Ⅱ列王記13章

 私たちは前回、12章でユダのヨアシュ王の生涯について学びました。けれども、今回再び場面が北イスラエル王国に移ります。

 Ⅰ.イスラエルの王エホアハズ(1-13)

まず、1~7節をご覧ください。「13:1 ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王であった。13:2 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。13:3 そのため、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられた。13:4 しかし、エホアハズが【主】に願ったので、【主】はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。13:5 【主】がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。13:6 それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。13:7 また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王として治めました。彼はどのようにイスラエルを治めたでしょうか。2節には、「彼は主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。」とあります。彼は、ネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けました。

ネバテの子ヤロブアムの罪とは、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えるという罪です。金の子牛は、ヤロブアムは北王国イスラエルの初代王でしたが、人々の心が「自分から離れないために」金の子牛をベテルとダンに置きました。そして、「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言ったのです(1列王記12:26~参照)。エホアハズは、そのヤロブアムの罪から離れませんでした。あのヤロブアムの罪が、ここでも悪影響を与えています。

そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられました。でもエホアハズが主に願うと、主はこれを聞き入れました。これはすごいあわれみですね。ヤロブアムの道を歩む者が、主に願ったら主はそれを聞き入れられたのですから。その理由は、アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になり、見るに耐えなかったからです。

私たちは前回、南ユダのヨアシュ王が晩年に高慢になって、自分の信仰の父である祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺すという蛮行を行ったことを学びました。幼い時から霊的な環境で育てられ神殿修復まで成し遂げた彼が、最終的に高ぶってアシェラ像を拝むようになり、それを警告したゼカリヤを殺したのです。それとは対照的に、ここにはどんなに悪人であっても、主は悔い改め、ご自分の名を呼ぶ者に、助けの御手を控えるような方ではないと言われています。

5節の「一人の救う者」とは、おそらくアッシリヤの王アダッド・ニナリ3世のことでしょう。彼がアラムを攻撃してきたので、アラムは自国防衛に専念せざるをえなくなり、イスラエルの支配を放棄しなければならなくなったのです。こうしてイスラエルは自分たちの天幕に住むようになったのです。つまり、平穏を取り戻すことができたのです。主があわれみのゆえに悪王エホアハズの願いを聞き入れられたからです。このタイミングも凄いですね。主はこのようにアッシリヤという国を用いて、エホアハズの祈りに応えてくださったのです。

それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままでした。何ということでしょう。せっかく主がイスラエルに良くしてくださったというのに、そこから離れようとしないとは。私たちは、主のあわれみがあるときにその中に逃げ込むようにしなければなりません。そうでないと、本当に滅ぼされてしまうことになります。

それが7節にあることです。「また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

「脱穀のときのちりのよう」とは、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、二度と戻ってくることがない様のことです。まさに、脱穀のときのちりのように、過ぎ去っていくことになります。

次に、8~13節をご覧ください。「13:8 エホアハズについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、その功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:9 エホアハズは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子ヨアシュが代わって王となった。13:10 ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。13:11 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた。13:12 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、ユダの王アマツヤと戦ったその功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:13 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、ヤロブアムがその王座に就いた。ヨアシュはイスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。」

エホアハズの死後、彼に代わって王となったのは、彼の子のヨアシュでした。ヨアシュという同じ名前の王が南ユダにもいるので混同しないように注意してください。12章で見てきたのはその南ユダ王国のヨアシュでしたが、このヨアシュは北イスラエル王国のエホアハズの子のヨアシュです。彼は、その南ユダの王ヨアシュの第三十七年に北イスラエルの王となり、16年間、王として治めました。

彼は主の目の前に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けました。ヨアシュもまた、父エホアハズと同じように、ネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れようとしませんでした。何という悲劇でしょうか。

12節には、このヨアシュの業績がまとめられています。これは、王たちの業績をまとめる際に使用する定型句ですが、ヨアシュの場合普通とちょっと違います。彼の治世はまだ続くのに、ここに早々と「まとめ」が記されている点です。なぜこのような書き方となったのか。それは彼の陰がうすくなったからです。13節の「ヤロブアム」とは彼の息子のヤロブアムⅡのことですが、彼はその息子のヤロブアムⅡと共同統治を開始すると、その存在価値が大幅に下がったのです。さらに、偶像礼拝の罪に留まり続けたヨアシュは、すでに死んだのも同然だったからです。

人生の岐路に立たされたとき、信仰の道を選ぶか、自分勝手な道を選ぶかで、その人の運命が変わってきます。先に行けば行くほど、両者の差は大きくなっていきます。前者の終着点は永遠のいのちですが、後者のそれは永遠の滅びです。私たちを救いに導いてくれるのは、ただ神の恵みだけです。この神の恵みに信頼して、信仰にしっかり留まり続けましょう。

Ⅱ.ヨアシュの不信仰(14-19)

次に、14~19節をご覧ください。「13:14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。13:15 エリシャが王に「弓と矢を持って来なさい」と言ったので、王は弓と矢をエリシャのところに持って来た。13:16 エリシャはイスラエルの王に「弓に手をかけなさい」と言ったので、王は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて、13:17 「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「【主】の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」13:18 それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。13:19 神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」」

ここに、エリシャが再び登場します。エリシャが死の病をわずらっていたとき、イスラエルの王のヨアシュは、エリシャのところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました。どういうことでしょうか。彼は、ネバテの子ヤロブアムの道から離れず、それを行い続けましたが、同時に、イスラエルの神にも信頼を置いていたので、イスラエルの神、主の預言者であったエリシャを尊敬していたということです。「イスラエルの戦車と騎兵たち」という呼びかけは、イスラエルを防衛する力は、エリシャの神にあると表明したものです。ヨアシュは、預言者エリシャが死ぬことは、イスラエルにとって大きな損失であることを知っていたのです。

すると、エリシャはヨアシュに「弓と矢を持って来るように」と言いました。それでヨアシュが弓と矢をエリシャのところに持って来ると、エリシャが「弓に手をかけなさい」と言ったので、王が手をかけると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて「東側の窓を開けなさい」と言いました。ヨアシュがそのようにすると、エリシャはさらに「矢を射なさい」と言いました。ヨアシュが矢を射ると、エリシャはこう言いました。

「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」

そうです、その矢は、主による勝利を象徴していました。エリシャが自分の手をヨアシュの手の上に置いたのは、勝利は預言者を通して主から来るということを示していました。

それからエリシャは「もっと多くの矢を取りなさい」と言ったので、ヨアシュは矢を取りました。するとエリシャは「それで地面を打ちなさい」と言ったので、ヨアシュ王がそれで3回止めてしまいました。彼は、手に持っているすべての矢を射るべきだったのに、3回で止めてしまいました。

するとエリシャはヨアシュ王に激怒してこう言いました。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」どういうことですか。

エリシャが激怒した理由は、ヨアシュが不信仰であったからです。シリヤに対して徹底的な打撃を加えることができたのに、ヨアシュはそのことばに完全に応答しませんでした。矢を三回打ったところで「もうこれで十分だ」と思ったのか「シリヤには勝つことができない」と思ったのかわかりませんが、彼はそれ以上打つのを止めてしまったのです。その態度に対してエリシャは怒ったのです。ただ怒ったのではありません。激怒しました。

私たちも同じように、神の約束に対して、自分の思惑や不安などによって、思いとどまるときがあります。主が門戸を開いて導いておられるのに、その道を前進するのではなく現状にとどまろうとすることがあります。主が開かれた扉は、徹底的に前進していかなければなりません。そして、主が用意されたすべてのものを受け取る必要があります。信仰生活における勝利は、主への従順の度合いにかかっているのです。

Ⅲ.エリシャの死(20-25)

最後に、20~25節をご覧ください。「13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。13:21 人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。13:22 アラムの王ハザエルはヨアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えた。13:23 しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった。13:24 アラムの王ハザエルは死んで、その子ベン・ハダドが代わって王となった。13:25 ヨアハズの子ヨアシュは、父ヨアハズの手から奪い取られた町々を、ハザエルの子ベン・ハダドの手から取り返した。ヨアシュは三度彼を撃ち破り、イスラエルの町々を取り返した。」

こうして、エリシャは死んで葬られました。彼の預言活動は、アハブの治世(B.C.853年に終わる)からヨアシュの治世(B.C.786年に終わる)まで、50年以上に渡って行われました。

その頃、モアブの略奪隊が、年が改まるたびにイスラエルに侵入していましたが、ある時、ひとりの人が死んだので、人々はその人を墓に葬ろうとしたとき、そこにそのモアブの略奪隊がやって来たので、彼らはその墓に遺体を投げ入れ、慌ててそこから立ち去りました。

すると、その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がったのです。すごいですね。エリシャは死んでからも用いられました。死体になっているときでさえ、死人を生き返らせるという奇蹟を行なったのです。まあ、エリシャがというよりは主なる神がなさったわけですが。問題は、どうしてこの出来事がここに記されてあるのかということです。

おそらくこの奇跡は、ヨアシュを励ますために神様が行われたのでしょう。ヨアシュはエリシャが叱られてハッとして悔い改めたはずです。そのヨアシュに対して、人を生き返らせることができる主に信頼するなら、アラムとの戦いにおいても絶対に勝利することができると伝えたかったのでと思います。

アラムの王ハザエルはエホアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えました。しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさいませんでした。

アラムの王ハザエルは、エホアハズが生きている間中、イスラエルを虐げましたが、彼らを滅ぼし尽くすことはありませんでした。なぜでしょうか。ここには、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、」とあります。主は、ご自分が結ばれた契約のゆえに、ご自分の名のゆえに、イスラエルに良くして下さったのです。これを聖書では「神のあわれみ」と言います。

私たちは、何か良いことが起これば、自分たちの今までのことを正当化する傾向があります。しかし、多くの場合、神がご自分の名のゆえにあわれんでおられるのです。例えば、ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、夫ウリヤを殺す罪を犯しましたが、彼はその後バテ・シェバと離縁することなく、むしろ彼女をいたわり、その子ソロモンをもうけました。このソロモンがダビデの王座を受け継ぐことになりました。それはただ神のあわれみによるものです。それは決して神の導きによるものではありませんでした。しかし、ダビデが自分の罪を悔い改め、砕かれた、悔いた心を持った時、神はダビデをあわれみ、バテ・シェバを妻とし続けることができるようにされ、そこから出てくる世継ぎの子ソロモンが王座を受け継ぐことができるようにされたのです。

自分が神の恵みによって今の自分がいるのだ、神のあわれみによって滅ぼされずに、生されているのだ、と知ることは非常に重要です。私たちの神は契約を忠実にお守りになられる方です。私たちの救いの確かさは、この変わることのない神の愛に基づいているのです。

アラムの王ハザエルが死に、その子ベン・ハダドが変わって王となりましたが、エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが攻め取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダドから取り返しました。ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り戻したのです。これは17節でエリシャが語った預言の通りです。神のことばは一つも滅びることなく、すべてが成就するのです。

エレミヤ21章1~10節「いのちの道か死の道か」

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きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
  私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
  先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。

Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。

しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」

14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。

エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。

神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。

これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。

だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
  でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。

では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
  ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。

どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。

ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。

確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。

皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。

  私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。

Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)

それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」

イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。

エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。

これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
  「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
  すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
  ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。

ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。

だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。

Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)

ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」

主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
  中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
  バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。

旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。

バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

Ⅱ列王記12章

 今回は、Ⅱ列王記12章から学びます。

 Ⅰ.高き所を取り除かなかったヨアシュ(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「12:1 ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。12:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも【主】の目にかなうことを行った。12:3 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」

ヨアシュは、エフーが北王国で治めていた第七年目に南王国の王となり、エルサレムで40年間治めました。彼の父はアハズヤで、母はツィブヤです。彼女はベエル・シェバの出身でした。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えていた間は、いつも主の目にかなうことを行いましたが、彼は、エホヤダの養育から離れてからは変わってしまいます。しかし、エホヤダが教えていた間でも問題がありました。それは、高き所は取り除かなかったということです。「高き所」とは偶像礼拝が行われていた場所です。それは必ずしも彼らが偶像礼拝を行っていたということではありません。彼らはヤハウェーなる神を礼拝していましたが、その高き所で礼拝していたのです。それは明らかにモーセの律法に違反することでした。というのは、申命記12章2~7節、13~14節には、全焼のささげ物を自分勝手な場所で献げないように気をつけなさいとあるからです。彼らは全部族のうちから選ばれる一つの場所、すなわち、エルサレムの神殿で献げものをしなければならなかったのに、この高き所でいけにえをささげることが習慣になっていました。そしてそれを変えられずにいたのです。おそらく、彼は高き所が存在することをさほど問題視していなかったのでしょう。伝統的に、南王国の王たちは高き所を軽く扱ってきたので、ヨアシュも同じような対応をしたのだと思います。

このようなことは、私たちクリスチャンにも見られることです。昔からのしきたりや習慣、言い伝えといったものを取り入れたまま、それをなかなか変えられずにいる場合があります。それらが心の深くに入り込んでいるので、それを変えることが難しいです。けれども、本当に神の方法で礼拝をささげたいと思うなら、それを変えなければなりません。パウロはローマ12章1~2節でこう言っています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

この世と調子を合わせてはいけません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。

Ⅱ.神殿の修復(4-16)

次に、4~16節をご覧ください。「12:4 ヨアシュは祭司たちに言った。「【主】の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に【主】の宮に献げられる金のすべては、12:5 祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」12:6 しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。12:7 ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。「なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならないからだ。」12:8 祭司たちは、民から金を受け取らないことと、神殿の破損の修理に責任を持たないことに同意した。12:9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。12:10 箱の中に金が多くなるのを確認すると、王の書記と大祭司は上って来て、それを袋に入れ、【主】の宮に納められている金を計算した。12:11 こうして、勘定された金は、【主】の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らは、それを【主】の宮を造る木工と建築する者たち、12:12 石工、石切り工に支払い、また、【主】の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、金は神殿修理のための出費のすべてに充てられた。12:13 ただし、【主】の宮のための銀の皿、芯取りばさみ、鉢、ラッパなど、いかなる金の用具、銀の用具も、【主】の宮に納められる金で作られることはなかった。12:14 その金は、工事する者たちに渡され、彼らはそれと引き替えに【主】の宮を修理したからである。12:15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々が精算を求められることはなかった。彼らが忠実に働いていたからである。12:16 代償のささげ物の金と、罪のきよめのささげ物の金は、【主】の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」

ヨアシュ王の最大の貢献は、神殿を修復したことです。これは列王記に出てくる最初の修復です。ヨアシュ王は、そのために主の宮に献げられるお金を充てようとしました。聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金とは、登録されたすべての人が献げる献金のことです。出エジプト記30章11~16節には、それは半シェケルと定められていました。また、自発的に主の宮に献げられる金とは、レビ記27章が規定する特別な誓願を立てた者たちの献げた金のことです。当初、ヨアシュはそのお金で神殿の修復工事をしようと考えていました。それを担ったのは祭司たちです。

ところが、ヨアシュ王の23年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しませんでした。つまり、これらの金では、祭司やレビ人の生活を賄い、神殿での礼拝を維持するだけで精一杯で、神殿の破損か所を修理する余剰金は出なかったのです。それでヨアシュは新しい計画を立て、このプロジェクトから祭司たちを除外しました。

7節に着目してください。ヨアシュは、祭司エホヤダと祭司たちを呼んでそのことを告げました。祭司エホヤダは、彼の霊的な親でもあります。そのエホヤダに命じるほど彼は王として、また霊の人として成長していたことがわかります。彼は7歳で王となり、これはその23年目のことですから、この時彼は30歳だったことがわかります。彼はエホヤダの養育から離れ、霊的な事柄においても識別力を働かせるほど成熟していたのです。

その新しい計画が9節に記されてあります。「祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。」

要するに、エホヤダは、献金箱を設けることによって宮の修繕のための特別献金枠を設けました。その結果どうなったでしょうか。そうしたら、人々からどんどん金を入れたので、箱がいっぱいになりました。それで、箱の中に金が多くなると、王の書記官と大祭司は上って来て、それを箱から取り出して袋に入れ、主の宮に納められているかを計算しました。

こうして勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡されました。監督者たちはその金を、宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに賃金として支払いました。 ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはありませんでした。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。すばらしいですね。忠実な者たちが働いていたので、公の会計報告をしなくても安心だったのです。エペソ6章7節には、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」とあるように、何事も主に仕えるように心を込めて、忠実に仕えるよう心掛けたいと思います。

Ⅲ.ヨアシュの死(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「12:17 そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。12:18 ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。12:19 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。12:20 ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。12:21 彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。」

そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取りました。ハザエルはさらにエルサレムを目指して攻め上って来ました。このハザエルについては、8章で見たように、主君ベン・ハダデを殺して王となりました。それはエリシャが預言した通りでした。その時エリシャは、彼が残虐な仕打ちをイスラエルに対して行なうことを預言しましたが、果たしてそれが今、実現することになります。彼はイスラエルを攻め、さらにユダにまで攻めて来ました。ガテは、イスラエル南部の沿岸地域にある町で、ペリシテ人の町として有名なところでした。ハザエルはそこを攻め、今度はエルサレムを目指して攻め上って来たのです。

それに対してヨアシュはどのように対応したでしょうか。18節をご覧ください。「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」

なんとヨアシュは、自分たちの神である主(ヤハウェ)に敵からの救いを祈り求めるのではなく、主の宮にある金をかすめ奪い、それをハザエルに贈り、和平を求めました。霊的堕落です。エルサレムの財宝を手に入れたハザエルは、そのまま去って行きました。

2歴代誌24章には、ヨアシュがどのように堕落したかその経緯が書かれています。祭司エホヤダが死ぬと、ヨアシュはユダの高官たちの影響を受け、アシェラ像とその他の偶像を礼拝するようになりました。それで主は彼と高官たちに預言者たちを送りましたが、ヨアシュと高官たちはそれを無視しました。最後に、祭司エホヤダの子ゼカリヤが立ち上がり、偶像礼拝の罪を糾弾しますが、ヨアシュはそのゼカリヤを石打にして殺すのです。

いったいなぜヨアシュは、このように堕落してしまったのでしょうか?幼い頃から非常に霊的な環境の中に育てられ、大人になってからも霊的な改革を行なっていたのに、どうしてこんなにも堕落してしまったのでしょうか?一言でいえば、「高ぶり」が大きな原因の一つでした。これはヨアシュだけでなく、他のユダの王たちも言えることですが、最初のころは、主に対して熱心だったけれども、主が国を繁栄させ力を増し加えてくださるにしたがって、主ではなく自分を誇るようになり、自分の力でこの国が成り立っているのだと考えるようになったのです。北王国イスラエルでは完全に主から離れているという問題がありましたが、南ユダでは、その霊的な力が逆に仇となって、主の前におけるへりくだりを忘れてしまうという問題があったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分が信仰に歩んでいると思うあまり、いつの間にか高慢になり、神さまの恵みに拠り頼み、必死にあわれみを請う謙虚さを失ってしまう危険があります。私たちはいつも、自分が主のみを自分の分け前としているのか、それとも、主に関する霊的環境に満足して、それに依存してしまっているかを吟味してみる必要があります。主を愛する牧者がいること、互いに愛する兄弟がいること、健全な教会形成なされていること、立派な会堂が与えられていることといった霊的な環境ではなく、ただ主のみを自分の分け前とし、日々、その新しいあわれみにすがっているかが問われているのです。

そんなヨアシュの最後はどうだったでしょうか。20節をご覧ください。「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。」

彼は彼の家来たちの謀反によって殺されてしまいます。手を下したのは、シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデです。この謀反自体は悪です。しかし、それを招いたのはヨアシュ本人でした。正義に支配された王のところに謀反は起こりません。みなが平和に暮らすことができるからです。支配者や指導者が道をそれますと、必ずこのような混乱が生じることになるのです。

21節には、「人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。」とありますが、彼は王たちの墓には葬られませんでした。2歴代誌24章25節には、「人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。」とあります。なぜなら、彼は神のさばきを受けて死んだからです。

何ということでしょう。彼は神殿の修復工事に情熱を燃やすほど信仰的な王でしたが、最後は、神殿の財宝を敵に与えても痛みを感じない王になっていました。人生の最後を信仰者として生きるのはなんと難しいことでしょうか。日々、クリスチャンとしての自分の立ち位置を確認しながら歩まなければなりません。

エレミヤ20章1~13節「落胆する者から賛美する者へ」

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きょうは、エレミヤ書20章から「落胆する者から賛美する者へ」というタイトルでお話します。これまでエレミヤ書をずっと見てきましたが、あなたはエレミヤのような人物をどのような目で見ていますか。スーパーマンのような何の弱さもないスーパーヒーローのような人物のように考えていませんか。エレミヤは若くして預言者として召されましたが、私たちと同じ弱さをもった人間でした。このエレミヤのように私たちの人生にも、山があれば谷もあります。落胆する時があれば歓喜する時もあります。エレミヤは落胆した時、それをどのように克服していったのでしょうか。

Ⅰ.パシュフルによる迫害(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「1 さて、主の宮のつかさ、また監督者である、イメルの子、祭司パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。3 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなく、『恐怖が取り囲んでいる』と呼ばれる。4 まことに主はこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。5 また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。6 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、捕らわれの身となってバビロンに行き、そこで死んで、そこに葬られる。あなたも、あなたが偽って預言を語り聞かせた、あなたの愛するすべての者たちも。」」

ここに、祭司パシュフルが登場します。彼は主の宮の司、エルサレム神殿を司る、また監督する立場にある人でした。彼はエレミヤがこれらのことばを預言するのを聞きました。「これらのことば」とは、前の章の19章15節にあるエレミヤが語った主のことばのことです。エレミヤは、主が遣わしたトフェトから帰り、エルサレムにある主の宮の庭に立ち、イスラエルの民全体にこう言いました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(19:15)

これを聞いた祭司パシュフルは、気分を慨し、不快感を(あら)わにして、エレミヤの預言を押しとどめようとしました。というのは、エレミヤが罪だとか、さばきだとか、悔い改めだとか、いつもネガティブなことばかり言っていたからです。これらのことばを聞いたパシュフルはエレミヤを打ち、彼をエルサレム神殿のベニヤミンの門という門にある足かせにつなぎました。これまでもエレミヤは主のことばをストレートに語った結果、人々から嫌われ、除け者にされ、時には殺されそうになりましたが、今回は肉体に危害が及ぶまでの迫害を受けたのです。

この祭司パシュフルについては、ここに「主の宮のつかさ、また監督者」とありますが、恐らく、エルサレムの神殿を管理する最高責任者だったのではないかと思われます。彼は主の宮のつかさとして神殿に出入りする人たちを見張り、そこにいかがわしい人物がいたら、その人を捕らえて尋問したりしていました。そこにエレミヤが彼らを責めるようなことを言ったので彼は嫌になり、エレミヤを打ち足かせにつないだのです。この「打ち」というのは、むち打ちのことです。旧約聖書にはむちは40回までと定められていました。もしこれを1回でもオーバーすると打った者が罪に定められたので、40回に1つ少ない39回のむち打ちが一般的でした。それはただ単にエレミヤを黙らせるためでした。これ以上エルサレムの住民に対して否定的なメッセージを語らないように、自分たち宗教家をバカにしないようにと脅したのです。
  それだけではありません。パシュフルはエレミヤをベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。この足かせは、からだがねじれた状態で手足を締め付ける道具です。一晩経つとからだ中の筋肉が痛みで悲鳴を上げるようになります。
  エレミヤは何も悪いことをしていませんでした。彼はただ神のことばをストレートに語っただけです。それなのにこんなひどい目に遭わなければなりませんでした。こんなに不当な仕打ちを受けなければならなかったのです。神の罰を語ったがゆえに、人の罰を受けることになってしまいました。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、彼の中には相当複雑な思いがあったのではないかと思います。

翌朝、パシュフルはエレミヤを解放しました。これでエレミヤを黙らせることができると思ったのでしょう。でもエレミヤはそんな軟弱な人間ではありませんでした。彼はパシュフルが彼の足かせを解いたとき、彼にこう言いました。3節です。
  「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる。」(20:3)
  どういうことでしょうか。恐怖によって四方八方から取り囲まれているという意味です。恐怖が彼の周りを取り囲むようになるということです。「パシュフル」という名前は、そもそも周りは安全であるという意味ですが、その名前が改名され、安全ではなく恐怖が周りを取り囲むようになると言ったのです。自由ではなく不自由になると。具体的には4~6節までにある内容です。彼と彼の家に住むすべての人が捕らわれの身になってバビロンに連れて行かれ、そこで死んで葬られることになります。バビロン捕囚という出来事です。彼と彼の家族だけではありません。ユダのすべての人もそうです。バビロンに引いて行かれ、剣で打ち殺されることになります。どうしてこのようなことになったのでしょうか。それは彼らが自分の安全を考えて神のことばをねじ曲げたからです。その結果、バビロンに連れて行かれることになってしまいました。安全ではなく恐怖が彼らを取り囲むようになったのです。神のことばよりも自分の安全を優先させるようなことがあると、恐怖があなたを取り囲むようになるのです。

Ⅱ.エレミヤの落胆(7-10)

次に、7~10節までをご覧ください。「7 「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。8 私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。10 私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『「恐怖が取り囲んでいる」と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています。『たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って、復讐できるだろう』と。」

これは、エレミヤの祈りです。彼がどれだけ落ち込んでいたかは、この祈りを見るとわかります。エレミヤは再び捕らえられるかもしれない恐怖の中にあっても、パシュフルに向かって「主はあなたの名をパシュフルではなく「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」と、大胆に主のことばを語りました。でも、彼の心は晴れませんでした。ここで彼は率直な自分の思いを神様に訴えています。

7節には、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。」と言っています。エレミヤのような信仰の勇者でも落ち込むことがあります。あの偉大な預言者エリヤもそうでした。エリヤもアハブの妻イゼベルから「おまえのいのちを取る」と言われたとき、脅えて自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」鬱ですね。もう嫌です。もうたくさんです。もう殺してください。あのエリヤが、ですよ。エレミヤも同じです。彼は落ち込んで自分の死さえ願うほどになりました。彼は私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。どんなにスーパーマンのような人であっても、山もあれば谷もあります。落胆する時もあれば、歓喜する時もあるのです。エレミヤもまた、私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。

エレミヤはどのように祈ったでしょうか。彼はまず、「あなたはわたしを惑わしたので、私はあなたに惑われました。」と言っています。これは聞き捨てならないことばです。というのは、神様は人を惑わすようなことはなさらないからです。ではこれはどういうことなのでしょうか。これは、神様の約束が違う!という意味です。自分は自ら進んで預言者になりたかったわけではなかったのに、主がそうせよというからそうしただけであって、そうすれば主が救ってくれると言ったのに、実際は違うじゃないですか。こんなひどい目に遭っています。それで、彼は主が私を惑わしたと言っているのです。でも、本当に主はエレミヤを惑わされたのでしょうか。

1章4~8節を開いてください。エレミヤが神から召命を受けた時の言葉です。「4 次のような主のことばが私にあった。5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」6 私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」
  主はエレミヤに対して、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(1:5)と言って預言者として召し出されました。
  そに対してエレミヤは何と答えましたか。彼はこう言いました。「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
  それに対して主が言われたことばがこれです。7節と8節です。
  「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
  主は、わたしが遣わすすべての所へ行って主が命じられたことを語るようにと言われました。恐れないで。なぜなら、主が彼とともにいて、彼を救い出すからです。
  でも、現実はどうでしたか。ここでは祭司パシュフルによって捕えられ、不当にもむち打ちを受け、足かせに繋がれるという恥辱を受けました。約束が違うじゃないですか。主よ、私はあなたに惑わされたんです。騙されたんです。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。それがこの(ざま)です。そう訴えているのです。

皆さん、どう思いますか。約束が違いますか。主が言われたことをよく見てください。主はエレミヤに何と言われましたか?「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(1:8)と言われました。主はエレミヤに、あなたは何の迫害も受けないとか、あなたの人生には何の問題もない、何の苦難もないなどとは一言も言っていません。むしろ、そういうことがあるということを前提に、「わたしはあなたともにいて、あなたを救い出す」と言われたのです。あなたの人生には間違いなくあなた一人ではとても耐えられないような患難があると。だから救い出される必要があるわけです。自分で自分を救い出せないような状況が起こるということを主は予めご存知であられ、でもそういう時でも心配しなくてもいい、恐れなくてもいい、なぜなら、わたしがあなたとともにいて救い出すからだと言われたのです。それがこの約束です。投獄されるようなことがあれば、そこにわたしもあなたと一緒にいるから、あなたはひとりぼっちじゃないから、ひとりで苦しむわけではない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すから、恐れなくていい。それが主の約束だったのです。

しかし、エレミヤはのことばを取り違えて、こんなことになるなんて話が違うじゃないかと、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」と訴えたのです。このようなことは私たちにもあります。私たちも人生の中で嫌なこと、苦しいことがあると、こんなはずじゃなかった。どうして私の人生にこんなことが起こるのかと言って嘆くことがあります。そして、この時のエレミヤのように主に対して「あなたは私を騙しました」とか「私を惑わしました」みたいなことを言うのです。皆さん、クリスチャンになるとは、バラ色の人生が約束されるということではありません。クリスチャンになっても患難はあります。失望落胆することがある。でも違うのは、そうした患難の中にあっても主がともにいて、あなたを救い出してくださるということです。これが神の約束なのです。

主はあなたの行く先々であなたと共にいてくだいます。あなたが直面している患難、試練の中にも共にいてくださるのです。今、あなたが悩み、悲しみ、ひとりぼっちで、だれにもわかってもらえないと孤独に感じる時も、主はあなたとともにおられるのです。これが主の約束です。主イエスはこう言われました。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
  イエス様は、世にあって患難が無くなるとは言いませんでした。確かに世にあっては患難はある。でも勇敢でありなさい、と言われたのです。なぜ?「わたしはすでに世に勝ったからです。」主イエスはすでに世に打ち勝たれました。死に勝利なさいました。その主が私たちと共にいてくださるのです。であれば、鬼に金棒です。鬼に金棒どころじゃない。私たちには万軍の主が共にいてくださるのだから、何も恐れる必要はありません。イエス・キリストはあなたと共におられます。たとえあなたが末期のがんであったとしても、たとえあなたが絶望の淵に陥っていても、主イエスがあなたと共におられるので、あなたは何も思い煩う必要はありません。これが主の約束です。

8節をご覧ください。エレミヤはここで、「私は、語るたびに大声を出して、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません」と言っています。これがエレミヤのメッセージでした。この「暴虐と暴行」という言葉は6章7節にも出てきましたが、エルサレムに対する神のさばきの宣言です。エレミヤのメッセージを一言でいうなら、この「暴虐だ。暴行だ」と叫ぶことでした。エルサレムの住民の罪は主に対する暴虐と暴行でしたが、それが神のさばきとして自分たちの頭上に帰ってくるということです。それが「暴虐と暴行」です。これはバビロンによってエルサレムが汚されて、完全に陥落するということです。

そういうことを語れば語るほどエレミヤはみんなから嫌われ、嘲りのもととなり、笑いぐさになりました。だれが好き好んでそんなメッセージを語りたいでしょうか。だれも語りたくありません。できればそんなこと口にもしたくありません。そんなことを言えば嫌われることくらい目に見えていました。不快なメッセージなのでだれも好き好んで語ろうとしないことですが、それでもエレミヤはずっと語ってきました。どんなに嫌われても、どんなに除け者にされても、どんなにいのちを狙われようと、ずっと語り続けてきたのです。

でもここでいよいよ耐え切れなくなりました。特にパシュフルによって拷問と辱めを受けることによって、彼の忍耐が一気に爆発してしまいました。もうやっていられない!もう嫌だ!もう止めた!英語でいうとThat’s all.です。これで終わり!です。

それで彼はどうなりましたか。9節をご覧ください。「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」

エレミヤは、「もう主のことばを宣べ伝えない。主の御名によって語らない。」と思いました。もうたくさんです、もうごめんです、や~めた!と思ったとき、何があったのでしょうか。主のことばが彼のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになりました。それで彼は自分の内にしまっておくのに耐えられなくなってしまいました。これはどういうことかというと、主のことばが彼の心のうちで燃えさかる火のようになったので、黙ってなどいられなくなったということです。「骨」とはからだ全体のことです。神のことばが骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになるので、もう爆発しそうになったのです。もう内側にしまっておくことができなくなりました。もう抑えることができません。もうどうにも止まらない、です。

ルカの福音書24章には、イエスの復活後、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていた時の様子が記録されていますが、そこにイエスが近づいてきて、道々お話してくださいました。その時二人の目はさえぎられていて、それがイエス様だとわかりませんでした。しかし、「道々お話してくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(ルカ24:32)とあります。彼らの心は内で燃えていました。イエス様が聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心の内はずっと燃えていたのです。それと同じです。主のことばが内に燃えたのです。エレミヤは非常に失望落胆していました。でも、主のことばが彼の心に入ると、そのことばが燃えさかる火のようになって燃えました。もう主の名によって語らないと思っても、語らずにはいられなくなりました。意気消沈していた心が燃えさかる火のようになりました。皆さんもそういう経験がおありでしょう。もう嫌だ、もう無理です、もうやっていられないと落ち込んだ時に主のことばが心に入ると、燃えて来たということが。それは消すことができないほどの、抑えきれないほど強いものです。これは何も牧師や伝道者に限ったことではありません。もしあなたが救われて神の聖霊を受けているなら、主のことばがあなたの心に入ると、あなたの心は燃えさかる火のようになります。それはあなたが消そうと思っても消すことが出来ないほどのものすごく強い衝動となって迫ってくるのです。もう黙ってなどいられなくなるのです。

だから、落ち込んでいられないのです。反対され、迫害され、もう二度とイエスの名を口にするなと言われても、それでも私たちは主のことばが心に入ると、それが点火して火のようになり、黙ってなどいられなくなるからです。ですから、大切なのは、主のことばがあなたの心のうちで、骨の中に閉じ込められるということです。そうすれば、あなたは燃えさかる火のようになります。まさにヘブル4章12節には、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、抵抗できない力をもって、私たちの心を占領するのです。

ですから、私たちが落胆した時に求めなければならないことは、自分の力で奮起しようとすることではなく、主のことばによって燃やされることです。主のことばに捉えられ、主のことばにすっかり魅了される。そうすれば、いつの間にか主の御思いに動かされるようになります。Ⅰペテロ2章2節にはこうあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」純粋な霊の乳、みことばの乳を慕い求めましょう。それによって成長し、救いを得ることができるからです。主のことばがあなたの心に燃えるとき、あなたはあなたの思惑ではなく、あなたの願いでもなく、あなたの意志でもなく、ただ神によって動かされていくようになるからです。そういう信仰生活を送らせていただきたいですね。

Ⅲ.エレミヤの勝利(11-13)

エレミヤがそのように深く落胆したとき、彼はどのようにしてそれを克服したのでしょうか。最後に11~13節を見て終わりたいと思います。「11 しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。12 正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私に見させてください。私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。」13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」

絶望的な祈りが、突然勝利の祈りに変わります。そのきっかけとなったのが、11節の「しかし、主は私とともにいて」という短い言葉です。これは、エレミヤの信仰告白です。主がともにおられるということが勝利です。主がともにいて、荒々しい勇士のようなので、自分を迫害する者たちはつまずき、勝つことかできません。神に敵対する者たちは、必ず恥を見ることになります。これが、主が約束されたことです。エレミヤはここでその約束に立ち返っているのです。それがこの「しかし」ということばに表されています。これは、みことばに基づいた信仰と言えるでしょう。このようなみことばに基づいた信仰こそ逆境の中でモノを言うことになります。ただ信じているというのではありません。みことばの約束のゆえに必ず勝利することができると確信しているのです。なぜなら、私には思いと心を見られる万軍の主がともにいて助けてくださるからです。何を言われても、何をされても、高らかに、大胆にこのように告白できるのは、みことばの約束を信じているからなのです。そうでなければ、信仰は簡単に揺らいでしまうことになります。みことばをベースに置いていなければ、信仰は簡単に倒れてしまいます。でもみことばがベースにあるなら、どんな逆境にあっても立ち向かうことができます。主がともにいてくださると確信することができるねからです。ローマ8章31節を開いてください。ここには、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも敵対することができません。この方があなたとともにいてくださるからです。

私たちは、しばしば孤独や絶望や挫折を経験します。しかし、そんな時に共にいて慰めや希望や勇気を与えてくださる神がおられることを知っている人は何と幸いなことでしょう。
  神は天から私たちを見下ろして、ただ「ガンバレ」と声援を送るだけの方ではありません。この神は今から二千年前に人として私たちの世界に来られたイエス・キリストです。キリストは、33年間、この地上を歩まれました。そして私たち人間が経験する孤独や痛み、悲しみのすべてを経験されたのです。このキリストがこう約束してくださいました。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 この方があなたとともにおられるのです。であれば、だれがあなたに敵対することができるでしょうか。だれも敵対することはできません。主があなたとともにいてくださるなら、あなたは落胆から勝利へ、勝利から勝利への人生を歩むことができるのです。

以前に紹介したことがありますが、一つの美しい詩を紹介したいと思います。それは、マーガレット・F・パワーズという人が書いた「あしあと」という詩です。
  ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
  暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
  どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
  一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
  これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
  そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
  このことがいつも私の心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
  「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、わたしのすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
  それなのに、わたしの人生でいちばんつらい時には、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
  主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた」

主はあなたとともにおられます。主はあなたとともにいて、あなたを守られるのです。この約束をあなたがどれだけ信じて受け止めるかで、あなたの状況はまるっきり変わります。つまり、あなたは神が見えない時は落胆し、神が見える時は勝利することができるということです。

13節をご覧ください。エレミヤは、ひどい落胆の中でこの約束を信じました。その結果、どうなりましたか。その結果、彼はこのように告白することができました。ご一緒に読みましょう。「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
  落胆の中にいたエレミヤは、主を賛美する者に変えられました。なぜなら、彼は自分の状況を見て嘆くことを止め、主がみことばによって与えてくださった約束に目を留めたからです。「しかし、主は私とともにいて、私を助け出される」と。それは私たちも同じです。私たちもすぐに自分のことで失望落胆することが多い者ですが、その中で主を見上げ、主がともにおられるというみことばの約束に目を留め、落胆から賛美する者へと変えられていきたいと思います。

Ⅱ列王記11章

 今回は、Ⅱ列王記11章から学びます。

 Ⅰ.ヨアシュの保護(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「11:1 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼした。11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。11:3 彼は乳母とともに、【主】の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤが国を治めていた。」

場面は南ユダ王国に移ります。アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼしました。アハズヤは南ユダ王国の王でしたが、戦いで傷を負っていたイスラエルの王ヨラムを見舞うためにイズレエルにやって来ていましたが、彼もまたエフーによって殺されてしまいました。それでアタルヤは、ただちに一族全員を滅ぼしたのです。なぜ彼女はそんなことをしたのでしょうか。自分が南王国ユダを支配する王になるためです。
   彼女は、北王国イスラエルの王であったアハブとイゼベルの娘です。彼女は、南王国の王ヨラムと結婚し妻となり数人の子を儲けましたが、ペリシテ人とアラビア人の攻撃を受け、末子アハズヤ(別名エホアハズ)以外は、皆殺されてしまいした(2歴代21:17)。そのアハズヤが殺されたので、彼女が王の実権を握るには一族全員を滅ぼさなければならなかったのです。それにしても一族全員を殺すとはおぞましいことです。彼女がこのような恐ろしいことができたのは、彼女の中に母イゼベルの性質が宿っていたからです。イゼベルはかつてヤハウェの預言者を次々と殺し、もはや主に忠実な者がほとんど残されていないのではないかと思われたほど殺しました。そしてアタルヤもその残虐性を受け継いで、目的のためには手段を選ばない女になっていたのです。

しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れました。エホシェバは、ヨラム王の娘で、死んだアハズヤの腹違いの姉妹です。彼女は、アタルヤが殺そうとした孫たちの中からヨアシュを盗み出し、寝具をしまう小部屋に隠したのです。この時ヨアシュはわずか1歳でした。こうして彼は乳母とともに、主の宮に六年間、身を隠していました。その間、アタルヤが国を治めていました。彼女は南王国で唯一の女王であり、ダビデの家系ではない唯一の王です。もし、アタルヤがヨアシュを殺していたら、ダビデの家系は完全に途絶えてしまい、メシヤ誕生の約束が挫折するところでした。しかし、神はそれをお許しになりませんでした。

このように神の働きが失敗し、悪魔が勝利しているように見えるときがありますが、決してそんなことはありません。主は必ずご自分のみこころを成就するために、一人の赤ん坊を守られたように守ってくださいます。アタルヤは悪魔の手先ですが、神はそんな敵の攻撃からヨアシュを守り、悪魔の策略を砕かれたのです。

Ⅱ.祭司エホヤダの計画(4-16)

次に、4~8節をご覧ください。「11:4 七年目に、エホヤダは人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを【主】の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで【主】の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せた。11:5 彼は命じた。「あなたがたのなすべきことはこうだ。あなたがたのうちの三分の一は、安息日に務めに当たり、王宮の護衛の任務につく。11:6 三分の一はスルの門に、もう三分の一は近衛兵舎の裏の門にいるように。あなたがたは交互に王宮の護衛の任務につく。11:7 あなたがたのうち二組は、みな安息日に務めに当たらない者であるが、【主】の宮で王の護衛の任務につかなければならない。11:8 それぞれ武器を手にして王の周りを囲め。その列を侵す者は殺されなければならない。あなたがたは、王が出るときにも入るときにも、王とともにいなさい。」」

7年目とは、アタルヤの治世の第七年目ということです。祭司エホヤダがヨアシュを王にするために動きます。彼は、ヨアシュが主の宮で隠されていることを知っていました。そして、その時を待っていたのです。彼は密かに人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを主の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで主の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せました。つまり、正当な後継者が存在していることを彼らに示したのです。カリ人とは、ケレテ人のことです。彼らはダビデに忠誠を誓った兵士たちです(2サムエル20:23)。彼らは ダビデの子孫が王にならなければいけないことをよく知っていました。彼らはアタルヤにくみしていない忠実な兵士たちでした。ですから、彼らがそのことを聞いた時どれほど喜んだことでしょう。そして、エホヤダは彼らと契約を結び、王位奪還計画を開始するのです。それが5~8節にある内容です。

彼らのうちの三分の一は安息日の務めに当たり、王宮の護衛の任務につきます。三分の一は東のスルの門を固め、残りの三分の一は近衛兵舎の裏の門の護衛に当たります。王宮の護衛は交代制とし、三組の二組は安息日には勤務しないが、主の宮の王子の護衛に当たります。それぞれ武装して王子の身辺警備を厳重にするようにと。これは王の戴冠式に備えるための準備です。

祭司エホヤダの信仰と勇気はすごいですね。彼は個人的な理由でアタルヤを殺害し、ヨアシュを王にしようしたのではありません。彼はあくまでも神のみこころが成就するために動いたのです。つまり彼は主の代理人として、悪魔が送り込んだ強奪者を排除しようとしたのです。彼は信仰により、いのちがけで王位奪還に動き出しました。

9~16をご覧ください。「11:9 百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行った。彼らは、それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、安息日に務めに当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れて来た。11:10 祭司は百人隊の長たちに、【主】の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えた。11:11 近衛兵たちはそれぞれ武器を手にして、神殿の右側から神殿の左側まで、祭壇と神殿に向かって王の周りに立った。11:12 エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだ。11:13 アタルヤは近衛兵と民の声を聞いて、【主】の宮の民のところに行った。11:14 彼女が見ると、なんと、王が定めのとおりに柱のそばに立っていた。王の傍らに隊長たちやラッパ奏者たちがいて、民衆がみな喜んでラッパを吹き鳴らしていた。アタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫んだ。11:15 祭司エホヤダは、部隊を委ねられた百人隊の長たちに命じた。「この女を列の間から連れ出せ。この女に従って来る者は剣で殺せ。」祭司が「この女は【主】の宮で殺されてはならない」と言ったからである。11:16 彼らは彼女を取り押さえた。彼女が馬の出入り口を通って王宮に着くと、彼女はそこで殺された。」

百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行いました。それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れてきました。

すると祭司エホヤダは百人隊の長たちに、主の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えました。これらの槍と小盾は国家行事の際に用いられるもので、この戴冠式が正式なものであることを示すものでした。近衛兵たちはそれぞれ武装し、主の宮の正面に向かって王の周りに立って護衛しました。エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、モーセ五書を渡しました。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだのです。

アタルヤはヨアシュの存在について知りませんでした。彼女は近衛兵と民の声を聞いて、主の宮にいる民のところに行ってみると、なんと、王が立つ定位置にヨアシュが立っているではありませんか。それはヨアシュが新しい王として即位したことを示していました。そして、民が喜んでラッパを吹き鳴らしていました。それを見たアタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫びましたが、だれも彼女に加勢する者はいませんでした。

すると祭司エホヤダは、百人隊の長たちに、彼女を捕らえ、王宮まで連行するように命じました。そして、彼女に従って来るものは剣で殺すようにと命じました。主の宮は礼拝する場所であって、処刑所ではないからです。そこで彼らは彼女を取り押さえ、王宮の馬の門に着くと、彼女はそこで処刑されました。

アタルヤは、栄華の絶頂期の中で突然の死を迎えました。詩篇49篇20節に「人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」とありますが、たとえどんな栄華の中にあっても悟ることがなければ、それは滅び失せる獣と何ら変わりありません。日々主のみことばを通して悟りが与えられ、主の御前に誠実に歩まなければなりません。

Ⅲ.バアル神殿の破壊(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「11:17 エホヤダは、【主】と、王および民との間で、彼らが【主】の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。11:18 民衆はみなバアルの神殿に行って、それを打ち壊した。彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺した。祭司エホヤダは【主】の宮に管理人を置いた。11:19 彼は百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆すべてを率いた。彼らは王を【主】の宮から連れて下り、近衛兵の門を通って王宮に入った。王は王の座に着いた。11:20 民衆はみな喜んだ。アタルヤは王宮で剣で殺され、この町は平穏となった。11:21 ヨアシュは七歳で王となった。」

エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、また、王と民との間でも契約を結ばせました。これは、モーセの律法に従って、主の民として生きるという再献身の表明です。また、王はモーセの律法に従って民を統治し、民はその王に従うという内容の契約です。すばらしいですね、私たちは主の所有の民である、主のものであるということを再認識することは。ある時には神様のものだけれども、ある時には自分の好きなようにということではなく、いつでも、どこでも、自分たちは主の民、その牧場の羊であり、そこに立てられた王の統治に従って生きると認識することは大切なことです。

それで民はどうしたかというと、バアルの神殿に行って、それを打ち壊しました。エルサレムになんとバアルの神殿が建っていたのです。これはアタルヤが南王国にバアル礼拝を広げるために建てたたものです。民は、それを打ち壊したのです。そればかりでなく、彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺しました。アタルヤによって持ち込まれたバアル礼拝が、この時点で一掃されたのです。そして祭司エホヤダは、バアル礼拝者たちがそこに入らないように主の宮を管理する管理人たちを置きました。エホヤダは百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆を率いて、王を主の宮から連れ下り、王宮に導きました。そこでヨアシュは王の座に着きました。ヨアシュが7歳の時です。ヨアシュは7歳で王になりました。

一方アタルヤはどうなったかと言うと、彼女は王宮で殺されました。それでこの町は平穏になりました。この町とはエルサレムのことです。エルサレムは再び平穏になりました。アタルヤが南王国にバアル礼拝を持ち込んで以降、エルサレムは霊的混乱が蔓延していましたが、それが解消されたのです。北王国ではイゼベルがバアル礼拝を推進し、南王国ではイゼベルの娘のアタルヤがその役割を果たしました。しかし、南王国は北王国ほどバアル礼拝の影響を受けていませんでした。それはダビデの血筋に属する南王国の王たちの中に主を恐れる者たちが何人かいて、南王国を霊的堕落から守ったからです。私たちも祭司エホヤダに導かれた民を見習って、主の民であるという身分が与えられたことを感謝し、主に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。

エレミヤ19章1~15節「砕かれた器」

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エレミヤ書19章に入ります。きょうは、「砕かれた器」というタイトルでお話します。前回は、18章から、陶器師と粘土のたとえからお話しました。神様は陶芸家の陶器師のようであられて、私たちはろくろに乗せられた粘土のようなものであるというたとえです。そして陶器師であられる神様は、土くれにすぎない私たちをろくろで美しい人に作り変えてくださいます。私たちはみな、陶芸師であられる神様の手の中にある粘土で、神様はご自身の目的に従って、私たちを美しい人に作り上げてくださるという話でした。

今日の箇所には、その逆のことが言われています。主はエレミヤに、行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老や年長の祭司たちとベン・ヒノムの谷に出かけ、同行している人たちの前で、その瓶を砕くようにと言われます。そして彼らにこう告げなければなりませんでした。11節、「万軍の主はこう言われる。「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。」
  これは、イスラエルの民が修復不可能なまでに砕かれるということを表しています。砕かれた器は二度と直すことはできません。ですから、その前に悔い改めなければならないということです。早速本文を見ていきましょう。

Ⅰ.ベン・ヒノムの谷で(1-9)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 主はこう言われる。「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、2 陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。3 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。4 彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。6 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。

主はエレミヤに、「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。」と言われました。ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの南にある谷で、それは「陶片の門」と呼ばれる門の入り口にありました。この「陶片の門」という言葉は、新改訳聖書第三版では「瀬戸のかけらの門」と訳されています。瀬戸物のかけらが捨てられていた場所です。陶器師が粘土をこねて器を作るわけですが、その作った陶器が壊れてしまったかけらを捨てていた場所です。そこはエルサレムの最も低い位置にあって、瀬戸物のかけらだけでなく、排泄物なども含めその他のごみが焼却される場所になっていました。それで新約聖書ではこの「ベン・ヒノムの谷」が「ゲヘナ」(地獄)を意味する言葉として用いられるようになりました。まさに地獄のような所です。そこに出かけて行って、彼らに主のことばを語るようにと言われたのです。

それはどのような内容でしょうか。3節にこうあります。「『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。」

神がユダの地にわざわいをもたらすというのです。その理由は4~6節にあるように、彼らが神を捨てて、この場所を見知らぬ所としたからです。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎無き者の血で流し、バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で約ためにささげたからです。人をいけにえとしてささげること、人身御供(ひとみごくう)とも言いますが、これは、神が最も忌み嫌われる罪です。それゆえ、そこはもはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とは呼ばれません。そこは「虐殺の谷」と呼ばれるようになります。主はそんなことを命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたからです。神様が命じたこともなく、語ったことでもなく、思いつきもしなかったことを行った結果、このような結果を招くことになってしまったのです。

それは具体的には、7~9節にあるように、バビロン捕囚のことを指しています。7節の「ユダとエルサレムのはかりごと」とは、ユダの民の考えや計画のことです。神様は、不従順な人々の考えや計画を打ち砕かれます。彼らの知恵までもむなしくされます。民は剣で殺され、その死体は動物の餌食となり、町はあざけりの的となります。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑うようになります。そればかりではありません。そうしたことによってもたらされる窮乏のために、何と自分の息子の肉、娘の肉を食べるようになるのです。そこはまさにゲヘナ、地獄のようです。果たしてこれが実際に起こることになります。彼らはバビロンによって虐殺され、殺された民の死体がそこを覆うようになるからです。また、彼らのいのちを狙う者がもたらす窮乏のために、自分の息子、娘の肉を、その友の肉を食べるようになります。哀歌4章10節には、こうあります。「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。」これはエレミヤが書いた嘆きの歌です。このようなおぞましいことが実際に行われるようになったのです。

アダムとエバが神のみことばに従わず、神との分離、つまり霊的な死を味わったように、ユダの民も死とわざわいを味わうようになりました。イスラエルは、元々、国々の中から神の栄光を現わすために特別な民として召されましたが、神への不従順によって恥とあざけりの対象となってしまったのです。世のすべての主権と権威は神の御手の中にあります。神は高くもされるし低くもされます。私たちはその神の御前に恐れおののき、すべてのことにおいて神に従って生きる者でなければなりません。祝福とのろいは、神のみことばに従うかどうかにかかっているのです。

どうしたら神に従うことができるのでしょうか。使徒パウロはⅡコリント3章16~18節でこう述べています。
  「3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
  これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。ここには、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるとあります。そのおおいが取り除けられると、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行くのです。これは私たちの努力や私たちの力によるのではありません。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。もし、私たちが主に向くなら、主が私たちからおおいを取り除け、栄光から栄光へと主と同じかたちにかえてくださるのです。ですから、大切なことは主に向くということです。主に向かないでどんなに聖書を読んでも、おおいが取り除かれることはありません。神のことばに従うことができないのです。

みなさんは、太宰治という作家をよくご存知ですか。彼は、日本の作家の中でも一番聖書を愛読した人ではないかと思います。彼の作品には、しばしば聖書の言葉が引用されています。彼はイエス・キリストの言葉に感動して、その教えに必死に従おうとしました。ある意味で、太宰治はほとんどクリスチャンでした。でも、ほとんどクリスチャンというのとクリスチャンであるというのでは全然違います。とても近いようですが、全然違います。
  彼はほとんどクリスチャンでした。でも、本当の意味でクリスチャンではありませんでした。なぜかというと、彼は主に向くことをしなかったからです。主に向かなかったので、心のおおいが取り除かれませんでした。ですから、最後までイエス・キリストの十字架の意味が分かりませんでした。あのキリストの十字架が自分の罪のためであったことに気付かなかったのです。だから、彼はキリストの復活も、キリストの昇天も、キリストの再臨も信じることができなかったのです。
  彼がいかに聖書を愛し、いかに聖書に精通していても、いかにキリストの教えに感動して従おうとしても、聖書が教える唯一の救いの道であるイエス・キリストとの個人的な関係を持たなければ、クリススチャンになることはできません。イエス・キリストを救い主として心の中に受け入れること、つまり、「主に向く」ことをしなかったために、太宰治は、聖書の周りをただぐるぐる、ぐるぐる回るだけで終わってしまったのです。

それは、私たちにも言えることです。どんなに聖書の話を聞いても、どんなに聖書を研究しても、たとえ聖書を全部丸暗記したとしても、聖書が私たちに与えてくれる新しい命を私たちの内側に受け取るまでは何も起こりません。神に従うこともそうです。それさえも、御霊なる主の働きによるのです。そのために必要なことは何か。「主に向く」ことです。どんなに自分の力で神に従おうとしてもできないからです。でもあなたが主に向くなら、あなたがイエス・キリストに心を向けるなら、その時、あなたの心のおおいは取り除かれて、あなたは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。キリストにある新しい命の歩みが始まっていくのです。それが霊的に成熟している人です。

Ⅱ.砕かれた瓶(10-13)

次に、10~13節をご覧ください。「10 そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、11 彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。12 わたしはこの場所と─主のことば─その住民にこのようにする。わたしはこの都をトフェトのようにする。13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚される。』」

神のことばが目に見える形で伝えられます。こういうのを何というかというと、オブジェクトレッスンと言います。実物教育ですね。言葉で行ってもわからないので、それを目に見える形で見せるのです。百聞は一見にしかずということばがありますが、まさにそうです。聞かせるだけでなく実際に見せるのです。前回は陶器師が粘土をこねて新しい器に作り上げるということを示すオブジェクトレッスンでしたが、今回は逆です。陶器師が作り上げた物を砕くのです。それが、焼き物の瓶を砕くという行為です。この焼き物は、イスラエルの民を象徴していました。彼らは柔らかい粘土ではなく堅い器になっていました。主はエレミヤに、その瓶を同行した人たちの前で砕くようにと言われました。砕かれた器は、二度と元に戻すことがきません。そのようにイスラエルの民ももう二度と元に戻ることはできません。その頑なさのゆえに修復不可能なほどに砕かれるのです。たとえ陶器師が水をかけても無理です。こういうのを何というかというと「不憫」(不瓶)と言うんです。瓶は瓶でも不憫です。これがエルサレムとその住民に降りかかる運命でした。神様は、この神の都エルサレムをトフェトのようにすると言われました。まさに火で焼かれ、廃墟と化します。

  エルサレムの家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚されることになります。勿論、罪を認めて神に立ち返り、悔い改めるなら、このような神のさばきを免れることができます。私たちはいつ滅ぼされてもおかしくない者です。それなのに、そんな私たちがまだ生かされているとしたら、それは想像もできないほどの神のあわれみと、人知をはるかに超えた神の恵みによるのです。 だから、使徒パウロはこう言ったのです。
  「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
  これを逃したら、もしかしたら明日は来ないかもしれません。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。

 実は、この言葉は、旧約聖書イザヤ書49章8節からの引用です。イザヤはやがてイスラエルがバビロンに捕えられ捕虜として連れて行かれかれることを預言しました。その時彼らは奴隷として、何の希望も見いだせない日々を過ごしていました。
  そんな時に失望のどん底にいたイスラエルの民に向かってイザヤは、「そうではない。神の解放の日がやって来るのだ。必ず神の解放の日がやって来る。」そう言って彼らを励ましたのです。
  パウロはそのことばを受け取って、「今はイエス・キリストにあって、すべての人が解放される日なのだ。すでに神の祝福が、あなたの目の前にある。だから今、それをつかみなさい。今を生きるべきだ。」と勧めたのです。

  私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、未来がやって来ない人もいません。しかし、確かなことは、過去はもう過ぎ去ったということです。そして、未来はまだ来ていないということです。あるのは今だけです。今だけが、私たちの目の前にあるのです。今が恵みの時、今は救いの日です。
  でも、人はよく過去に生きようとします。「昔は良かった。あの時、あんなことをしていなかったら」とか。でも、私たちは二度と過去に戻ることはできないのです。
  反対にある人は未来に生きようとします。「もしこういうふうになったら、もっと頑張るんだけど」とか、「今はできないけど、そのうち頑張るさ。」だったら今頑張ればいいのに、そのうち、未来にはと、未来のことしか見ようとしないのです。そこには何の根拠もありません。未来に向かってただ望みを置いているだけです。過去も未来も神の御手の中にあり、神が私たちに委ねていらっしゃるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることかできません。今は恵みの時、今は救いの日なのです。この「今」が与えられていることは感謝なことなのです。神があわれみと忍耐をもって、私たちの帰りを待っておられるということですから。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。

ところで、新約聖書の中にも、器に関する言及がいくつかあります。たとえば、パウロが弟子のテモテに書き送った手紙の中にこのようなことばがあります。「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21)

神はあなたという器を用いることを望んでおられます。あなたという器が有益なものとして用いられるために必要なことは何でしょうか。ここには、「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、」とあります。これらのものとは、この文脈では俗悪な無駄話とか、真理から外れてしまった教え、また不義な行いを指して言われています。これらのことから離れて自分自身をきよめるなら、あなたは尊いことに用いられる器となるのです。

神はエレミヤにユダの民の目の前でその瓶を砕き、陶器師の器が砕かれると、二度と戻すことはできない、と言われました。私たちは不義だらけな器ですが、イエス・キリストによって義の器に変えられました。ですから、そうした不義から離れ、聖霊の恵みとあわれみと助を受けて、自分自身をきよめ、尊いことに用いられる器とさせていただきましょう。

Ⅲ.だから、あきらめないで(14-15)

ですから、第三のことは、だから、あきらめないで、ということです。14~15節をご覧ください。「14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った。15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」」

エレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトからエルサレムに帰ってきて、主の宮の庭に立ち、神の民全体に言いました。15節です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(15)

エレミヤは、こんなメッセージをしたら人々から憎まれて、嫌われて、殺されるかもしれないのに、最後まで主のことばを語り続けました。実際に20章を見ると彼は捕らえられ、むちで打たれ、足かせにつながれますが、そういう状況の中でも、彼はあきらめないで最後まで語り続けました。

これは神様の姿を現わしています。神様も同じです。神様は、私たちがどんなに神にそむき落ちぶれても、最後の最後まで悔い改めるチャンスを与えてくださいます。神は最後まであなたをあきらめません。もしかすると皆さんの中には泳げたい焼きくんのようにろくろで練られるのが嫌だと、そこから飛び降りて地面にへばりついている人がいるかもしれません。もう地面と一体化して、この世にどっぷりと浸かっているという人が。でもそういう人でも陶器師であられる神に「助けてください!」「あわれんでください!」と叫ぶなら、神はあなたを、地面から拾い上げて、再び水の洗いと聖霊の豊かな泉によって潤してくださいます。そして再びたたき、再び回し、再び指で押さえつけ、再びご自身の意のままに、あなたを練り上げてくださり、美しい人に作り上げてくださるのです。だから、あきらめないでください。あきらめたらすべてが台無しになってしまいます。あなたはやり直すことができます。もう一度やり直せばいいのです。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさらないからです。

これはアフリカへ派遣されたジェームズ・キングという宣教師が報告している実話です。
  キング師が仕えていた教会に、すべての集会に欠かさず出席していた婦人がいました。彼女には愛犬がいて、この愛犬もいつも教会について来ました。この婦人はいつも通路側の席にすわり、犬は説教の間、静かにその傍にすわっていました。集会の終わりに、牧師が祈ってほしいと希望する人を講壇の前に招くと、この婦人はいつも前に行き、犬もそれについて行きました。
  この婦人は、夫の暴力に悩まされていました。ある日、妻がクリスチャンとして生活していることに腹を立てた夫は、この婦人を殴り殺してしまいました。彼は、牧師がキリスト教式の葬儀を挙げることを赦しませんでした。妻は埋葬され、家には、夫と犬だけが残りました。
  水曜日の夜7時になると、この犬はどこかへいなくなりますが、2時間くらいすると帰って来ます。日曜日にも同じことが起こりました。
  不思議に思った夫は、犬のあとをつけてみることにしました。すると犬は、小さな教会に入り、集会の間、静かに通路にすわっていました。集会が終わりに近づいたとき、彼は犬が講壇の前に出て行くのを会場の後ろのほうから見ていました。すると犬は、妻がいつも祈りをささげていた場所にすわったのです。その光景を見た夫は、たましいが揺さぶられるような感動を覚え、自分も前に進み出て、その場でイエス様に人生を明け渡しました。そして、次の日からは、犬は新しい主人について教会に来るようになったのです。

だから、あきらめてはなりません。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさいません。あなたがどんなに落ちぶれても、どんなに頑なになっても、最後の最後までチャンスを与えてくださいます。たとえ焼き物の瓶が砕かれても、神はあなたに回復の希望を約束しておられます。でも、できれば神はあなたにそんなさばきを下したくはないのです。焼き物の瓶を砕きたくはありませ。二度と直すことができないような器にはしたくないのです。その前に立ち返ってほしい。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めことを願っておられるからです。
  「さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(18:11)今がその時です。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。それぞれ悪の道から立ち返り、生き方と行いを改めましょう。

Ⅱ列王記10章

 今回は、Ⅱ列王記10章から学びます。前回は、エフーがイスラエルの王ヨラムに謀反を起こし、彼を殺して王なったこと、また、アハブの妻イゼベルを殺したことを学びました。

 Ⅰ.エフーによる粛清(1-17)

まず、1~17節をご覧ください。11節までをお読みします。「1 アハブにはサマリアに七十人の子どもがあった。エフーは手紙を書いてサマリアに送り、イズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの子の養育係たちにこう伝えた。2 「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、3 あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」4 彼らは非常に恐れて言った。「二人の王たちでさえ、彼に当たることができなかったのに、どうしてこのわれわれが当たることができるだろうか。」5 そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに人を送って言った。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」6 エフーは再び彼らに手紙を書いてこう言った。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」そのころ、王の子どもたち七十人は、彼らを養育していた町のおもだった人たちのもとにいた。7 その手紙が彼らに届くと、彼らは王の子どもたちを捕らえ、その七十人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルのエフーのもとに送り届けた。8 使者が来て、「彼らは王の子どもたちの首を持って参りました」とエフーに報告した。すると彼は、「それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておけ」と命じた。9 朝になるとエフーは出て行き、立ってすべての民に言った。「あなたたちに罪はない。聞きなさい。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかし、これらの者を皆殺しにしたのはだれか。10 だから知れ。【主】がアハブの家について告げられた【主】のことばは一つも地に落ちないことを。【主】は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」11 エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、親しい者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにした。

きょうのところでは、エフーによる粛清がさらに続きます。それは、イスラエルの王ヨラムやアハブの妻イゼベルの死だけでなく、アハブの家のすべての者を抹消するまで続きます。

エフーは自らの統治を強固なものにするために、サマリアに手紙を送りました。サマリアにはアハブの子どもたち70人が住んでいたからです。彼はイズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの養育係たちにこう伝えました。2~3節です。「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、3 あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」

どういうことでしょうか。彼らには主君アハブの子どもたちがいるのだから、主君に忠誠を示すために、息子たちの中から新しい王を立てて、自分と戦えということです。これは脅迫状です。そうすれば、北イスラエルの王ヨラムにしたように、また、南王国のアハズヤにしたようにおまえたちもしてやるというのですから。

それに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。4節には、彼らは非常に恐れ、ヨラムとアハズヤという二人の王でさえできなかったのに、どうして自分たちに出来るだろうかと言ったとあります。

そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに手紙を送って言いました。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」

するとエフーはこう言いましたか。6節です。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」

もし本当に彼らが自分に味方し、自分の声に聞き従うというのであれば、明日の今ごろまでに、アハブの子どもたちの首を取り、イズレエルの自分のもとに持って来るように、と言うのです。厳しい暗殺によって王が王位から退けられた場合、その王と血縁関係にある親族を生かしておくことは、将来の内戦を招きかねなかったので、そうならないように、王の親族を抹殺するという行為は、古代においては、イスラエルだけでなく中近東の諸国においても、一般的に行われていました。ですから、アハブの70人たちの子どもたちの首を取り、それを自分のところに持って来るようにと言ったのです。

これは、非常に厳しい要求でした。なかなか受け入れがたい要求です。いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。エフーの要求に対して、長老たちは、自分たちはだれも王を立てないというところで終わっていればよかったのに、それ以上のことを約束してしまったからです。「あなたがお命じになることは何でもいたします。」というのがそれです。狡猾なエフーは、その機会を見逃しませんでした。しかし、人に対して完全な忠誠を誓うのは愚かなことです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」( 箴言29:25)とある通りです。私たちが全面的に従うのは、神のみだからです。

その手紙が届くと、彼らはどうしましたか。7節です。彼らは王の子どもたちを捕らえ、その70人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルにいたエフーのもとに届けました。するとエフーは、それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておくように命じました。すごい光景ですが、これは当時の社会ではよく見られた光景でした。当時の社会では、このように負けた者たちの首を陳列することによって、自分たちが勝ったことを示すことがよくあったのです。いわゆる見せしめですね。

イスラエルの民は、このような首さらしの光景を見て動揺していたのでしょう。翌朝、エフーは出て行き、何が起こっているのかをすべての民に説明します(9)。それは、主君ヨラムを殺したのは自分であって、イスラエルの民には責任はないということ、しかし、この70人の首については、誰が殺しにしたのかはわからないということ、その上で、これらの悲劇は、主が預言者エリヤを通して語られたことの成就であり、主がそのしもべエリヤに告げられたことが成就したのだと。これは半分本当で半分嘘です。半分本当であるというのは、これは預言者エリヤを通して語られたことが成就するためであり、主が告げられたことばは一つも地に落ちることはないということです。しかし、半分は嘘というのは、アハブの70人の子どもを殺したのはエフー自身であって、それを知らないというのは全くの嘘です。エフーは本当に狡猾な人間でした。このような嘘をついてまで、自分のやっていることを正当化しようとしたわけです。

そうした彼の残虐さは、その後の悲劇を生みます。11節をご覧ください。エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにしました。エフーは、ヨラム王朝に仕えた高官、親友、祭司たちまで皆殺しにしてしまったのです。いったいなぜ彼は罪のない人まで大量に虐殺したのでしょうか。それは彼の傲慢さのゆえです。彼は「イスラエルの王」として担ぎ出され、物事全てが自分の思うままに進むと、いつしか傲慢になっていきました。傲慢な人は、自分が神であるかのように振る舞います。自分に傲慢な思いがないかどうか、聖霊に吟味していただかなければなりません。

エフーによる悲劇は、それだけにとどまりませんでした。12~14節をご覧ください。ここには、もう一つの悲劇が記されてあります。「12 それから、エフーは立ってサマリアへ行った。その途中、羊飼いのベテ・エケデというところで、13 エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちに出会った。彼が「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、「私たちはアハズヤの身内の者です。王の子どもたちと、王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来ました」と答えた。14 エフーが「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにした。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら四十二人を殺し、一人も残さなかった。

それから、エフーは南下してサマリアに向かいました。その途中に羊飼いのベテ・エケデというところがありましたが、そこでユダの王アハズヤの身内の者たちに出会いました。彼らはエフーが起こしたクーデターのことを知りませんでした。それでエフーが「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、自分たちがアハズヤの身内の者で、王の子どもたちと王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来たと答えると、エフーは「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにしました。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら42人を殺し、一人も残しませんでした。この42人の中には殺す必要のなかった者もいました。というのは、直接アハブの家と血縁関係になかった人たちだったからです。それなのに彼は、無惨にも42人全員を殺したのです。

次に、15~17節までをご覧子ください。「彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「そうなら、こちらに手を伸ばしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、16 「私と一緒に来て、【主】に対する私の熱心さを見なさい」と言った。エフーは彼を自分の戦車に乗せて、17 サマリアに行った。エフーは、アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。【主】がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。」

エフーがそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナタブに出会いました。レカブ人については、民数記10章29節、士師記1章16節、Ⅰサムエル記15章6節にあります。彼らはケニ人とつながっています。ケニ人はモーセの舅の子であり、いわばモーセの従兄弟にあたります。彼らはユダ族と共にカナンに入国しながらも、カナンの宗教に染まることなく、ユダの荒野で独自の共同体を形成していました。そのケニ人の系譜の中にレカブの子ヨナダブという人物がいたのです。彼はオムリ王朝打倒のために、エフーの軍勢に加わった人物です。このヨナダブの行動に端を発し、これを受け継ぐ少数の人々が「レカブ人」と呼ばれるようになりました。

ですから、当然、バアル礼拝には反対の立場を取っていました。彼はアハブ王朝の崩壊も歓迎していました。そのレカブの子ヨナタブにエフーが、「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか」と尋ねると、ヨナタブが「そうです」と答えたので、彼はヨナタブを自分の戦車の上に引き上げ、一緒にサマリアに向かいました。アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにするためです。サマリアに着くと、エフーはアハブ王朝の親族全員を皆殺しにしました。

それは、主がエリヤにお告げになったことばのとおりでした。エフーは、神のさばきを行う代理人として神に立てられたのです。しかし、それはあまりにも残虐でした。その熱心さは異常なものでした。16節に、エフーがヨナタブを戦車に招き入れた時に語った言葉が記されてありますが、彼はこう言っています。「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい。」彼は、主の御心を行うのに熱心でしたが、彼自身が救われていたかどうかはわかりません。少なくても、彼の信仰には問題があったのは確かです。というのは、29節に、彼はイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとしなかったしあるからです。

信仰に熱心であればいいというわけではありません。問題は、その熱心がどこから出ているかということです。エフーの問題は、主の働きについては熱心だったけれども、主との関係においては弱かったことです。今日の教会に当てはめれば、伝道や教会活動には熱心だけれども、本当の意味で、主を知っていなかった、主との親しい交わりを持っているわけではないという感じです。バアルの偶像礼拝については、非常に怒りを覚えているのに、ヤロブアムの金の子牛は捨てることができなかった、ということは、一つの使命感は強く感じていて、それを、とことんまでやっているのに、他の主の命令には無頓着であったということです。私たちも、自分の熱心さについて吟味しましょう。エフーのように(いびつ)な信仰でないかどうかを。

Ⅱ. エフーによるバアル撲滅運動(18-28)

次に、18~28節をご覧ください。「18 エフーはすべての民を集めて、彼らに言った。「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。19 だから今、バアルの預言者や、その信者、およびその祭司たちをみな、私のところに呼び寄せよ。一人も欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルに献げるつもりである。列席しない者は、だれも生かしてはおかない。」エフーは、バアルの信者たちを滅ぼすために、策略をめぐらしたのである。20 エフーが、「バアルのためにきよめの集会を催せ」と命じると、彼らはこれを布告した。21 エフーが全イスラエルに人を遣わしたので、バアルの信者たちがみなやって来た。残っていて、来なかった者は一人もいなかった。彼らがバアルの神殿に入ると、バアルの神殿は端から端までいっぱいになった。22 エフーが衣装係に、「バアルの信者すべてに祭服を出してやれ」と命じたので、彼らのために祭服を取り出した。23 エフーとレカブの子ヨナダブは、バアルの神殿に入り、バアルの信者たちに言った。「よく見回して、ここには【主】のしもべがあなたがたと一緒に一人もおらず、ただバアルの信者たちだけがいるようにせよ。」24 こうして彼らは、いけにえと全焼のささげ物を献げる準備をした。エフーは八十人の者を神殿の外に配置して言った。「私がおまえたちの手に渡す者を一人でも逃す者があれば、そのいのちを、逃れた者のいのちに代える。」25 全焼のささげ物を献げ終えたとき、エフーは近衛兵と侍従たちに言った。「入って行って、彼らを討ち取れ。一人も外に出すな。」そこで、近衛兵と侍従たちは剣の刃で彼らを討って投げ捨て、バアルの神殿の奥の間にまで踏み込んだ。26 そして、バアルの神殿の石の柱を運び出して、これを焼き、27 バアルの石の柱を打ち壊し、バアルの神殿も打ち壊し、これを便所とした。それは今日まで残っている。28 このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」

エフーは、アハブ家を根絶やしにするだけでは終わりませんでした。アハブ家が残した最悪のもの、バアル信仰を滅ぼすことに着手しました。彼は自分が熱心なバアル礼拝者であることを装い、バアルのためのきよめの集会を催せというお触れを出しました。これはエフーがバアルの信者たちを滅ぼすために、めぐらした策略です。

そのお触れに従って、イスラエル全土からバアルの信者たちがやって来ました。残っていて、来なかった者は一人もいませんでした。彼らがバアルの神殿に入ると、バアルの神殿は端から端までいっぱいになりました。

エフーは衣装係に、バアルの信者すべてに祭服を出してやれと命じたので、衣装係は彼らのために祭服を取り出しました。これは、誰がバアルの信者かを見分けるための策略です。

さらにエフーとレカブの子ヨナタブは、バアルの神殿に入り、神殿の中に主のしもべが一人も紛れ込まないように細心の注意を払い、ただバアルの信者だけがいるように告げました。これは、誤って主のしもべたちを殺してしまわないためです。

こうして彼らは、いけにえと全焼のささげ物を献げる準備をしました。そしてエフーは80人の者を神殿の外に配置し、それらの者に、全焼のいけにえをささげ終わったとき、「入って行って、彼らを打ち取るように。一人も外に出さないように」と命じました。それで彼らはバアルの神殿の奥の間にまで踏み込んで、バアルの信者たちを剣の刃で打って投げ捨てました。そして、バアルの神殿を破壊し、それを便所にしました。

こうした一連のエフーの行動の結論は、28節にあります。「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」

エリヤが始めたバアル礼拝撲滅運動は、エフーによって終わりを迎えました。エフーは、北王国のバアル礼拝の罪を裁く神の道具として用いられました。しかし、彼自身は救われていなかったか、救われていたとしても、その信仰はかなり(いびつ)なものでした。というのは、29節に、「ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。」とあるからです。

彼はバアル礼拝撲滅運動には熱心でしたが、彼自身は信仰的にはかなり(いびつ)でした。なんという皮肉でしょうか。彼はただイスラエルをさばく道具としてアッシリヤが用いられたように、また南ユダをさばくためにバビロンが用いられたように、バアル礼拝をさばく道具として用いられただったのです。

Ⅲ.エフーの評価(29-36)

最後に、エフーに対する評価です。29~36節をご覧ください。「29 ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。30 【主】はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」31 しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、【主】の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。32 そのころ、【主】はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。33 すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方にまで及んだ。34 エフーについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼のすべての功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。35 エフーは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子エホアハズが代わって王となった。36 エフーがサマリアでイスラエルの王であった期間は二十八年であった。」

エフーは、バアル礼拝を撲滅しましたが、北王国の伝統的な偶像礼拝はそのまま保持しました。それは、ベテルとダンにあった金の子牛を礼拝することでした。エフーの宗教改革は中途半端なもので終わってしまったのです。

そんなエフーに対して主はこう言われました。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」

不思議ですね。あれほど傲慢で身勝手にアハブの家と関係ない人まで殺したエフーに対して主は、「あなたはわたしの目にかなったことをよく成し遂げ・・・」とエフーの従順をほめました。これはアハブの家を滅ぼすという主の御心を、エフーが最後まで行ったということです。実際のところ、エフーは北王国の中では一番熱心に主に従った王です。それゆえ主は彼に、「あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」と約束されました。つまり、彼が第5番目の王朝の創始者となり、その後に4代の王(エホアハズ、ヨアシュ、ヤロブアム2世、ゼカリヤ)が続くということです。北王国は、このエフー王朝の時に最も繁栄し、ヤロブアム2世の時代に黄金期を迎えます。(北王国イスラエルの年代表参照)

しかし、エフーの信仰は中途半端なものでした。彼は自分に与えられた使命に対しては熱心でしたが、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうとせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れませんでした。彼はモーセの律法に関心を払わず、ヤロブアムが始めた金の子牛礼拝に心を向けていたのです。彼はすでに主から祝福のことばを受けていました。もし彼が、心から主に従っていたら、彼はどれほど偉大な王になっていたことでしょうか。

そうしたエフーの中途半端な信仰の結果、どんな悲劇がもたらされたでしょうか。32節には、「そのころ、【主】はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。」とあります。アハブの家を裁く器としてエフーが用いられましたが、今度はエフーを裁く器としてアラムの王ハザエルが用いられることになります。彼は先祖たちとともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬りました。

エフーがサマリアで王として治めた期間は、38年間でした。北王国が弱体化していく中で彼がこれほど長く北王国を治めることができたのは、ただ神のあわれみによるものであると言えます。ハザエルとエフーの働きについて見ました。どちらも主君に謀反を起こした形でさばきが行なわれましたが、時に神様はご自身の目的のために、人間の怒りや罪さえもお用いになることが分かります。神はこの歴史を支配しておられます。そのお方の前にひれ伏し、心から信頼して歩ませていただきましょう。

エレミヤ18章1~12節「陶器師の手の中で」

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エレミヤ書18章に入ります。きょうは、18章前半から「陶器師の手の中で」でというタイトルでお話したいと思います。聖書には、神様とイスラエル、あるいは神様と私たちの関係がいろいろなたとえで表現されています。たとえば、「羊飼いと羊」とか、「ぶどうの木とその枝」、「夫と妻」、「花婿と花嫁」などです。きょうの箇所では、陶器師と粘土のたとえで表現されています。陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まります。そして陶器師の手によってその器は完成へと導かれていくわけです。
  17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている」とありました。それは癒しがたい、変えられないと。しかし、陶器師であられる神様はそんな心さえも変えることがおできになります。ただの土くれ、粘土にすぎない私たちは、陶器師であられる主の御手の中でへりくだり、砕かれ、練られ、火の中を通るというプロセスを通って、主の似姿に変えられていくのです。

Ⅰ.ろくろで仕事をする陶器師(1-3)

 まず、1~3節をご覧ください。「1 主からエレミヤに、このようなことばがあった。2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。」

エレミヤに主のことばがありました。それは、立って、陶器師の家に下れ、というものでした。そこで主はエレミヤにご自身のことばを聞かせる、と。皆さんは、陶器師がろくろの上で粘土をこねるというか、その粘土のかたまりから器を作るのを見たことがありますか。よくテレビで見ることがありますが、実に興味深いですね。まるでマジックを見ているかのようです。エレミヤの時代、陶器作りは日常生活の一部になっていました。ですから、エレミヤが陶器師の家で見たことや彼が語るメッセージは、当時のイスラエルの人たちもよく理解することができました。

彼が陶器師の家に下って行ったとき、そこで見たものは何でしょうか。それは、陶器師がろくろで仕事をしている姿でした。陶器師は遊んでいたわけではありません。ろくろの上で泥遊びをしていたわけではないんです。ちゃんと仕事をしていました。陶器を作っていたのです。何の器かはわかりませんが、陶器師が気に入るものを作っていました。この陶器師は父なる神様のことを表しています。そしてこの器とは、私たち人間のことを表しています。つまり、私たちは陶器師であられる神の御手によって作られる神の作品であるということです。
  エペソ2章10節を開いてください。ここにはこうあります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
  私たちは神の作品です。神は愛をもって、また目的をもって私たち一人一人を作ってくださいました。この「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイーマ」という言葉ですが、これは「ポエム」の語源になった言葉です。皆さんもポエムをご存知でしょう。「詩」ですね。でも、元々この「ポイーマ」は、芸術作品全般を指していました。詩のポエムもそうですし、美しい陶器もそうです。絵とか音楽といったものも含めて、そうした芸術作品全般がこのポイーマという言葉で表されていたのです。私たちは神のポイーマです。神によって造られた神の作品なのです。しかも、それは世界にたった一つしかない芸術作品、最高傑作品です。誰が何と言おうと、人がどのように見ようと、また、自分が自分のことをどう思おうと、私たちは神によって造られた最高の芸術作品なのです。

旧約聖書のイザヤ書の中にはこうあります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(64:7)ここには、私たちは父なる神様の御手のわざだと言われています。その神様の御手による作品であるがゆえに、私たちは皆、神様にとってはかけがえのない価値のある芸術作品であると言えるのです。

 ですから、イザヤ書43章4節ではこう言われているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様の目には、私たちは高価で尊い。価値のある、尊い存在なのです。なぜ?なぜなら、私たちはその神の御手をもって、愛を込めて造られたものだからです。人間の物差しで見たらどのように思われるかわかりませんが、神様の物差しで見れば、私たちは皆、一人ひとり、神様のお気に入りの自慢の作品なのです。なぜなら、私たちは神によって創られた神の作品だからです。あなたは神の自慢の作品なんです。

では、神様はどのようにして作品を造られたのでしょうか。ここには、「私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところであった」とあります。彼は「ろくろ」で仕事をしていました。皆さんはろくろを見たことがありますか。ろくろとは、回転可能な円形の台のことです。2枚の石を木の軸で支え、下の石をコロコロ回すと上の石が連動して回る仕組みになっています。その上の石の部分にこねた粘土を置いて、それを水に濡らした手で陶器師が思いのままに形にしていくのです。粘土はその上でぐるぐる 回ります。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しです。そのようにして粘土はバランスのとれた形に仕上がって行くのです。これは私たちの日々の生活のこをたとえています。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で神の御手によって神のみこころにあったものとして形作られていくのです。毎日毎日同じことの繰り返しです。でもそこで私たちは神様の取り扱いを受けるのです。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で時には指で押されたり、手のひらでグッと押し付けられることがあります。水をかけられて散々こねくり回されるようなことがあるわけです。そういう状況が続くと、キツイな、苦しいな、もう嫌だなあと、そこから逃げ出したくなったりしますが、ろくろがずっと回っているので逃げることができません。それでもあまりにも苦しくなるともう嫌だ、もうたくさんです、もうこりごりですと、ろくろから飛び降りたくなります。あの「泳げたい焼きくん」のように。皆さん、「泳げたい焼きくん」ご存知ですか。
  毎日毎日鉄板の上で焼かれて嫌になったたい焼きくんは、ある朝、店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました。初めて泳いだ海の底は とっても気持ちがいいもんでした。お腹のアンコは重いけど、海は広いぜ、心が弾む!桃色サンゴが手を振って、彼の泳ぎをながめていました。
 でも、泳げたい焼きくんはどうなましたか? 一日泳げば腹ペコになって 目玉もクルクル回ってしまい たまにはエビでも食わなきゃと 岩場の陰から食いいたてみたら、それは小さな釣り針だったのです。どんなにどんなにもがいても、針がのどから取れません。浜辺で見知らぬおじさんが、たい焼きくんを釣り上げてびっくりしていました。それで彼は思うんです。やっぱりぼくはたい焼きさ。少し焦げあるたい焼きさ おじさんつばを吞み込んで、ぼくをうまそうに食べてしまいました。

粘土も同じです。もう嫌だ、もうたくさんだとそこから飛び降りると、地面に落ちてペチャンコになってしまいます。もうそこから動けなくなってしまうのです。全く惨めです。すると嘆くわけですね。「助けてください」と。すると陶器師はその粘土をかき集め、再び丸めてろくろの上に乗せてこねくり回わします。すると粘土はまた嫌になって、もうこりごりです、もう耐えられません、そう言ってまたジャンプするわけです。すると地面に落ちてペチャンコになって動けなくなってしまう。それで「助けてください」と叫ぶと、また陶器師がやってきて黙ってそれを拾い上げ、再びろくろの上に乗せてこねくり回します。その繰り返しです。これが私たちクリスチャンの生活です。そのようにして神様はご自身の作品を作ってくださるのです。神様は私たちをシェイプアップしようとしてろくろでこねくり回すと、私たちはそれに耐えきれなくなってギブアップし、地面に落ちてペチャンコになります。すると主がそれをピックアップして再びろくろの上に置いてシェイプアップしてくださる。その連続です。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。その繰り返しです。これが、神様が私たちをご自身の作品に作り上げてくださる方法なのです。そうやって神様は私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。だから、ろくろから逃げてはいけないのです。逃げたらたい焼きくんになってしまいます。逃げたらペチャンコになってしまう。ろくろの上でこねくり回さることは時には辛いこともありますが、陶器師の手にゆだねることで、あなたは美しい器に造り上げていただくことができるのです。

Ⅱ.陶器師の手にゆだねて(4-6)

次に、4~6節をご覧ください。「4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主のことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

エレミヤは、陶器師の家に行き陶器師がろくろで仕事をしているのを見ました。すると、陶器師が粘土で製作していた器は陶器師の気に入らなかったようで、すぐにそれを壊し、自分の気に入るほかの器に作り替えました。どういうことでしょうか。陶器師は粘土に対して絶対的な権威を持っているということです。陶器師は、自分が好きなようにその粘土を取り扱うことができるということです。形も、大きさも、デザインも、陶器師が好きなように自由に作り、気に入らなければそれを壊して別のものに作り替えることができるのです。自分の意のままに何でもすることができます。これを何というかというと、「主権」と言います。神の主権は、神が絶対的な主権をもってご自身が好きなようにできるということです。神にはそのような権利と自由があるのです。それが6節で言われていることです。

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主ことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家は主の御手の中にあります。陶器師は自分で好きなように壊したり、作り替えたりすることができます。でもそうされたからと言って粘土には何も文句を言う権利はありません。粘土はあくまでも陶器師の手の中にあり、陶器師の意のままに形作られるものだからです。それなのに、土くれにすぎない粘土が造り主である陶器師に文句を言うことがあります。たとえば、イザヤ45章9節にはこうあります。「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。」。
  陶器は土の器の一つにすぎないのに、不遜にも形造る方、陶器師に抗議することがあるのです。「何を作るのか」とか、「あなたは自分のやっていることが全然わかっていない」とかと。粘土がそれを形造る陶器師に向かってそう言うのです。わかっていないのは粘土の方なのに、その粘土が自分を形造る方に向かって「どうしてこんなところに手をつけるのか」とか、「センスが悪い」とかと言うのです。どうしてこんなところに手を付けるのかって、それは陶器師がそうしたいからしているのであって、それは陶器師の自由であるはずです。陶器師にはその権利があるのです。それにイチイチ文句をつける方がおかしいのです。

パウロはこれをローマ9章18~21節で引用してこう言っています。「18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」
  神は人をみこころのままにあわれみ、またみここころのままに頑なにされます。ここではエジプトの王ファラオのことを言っていますが、神には人をみこころのままにあわれんだり、頑なにされます。そのような権利を持っていらっしゃるのです。神は主権者であって、だれもこの神の意図に逆らうことはできません。私たちにできることは、その神の主権を認めるということだけです。
  それは陶器師と粘土にも言えることであって、陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いものに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっておられます。花瓶であろうと尿瓶(しびん)であろうと、食器であろうと便器であろうと、陶器師は自分の好きなものを造る権利を持っているのです。それに対して「私は尿瓶は嫌だ、花瓶がいい」とか、「便器は毎日使うので役に立つけど、どうせ毎日使うものなら食器の方がいい」とか、そう言う権利はないのです。その権利を持っているのは造られる方、陶器師だけです。

それなのに、そのように文句を言ったり不満を垂らしたりすることがあるとしたら、それは自分の立場を忘れているということです。いつの間にか自分が陶器師であるかのように錯覚しているのです。自分が神様であるかのように思い込んでいることがあります。自分の人生は自分のものだと、だから花瓶になってなんで悪いんだと。食器になったっていいじゃないかと主張するんですね。そういうのを何と言うかというと、「主客(しゅかく)転倒(てんとう)」と言います。主客転倒とは、主人と客のあるべき立場が入れ替わり、あべこべになることです。 そこから転じて、人や物事の立場、順序が逆転することを言います。私たちが主ではありません。私たちはただの土くれ、粘土にすぎません。陶器師ではないのです。その身分相応の立場をわきまえなければなりません。私たちはただの粘土で踏みにじられて当然の者、捨てられて当然の者、無価値だと言われて当然の者なのです。でも驚くべきことに、そんな無価値な私たちを、この陶器師が名器に作り替えてくれます。測り知れない価値ある者に作り替えてくれるのです。だから、その神の主権を認め、神がなさりたいように自由になさっていただく。これがベストです。

言い換えると、これは「みこころのままに」ということです。みこころがなりますようにという祈りです。私たちはそう祈っていますよね。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈りの一節です。実は、これが究極の祈りです。すべての祈りがこれに至ります。みこころがなりますように。これが祈りのすべてと言っても過言ではありません。神の主権を認めるとは、まさにみこころがなりますようにと祈ることなのです。神の主権を認め、神がなさりたいようになさっていただく。「主よ、私はまな板の鯉です。主よ、あなたが望まれるように如何様にもしてください。あなたにすべてをお任せします。」これが、私たちに求められていることなのです。

それは6節を見てもわかります。ここには「イスラエルの家よ」ということばが2回繰り返して使われています。繰り返しているということは、これが強調されているということです。皆さん、「イスラエル」って何ですか。イスラエルとは、神に支配された者、神に治められた者という意味です。神を支配する者ではありません。神に支配される者です。神が主権者だから、当然神が治められるわけです。このような者のことを「イスラエル」というのです。神が主権者であることを認める人たち。神が王であることを認める人たち。神が陶器師であることを認める人たち。それがイスラエルです。それがクリスチャンです。このイスラエルが粘土であるように、霊的イスラエルである私たちクリスチャンも粘土にすぎません。それをどのように作るのかは、主権者であられる神だけが知っていることであって、私たちがとやかく言うことではないのです。確かに先が見えないと不安になります。でも、この陶器師がどのような方であるかを知れば、あなたは安心してこの方にすべてをゆだねることができるでしょう。この方はあなたのためにいのちを捨ててくださった救い主であられるのですから。それほどまでにあなたを愛してくださいました。この方があなたのためにひどいことをされるでしょうか。されません。この方はあなたのために最善を成してくださいます。そう信じて、みこころのままにと、すべてを陶器師なる神さまの御手におゆだねしようではありませんか。

Ⅲ.思い直される神(7-12)

ですから第三のことは、陶器師であられる主の御手の中で、あなたも新しく作り替えていただきましょうということです。7~12節をご覧ください。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。11 さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』12 しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

これが陶器師と粘土のたとえを通して主が伝えたかった結論です。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
  主は一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったことを思い直すこともおできになります。これは1章10節で既にエレミヤに告げられたことです。主権者であられる主は、イスラエルを如何様にも取り扱うことができるということです。主はイスラエルに下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われました。主は頑なで悔い改めない南ユダの人々に、神のさばきを宣告されました。それはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。バビロン捕囚ですね。それでも彼らが悔い改めるなら、主はそのわざわいを思い直されるのです。ここにはそのための条件が示されています。何でしょうか?「その民が立ち返るなら」です。もし、主がわざわいを予告したその民が立ち返るなら、主は下そうと思っていたわざわいを思い直されるのです。

この「思い直す」ということばは、ヘブル語で「ナハム」ということばですが、これは「悔い改める」という意味のことばです。でも神が悔い改めるというのは意味が通らないので「思い直す」としたのです。新共同訳では「思いとどまる」と訳しています。神は下そうと思っていたわざわいを思い直してくださいます。どういうことでしょうか。粘土は陶器師を変えることはできませんが、陶器師は粘土を作り替えることができるということです。下そうと思っていたわざわいを思い直すことができるのです。ここで問題になっていたのは何かというと、17章9節で言われていたことです。そこには、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とありました。人の心は何よりも陰険なのです。だれもそれを作り替えることはできません。でも、陶器師であられる神は替えることかできます。イスラエルが神に立ち返るなら、陶器師であられる神はイスラエルを全く別のものに作り替えることができるのです。

しかし、残念ながら彼らは神に立ち返りませんでした。彼らは自分の計画に従って歩み、それぞれ頑なで心のままに行いました。まさに主客転倒だったのです。自らが神であるかのように思い込んでいました。自分が望むことは何でもできると思っていた。それゆえ、彼らに神のわざわいが下ることになります。具体的にはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。でも、彼らが主に立ち返るなら、主は彼らの心を変え、下そうと思っていたわざわいを思い直すことができました。全く新しいものに作り変えていただくことができたのです。

それは、人にはできないことです。人の心は何よりも陰険だからです。何よりもねじ曲がっています。それは癒しがたいものです。しかし、神にはどんなことでもできます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造り変えられます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

以前、フレミング先生がメッセージの中で金継(きんつ)ぎの話をされました。何の話だったかよく覚えていませんが、PPTで見せてくれた金継ぎの写真を忘れることができません。

写真は違いますが、このような写真でした。「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法です。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。陶磁器が割れたり、ヒビが入ってしまうと、もう修復不可能だと思えますが、そんな器でも、神は修復してくださるだけでなく、もっとすばらしい器へ作り変えることができるのです。

ですから、神に立ち返りましょう。あなたが神に立ち返るなら、神は下そうと思っていたわざわいを思い直されるばかりか、金継ぎされた器のように、さらに美しい価値ある器に替えていただくことができるのです。

Ⅱコリント4章7節には、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器に過ぎない私たちの内に、宝なるキリストが住まわれるとき、この測り知れない神の力があなたの心に働かれ、あなたは全く新しい者に変えられます。キリストの御霊、神の聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り取ったり、また逆に霊的に必要なものを与えたりして、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。

ですから、陶器師であられる主のもとに立ち返りましょう。粘土であるあなたは、自分では何もすることができません。でもあなたが陶器師であられる神に立ち返り、神の主権を認め、神の御手に完全にゆだねるなら、あなたの中におられる宝が、あなたを全く新しい者へと変えてくださるのです。

最後に、もう一度イザヤ書64章8節を読んで終わります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
  私たちは粘土で、私たちの主は陶器師です。私たちはこの陶器師の手の中にあります。陶器師であられる主が、私たちをキリストの似姿に変えてくださるように、陶器師なる主にすべてをおゆだねしたいと思います。

エレミヤ17章11~27節「主を見上げて」

先週からエレミヤ書17章に入りました。きょうは後半の箇所から「主見上げて」というタイトルでお話します。きょうのところでエレミヤは、13節で「イスラエルの望みである主よ」と告白しています。また、14節では「あなたこそ、私の賛美だからです」と言っています。さらに17節でも「あなたは、わざわいの日の、私の避け所です」と告白しています。エレミヤは神の預言者として神のことばを語ったことでユダの民から(さげす)まれ、激しい痛みと孤独に(さいな)まれていました。そのような中で彼は主を見上げ、信仰の目をもって、真の希望がどこから来るのかをしっかり見ていたのです。
  それは私たちも同じです。私たちもクリスチャンとして生きることは、必ずしも楽なことではありません。時にエレミヤのように孤独とか不安に(さいな)まれることがあります。でも、そのような中にあっても信仰をもって主を見上げるなら真の希望が与えられ、それを克服することができます。肺に酸素が必要なように、私たちのたましいにも希望が必要なのです。希望の灯が消えると、私たちのたましいも死んでしまいます。ですから、主を見上げて、主が与えてくださる希望をしっかりと受け止めなければなりません。

Ⅰ.主はイスラエルの望み(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」」

ここに、いきなり「しゃこ」が出てきます。「しゃこ」とは鳥のことです。キジ科の鳥で、日本のキジと(うずら)の中間くらいの大きさの鳥です。あまり飛ぶことはしません。地面を走り回るといった感じです。寿司ネタのしゃこではありません。あるいは、世界最大の二枚貝の「シャコ」でもありません。もちろん、車の車庫でもありません。鳥のしゃこです。かわいいですね、しゃこちゃん。これはなかなか身近にいない鳥なのでピンとこないかもしれませんが、ここでは、公正によらないで富を得る者のたとえで用いられています。すなわち、不正に富を集めた人が、自分の産まなかった卵を抱く「しゃこ」にたとえられているのです。この「しゃこ」の特性が、不正に富を集める人に似ていんのです。その末路はどうなりますか。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、離れ去ることになります。つまり、孵化した雛が偽の親鳥から離れて行くように、不正な方法で蓄えた財も、突然その人の手からすり落ちてしまうことになります。それはまことに愚かなことです。

いったいどうしてここにいきなり富の話、お金の話が出てくるのでしょうか。前回のところには、人に信頼する者はのろわれる。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は、とありましたが、それとこのしゃこの話がどういう関係があるのかピンときません。実は、ここで言わんとしていることは、お金に対する価値観や考え方がその人の祝福を決めるということです。財政が霊性を表しているということです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とある通り、金銭を愛することは愚かです。それは前回の言葉で言うなら、まさに人間に信頼する者です。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者です。そのような者は荒れ地の灌木、幸せが訪れても出会うことがなく、焼けついた荒地、住む者のいない塩地に住むようになります。

私が何歳の頃だったかよく覚えていませんが、たぶん3歳か4歳か5歳の頃、まだ小さくて可愛い頃のことです。母と道を渡ろうと信号に止まっていたとき、そこに千円札が落ちているのを見つけました。どうするのかなぁと思って見ていたら、母の行動は素早かったですね。その千円札をさっと拾うと自分のエプロンのポケットに入れたのです。そして、私にこう言いました。「いいがい、トミちゃん、お金がすべてだがんない」今でもよく覚えています。あの光景を。忘れることができません。それ以来、私はずっとお金がすべてだと思って生きてきました。
  それは母に限ったことではありません。それは、この世の一般的な価値観です。すべての物事を、お金を基準に判断しています。その結果、しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得ようとするということが起こってくるのです。問題は富を持つことではなく、富に執着することです。それは愚か者に終わると聖書は言うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。12~13節をご覧ください。「12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

私たちは、初めから高く上げられた栄光の王座を見なければなりません。そこには、イスラエルの望みである方がおられます。その方を見上げなければなりません。そこに希望があるからです。
  エレミヤはここで、信仰の目を上げて、真の希望がどこから来るのかを確認しています。そして、神殿があるエルサレムこそ、神の栄光が宿る王座だ、と言いました。そして、主こそイスラエルの望みであると告白したのです。この主を捨てる者は、みな恥を見ます。この主から離れるなら、希望は残されていません。でも、主に信頼する者は恥を見ることはありません。失望することはないのです。こうやって見ると、ここも前回の箇所とつながっていることがわかります。

パウロはコロサイ3章2節でこう言っています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」上にあるものを求めなさい。地にあるものを求めてはならないと。なぜですか。そこにはよみがえられたキリストが神の右の座に着いておられるからです。このキリストこそ真の希望であられるお方だからです。キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだに復活することになります。これこそが究極の望みのです。この望みがあるなら、この地上のどんな問題も乗り越えることができます。

あなたが見ている所はどこですか。この地上にあるものでしょうか。それとも上にあるものですか。上にあるもの、イスラエルの望みである主を見上げましょう。真の希望はそこから来るからです。

Ⅱ.主はイスラエルの賛美(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。「14 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15 ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』16 しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。18 私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」」

これはエレミヤの祈りです。エレミヤはここで三つのことを祈っています。第一に彼は、心が癒されることを願いました。14節には、「私を癒してください。主よ。そうすれば、私は癒されます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」とあります。ということは、彼はこの時ピンチの状態に置かれていたということです。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムが滅びることを預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。15節には、そんなエレミヤに対する彼らの嘲りのことばが記されてあります。「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」これは、彼らの嘲りのことばです。結果的に、エレミヤの預言が実現するのは、この時から約40年後のことです。その間、彼はどんなに苦しかったか。16節で彼は、「しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。」と言っています。彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたので語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に「癒してください」、「救ってくださいと」と祈ったのです。

でもここで重要なのは、なぜエレミヤはそのように祈ったのかということです。その理由なり、目的です。それが14節の最後のところにあります。ここには、「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤがそのように祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

私たちも同じように祈らなければなりません。「主よ、私を癒してください。」何のためですか?それによって主がほめたたえられるためです。主こそ、私の賛美だからです。
  「私を救ってください。そうすれば、私は救われます。」何のためですか。もうこんな生活は嫌だから、こんな状態には耐えられないからではなく、そのことによって、主の御名があがめられるためです。主が私の賛美となるためです。
  すばらしですね。皆さん、考えたことがありますか。私の癒し、私の救い、私の願い、それを通して主が崇められるようになるということを。そのことを通して主が賛美されるようになることを。私たちの祈りのすべては、主の御名があがめられるようになるためなのです。まさに主の祈りの中にある「御名があがめられるように」です。それがすべての動機とならなければなりません。それこそ、みこころにかなった祈りだと言えるでしょう。これをすべての祈りの中心にしたいですね。

第二に、エレミヤは「私を恐れさせないでください。」と祈りました。17節です。ここには、「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」とあります。ということは、この時エレミヤには恐れに苛まれていたということです。エレミヤとて、私たちと同じ人間でした。神の預言者として大胆にいのちをかけでみことばを語っていましたが、そういう人には何の恐れもないのかというとそうではなく、そのような人であってもいろいろな不安や恐れを抱えているのです。ですから、預言者としての使命を全うするためには、主の助けとあわれみが必要だったのです。祈りによってそれを克服していく必要がありました。だからエレミヤは「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」と祈ったのです。

それは、使徒パウロも同じでした。彼は、エペソ6章19節で、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っています。あのパウロが「祈ってください」と祈りを要請しています。パウロほどの人物ならば何も怖いものなどなかったんじゃないかと思うかもしれませんが、彼にも恐れがあったのです。だから、大胆に語れるように祈ってくださいと言ったのです。自分の力ではとても無理です。とても敵の前で大胆に語ることなどできません。私には祈りが必要です。私には神の力が必要なのです。どうか私のために祈ってください、そうお願いしたのです。彼は自分の弱さを認めていました。だから、祈ってくださいと素直に言うことができたのです。パウロは本当に謙遜な人だなあと思います。謙遜じゃないとこのように言うことはできません。どちらかというと、私はなかなかこのように言えない弱さがあります。高慢なんですね。自分で何とかしようとします。自分の力で頑張るという意識が強いのです。でも、パウロのように、自分の弱さを率直に認めて祈ることが大切です。私にはできないので、主よ、あなたが助けてください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所ですと。

第三に、エレミヤは敵が恥を見て、私が恥を見ることがないようにしてください、と祈りました。18節です。ここには「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」とあります。まさに倍返しです。しかし、これはエレミヤの個人的な復讐心から出たものではありません。神の義が全うされるようにという願いです。「あなたこそ、私の賛美だからです。」主こそ彼の賛美でした。神の義が全うされることによって、神の御名があがめられるようにという祈りが、このような表現となったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちもエレミヤのようにピンチに陥ることがあります。恐れに苛まれることがある。苦しくて逃げ出したくなるような時があります。先のことが見えなくて不安になることもあるでしょう。そのような時、そうした恐れや不安に勝利するために必要なことは何でしょうか。祈ることです。祈りによって主を見上げることです。詩篇121篇
 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

先が見えない不安の中で、この詩篇の作者は山に向かって目を上げると言いました。なぜなら、彼は真の助けはそこから来ると信じていたからです。天地を創られた主から来ると。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰です。昼も、日があなたを討つことがなく、夜も、月があなたを討つことはありません。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られます。この方を見上げるのです。主を見上げるのです。先が見えない不安の中でも、それをだれか人のせいにしたり、何かのせいにするのではなく、山に向かって目を上げ、そこから助けを求める。それが、私たちに求められていることです。それが不安や恐れを克服していくために必要なことなのです。

Ⅲ.主は契約を守られる方(19-27)

第三に、主は契約を守られる方です。19~27節をご覧ください。「19 主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、20 彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。21 主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。22 また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。23 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
  24 もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い─主のことば─安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、25 ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

ここで主はエレミヤを通して安息日の問題について語られました。その内容は、安息日に荷物を運ぶな、労働するな、安息日を聖く保てというものでした。彼らの先祖たちはその命令を無視し、かたくなな心で歩んできました。そして今、新しい世代の者たちに、再度この安息日を守るようにと命じているのです。

なぜ安息日なのでしょうか。なぜなら、これが神との契約の中心だったからです。十戒にもありますね。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト記20:8)ただ休めというのではなく、これを聖なるものとしなければなりません。これが神との契約のしるしだったのです。神との契約のしるしがもう一つあります。何ですか。割礼です。ですから、この安息日を守るというのは、割礼を受けることと合わせて、ユダヤ人をユダヤ人たらしめる、ユダヤ人ならではのしるしだったのです。ですから、このエレミヤのメッセージは、神との契約関係に帰れということだったのです。もしユダの民がその声に聞き従い、安息日を守るなら、彼らの心に悔い改めの心が生じたということがわかります。しかし、そうでなければ、その他の律法も守ることはできません。
  しかし彼らはそれを守るどころか、むしろ、安息日に休むのはもったいないと荷物を運び入れ、ビジネスを展開していました。その結果、どうなるでしょうか。27節です。主はエルサレムの門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くすことになります。エルサレムは崩壊することになります。これはバビロン捕囚のことを意味しています。バビロンによってエルサレムは完全に崩壊することになります。
  神はイスラエルの民に何度も悔い改めの機会を提供されましたが、彼らはことごとくそれを拒否しました。その結果、この民を懲らしめる方法としては、バビロン捕囚しか残されていなかったのです。神の恵みを拒み続けると、自らの上にのろいを招くようになります。しかし、神との契約を守る者には、神の祝福がもたらされるのです。

問題は、あなたがどこを見ているかということです。あなたの心はどこにあるかということです。あなたの心が主から離れていれば、あなたは荒れ地の灌木、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むようになります。しかし、あなたの心が主につながっているなら、そういう人は水のほとりの植えられた木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さ知らず、葉は茂って、日照りの年も心配なく、実を結ぶことをやめません。だから、あなたがどこを見ているのかということは重要なことなのです。泥だらけの地面を見るのではなく、あなたの目を天に向け、イスラエル神がどのようなお方なのかをしっかりと見て、そこから助けをいただきましょう。主はイスラエルの望み、私たちの望みです。

最後に、暗黒大陸アフリカへの宣教師として召されたデイビッド・リヴィングストンのお話をして終わりたいと思います。彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来たのです。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず約束を守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28章20節のことばを引用しました。そこで、イエス・キリストは、次のように約束しています。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を通り過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

確かな方に繋がっている、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはありません。主はあなたを守る方、イスラエルの望みです。この方を見上げましょう。そうすれば、主があなたを守ってくださいます。主はあなたの賛美、わざわいの日の、身の避け所なのです。

Ⅱ列王記9章

 今回は、Ⅱ列王記9章から学びます。

 Ⅰ.エフーへの油注ぎ(1-13)

まず、1~13をご覧ください。「1 預言者エリシャは預言者の仲間たちの一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。2 そこに行ったら、ニムシの子ヨシャファテの子エフーを見つけなさい。家に入って、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、3 油の壺を取って、彼の頭の上に油を注いで言いなさい。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする。』それから、戸を開け、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」4 その若者、預言者に仕える若者は、ラモテ・ギルアデに行った。5 彼が来てみると、ちょうど、軍の高官たちが会議中であった。彼は言った。「隊長、申し上げることがございます。」エフーは言った。「このわれわれのうちのだれにか。」若者は「隊長、あなたにです」と答えた。6 エフーは立って、家に入った。そこで若者は油をエフーの頭に注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする。8 それでアハブの家はことごとく滅び失せる。わたしは、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまでを絶ち滅ぼし、9 アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バアシャの家のようにする。10 犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない。』」こう言って、彼は戸を開けて逃げた。11 エフーが彼の主君の家来たちのところに出て来ると、一人が彼に尋ねた。「何事もなかったのですか。あの気のふれた者は何のために来たのですか。」すると、エフーは彼らに答えた。「あなたたちは、あの男も、あの男の言ったこともよく知っているはずだ。」12 彼らは言った。「?でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」13 すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。」

預言者エリシャは、預言者の仲間たちの一人を呼んで、腰に帯を締め、手に油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行くようにと言いました。何のためでしょうか。ニムシの子ヨシャファテの子エフーに油を注いで王とするためです。エフーは、イスラエルの王ヨラムの家臣として、ラモテ・ギルアデでシリヤ(アラム)の王ハザエルと戦っていましたが、そこへ行って彼に油を注げというのです。そして注ぎ終わったら、そこから急いで逃げるようにと言ったのです。

ラモテ・ギルアデは、つい先ごろアラムとの戦いが行われた場所です。負傷したヨラム王はすでにイズレエルに帰っていましたが、将軍であったエフーはまだヨルダン川の東にあるラモテ・ギルアデに留まっていました。

預言者の仲間がラモテ・ギルアデに行ってみると、エフーは軍の高官たちと会議中でした。彼がエフーに個人的に伝えたいことがあるというと、エフーは彼とともに家に入ったので、彼はエフーの頭に油を注いで言いました。それが6~9節までの内容です。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする。8 それでアハブの家はことごとく滅び失せる。わたしは、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまでを絶ち滅ぼし、9 アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バアシャの家のようにする。10 犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない。」

アハブの家の滅亡については、すでにエリヤによって預言されていました(Ⅰ列王21:17~24)。それが延期されていたのは、アハブが一時的に主の前にへりくだったからです(Ⅰ列王21:29)。しかし、主によって語られたことは必ず成就します。ヤロブアムの家がバシャによって滅ぼされたように、また、バシャの家がジムリによって滅ぼされたように、アハブ家も滅ぼされます。そのために用いられるのがエフーです。エフーはアハブの子ヨラムを討つことによってアハブの家を滅ぼすのです。エフーのような狂暴な人物が主の器として用いられることに違和感を覚えますが、神様は、ご自身の目的のためにはこうした悪人さえも用いられるのです。預言者の仲間は、エリシャに言われた通りに告げると戸を開けて逃げました。クーデターのとばっちりを受ける恐れがあったからです。

エフーが彼の主君の家来たちのところに出て来ると、あの若い預言者が何を告げに来たのかを知りたがりました。「あの気のあふれた者」という表現は、その預言者が、さっさと走り去って逃げていくという奇妙な行動を指しているのでしょう。エフーは「あなたたちは、あの男も、あの男の言ったこともよく知っているはずだ」と話をそらそうとしましたが、家来たちが教えてほしいとしつこく迫って来たので、本当のことを話しました。12節です。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」

すると彼らは大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を鳴らして、「エフーは王である」と言いました。これはエフーが王となったという公の宣言です。こうして、エフーはイスラエルの王ヨラム、彼の主君に対して謀反を起こすことになります。

これはエリヤによってすでに預言されていたことでした。主によって語られたことは必ず成就します。まさか家臣のエフーによってとは誰も想像できなかったと思いますが、主によって語られたことは必ず成就するのです。

Ⅱ. エフーの謀反(14-29)

次に、14~29節をご覧ください。「14 こうして、ニムシの子ヨシャファテの子エフーは、ヨラムに対して謀反を起こした。先にヨラムはイスラエル全軍を率いて、ラモテ・ギルアデでアラムの王ハザエルを防いだが、15 ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰っていたのである。エフーは言った。「もし、これがあなたたちの本心であるなら、だれもこの町から逃れ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」16 それからエフーは車に乗ってイズレエルへ行った。ヨラムがそこで床についていて、ユダの王アハズヤもヨラムを見舞いに下っていたからである。17 イズレエルのやぐらの上に、一人の見張りが立っていたが、エフーの軍勢がやって来るのを見て、「軍勢が見える」と言った。ヨラムは、「騎兵一人を選んで彼らを迎えに送り、元気かどうか尋ねさせなさい」と言った。18 そこで、騎兵は彼を迎えに行き、こう言った。「王が、元気かどうか尋ねておられます。」エフーは言った。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」一方、見張りは報告して言った。「使者は彼らのところに着きましたが、帰って来ません。」19 そこでヨラムは、もう一人の騎兵を送った。彼は彼らのところに行って言った。「王が、元気かどうか尋ねておられます。」すると、エフーは言った。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」20 見張りはまた報告した。「あれは彼らのところに着きましたが、帰って来ません。しかし、車の御し方は、ニムシの子エフーの御し方に似ています。狂ったように御しています。」21 ヨラムは「馬をつけよ」と命じた。馬が戦車につけられると、イスラエルの王ヨラムとユダの王アハズヤは、それぞれ自分の戦車に乗って出て行った。彼らはエフーを迎えに出て行き、イズレエル人ナボテの所有地で彼に出会った。22 ヨラムはエフーを見ると、「エフー、元気か」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術が盛んに行われているのに。」23 それでヨラムは手綱を返して逃げ、アハズヤに「裏切りだ、アハズヤ」と叫んだ。24 エフーは力いっぱい弓を引き絞り、ヨラムの胸を射た。矢は彼の心臓を射抜いたので、彼は戦車の中に崩れ落ちた。25 エフーは侍従のビデカルに命じた。「彼を運んで、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。26 『わたしは、昨日、ナボテの血とその子たちの血を確かに見届けた─主のことば─。わたしは、この地所であなたに報復する─主のことば。』それで今、彼を運んで、主が語られたとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」27 ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハ・ガンの道へ逃げた。エフーはその後を追いかけて、「あいつも討ち取れ」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。28 彼の家来たちは彼を車に乗せて、エルサレムに運び、ダビデの町の彼の墓に先祖とともに葬った。」

イスラエルの王ヨラムは、ラモテ・ギルガルとアラムの王ハザエルとの戦いで負傷したため、イズレエルで療養していました。それでエフーは、このことをイズレエルにいるヨラムに伝えてはならないと言いました。つまり、自分が王座に着いたことをイズレエルにいるヨラムに知らせてはならないというのです。なぜでしょうか?エフーがヨラムを暗殺するためにイズレエルに、これからイズレエルに向かうからです。

それからエフーは車に乗ってイズレエルに行きました。ヨラムはアラムとの戦いで負った傷を癒すために床についていましたが、そこへユダの王のアハズヤが彼を見舞いに下って来ていました。

イズレエルのやぐらの上にいた見張り人が、遠方からエフーの軍勢がやって来るのを見て、そのことをヨラムに告げました。するとヨラムは不安に思ったのか、騎兵一人を遣わして様子を探らせます。騎兵がエフーに、「王が、元気かどうか尋ねておられます」と言うと、エフーの答えは素っ気のないものでした。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」これは、元気かどうかなんてお前に関係のないことだ。お前は俺に着いてくれば良いということです。

最初の使いがなかなか帰って来ないので不安に思ったヨラムは、もう一人の騎兵を遣わしました。するとエフーは、最初の騎兵に言った言葉と同じことを言いました。

すると見張り人から、どうやらその軍勢はニムシの子エフーが先導しているようですという報告が入ると、ヨラムは「馬をつけよ」と命じました。少しでも早く対処すべきと考えたのです。自分が直接エフーと会って話を聞くため自ら戦車に乗って出て行きました。そのときユダの王アハズヤも一緒でした。

するとどうなりましたか。彼らはイズレエルのナボテの所有地でエフーに会いました。そこでヨラムが「エフー、元気か」と尋ねると、エフーの答えは、敵対的なものでした。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術が盛んにおこなわれているのに。」

ここに至ってようやく、ヨラムはエフーの謀反に気付きました。それでヨラムは手綱を返して逃げ、ユダの王アハズヤに「裏切りだ、アハズヤ」と叫びました。

エフーが力いっぱい弓を引くと、ヨラムの胸を射たので、彼は戦車の中に崩れ落ちました。するとエフーは侍従のピデカルにこう命じました。「彼を運んで、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。『わたしは、昨日、ナボテの血とその子たちの血を確かに見届けた─主のことば─。わたしは、この地所であなたに報復する─主のことば。』それで今、彼を運んで、主が語られたとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」(25-26)

両者がナボテの所有地で会ったのは、人間的には偶然のように見えます。もしエフーの進軍速度が少しでも遅かったり、ヨラムが出てくるタイミングが少しでもズレていたら、両者がそこで会うことはあり得えなかったからです。しかし、そうではありません。ここには驚くべき神の摂理が働いていました。神はアハブの罪をナボテの所有地で裁くと預言したおられました(Ⅰ列王21:1~29)が、その通りそれが実現したのです。神のことばは必ず成就するのです。

そのとき、ユダの王アハズヤもヨラムと一緒にいましたが、アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハ・ガンの道へ逃げました。エフーはその後を追いかけて、「あいつも討ち取れ」と命じたので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせました。それでも彼はメギドに逃れましたが、彼はそこで死にました。28~29節には、彼の家来たちは彼を車に乗せて、エルサレムに運び、ダビデの町の彼の墓に先祖とともに葬ったとあります。彼は善王ヨシャパテの子であったので、王家の墓に葬られることになったのです。アハズヤの治世はわずか1年(2列王8:26)でしたが、彼はエルサレムにすでに自分の墓を用意していたのです。彼の家来たちはその墓に彼の遺体を葬りました。そこは先祖の王たちが埋葬された場所でもありました。

Ⅲ.イゼベルの死(30-37)

最後に、30~37節をご覧ください。「30 エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直して、窓から見下ろしていた。31 エフーが門に入って来たので、彼女は「お元気ですか。主君殺しのジムリ」と言った。32 彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見下ろしていたので、33 彼が「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とし、彼女の血が壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。34 彼は中に入って食べたり飲んだりし、それから言った。「あののろわれた女の世話をしてやれ。彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」35 彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両手首しか残っていなかったので、36 帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らい、37 イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれもこれがイゼベルだと言えなくなる。』」

エフーがイズレエルに着いたとき、アハブの妻イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直して、窓から見下ろしていました。目の縁を塗り、髪を結い直してとは、彼女が王女としての威厳を保ちながら死ぬための準備です。

エフーが門に入って来ると、彼女は「お元気ですか。主君殺しのジムリ」と言いました。これはイゼベル流の皮肉です。ジムリについては1列王16章8節以降にありますが、彼はバアシャの子エラがイスラエルの王であったとき、彼に謀反を企ててエラを打ち殺し、彼に代わって王となりました(1列王16:9-10)。イゼベルはここでバシャがやっていることはそのジムリがやっていることと同じだと言っているのです。ジムリもまた謀反人でしたが、彼の統治はたった7日間で終わりました。イゼベルはエフーに、自分の主人に謀反を働いて平安があるのかと問うたのです。

するとエフーは窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言うと、2~3人の宦官が彼を見下ろしたので、彼は「その女を突き落とせ」と言いました。それで彼らは彼女を突き落としたので、彼女の血は、壁や馬に跳ね返りました。

エフーは中に入って食べたり飲んだりしましたが、それから彼はこう言いました。「あののろわれた女の世話をしてやれ。彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」それで彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両手首しか残っていなかったので、そのことを帰ってエフーに伝えると、エフーはこう言いました。36~37節です。

「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれもこれがイゼベルだと言えなくなる。」

どういうことかというと、これはエリヤが語ったことばの通りになったということです。エフーがこのことをどれだけ意識していたかどうかはわかりませんが、彼が意識しようとしまいと、神によって語られたことばは必ずその通りに実現するのです。それはイゼベルの死ばかりでなく、アハブの家がエフーによって滅ぼされることや、それがナボテの所有地で行われることなども、すべてのことに及びます。ここではかつてエリヤに語られた主のことばがどのように成就したのかが描かれているのです。つまり、主が言われたことは必ず実現するということです。

であれば、私たちに求められていることは、主が語られたことばにを聞き、それに従うということです。そうすれば主がご自身のみことばにあるように私たちを祝福してくださいます。

それにしても、このイゼベルの死に方はあまりにも悲惨です。彼女は、殺人と盗みの罪を犯したその場所で、このような死に方をしました。それは彼女の行ったことがそれほど神の目で悪であったからです。私たちもイゼベルのような悲惨な死を遂げることがないように、いつも主のことばに聞き従う者でありたいと思います。