エレミヤ18章1~12節「陶器師の手の中で」

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エレミヤ書18章に入ります。きょうは、18章前半から「陶器師の手の中で」でというタイトルでお話したいと思います。聖書には、神様とイスラエル、あるいは神様と私たちの関係がいろいろなたとえで表現されています。たとえば、「羊飼いと羊」とか、「ぶどうの木とその枝」、「夫と妻」、「花婿と花嫁」などです。きょうの箇所では、陶器師と粘土のたとえで表現されています。陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まります。そして陶器師の手によってその器は完成へと導かれていくわけです。
  17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている」とありました。それは癒しがたい、変えられないと。しかし、陶器師であられる神様はそんな心さえも変えることがおできになります。ただの土くれ、粘土にすぎない私たちは、陶器師であられる主の御手の中でへりくだり、砕かれ、練られ、火の中を通るというプロセスを通って、主の似姿に変えられていくのです。

Ⅰ.ろくろで仕事をする陶器師(1-3)

 まず、1~3節をご覧ください。「1 主からエレミヤに、このようなことばがあった。2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。」

エレミヤに主のことばがありました。それは、立って、陶器師の家に下れ、というものでした。そこで主はエレミヤにご自身のことばを聞かせる、と。皆さんは、陶器師がろくろの上で粘土をこねるというか、その粘土のかたまりから器を作るのを見たことがありますか。よくテレビで見ることがありますが、実に興味深いですね。まるでマジックを見ているかのようです。エレミヤの時代、陶器作りは日常生活の一部になっていました。ですから、エレミヤが陶器師の家で見たことや彼が語るメッセージは、当時のイスラエルの人たちもよく理解することができました。

彼が陶器師の家に下って行ったとき、そこで見たものは何でしょうか。それは、陶器師がろくろで仕事をしている姿でした。陶器師は遊んでいたわけではありません。ろくろの上で泥遊びをしていたわけではないんです。ちゃんと仕事をしていました。陶器を作っていたのです。何の器かはわかりませんが、陶器師が気に入るものを作っていました。この陶器師は父なる神様のことを表しています。そしてこの器とは、私たち人間のことを表しています。つまり、私たちは陶器師であられる神の御手によって作られる神の作品であるということです。
  エペソ2章10節を開いてください。ここにはこうあります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
  私たちは神の作品です。神は愛をもって、また目的をもって私たち一人一人を作ってくださいました。この「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイーマ」という言葉ですが、これは「ポエム」の語源になった言葉です。皆さんもポエムをご存知でしょう。「詩」ですね。でも、元々この「ポイーマ」は、芸術作品全般を指していました。詩のポエムもそうですし、美しい陶器もそうです。絵とか音楽といったものも含めて、そうした芸術作品全般がこのポイーマという言葉で表されていたのです。私たちは神のポイーマです。神によって造られた神の作品なのです。しかも、それは世界にたった一つしかない芸術作品、最高傑作品です。誰が何と言おうと、人がどのように見ようと、また、自分が自分のことをどう思おうと、私たちは神によって造られた最高の芸術作品なのです。

旧約聖書のイザヤ書の中にはこうあります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(64:7)ここには、私たちは父なる神様の御手のわざだと言われています。その神様の御手による作品であるがゆえに、私たちは皆、神様にとってはかけがえのない価値のある芸術作品であると言えるのです。

 ですから、イザヤ書43章4節ではこう言われているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様の目には、私たちは高価で尊い。価値のある、尊い存在なのです。なぜ?なぜなら、私たちはその神の御手をもって、愛を込めて造られたものだからです。人間の物差しで見たらどのように思われるかわかりませんが、神様の物差しで見れば、私たちは皆、一人ひとり、神様のお気に入りの自慢の作品なのです。なぜなら、私たちは神によって創られた神の作品だからです。あなたは神の自慢の作品なんです。

では、神様はどのようにして作品を造られたのでしょうか。ここには、「私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところであった」とあります。彼は「ろくろ」で仕事をしていました。皆さんはろくろを見たことがありますか。ろくろとは、回転可能な円形の台のことです。2枚の石を木の軸で支え、下の石をコロコロ回すと上の石が連動して回る仕組みになっています。その上の石の部分にこねた粘土を置いて、それを水に濡らした手で陶器師が思いのままに形にしていくのです。粘土はその上でぐるぐる 回ります。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しです。そのようにして粘土はバランスのとれた形に仕上がって行くのです。これは私たちの日々の生活のこをたとえています。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で神の御手によって神のみこころにあったものとして形作られていくのです。毎日毎日同じことの繰り返しです。でもそこで私たちは神様の取り扱いを受けるのです。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で時には指で押されたり、手のひらでグッと押し付けられることがあります。水をかけられて散々こねくり回されるようなことがあるわけです。そういう状況が続くと、キツイな、苦しいな、もう嫌だなあと、そこから逃げ出したくなったりしますが、ろくろがずっと回っているので逃げることができません。それでもあまりにも苦しくなるともう嫌だ、もうたくさんです、もうこりごりですと、ろくろから飛び降りたくなります。あの「泳げたい焼きくん」のように。皆さん、「泳げたい焼きくん」ご存知ですか。
  毎日毎日鉄板の上で焼かれて嫌になったたい焼きくんは、ある朝、店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました。初めて泳いだ海の底は とっても気持ちがいいもんでした。お腹のアンコは重いけど、海は広いぜ、心が弾む!桃色サンゴが手を振って、彼の泳ぎをながめていました。
 でも、泳げたい焼きくんはどうなましたか? 一日泳げば腹ペコになって 目玉もクルクル回ってしまい たまにはエビでも食わなきゃと 岩場の陰から食いいたてみたら、それは小さな釣り針だったのです。どんなにどんなにもがいても、針がのどから取れません。浜辺で見知らぬおじさんが、たい焼きくんを釣り上げてびっくりしていました。それで彼は思うんです。やっぱりぼくはたい焼きさ。少し焦げあるたい焼きさ おじさんつばを吞み込んで、ぼくをうまそうに食べてしまいました。

粘土も同じです。もう嫌だ、もうたくさんだとそこから飛び降りると、地面に落ちてペチャンコになってしまいます。もうそこから動けなくなってしまうのです。全く惨めです。すると嘆くわけですね。「助けてください」と。すると陶器師はその粘土をかき集め、再び丸めてろくろの上に乗せてこねくり回わします。すると粘土はまた嫌になって、もうこりごりです、もう耐えられません、そう言ってまたジャンプするわけです。すると地面に落ちてペチャンコになって動けなくなってしまう。それで「助けてください」と叫ぶと、また陶器師がやってきて黙ってそれを拾い上げ、再びろくろの上に乗せてこねくり回します。その繰り返しです。これが私たちクリスチャンの生活です。そのようにして神様はご自身の作品を作ってくださるのです。神様は私たちをシェイプアップしようとしてろくろでこねくり回すと、私たちはそれに耐えきれなくなってギブアップし、地面に落ちてペチャンコになります。すると主がそれをピックアップして再びろくろの上に置いてシェイプアップしてくださる。その連続です。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。その繰り返しです。これが、神様が私たちをご自身の作品に作り上げてくださる方法なのです。そうやって神様は私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。だから、ろくろから逃げてはいけないのです。逃げたらたい焼きくんになってしまいます。逃げたらペチャンコになってしまう。ろくろの上でこねくり回さることは時には辛いこともありますが、陶器師の手にゆだねることで、あなたは美しい器に造り上げていただくことができるのです。

Ⅱ.陶器師の手にゆだねて(4-6)

次に、4~6節をご覧ください。「4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主のことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

エレミヤは、陶器師の家に行き陶器師がろくろで仕事をしているのを見ました。すると、陶器師が粘土で製作していた器は陶器師の気に入らなかったようで、すぐにそれを壊し、自分の気に入るほかの器に作り替えました。どういうことでしょうか。陶器師は粘土に対して絶対的な権威を持っているということです。陶器師は、自分が好きなようにその粘土を取り扱うことができるということです。形も、大きさも、デザインも、陶器師が好きなように自由に作り、気に入らなければそれを壊して別のものに作り替えることができるのです。自分の意のままに何でもすることができます。これを何というかというと、「主権」と言います。神の主権は、神が絶対的な主権をもってご自身が好きなようにできるということです。神にはそのような権利と自由があるのです。それが6節で言われていることです。

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主ことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家は主の御手の中にあります。陶器師は自分で好きなように壊したり、作り替えたりすることができます。でもそうされたからと言って粘土には何も文句を言う権利はありません。粘土はあくまでも陶器師の手の中にあり、陶器師の意のままに形作られるものだからです。それなのに、土くれにすぎない粘土が造り主である陶器師に文句を言うことがあります。たとえば、イザヤ45章9節にはこうあります。「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。」。
  陶器は土の器の一つにすぎないのに、不遜にも形造る方、陶器師に抗議することがあるのです。「何を作るのか」とか、「あなたは自分のやっていることが全然わかっていない」とかと。粘土がそれを形造る陶器師に向かってそう言うのです。わかっていないのは粘土の方なのに、その粘土が自分を形造る方に向かって「どうしてこんなところに手をつけるのか」とか、「センスが悪い」とかと言うのです。どうしてこんなところに手を付けるのかって、それは陶器師がそうしたいからしているのであって、それは陶器師の自由であるはずです。陶器師にはその権利があるのです。それにイチイチ文句をつける方がおかしいのです。

パウロはこれをローマ9章18~21節で引用してこう言っています。「18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」
  神は人をみこころのままにあわれみ、またみここころのままに頑なにされます。ここではエジプトの王ファラオのことを言っていますが、神には人をみこころのままにあわれんだり、頑なにされます。そのような権利を持っていらっしゃるのです。神は主権者であって、だれもこの神の意図に逆らうことはできません。私たちにできることは、その神の主権を認めるということだけです。
  それは陶器師と粘土にも言えることであって、陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いものに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっておられます。花瓶であろうと尿瓶(しびん)であろうと、食器であろうと便器であろうと、陶器師は自分の好きなものを造る権利を持っているのです。それに対して「私は尿瓶は嫌だ、花瓶がいい」とか、「便器は毎日使うので役に立つけど、どうせ毎日使うものなら食器の方がいい」とか、そう言う権利はないのです。その権利を持っているのは造られる方、陶器師だけです。

それなのに、そのように文句を言ったり不満を垂らしたりすることがあるとしたら、それは自分の立場を忘れているということです。いつの間にか自分が陶器師であるかのように錯覚しているのです。自分が神様であるかのように思い込んでいることがあります。自分の人生は自分のものだと、だから花瓶になってなんで悪いんだと。食器になったっていいじゃないかと主張するんですね。そういうのを何と言うかというと、「主客(しゅかく)転倒(てんとう)」と言います。主客転倒とは、主人と客のあるべき立場が入れ替わり、あべこべになることです。 そこから転じて、人や物事の立場、順序が逆転することを言います。私たちが主ではありません。私たちはただの土くれ、粘土にすぎません。陶器師ではないのです。その身分相応の立場をわきまえなければなりません。私たちはただの粘土で踏みにじられて当然の者、捨てられて当然の者、無価値だと言われて当然の者なのです。でも驚くべきことに、そんな無価値な私たちを、この陶器師が名器に作り替えてくれます。測り知れない価値ある者に作り替えてくれるのです。だから、その神の主権を認め、神がなさりたいように自由になさっていただく。これがベストです。

言い換えると、これは「みこころのままに」ということです。みこころがなりますようにという祈りです。私たちはそう祈っていますよね。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈りの一節です。実は、これが究極の祈りです。すべての祈りがこれに至ります。みこころがなりますように。これが祈りのすべてと言っても過言ではありません。神の主権を認めるとは、まさにみこころがなりますようにと祈ることなのです。神の主権を認め、神がなさりたいようになさっていただく。「主よ、私はまな板の鯉です。主よ、あなたが望まれるように如何様にもしてください。あなたにすべてをお任せします。」これが、私たちに求められていることなのです。

それは6節を見てもわかります。ここには「イスラエルの家よ」ということばが2回繰り返して使われています。繰り返しているということは、これが強調されているということです。皆さん、「イスラエル」って何ですか。イスラエルとは、神に支配された者、神に治められた者という意味です。神を支配する者ではありません。神に支配される者です。神が主権者だから、当然神が治められるわけです。このような者のことを「イスラエル」というのです。神が主権者であることを認める人たち。神が王であることを認める人たち。神が陶器師であることを認める人たち。それがイスラエルです。それがクリスチャンです。このイスラエルが粘土であるように、霊的イスラエルである私たちクリスチャンも粘土にすぎません。それをどのように作るのかは、主権者であられる神だけが知っていることであって、私たちがとやかく言うことではないのです。確かに先が見えないと不安になります。でも、この陶器師がどのような方であるかを知れば、あなたは安心してこの方にすべてをゆだねることができるでしょう。この方はあなたのためにいのちを捨ててくださった救い主であられるのですから。それほどまでにあなたを愛してくださいました。この方があなたのためにひどいことをされるでしょうか。されません。この方はあなたのために最善を成してくださいます。そう信じて、みこころのままにと、すべてを陶器師なる神さまの御手におゆだねしようではありませんか。

Ⅲ.思い直される神(7-12)

ですから第三のことは、陶器師であられる主の御手の中で、あなたも新しく作り替えていただきましょうということです。7~12節をご覧ください。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。11 さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』12 しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

これが陶器師と粘土のたとえを通して主が伝えたかった結論です。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
  主は一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったことを思い直すこともおできになります。これは1章10節で既にエレミヤに告げられたことです。主権者であられる主は、イスラエルを如何様にも取り扱うことができるということです。主はイスラエルに下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われました。主は頑なで悔い改めない南ユダの人々に、神のさばきを宣告されました。それはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。バビロン捕囚ですね。それでも彼らが悔い改めるなら、主はそのわざわいを思い直されるのです。ここにはそのための条件が示されています。何でしょうか?「その民が立ち返るなら」です。もし、主がわざわいを予告したその民が立ち返るなら、主は下そうと思っていたわざわいを思い直されるのです。

この「思い直す」ということばは、ヘブル語で「ナハム」ということばですが、これは「悔い改める」という意味のことばです。でも神が悔い改めるというのは意味が通らないので「思い直す」としたのです。新共同訳では「思いとどまる」と訳しています。神は下そうと思っていたわざわいを思い直してくださいます。どういうことでしょうか。粘土は陶器師を変えることはできませんが、陶器師は粘土を作り替えることができるということです。下そうと思っていたわざわいを思い直すことができるのです。ここで問題になっていたのは何かというと、17章9節で言われていたことです。そこには、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とありました。人の心は何よりも陰険なのです。だれもそれを作り替えることはできません。でも、陶器師であられる神は替えることかできます。イスラエルが神に立ち返るなら、陶器師であられる神はイスラエルを全く別のものに作り替えることができるのです。

しかし、残念ながら彼らは神に立ち返りませんでした。彼らは自分の計画に従って歩み、それぞれ頑なで心のままに行いました。まさに主客転倒だったのです。自らが神であるかのように思い込んでいました。自分が望むことは何でもできると思っていた。それゆえ、彼らに神のわざわいが下ることになります。具体的にはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。でも、彼らが主に立ち返るなら、主は彼らの心を変え、下そうと思っていたわざわいを思い直すことができました。全く新しいものに作り変えていただくことができたのです。

それは、人にはできないことです。人の心は何よりも陰険だからです。何よりもねじ曲がっています。それは癒しがたいものです。しかし、神にはどんなことでもできます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造り変えられます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

以前、フレミング先生がメッセージの中で金継(きんつ)ぎの話をされました。何の話だったかよく覚えていませんが、PPTで見せてくれた金継ぎの写真を忘れることができません。

写真は違いますが、このような写真でした。「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法です。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。陶磁器が割れたり、ヒビが入ってしまうと、もう修復不可能だと思えますが、そんな器でも、神は修復してくださるだけでなく、もっとすばらしい器へ作り変えることができるのです。

ですから、神に立ち返りましょう。あなたが神に立ち返るなら、神は下そうと思っていたわざわいを思い直されるばかりか、金継ぎされた器のように、さらに美しい価値ある器に替えていただくことができるのです。

Ⅱコリント4章7節には、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器に過ぎない私たちの内に、宝なるキリストが住まわれるとき、この測り知れない神の力があなたの心に働かれ、あなたは全く新しい者に変えられます。キリストの御霊、神の聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り取ったり、また逆に霊的に必要なものを与えたりして、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。

ですから、陶器師であられる主のもとに立ち返りましょう。粘土であるあなたは、自分では何もすることができません。でもあなたが陶器師であられる神に立ち返り、神の主権を認め、神の御手に完全にゆだねるなら、あなたの中におられる宝が、あなたを全く新しい者へと変えてくださるのです。

最後に、もう一度イザヤ書64章8節を読んで終わります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
  私たちは粘土で、私たちの主は陶器師です。私たちはこの陶器師の手の中にあります。陶器師であられる主が、私たちをキリストの似姿に変えてくださるように、陶器師なる主にすべてをおゆだねしたいと思います。

エレミヤ17章11~27節「主を見上げて」

先週からエレミヤ書17章に入りました。きょうは後半の箇所から「主見上げて」というタイトルでお話します。きょうのところでエレミヤは、13節で「イスラエルの望みである主よ」と告白しています。また、14節では「あなたこそ、私の賛美だからです」と言っています。さらに17節でも「あなたは、わざわいの日の、私の避け所です」と告白しています。エレミヤは神の預言者として神のことばを語ったことでユダの民から(さげす)まれ、激しい痛みと孤独に(さいな)まれていました。そのような中で彼は主を見上げ、信仰の目をもって、真の希望がどこから来るのかをしっかり見ていたのです。
  それは私たちも同じです。私たちもクリスチャンとして生きることは、必ずしも楽なことではありません。時にエレミヤのように孤独とか不安に(さいな)まれることがあります。でも、そのような中にあっても信仰をもって主を見上げるなら真の希望が与えられ、それを克服することができます。肺に酸素が必要なように、私たちのたましいにも希望が必要なのです。希望の灯が消えると、私たちのたましいも死んでしまいます。ですから、主を見上げて、主が与えてくださる希望をしっかりと受け止めなければなりません。

Ⅰ.主はイスラエルの望み(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」」

ここに、いきなり「しゃこ」が出てきます。「しゃこ」とは鳥のことです。キジ科の鳥で、日本のキジと(うずら)の中間くらいの大きさの鳥です。あまり飛ぶことはしません。地面を走り回るといった感じです。寿司ネタのしゃこではありません。あるいは、世界最大の二枚貝の「シャコ」でもありません。もちろん、車の車庫でもありません。鳥のしゃこです。かわいいですね、しゃこちゃん。これはなかなか身近にいない鳥なのでピンとこないかもしれませんが、ここでは、公正によらないで富を得る者のたとえで用いられています。すなわち、不正に富を集めた人が、自分の産まなかった卵を抱く「しゃこ」にたとえられているのです。この「しゃこ」の特性が、不正に富を集める人に似ていんのです。その末路はどうなりますか。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、離れ去ることになります。つまり、孵化した雛が偽の親鳥から離れて行くように、不正な方法で蓄えた財も、突然その人の手からすり落ちてしまうことになります。それはまことに愚かなことです。

いったいどうしてここにいきなり富の話、お金の話が出てくるのでしょうか。前回のところには、人に信頼する者はのろわれる。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は、とありましたが、それとこのしゃこの話がどういう関係があるのかピンときません。実は、ここで言わんとしていることは、お金に対する価値観や考え方がその人の祝福を決めるということです。財政が霊性を表しているということです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とある通り、金銭を愛することは愚かです。それは前回の言葉で言うなら、まさに人間に信頼する者です。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者です。そのような者は荒れ地の灌木、幸せが訪れても出会うことがなく、焼けついた荒地、住む者のいない塩地に住むようになります。

私が何歳の頃だったかよく覚えていませんが、たぶん3歳か4歳か5歳の頃、まだ小さくて可愛い頃のことです。母と道を渡ろうと信号に止まっていたとき、そこに千円札が落ちているのを見つけました。どうするのかなぁと思って見ていたら、母の行動は素早かったですね。その千円札をさっと拾うと自分のエプロンのポケットに入れたのです。そして、私にこう言いました。「いいがい、トミちゃん、お金がすべてだがんない」今でもよく覚えています。あの光景を。忘れることができません。それ以来、私はずっとお金がすべてだと思って生きてきました。
  それは母に限ったことではありません。それは、この世の一般的な価値観です。すべての物事を、お金を基準に判断しています。その結果、しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得ようとするということが起こってくるのです。問題は富を持つことではなく、富に執着することです。それは愚か者に終わると聖書は言うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。12~13節をご覧ください。「12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

私たちは、初めから高く上げられた栄光の王座を見なければなりません。そこには、イスラエルの望みである方がおられます。その方を見上げなければなりません。そこに希望があるからです。
  エレミヤはここで、信仰の目を上げて、真の希望がどこから来るのかを確認しています。そして、神殿があるエルサレムこそ、神の栄光が宿る王座だ、と言いました。そして、主こそイスラエルの望みであると告白したのです。この主を捨てる者は、みな恥を見ます。この主から離れるなら、希望は残されていません。でも、主に信頼する者は恥を見ることはありません。失望することはないのです。こうやって見ると、ここも前回の箇所とつながっていることがわかります。

パウロはコロサイ3章2節でこう言っています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」上にあるものを求めなさい。地にあるものを求めてはならないと。なぜですか。そこにはよみがえられたキリストが神の右の座に着いておられるからです。このキリストこそ真の希望であられるお方だからです。キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだに復活することになります。これこそが究極の望みのです。この望みがあるなら、この地上のどんな問題も乗り越えることができます。

あなたが見ている所はどこですか。この地上にあるものでしょうか。それとも上にあるものですか。上にあるもの、イスラエルの望みである主を見上げましょう。真の希望はそこから来るからです。

Ⅱ.主はイスラエルの賛美(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。「14 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15 ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』16 しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。18 私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」」

これはエレミヤの祈りです。エレミヤはここで三つのことを祈っています。第一に彼は、心が癒されることを願いました。14節には、「私を癒してください。主よ。そうすれば、私は癒されます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」とあります。ということは、彼はこの時ピンチの状態に置かれていたということです。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムが滅びることを預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。15節には、そんなエレミヤに対する彼らの嘲りのことばが記されてあります。「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」これは、彼らの嘲りのことばです。結果的に、エレミヤの預言が実現するのは、この時から約40年後のことです。その間、彼はどんなに苦しかったか。16節で彼は、「しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。」と言っています。彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたので語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に「癒してください」、「救ってくださいと」と祈ったのです。

でもここで重要なのは、なぜエレミヤはそのように祈ったのかということです。その理由なり、目的です。それが14節の最後のところにあります。ここには、「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤがそのように祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

私たちも同じように祈らなければなりません。「主よ、私を癒してください。」何のためですか?それによって主がほめたたえられるためです。主こそ、私の賛美だからです。
  「私を救ってください。そうすれば、私は救われます。」何のためですか。もうこんな生活は嫌だから、こんな状態には耐えられないからではなく、そのことによって、主の御名があがめられるためです。主が私の賛美となるためです。
  すばらしですね。皆さん、考えたことがありますか。私の癒し、私の救い、私の願い、それを通して主が崇められるようになるということを。そのことを通して主が賛美されるようになることを。私たちの祈りのすべては、主の御名があがめられるようになるためなのです。まさに主の祈りの中にある「御名があがめられるように」です。それがすべての動機とならなければなりません。それこそ、みこころにかなった祈りだと言えるでしょう。これをすべての祈りの中心にしたいですね。

第二に、エレミヤは「私を恐れさせないでください。」と祈りました。17節です。ここには、「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」とあります。ということは、この時エレミヤには恐れに苛まれていたということです。エレミヤとて、私たちと同じ人間でした。神の預言者として大胆にいのちをかけでみことばを語っていましたが、そういう人には何の恐れもないのかというとそうではなく、そのような人であってもいろいろな不安や恐れを抱えているのです。ですから、預言者としての使命を全うするためには、主の助けとあわれみが必要だったのです。祈りによってそれを克服していく必要がありました。だからエレミヤは「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」と祈ったのです。

それは、使徒パウロも同じでした。彼は、エペソ6章19節で、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っています。あのパウロが「祈ってください」と祈りを要請しています。パウロほどの人物ならば何も怖いものなどなかったんじゃないかと思うかもしれませんが、彼にも恐れがあったのです。だから、大胆に語れるように祈ってくださいと言ったのです。自分の力ではとても無理です。とても敵の前で大胆に語ることなどできません。私には祈りが必要です。私には神の力が必要なのです。どうか私のために祈ってください、そうお願いしたのです。彼は自分の弱さを認めていました。だから、祈ってくださいと素直に言うことができたのです。パウロは本当に謙遜な人だなあと思います。謙遜じゃないとこのように言うことはできません。どちらかというと、私はなかなかこのように言えない弱さがあります。高慢なんですね。自分で何とかしようとします。自分の力で頑張るという意識が強いのです。でも、パウロのように、自分の弱さを率直に認めて祈ることが大切です。私にはできないので、主よ、あなたが助けてください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所ですと。

第三に、エレミヤは敵が恥を見て、私が恥を見ることがないようにしてください、と祈りました。18節です。ここには「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」とあります。まさに倍返しです。しかし、これはエレミヤの個人的な復讐心から出たものではありません。神の義が全うされるようにという願いです。「あなたこそ、私の賛美だからです。」主こそ彼の賛美でした。神の義が全うされることによって、神の御名があがめられるようにという祈りが、このような表現となったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちもエレミヤのようにピンチに陥ることがあります。恐れに苛まれることがある。苦しくて逃げ出したくなるような時があります。先のことが見えなくて不安になることもあるでしょう。そのような時、そうした恐れや不安に勝利するために必要なことは何でしょうか。祈ることです。祈りによって主を見上げることです。詩篇121篇
 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

先が見えない不安の中で、この詩篇の作者は山に向かって目を上げると言いました。なぜなら、彼は真の助けはそこから来ると信じていたからです。天地を創られた主から来ると。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰です。昼も、日があなたを討つことがなく、夜も、月があなたを討つことはありません。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られます。この方を見上げるのです。主を見上げるのです。先が見えない不安の中でも、それをだれか人のせいにしたり、何かのせいにするのではなく、山に向かって目を上げ、そこから助けを求める。それが、私たちに求められていることです。それが不安や恐れを克服していくために必要なことなのです。

Ⅲ.主は契約を守られる方(19-27)

第三に、主は契約を守られる方です。19~27節をご覧ください。「19 主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、20 彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。21 主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。22 また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。23 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
  24 もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い─主のことば─安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、25 ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

ここで主はエレミヤを通して安息日の問題について語られました。その内容は、安息日に荷物を運ぶな、労働するな、安息日を聖く保てというものでした。彼らの先祖たちはその命令を無視し、かたくなな心で歩んできました。そして今、新しい世代の者たちに、再度この安息日を守るようにと命じているのです。

なぜ安息日なのでしょうか。なぜなら、これが神との契約の中心だったからです。十戒にもありますね。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト記20:8)ただ休めというのではなく、これを聖なるものとしなければなりません。これが神との契約のしるしだったのです。神との契約のしるしがもう一つあります。何ですか。割礼です。ですから、この安息日を守るというのは、割礼を受けることと合わせて、ユダヤ人をユダヤ人たらしめる、ユダヤ人ならではのしるしだったのです。ですから、このエレミヤのメッセージは、神との契約関係に帰れということだったのです。もしユダの民がその声に聞き従い、安息日を守るなら、彼らの心に悔い改めの心が生じたということがわかります。しかし、そうでなければ、その他の律法も守ることはできません。
  しかし彼らはそれを守るどころか、むしろ、安息日に休むのはもったいないと荷物を運び入れ、ビジネスを展開していました。その結果、どうなるでしょうか。27節です。主はエルサレムの門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くすことになります。エルサレムは崩壊することになります。これはバビロン捕囚のことを意味しています。バビロンによってエルサレムは完全に崩壊することになります。
  神はイスラエルの民に何度も悔い改めの機会を提供されましたが、彼らはことごとくそれを拒否しました。その結果、この民を懲らしめる方法としては、バビロン捕囚しか残されていなかったのです。神の恵みを拒み続けると、自らの上にのろいを招くようになります。しかし、神との契約を守る者には、神の祝福がもたらされるのです。

問題は、あなたがどこを見ているかということです。あなたの心はどこにあるかということです。あなたの心が主から離れていれば、あなたは荒れ地の灌木、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むようになります。しかし、あなたの心が主につながっているなら、そういう人は水のほとりの植えられた木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さ知らず、葉は茂って、日照りの年も心配なく、実を結ぶことをやめません。だから、あなたがどこを見ているのかということは重要なことなのです。泥だらけの地面を見るのではなく、あなたの目を天に向け、イスラエル神がどのようなお方なのかをしっかりと見て、そこから助けをいただきましょう。主はイスラエルの望み、私たちの望みです。

最後に、暗黒大陸アフリカへの宣教師として召されたデイビッド・リヴィングストンのお話をして終わりたいと思います。彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来たのです。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず約束を守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28章20節のことばを引用しました。そこで、イエス・キリストは、次のように約束しています。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を通り過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

確かな方に繋がっている、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはありません。主はあなたを守る方、イスラエルの望みです。この方を見上げましょう。そうすれば、主があなたを守ってくださいます。主はあなたの賛美、わざわいの日の、身の避け所なのです。

エレミヤ17章1~10節「神に信頼する人の幸い」

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エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。

Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)

 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」

ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。

ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。

創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。

2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。

その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」

「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムのいたるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡すことになります。

そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。

私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
  でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
  主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
  主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。

Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)

次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」

ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
  当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。

でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
  「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。

一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
  すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

  イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
  イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
  でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。

人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。

Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)

どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。

ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。

  イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
  鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。

大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。

では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
  人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
  へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
  神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
  これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。

 黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
  ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。

最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」

同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

エレミヤ16章1~21節「主は生きておられる」

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きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
  「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。

Ⅰ.私たちの罪とは何か(1-13)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」

前章15章の終わりのところで主はエレミヤに、もしあなたが帰ってくるなら、私はあなたを堅固な青銅の城壁とすると約束してくださいました。どんなに敵があなたと戦っても、彼らはあなたに勝つことはできない。わたしがあなたとともにいて、あなたを助け出すからだ。そのように約束してくださいました。

その後で主はエレミヤに、不思議なことを命じられました。それは妻をめとるなということです。これは13章で学んだあのボロボロの帯のように、エレミヤの行動をもって語るためです。これを行動預言と言います。主はエレミヤに行動を通して語るように命じられたのです。その一つのことが、妻をめとるな、結婚するなということでした。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、空の星のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主は「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われたのです。どうしてでしょうか。

その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
  子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。これは、具体的にはバビロン捕囚のことを指していますが、バビロン軍がやって来る時、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになるからです。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。

5節にはもう一つのことが命じられています。それは、弔いの家に入ってはならないということでした。つまり、葬式に参列してはならないということです。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」

葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。ここに「わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだと」とあるように、これは神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。だから、彼らのために嘆いてはならないと言われているのです。

そしてもう一つのことが命じられています。それは9節にあるように、結婚式などの祝宴に出るなということです。ここには「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」とあります。それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。

日本のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分を捨てて相手にしてくれない人もいれば、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味ですが、これは、八百万の神を信じている日本だからこそ存在することわざであると言えるでしょう。八百万ものいろいろな神がいるのだから、あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。人生いろいろ、神様もいろいろというわけです。でも実際は違います。実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の側で八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなければ、じゃこっちの神と簡単に捨ててしまうのです。
  エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様の都合によってあしらわれるわけですから。
  でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
  これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚であり、バビロン捕囚だったのです。
  主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。南王国ユダの人たちは、これを身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。

では、主を捨てるとはどういうことなのでしょうか。それは具体的には神の律法を守られないことです。主のみことばに従わないことです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代の当時の南ユダの民だけの問題ではなく、私たちにも問われていることでもあるということがわかります。というのは、私たちは神のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、私たちも日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。

12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
   ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章に記録してありますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりももっとひどかったのです。もう手の付けようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主のことばに聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになったのです。主のみことばに聞き従いたくなかったのも、彼らの心(思い)が頑なだったからです。ですからパウロはローマのクリスチャンたちに、この思いを一新しなさいと勧めたのです。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
  ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。

あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。

Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」

エレミヤはこれまで、南ユダの真っ暗な将来を預言してきましたが、ここで明るい希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、その未来の希望を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
 「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
  どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜなら、それは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事です。それは出エジプト記に記録されていますが、400年間もエジプトの奴隷して捉えられていたイスラエルがそこから救い出されたんです。400年ですよ。それは完全にエジプトの支配の中にあったということです。そこから解放されるのは不可能だということです。しかし、主はその中から彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトです。すばらしい主の救いの御業が成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
  しかし、これから主が成そうとしていることは、その出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業ただというのです。もはや人々は、「イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。もっとすごいことが起こるからです。

15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそこから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
  ですから、これはバビロンから帰還するという希望の約束が語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえも色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトとも呼ばれているのです。

でも新約時代に生きる私たちにとっては、それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放の御業を知っているからです。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって、罪の中に捕えられた私たちをその罪から救い出してくださいました。これこそ第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、このバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎません。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。

  しかし、エレミヤの時代には、出エジプトの出来事はイスラエルの歴史において偉大な出来事でした。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れるほどの出来事であり、民が「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。

このような御業を成されるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられます。そして、あなたを今の生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。

皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることができます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。それは、あの出エジプトよりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのはこの希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。希望は確かにあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いのです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。

しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」

神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。そのさまが、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復があります。神のあわれみは尽きることはないのです。

Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)

最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」

これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民のバビロンからの解放の御業が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人のことを指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦人が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
  「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。

日本人であれば、多くの家庭で父祖から受け継いだものとして仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家は檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになったのです。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係ありません。ただその目的だけのために置かれたのです。実際、仏様はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。ですから、仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことだというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにはご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。

諸国の民は地の果てから来てそういうようになります。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの。何の役にも立たない空しいものばかり。そのようなものは神ではないと。そして、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき神の御業を知り、その真の神、主を求めるようになるのです。

  イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロンに捕えられました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。そしてそれを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神、主は生きておられる、と告白するようになるのです。これが生きた証です。

主はあなたを通してこのような証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、そう思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださるのです。あなたは神に捉えられているのです。そしてその苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。

有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあるように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださるのです。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イエス・キリストはまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。

主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

エレミヤ15章15~21節「堅固な青銅の城壁とする」

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きょうは、エレミヤ書15章後半の個所から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節の御言葉から取りました。
  「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」

  前回のところでエレミヤは、自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔しました。10節でしたね。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を生んだので、私は全地にとって争いの相手、口論する者となっている。」それは彼が、エルサレムが滅びるという極めて悲惨な預言をユダの民に語らなければならなかったからです。そしてそれを聞いた民が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。

それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。必ず主は彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。

しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。再び彼は神に不平をもらすのです。それが今日の箇所です。そして、それに対する神の答えがこれだったのです。「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」

 Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」

これは、エレミヤの祈りです。これは実に正直でストレートな祈りです。自分の思いの丈をぶつけています。言葉で飾るようなことをしていません。
  15節で彼は、「私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。」「私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」と言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えているのです。

16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したということです。そしたらそれが楽しみとなり、心の喜びとなりました。リビングバイブルでは、「有頂天となった」と訳していますが、そういう意味です。これは、飛んだり、跳ねたりして喜ぶ様を表しています。御言葉を食べたら、そのあまりの美味しさに小躍りするくらいうれしくなったというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。それは、患難や苦難が無くなるということではありません。神の御言葉を食べて喜んでも、患難や苦難があなたを襲うことがあります。人々から誤解されたり、バカにされたり、憎まれたり、(さげす)まれたりすることがあります。でも違うのは、そのような中にあっても、神の御言葉があなたを支えてくれるということです。エレミヤは神の御言葉によって支えられていました。彼が神の御言葉を食べていなかったら、簡単に潰れていたでしょう。

それは私たちにも言えることです。御言葉を食べて、御言葉を味わい、御言葉を楽しみ、御言葉を心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!神様を信じたって何の役にも立ちません。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは神の御言葉です。イエスのことばを聞いてそれを食べ、それを楽しみ、それを喜び、それに従う人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることがないのです。

それでも、エレミヤは傷ついていました。神の御言葉食べてそれを楽しんでいても、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言ってしまいます。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」

どういうことでしょうか。エレミヤはここで神様に向かって、「あなたは偽り者だ!」と言っているのです。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか。私はいつまで続まなければならないのですか。私の打ち傷は治らず、癒されません。そんなのおかしいじゃないですか。あなたは約束してくださいました。あなたはいのちの水の泉だと。だから私はあなたに信頼したのです。それなのに、あなたに頼ってもあなたは答えてくれません。それは欺く小川の流れのようです。当てにならない水にすぎません。そう言っているのです。これは本来言ってはいけないことばです。神様に不平不満をもらしているのですから。
  この「小川」というのは、「ワディ」と呼ばれる川のことですが、この川は雨の季節は水が流れていることはあっても、乾燥した季節は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういう水のことです。あるようでない。あるように見せかけても実際にはありません。エレミヤは神様をこの当てにならない小川にたとえたのです。あると思ったのにない。神様は欺く小川の流れだと。全く役に立たない。祈っても答えてくれない。期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきです」なんて言えません。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼になっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いを正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信じていいんですかと。

私たちにもこのようなことがあります。落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることがあります。でも、エレミヤのようにそれを正直に神に訴えることができません。ちゃんと祈らなければならないと思っているからです。それで美辞麗句を並べて、心にもないことを言ってしまうのです。
  「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛め苦しんでいますが、あなたはもっとひどい苦しみを受けられました。あなたは十字架で「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。ですから、私もあなたの御言葉に従ってあの人を赦します。あの人を愛します。あの人のために祈ります。どうか、あなたのお力を与えてください。アーメン」
  すばらしい祈りです。でも本音は違うでしょ。本当は憎いのです。赦せないのです。ムカついています。それなのに、きれいな言葉で祈らなければならないと思っています。クリスチャンだから。一応。
  でも神様は、あなたの心の思いを全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はなのです。あなたの正直な気持ちをエレミヤのように神様に訴えていいのです。なかなか祈れないという人の問題はここにあります。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。だから祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。仮面を被ったもう一人の自分が祈っているかのような、そんな感覚さえ抱いてしまいます。しかし、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりをする必要はありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に祈っていいのです。

詩篇を見るとそういう祈りがたくさん出てきます。詩篇109篇などはそうです。その中でダビデは敵に仕返ししてくだいというだけでなく、敵がことごとくのろわれるようにしてくださいとまで祈っています。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様の教えを知っている私たちにとっては戸惑いを感じますが、それでいいのです。自分の心の思いを正直に主に申し上げることが大切なのです。

私は、1993年に初めて韓国に行きました。当時ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われていた教会がソウルにあって、その教会が主催した牧師のセミナーに参加したのです。教会の信徒さんが「ぜひ先生も行って恵まれて来てください。その費用は私たちが献げますから。先生が恵まれることで私たちも恵まれますから」と、背中を押してくれたのです。それは光林教会という教会でした。今でも覚えています。礼拝が始まると同時に礼拝堂の窓のカーテンが自動的に閉まるのです。すると講壇の前にいたオーケストラが賛美歌を奏でました。「来る朝ごとに」でした。荘厳な雰囲気の中で荘厳な曲が奏でられ、体が震えました。あたかも天国にいるかのような光景でした。
  私たちは、その教会が所有している祈祷院に宿泊したのですが、そこには毎晩のように多くの信徒が祈るために来ていました。何を祈っているのかわかりませんが「チュよ、チュよ」と犬の遠吠えのような大きな声が聞こえてきました。私も隣の部屋で祈っていましたが声が気になってなかなか祈れませんでした。
  そこで担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈るんですよと。韓国人はそういう国民性なのかと驚いて、もっと大きな声で祈りましたが、ナイーブな私にはやはりうるさくて祈れませんでした。でも韓国の兄姉は違うんですね。もっと大きな声で祈ります。他の人は関係ありません。全く視野に入ってこないのです。ただ主を見上げて、「チュよ、チュよ」と叫ぶのです。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。
  当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会もそうでした。私は徹夜祈祷会にも行きましたが、11月の末のとても寒い時ですよ。教会を出たところで多くの人たちがあちこちでひざまずいて祈っているのです。中では礼拝形式で祈祷会が持たれていましたが、集会の終わると多くの兄姉が講壇になだれ込み、「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っていました。それはもう祈りじゃないです。叫びです。主に向かって心を注いで叫んでいるという感じでした。飢えた魚がえさを求めるように。周りの人がどう思うかなんて関係ありません。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。

それでいいんです。というのは、このエレミヤのつぶやきや疑いに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんなことを祈るなんてひどいヤツダとか、私を疑うなんてとんでもないことだとか、お前のような者はもうわたしのことばを語る資格などないとか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを受け入れてくださいました。19節からのところで、その祈りに対して主が応答していることからもわかります。正直に言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それが祈りです。それがエレミヤの祈りでした。祈りとはまさにコミュニケーション、対話です。それがこの中に見られるということです。

私たちは神様とこのようなコミュニケーションを取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈ります、という通り一辺倒の祈りではなかったでしょうか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わってはいなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあるかもしれません。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいのです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもってとりなしてくださいますから。ローマ8章26節にこうあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
  感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエスが、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
  ですから、決して神様に対して自分の気持ちを隠す必要はありません。仮面を被らなくてもいい。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢することができません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」これでいいんです。

でも、これで終わってはいけません。ここが重要なポイントです。これを神に訴えるとはどういうことかということです。これを神に訴えるとは、だから助けてください!ということなのです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにということではなく、神様に助けを求め、神様がその力を与えてくださるように願うことなのです。神様はあなたの本音を知っておられますから。正直な気持ちを知っておられますから。それをまず神様にぶつけない限り何も始まりません。それを正直に訴えたうえで神に助けを求める。そこに主が働いてくださいます。それを隠したまま、ただことば巧みに自分を霊的、信仰的な者であるかのように見せかけると、そこに「偽善」が生じることになります。そうじゃなくて、そんなあなたのやるせない思い、正直な思いをありのままに神様に訴えて、その上で神様にきよめていただく、助けていただく、それが神様が望んでおられることなのです。

Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)

次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。19節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」

エレミヤのつぶやき、疑いに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神様を疑ったからではありません。神様に本音で訴えたからではないのです。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであると失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていました。エレミヤは、そんなことならいっそのこと民といっしょになって不信仰でもいい、その方がよっぽど楽だと思っていました。
  そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは神を疑うほどまで落ち込んでいました。それは預言者としては失格でした。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていたのです。これはエレミヤの生涯における最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないでください。まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。そして、もし、彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはなりません。「彼ら」とはユダの民のことです。エレミヤは神の預言者として神に立てられた器ですから彼らに流されたり、彼らの影響を受けるべきではない。預言者としての使命を果たしなさいということです。

Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)

最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えてくださいました。20~21節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」

エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに繰り返して語られました。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。

これと同じことを、パウロはこう表現しています。Ⅱコリント4章7~9節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
  この「宝」とはイエス・キリストのこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「土の器」の「の」を取ると、ただの「土器」です。皆さん、私たちはただの「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。

皆さん、私たちの人生にはポッカリと穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
  それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然ポッカリ穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇することがある。突然病気になったり、事故に遭ってしまった、会社が倒産した、会社は大丈夫だけれども、自分が失業した、愛する人を突然亡くした、というようなことがあります。
  そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明けて、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

エレミヤ15章1~14節「苦難の時に生きる道」

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きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。苦難の時、どこに生きる道を見出すことができるかということです。結論から申し上げますと、それは神様ご自身であるということです。11節をご覧ください。「主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
  主こそ、わざわいの時、苦難の時の生きる道です。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。

いのちの水の泉である主を捨て壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章1節では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。14章12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りました。きょうのところは、その主の答えです。1節には「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」とあります。どういうことでしょうか。

モーセは律法の代表者です。また、サムエルは預言者の代表者です。この二人に共通していることは、彼らがとりなしの名手であったということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして彼らを救ってきました。でも、そのモーセやサムエルがとりなしても、主はその祈りを聞かないというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な信仰者がとりなしても、主がさばきを思い直されることはないというのです。モーセとサムエルの時代もイスラエルの民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。というのは、神に背いても素直にみことばを受け入れ悔い改めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。しかしこのエレミヤの時代はそうではありませんでした。手がつけられないほど反抗的だったのです。エレミヤが神のことばを語っても受け入れるどころかあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのにそんなエレミヤを目の上のたんこぶのように邪魔者扱いしました。そして、ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。

2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」

主は彼らを四種類のもので罰すると言われました。すなわち、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』 」
  主は、剣で死ぬか、飢饉で死ぬか、疫病で死ぬか、それでも生き残った者は捕囚として連れて行かれることになると言われました。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになるからです。

しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望なんかないと思われるかもしれませんが、よく見ると、主は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということがわかります。一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。というのは、主が本当に彼らを滅ぼそうとしておられたのであれば、こんな回りくどいことはしないからです。あのソドムとゴモラを滅ぼした時のように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら痛みを与えて罰するのは、彼らを滅ぼすことが目的ではなく、彼らを救うことが目的だったからなのです。いわばこれらの罰は彼らが主に立ち返るための道具だったのです。主はこのような厳しい対処をしながらも、決して彼らを見捨てたり、見放したりはなさいません。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも救うことを目的とした試練だったのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みに満ち溢れていたすばらしい時だったかを思い出し、主に立ち返るためだったのです。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。

それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
  これがエレミヤに与えられていた使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜くのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げることが目的だったのです。建設的な目的でなされたのです。

4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。

主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは地のすべての民がユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるためでした。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
  しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。マナセはこのエレミヤの時代から遡ること100年前の人物です。彼のことについては歴代誌第二33章1~9節にありますが、南ユダ史上最悪の王でした。彼は主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて主の目に悪であることを行ったり、天の万象を拝んでこれに仕えたりしました。また、自分の子どもたちに火の中をくぐらせたり、卜占(ぼくせん)とかまじない、呪術、霊媒、口寄せ等をし、主の怒りを引き起こしていたのです。こうしたマナセの行いが、それから100年後のエレミヤの時代に大きな影響を及ぼしたのです。こうしてみると、マナセの行ったことがその後の子孫にどれほど大きな弊害をもたらしたかがわかります。私たちの今のあり方が、後に大きな影響を及ぼすことになるということです。

Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)

次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」

  エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告が続きます。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれもあわれまないということです。完全に見捨てられることになります。

7節の「熊手」とは脱穀の時に用いられる道具ですが、この熊手でもみ殻を救い上げ空中に飛ばすと軽いもみ殻だけが飛んでいきますが、そのようにユダの民を追い散らすというのです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵入して来て、妻子たちを奪って行くことになります。

8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうという意味です。
  9節には、「七人の子を産んだ女は打ちしおれ」とあります。これは、息子を戦争に送り出した母親の嘆きです。「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまうことになります。それほどの悲劇なのです。

彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡したのはバビロンが強かったからではなく、イスラエルが罪を犯したからでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分と神との関係はどうなのかを吟味しなければならないのです。苦難の時に生きる唯一の道は、この神との関係を回復することです。なぜなら、神はそのような者をあわれんで慰めてくださるからです。これが苦難の時の唯一の道です。

Ⅲ.神の慰め(10-14)

ですから第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」

この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことを悲しんで嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこない方がよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。

続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われていました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語ったので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。

「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されていたのです。あまりにも理不尽です。

それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しみました。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうことがあるのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを全部奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。

11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」

アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われました。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これで十分です。これ以上の慰めがあるでしょうか。
  アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
  そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方です。私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。

そして神は、エレミヤに励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。

皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださいました。

エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

エレミヤ14章10~22節「神のジレンマ」

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エレミヤ書14章10~22節をご覧ください。きょうは、「神のジレンマ」というタイトルでお話します。「ジレンマ」とは、互いに反対の関係にある2つの事柄の間で板挟みになる状態のことを言います。神はそのような状態にありました。17節に「あなたは彼らに、このことばを言え。「私の目には、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒しがたい。ひどい打ち傷。」主は癒しがたいイスラエルの民の傷を見て、涙を流しておられたのです。ただ彼らをさばきたいのではなく救いたいからです。なのに救えない。そのジレンマです。

Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」

14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。

何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
  非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。

そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。

皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。

ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
  皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。

毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。

その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。そうすれば、主は赦してくださいます。そこからもう一度やり直すことができるのです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。

私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。

Ⅱ.偽りの預言者(13-18)

次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」

  ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。

  それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」

どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
  実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。

エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。

この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。

イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
  エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。

エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。

それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。

最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
  クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
  「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
  まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
  このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
  一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
  もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
  もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。

皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
  ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。

エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)

ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」

エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。

ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
  第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
  第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。

八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

エレミヤ14章1~9節「苦難の時の救い主」

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エレミヤ書からお話しています。きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。8節に「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」とあります。そうです、イスラエルの神、主は、苦難の時の救い主なのです。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」

日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。

イスラエルでは、水はとても貴重なものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに価値あるものだったのです。日本では水道の蛇口をひねればすぐに水が出てきますが、イスラエルではそうではありません。水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何でしょうか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に満たすことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
 イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
 神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。

 それは、いにしえからの昔から警告されていたことでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていたのです。ですからこれは初めてのことではありません。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことだったのです。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの昔からの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。

その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」

ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこは権威と格式がある場所で、そこで町の役人たちが問題について討議したり、商人たちが取引を行ったりしていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。

「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もすることができないからです。同じように私たちも、いのちの水である神様がいなければ何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。

それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも深刻な影響を及ぼすと言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」

以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季の二つの季節しかありません。この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で、「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができない雨です。そうでないと地面が割れて種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で、「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。

それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」どういうことでしょうか。この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになるということです。つまり、エルサレムだけでなく、農村部だけでもなく、野山に至るまで国全体が打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうことになります。しかも人間だけでなく動物に至るまでもです。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。

また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
  新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅱ.主の御名のために(7)

次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。

このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。

エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。つまり、私は富んでいる男なのです。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
  エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。

出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」

エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でもわかっていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。

しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。

でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
  かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。

またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。

家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。

詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
  また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。どんなに虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。

8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」

言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。

アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。

エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。

主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

エレミヤ13章12~27節「酒壺に満たされた酒」

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きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回は、ぼろぼろになった帯についてお話しました。それはユダとエルサレムの大きな誇りを表していました。主はその帯をぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、行動を通しての預言はもっと力を感じます。

きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて話されましたが、たとえ話や例話を巧みに用いて語られるとピンとくるというか、わかりやすく感じます。このたとえを通して主は何を語ろうとされたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民はいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないので、主は彼らの酒壺を怒りの酒で満たされるのです。

Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」

主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が神の怒りで満たされるのです。

それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。

これは、神様が徹底的に彼らをさばかれるということです。具体的にはバビロン捕囚の出来事を指しています。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。それで、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」

それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちはこれっぽっちもありませんでした。たとえば、主が「酒壺には酒が満たされる」と言っても、「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。

ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思ってやっていることが自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。

ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。やがて闇に包まれる時がやって来ます。夕暮れとなって何も見えなくなる時がやって来るのです。その時では遅いのです。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶にとご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのトラクトのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますというメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じたと言います。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたもこの天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来る。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。

16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。イエス様はこう言われました。「9 昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」(ヨハネ11:9~10)
 イエス様は世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。でも、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かいておられますが、いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられているのです。それに応答しなければ、闇があるだけです。

もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通でしょ。なのにエレミヤはそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。

これが私たちの主の涙でもあります。主の心なのです。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を十字架につけた人たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。

ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。

Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」

高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきがここに宣言されています。18節の「王」とは、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので、後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。

そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らが王の位から引きずり降ろされるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。

20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるのです。羊は羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあってもです。主がともにおられますから。主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも彼らは真の羊飼いではなく他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも言えることです。神との関係を無視し、この世に解決を求めるなら同じような結果を招いてしまうことになります。

それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国に対抗するために神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。

その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それは、多くの咎のためです。その咎のためにあなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うことになるのです。あらゆる不幸の原因がここにあります。すなわち、神を神としないことです。

交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」という話を聞いたことがあります。それと同じように罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で悔い改め神に立ち返らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの心を神に明け渡して(23-27)

では、どうしたら良いのでしょうか。ですから第三のことは、あなたの心を神に明け渡してくださいということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」

「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。できません。やろうとした人がいました。マイケル・ジャクソン。でもできません。表面的にはできるかもしれませんが、完全に変えることはできません。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪人を善人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることはできなということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。

使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
  だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造です。全く新しい人として造り変えていただくことができるのです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。猫や猿が人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければなりません。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人として生まれ変わることができるのです。ハレルヤ!

それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。どうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去ったのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だと。持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。神がキリストにあって新しくしてくださいます。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。

27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。

この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることはありません。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

エレミヤ13章1~11節「ぼろぼろになった帯」

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きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られたのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならないという意味で、洗濯してはならないことを意味していたからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も洗わないものを身に着けるのは不衛生です。たとえば、私が同じシャツを何週間も着ていたらどうでしょう。汚い!と思うでしょう。まあ、そこまで見ている人はいないと思いますが・・。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことをしなければならないのか」と思ったかもしれませんが、主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範です。私たちも聖書を読んでいると時々、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、それでもエレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、長さはアメリカンフットボールのコートの1つ半、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に考えて、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりにする必要はないと従おうとしないことがありますが、考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれに従うことが大切です。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか「みことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次のステップに進めないということです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。4節です。「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、ユーフラテス川まで行くには相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはエレミヤの故郷アナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方がこの後で主がこの一連の行動の意味を説明される時、その深い意図が明らかとなるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですか。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・。皆さん、知っていますか?聞いたこともないでしょ。これは世界三大珍味の一つで高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは、他にフォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はもう一度ユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐って、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇りと何でしょうか。誇りとは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し自分の考えで進もうとすること、これが誇っているということ、高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆にへりくだっている、謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しいということを「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の思いを全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になっ+た心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それがへりくだっていると言うことなのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それはへりくだっているようでも誇っています。謙遜であるかのようでも高慢なのです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持とうとしないのです。「そういう道もあるでしょうね。でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であるということ、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司とは礼拝を司る者ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。そこまで私たちと一つになりたいのです。これが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これがイスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、これが私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。