今日は、列王記第一18章から学びます。
Ⅰ.主を深く恐れていたオバデヤ(1-15)
干ばつが始まって3年目に、アハブに会いに行くようにという主のことばが、エリヤにありました。それは「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らそう。」というものでした。それでエリヤは、アハブに会うためにサマリアに出かけて行きました。というのは、特にサマリアでの飢饉がひどかったからです。これは、主に敵対するアハブとイゼベルに向けられていたものだったのです。
アハブには宮廷長官でオバデヤという名の家臣がいました。彼は主を深く恐れていました。彼は、かつてアハブの妻イゼベルが主の預言者たちを殺したときに、百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養いました。飢饉のときに、百人分の食料を調達するのは容易なことではありません。それは信仰がなければできないことです。彼は主を深く恐れていたので、アハブに背いても主に従ったのです。
極悪な王アハブのもとで、北王国イスラエルがバアル礼拝へと向かっていた中でも、彼のように真実な信仰を持っていた人が残っていたということは驚きです。そして、神は今もこのような少数の者たちを残しておかれ、彼らを用いて、ご自身の御業を行っておられるのです。ですから、クリスチャンが少ないからと言ってがっかりしないでください。数が問題なのではありません。問題はそこにオバデヤのような神を恐れる真の神の民がいるかどうかということです。私たちの置かれている状況がどうであれ、私たちはいつも「私と、私の家とは主に仕える」という信仰に堅く立っていなければなりません。
アハブはオバデヤに言いました。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておくための牧草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」と。馬とらばは、戦いに必要な家畜です。ですから、何とかして家畜を絶やさないようにしたかったのです。それで、アハブとオバデヤは、国を分けてそれぞれ別の道を巡り歩くことにしました。その方が効率がよいからです。
7~15節をご覧ください。「7 オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」8 エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」9 すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。12 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。13 あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。14 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」
オバデヤが道を歩いていた時、エリヤが彼に会いにやって来ました。オバデヤはそれがエリヤだとすぐにわかったので、その場にひれ伏しました。彼はエリヤに、「あなたはわたしの主人エリヤではありませんか」と言いました。それは、エリヤに対する恐れと尊敬の表れでした。エリヤが預言したとおり干ばつが起こったことを知っていたオバデヤは、エリヤを恐れていたのです。
エリヤはオバデヤに、「そうです」と言うと、「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」と言いました。あなたの主人とはアハブ王のことです。
するとオバデヤは大いに恐れました。なぜ?エリヤが自分をアハブに渡し、殺すのではないかと思ったのです。どういうことかというと、これまでアハブはエリヤを殺そうといろいろなところに人を遣わして捜させましたが、「いない」と報告すると「本当か?」と言って誓いまで書かせていました。もし自分がそのエリヤがいることをアハブに報告している間にエリヤ本人がいなくなってしまったら、自分が殺されるのではないかと思ったのです。12節でオバデヤが言っていることはそういうことです。自分がアハブのところに報告にいっている間に、主の霊が彼をどこか知らないところに連れて行くことがあれば、私は殺されてしまうことになると言っています。エリヤは3年間アハブから逃れて隠れた生活をしていました。そのためエリヤは「主の霊」によって取り去られたのではないかという噂が広がっていたのです。そんなことが私の身に起こったら大変です。子どものころから主を信じ、主を恐れている自分にそのような悲劇があるとしたら、あまりにも理不尽です。
オバデヤは自分がしてきたことをエリヤに伝えます。13節です。「あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。」
彼がしたことは、主の預言者たちの間ではよく知られていました。当然、エリヤにも知らされていたはずです。彼はいのちがけで主の預言者をかくまい、彼らを養ったのです。そんな自分に災難が降りかかるようなことをしないでくださいとお願いしているのです。
するとエリヤは何と言ったでしょうか。15節をご覧ください。彼はこう言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」
エリヤは、自分のいのちを狙っているアハブの前に出ることは相当の恐れがあったと思いますが、彼が仕えている主は万軍の主であって、今も生きておられるお方であると信じていました。であれば、主は必ず守ってくださいます。その信仰をもって、今日、アハブの前に出ると言っているのです。どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。
エリヤは最初からこのような信仰を持っていたわけではありません。17章にあったことを思い出してください。彼はまずケレテ川のほとりに身を隠せと主から言われたのでそのようにすると、主は烏をもって彼を養ってくださいました。毎日、朝と晩に、肉とパンを運んできたのです。それから主はエリヤを、ツァレファテのやもめのところに遣わされました。このやもめは本当に貧しく、かめの中には一握りの粉と、壺の中にはほんの少しの油しか持っておらず、それを自分の息子のために調理して食べて、死のうとしていました。しかし、「主が血の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。」という主のことばを信じて従うと、そのことばの通りになりました。エリヤはこうしたケレテ川での体験や、ツァレファテのやもめの家での体験を通して信仰が強められ、揺るぎないものとなっていきました。それがこのことばの中に表れているのです。私たちも試練を通して練られ、強くされていきます。そうした苦難を通して信仰が養われていると信じ、神の御業を体験させていただきたいと思います。
Ⅱ.バアルとアシェラの預言者たちとの戦い(16-40)
次に、16~29節をご覧ください。「16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」
20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」
25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」
オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来ました。アハブはエリヤを見るやいなや、エリヤに言いました。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は」。アハブは、エリヤがイスラエルに災いをもたらしていると思っていたのです。
それに対してエリヤは何と言いましたか。エリヤはこう言いました。18節、「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている」。イスラエルに災いをもたらしているのは自分ではなく、アハブと彼の家族であると指摘し、彼らが主の命令を捨てて、バアルの神々に従っている結果だと告げたのです。
そこでエリヤは続けてこう言いました。「今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」(19)
どういうことですか。真の神はだれなのかということです。エリヤが信じている万軍の神、主なのか、それともバアルなのかということです。そのことをはっきりさせようではないかというのです。それをはっきりさせるために、バアルの預言者とアシェラの預言者をカルメル山にいる私の自分のところに集めよ、といったのです。巻末の地図をご覧ください。カルメル山は、イズレエル平原の北西にある地中海沿岸から南東に伸びる、標高およそ520メートルの山脈です。そこに450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を集めるようにというのです。この預言者の数によって、当時の北王国イスラエルにおけるバアル礼拝の規模がどれほどのものであったかを想像することができます。それは相当の規模でした。
ここに彼らの問題の真の原因がありました。北王国イスラエルの物質的問題も霊的問題も、すべて主を退けバアルやアシェラといった偶像を礼拝していたことにあったのです。私たちも、自分が直面している問題の真の原因はどこにあるのかを考えなければなりません。それらすべての問題の原因は、神を神としないで、偶像を礼拝していることにあります。あなたのバアルは何でしょうか。あなたのアシェラは何でしょうか。私たちはバアルやアシェラといった目に見える偶像を拝むことはしていないかもしれませんが、神以上に愛するものがあるなら、それがあなたの偶像なのです。神を神として認め、この神を第一として歩むなら、神があなたを祝福してくださいます。
昨日、「1対1弟子養育聖書研究」という本を学んでいたら、サタンは「この世」を通して私たちクリスチャンを攻撃してくるとありました。そこに次のようなケースが紹介されていました。
ある若い夫婦が熱心に主に仕えていましたが、急に教会に出席するのを止めました。その理由を探ってみると、彼らが一生懸命に貯めたお金で家を勝ってから、妻は家を飾ることに神経を使い、夫は車を買うお金を稼ぐために仕事により多くの時間と勢力を費やすようになったということです。家と車を買うこと自体は罪ではありませんが、彼らがそれらを神様よりもってと愛したので、ついにサタンの誘惑に負けてしまったのです。私たちはこのような試みにどのように対処すべきでしょうか。
私たちの心を攻撃するこの世の心配が、短い人生の中で比重を占めています。今日のような物質主義、消費主義の社会においては、もっとそうなります。町の中で豪華なレストランやお店などが私たちを誘惑します。また、高級乗用車などが私たちの関心を引きます。このような誘惑は神様に対する私たちの愛が冷え始めると、その空白の中に入って来ます。このような外敵な試みは逃げて解決できるものではありません。この世を通して入って来た試みはこの世から逃げるよりは、神様に対する自分の愛がどうであるかで決まります。そのためには、自分の敬虔の生活を顧みなければなりません。
20節をご覧ください。そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めました。カルメル山は、バアル礼拝の聖地です。つまり、バアル神の力が最も発揮される所と言っていいでしょう。そこが霊的戦いの場となりました。しかし、エリヤにとってそんなことは問題ではありませんでした。むしろ、カルメル山がそのような所だからこそ、バアルの預言者たちとの戦いには最適なところだと考えたのです。本当の神はどちらかが明らかになるからです。
エリヤはイスラエルの民、皆の前に進み出て何と言いましたか。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」(21)
イスラエルの民は、主なる神とバアルの間を揺れ動いていました。いつまでもどっちつかずによろめいていたのです。それはよいことではありません。もし主が神であるならば主に従い、バアルが神であるなら、バアルに従えばいい。どっちつかずにいることを「二心」と言います。ヤコブ1:8-9にあるように、そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は、歩むすべてにおいて心が定まっていないのです。どちらかに決めなければなりません。主に仕えるのか、バアルに仕えるのか。しかし、イスラエルの民は一言も答えることができませんでした。
そこで、エリヤは民に向かって言いました。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。」(22)1対450です。エリヤは、彼以外にも主の預言者がいたことを知っていましたが(18:13)、この戦いに関しては、彼一人でした。敵は450人もいました。人間的に見れば勝敗は決まっているかのようですが、エリヤは自分の仕えている神は万軍の主であって、生きておられる神であると信じていたので、ただ主に信頼して戦いました。
彼は、2頭の雄牛を全焼のいけにえために用意するように命じました。そして、相手に自分たちの気に入った牛を選ばせ、それを切り裂いて薪の上に乗せるようにと言いました。そして、それぞれの神の名を呼んで、その呼びかけに対して、火をもって答える神が真の神であるということでよいかを確かめると、民が「それがよい」と言いったので、いよいよここにバアルの預言者たちとエリヤとの戦いの幕が下されました。
エリヤはバアルの預言者たちから始めるようにと言いました。人数が多かったからです。そこで彼らは、自分たちが選んだ雄牛を取って、朝から真昼までバアルの名を呼びました。「バアルよ、私たちに答えてください。」と。バアルは、天から雨を降らせ、作物を実らせる豊穣の神です。また、天から稲妻を降らせる神でもあります。ですから、彼らは必死になって彼らの神、バアルの名を呼びました。この光景がよく聖書の紙芝居に描かれていますが、おもしろいですね。阿波踊りのような格好で自分たちが造った祭壇のあたりで踊り狂っています。でも結果はどうだったでしょうか。何の声もありませんでした。何の声もなく、答える者もありませんでした。
それを見ていたエリヤは彼らを嘲って言いました。「もっと大きな声で読んでみたらどうか」「彼は神なのだから、呼べばきっと答えてくれるはずだ」。「もしかすると何かに没頭しているのかもしれない。旅に出ているのかな。もしかすると寝ているのかもしれない。」「だから、もっと大きな声で叫んで起こした方がいいんじゃないか」。
それで彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちのからだに傷つけたりしました。しかし、それでも何の声もなく、答える者もなく、注目する者もありませんでした。バアルには実体がないからです。偶像礼拝とは、実体のないものを神として礼拝しているだけのことです。それはただ森から切り出された木や石に、金箔とか、銀箔を塗っただけのものにすぎません。中身がないのです。ですから、どんなに叫んでも聞かれることはありません。空の空、すべては空です。偶像を拝む者もこれと同じです。それは空しいだけなのです。
それに対して、エリヤはどうしたでしょうか。30~40節をご覧ください。「30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた主の祭壇を築き直した。31 エリヤは、主がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。32 その石で、彼は主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。
36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」38 すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。39 民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」
エリヤは、すべての民を呼び寄せると、まず壊れていた主の祭壇を築き直しました。主の祭壇が破壊されたというのは、彼らの信仰が崩れていたことを表しています。北王国イスラエルは、主からも、主との契約からも、遠く離れた状態にありました。それをまず立て直さなければならなかったのです。すべては主の祭壇を立て直すことから始めなければなりません。それが個人であっても、教会であっても、また国であっても、私たちは壊れた祭壇を立て直すことから始めなければならないのです。あなたの祭壇は壊れていませんか。あなたの心の祭壇を建て直し、主との関係を再建することから始めなければなりません。
次に彼は「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって12の石を取りました。これはイスラエル12部族を象徴していました。その石で彼は、主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、2セアの種が入るほどの溝を掘りました。2セアとは、1セアが7.6リットルですから、約15リットルとなります。それほどの水が入る溝を掘ったのです。なぜでしょうか。次のところを見るとわかりますが、これから祭壇に注ごうとしている水が流れ出さないようにするためです。
それからエリヤは薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に乗せると、四つのかめに水を満たし「この全焼のささげものと薪の上に注げ。」と命じました。干ばつが3年以上も続く中、いったいどこからこの水を汲んできたのでしょうか。おそらく、カルメル山の麓のどこかに枯れていなかった泉が残っていたのでしょう。その水を全焼のいけにえと薪の上に3度も注いだのは、これから起こることがトリックではなく、神の御業であることを示すためでした。そのことばの通り3度水を注ぐと、周囲に掘られた溝に水が流れ出しました。エリヤは溝にも水を満たしました。それは絶対にトリックなどではないことを示すためです。
ささげ物をささげるころになると、エリヤは進み出て祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
エリヤはどのように祈ったでしょうか。エリヤは、バアルの預言者のようにやみくもに祈ったり、何度も同じことばを繰り返したりはしませんでした。彼はまず、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と呼びました。これは、イスラエルの神は契約の神であるということです。つまり、このことが神のみことばの約束に基づいて行われたことであると訴えているのです。次に彼は、主がこの祈りに応えてくださることによって、神の民であるイスラエルが主こそ神であることを知ることができるように、また、その心を翻してくださるようにと祈りました。
その結果はどうだったでしょうか。38~39節をご覧ください。「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」
すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、何と溝の水もなめ尽くしました。主が勝利したということです。民はこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。民はようやく、主だけが真の神であることを認識したのです。
私たちの誰もが、エリヤが体験したような奇跡を体験するわけではありません。しかし、日々の生活において、神はこのような奇跡を行っておられます。何よりも私たちの存在と生き方がそうなのではないでしょうか。
先週、那須で88歳と83歳の御夫妻が洗礼を受けられましたが、それは東京に住んでおられる一人娘さんの生き方に深く感動してのことでした。鬱で寝たきりの御主人を真心を込めて介護する力は、主イエスを信じる信仰から出ているということを、その姿から伝わってきました。
まことに私たちは取るになりない小さな者ですが、このような小さな者を通して成される主の御業を通して、それを見る人たちが「主こそ神です。主こそ神です。」と告白することができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。
Ⅲ.福音のためなら何でする(41-46)
最後に、41~46節をご覧ください。「41 エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」42 そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。」
「上って行って」とは、カルメル山の山頂に上って行ってということではありません。自分の宿営地に帰って行ってということです。そこで食べてり、飲んだりするようにということです。なぜなら、激しい大雨の音がするからです。干ばつが終わり、もうすぐ雨が降るからということです。だから宴会を開いてお祝いするようにというのです。
すると、アハブは食べたり飲んだりするために上って行きました。彼には悔い改めも霊的洞察力もなく、ただ現状を見てホッとしたのです。何事もなかったかのように振る舞いました。
すると、エリヤはカルメル山の頂上に上り、地にひざまずいて祈りました。「自分の顔を膝の間にうずめる」とは、彼の祈りが真剣なものであったことを表しています。そして若い者に言いました。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」
若い者は上って行って見ましたが、何も見えなかったので「何もありません」と言うと、エリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返しました。そして七回目に上って行ったとき、人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上ってくるのが見えました。するとエリヤはその若者に、アハブにこう伝えるように言いました。「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。」どういうことでしょうか。
エリヤは、手のひらほどの小さな雲が、やがて大雨に変わることを知っていました。それは、そのように前もって知らされていたからです。しかし、ただ知らされていただけでなく、彼が祈っていたからです。エリヤはずっと祈っていたので、それがどういうことなのかを悟ることができたのです。
それは私たちにも言えることです。私たちも祈っていなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。しかし、エリヤのように祈り求めていると、確かに約束がかなえられていることを悟ることができるのです。たとえそれが小さな兆候でも。小さな始まりを軽んじてはいけません。
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい雨になりました。アハブは、その雨の中戦車に乗って、イズレエルへ行きました。それはカルメル山とイズレエル平原の間に、彼が冬を過ごす宮殿があったからです。すると主の手がエリヤに下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行きました。どういうことでしょうか。カルメル山からイズレエルの入り口までは、約35~40㎞あります。その距離を走り続けるというのは並大抵のことではありません。それは、主から超自然的な力が与えられていなければできなかったことです。エリヤは主の力をいただいて、アハブの車の前を走り続けました。何とかしてアハブを主に立ち返らせようと思ったからです。エリヤは背教の王を主に立ち返らせるために何でもしようと思ったのです。それで、アハブの車の前を35㎞も走ったのです。
このエリヤの姿から、主のしもべとはどのような者なのかを教えられます。彼の行動はすべて福音のため、主の栄光のためでした。主の栄光のために彼は、バアルとアシェラの預言者たちと戦い、主の栄光のために祈りました。主の栄光のためにアハブ王の車の前を何十キロと走り続けました。それは私たちも同じです。福音のためなら何でもするという決意で、ただ主の栄光が現わされることを求めなければなりません。ピリピ1:21で、パウロはこう言っています。「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」これがパウロの生き方でした。生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。私たちも、私たちの身をもって、ただキリストの栄光が現わされることをひたすら求めて歩もうではありませんか。