エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。
結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。
Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)
まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」
再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)
この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。
「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」
これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。
しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。
それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。
私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。
そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。
この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。
その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。
そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。
その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。
それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。
あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。
Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)
それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」
「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。
7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。
いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」
皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」
8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」
しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。
Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)
では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」
6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。
この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)
律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。
これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)
したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。
では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。
でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。
大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。
しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。