エレミヤ29章1~14節 「驚くべき神の計画」

今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここはエレミヤ書の中心的な箇所です。まさに、エレミヤ書の心臓部と言える箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

これは、キリスト教国際NGOの団体で「ワールド・ビジョン」という団体があるのですが、その英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちなみに、一番人気があったのは、皆様もよくご存知のヨハネ3章16節です。その次に人気があったのが、このエレミヤ書29章11節です。しかし、それほどよく知られている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.驚くべき神の計画(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2  この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」

これは、エレミヤがエルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に書き送った手紙です。2節には、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とありますが、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C.605年、第二回目がB.C.597年、そして第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時ですから、この手紙が書き送られたのは、第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃ということになります。

エレミヤはなぜ彼らに手紙を書き送ったのでしょうか?それは、エレミヤが彼らのことを憂いでいたからです。なぜなら、そこには偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らは主の名を使って偽りを預言していましたが、ユダの民の中にはそうした偽預言のことばに騙されて、浮足立った生活をしている人たちがいたのです。たとえば、28章に登場したハナンヤがそうでした。彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると預言していました。でもそれは事実ではありませんでした。ユダの民がエルサレムに戻ってくるのはいつですか?70年の時が満ちる時です。25章12節のところで、そのように語られていました。それなのに彼は2年で戻ることができると偽ったのです。それを聞いたユダの民はどう思ったでしょうか。彼らはそんな偽預言者の甘いことばに騙されて淡い期待を抱き、だったら2年間だけ我慢して適当な生活をしていればいいと思っていたのです。皆さん、何を信じるかはとても重要なことです。なぜなら、それはその人の生活に大きな影響を及ぼすからです。それはただの教えでは済まないのです。その人のライフスタイルに大きな影響が及ぶことになるのです。

ですから、エレミヤは彼らにこのように書き送りました。8~9節をご覧ください。「8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』」
  つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。偽預言者たちや、占い師たちにごまかされてはなりません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけないのです。むしろ、落ち着いて生活するように心がけなければなりません。

それは具体的にはどういう生活ですか?4~7節にこうあります。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」

それは具体的には、家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べるようにしなさいということです。そこに定住することを覚悟して、しっかり仕事をするように。その働きによって食べていけるようにしなさい、ということです。

それだけではありません。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えるように。減ってはならない。つまり、結婚して子どもを産み、家庭を築き、エルサレムに帰還してから後に備えるようにしなさいということです。

そればかりではありません。その町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。「その町」とはどこですか?そのバビロンのことです。バビロンの平安を求め、その町のために祈らなければなりません。なぜなら、その町の平安によって、あなたは平安を得ることになるからです。どういうことでしょうか?バビロンは自分たちを苦しめた相手ですよ。いわゆる自分たちの敵です。そのバビロンのために祈ることが、どうして自分たちが平安を得ることになるのでしょうか。それは、それこそが神の計画によるものだったからです。神の計画は彼らがバビロンの捕囚民としてバビロンに引いて行かれ、そこで懲らしめを受け神の民としてふさわしく整えられバビロンから出て約束の地に戻ること、それが神の計画だったのです。だから、その町の平安を祈ることが、自分たちが平安を得ることになるのです。

それは、4節と7節で次のように言われていることからもわかります。「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」。「わたし」とは誰ですか?これは神ご自身のことです。彼らがバビロンに引いて行かれたのは神ご自身が成されたことだったのです。人間的に見たら、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのはバビロンの王ネブカデネツァルによることであったかのようですが、実はそうではなく、それは神ご自身が成されたこと、神が引いて行かせたことだったのです。
  皆さん、誰の目を通して物事を見て行くか、自分の置かれた状況を見て行くのかは、とても重要なことです。人間の目を通して見るなら失望することもあるでしょうが、でも、神の目を通して見るからそこに特別な神のご計画があることを知って励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりません。しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の計画によるものだったのです。神の計画は私たちの目で良いことばかりではありません。わざわいだと思えることでも、神が深い目的をもって与えておられるのです。それが「わたしが引いて行かせた」という意味です。

エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに造り変えるための神の懲らしめ、訓練だったのです。自分の子どもの成長を願わない親がいるでしょうか。これは父が子を思うからこその訓練であって、それがバビロン捕囚だったのです。

Ⅱ.将来と希望を与えるためのもの(10-11)

次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

いよいよ、この箇所の中心の節に来ました。10節には「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」とあります。つまり、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が彼らを顧みて、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰ることができるのです。神の家で再び主を礼拝することができる。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。

この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだB.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと考えています。また、ある人は、第三次バビロン捕囚でエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいます。いずれにせよ、かなりの年月になります。でも、神は必ずこの約束を実現してくださいます。必ずエルサレムに戻ることができるし、神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても必ず成就するからです。そのことをしっかりと受け止めなければなりません。焦ってはいけません。神の時、神のタイミングがあります。自分の時と神の時は違います。自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は無限の世界における時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。ですから、神の時は完全であり、ベストなのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。どんなに時間がかかろうとも、どんなに自分の時とかけ離れていようとも、神のなさることは時にかなって美しいのです。そのことを信じなければなりません。

11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。ご一緒に読みましょう。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  これは、私たちが立てている計画ではありません。神が私たちのために立てている計画です。神は、その計画をよく知っておられます。私たちは自分のために立てている計画をよく知っていると思っていますが、実際のところは何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とはどんな計画でしょうか。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  皆さん、神が私たちのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画です。この「平安」という語は、元々の言葉では「シャローム」です。それは、何の欠けもない満ち足りた状態のことを指します。そこには繁栄も含まれますし、健康も、祝福も、成功も含めた理想的な状態のことです。そういう計画を神はあなたのためにもっておられるのです。それは将来と希望を与えるためのものです。でも忘れてはならないのは、これは神の目における平安であって、私たちの目における平安ではないということです。神の目における平安とは何でしょうか。

それは、ピリピ4章6~7節にあることです。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
  ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは人のすべての理解を超えた、人のすべての考えにまさる平安です。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神の計画なのです。ここではそれは何を指しているのかというと、バビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた計画とは、何と彼らがバビロンに引いて行かれ、そこで70年間奴隷として生きるということだったのです。なぜそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわざわいじゃないですか。わざわいじゃないんです。だからここにわざわざ但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画だと言えるんですか?それは、そのことによって神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えなくても、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して将来と希望を与えてくださるのです。

この「将来と希望」の「将来」ですが、これは「終わりに」とか、「最後に」、「~後に」という意味の語なんです。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画は、最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のように見えても、終わってみれば希望であったことがわかるのです。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。

それがローマ8章28~29節で言われていることです。ここには、「28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(新改訳改訂第3版)とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。何を知っているんですか?神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、です。アーメン?これは、最後は益であるということです。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っています。

では、その益とは何でしょうか?それが29節で言われていることです。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
  それは、御子と同じ姿に変えてくださるということです。皆さん、これが益です。これが究極的な益なんです。究極的な益は那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っていることです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後はバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださるのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。

それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがあります。でも最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになるのです。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられるのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださる。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神はすべてを働いて益としてくださるということです。信じますか?そのことを通して、最後は希望を与えてくださいます。御子と同じ姿に変えられるからです。それが、ここで語られていることです。

よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。

ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。

私たちの教会では英語の礼拝も行っていますが、そこでご奉仕しておられるR・フレミング先生ご夫妻が、先月、フィリピンにいる息子さん夫婦を尋ねた時のことです。そこでフレミング先生ご夫妻は毎朝散歩をしていたら、ある日、デニスさんという62歳のフィリピン人のクリスチャンに出会いました。彼はマニラに家を建てるためにサウジアラビアで22歳の時から20年間働いて、お金を少しずつ貯めました。若い時彼はクリスチャンではなく、反対でした。クリスチャンではなくより多くのお金を得ることに人生を捧げていました。サウジアラビアでは他のクリスチャンから何度も何度も聖書をもらいましたが、そこでは聖書を所有することは違法だったので、怖くて読まずに、その聖書をいつも捨てていました。20年前、42歳のデニスさんが休暇でマニラに帰った時、一週間くらいの休暇でしたが、ある警察署長が、フィリピンでは違法な花火を没収していました。そしてその警察署長は新年にその違法な花火を打ち上げていましたが、デニスさんは道路脇で爆発していない花火を見つけました。彼はそれを家に持ち帰り、新聞紙に包んで火を付けました。しばらくして何も起こらなかったので、彼が手に取ると、花火が爆発して、彼の手を吹き飛ばしてしまいました。その写真を見せてくれたのですが、右手の手首から先がありませんでした。何と悲惨な出来事でしょう。
  しかし、デニスさんはこの恐ろしい事故を、神様からの素晴らしい祝福と思いました。サウジアラビアに戻って働くことはできませんでしたが、何人かの近所の人が病院にいるクリスチャンが彼を見舞いに来て聖書を読み、一緒に祈ってくれました。その時デニスさんはクリスチャンになりました。彼は病院でクリスチャンになりました。デニスさんは右手と大切な仕事を失いましたが、神の恵みの賜物を受け取ることかできた、と言いました。彼は喜んでその手を見せてくれて、喜んでイエス様による救いについて毎朝話してくれたそうです。誰がみてもわざわいにしか見えない出来事が、実は彼にとって平安と希望を与えるためのものだったのです。

今年は、1月1日に能登半島で大きな地震がありました。いったいこの先どうなるのだろうかと、だれもが不安に思ったことでしょう。今も復旧、復興作業が続いています。そして一日も早く復旧するようにと教会でも祈っていますが、それはあの3.11の時も同じでした。もう世の終わりが来たのではないかとさえ思いました。全世界が一つとなって祈り、東北の復旧、復興のために祈り、取り組みました。
  そのとき、かねてから親しくさせていただいている恵泉キリスト教会の牧師で、千田次郎という先生がいらっしゃるのですが、ある集会で先生が講壇からお話をしていたとき、先生が「もっとよくなる!」と言われるのを聞いて、凄いなぁと思いました。だれもが、神も仏もないと落ち込んでいたとき、何と悲惨なことが起こったのかと悲しんでいたとき、先生は「もっと良くなる!」と言われたのですから。先生はその言葉の後にこう続けて言われました。「だって、聖書にそう書いてあるでしょ。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださると」。なかなか言えない言葉です。被災された方を前にしてそんなことを言ったらどんなふうに思われるか、そのように考えたらとても言えなません。これは先ほどのローマ8章28節のことばを本当に信じていないと言えないことばだと思うのです。千田先生は、このみことばを信仰によって受け止め、しっかりと握り締め、このみことばに生きているからこそ言えたのだと思いました。それは何も地震だけのことではなく、先生の生き方のすべてにおいて言えることだからです。

今、目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが苦しいこと、辛いこと、悲しいことであっても、神はそれさえも益に変えてくださる。そのことを通して、神は私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという御業をなしておられるのです。

私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でもはっきりわかることは、終わってみれば希望であるということです。それが私たちの人生なのです。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。

だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っても、最後にはキリストを信じる者に用意されている救いをいただくということを知っているのですから。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるのです。それがこの世の人たちとの大きな違いです。この世の人たちは、目の前の状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうのです。でもクリスチャンは違います。クリスチャンは、この世にあっては、今しばらくの間、様々な試練の中で苦しんだり、悲しんだりしなければならないこともありますが、最後は希望だということを知っているので喜ぶことができるのです。

Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)

では、バビロンにいる70年間はどのように生きればいいんですか?じっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。それが12~14節で言われていることです。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから1,000キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るんだから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。

米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。

それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから1,000キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。

それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれたその所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。神があなたがたに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものであると信じて、主に感謝しましょう。そして、主がなされる信じられない御業を待ち望みましょう。