エレミヤ3章19~25節「救いは主にあります」

 きょうはエレミヤ書3章19節から25節までの御言葉から、悔い改めについてお話します。これは前回の続きです。前回は3章6節から18節までの箇所からお話しました。その中で主は背信のイスラエルに、立ち返れと語られました。なぜなら、主は恵み深い方であられるからです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、イスラエルが咎を認めて主に立ち返るなら、主は赦してくださいます。

そればかりではありません。そのようにしてイスラエルが主に立ち返るなら、驚くべき回復と希望がもたらされることも語られました。覚えていらっしゃいますか。それは残りの者を残してくださり、彼らを北の国から解放するということでした。それは、エレミヤの時代で言うならアッシリヤとかバビロンといった国から解放されることでしたが、遠い未来、世の終わりにおいては、完全な神の支配がもたらされ悪が一掃されることの預言でした。つまり、キリストが再臨される時にもたらされる千年王国のことです。16節の「その日」とか、17節の「そのとき」、また18節の「その日」とは、世の終わりのキーワードですが、そのことを表しています。すなわち、イエス・キリストが再臨される時の預言でもあるのです。そのとき、主が御座に座してくださるのですべての悪は一掃され、完全な平和の時代がやって来るのです。今ウクライナ情勢が緊迫していますが、こうした戦いのない平和な時代がやって来るのです。それがこのような文脈の中で預言されているというのはすごいですね。これはまさに神のことばです。神様でなければ決して書けないような内容です。

しかしそれは世の終わりの時だけでなく、イエス・キリストを信じて生きる今の私たちにも言えることです。つまり、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを心の王座に迎えている人は、イエス様がその心を支配してくださるので、この世にありながらさながら天国のような歩みをすることができるのです。そのような回復と希望が与えられます。ですから「立ち返れ」と言われているのです。

きょうはその続きです。きょうのところでも主は、イスラエルに立ち返るようにと呼びかけておられます。なぜでしょうか。救いは、主にあるからです。だから、もしあなたが自分の罪を認めて主に立ち返るなら、主はあなたを癒してくださるのです。

 Ⅰ.主を裏切ったイスラエル(19-21)

まず、19節から21節までをご覧ください。「わたしは思っていた。どのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに慕わしい地を与えようかと。国々のうちで最も麗しいゆずりの地を。また、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れないと思っていた。20 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ-主のことば-。21 一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らが自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。」

主はイスラエルをわが子とし、アブラハムに約束してくださった契約に従って、国々の中で最も麗しい地を与えようと思っていました。それは約束の地カナンのことです。また主は、彼らがご自身を父と呼ぶことを喜ばれました。それは彼らが主に従って、もう離れないと思っていたからです。旧約聖書の時代、イスラエルの民が神をここまで親しく呼ぶことは許されていませんでした。「主」とか「神」とかと呼ぶことはあっても、「父」と呼ぶことは許されていなかったのです。「父」と呼ぶことは、それだけ親しい関係にあるということです。

私たちがお祈りをするとき「天のお父さん」と呼ぶのはそのためです。私たちは罪が赦されて神の子どもとされました。ヨハネの福音書には、それは「特権」と言われています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)これは特権なんです。それまでは恐れ多くて、とてもお父さんなんて言えませんでした。「天の父なる御神様」という感じでしょうか。でも、今は「お父さん」と呼べるようになりました。私は小さい時、父を「父ちゃん」と呼んでいましたから、「天の父ちゃん」という感じです。神様をこのように呼べるというのはものすごいことなんです。それほどに神は、イスラエルを実の子のように愛してくださったのです。

それなのに彼らは、なんと、妻が夫を裏切るように、主を裏切ってしまいました。皆さんは人から裏切られたという経験があるでしょうか。愛を裏切られるほど骨身にしみる苦痛はありません。その結果、彼らは裸の丘の上で、哀願の泣き声を上げるようになりました。「裸の丘の上」とは、以前もお話したように、偶像礼拝が行われていた場所のことです。彼らは主を裏切って偶像に仕えるようになった結果、苦痛によって嘆き、哀願の泣き声を上げるようになったのです。

私たちも主を裏切るようなことがあれば、彼らと同じように神の祝福を失うことになります。その祝福とは何でしょうか。それは罪の赦しであり、永遠のいのちであり、神の子どもとされる特権です。神が共にいてくださるという約束です。神が共におられるほどの祝福はありません。それこそ、私たち人間が造られた目的なんですから。

皆さん、人が造られた目的は何でしょうか。人は何のために生きているのでしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウェストミンスター小教理問答書という信仰問答書がありますが、その第1問は、「人の主な目的は何ですか。」です。その答えはこれです。

「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。それを実現してくださったのがイエス様です。イエス様は、神から離れ罪の中に死んでいた私たちのために十字架で死んでくださり、その罪を贖ってくださいました。ですから、このイエスを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。永遠のいのちとは、永遠に神が共にいてくださるということです。これほどすばらしい祝福はありません。これこそ、私たちが生きる目的なのですから。これがなかったら、真の喜びや満足を得ることはできません。なぜなら、どんなにこの世の満足を手に入れてもそれは一時的なものであって、すぐに消えてしまうからです。

映画「風と共に去りぬ」の主演男優クラーク・ゲーブルは、オスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金があり、恋もあり、名誉もあり、人気も最高でした。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世の物のすべてを手にしたかのように見えました。

しかし、彼はある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺しているのが発見されました。飢え渇いたその魂を、この世の物で満たすことはできなかったのです。永遠のいのちの水を見つけられずに終わったその魂が、残念に思えてなりません。

しかし、イエス・キリストは、永遠の水を与えることができます。イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

主イエスは、あなたに永遠のいのちを与えます。それはすぐに消えて無くなってしまう一時的なものではなく、永遠に続くものです。永遠に神が共におられるのです。永遠に神を喜ぶことができる。これほどすばらしい特権はありません。それなのに、これを失うことがあるとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。

イスラエルは、神との契約によってこのすばらしい特権が与えられていたにもかかわらず、主を裏切り、自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れてしまい、この特権を失ってしまいました。

それは私たちにも言えることです。私たちもイスラエルのように神を信じ、イエス・キリストの贖いによって神の子とされたのに、神に背いて、その祝福を失ってしまうことがあります。一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利を譲ったエサウのように、霊的なことに目が開かれず、いつも肉的なことを考えて、神の祝福と特権を失ってしまうことがあるのです。勿論、本当に信じたのであれば、絶対に救いを失うことはありません。そういう人は必ず神に立ち返ります。

パウロは、ピリピ3章17~19節でこのように言っています。「17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」

ここでパウロはピリピの兄弟たちに、「私を見ならう者になってください。」と言っています。また、「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」と言っています。なぜなら、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいたからです。キリストの十字架の敵として歩むとはどういうことでしょうか。ここには、彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの思いは地上のことだけです、とあります。教会にはいつでも、右に道を踏み外す人と左に道を踏み外す人がいます。右とは、何事も決まりをきちんと守って救いを全うしようとする人のこと、いわゆる律法主義的な人のことです。左とはそれとは逆に、決まりなどどうでも良い、自分の好き勝手に生きればいいのだという快楽主義者のことです。聖書の教えよりも自分の思いに従って生きればいいと考えている人のことです。ここでは後者のことを指しています。神様のことよりも、自分の快楽に従って生きればいいと考えているのです。彼らの思いは地上のことだけです。彼らの神は彼らの欲望なのです。彼らはキリストの十字架の道を踏み外していました。彼らの最後は滅びだったのです。

私たちもエサウのように地上のもの、目先のものばかりを追い求め、目がくらんでしまうということがあるのではないでしょうか。神様よりも自分の思いに従って自由に生きていきたいということがあります。イエス様を心の王座にするのではなく、自分が王様のようにドスンと居座っていることがあるのです。聖書ではこれを罪と言っています。罪とは何か悪いことをするだけでなく、それ以上に神を神としないことです。神に背いていることを言うのです。その結果パウロは、彼らの最後は滅びだと言いました。そのようなことを続けていると、神様からの祝福と特権を失っていることがあるのです。勿論、先ほども申し上げたように、本当に信じたのであればそのようなことは絶対にありません。イエス様は、ヨハネの福音書10章28節でこのように言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

こういう人は一時的に神様から離れたとしても、必ず神のもとに帰ってきます。しかし、そうでないとしたら、すなわちイエスを救い主と信じたのでなければ、永遠に離れてしまうこともあるのです。私たちはいつも神に背いては神を悲しませているような者ですが、もし神に背いているのであれば、それを悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

 Ⅱ.背信の子らよ、立ち返れ(22a)

それが、次のポイントで語られていることです。22節の前半をご覧ください。ここは短いところなので、ご一緒に読みたいと思います。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。』」

「立ち返れ」。これがエレミヤ書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止め、主なる神を神として崇めて生きるように、ということです。これが、罪が赦されるための第二のステップです。第一のステップは何でしたか?13節にありました。「ただ、あなたの咎を認めよ。」ということでしたね。そして罪、咎を認めたら、次のステップは「立ち返る」ことです。神のもとに立ち返るのです。自分の罪に気づいているのに、その重荷を自分に背負わせて、神のもとに立ち返ろうとしない人がいます。自分の罪はあまりにも大きいので、赦されるはずがないと思っているのです。けれども主はこう言われます。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒そう。」

そこはあなたが居るべき場所ではありません。そこはあなたが行くべきところではないのです。あなたが居るべきところはここです。わたしに帰れ。そうすれば、わたしがあなたの背信を癒そうと言っておられるのです。主は不正や罪を見逃されることはありませんが、かといっていつまでも怒っておられる方ではありません。自分の罪を認め、主に立ち返るなら、主はその罪を赦してくださるのです。

ここには「わたしがあなたがたの背信を癒そう。」とあります。主は癒してくださる方なのです。これは主が背信の子イスラエルを病人と見立て、それを癒されるお医者さんであることを表しています。病人にとって必要なのは癒してくれるお医者さんです。お医者さんにもいろいろな方がおられますが、患者にとって一番うれしい医者は、病人に寄り添い、病人の気持ちを理解し、その病気を癒してくれる医者です。

私は18年前に大田原に引っ越してきましたが、引っ越して来て一番悩んだのは、どの病院にかかったらよいかということでした。私は、27歳の時、アメリカの妻の実家に行った際、ステーキを食べ過ぎて痛風になりまして、それ以来、毎年1回くらい足の親指に痛みが出るようになりました。言っておきますが、それは食べ過ぎだけが原因ではなく、体質とかその時の体調によっても左右されます。ストレスとかによっても引き起こされる病気なんです。それでも福島にいた頃は若かったということもあって、それほどひどくもなかったのですが、大田原に来てからはしばしば発作に悩まされました。それで真面目に治療しなければならないと思いましたが、どの病院にかかったらよいかわかりませんでした。

ところが、たまたま近くの病院に行きましたら、その病院のお医者さんは私の症状をちょっと診ただけで、「ああ、これでしょ」とすぐわかるのです。「念のためレントゲンを撮りましょう」と言うと、「やっぱりそうだ。これです。この薬を飲むと3日で痛みが取れます」というのです。ホンマかいなと半信半疑で処方された薬を飲むと、本当に痛みが取れるのです。ある時は私の顔を見ただけで、「ああ、あの問題でしょ」と言います。顔を見ただけでわかる。優れたお医者さんでした。

残念ながら数年前に、病院が閉じられていました。たぶん、亡くなられたのだと思います。それで他の病院をいろいろ探してみたのですが、あのようなお医者さんはなかなか見つかりません。本当に良いお医者でした。私の病を癒してくれました。

イエス様は、私たちの病気を癒してくださるお医者さんです。イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(マタイ9:12-13)イエス様は魂の医者として、罪に病む心と体と魂を癒して下さいます。それなのに、罪人を招くために来られたイエス様のもとに行かないで、自己診断するようなことがあるとしたら残念なことです。自分が一生懸命に頑張れは罪はなくなると。しかし私たちは自分で自分の病気を治せないように、自分の熱心さや頑張りでは救われることはできません。信仰者として生きていくことはできないのです。私たちに罪の赦しを与え、信仰者として生かして下さるのは、ただ神の憐れみによるのです。

ですからイエス様は、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」と言われたのです。私たちがどんなに立派ないけにえを捧げるかということではなく、神の憐れみが私たちを救うのです。そのことを「行って、学べ」と言われたのです。自分はこれだけのことをやってきた、そういう思いの中にあぐらをかいているのではなく、そこから立ち上がって、罪人を招いて下さるイエス様のもとへ行きなさいと言うのです。それは自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れるということであって、さらに、イエス様を信じてからもつい神様に背いている私たちの罪を認め、神のもとに立ち返りなさいということです。そのことによって私たちは、罪人を招くために来られたイエス様の恵みをみことばによって学びつつ、健全な信仰者として歩んでいくことができるのです。

 Ⅲ.救いは主にあります(22b-25)

 その悔い改めの招きに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。22節後半から25節までをご覧ください。「「今、私たちはあなたのもとに参ります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。23 まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。24 しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。25 私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」」

これはイスラエルの悔い改めの祈りです。彼らはどのように悔い改めたでしょうか。彼らはまず、主のもとに行きました。22節に「今、私たちはあなたのもとに参ります。」とあります。そして、彼らは彼らの神、主を、神と認めました。ここには「あなたこそ、私たちの神、主だからです。」とあります。

そして、偶像は偽りであり、まことの救いは主にあると告白しました。23節です。「まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」「もろもろの丘」とか「山の騒ぎ」とは偶像礼拝が行われていた場所のことです。それは偽りであった言っています。

そしてそうした偶像礼拝の結果、羊の群れや牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしたと言っています。24節と25節です。「しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。」

この「恥ずべきものが」ということばですが、新改訳聖書第三版では「バアルが」と訳しています。「バアル」とは豊穣の神でした。豊穣をもたらすはずの神なのに、恥をもたらしました。豊穣ではなく先祖たちの労苦の実や牛の群れ、羊の群れを食い尽くしたのです。全く皮肉な話です。豊穣をもたらしてくれるはずなのに、繁栄とか、成功とか、祝福といった人間の願望を満たしてくれるはずなのに、逆に、あなたのすべてを奪ってしまうのです。豊穣というのは名ばかりで、実態はあなたを蝕み、あなたを食い尽くすのです。それがバアルであり、この世の神であります。彼らはそのことを痛感したのです。エレミヤ10章14節に、「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。」とある通りです。いのちのない偶像を拝んでも恥を見るだけです。彼らはそのことを痛感しました。

 私たちも偶像を拝むなら、バアルを拝むなら、恥を見ることになります。偶像とはなにも木や石で作ったものばかりでなく、神よりも大切にするもの、優先するものがあれば、それは偶像礼拝です。コロサイ人への手紙3章5節に「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝なのです。もしあなたが上にあるものを思わないで、地にあるものを思うなら、そこにはこうした偶像によって恥を見ることになるのです。

しかし私たちは新しい人を着ました。「新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け真の知識に至ります。」(コロサイ3:10)キリストのようになるということです。それは深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、すなわち、愛の心です。「確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」偶像ではなく、イエス・キリストを主とし、イエス・キリストに従うなら、あなたには救いがあるのです。あなたはどうですか。あなたの神は何ですか。あなたは上にあるものではなく、地にあるものを求めていませんか。それは偶像礼拝です。それはあなたに豊穣をもたらすはずなのに、逆にあなたを蝕み、あなたを食い尽くすことになります。ですから、もしあなたが今、上にあるものではなく、地にあるものを求めているなら、イスラエルの神、主から離れ、主を忘れ、主を裏切っているなら、どうか主に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたの背信を癒してくださいます。

あなたはどうですか。あなたの神は何ですか。あなたは上にあるものではなく、地にあるものを求めていませんか。それは偶像礼拝です。それはあなたに豊穣をもたらすはずなのに、逆にあなたを蝕み、あなたを食い尽くすことになります。ですから、もしあなたが今、上にあるものではなく、地にあるものを求めているなら、イスラエルの神、主から離れ、主を忘れ、主を裏切っているなら、どうか主に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたの背信を癒してくださいます。

先週まで、祈祷会ではサムエル記からダビデの信仰を学びました。ダビデは信仰に生きた人でしたが、主のみこころにかなわないことも行いました。その一つがバテ・シェバとの姦淫であり、また、イスラエルとユダの人数を数えるという罪でした。それでも彼のすばらしかった点は、彼が罪を犯した時はすぐにその罪を認め、悔い改めて神に立ち返ったことです。そして、彼が主に立ち返ったとき、主は彼の罪を癒してくださっただけでなく、そこから救いの御業を始められました。それがⅡサムエル記24章の「アラウナ打ち場」での体験です。

ダビデは、民の数を数えた後で、良心のとがめを感じて、主に悔い改めて祈りました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」(Ⅱサムエル24:10)

すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、民のうち七万人が死にました。しかしさらに御使いが、エルサレムを滅ぼそうと手を伸ばしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、主の使いに「もう十分だ。手を引け。」と言われました。そのとき、ダビデがいたのがこのエブス人アラウナの打ち場でした。主は、そこに祭壇を築きなさいとダビデに言われたので、ダビデはそこに主の祭壇を築いたのです。これはどういうことかというと、このアラウナの打ち場こそ、主がご自身を現わしてくださる所ということです。すなわち、そこは神のさばきだけでなく、罪の赦しと神のあわれみが示される場所であるということです。

そこはかつてアブラハムがその子イサクを神にささげようとしたモリヤの山であり、やがてダビデの子孫から出る救い主イエス・キリストが、十字架につけられる場所になるところです。そして、そこにダビデの子ソロモンが神殿を建てることになるのです。つまり、確かにダビデは主の前に罪を犯しましたが、その罪を認め、悔い改めて主に立ち返ったとき、主は、その背信を癒してくださったばかりか、そこからご自身の救いの御業を始められたのです。

これが、神がなさることです。神は、あなたがどんなに罪を犯しても、その罪を認め、ご自身のもとに立ち返るなら、その罪を癒し、そこからご自身の救いの御業を始めてくださいます。あなたもこの真実な神の愛に立ち返ってください。神はあなたを決して裏切ることはなさいません。その御言葉の約束のとおりに、あなたの背信を癒し、まことの救いを与えてくださるのです。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。

エレミヤ3章6~18節「背信の子らよ、立ち返れ」

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 今日は、エレミヤ書3章6~18節までから「背信の子らよ、立ち返れ」というとタイトルでお話します。エレミヤは3章1節で、「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」と問いかけました。それに対する答えは、No , but Yesでした。神の律法ではNoです。しかし、神は律法を越えたお方です。律法では、他の男たちと姦通した妻を去らせ、彼女がほかの男のものとなったら、先の夫のもとに戻ることはできませんでした。汚れているとされたからです。しかし、神はそのように汚れた者でも、もう一度受け入れてくださるというのです。それは神が律法をないがしろにしているというのではなく、神ご自身がそれを処理してくださったからです。罪は罪として処理しなければなりませんが、その罪の処理を、罪を犯した本人ではなく、神の御子イエス・キリストの十字架で負わせてくださったのです。ですから、この御子を信じる者はそのすべての罪がきよめられ、全く罪を犯したことがない者とみなされるのです。すごいですね。これが神のあわれみです。ですから、もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなっても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。受け入れてくださる。だから、「わたしに帰れ」と言われるのです。

 今回はその続きです。神は、背信の子らに、立ち返れ、と呼び掛けておられます。12節に「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。また、14節にも「背信の子らよ、立ち返れ」とあります。ここでのキーワードは「帰れ」です。どんなに罪に汚れていても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださいます。神はいつまでも怒っておられる方ではありません。神は恵み深いのです。ですから、私たちは自分の咎を素直に認め、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

 きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、彼らが罪に陥った原因です。それは彼らが、歴史から何も学ばなかったからです。第二に、神に立ち返る理由ですね。それは、主は恵み深い方であられるからです。第三に、その結果です。罪を悔い改めて神に立ち返る者に、神は回復と祝福を与えてくださいます。

 Ⅰ.歴史から学べ(6-10)

まず、イスラエルが神に背くようになった原因を見てみましょう。6~10節をご覧ください。「6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。7 わたしは思った。彼女がこれらすべてを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかし、帰っては来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。8 背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった-主のことば。」

「ヨシヤ王の時代」、これが、エレミヤ書が書かれた背景にあるものです。具体的には1章2節にありますが、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことで」す。それはBC627年のことでした。その年にエレミヤは預言者として召命を受けるのです。ですから、この3章6節の出来事は、それから数年後のことです。おそらくBC625年頃のことでしょう。その時、主がエレミヤに言われました。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。」

この「イスラエル」とは、北王国イスラエルのことです。イスラエル王国はソロモン王の死後、北と南に分裂しました。北王国イスラエルと南王国ユダです。BC931年のことです。その北王国イスラエルはここで「背信の女」と呼ばれています。彼らはあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行いました。これは偶像礼拝のことです。霊的姦淫ですね。しかし主は、イスラエルが悪行の限りを尽くした後で、ご自身のもとに帰って来るだろうと思っていましたが、彼らは帰って来ませんでした。その結果どうなったでしょうか。8節にこうあります。「背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。」これはBC722年に起こったアッシリヤ捕囚と呼ばれている出来事です。北王国イスラエルはアッシリヤの攻撃を受けて滅び、捕囚の民として連れて行かれたのです。

問題はそれを見ていた南王国ユダです。ここでは南王国ユダが、北王国イスラエルの妹として描かれています。その妹のユダが、姉のイスラエルがたどった歩みを見ても、悔い改めることをしませんでした。8節には「しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も淫行を行った」とあります。この「恐れもせず」とは、神様を恐れもしなかった、ということです。神様を恐れない者は罪を止めることをしません。9節には、「彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した」とあります。すなわちユダはイスラエルと同じように、偶像礼拝を行ったのです。ですから10節で彼らは「裏切る女」と呼ばれているのです。姉の北王国イスラエルは「背信の女」でしたが、妹の南王国ユダは「裏切る女」です。背信の女もひどいですが、「裏切る女」もひどいです。いや、背信よりも裏切りの方がひどいでしょう。なぜなら「背信」とは神に背を向けることですが、「裏切り」とは顔と顔を合わせていながら、なおかつ背信行為をすることだからです。それが10節で言われていることです。彼らは「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち帰らず、ただ偽ってそうしただけだった」のです。どういうことかというと、彼らは一応エルサレムの神殿で礼拝をしていましたが、それはただの形だけのものであって、心からのものではなかったということです。一応エルサレムの神殿に身を置いていましたが、そこに身を置きながら、同時に偶像を拝んでいたのです。それはちょうどクリスチャンが一応教会には来てはいるけれど、そこに心が全く伴っていないようなものです。教会には来るけれどもそれは極めて形式的であり、儀式的なものであって、心は全く別のところにあるようなものです。何とかその時間をやり過ごせばいい、とりあえず教会に通うといった感じです。心のすべてをもって主に立ち返るのではなく、ただ偽ってそうしているだけだったのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが歴史から何も学ばなかったことです。妹のユダは、姉のイスラエルがたどった道を見て、神に背くとどうなるかを学ぶべきでした。というのは、7節に「妹のユダもこれを見た」とありますが、彼らは姉の北王国イスラエルが主に背いた結果どうなったのかを見ていたからです。北王国イスラエルは神に背いた結果、アッシリヤによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。BC722年のことです。あれから100年が経っていました。それは南ユダにとって大きな警告となるはずだったのに、学ぶべき教訓がたくさんあったにもかかわらず、彼らは何も学ばなかったのです。それどころか、妹のユダもまた偶像礼拝にふけり、聖なる目的のために与えられた約束の地を汚してしまいました。確かにヨシヤ王の時代(BC640~609年)、一時的なリバイバルが起こりましたが、それさえも表面的な宗教改革であって、内面的な悔い改めには至らなかったのです。その結果、彼らもまた離縁状を渡されることになります。それがBC587年のバビロン捕囚です。

それは南ユダだけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも過去の歴史から学ぶべきです。「人が歴史から学んだことがあるとすれば、それは、人は歴史から何も学ばないということである」と言った人がいますが、その通りだと思います。私たちは過去の歴史から学ぼうとしません。

たとえば、今オミクロン株でコロナウイルス感染が爆発的に拡大していますが、これは今に始まったことではなく、これまでの歴史の中でも何回も繰り返されてきていることです。たとえば、100年前に「スペイン風邪」が流行し、世界中で多くの死者を出しました。今回のコロナウイルスでも本当に多くの方が亡くなっておりますが、このことはいったい私たちに何を教えているのでしょうか。それはこうしたパンでミックに対する最大の備えは、すべてを治めておられる創造主なる神を恐れて生きるということです。もちろん、こうした疫病に対する治療法などの研究も重要です。しかし、こうした疫病に対して私たちができることは限られているのです。そのことを認め、私たちの知恵を越えたところで支配しておられる創造主を恐れることが求められているのです。しかし人類は、それとは逆に神を無視し人間の力、科学の力だけで乗り越えようとしています。歴史から学ぼうとしないのです。

歴代誌第二7章13~15節には何とあるでしょうか。「13 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、14 わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」

ここに、「わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには」どうすればよいかが記されてあります。そのときには、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」とあります。歴史から教えられることは、このような疫病が起こったときには、主の民が自らへりくだり、祈りをささげ、主の顔を慕い求めてその悪い道から立ち返ることです。そうすれば、主は親しく天から聞いて、私たちの罪を赦し、この地を癒してくださいます。これが主の約束です。これが歴史の中で教えていることです。ワクチンも大切でしょう。でもそれ以上に大切なのは、主の前にへりくだり、悔い改めて主に立ち返ることです。そうすれば、主は天から聞いて、この地を癒してくださいます。この歴史から学ぶべきです。

南王国ユダは、北王国イスラエルの失敗から学ぶべきでした。その悪いお手本から、それを半面教師として学ぶ必要があったのです。でも彼らは学びませんでした。こうした経験から学ぶことは大きいことです。それだけのことを自分で体験しようと思ったら、かなり高くつくことになります。しかし、他の人の経験や、他の人の失敗から学ぶなら、そうした代償を払う必要はありません。私たちはそれを歴史の先人たちや聖書から学ぶことができるのです。これはありがたいことです。にもかかわらず、そこから学ぼうとしなかったら残念です。もし南ユダが北イスラエルから学んでいたら、偶像礼拝をして、堕落して、神から捨てられる必要など全くなかったでしょう。それなのに、彼らは学びませんでした。それが彼らの問題だったのです。

 Ⅱ.背信のイスラエルよ、帰れ(11-13)

次に、11~13節をご覧ください。ここには悔い改めの招きと、その理由が語られています。「主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。12 行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば- わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。-主のことば- わたしは、いつまでも恨みはしない。13 ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。あなたはあなたの神、主に背いて、青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし、わたしの声に聞き従わなかった。-主のことば。」

主はエレミヤに言われました。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。」別に北王国イスラエルが正しかったということではありません。南王国ユダよりも正しかったということで、あくまでも彼らは「背信の女」であることには変わりはありません。ただユダよりも罪が軽かったのです。なぜなら、ユダにはイスラエルという反面教師がいたのに、そこから学ばなかったからです。イスラエルにはそれがありませんでした。ただそれだけのことです。北王国イスラエルも悪かったのです。

それで主はエレミヤに、「行って、北の方に叫べ」と言われました。「背信のイスラエルよ、帰れ。」と。「帰れ」ということばは、この書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止めて、主のみを神として崇めて生きるように、ということです。そうすれば、主は赦してくださいます。ここには「わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。」とあります。「顔を伏せはしない」は、新改訳第三版では「しからない」、新共同訳では「怒りの顔を向けない」と訳しています。口語訳でも「怒りの顔をあなたがたに向けない」と訳しています。つまり、主はいつまでも怒っていないのです。たとえイスラエルが「背信の女」と呼ばれても、たとえ離縁状を渡して追い出した妻であっても、「帰れ」と言われるのです。それは、主は恵み深いからです。主は不正や罪を見逃さずに怒られる方ですが、いつまでも怒り続けることはしません。あなたが自分の咎を素直に認めて主に立ち返るなら、主はあなたの背きの咎を赦してくださるのです。

あの放蕩息子は、父親から財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たすと、食べることにも困り果て、ついには豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいほどになりましたが、その時彼ははっと我に返るのです。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行ってこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

こうして彼が立ち上がり、父のもとへ向かうと、父親は彼を見付け、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしました。「よく帰って来た」と。そればかりではありません。父親は急いで一番良い着物を持って来て着せると、手に指輪をはめ、足に履き物をはかせました。そして肥えた子牛を引いて来て屠り、お祝いしたのです。父親はどれほどうれしかったことか。その喜びが溢れています。

人間の父親でさえ、こんなにも愛しているのに、父である神の愛が、これよりも劣ると思いますか。私たちに対する神の愛は、海のように深く、空のように高いのです。ここには「わたしは恵み深いから」とあります。主は恵み深いのです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、あなたはあなたの咎を認めなければなりません。悔い改めて、神に立ち帰らなければならないのです。神が用意してくださったひとり子イエス・キリストを信じなければならなりません。これが、神が用意してくださった救いの道です。もしあなたが主の御声に従い、主に立ち返るなら、主はあなたの背きを癒し、豊かな恵みを注いでくださるのです。

 Ⅲ.悔い改める者にもたらされる恵み(14-18)

 第三に、悔い改める者にもたらされる神の恵みがどほど大きなものであるのかを見て終わりたいと思います。14~18節をご覧ください。「14 背信の子らよ、立ち返れ──主のことば──。わたしが、あなたがたの夫であるからだ。わたしはあなたがたを、町から一人、氏族から二人選び取り、シオンに連れて来る。15 また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。16 あなたがたが地に増えて多くの子を生むとき、その日には──主のことば──人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。彼らがそれを思い出すことも、調べることもなく、それが再び作られることもない。17 そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。18 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。」

 14節には、主がイスラエルに向かって「背信の子らよ、立ち返れ」と言われますが、ここにその理由が記されてあります。それは「わたしが、あなたがたの夫であるからだ。」この聖句には、ことばの遊びというか、偶像の神バアルに対する明白な挑戦が見られます。というのは、この「夫」と訳されている言葉は、ヘブル語で「バアル」という言葉なんです。ここで主は、神として権威を持っているまことの夫は誰なのか、それは「バアル」ではなくこのわたしであると強調しているのです。

 そして14節後半において、「わたしはあなたがたを、一つの町から一人、一つの氏族から二人選び取って、シオンの丘に、契約の箱が置かれている聖所に連れて来る」と言っておられます。これは文字通り一人、二人ということではなく、わずかながらも、ということです。わずかながらも、神に立ち帰ろうとする人たちがいて、その人たちをシオンに連れて来るというのです。これはイスラエルの「残りの者」のことです(イザヤ10:22,28:5)。神はイスラエルを完全に滅ぼすことはなさいません。わずかながらも残りの者を備えてくださり、そこから回復されるのです。滅び去って当然の民の中に「残りの者」を残し、その一人をもって新たなる救いの歴史の出発点とされるのです。これは、彼らの時代的に見るなら、アッシリヤとかバビロン捕囚からの解放のことですが、それはこれから起こることの預言でもあります。すなわち、イエス・キリストが再びこの世に戻って来られるときにもたらされる救いの完成のことです。それは16節に「その日」とありますし、17節にも「そのとき」とあります。また18節にも「その日」とあることからわかります。この「その日」とか「そのとき」というのは、世の終わりの終末預言のキーワードです。すなわち、エレミヤはここで、単にイスラエルがアッシリヤやバビロン捕囚から解放されて戻って来た人たちによってイスラエルの新たな救いの歴史の1ページを始めていくということを語っているだけでなく、はるか遠い未来にイエス・キリストが再びこの世に戻って来られるとき、主はその残りの者を通してイスラエルの民に完全な解放をもたらしてくださることを預言していたのです。

 そのときどんなことが起こるのでしょうか。16節には「その日には、主のことば。人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。」とあります。また17節には「そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。」とあります。

 これはどういうことかというと、そのとき、イエス・キリストは王の王、主の主として、エルサレムに御座を設けられるので、エルサレムは「主の御座」と呼ばれ、そこでイエス・キリストが治めてくださるということです。ですから、もう主の契約の箱は必要ありません。主の契約の箱には十戒が刻まれた2枚の石の板が収められていましたが、それは神の臨在の象徴でした。でも、それはもう必要ないのです。なぜなら、主イエス・キリストがそこにおられるからです。神がそこに臨在しておられるのです。本物があればその模型は必要ありません。主の契約の箱は、いわばイエス・キリストの影のようなものでした。本人が目の前にいるので、もはや影は必要ないのです。本人が目の前にいるのに、いつまでもその人の写真を大事に扱う人はいません。目の前に本人がいれば、それで十分なのです。たとえば、皆さんに夫がいて、その夫のことをとても愛しているとします。だから、その夫の写真を肌身離さず持っているわけですが、その夫が家に帰ってきらどうしますか。夫には知らんふりして、その写真に必死に語り掛けるようなことをするでしょうか。あなたのダーリンがあなたのそばにいるのに、ダーリンの写真に向かって「ハ~イ、ダーリン」なんて言いません。本物がいるからです。本物がいなければ写真に語り掛けるということもあるでしょうが、本物がいればそれで十分なのです。主の契約の箱は、主イエス・キリストの影のようなものでした。ですからイエス・キリストがいる今、もう契約の箱は必要ないのです。契約の箱について語ることも、それが心に上ってくることもありません。イエス様がそこにおられるからです。

そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民がこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはしません。その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともども、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来るのです。「北の国から」とは北海道のことではありません。それはイスラエルの北の国のことで、アッシリヤとかバビロンのことを指しています。それは先ほども申し上げたように、彼らの時代から見ればアッシリヤとかバビロン捕囚から解放のことですが、遠い未来のことで言うなら、イスラエルが世界の果てから集められるということであり、やがてイエス・キリストが再臨されるとき、私たちを含むすべての民、万国の民がこの御座、エルサレムに集められ、二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない、ということです。

いつかそういう時がやって来ます。それはそう遠くないように感じます。そのときには一切の罪が取り除かれ、また、罪によって腐敗した世界が回復されるのです。そういう時がやって来ます。すばらしい約束です。これこそ真の希望です。この世にあってはコロナのような問題や戦争の不安、病気の苦しみ、人間関係のトラブル、経済の苦しみなど心が休まりません。けれども、そうした中にあってイエス・キリストが来られあなたの心を治めてくださるとき、そうした不安や恐れから解放され、神の臨在と平和の中を生きることができるのです。そのために私たちに求められているのは何でしょうか。13節、「ただ、あなたが自分の咎を認めよ」です。ただ、あなたの咎を認め、悔い改めて主に立ち返るなら、あなたもこのような恵みを受けるのです。もう宗教的な儀式とか、プログラムとか、奉仕とか、活動に頼らなくてもいいのです。ただ、あなたはあなたの咎を認めるだけでいいのです。あなたが神に立ち立ち返るなら、あなたは主イエスの御支配を受け、さながら天国のような人生を歩むことができるのです。私たちにはこのようなすばらしい約束が与えられているのですから、主の招きに応答して、ただ、あなたの咎を認めて、主に立ち返りましょう。主の驚くべき恵みが、あなたにも豊かに注がれますように。

Ⅰ列王記1章

 今日から列王記第一に入ります。早速本文に入りたいと思います。

 Ⅰ.王位継承問題(1-10)

 まず1~10節をご覧ください。「1 ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。2 家来たちは王に言った。「王のために一人の若い処女を探し、御前に仕えて世話をするようにし、王の懐に寝させて王が温まるようにいたしましょう。」3 こうして彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を探し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。4 この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。
 5 ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。6 彼の父は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった。そのうえ、彼は非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子であった。7 彼がツェルヤの子ヨアブと祭司エブヤタルに相談をしたので、彼らはアドニヤを支持するようになった。8 しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者ナタン、それにシムイとレイ、およびダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。9 アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、羊、牛、肥えた家畜をいけにえとして献げ、王の息子たちである自分のすべての兄弟たちと、王の家来であるユダのすべての人々を招いた。10 しかし、預言者ナタン、ベナヤ、勇士たち、そして自分の兄弟ソロモンは招かなかった。」

列王記は、実際はそのままサムエル記第二の続きになっています。つまり、サムエル記第二の最後にダビデの晩年について書かれてありましたが、列王記第一はダビデの晩年の姿が描かれているのです。そしてダビデが死に、王権はその子ソロモンに受け継がれていき、イスラエル王国が隆盛を極める話へと移っていきます。

1節には「ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。」とあります。このときダビテ70歳くらいになっていたと考えられます。というのは、Ⅱサムエル記5章4節によると、彼は30歳で王となり、40年間王であった、とあるからです。彼は、死の直前肉体的に非常に弱くなっていました。血行が悪かったのか、自分で体を温めることができませんでした。いくら衣を着せても温まりませんでした。それで家来たちは王に、若い処女を連れて来て、王の懐に寝させて温まることができるように、また、王に仕えて世話をさせるようにしましょう、と進言しました。

こうして王の前に連れて来られたのは、シュネムの女でアビシャグという女性でした。シュネムは、ガリラヤ湖の南東タボル山の麓にある町です。ダビデの家来たちが、エルサレムからガリラヤ地方まで、この任務にふさわしい美しい娘を探し回ったことがわかります。今でいうとミス・日本のような女性だったのでしょうか。彼女は非常に美しかったとあります。それで彼女は王の世話をするようになりましたが、王は彼女を知ることがなかった、つまり、性的関係を持つことはありませんでした。それは彼が年を取り過ぎて生殖機能が衰えてしまったからというよりも、バテ・シェバとのことから、その罪を悔い改め、愛に裏づけられた結婚関係以外の性的関係を絶っていたからだと思われます。もしかすると、この後で王位継承問題が勃発しますが、子を儲けることでその問題がさらに複雑になることを避けたのかもしれません。

このようにダビデが非常に老いてしまったことにより、イスラエル王国の王位継承問題が浮上してきました。5節をご覧ください。「ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。」

アドニヤは、ダビデの四男です。すでに長男のアムノンと三男のアブシャロムは死んでいました。次男はキルアブですが、彼のことについてはⅡサムエル記3章3節に出てくるだけで、その後は出てきません。おそらく、若くして死んだのでしょう。そして、四男がこのアドニヤ(Ⅱサムエル3:4)でした。彼は生存していた息子たちの中では、最年長に当たります。ですから彼は、自分がダビデの後を継ぐことができると考えたのでしょう。それで彼は「私が王となる」と宣言し、戦車、騎兵、それに自分の前に走る50人を手に入れました。

しかし、すでにダビデはその子ソロモンに王位を継承すると話していました。Ⅰ歴代誌22章にあります。ここには、ダビデが主の命じられた通りにエブス人オルナン(アラウナ)の打ち場を買い、そこに神の宮を建てる計画が示されてありますが、それを実行するのはソロモンであると語られていました。Ⅱ歴代誌22章9~10節にはこうあります。「9 見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。10 彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしの子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』」

アドニヤが、そのことを知らなかったわけではありません。それなのに、彼がこのようなことをしたのはどうしてか。一つは5節にあるように、野心を抱いたからです。こうした彼の態度は、野心と思い上がりの結果から出たことだったのです。彼は父ダビデ王の存命中に「私が王になろう」と心に決めていたことがわかります。このような下劣な人間がイスラエルの王になっていいはずがありません。彼が戦車や騎兵、そして自分の前を走る50人の者を手にいれたのも、ただ民の関心を買うためでした。

もう一つの理由は、6節に「彼の父は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった。そのうえ、彼は非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子であった。」とありますが、彼は父ダビデからとがめられたことが一度もなかったからです。つまり、彼は甘やかされて育ったのです。こうした自己中心的な性格が、彼をこのような行動へと走らせたのです。確かに彼は非常に体格もよく、美男子(新改訳)で、姿の良い人(口語訳)であり、堂々として(新共同訳)いたこともあり、イスラエルの民の注目を受けていたのかもしれませんが、そうした見かけの良さは、王としての資質とは無関係です。彼には王として備えるべき判断力や知恵、義なる性質といった資質が備えられていませんでした。

王位を狙うアドニヤはどうしたでしょうか。7節をご覧ください。彼は有力な指導者たちの中から支持者を集めます。それがツェルヤの子ヨアブであり、祭司エブヤタルでした。ヨアブは将軍で、ダビデの治世の最初からダビデに仕えてきた人物です。またエブヤタルはアヒメレクの子です(Ⅰサムエル23:6)が、祭司の町ノブがサウル王によって皆殺しにされたとき、そこから逃亡してダビデのもとに身を寄せた人物です(Ⅰサムエル22:20)。それ以来、エブヤタルはダビデの助言者となっていましたが、その彼がダビデを裏切ってアドニヤを支持するようになったのです。一方、祭司ツァドクと軍隊における重鎮であったベナヤ、そしてダビデの友人でもあった預言者ナタンは、アドニヤにくみしませんでした。

アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、自分のすべての兄弟たちと、王の家来であるユダのすべての人々を招いて祝宴を開きました。これは、実質的に彼が王であることを確認させるためのものでした。自分の兄弟たちを招いたのは、彼らに王位継承を放棄させるためです。また、自分を支持してくれる人たちだけを招き、そうでない人たちは招きませんでした。招待から漏れたのは、彼らくみしなかった預言者ナタン、ベナヤ、勇士たち、そして自分の兄弟ソロモンです。預言者ナタンは宗教的力を持っていたからでしょう。また、ベナヤは軍事的力を持っていました。そしてソロモンは、王位継承者として指名されていたからです。

アドニヤのやり方は、話し合いによる平和的な解決ではなく、自分の敵を除去しようとする暴力的なものでした。神を恐れる者は一か八かの暴挙に出来るのではなく、常に平和的な解決を求めなければなりません。主イエスは「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもとよばれるから」(マタイ5:9)と言われました。私たちは主の御言葉に従い、平和をつくる者となることを求めていきたいと思います。

 Ⅱ.ソロモンの油注ぎ(11-40)

次に11~40節までをご覧ください。まず14節までをお読みします。「そこで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「われらの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王になったことを、あなたは聞いていないのですか。12 さあ今、あなたに助言をしますから、自分のいのちと、自分の子ソロモンのいのちを救いなさい。13 すぐにダビデ王のもとに行って、『王様。あなたは、このはしために、「必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く」と誓われたではありませんか。それなのに、なぜアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。14 あなたがまだそこで王と話している間に、私もあなたの後から入って行って、あなたのことばが確かであることを保証しましょう。」」

このアドニヤの王位乗っ取り計画に対して、預言者ナタンが素早く行動に移します。彼は、アドニヤが王になったら、自分の脅威となるソロモンとその母バテ・シェバを殺すことは明らかであると思いました。そこで彼はバテ・シェバのところへ行き、彼女に助言します。それは、彼女がダビデ王にところへ行き、ソロモンが彼の跡を継いで王となると誓ったことを思い出させるようにせよということ、そして、その話をしている間に自分も行って、彼女のことばが確かであることを保証するというものでした。これは、モーセに律法に基づくものでした。すなわち、それが真実であるかどうかを証明するためには、2人以上の証人が必要であると定められていたからです。もしダビデの記憶が薄れたとしても、預言者ナタンが証人として証言するなら、ソロモンの王位継承の正当性が保証されることになります。

15~21節をご覧ください。「15 バテ・シェバは寝室の王のもとに行った。王は非常に年老いていて、シュネム人の女アビシャグが王に仕えていた。16 バテ・シェバがひざまずいて、王に礼をすると、王は「何の用か」と言った。17 彼女は答えた。「わが君。あなたは、あなたの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く』と、このはしためにお誓いになりました。18 それなのに今、ご覧ください、アドニヤが王となっています。王様、あなたはそれをご存じではないのです。19 彼は、雄牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとして献げ、王のすべてのお子様と、祭司エブヤタル、それに軍の長ヨアブを招いたのに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。20 王様。王様の跡を継いで王座に就くのはだれと告げられるのかと、今や、全イスラエルの目はあなたの上に注がれています。21 このままですと、王様がご先祖とともに眠りにつかれるとき、私と私の子ソロモンは罪ある者と見なされるでしょう。」」

それでバテ・シェバは王のもとに行きました。そして、ナタンが助言したように、ソロモンがダビデの跡を継いで王になると誓ったこと、にもかかわらず、アドニヤが王になろうとしていることを告げます。ダビデ王はそのことを知らなかったようです。それでバデ・シェバは、だれがダビデ王の跡を継いで王座に就くのかを告げるようにと勧めています。そうでないと、もしやダビデ王が先祖たちとともに眠りにつかれるとき、自分と自分の子ソロモンは罪ある者とみなされて殺されることになるでしょう。

この直訴には、バテ・シェバとソロモンのいのちがかかっていました。それゆえ、彼女は必至に王にアピールしたのです。このバテ・シェバの知恵と熱意から学びましょう。私たちも神の約束に立ち、命がけで願うなら、神は私たちの祈りを聞いてくださいます。あなたの祈りはどうでしょうか。これほどの知恵と熱意をもって祈っているでしょうか。神が約束されたことは必ず成就します。そのことを信じて、あきらめないで、熱心に祈り続ける者でありたいと思います。

次に22~31節までをご覧ください。「22 彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンが入って来た。23 家来たちは、「預言者ナタンが参りました」と言って王に告げた。彼は王の前に出て、地にひれ伏し、王に礼をした。24 ナタンは言った。「王よ。あなたは『アドニヤが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く』とおっしゃったのでしょうか。25 実は今日、彼は下って行って、雄牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとして献げ、王のお子様すべてと、軍の長たち、そして祭司エブヤタルを招きました。彼らは彼の前で食べたり飲んだりしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫びました。26 しかしあなたのしもべのこの私や、祭司ツァドク、エホヤダの子ベナヤ、それに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。27 このことは、王から出たことなのですか。あなたは、だれが王の跡を継いで王座に就くのかを、このしもべに告げておられません。」

28 ダビデ王は答えた。「バテ・シェバをここに。」彼女が王の前に来て、王の前に立つと、29 王は誓って言った。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。30 私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」31 バテ・シェバは地にひれ伏して王に礼をし、そして言った。「わが君、ダビデ王様。いつまでも生きられますように。」」

彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンが入って来ました。打ち合わせの通りです。ナタンもまた王に敬意を払い、アドニヤが王座に着いたことを告げます。ダビデの最も私的な秘密を知っているナタンとその相手であるバテ・シェバが同時にダビデの前に現れたのですから、彼の心が動揺しないはずがありません。彼が言ったことはバテ・シェバが言ったこととほとんど同じでした。ただバテ・シェバが伝えたことよりももっと新しい情報を連れ加えています。それは、アドニヤが王として即位して宴会を催しているということでした。そして27節にあるように、ダビデの跡を継いで王になるのはだれなのかを明言するようにと決断を迫りました。

ナタンの言葉を受けたダビデ王はすぐに決断しました。それは、ソロモンが彼の跡を継ぐということです。まず、ダビデ王はバテ・シェバを自分の部屋に呼び入れ、彼女に誓ってこう言いました。29~30節です。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」

ダビデ王は、後継者としてソロモンを指名しました。ソロモンが彼の跡を継いで王になると。しかもそれを「今日」すると言ったのです。バテ・シェバは地にひれ伏し、「わが君、ダビデ王様。いつまでも生きられますように。」と言いました。これは、王が正しい決断をしたので、神が長寿をもって祝福してくださるようにという祈りです。

神の御心を確信したダビデは「今日、必ずそのとおりにしよう」と言って、すぐにそれを行動に移しました。

32~40節をご覧ください。「32 それからダビデ王は「祭司ツァドクと預言者ナタン、それにエホヤダの子ベナヤをここに呼べ」と言った。彼らが王の前に来ると、33 王は彼らに言った。「おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。34 祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこで彼に油を注いでイスラエルの王とせよ。そうして、角笛を吹き鳴らし、『ソロモン王、万歳』と叫べ。35 それから彼の後に従って上れ。彼は来て、私の王座に就き、私に代わって王となる。私は彼をイスラエルとユダの君主に任命する。」36 エホヤダの子ベナヤが王に答えて言った。「アーメン。王の神、主も、そう言われますように。37 主が王とともにおられたように、ソロモンとともにいて、その王座を、わが君ダビデ王の王座よりもすぐれたものとされますように。」38 そこで、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それにクレタ人とペレテ人が下って行き、ソロモンをダビデ王の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ行った。39 祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、ソロモンに油を注いだ。彼らが角笛を吹き鳴らすと、民はみな、「ソロモン王、万歳」と言った。40 民はみな、彼の後に従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。」

それでダビデは、祭司ツァドクと預言者ナタン、それにエホヤダの子ベナヤを呼び寄せ、ソロモンに油を注いで王とし、角笛を吹き鳴らして、「ソロモン王、万歳」と叫ぶように命じました。ソロモンを王の雌ろばに乗せるのは、彼が新しい王の地位に就いたことを民衆に示すためです。そして彼はダビデの王座に就き、ダビデに変わって王となります。

ダビデから命令を受けた3人のリーダーたちは、王が命じたとおりにソロモンを雌ろばに乗せ、ギホンの泉に行き、そこでソロモンに油を注いで王としました。この3人とは、祭司ツァドクと預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤです。これは、神からの承認と王からの承認、そして軍からの承認(ベレヤの賛同)を象徴していました。かくしてソロモンはダビデに代わってイスラエルの新しい王になったのです。

ここでダビデのすばらしかったのは、彼はそれが神の御心だと確信すると、すぐに行動に移した事です。次の王はソロモンであるとバテ・シェバに告げたダビデは、すぐにそれを実行しました。神の御心がわかっていても、なかなか重い腰を上げようとしない人がいます。あたかもそれが冷静で、信仰的であるかのように考えているのです。しかし、真に霊的であるとは、神の御心は何かを祈り求め、それが示されたならすぐに従うことです。御心を求めて祈ることは大切なことです。でももっと大切なのは、御心が示されたならそれに従うことです。「今日」という日に行動を起こす人は幸いなのです。

Ⅲ.ダビデの賛美 (41-53)

次に41~53節までをご覧ください。48節までをお読みします。「41 アドニヤと、彼とともにいた客はみな、食事を終えたとき、これを聞いた。ヨアブは角笛の音を聞いて言った。「なぜ、都で騒々しい音がするのか。」42 彼がまだそう言っているうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンがやって来た。アドニヤは言った。「入れ。おまえは勇敢な男だから、良い知らせを持って来たのだろう。」43 ヨナタンはアドニヤに答えた。「いいえ、われらの君、ダビデ王はソロモンを王とされました。44 ダビデ王は、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それに、クレタ人とペレテ人をソロモンにつけて送り出されました。彼らはソロモンを王の雌ろばに乗せ、45 祭司ツァドクと預言者ナタンが、ギホンで彼に油を注いで王としました。こうして彼らが喜びながら、そこから上って来たので、都が騒々しくなったのです。あなたがたが聞いたあの物音がそれです。46 しかも、ソロモンはすでに王の座に就きました。47 そのうえ、王の家来たちが来て、『神がソロモンの名をあなたの名よりもすぐれたものとし、その王座をあなたの王座よりも大いなるものとされますように』と、われらの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると、王は寝台の上でひれ伏されました。48 また、王はこう言われました。『イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。』」

アドニヤと、彼とともにいた客はみな、食事を終えたとき、都で騒々しい音がするのを聞いて不安になりました。ソロモンの油注ぎが行われたギホンの泉までは、わずか1㎞しか離れていなかったからです。この音は何の音かとヨアブが尋ねたところに、祭司エブヤタルの子ヨナタンが入って来て、ダビデ王がソロモンを王としたことを伝えました。ヨナタンが報告したことは、すでに起こったことでしたが、新しい情報もあります。それは47節のことばです。「そのうえ、王の家来たちが来て、『神がソロモンの名をあなたの名よりもすぐれたものとし、その王座をあなたの王座よりも大いなるものとされますように』と、われらの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると、王は寝台の上でひれ伏されました。」これはどういうことかというと、ソロモンの即位後、ダビデの高官たちがダビデのもとに来て祝福の言葉を述べたということです。

それに対してダビデ王はこう言って応えました。48節です。「イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。」この時点で、アドニヤの夢は完全についえ去りました。

ダビデは、ソロモンが王座に就いたことを感謝し主をほめたたえました。彼が主に感謝したことは、主が、息子ソロモンが王座に就くことをその目で見ることができるようにしてくださったということでした。私たちの子孫が主の救いに与ることをその目で見て天に召される人は幸いです。私たちの信仰は自分たちだけのものではなくその子孫にまで継承されることが大切です。そのことを覚えて祈りつつ、その実現のために私たち自身がしっかりと信仰に立ち、また教会全体がそのことを覚えて重荷を持つ者でありたいと思います。

最後に49~53節を見て終わりたいと思います。「49 アドニヤの客たちはみな身震いして立ち上がり、それぞれ帰途についた。50 アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかんだ。51 そのとき、ソロモンに次のような知らせがあった。「アドニヤはソロモン王を恐れ、祭壇の角をしっかり握って、『ソロモン王がまず、このしもべを剣で殺さないと私に誓ってくださるように』と言っています。」52 すると、ソロモンは言った。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない。」53 それから、ソロモン王は人を遣わして、アドニヤを祭壇から降ろさせた。アドニヤが来てソロモン王に礼をすると、ソロモンは彼に言った。「家に帰りなさい。」」

ソロモン即位の知らせを聞いて、アドニヤの招待客たちはみな身震いして立ち上がり、それぞれ帰途につきました。そしてアドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかみました。これはどういうことかというと、祭壇の角とは、神殿のところで、動物のいけにえをささげる青銅の祭壇のことです。その祭壇の四隅には角がありました。その角をつかめば、ちょうど逃れの町に逃れるように、自分の命を取るために追う者たちから救われると考えられていたのです。それで彼は行って祭壇の角をつかんだのです。

そのことがソロモンに知らせられました。するとソロモンはこう言いました。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない。」(52)

ソロモンは寛容な態度で対処に当たりしました。ソロモンが求めたことは、アドニヤが謀反を起こさず善良なしもべとして生きることです。ソロモンはアドニヤを祭壇から降ろさせ、自分の前に立たせると、「家に帰りなさい」とだけ告げて、彼に恵みを施しました。

それにも関らず、アドニヤはその後ソロモンに反抗しその結果死刑に処せられることになります。詳細は2章に記されてありますが、アドニヤがダビデ王の死後、ダビデ王の王妃シュネムの女アビシャグを自分の妻にしようとしたのです。王の妻を自分の妻にするということは、王位を主張することと同じであったのです。自分の受けた恵みを忘れる者、また、失敗から学ばない者は愚かな者です。私たちは、神から大いなる恵みを受けました。その恵みを無駄にすることがないように注意しなければなりません。その恵みを無駄にしないというのは、その恵みに応答して生きるということです。パウロはこう言っています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」

神から受けた恵みを無駄にしないようにしましょう。神が私たちにキリストの救いというどれほど大きな恵みを与えてくださったのかを覚え、それに応答して生きる者でありますように。

Ⅱサムエル記24章

 サムエル記も最後の章を迎えました。これまでサムエル記第一、第二と学んできましたが、きょうはサムエル記第二の24章を学びます。

 Ⅰ.人口調査の罪(1-9)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。2 王はともにいた軍の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、私に民の数を知らせよ。」3 ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王の目が、親しくこれをご覧になりますように。ところで、わが主、王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」4 しかし、ヨアブと軍の高官たちへの王のことばは激しかった。ヨアブと軍の高官たちは、イスラエルの民を登録するために王の前から出て行った。5 彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真ん中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、6 ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。7 そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町に行き、ユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに至った。8 彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。9 ヨアブは兵の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。」

1節には「再び主の怒りが燃え上がった」とあります。「再び」というのは、21章で見たように、サウルとその一族がギブオン人たちを殺戮したことが原因で、3年もの間飢饉が続いた出来事のことでしょう。イスラエルに再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり」ました。それは、ダビデがイスラエルとユダの人口を数えたからです。並行箇所のⅠ歴代誌21章1節をみると、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした、とあります。これはサタンの誘惑だったのです。イスラエルの人口を数えることがなぜ問題だったのでしょうか。人口を調査すること自体は問題ではありませんが、その動機が問題でした。それは自分の力を誇ろうとする罪です。自分にはこれだけの数の民がいるのだと誇り、神から栄光を奪おうとしたのです。教会も注意しなければなりません。私たちの教会の週報にも前の週の出席者数を書いていますが、もしそれがダビデと同じような動機からであるなら問題です。幸いにも私たちが載せているのは単に祈りと記録のためです。全く誇れるような人数ではないので特に問題にはならないと思いますが。でも注意しなければなりません。

それが間違った動機から出たことであることは、3節のヨアブのことばからもわかります。ヨアブはダビデからダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、その数を自分に知られるようにと命じられたき、不安を感じ、実行をためらいました。そしてダビデにこう言っています。「王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」主が民を増し加えてくださるのに、なぜあなたは、あたかも民を自分の手中に入れるようなことをされるのですか、というのです。ダビデは、自分のプライドを満たすため人口調査をさせようとしていたのです。

しかし、ダビデのことばは激しかったので、ヨアブと軍の高官たちはその調査に着手しましました。彼らはヨルダン川を渡ってガドに行き、そこからちょうど時計と反対周りでイスラエル全土を東西南北に巡りました。そして9か月と20日の後にエルサレムに帰って来ると、兵の登録人数をダビデに報告しました。それによると、イスラエルには剣を使う兵士が80万人、ユダには50万人いました。合計130万人です。剣を使う兵士だけで130万人もいたということは、イスラエル全体では600万人くらいいたのではないかと思われます。ダビデは600万の王国の王様です。どれほどご満悦であったかと思います。しかし、それは主の怒りを引き起こす大きな罪でした。

自分にとって重大な罪ではないようなものでも、神の目には重大な罪であることが往々にしてあります。本人が気づかなくても、周りの人が気づく場合もあります。時には、信者でない人でさえ気づくこともあります。ヨアブたちは、ダビデよりも霊的には弱い者たちでしたが、そんな彼らでも、「なぜこのようなことを望まれるのですか」と言うほどのことだったのに、ダビデ本人にはわかりませんでした。私たちは自分で正しいと思っていてもそれが罪であることにさえ気づかないことがあります。それゆえ、自分の中にプライドや誇りといった罪はないかどうかを吟味し、常に謙虚になって周りの人たちの声に耳を傾ける必要があります。

 Ⅱ.ダビデの罪の結果(10-19)

その結果、どうなったでしょうか。次に10~19節までをご覧ください。「10 ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」11 朝ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。12 「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」15 主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下された。ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。16 御使いは、エルサレムを滅ぼそうと手を伸ばした。主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼす御使いに言われた。「もう十分だ。手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場の傍らにいた。17 ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「ご覧ください。この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。」18 その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」19 ダビデは、ガドのことばにしたがって、主が命じられたとおりに上って行った。」

ダビデのすばらしい点は、このような過ちを犯した時、すぐにそれを悔い改めた点です。ダビデは、民を数えた後で良心のとがめを感じました。そしてすぐに罪を告白し、悔い改めました。彼は主に言いました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

すると翌朝、先見者ガドが、主のことばを告げるためにダビデのところにやって来ました。彼は、主からの懲罰として三つの可能性があることを告げます。何でしょうか。一つは7年間の飢饉です。二つ目は3か月間の敗走、敵の前から敗走することですね、そして三つ目は、3日間の疫病です。一つ目の7年間の飢饉ですが、これは脚注にあるように「3年間」の間違いではないかと考える人もいます。というのは、他が3か月の敗走と、3日間の疫病とあるので、これも3年間の飢饉のことではないかというのです。他かに3年間の飢饉、3か月の敗走、3日間の疫病となると語呂合わせのようでおもしろいですが、はっきりしたことはわかりません。いずれにせよ、期間が短くなっているほど、さばきの内容も厳しくなっていることがわかります。これによると、疫病がどれほど厳しいさばきであったかがわかります。私たちは今コロナという疫病と闘っている最中ですが、これがどれほど厳しいものであるかを感じています。それがもう2年も経つわけですから、人々の不安と疲労がどんなにピークに達しているかは容易に想像できます。

ダビデはこの三つの中で何を選んだでしょうか。14節をご覧ください。ダビデはガドに次のように言いました。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」

ダビデが選んだのは3日間の疫病でした。なぜなら、彼は人の手に陥りたくはなかったからです。もし7年間の飢饉を選べばそれは食物を持っている者に頼ることになります。また3か月の敗走を選ぶと、敵に追いかけられてしまうことになります。すなわち、これも人の手に陥ることになるのです。ダビデは人の手に陥ることを嫌いました。主のあわれみは深いからです。彼は、主のあわれみを心から確信していました。彼の信仰の土台は、これだったのです。主のすばらしさ、主のあわれみです。ですから、直接的に主の手に陥る「疫病」を選んだのです。私たちはここまで主に信頼しているしょうか。たとえそれが主からの懲らしめであっても、主はあわれみ深い方だと思い、それを甘んじて受けることができるでしょうか。ダビデの心には、主に対してこのような深い信頼がありました。

こうして神のさばきが始まりました。15節をご覧ください。「主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下された。ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。」

そのさばきによって7万人が疫病で死にました。そして、御使いがエルサレムを滅ぼそうと手を伸ばしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、御使いに「もう十分だ。手を引け。」と言って、手を引かせました。なぜ主は手を引いたのでしょうか。ダビデの祈りを聞かれたからです。主の使いが民を打っているのを見たダビデは、主に祈りました。「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。」これは、悪いのは自分なんだから、自分と自分の家を打ってほしいという祈りです。ここでもダビデは自分の罪を告白し、とりなしの祈りをささげています。かくして、ダビデの罪に対する神のさばきは収まりました。これはエブス人アラウナの打ち場で起こったので、アラウナの打ち場の体験と呼ばれています。この「アラウナの打ち場」とは、かつてアブラハムがひとり子イサクを捧げたモリヤの山のことであり、後にソロモンがエルサレムの神殿を立てることになる場所です(Ⅱ歴代誌3:1,創世記22:2)。ダビデはここでこの体験をしたのです。これはどういうことでしょうか。

打ち場とは、脱穀場のことです。牛に踏ませたり、道具を用いて打穀したものを、熊手や箕(穀物の殻・ごみなどを除く道具のこと)を使って空中に放り投げ、風を利用して実と殻とにふるい分けるのです。そのため打ち場は平坦な岩地で、風通しの良い小高い場所に造られました。旧約聖書には、これは神の裁きの象徴として用いられています(エレミヤ51:33,ミカ4:12)。しかし打ち場は単に裁きの象徴というだけでなく、祝福と祈りの応え、あがないの象徴でもありました。ダビデはそこで罪を告白し、とりなしの祈りをささげたのです。その時に主は「もう十分だ。手を引け。」と言われました。つまり、ダビデは自分の不従順による神の裁きと民の犠牲に耐え、打ち砕かれたのです。そして彼が悔い改めた後で祝福がもたらされました。その子ソロモンによって神殿が建てられることになるのです。18節をご覧ください。そこにガドがやって来て「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」と告げます。このようにして、後にそこにソロモンの神殿が建てられることになるわけです。主の家を建てることはダビデの長年の願いでしたが、それがこのような形で実現するのです。

このことは私たちに何を教えているのでしょうか。私たちも打ち場の体験をすることがありますが、それはただ神のさばきの場というだけでなく、神のご計画が実現するところでもあるということです。確かに「打ち場」は私たちの罪からきよめられる場所です。されによって痛みや苦しみを通らされます。しかしそれは私たちを打ちのめすことが目的なのではなく、そのことによって私たちが自分の弱さと失敗に直面し、その中で神に出会い神の栄光が現わされる場に変えられるということです。痛みの伴う打ち場の経験が良きものと変えられ、最終的にこれまでの祈りがかなえられていくことになるのです。

Ⅲ.すべてを益にしてくださる主(20-25)

最後に、20~25節までをご覧ください。先見者ガドから、「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のための祭壇を築きなさい。」ち言われたダビデはどうしたでしょうか。「20 アラウナが見下ろすと、王とその家来たちが自分の方に進んで来るのが見えた。アラウナは出て行き、地にひれ伏して、王に礼をした。21 アラウナは言った。「なぜ、わが主、王は、しもべのところにおいでになったのですか。」ダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を築きたい。そうすれば民への主の罰は終わるだろう。」22 アラウナはダビデに言った。「わが主、王よ。お気に召す物を取って、お献げください。ご覧ください。ここに全焼のささげ物のための牛がいます。薪にできる打穀機や牛の用具もあります。23 王よ、このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたを受け入れてくださいますように。」24 しかし王はアラウナに言った。「いや、私は代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」そしてダビデは、打ち場と牛を銀五十シェケルで買った。25 ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。」

ダビデは、ガドのことばに従って主が命じられたとおりに上って行きました。それを見ていたアラウナは驚き、出て行き、地にひれ伏して、王に礼をしました。彼は先住民エブス人の生き残りです。ダビデに攻め込まれるのではないかと恐れたのでしょう。どうして自分のところに来たのかと尋ねるアラウナに、ダビデはその目的を告げました。それは、彼の打ち場を買って、そこに主のために祭壇を築くためであるということでした。そうすれば神の民に対する神罰は終わるだろうと。

それを聞いたアラウナは、打ち場だけでなく、いけにえのための牛もすべて無料で差し上げますと申し出ました。しかしダビデはその献身的な申し出を断ります。何の犠牲も払わずに、主にいけにえをささげることなどできないと考えたからです。それでダビデは、打ち場と牛を銀50シェケルで買い取りました。

このダビデの姿勢から信仰のあり方を教えられます。それは、信仰とは形式や外見を整えることではなく、自ら痛みを感じるような犠牲をささげ、心の底から神に従うということです。あなたの信仰はどうでしょうか。全く痛みの伴わない信仰でしょうか。そうではなく痛みの伴う犠牲をささげ、心から主に従う者でありたいと思います。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえを献げました。主がこの国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルの民に対する神罰は終わりました。

この場所が、先ほども申し上げたように、アブラハムが息子イサクをささげたモリヤの山です。ダビデの子ソロモンは、ここに神殿を建てることになります。そして、やがてここで主イエスが十字架につけられることになるのです。神殿が建つ場所が、ダビデが罪を犯したことによって、主があわれみを注いでくださった場所と同じであることは、印象的です。主の神殿は、私たち人間の正しさをいけにえとしてささげるところではなく、私たちの罪や足りなさ、過ちを主に明らかにしていただき、赦しとあわれみを請うところであり、主のあわれみが示される所なのです。

それと同時に、そこは主の贖い、主の救いのご計画が実現するところでもあります。創世記50章20節に、ヨセフが自分の兄弟たちに言ったことばかあります。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)

ヨセフは数々の試練や苦難を耐え忍ぶことを余儀なくされました。しかし、主は完全な贖いの計画を成就するために人間の邪悪な策略さえも用いられ、ヨセフを権威と影響力と財産のある重要な地位に引き上げました。

これがアラウナの打ち場で起こったことです。私たちも、このような経験をすることがあるでしょう。でもそれは神の裁きだけでなく、神が私たちに備えて下さった素晴らしい祝福と神の救いのご計画が成就するためであると信じ、ダビデのように「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家にくだりますように。」と祈るものでありたいと思います。主のあわれみは尽きないからです。そのとき主の救いのご計画が大きく前進していくのです。

エレミヤ3章1~5節「わたしに帰れ」

 今日は、エレミヤ書3章1~5節から「わたしに帰れ」とタイトルでお話します。エレミヤは2章1節から最初の預言を語って来ましたが、今日の箇所はその最後の部分です。その中でエレミヤは、神の民イスラエルに対する神の悲痛な叫びを、10のたとえを用いて語りました。まず1~8節では不誠実な妻のたとえです。そして9~13節のところでは、壊れた水溜のたとえです。そして14~19節では、奴隷としてのイスラエルのたとえ、そして前回はもうどうにも止まらないと、次から次にいろいろなたとえをもって彼らの姿を描きました。20節では、自分のくびきを負わないかたくなな家畜です。21節では、質の悪い雑種のぶどうですね。22節では、たとえ重曹やたくさんの灰汁を使っても落ちない汚れ、23~25節では発情期の家畜、26~28には、見つかった時に恥を見る盗人、29~30節では反抗的な子どもの姿、そして36~37節では捕虜として連行される姿です。実に10のたとえをもって、イスラエルに対する神の悲痛な叫びが語られたのです。

今日の箇所はその最後の部分です。エレミヤは姦淫の女のたとえを用いて「わたしに帰れ」と語ります。神はご自身の民がその忠告を無視したり、受け止めようとしないなら、同じように悲しまれます。私たちは神の呼びかけに素直に応答して、神に立ち帰る者でありたいと思います。

 Ⅰ.再び戻れるか(1)

 まず1節をご覧ください。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。-主のことば-」

不誠実な妻のたとえは2章1節から8節までのところでも語られましたが、ここでもう一度イスラエルの姿を、不誠実な妻として描きます。ただ、2章と違うのは、2章では真実の愛を裏切ってただ夫のもとから離れて行った妻の姿が強調されていましたが、ここでは、そのようにして汚れた妻をもう一度受け入れることができるか、ということが問われています。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」ということです。

皆さん、考えてみてください。もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、その女が彼のもとに戻って来たからと言って受け入れることができるでしょうか。できません。それは単に感情的に受け入れられないというだけでなく、神の律法でそれが禁じられていたからです。申命記24章1~4節を開いてください。ここには「1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」とあります。

この「何か恥ずべきこと」とは「不貞」のことです。妻が何か不貞を働かせ気に入らなくなった場合、夫は妻に離婚状を書いて渡し、彼女を家から去らせることができました。問題はその後です。その後で、その妻が別の男と結婚したが、その男も彼女を嫌って家から去らせた場合、あるいは、後の男が死んだ場合、先の夫は彼女を再び自分の妻にすることができませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、彼女は汚れてしまったからです。他の男と関係を持つことで、汚れてしまったというのです。それは、主が忌み嫌われることでした。ですから、彼らが相続地に入ってからは、そのようなことをしてその地を汚してはならないと命じられていたのです。しかもこのエレミヤ書3章1節には、「あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか」とあります。不倫どころじゃありません。彼らには多くの愛人がいたのです。誰でもいいから声をかけて、まさに娼婦のようにいろいろな男たちと寝ていました。そのような人のもとに戻れるでしょうか。戻れません。

神はこれをご自身とイスラエルとの関係に当てはめているのです。離縁された妻とはイスラエルのこと、その妻が他の神々、他の偶像と結ばれて再婚しました。でもそれでも満たされず、「やっぱりもとの旦那の方のところに戻ろう」と言っても、戻ることはできないのです。

ところが、神はそのように多くの愛人と淫行を行った妻に「帰れ」と言われるのです。12節には「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。14節にも「背信の子らよ、立ち返れ。」と言われるのです。律法で禁じられていても、神はもう一度迎え入れてくださるというのです。これは驚くべきことです。なぜなら、律法に矛盾しているからです。律法は神のことばですから、神ご自身がそれを破るなんて考えられません。どういうことでしょうか。それは神が律法を破るというのではなく、その律法の刑罰をご自身で負ってくださったということです。確かに律法ではそのような者は石打ちの刑罰を受けなければなりませんでした。しかし神はその刑罰をご自身が受けることによって、その罪を解決してくださったのです。私たちは知っています。神はこのようなことをなさる方であるということを。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架につけて、私たちのふしだらのすべての罪を負ってくださいました。それによって、この方を信じるすべての人の罪を、律法によっては受け入れられない私たちのすべての罪を赦し、きよめてくださったのです。そして、全く罪を犯したことがない者とみなしてくださいました。すごいですね。そうなれば、そこには矛盾は無くなります。罪が贖われているならば、過去の罪が持ち出されることはありません。それはもう神の記憶にも残っていないのです。

イザヤ書43章23節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしい約束です。罪の記憶は自分を苦しめます。「どうしてあんな事を」と思い悩み、自分を責め、自己弁護し、自己嫌悪し・・。しかし、神を信じ神に立ち返る者に対して、神様はすでに赦しを与えておられるのです。過去の罪で私たちが責められることはありません。それどころか、その罪の記憶さえも捨て去ってくださるのです。「わたしはあなたの罪を思い出さない」と明言してくださる。神様さえも責められない過去の罪で、自分を責める必要はありません。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって、全ての罪が赦されたからです。だから神は背信の女イスラエルに「帰れ」と言われるのです。

 ホセア書のテーマは、まさにこの「赦し」です。ホセアは、不貞の女を妻として迎え入れるようにと神から命じられます。その言葉どおり、彼は彼女、ゴメルを妻としますが、やがて妻は夫を捨てて家を出、かつての罪の世界に戻っていきました。ホセアはどれほど傷ついたことでしょう。しかし、その傷がまだ癒えないうちに、神様は再びホセアに語りかけるのです。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(ホセア3:1)

何ですって!再び行って、他の男たちと姦通している妻を愛せというのですか。このことばを聞いた時、彼はどんなに悩み苦しんだことかと思います。他の男に愛されている女、姦淫を行っている妻を愛し、自分のもとに連れ戻しなさい、というのですから。いったい神様はどうしてこんなことを言われるのか。でもホセアはこのことばを受けて彼女を自分のもとに連れ戻しました。

いったいなぜ神はホセアにこのように命じられたのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示すためでした。神はこのゴメルのように何度も何度も夫に背き、他の愛人たちのところへ行って淫行を行うような妻を、何度でも受け入れてくださる方なのです。たとえ律法に背き、落ちるところまで落ちてしまった者でも、神はそこから引き上げてくださるのです。

ですから、もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先のもとには戻れるだろうか、という問いに対する答えは、No, but Yesです。通常では考えられないことですが、神はそれを可能にしてくださいました。あなたが多くの愛人と淫行を行ったとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し受け入れてくださいます。何とすばらしい知らせでしょうか。驚くべき知らせです。これが福音です。グッド・ニュースです。ですからあなたも、この神の招きに応答して、神に立ち返っていただきたいと思います。

 Ⅱ.雨はとどめられる(2-3)

次に2~3節をご覧ください。「2目を上げて裸の丘を見よ。あなたが共寝しなかったところがどこにあるか。荒野のアラビア人がするように、あなたは道端で相手を待って座り込み、淫行と悪行によって、この地を汚した。3それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」

ここにはイスラエルの罪と、その結果が記されてあります。「裸の丘」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼らはそこで文字通り裸になって性的な祭儀を行っていました。こうした偶像礼拝には神殿娼婦と呼ばれる女たちがいて、実際に淫行が行われていたのです。ですから、彼らはあちらこちらで共寝していたと言われているのです。彼らが共寝しなかったところはどこにも見当たりませんでした。

「荒野のアラビア人がするように」とは、荒野のアラビア人が、砂漠を通過する商人たちを襲うようにという意味です。そのように彼らは、淫行を行う機会を絶えず伺っていました。遊女のようになって、あちらことらで偶像礼拝をして霊的姦淫の罪を犯していたのです。

その結果どうなったでしょうか。3節には「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」とあります。 

乾燥地帯において、雨は恵みの雨です。これがなかったら作物は育ちません。したがって食べることができず、生きていくことができないのです。「後の雨」とは、3~4月にかけて降る「春の雨」のことです。イスラエルには10~11月に降る「先の雨」と、3~4月に降るこの「後の雨」がありますが、それ以外は乾季となります。ですからこの時期に雨が降らないと、干ばつや日照りで飢饉となり、危機的な状況に陥ってしまうのです。民は死に絶えてしまいます。

このようになることはすでに、律法の何で警告されていました。申命記11章16~17節にこうあります。「16 気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。17 そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。」

これはイスラエルが約束の地カナンに入る時に、モーセを通して神が語られたことです。エレミヤの時代からさかのぼること700年も前のことです。既に神は彼らに警告を与えていました。それは、あなたがたの心が横道に反れて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがあると、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、天を閉ざして、雨が降らなくようになるということでした。その結果、その地は産物を出さなくなり、最終的には、たちまち滅び去ることになると。こういう警告が与えられていたにも関わらず、彼らはそれを無視し、自分たちは大丈夫、聖書にそのように書いてあってもそれは自分たちにはあてはまらないと高をくくっていたのです。気をつけなければなりません。

これは、私たちにも言えることです。もし私たちが聖書の神、主イエス・キリストを捨ててほかの神々に走るなら、このような結果を招くことになります。クリスチャンでもほかの神々に走ることがあります。クリスチャンでも偶像崇拝をしていることがあるのです。それは貪欲という偶像礼拝です。コロサイ3章5節を開いてください。そこには「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。

偶像礼拝とは、ただ偶像を拝むことだけではありません。貪欲が偶像礼拝なのです。私たちが神様以上に愛するもの、神様以上に頼りにするものがあるとしたら、それがあなたの偶像礼拝なのです。あなたが神様以上に情熱を燃やし、多くの時間を割き、労力を注ぐものがあるとしたら、それがあなたの神になる危険性があります。それが聖書の神であれば幸いです。この神を愛し、神を第一とし、心を尽くして神を愛すること、それが本当の礼拝です。聖書にこうあるからです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22:37-38)これが、重要な第一の戒めです。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、力を尽くして、あなたの神を愛すること、それが本物の礼拝です。それが神様以外であるなら、イエス・キリスト以外であるなら、それはあなたの偶像礼拝となるのです。その結果、大雨はとどめられ、後の雨は降らなくなります。つまり、あなたの心はまさに雨が降らない状態となり、完全にドライになり、カラカラの状態に乾ききってしまいます。

私たちは時々、私はなぜクリスチャンなのにこんなにも心がカラカラなんだろうと思うことがあります。全然潤っていない、満たされていない、喜びがない、平安がない、イキイキしていないと、その原因をいろいろ探したりしますが、一番大きな原因はここにあります。偶像礼拝をしていることです。神様ではなく他のものを大切にしたり、優先したりしていることです。そうであればあなたの心が満たされることはありません。砂漠のように渇ききってしまいます。いくら祈っても、いくら聖書を読んでも、心が満たされることはありません。実際、このエレミヤの時代のイスラエルの民はエルサレムの神殿で主を礼拝していましたが、それなのに、同時に偶像礼拝をしていました。完全に断ち切っていませんでした。それは「主よ、主よ」と祈りながら、同時に偶像礼拝していたのです。勿論、私たちは教会に通いなが同時に神社を参拝することはないと思います。でもなかなか自分を捨てることができないことがあります。神様以上に自分を愛し、自分の欲望を満足させようとしているなら、それが偶像礼拝であり、心はカラカラに渇ききってしまうことになります。

イエス様はこのように言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

だれでもイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、従って行かなければなりません。そうでないと、イエス様につい行くことはできません。キリストの弟子にはなれないのです。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

ある方からお電話がありました。精神的にとても落ち込んでいると。教会の方が召されたり、家族が病気になったり、仕事が思うようにいかなくて悩んでいたとき、カウンセラーに相談したそうです。するとカウンセラーから、「聖書に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』とあるので、まず自分を愛することが大切だ」と言われたそうです。それで自分を愛そうと、自分の生い立ちを振り返ってみました。するとずっとセルフイメージが低く、自分を否定していたことに気付きました。でも自分の気持ちを自分に向けるほどもっと落ち込んでしまった、というのです。皆さん、どう思いますか。それはそうです。というのは、聖書には自分を愛しなさいなんて一言も言っていないからです。自分を大切にすることは必要です。でもそれは自分を愛することではありません。聖書が教えていることはその逆で、自分を捨てなさい、ということです。自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてキリストに従いって来なさいと。そうすれば、いのちを見出すと。もしあなたが自分、自分と自分のことばかり見ているなら、いつまで経ってもその穴から抜け出すことはできません。でもあなたの目を神に向け、キリストの十字架を負って、キリストに従うなら、神と隣人を愛するなら、あなたはいのちを見出すことになります。人に相談してはならないということではありません。しかしあなたがあなたの前に主を置いて、主のみこころは何かを考え、主に従うなら、あなたはいのちを見出すことになるのです。問題を見てはいけません。神を見て、神に信頼しなければなりません。

もし私たちが神を信じていても、同時に偶像礼拝をするなら、必ず大雨はとどめられ、心は渇き、弱り果て、干ばつや日照りで作物は取れず、不毛の人生を送るようになります。神は私たちにそのような者になることを望んでいません。だから主は私たちに「戻って来なさい」「帰って来なさい」と言われるのです。私たちは、大雨がとどめられないように、後の雨が降るように、もう一度、私たちの状態を顧みて、もし偶像を拝んでいるようであるならば、それを悔い改めて、今、神に立ち帰ろうではありませんか。

 Ⅲ.神への正しい祈り(4-5)

 最後に4~5節をご覧ください。「4 今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。』」

「今でも」とは、多くの愛人と淫行を行っている「今でも」ということです。今でも彼らは主にこう呼びかけていました。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。」 ユダヤ人の女性は、自分の夫のことを「父」と呼んでいました。ですから、この「父」とは、前の夫のことです。前の夫に対して、「あなたは私の若いころの恋人です」と言っているのです。この「恋人」とは、口語訳では「友」、新共同訳では「夫」と訳しています。新改訳第三版では「連れ合い」と訳しています。おもしろいですね、それぞれの訳によって微妙にニュアンスが違います。どちらかというと新共同訳と新改訳第三版では同じような意味で訳しています。「夫」、あるいは「連れ合い」のことです。彼らは多くの愛人、すなわち、多くの偶像を礼拝しながら、主に「あなたは私の夫です」と呼び掛けていたのです。皆さんどう思いますか。愛人と関係を持ちながら、「あなたは私の夫です。」イスラエルの民は主なる神と契約を結んでいたので、このように叫んでいるのです。それは私たちが、「私たちはまさにクリスチャンです」というようなものです。

 5節をご覧ください。彼らはあらん限りの悪を行っていながら、「いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのです」と言っています。彼らの問題は何だったのでしょうか。彼らの問題は、言行が一致していなかったということです。言っていることとやっていることが一致していなかったのです。彼らは、口では信仰的なことを言いながら、行いではあらん限りの悪を行っていました。

 このような過ちを私たちも犯すことがあります。口では「主よ、わたしはあなたのものです。わたしはあなたを心から愛します」と言いながら、一方では他の神々を慕っているということがあるのです。イエス様は「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)と言われましたが、そういうことがあるわけです。その結果、雨がとどめられ、窮地に立たせられると、もう苦しい時の神頼みで、「神様、助けてください」と叫ぶのです。藁をもすがるように、イエス様にすがろうとするのです。そのこと自体は問題ではありませんが、そのようにしながらも、一方ではあらん限りの悪を行うという、何ともチグハグなことをしているのです。偶像を捨てません。あきらめられないのです。こういうのを何というかというと、虫のいい信仰と言います。

 もし悔い改めて他の偶像を捨て、まことの神に立ち帰ったのであれば、「主よ、いつまで怒っておられるのですか。永久に怒っておられるのですか。どうぞあわれんでください。その怒りを鎮めてください。」と祈ることができます。そして、神様はあわれみをもってその祈りに答えてくださいますが、しかしこのイスラエルの民のように自分たちの罪を認めずそれを棚に上げてますます悪を行うなら、大雨はとどめられることになります。しかし、あなたが悔い改めて神に立ち帰るから、神はあなたに恵みの雨を与えてくださいます。

 4世紀に活躍したアウグスティヌスと言えば、古代の教会の教父、また哲学者、神学者として知られ、今なお、多くの人々から尊敬を受けている人物ですが、このアウグスティヌスも、若いころは、とんでもない生活をしていました。彼は、16歳の時、親もとを離れて、北アフリカのカルタゴという街に行きますが、そこで、ひとりの女性と同棲し子どもをもうけるようになるのです。おまけに、母から受けた信仰の教えを捨てて、当時のローマ世界にいきわたっていた「マニ教」という宗教に入信してしまうのです。

 母のモニカは、マニ教に走って行った息子のことで悩み、教会の司教アンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは「息子さんをそのままにしておきなさい。ひたすら彼のために主に祈りなさい。息子さんは彼らの書物を読んでいるうちに、それが何という間違った教えであるかを、いつか悟るでしょう。」と、モニカに話すのですが、それでも、彼女は泣き続けました。その時、この司教は言いました。「さあ、お帰りなさい。大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません。」この言葉の通り、アウグスティヌスは母モニカの涙の祈りによって、不道徳と、誤った教えから立ち返ったのです。

 それはあなたにも言えることです。神は、ひとりも滅びることを望んではおられません。すべての人が救われることを願っておられます。すべての人が神に立ち帰ることを待っておられるのです。主イエスの十字架によって赦されない罪はありません。主イエスの十字架の血潮は、どんな罪でも赦すことができるのです。この主の御腕の中に飛び込みましょう。「わたしに帰れ」とイスラエルを招かれた主は、今あなたをも招いておられるのです。

エレミヤ2章20~37節「もうどうにもとまらない」

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 エレミヤ書から学んでいます。今日は、2章20~37節からお話します。タイトルは、「もうどうにも止まらない」です。エレミヤは2章において、背信のイスラエルの姿をいろいろな比喩を用いて表してきました。その一つが不誠実な妻の姿であり、また、壊れた水溜であり、売られた奴隷の姿でした。そして、ここからさらに痛々しいくらい、彼らの背信の姿を、次から次に語ります。もうどうにもとまりません。

 Ⅰ.もうどうにもとまらない(20-25)

 まず、20~25節までをご覧ください。「20 実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。21 わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。22 たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。-神である主のことば-23 どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 20節に「くびき」とか「かせ」とありますが、これは、神から与えられた律法のことです。かつてイスラエルは神と契約を結びました。もし彼らが神の声に聴き従い、神の契約を守るなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の民となると。その律法のことです。結婚関係でいうと誓約ですね。でも彼らはそれを砕いて、すべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っていました。「すべての高い丘」とか「青々と茂る木の下」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。そこで彼らは寝そべって淫行を行っていたのです。実際的、霊的に姦淫を行っていました。

主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

イエス様は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。しかし、そのくびきを負いたくないのです。イエス様のくびきは負いやすく、その荷は軽いのに、「私は仕えない」、「ヤダモン!」と言って、神に反抗したのです。

 私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私たちイエス様を信じてイエス様と一つに結ばれたのにもされたにもかかわらず、私は好きなように生きたい、束縛されたくないと言って、くびきを砕き、かせを打ち砕いていることがあります。キリストを信じるとは、キリストの死と復活に一つにされること、すなわち、キリストを人生の主として生きることであるということを、しっかりと受け止めたいと思います。

 21節をご覧ください。「わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。」

 次は質の悪いぶどうのたとえです。彼らは純粋で良質のぶどうとして植えられたのに、質の悪いぶどうに変わってしまいました。それは神の期待を全く裏切るようなものでした。神はどれほど悲しまれたでしょうか。イザヤ書5章1~4節には、その神の嘆きが語られています。

「1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」

神はよく肥えた山腹にぶどう園を持っていて、苦労してそこを掘り起こし、石を取り除いたりして良いぶどうを植え、それはせかりか、その中にやぐらを立て、ぶどうの踏み場まで掘って、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、ところが、何と酸いぶどうが出来てしまいました。本来は甘い良い実が出来るはずなのに、酸いぶどうが出来てしまったのです。あなたはどのような実でしょうか。

 22節には、もう一つのたとえが描かれています。それは何をもっても拭うことができない垢、汚れです。「たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。」

 「重曹」という語は、第三版訳と口語訳では「タンサン」と訳しています。炭酸水素ナトリウムのことです。簡単に言うと、万能お掃除グッズです。クエン酸と一緒に使うと汚れを落としピカピカにすることができます。電気ケトルを洗う時などは、このクエン酸を使うとよく落ちるそうですが、私はやったことはありません。しかし、その重曹であなたのからだを洗っても、あなたの垢を落とすことはできません。それはあなたのからだにこってりとこびりついているので、どんな洗剤を使っても落とすことができないのです。たくさんの「灰汁」を使っても同じです。「灰汁」とは植物質のアルカリのことです。その灰汁を使っても、あなたの咎は汚れたままなのです。つまり、どんなに強い洗剤を使っても、あなたの罪の染みは取れないということです。アタックを使ってもだめです。アリエールでもあり得ません。どんな重曹を使っても、どんな灰汁を使っても、あなたのがんこな汚れ、あなたの罪の染みは抜けないのです。

 では、どうしたらいいのでしょうか。どうしたら罪の汚れを落とすことができるのでしょうか。それはただイエス・キリストの十字架の血潮によります。1ヨハネ1章7~9節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。どんなガンコな汚れでも洗い清めることができるのです。すばらしいですね。これが聖書を通して神が私たちに約束しておられることです。御子イエスの血がすべての罪をきよめてくださいます。キリストの血潮できよめられない汚れはありません。キリストの血は、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。

イザヤ1章18節にはこうあります。「さあ、来たれ。論じ合おう。主は言われる。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」あなたが御子イエスを信じるなら、御子の血が、あなたのがんこな汚れを完全に洗いきよめてくださるのです。

23~25節をご覧ください。「どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 ここでは、イスラエルがさかりのついた「雌のらくだ」や「野ろば」にたとえられています。このような動物は本能のままに生きるので、自分を抑制することができません。もうどうにも止まらない!です。自分の欲情を満たしてくれるものを探して、あちらこちら走り回るのです。

 私が小さい頃、山本リンダさんという歌手が「どうにもとまらない」という歌を歌いました。「うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ・・ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜は あなたしだいなの ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない」彼らは霊的、肉体的淫行を求め、もうどうにもとまらないくらい走り回っていたのです。

 25節にある「裸足にならないように」とか「喉が渇かないようにせよ」というのは、荒野で行き倒れにならないようにという意味です。それは荒野を旅する者にとっての最低の注意でしたが、その声さえも彼らの耳には入りませんでした。そして、「あきらめません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます。」と言うのです。「他国の男たち」とはバアルの神々のことです。それが好きなので、私は彼らについて行きますと、ついて行ったのです。

皆さんは、どう思いますか。このまま行けば荒野で行き倒れになってしまうように身を滅ぼしてしまうということが分かっていても、あきらめられないのです。そうした忠告に耳を傾けることはできないでしょうか。できます。なぜなら、皆さんはイエス様を信じているので、そうしたものに固執する必要はないからです。イエス様を信じる人には、神の聖霊が与えられているからです。聖書はこうあります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」(ガラテヤ5:16)

内なる戦いがあります。肉との戦いですね。この戦いに勝利するのは至難の業ですが、私たちはそれに勝利することができるのです。それは私たちの力によってではなく、神が与えてくださった御霊の力によってです。御霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させることはありません。私たちには負けるしかない運命の中にいるのではなく、それに勝つことができるように、神は御霊の力と逃れの道を備えていてくださるのです。

 Ⅱ.身勝手なイスラエル(26-28)

次に26~28節をご覧ください。「26 盗人が、見つかったときに恥を見るように、イスラエルの家も恥を見る。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも。27 彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。実に、彼らはわたしに背を向け、顔を向けない。それなのに、わざわいのときには「立って、私たちを救ってください」と言う。8 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか。」

今度は、盗人が見つかったときに恥を見るたとえです。私たちはよくテレビのニュースで窃盗犯が捕まって警察の車両で連行される場面を見ることがありますが、何ともみじめです。「ショーシャンクの空に」という映画の主人公のように、20年間もロックハンマーで刑務所の壁を掘り続け、ついに脱獄したというのならカッコいいのですが、それはあくまでも映画の話で、実際には不可能です。見つかって捕らえられ、恥を見ることになります。それと同じようにイスラエルも恥を見るようになるのです。

それは彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも同じです。彼らは木に向かって「あなたは私の父」と言い、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言います。それなのに、わざわいの時になると手のひらを返したかのように、主に向かって「立って、私たちを救ってください」と言うのです。

こういう人を、皆さんはどう思いますか。全く身勝手な人だと思いませんか。神様も同じです。28節には、神様が皮肉たっぷりにこう言われます。「では、あなたが造った神はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるではないか。」

あなたが造った神々に願ったらいいじゃないか、あなたの神々はどこにいるのか。彼らが立って救えばよい。しかし、そうした偶像があなたを救うことはできません。ここには、「ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか」とあります。日本にも八百万の神といって、八百万の神々がいると言われていますが、そうしたものがいざというとき、本当にあなたを助けてくれるでしょうか。あなたを救ってくれるでしょうか、そのことをよく考えなければなりません。

詩篇115篇4~8節にこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

おもしろいですね、偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえません。口があっても語れず、鼻があってもかぐことができません。手があってもさわれず、足があっても歩くことができないのです。そんな偶像を造り、それを拝むことにいったいどんな意味があるのでしょうか。全くありません。そうした偶像は何の役にも立たないのです。無益なのです。

しかし、まことの神は違います。まことの神は、あなたを救うことができます。まことの神は、あなたのためにご自分のいのちを捨ててあなたを救ってくださった方、私たちの主イエスです。この方は、あなたが困ったときにちゃんと助けてくださいます。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださった方が、それといっしょにすべてのものを与えてくださらないわけがありません。神はそれほどあなたを愛しておられるのです。この神が一番頼りになるのはいうまでもありません。この神を恐れ、この神を礼拝しなければなりません。

 Ⅲ.神と争うイスラエル(29-37))

 次に29~37節までをご覧ください。「29 なぜ、あなたがたはわたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしに背いてきた。-主のことば-30 わたしはあなたがたの子らを打ったが、無駄だった。彼らはその懲らしめを受け入れなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。31 あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。32 おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。33 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。そのようにして、あなたは悪い女にさえ、巧みに自分の方法を教えたのだ。34 あなたの裾に見つかるのは、咎なき貧しい人たちの、いのちの血。彼らが押し入るのを、あなたが見たわけでもないのに。しかも、これらすべてのことにもかかわらず、35 あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。36 あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリアによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。37 そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

 ここでは、イスラエルを反抗的な子どもの姿にたとえています。主は彼らに何度も警告を与え、彼らを打ったり、懲らしめたりしましたが、彼らはその懲らしめを全く受け入れませんでした。「打つ」とは、神が剣とか、もききん、疫病などでその民を罰することを指しています。また、「懲らしめ」とは、預言者たちの警告と神の処罰の両方を含むものです。しかし、彼らはこうした懲らしめを受け入れるどころか、神のことばを語った預言者たちを食い尽くしたのです。彼らは預言者が語る神の言葉を受け入れることができなかったので、食い尽くす獅子のように、預言者たちを食い尽くしました。

しかし、神様が彼らを打ったり、懲らしめたりしたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らを傷つけるためではありませんでした。それは、彼らを子として扱っておられたからです。へブル12章6~11節にこうあります。「6主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

しかし、イスラエルの民は受け入れることができませんでした。それで主は彼らにこう言われます。31節、「わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。」

「荒野」とか「暗黒」とは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷であった時のように、何の喜びもない、がんじがらめの生活のことです。イスラエルは、荒野から導き出してくださった神を忘れ、神ご自身が荒野であるかのように思い、または暗黒であるかのように錯覚して、元の状態に戻ろうとしていました。「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません。」と言って・・。悲しいですね。でも、実際にこのように考えて、信仰から離れ元の状態に戻ろうとする人もいます。

パウロはガラテヤ人への手紙の中でこう語っています。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)あなたは、クリスチャンになる前の生活に戻ろうとしていないでしょうか。ですから、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされることがないように注意しなければなりません。

さらにイスラエルの罪が糾弾されます。32節です。「おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。」

この「飾り物」とは、おとめがその身に飾る物です。日常生活において、「おとめがその身を飾るものを忘れる」ことはありえません。また、「花嫁の飾り物」とは、愛する人からの贈り物である花嫁の「晴れ着の帯」のことです。イスラエルは主の花嫁として美しい晴れ着もその帯も与えられていました。それほど主に愛されている存在であったのに、その主を忘れてしまいました。

33節では、辛辣な皮肉を込めて、情事の比喩によって、宗教的な民の無節操が取り上げられています。「愛を求める方法」とは、情事に誘い込む方法のことです。それは本当に巧みで、今では、悪い女、遊女にさえ、そのやり方を教えるほどになりました。

また、34~35節を見ると、彼らは、罪のない貧しい人たちの血を流してきました。自分が欲することを求めるあまりに、多くの人々が傷ついても、そんなのお構いなしで、何の罪意識も持つことはありませんでした。そしてこう言ったのです。「私は潔白だ」。確かに、御怒りは私から去った」と。」どういうことでしょうか。罪の自覚が全くありません。これは、ヨハネ9章41節でイエス様が指摘しておられることです。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」罪の自覚がないということは本当に恐ろしいことです。私には罪がない。それは神を偽りものとすることです。

その結果どうでしょう。36~37節をご覧ください。「あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリヤによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

アッシリヤとかエジプトといったこの世の力と手を組んで、人間的に解決しようとしても、何の良い結果も得られません。両手を頭に置いて出てくるとは、降参するということですが、結局、バビロンの前に屈服し、彼らの捕虜となります。バビロン捕囚のことです。アッシリヤに頼ろうと、エジプトに頼ろうと、これを避けることはできません。バビロンは確かにやって来ます。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたは滅びる。決して栄えることはない、というのです。この世に頼るならあなたは裏切られ、失望することになります。必ず失敗し失望します。それは昔も今も変わりません。この世に頼ろうとするならば、この世の力にすがろうとするならば、神以外のものに満たしを求めようとするならば、必ず失望することになります。しかし、主に信頼する者は、決して失望させられることはありません。

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れ物を洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばは、こうでした。

「私の人生は童話のように幸せでした。」

そうです、この彼とはアンデルセンのことです。アンデルセンはなぜこのように言うことができたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けてくださるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

正しい価値観は、状況や環境が変わっても、それでもなお、私たちに喜びや平安や希望を与えてくれます。これこそ、神が私たちに求めておられることです。神に立ち返りましょう。そして、神に信頼してください。そうすれば、神がイエス・キリストを通して、あなたと共にいて、あなたに真の喜びと平安を与えてくださるのです。

エレミヤ2章14~19節「いつも主を前に置いて」

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2022年1月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:エレミヤ書2章14~19節(エレミヤ書講解説教4回目)

タイトル:「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビデはいつも苦しみの中で主を呼び求め、主に叫びました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助け出されたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

マタイ2章1~12節「博士たちのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださったのです。

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いのことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)ここに、「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」とあります。「救い」といってもいろいろな救いがあります。金魚すくいもあればどじょう救いもある。でも、ここには「罪からお救いになる」とあります。

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧困の問題、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こりますね。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあると、聖書は言うのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は、口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の身に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。

ですから、この方を受け入れるならあなたの罪も赦され、神の子どもとして新しく生まれ変わり、天国に入れていただくことができるのです。聖書にこのように書かれてあるとおりです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

せっかくのクリスマスです。この機会にあなたもあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを、ぜひ信じて受け入れていただきたいと思います。

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

先ほど、新約聖書、マタイの福音書2章を読んでいただきました。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤという国を指しているのではないかと考えられています。また「博士」というのはギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉です。直訳すれば‟魔術師”となります。当時の社会においては天文学や星占いなどを通して、人の運命や世界の情勢について占う人々のことを指していました。ですから、新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しているのです。占星術、星占いの学者たちです。彼らは、星の動きを通して世界の行く末を見極める人たちでした。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

彼らは自分たちの国ではそれなりの立場や地位を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、神の民からは遠く離れていた異邦人たち、あるいは、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならば、ユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、自分たちの王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではなかった異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来るという、クリスマスの不思議な出来事が見られるのです。

どれほど遠く離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださる、ということです。救い主イエス・キリストを礼拝する道はだれにでも開かれているのです。それはあなたも例外ではありません。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主誕生の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていました。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くということをも意味していたのです。

だからこそ彼らは、礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の真っただ中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主、キリストを待ち望むなら、あなたの頭上にもクリスマスの星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので、礼拝するためにやって来たのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離、時間があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。彼らにとって決定的に大切だったことは、その星を見て、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、礼拝することだったのです。

一方、ヘロデ王はどうだったでしょうか。3節には、「これを聞いてヘロデは動揺した」とあります。エルサレム中の人々も同様でした。いったいなぜ彼らは動揺したのでしょうか。それは彼らの中に不安が生じたからです。ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのというであれば、自分たちの立場はどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思ったのです。

しかし、それだけではありません。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らが感じた不安というのは、もっと奥深いところにあるものでした。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、神を信じていない自分が、神の実在に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はどうなるのかということです。

人は死んだらどうなるのでしょうか。そんなこと死んでみないと分からないことなんだから、考えたってしょうがない。しかし、本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、そういう不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから人は自分なりに一生懸命にボランティアをしたり、貧しい人を助けたりするわけですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。確信がないのです。それに比べて彼らは、その星を礼拝するためにやって来ました。その方を信じることによって、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように書かれていたからです。

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。そんな気持ちなんてこれっぽっちもないのに、「見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と、あたかも自分が敬虔な者であるかのように装ったのです。形だけです。それは13節を見てもわかります。ヘロデは幼子を捜し出して殺そうとしていたのですから。

しかし博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行きました。9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、この上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。彼らは「なんだ、貧しい赤ん坊じゃないか」と言って落胆しませんでした。「チキンが出ると思ったのに期待はずれだ」とも言いませんでした。彼らはその星を見て、この上もなく喜び、ひれ伏して礼拝すると、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。黄金は、王なるキリストにふさわしい冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、私たちの贖い主として死なれるキリストを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

ところが、その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らこそクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

同じようにこの博士たちも、この方に最もふさわしい贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。

そういえば、皆さんは‟Christmas”という言葉の意味をご存知でしたか。クリスマスを英語で表記すると「Christmas」ですが、これはChrist(キリスト)、masは(ミサ、礼拝)という意味です。つまり、クリスマスとは、キリストの到来を祝う礼拝なのです。

ですから、クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということは、キリストの誕生の事実が、私たちの生活を動かすということなのです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、礼拝を捧げるということ、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へと帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもありました。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れたところから神のもとへと立ち返ることなのです。それが悔い改めるというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ神のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

それは、ここに「別の道から帰って行った」とありますけれども、そのことからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを意味していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まることだったのです。

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつもの慣れ親しんだ道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見て歩み続けるのです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝することになります。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものにしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

今はまだ無理です、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

Ⅱサムエル記23章

 Ⅱサムエル記23章に入ります。

 Ⅰ.ダビデの最後のことば(1-7)

 まず、1~7節をご覧ください。「1 これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。いと高き方によって上げられた者、ヤコブの神に油注がれた者の告げたことば。イスラエルの歌の歌い手。2 「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。3 イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。4 その者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ。』5 まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ。それは、すべてのことにおいて備えられ、また守られる。神は、私の救いと願いを、すべて育んでくださるではないか。6 よこしまな者たちはみな、根こそぎにされた茨のようだ。それらは手に取ることができない。7 彼らを打つ者はだれも、槍の刃や柄で武装する。彼らはその場で、火で焼き尽くされる。」」

「ダビデの最後のことば」とは、ダビデの遺言という意味ではなく、ダビデの最後の歌、最後の預言という意味です。ここでダビデは自分のことを次のように言っています。まず、「エッサイの子ダビデ」です。これは彼がどこから来たのかを示しています。彼は自分がエッサイという名もない家族から来たことをはっきり認識していました。

私たちも自分がどこから来たのかを知ることはとても大切なことです。それによって神の恵みにとどまることができるからです。エペソ2章1~3節には、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者です。それなのに神に、そんな私たちを罪の中から救ってくださいました。とすれば、それは一方的な神の恵みに他なりません。

パウロは自分のことを、「私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)と言いました。ですから「それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:10)と言うことができたのです。私たちも罪過と罪との中に死んでいた者であることを認識することによって、神の恵みをほめたたえるようになるのです。

次に、彼は「いと高き方によって上げられた者」です。彼はいと高き方によって大いなる名が与えられました。そして、「ヤコブの神に油注がれた者」です。彼はイスラエルの神によって王として油を注がれた者であるということです。さらにここでは「イスラエルの歌の歌い手」とあります。彼はイスラエルの神、主への賛美の歌を歌いました。詩篇150篇のうちの何と73篇までがダビデの作とされています。実際は、もっと多かったかもしれません。

こうしたダビデの歌は、どのようにして与えられたのでしょうか。2節には「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。」とあります。それは主の霊によって与えられたものでした。主の霊がダビデを通して語られたのです。ですから、そのことばがいつもダビテの舌の上にありました。このことは、聖書が神の霊感によって書かれたことを示しています。1ペテロ1:21に、「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」とある通りです。聖書は神の霊感によって書かれたものであり、聖霊によって動かされた人たちによって書かれたものであり、神のことばなのです。

その神のことばは、ダビデについて何と語られたでしょうか。3~4節には、「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。そのような者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ。」とあります。これはダビデ自身のことであり、また、ダビデの子孫とお生まれになる主イエスのことを預言していました。

何ゆえにダビデは、このような者になることができたのでしょうか。5節にはその理由が次のようにあります。「神が永遠の契約を私と立てられたからだ。」これはダビデ契約のことです。2サムエル7章11~13節に、主がダビデと永遠の契約を結ばれたことが記されてあります。「主があなたのために一つの家を造る、と。12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これはダビデから出る世継ぎの子によって、彼の王国を確立させるという約束です。これはその子ソロモンのことだけでなく、ずっと後になって出るキリストによる神の王国についての預言でした。主はこの契約にしたがって彼の救いを成し遂げ、彼の願いをかなえてくださったのです。主は本当に真実な方です。その語られた約束を必ず実現してくださいます。それゆえにダビデは、太陽が昇る朝日、雲一つない朝の光、雨の後に、地の若草を照らす光のような生涯を送ることができたのです。そして、それはダビデのように主に信頼して歩む私たちにも約束されていることです。

しかし、よこしまな者たちはそうではありません。よこしまな者たちは、茨のように投げ捨てられます。彼らは茨のようにとげを持っているので、手に取ることはできないので、主は、鉄や槍の柄で集め、ことごとく火で焼き尽くされるのです。

私たちも茨のようなとげある者です。しかし、主はそんなものを愛してくださり、キリストが与えてくださった永遠の契約によって、主が私たちのうちに救いの御業を完成してくださいます。パウロはピリピ1章6節で「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」と言っていますが、それは私たちの告白でもあります。私たちのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスが来られる日までに、それを完成してくださると確信し、信仰をもって主をほめたたえたいと思います。

 Ⅱ.ダビデの勇士たち(8-17)

次に8~17節までをご覧ください。まず12節までをお読みします。「8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。補佐官のかしら、タハクモニ人ヨシェブ・バシェベテ。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺した。9 彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士の一人であった。彼らがペリシテ人をそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。イスラエル人は退いたが、10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣にくっつくまでにペリシテ人を討った。主はその日、大勝利をもたらされた。兵たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。11 彼の次はアラル人アゲの子シャンマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆が豊かに実った一つの畑があった。兵はペリシテ人の前から逃げたが、12 彼はその畑の真ん中に踏みとどまってこれを守り、ペリシテ人を討った。主は大勝利をもたらされた。」

ダビデの王国が確立される背後には、ダビデを支えた勇士たち存在がありました。その筆頭に来るのが三勇士たちです。まず、ハタクモニ人ヨシェブ・バシェベテです。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺しました。

次に、アホアハ人ドドの子エルアザルです。彼はペリシテ人と戦った時、手が疲れて、手が剣にくっつくまでペリシテ人を討ちました。つまり、剣を握った手がそのまま剣にくっついてしまい、離れなくなるほど戦ったということです。彼はイスラエルに大勝利をもたらしました。残りの兵士たちは、分捕り物を取るだけで良かったのです。

彼の次はアラル人アゲの子シャンマです。彼は、ペリシテ人が隊をなして集まった時、味方の兵がペリシテ人の前から逃げても、ひとりレンズ豆の畑に踏みとどまってペリシテ人と戦い、彼らを打ち殺しました。彼もまた、主の勝利をもたらすために用いられたのです。この「踏みとどまって」というのがすごいですね。他の兵がペリシテ人の前から逃げても、彼は一人レンズ豆の畑に踏みとどまってそれを守り、ペリシテ人を打ち倒しました。自分の味方が敵の前から逃げて行ってたった一人になっても、逃げないでそこに踏みとどまる勇気が必要です。私たちはそんな主の勇士になりたいと思います。

次に、13~17節までをご覧ください。「13 三十人のかしらのうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷間に陣を敷いていた。14 そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の先陣はそのときベツレヘムにいた。15 ダビデは切に望んで、「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。16 三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、17 こう言った。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。」

この三人に関する興味深いエピソードが記録されてあります。それは、ダビデがサウル王から逃れて、アドラムの洞穴にいた時のことです。ダビデが「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが。」と言うと、この三勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持ってきたのです。それはいのちがけの行為でした。

するとダビデはそれを飲もうとせず、主の前に注いで、こう言いました。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」この三勇士は、ダビデのためにそのようなことまでしたのです。

彼らがしたことは、イエス・キリストの贖いのわざを思い起こさせます。彼らはダビデのためにいのちをかけて水を汲んできましたが、イエス・キリストは私たちのために文字通りいのちを捨てられました。主イエスは私たちに永遠のいのちの水を提供するために、十字架の上でご自分のいのちを投げ出してくださったのです。そのいのちの犠牲を無駄にしない唯一の方法は、主イエスを信じてこの方から永遠のいのちに至る水を飲むことです。日曜日の礼拝でもお話しましたが、私たちは祝福を求めるが、祝福の源泉を求めません。しかし、私たちに必要なのは、祝福の源泉である主イエスのもとに来て、そこから飲むことです。それこそ、私たちのためにいのちがけで成し遂げてくださった救いの御業に対する最もふさわしい応答なのです。

 Ⅲ.その他の勇士たち(18-39)

 最後に、18~39節までを見て終わります。まず18~23節までをご覧ください。「18 さて、ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイは三十人のかしらであった。彼は槍を振るって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。23:19 彼は三十人の中で最も誉れが高かったので、彼らの長になったが、あの三人には及ばなかった。20 エホヤダの子ベナヤは、カブツェエル出身で、多くの手柄を立てた力ある人であった。彼はモアブの英雄二人を打ち殺した。また、ある雪の日に、洞穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。21 彼はまた、例の堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。ベナヤは杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。22 エホヤダの子ベナヤはこれらのことをして、三勇士とともに名をあげた。23 彼はあの三十人の中でも最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

ここにはあの三勇士とは別の二人について記されてあります。一人はツェルヤの子ヨアブの兄アビシャイと、エホヤダの子ベナヤです。彼は、ダビデの側近として指揮を取っていました(20:6)。彼はダビデを助け、ペリシテ人との戦いで彼のいのちを救った勇士でした(21:17)。彼は槍を振るって三百人を刺し殺し、あの三勇士とともに名をあげましたが、あの三人の勇士には及びませんでした。

もう一人は、エホヤダの子ベナヤです。彼も多くの手柄を立てました。彼はモアブの英雄二人を打ち殺し、また、ある雪の日には、洞穴の中に降りて行って雄のライオンを打ち殺したりしました。いったい何のためにライオンと戦ったのかわかりませんが、それほどの怪力の持ち主であったということなのでしょう。

彼はまた、杖1本で、槍を持った大男のエジプト人に立ち向かい、相手から槍をもぎ取り、その槍で相手を殺しました。エホヤダもこのようなことをして、三勇士とともに名を挙げましたが、あの三人の勇士には及びませんでした。彼は後にソロモン王になったときに、軍団長に任じられています(Ⅰ列王2:35)

24節以下には、三十人の勇士たちの名前がリストアップされています。「24 ヨアブの兄弟アサエルは、例の三十人とともにいた。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。25 ハロデ人シャンマ。ハロデ人エリカ。26 ペレテ人ヘレツ。テコア人イケシュの子イラ。27 アナトテ人アビエゼル。フシャ人メブナイ。28 アホアハ人ツァルモン。ネトファ人マフライ。29 ネトファ人バアナの子ヘレブ。ベニヤミンのギブア出身のリバイの子イタイ。30 ピルアトン人ベナヤ。ガアシュの谷の出であるヒダイ。31 アルバト人アビ・アルボン。バルフム人アズマウェテ。32 シャアルビム人エルヤフバとヨナタン、ヤシェンの子たち。33 ハラル人シャンマ。アラル人シャラルの子アヒアム。34 マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。35 カルメル人ヘツライ。アラブ人パアライ。36 ツォバ出身のナタンの子イグアル。ガド人バニ。37 アンモン人ツェレク。ツェルヤの子ヨアブの道具持ち、ベエロテ人ナフライ。38 エテル人イラ。エテル人ガレブ。39 ヒッタイト人ウリヤ。合計三十七人。」

39節には、「三十人」ではなく「合計三十七人」とあります。でも実際にここに出てくる名前は三十二人です。ということは、合計三十七人というのは、先ほど出てきた3勇士と二人を加えた数ではないかと考えられます。しかし、24節には「三十人」とあるので、三十二人というのも多すぎます。もしかしたらこれは戦いの途中で死んだ勇士がいるので、その代わりに新たに二人が加えられたからかもしれません。ここには、すでに死んでしまった勇士が少なくとも二名、見つけることができます。一人は24節にあるヨアブの兄弟アサエルです。サウルの将軍アブネルをアサエルは追いかけているときに、アブネルは彼を突いて殺しました。そしてもう一人は、最後39節に出てくるウリヤです。ダビデ自身が、自分の罪を隠すために彼を殺しました。それで24節には「三十人」とありますが、これに新たに二人加えられて三十二人となったのではないかと思います。しかし、これが三十人であろうと、三十七人であろうと、大切なのは、ダビデの王国は、こうした勇士たちの貢献によって確立され、維持されていたということです。

これはイエスの王国、神の御国の建設においても言えることです。イエス様の回りにはペテロとヤコブとヨハネという三人の弟子たちを中核に、十二人の弟子たちがいました。そしてその周りには、さらに七十人の弟子たちがいました。こうした弟子たちの働きによって、神の国が築き上げられ、次の時代へと受け継がれて行ったのです。

それは私たちにも言えることです。御国の建設と拡大のためには、こうした勇士たちの働きが必要なのです。パウロはこう言っています。「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:4-5)

私たちにもそれぞれ、神から特別の使命と賜物が与えられています。それは御国の建設と拡大のためであって、自分の満足のためではありません。自分に与えられている賜物は何かを知り、御国の建設のために用いていただこうではありませんか。

エレミヤ2章1~13節「いのちの水の泉」

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 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。