬間でした。彼は十字架の苦しみの中でイエスをののしったもう一人の強盗のことばをいさめると、イエス様に向かってこう言いました。

「イエスさま。あなたの御国の暗いにおつきになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスさまは彼に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

イエスさまは十字架の苦しみの中にありながらも、パラダイスを見ることができました。その中にこの強盗のひとりもいる。また、それに続く何十、何万という人々が救われて、永遠のいのちがもたらされるということを知っていたので、その苦しみを耐え忍ぶことができたのです。

 

時々、私は考えることがあります。いったい何のために伝道するのだろうか。何のために教会を開拓するのだろうか。それは教会を通して神の福音が宣べ伝えられ、そこで多くの人々が救われ、主を知るようになるためです。想像してみてください。あの町でも、この町でも、主を信じて救われる人たちが波のようにやって来て、主をほめたたえるようになるのです。それは私たちの時代ではないかもしれない。ずっとずっと後の時代かもしれない。しかし、その時彼らはこういうでしょう。「ああ、ここに教会が出来て本当に良かった。こうして主の救いにあずかり、主を礼拝することができるのは本当に感謝なことだ・・・と。」それはふって沸くようなものではなく、多くの労苦がささげられますが、やがてそのような喜びがもたらされるということを思うなら、そうした労苦も乗り越えることができます。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)

 

イエスさまがはずかしめをもろともせず十字架を忍ぶことができたのは、この喜びのゆえであったのです。自分が復活することも喜びでしたが、それだけでなく、ここにいる私たち一人ひとりが永遠の滅びから救われて永遠のいのちをいただき、共にパラダイスに入ることが、イエスさまにとっての何よりの喜びだったのです。私たちの姿が見えたんです。十字架につけられながら、今ここにいる皆さんの姿がイエスさまには見えたのです。私たちも見るべきです。私たちが携挙されて空中で主と出会うのを。そうすれば、どんなに苦しくても、そこには言葉には言い尽くせない喜びが待っているのです。そして、私たちの目の前にどんな苦しみがあっても、それを耐え忍び、信仰のレースを走り抜くことができるのです。

 

Ⅲ.イエスのことを考えなさい(3)

 

ですから、イエスさまのことを考えましょう。3節にはこうあります。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

 

罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方とは、イエスさまのことです。イエスさまは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方です。このイエスさまのことを考えなければなりません。なぜなら、それによって、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。皆さん、いったいなぜ私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうのでしょうか。それはこのイエスから目を離してしまうからです。自分のことを見たり、自分のことばかり考えて、自分にばかりフォーカスを当てるとどうなるでしょうか。落ち込みます。または反対にうぬぼれてしまいます。他人のことばかり考えたると、回りのことばかり考えるとどうなるでしょうか。ねたんだり、腹が立ったりします。サタンことばかり考えるとどうなるでしょうか。恐怖や敗北感に襲われます。罪について考えることは大切なことですが、罪のことばかり考えるとどうなるでしょうか。罪責感にさいなまれてしまいます。ですから、私たちはそのようなものを見るのではなく、イエスさまを見なければなりません。イエスのことを考えなければならないのです。

 

この「考える」ということばは、繰り返して考えるとか、深く考えるという意味です。皆さんはイエスさまのことを聞いたことがあります。聖書も読んだことがあります。メッセージも聞いたことがあります。私たちはそのようにして自分のキリスト像を持っているわけですが、正しいキリスト像を持つためには、たまに聞くだけでなく、毎日聞かなければなりません。毎日、毎日、何度も繰り返して聞かなければなりません。特に、あなたが困難の中にあるとき、試練に直面しているときは、イエスさまのことを考えてください。深く思い巡らしてください。そしてイエスさまがどのようなお方なのかをよくとらえてください。そうすれば、あなたは元気を失い、疲れ果ててしまうことなく、鷲のように翼をかって上ることができます。

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。このイエスのことをよく考えてください。それすれば、あなたはこのイエスさまから励ましと力をいただき、あなたの前に置かれている信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

 

最後にこれをご覧ください。これは、1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン競技で、37位ながらも見事完走を果たしたスイスのガブリエラ・アンデルセン選手です。彼女は陸上競技場に姿を表すと、熱中症で今にも倒れ込みそうになりましたが、ゴールを目指して走り続けました。手助けをすると失格になってしまうため、医師らが並走し状態を確認しながら、本人の意思を確認すると、脚も手も思うように動かない状態の中、それでも本人はゴールを目指すことを選択したのです。

彼女がスタジアムに入ってから5分以上が経過しましたが、スタジアムの観客の声援に後押しされるかのように、彼女は最後の気力を振り絞り2時間48分42秒で完走を果たしたのです。

レース後、アンデルセン選手はこう言いました。「普通のマラソン大会なら途中で棄権していたでしょう。でも歴史的な大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。」

 

私たちの信仰生活は一度しかない歴史的なレースです。神様は、私たち一人ひとりに、人生のコースを定めておられます。そして、走るべき道のりを最後までりっぱに走り抜いた人に、勝利の栄冠を用意してくださいます。そのレースは決してたやすいものではありませんが、それでも私たちは走り続けることができるのです。なぜなら、信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまがおられますから。イエスさまがすでにその道を走り抜かれ、神の右の座に着座されましたから、私たちはこのイエスさまの足跡に従って進んでいくことができるのです。また、観客の大声援も後押ししてくれます。みんなスタンディングオベーションで励ましてくれています。だから、私たちは走り続けることができるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。これが信仰のレースを走り抜く最も大きな力なのです。

申命記23章

 きょうは、申命記23章から学びます。まず1節と2節をご覧ください。

 

 1.主の集会に加わることができない者(1-8

 

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。」

 

「こうがんがつぶれた者」とか、「陰茎を切り取られた者」とは、男性の性器をとった者のこと、つまり、去勢した男性のことです。そのような者は、主の集会に加わることができませんでした。また、不倫の子も集会に加わることができませんでした。その十代目の子孫であってもです。なぜ主の集会に加わることができなかったのでしょうか。なぜなら、主は完全な方であり、欠けたところが何一つない方だからです。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられました。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれていますが、この子孫とは、「種」、つまり精子とも訳すことができる言葉で、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているとすれば、そのような中から救い主がお生まれになるということはふさわしくなかったのです。ですから、そうした者が主の集会に加わることができませんでした。

 

しかし、このような箇所を見ると、いかにも神は排他的であり、人を差別しているかのように感じます。人にはいろいろな事情があるし、それぞれの置かれた背景はみな違います。中には自分が望まなかったのにそのようにして生まれてきた人もいるでしょう。それなのに、どうして主はそうした人たちが主の集会に加わることができないと命じたのでしょうか。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、あくまでも主は完全な方であり、律法も聖なるものであるということを示しているのであって、そのような主の集会に加えられる者も完全でなければならないということを示しているのです。ですから、そういう意味では私たちはみなこうがんがつぶれた者であり、不倫の子でしかないのです。というのは、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあるからです。そのような者が神の集会に加えられることがあるとしたら、それは神のあわれみでしかありません。

 

「肉においては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求を全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4

 

つまり、神は肉においては無力な者を、ご自分の御子によって、ご自分の御子を信じる者を義としてくだり、ご自身の集会に加わることができるようにしてくださったのです。すなわち、救いは神の一方的な恵みによるということです。ですから、ここで神は決して人を差別しておられるのではなく、ご自分の聖さ、完全さをお示しになることによって、不完全な私たちがどのようにしてご自分に近づくことができるのかを示しておられるのです。

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、アモン人とモアブ人は主の集会に加わることができない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはイスラエルがヨルダン川の東側を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒んだからです。また、モアブの王バラクは、ベオルの子バラムを雇いイスラエルを呪わせようとしたからです。勿論、神はそんなバラムの呪いを聞こうとはされませんでした。その呪いを祝福に変えてくださいました。神はイスラエルを愛しておられるからです。その神が愛してやまないイスラエルに敵対したり、呪ったりするなどもってのほかであって、そのような者が主の集会に加わることはふさわしいことではなく、そんな彼らのためには決して平安も、しあわせも残されてはいないのです。かつて主はアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(創世記12:3と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 

ところで、このあとに登場するモアブ人ルツは、イスラエルの集会に加えられただけでなく、救い主の系図の中にも出てくる敬虔で、美しい女性です。もしモアブ人を主の集会に加えてはならないというのであれば、ルツがそのように救い主の系図に加えられていることはおかしいことになりますが、そのように彼女が救い主の系図にも出てきているということはモアブ人だから一概にだめだということではなく、イスラエルに敵対する人たちを加えてはならないということなのです。たとえモアブ人であってもルツのようにイスラエルの神を求める者であれば、イスラエルの中に加えていただくことができたのです。

 

次に7節と8節をご覧ください。ここには、「エドム人を忌み嫌ってはならない。」とあります。なぜなら、彼らは「あなたの親類だから」です。また、「エジプト人を忌みきらってはならない。」とあります。なぜなら、イスラエルはエジプトで在留異国人だったからです。

 

エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるのだから、親類なのだから、忌みきらってはいけないのです。しかし、エジプト人を忌みきらってはならない、というのは不思議な命令です。というのは、イスラエルはかつてエジプトの奴隷としてしいたげられていたからです。そのエジプトを忌みきらってはいけないというのは、彼らがそこで「在留異国人」だったからでしょう。つまり、イスラエルは、自分にされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなければならないということなのです。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44と言われましたが、ゆるしの原則、また敵を愛する原則がここに見られます。だったら、なぜアモン人やモアブ人にもそのようにしないのかと不思議に思いますが、恐らく、彼らはイスラエルを呪うようなことをしたからでしょう。

 

2.陣営をきよく保つこと(9-14

 

次に9節から14節までをご覧ください。「あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

 

ここには、イスラエルの陣営をきよく保つことが命じられています。すなわち、彼らが戦いのために出陣している時には、すべての汚れたことから身を守らなければなりませんでした。たとえば、彼らの中で、夜、射精して身を汚した者がいれば、その者を陣営の外に行かせなければなりませんでした。その者は、日が暮れるころ、水を浴び、身をきよめてからでないと、陣営の中に戻ることができませんでした。 また、お便所は陣営の外に設けなければなりませんでした。そこに小さな穴を掘り、そこで用を足したら、土をかけてそれを覆わなければならなかったのです。なぜなら、神が、彼らの陣営を歩まれるからです。主がその中で汚れたものを見て、彼らから離れることがないようにしなければならなかったのです。これはどういうことかというと、その戦いは主の戦いであるということです。神がともにおられるなら、敵がどのような者であっても勝利することができますが、神がともにおられないなら、人間的にどんな戦術を施しても勝利することはできません。彼らにとって最大の勝利の秘訣は、勝利者であられる主がともにおられるかどうかということだったのです。そのために、彼らから汚れを取り除かなければならなかったのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちにとって最大の勝利の秘訣は、主がともにおられるかどうかであって、私たちの力とは全く関係ありません。その主が私たちとともに歩いてくださるために、いつも汚れを取り除き、自分自身をきよく保たなければなりません。それはまさに御霊なる主の働きによるものですから、私たちはいつも自分自身を主に明け渡し、心を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、私たちの神である主を愛する者でありたいと思います。

 

3.神のあわれみを示すこと(15-16

 

次に15節と16節をご覧ください。「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」

 

当時、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていましたが、主はそれに反し、そのように逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してしならず、その奴隷を、彼らの町囲みのうちのどこでも望む場所に住まわせてやり、決して虐待してはならないと命じられました。なぜでしょうか。それは、イスラエルもかつては奴隷であったからです。彼らもその苦しみを知っています。だから、彼らは自分たちが奴隷の時に受けた苦しみを彼らに与えるのではなく、逆に助けることによって慰めてやらなければならなかったのです。これはその苦しみを経験した者でなければわからないことです。主はそんな彼らをあわれみ、その中から救い出してくださいました。ですから、彼らもまた奴隷して苦しんでいる人をあわれみ、そこから助けてやらなければならないのです。

 

17節と18節をご覧ください。神殿娼婦とか神殿男娼というのは、異教の宮で売春をしていた女性、男性のことです。異教の宮ではこのようなことが平気で行われていました。しかし、主は聖なる方であって、その神殿に汚れたものを入れることを忌みきらわれます。こうしたものを取り除かなければなりませんでした。そればかりでなく、そのようなことによって得たお金を、主の宮に持って行って、捧げてはならないと命じられました。それは主が忌みきらわれることです。なぜなら、その手段が汚れているからです。神を礼拝するという目的のためであるならどんな手段であっても構わないというわけにはいきません。たとえ目的が良くてもその手段が悪ければ、主を喜ばせることにはならないのです。

 

次に19節と20節をご覧ください。ここには、お金や物を貸したときの利子を取ることについて教えられています。そして、外国人からは利子をとってもいいが、同胞から取ってはならないと命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、彼らが入って行って、所有しようとしている地で、彼らの神、主が、彼らの手のすべてを祝福されるからです。これは、すばらしい約束ではないでしょうか。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

このことについては、既にレビ記2535節から38節までのところで学んだとおりです。「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」とあります。

 

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼を在留異国人として扶養しなければなりませんでした。在留異国人として扱うというのは、異邦人として扱うということではなく、土地を持たない寄留者のように、旅人のようにもてなすということです。生活が成り立たなくなった人が奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、まさに神のあわれみなのです。なぜそのように扱わなければならないのかというと、それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。主がイスラエルを奴隷の中から解放してくださったのに再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それこそ、神の恵みに泥を塗るようなことです。彼らに求められていたことは、神を敬うことでした。神の命令に従うことだったのです。そうすれば、主が彼らを祝福してくださるからです。

 

5.主に誓願をするとき(21-23

 

次に21節から23節までをご覧ください。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」

 

もし主に誓願をするなら、それを果たさなければなりません。誓願をしてもそれを果たさないとしたら、それは罪とされるからです。約束は破るためにあるのではなく、誠実に果たすためにあるのです。最初から果たせないような誓約はしないことです。それでも私たちが誓約をするのは、誓約をしてでも自分の祈りを主に聞いてほしいという願いがあるからです。ですから、もし誓約をするなら、それを果たさなければなりません。

 

士師記の登場するエフタは、アモン人との戦いにおいて、もし主が敵に勝利させてくださるなら、敵に勝利して無事に家に帰ったとき、戸口から自分を迎えに出てくる、その者を主のものといたします、と誓ったら、何とそれは自分の娘でした。彼は非常に悩み、苦しみましたが、それが主への誓いであり、どんなことがあっても守らなければならないと信じ、そのようしました。ヘブル書11章にはこのエフタが信仰の勇者として紹介されていますが、何ゆえに彼が信仰の勇者として数えられているのかというと、このように主への誓いを誠実に果たしたという点で、彼は称賛されているのです。

 

イエス様は、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足代だからです。」(マタイ5:34-35と言われましたが、それはここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているのです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは偽りの罪になります。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのであって、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われたのです。

 

6.隣人のぶどう畑について(24-25

 

最後に24節と25節を見て終わります。「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」

 

これはどういうことかというと、だれかが食べるものがなく困っており、ひもじい思いになっているとき、隣人のぶどう畑、もしくは麦畑に入って食べても良いということです。しかし、かごに入れてはいけません。かまを使ってはいけません。それはお持ち帰りということであって、盗むことになるからです。お腹がすいてどうしようもないときに隣人の畑に入って食べることは許されていたのです。たとえば、マルコ2章を見ると、イエスの弟子たちが麦畑を通って行ったとき、道々穂を摘み始めたとあります。お腹がすいたからです。そのような時に麦畑に入り、麦の穂を摘むことは問題ではありませんでした。そこで食べることはできたのです。でもかまを使ってはいけません。かごに入れてはいけません。

 

ここには神のあわれみというか、神の惜しみなさが示されています。神はお腹を空かせて苦しんでいる人が、ぶどう畑や麦畑に入って食べることをいちいち禁止してはいないのです。盗むのは禁じられていますが、そのように飢えで苦しんでいる人に対しては、むしろあわれんでやらなければならないのです。

 

イエス様は、「与えなさい。そうすれば与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38と言われました。日本人はとかく、義理人情の世界で、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きています。ですから、自分から与えるということが、苦手なのです。ただで何かを与えるとなると、ただほど怖いものはないと言って警戒されたり、それじゃいくらいくらと言うと、あまりいい顔をしません。自分が価値を見出したものにはいくらお金を出しても惜しいとも思わないのですが、そうでないことに自分から与えるということはあまりしません。それはこの神がいかにあわれみ深い方であるかを知らないからです。私たちの神は与える方であり、その愛はご自身のひとり子をこの世に与えることによって表してくださいました。神はご自身の愛を惜しみなく注いでくださいました。神はそのような方なのです。であれば、その神を信じ、その神の民とされた私たちもまた喜んで与える者でなければなりません。それは神がいかにあわれみ深く、ご自分を与える方であるかを知ることによって生まれてくる性質なのです。この神によって贖われ、神の民とされた私たちも、隣人をあわれみ、惜しみなく与える者でありたいと願います。

申命記22章

 きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.知らぬふりをしてはならない(1-4

 

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」

 

ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。

 

これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。

 

先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12

 

次に5節から12節までをご覧ください。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

 

どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。

 

それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。

 

6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。

同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。

 

また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。

 

また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。

 

Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30

 

次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。

「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」

 

人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。

 

しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。

 

23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」

ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。

 

「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」

これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。

 

「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」

 もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。

 

このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。

また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11

私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。

ヘブル11章33~40節 「天国を待ち望む信仰」

きょうは、ヘブル人への手紙11章33~40節から、「天国を待ち望む信仰」というタイトルでお話します。ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人たちについて語られておりますが、きょうの箇所には、それらの人々に共通の特質が語られています。それは、こうした人たちは皆、天国を待ち望んでいたということです。

 

Ⅰ.信仰によって勝利した人々(33~35a)

 

まず33節から35節前半までをご覧ください。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 

「彼らは」とは、直接的には32節に出て来た6人の人たちのことを指していますが、それと同時にこのヘブル書11章全体に出てきた信仰の偉人たちのことを指しています。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

彼らが敵に勝利し、命の危険から守られたのは、信仰によってのことでした。信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得たというのは、イスラエルがエジプトを出て約束の地を占領したことを語っています。彼らは、ヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグとの戦いに勝利し、約束の地に入ると、カナンを支配していた王たちを滅ぼして、ついにその地を占領することができました(申命記2:24-3:11)。

 

また、「獅子の口をふさぎ」というのは、ダニエルが経験したことを指しているものと思われます。ダニエルは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされると、バビロンへ強制連行されましたが、その後バビロンがメディヤ・ペルシャの連合軍によって滅ぼされると、メディヤ・ペルシャの王であったダリヨス王に認められ、三人の大臣のうちの一人に選ばれました。しかし、彼には神の霊が宿っていたので、ほかの大臣たちよりもはるかにすぐれていたため、ほかの大臣たちからねたまれると、彼らの策略によってライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。

 

しかし、ダニエルが仕えていた神は、ライオンの口をふさぎ、彼を救い出してくださいました。ダリヨス王はダニエルのことが心配で、心配で、食事ものどを通らず、一睡もしないまま夜を過ごしましたが、夜が明けるのを待ち構えていたかのように翌朝すぐにライオンの穴に行き、こう呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)すると、ダニエルは王に答えました。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21-22)

それでダニエルは穴から出され、逆に彼を訴えた者たちが獅子の穴の中に投げ込まれたのです。そればかりか、ダニエルを通して現された神の御業を見たダリヨス王は、ダニエルの神を賛美し、ひれ伏したのです。

 

その次に出てくる「火の勢いを消し」というのは、そのダニエルの三人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが経験したことを指しているのでしょう。彼らもまたバビロン捕囚の際にダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた少年たちでしたが、バビロンの王ネブカデネザネルが、金の像を造り、これを拝まない者はだれであっても燃える炉の中に投げ込まれると脅しても、決してそれに屈しませんでした。彼らがネブカデネザル王の前に連れて来られた時、王が「もし拝まないなら、あなたがたはただちに炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)と言っても、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)とはっきりと答えました。

それを聞いたネブカデネザル王は、怒りを爆発させ、だったら炉の温度を七倍にして、彼らを炉の中に投げ込めと命じると、あまりの熱さに彼らを縛って炉まで連れて行った軍人たちが焼け死んでしまいました。しかし、三人の若者はどうであったかというと、焼け死にするところか、何の害も受けず炎の中を歩いていたのです。しかもよく見ると、炉の中に投げ込んだのは三人であったはずなのに、その中にはもう一人いて、その人は神の子のような方でした。つまり、それは受肉前のイエス様です。ネブカデネザル王は急いで彼らを炉から出すと、彼らが何一つ害を受けていなかったのを見て驚き、彼らの信じている神こそ本当の神であると宣言したのです。(ダニエル3:28)。

 

その次にある「剣の刃をのがれ」とは、アハブの王妃イゼベルがエリヤの命をねらって彼を殺そうとしたことから逃れたことや(Ⅰ列王記19:2-18)、イスラエルの王であったヨラムがエリシャを殺そうとしましたことから逃れたこと(Ⅱ列王記6:31-32)を指しているものと思われます。彼らは神のことばを大胆に宣べ伝えたことで、王たちの反感を買い、何度も命の危険にさらされましたが、主はそんな彼らの命を守ってくださいました。

 

次に「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とは、前回のところでも見ましたが、ギデオンをはじめとする士師たちや、預言者たちのことを指しているものと思われます。彼らは最初から勇士だったわけではなく、最初は主の命令に尻込みばかりしているような弱い者でした。しかし、主のあわれみによって強くされ、信仰によって勇士となり、他国に勝利することができました。

 

また、預言者エレミヤも、主から召しを受けた時、「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(エレミヤ1:6)と言うような弱い者でしたが、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)。と言われる主の御声を聞いて強められ、ついには自分の命をかけて大胆に神のことばを告げました。36節には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」とありますが、その一人がエレミヤだったのです。最初、彼は「まだ若い」とか、「どのように語っていいのかわからない」と言うような弱い者でしたが、信仰によって強められ、数々の困難を乗り越えて、自分に与えられた務めを果たすことができたのです。

 

そして、35節の前半には、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあります。これはツァレファテの貧しい未亡人やシュネムの金持ちの婦人のことを指しています。ツァレファテのやもめは、預言者エリヤによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅰ列王17:17-24)。また、シュネムの女は、預言者エリシャによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅱ列王4:17-37)。それは女たちの信仰によってということよりも、エリヤやエリシャの信仰によってということです。それは彼らが偉大な預言者であったからというよりも、彼らが信仰によって生きていたので、主が彼らを通してそのような御業を行ってくださったということです。

 

それは彼らだけではありません。私たちも信仰によって生きるなら、死んだ人をもよみがえらせるような偉大な神の御業を行うことができるのです。

 

Ⅱ.約束されたものを得なかった人々(35b-39)

 

しかし、このように信仰によって生きた人たちの中には、信仰によって勝利した人たちもいましたが、苦難の生涯を送った人たちもいました。35節後半から39節をご覧ください。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされました。約束されたものは得ませんでした。」

 

35節前半までのところには、信仰によって敵に勝利し、約束のものを得た人たちや、命の危険から救い出された人たちのことが紹介されてありましたが、ここには逆に、信仰によって、様々な苦難を受けた人たちのことが紹介されています。この人々はみな、その信仰によってあかしされた人々です。どのようなあかしかというと、信仰によって、約束のものを得た人々がいれば、信仰によって、苦難を受けた人たちもいたというあかしです。どちらも信仰によって生きた人たちでしたが、結果は必ずしも同じではありませんでした。それはどうしてかというと、私たちの信仰はこの地上の祝福だけを追い求めるものではなく、天にある祝福、永遠のいのちを求めるものだからです。これが、私たちの信仰にとっての究極的な約束なのです。そして、イエスさまがこの地上に来られたのも、私たちにこの神の国をもたらすためでした。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)このいのちとは永遠のいのちのことです。イエスさまが来られたのは、私たちがこのいのちを得て、それを豊かに持つためだったのです。

パウロは、ローマ1章16節でこう言いました。「私は福音を恥じとも思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、信じるすべての人を救い、変えることができる神の力です。パウロのようにキリストを迫害していた人さえも救い、キリストを宣べ伝える者に変えてくれました。私たちに生きる力を与えるのは、お金や知識ではなく、福音を信じる信仰なのです。イエスさまはこの永遠のいのちをもたらすために来られたのであって、この地上での祝福をもたらすためではありませんでした。ですから、ある人たちは信仰によって、国々を征服し、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消すことができましたが、ある人たちはその信仰によって、様々な苦難を受け、約束されたものを得ることができませんでした。この世は彼らにとってふさわしいところではなかったのです。しかし、その信仰によって彼らはあかしされました。何を?彼らは信仰によって生きたということです。彼らはこの地上では報いらしいものは何一つ受けませんでしたが、代わりに、さらにすぐれた天の報いを受けたのです。

 

詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」考えてみると、私たちのこの地上での生涯は点のようなもので、それは短いのです。それは早く過ぎ去ります。昨日まではあんなに若かったのに、あっというまに年をとってしまいます。しかし、死後のいのちは永遠なのです。線ように長く、どこまでも続きます。その永遠の世界をどこで、どのように過ごすのかは、この地上での、今の信仰の決断にかかっているのです。それゆえこの詩篇の記者であるモーセはこう祈っているのです。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10)私たちもこのモーセの祈りを、自分の祈りとしたいと思うのです。

 

さて、35節後半には、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、この前に紹介されていたエリヤやエリシャによって行なわれたよみがえりと比較しての、さらにすぐれたよみがえりです。そのよみがえりとは、死者の中からの復活のことです。エリシャとエリヤが行なったのは「蘇生」と呼ばれるもので、一度死んだ者が息を吹き返すだけのことで、やがて再び死んでしまうものでした。しかし、ここで言われているよみがえりとは、死者の復活のことです。御霊のからだによみがえることです。キリストが死者の中からよみがえられたときに持っていたあの復活のからだによみがえることなのです。

 

この復活のからだを得るためには、この世においては救いを得るどころか、拷問を受けることさえあります。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とありますが、旧約聖書の時代には、そういう信仰者たちもたくさんいました。あのシャデラク・メシャク・アベデ・ネゴでさえ、死の危険から奇跡的に救い出されましたが、もしかすると、そのまま焼き殺されていたかもしれません。だから彼らは、「もしそうでなくても」と言ったのです。もし神が自分たちをネブカデネザル王の手から救い出さしてくれないということがあっても、それでも金の像を拝むことはしないと、断固としてそれを拒みました。それは、彼らがこのさらにすぐれたよみがえりを信じ、それを見つめて生きたいたからです。

 

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。」

 

これが誰のことを指しているのかははっきりわかりません。けれども、昔も今も、信仰によって生きようと願うなら、だれでもこのような迫害を受けます。なぜなら、そのように聖書に約束されているからです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

ですから、もしあなたが信仰のゆえに苦難を受けることがあったとしたら、それはキリストの弟子とされていることの証であり、永遠のいのちという勲章を受けていることでもあるということを覚えて感謝しましょう。

 

1世紀に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、紀元前2世紀頃ユダヤを治めていたのはシリヤでしたが、そのシリヤの王であったアンティオコス・エビファネスは、彼の政策にギリシャ思想を取り入れようと、ユダヤ人を激しく迫害しました。彼は、律法に基づく犠牲のささげものや割礼を禁じ、代わりにエルサレムの神殿にギリシャのゼウス像を配置し、これを拝まなかったら、その者には激しい拷問を加えるとし、それによって大勢のユダヤ人が死んでいきました。

その中に年老いた律法学者でエレアザルという人がいましたが、彼はどんなにアンティオコス・エピファネスによって脅迫されても、神の律法に背くことはできないと、喜んで殉教の死を遂げました。それは終わりの日に復活し、すばらしい御国に行くことができると信じていたからです。

 

これまで信仰によって生きた人たちの中には、そのような人たちがたくさんいました。それは、彼らだけに限らず、この手紙の読者たちにしても然り、先日お話しした中国のクリスチャンたちにしても然り、そして、私たち日本でも同じようにして死んで行った人たちがたくさんいました。豊臣秀吉の時代に起こった26人聖人殉教は有名な話です。それはいつの時代でも、どこででも起こり得る事なのです。

 

この世は彼らにとって、ふさわしいところではありませんでした。彼らは信仰のゆえに苦難を受け、この地上では報いらしいものは何一つ得られませんでした。しかし、彼らは、さらにすぐれたもの、天における報いを得るために、喜んで苦難を受けたのです。

 

Ⅲ.さらにすぐれたものを得るために(40)

 

それは私たちにとっても同じです。この世は、私たちにとってふさわしいところではありません。しかし、私たちには、さらにすぐれた世界が用意されているのです。ですから、そこでの報いを得るために、私たちはしっかりとそれに備えるものでありたいと思うのです。

 

それでは、そのためにどうしたらいいのでしょうか。この手紙の著者はこう勧めるのです。ヘブル12章1です。ご一緒に読みましょう。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

皆さんの中に、心が元気を失い、疲れ果ててしまったという人がいますか。もしそういう方がおられましたら、ぜひ彼らのことを思い出してください。彼らのことを思い出すなら、あなたに励ましを受けます。というのはここに、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるのですから、とあるからです。これはこの11章で紹介されてきた信仰によって生きた人たちのことです。また、イエス・キリストにあって天に召された信仰の先輩者たちも含まれています。あるいは、ついこの間まで一緒に信仰に歩んでいた家族や信仰の友も含まれています。それらの人々が雲のように私たちを取り巻いているのです。彼らはイエス・キリストにあって天に召されましたが今も生きています。そして、私たちのことを、あなたのことを見て、応援しているのです。

 

私たちは今、この地上で信仰の競争をしています。レースをしています。そこでは様々な患難があるでしょう。辛いこともあります。つまずいて倒れて、立ち上がれないような時もあります。疲れ果ててしまい、もうこれ以上は前に進めないという時もあるでしょう。でもそのような時に、ぜひ彼らのことを思い出してください。不平不満を言う前に、あきらめてしまう前に、ぜひ彼らのことを思い出していただきたいのです。彼らのことを思い起こすなら励ましを受けます。彼らは忍耐をもって走り抜きました。その彼らがあなたを見ているのです。彼らはただ傍観しているのではありません。天国から見下ろして見物しているのではないのです。彼らは私たちと同じように信仰のレースを走り抜き、その途上にはいろいろなことがありました。辛いことも、苦しいこともありました。でも彼らは最後まで走り抜いたのです。約束のものをこの地上では手に入れることはできませんでしたが、忍耐をもって走り抜きました。ですから彼らは、私たちの苦しみも、辛さも、悲しみも全部わかっているのです。すでに通っているのですから・・。その彼らが雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。ですから、私たちは彼らのことを思い出すことによって励ましを受けるのです。

 

私はもう溺れそうです、死にそうです、という人がいますか。そういう人はどうぞヨナのことを思い出してください。ヨナは魚に呑み込まれて三日三晩、その中で苦しみました。今私の直面している試練は炎のごとく私を焼き尽くそうとしていますという人がいますか。そういう人はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い起こしてください。彼らは涼し気な顔をして炎の中でイエス・キリストと一緒に歩きました。語り合いました。私は今巨人と戦おうとしていますという方は、ぜひダビデのことを思い起こしてください。どのような時でも、私たちは常に、どんな試練に置かれようとも、どんな困難に直面しようとも、どんな苦しみの中にあっても、この旧約の聖徒たち、ヘブル人の手紙の11章に出てくるような信仰の殿堂入りを果たしたような人たちが、私たちのことを見ていて、応援しているということを思い出すなら、あなたもまた奮い立つことができるからです。そのようにして、私たちも私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。