エレミヤ15章1~14節「苦難の時に生きる道」

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きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。苦難の時、どこに生きる道を見出すことができるかということです。結論から申し上げますと、それは神様ご自身であるということです。11節をご覧ください。「主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
  主こそ、わざわいの時、苦難の時の生きる道です。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。

いのちの水の泉である主を捨て壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章1節では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。14章12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りました。きょうのところは、その主の答えです。1節には「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」とあります。どういうことでしょうか。

モーセは律法の代表者です。また、サムエルは預言者の代表者です。この二人に共通していることは、彼らがとりなしの名手であったということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして彼らを救ってきました。でも、そのモーセやサムエルがとりなしても、主はその祈りを聞かないというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な信仰者がとりなしても、主がさばきを思い直されることはないというのです。モーセとサムエルの時代もイスラエルの民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。というのは、神に背いても素直にみことばを受け入れ悔い改めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。しかしこのエレミヤの時代はそうではありませんでした。手がつけられないほど反抗的だったのです。エレミヤが神のことばを語っても受け入れるどころかあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのにそんなエレミヤを目の上のたんこぶのように邪魔者扱いしました。そして、ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。

2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」

主は彼らを四種類のもので罰すると言われました。すなわち、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』 」
  主は、剣で死ぬか、飢饉で死ぬか、疫病で死ぬか、それでも生き残った者は捕囚として連れて行かれることになると言われました。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになるからです。

しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望なんかないと思われるかもしれませんが、よく見ると、主は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということがわかります。一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。というのは、主が本当に彼らを滅ぼそうとしておられたのであれば、こんな回りくどいことはしないからです。あのソドムとゴモラを滅ぼした時のように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら痛みを与えて罰するのは、彼らを滅ぼすことが目的ではなく、彼らを救うことが目的だったからなのです。いわばこれらの罰は彼らが主に立ち返るための道具だったのです。主はこのような厳しい対処をしながらも、決して彼らを見捨てたり、見放したりはなさいません。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも救うことを目的とした試練だったのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みに満ち溢れていたすばらしい時だったかを思い出し、主に立ち返るためだったのです。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。

それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
  これがエレミヤに与えられていた使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜くのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げることが目的だったのです。建設的な目的でなされたのです。

4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。

主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは地のすべての民がユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるためでした。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
  しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。マナセはこのエレミヤの時代から遡ること100年前の人物です。彼のことについては歴代誌第二33章1~9節にありますが、南ユダ史上最悪の王でした。彼は主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて主の目に悪であることを行ったり、天の万象を拝んでこれに仕えたりしました。また、自分の子どもたちに火の中をくぐらせたり、卜占(ぼくせん)とかまじない、呪術、霊媒、口寄せ等をし、主の怒りを引き起こしていたのです。こうしたマナセの行いが、それから100年後のエレミヤの時代に大きな影響を及ぼしたのです。こうしてみると、マナセの行ったことがその後の子孫にどれほど大きな弊害をもたらしたかがわかります。私たちの今のあり方が、後に大きな影響を及ぼすことになるということです。

Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)

次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」

  エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告が続きます。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれもあわれまないということです。完全に見捨てられることになります。

7節の「熊手」とは脱穀の時に用いられる道具ですが、この熊手でもみ殻を救い上げ空中に飛ばすと軽いもみ殻だけが飛んでいきますが、そのようにユダの民を追い散らすというのです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵入して来て、妻子たちを奪って行くことになります。

8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうという意味です。
  9節には、「七人の子を産んだ女は打ちしおれ」とあります。これは、息子を戦争に送り出した母親の嘆きです。「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまうことになります。それほどの悲劇なのです。

彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡したのはバビロンが強かったからではなく、イスラエルが罪を犯したからでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分と神との関係はどうなのかを吟味しなければならないのです。苦難の時に生きる唯一の道は、この神との関係を回復することです。なぜなら、神はそのような者をあわれんで慰めてくださるからです。これが苦難の時の唯一の道です。

Ⅲ.神の慰め(10-14)

ですから第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」

この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことを悲しんで嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこない方がよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。

続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われていました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語ったので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。

「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されていたのです。あまりにも理不尽です。

それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しみました。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうことがあるのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを全部奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。

11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」

アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われました。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これで十分です。これ以上の慰めがあるでしょうか。
  アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
  そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方です。私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。

そして神は、エレミヤに励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。

皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださいました。

エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

エレミヤ14章10~22節「神のジレンマ」

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エレミヤ書14章10~22節をご覧ください。きょうは、「神のジレンマ」というタイトルでお話します。「ジレンマ」とは、互いに反対の関係にある2つの事柄の間で板挟みになる状態のことを言います。神はそのような状態にありました。17節に「あなたは彼らに、このことばを言え。「私の目には、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒しがたい。ひどい打ち傷。」主は癒しがたいイスラエルの民の傷を見て、涙を流しておられたのです。ただ彼らをさばきたいのではなく救いたいからです。なのに救えない。そのジレンマです。

Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」

14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。

何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
  非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。

そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。

皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。

ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
  皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。

毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。

その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。そうすれば、主は赦してくださいます。そこからもう一度やり直すことができるのです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。

私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。

Ⅱ.偽りの預言者(13-18)

次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」

  ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。

  それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」

どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
  実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。

エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。

この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。

イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
  エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。

エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。

それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。

最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
  クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
  「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
  まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
  このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
  一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
  もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
  もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。

皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
  ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。

エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)

ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」

エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。

ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
  第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
  第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。

八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

エレミヤ14章1~9節「苦難の時の救い主」

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エレミヤ書からお話しています。きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。8節に「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」とあります。そうです、イスラエルの神、主は、苦難の時の救い主なのです。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」

日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。

イスラエルでは、水はとても貴重なものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに価値あるものだったのです。日本では水道の蛇口をひねればすぐに水が出てきますが、イスラエルではそうではありません。水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何でしょうか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に満たすことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
 イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
 神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。

 それは、いにしえからの昔から警告されていたことでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていたのです。ですからこれは初めてのことではありません。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことだったのです。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの昔からの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。

その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」

ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこは権威と格式がある場所で、そこで町の役人たちが問題について討議したり、商人たちが取引を行ったりしていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。

「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もすることができないからです。同じように私たちも、いのちの水である神様がいなければ何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。

それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも深刻な影響を及ぼすと言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」

以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季の二つの季節しかありません。この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で、「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができない雨です。そうでないと地面が割れて種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で、「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。

それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」どういうことでしょうか。この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになるということです。つまり、エルサレムだけでなく、農村部だけでもなく、野山に至るまで国全体が打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうことになります。しかも人間だけでなく動物に至るまでもです。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。

また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
  新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅱ.主の御名のために(7)

次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。

このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。

エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。つまり、私は富んでいる男なのです。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
  エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。

出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」

エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でもわかっていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。

しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。

でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
  かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。

またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。

家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。

詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
  また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。どんなに虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。

8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」

言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。

アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。

エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。

主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

エレミヤ13章12~27節「酒壺に満たされた酒」

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きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回は、ぼろぼろになった帯についてお話しました。それはユダとエルサレムの大きな誇りを表していました。主はその帯をぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、行動を通しての預言はもっと力を感じます。

きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて話されましたが、たとえ話や例話を巧みに用いて語られるとピンとくるというか、わかりやすく感じます。このたとえを通して主は何を語ろうとされたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民はいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないので、主は彼らの酒壺を怒りの酒で満たされるのです。

Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」

主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が神の怒りで満たされるのです。

それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。

これは、神様が徹底的に彼らをさばかれるということです。具体的にはバビロン捕囚の出来事を指しています。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。それで、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」

それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちはこれっぽっちもありませんでした。たとえば、主が「酒壺には酒が満たされる」と言っても、「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。

ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思ってやっていることが自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。

ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。やがて闇に包まれる時がやって来ます。夕暮れとなって何も見えなくなる時がやって来るのです。その時では遅いのです。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶にとご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのトラクトのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますというメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じたと言います。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたもこの天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来る。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。

16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。イエス様はこう言われました。「9 昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」(ヨハネ11:9~10)
 イエス様は世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。でも、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かいておられますが、いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられているのです。それに応答しなければ、闇があるだけです。

もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通でしょ。なのにエレミヤはそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。

これが私たちの主の涙でもあります。主の心なのです。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を十字架につけた人たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。

ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。

Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」

高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきがここに宣言されています。18節の「王」とは、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので、後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。

そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らが王の位から引きずり降ろされるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。

20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるのです。羊は羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあってもです。主がともにおられますから。主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも彼らは真の羊飼いではなく他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも言えることです。神との関係を無視し、この世に解決を求めるなら同じような結果を招いてしまうことになります。

それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国に対抗するために神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。

その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それは、多くの咎のためです。その咎のためにあなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うことになるのです。あらゆる不幸の原因がここにあります。すなわち、神を神としないことです。

交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」という話を聞いたことがあります。それと同じように罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で悔い改め神に立ち返らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの心を神に明け渡して(23-27)

では、どうしたら良いのでしょうか。ですから第三のことは、あなたの心を神に明け渡してくださいということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」

「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。できません。やろうとした人がいました。マイケル・ジャクソン。でもできません。表面的にはできるかもしれませんが、完全に変えることはできません。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪人を善人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることはできなということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。

使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
  だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造です。全く新しい人として造り変えていただくことができるのです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。猫や猿が人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければなりません。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人として生まれ変わることができるのです。ハレルヤ!

それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。どうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去ったのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だと。持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。神がキリストにあって新しくしてくださいます。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。

27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。

この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることはありません。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

エレミヤ13章1~11節「ぼろぼろになった帯」

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きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られたのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならないという意味で、洗濯してはならないことを意味していたからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も洗わないものを身に着けるのは不衛生です。たとえば、私が同じシャツを何週間も着ていたらどうでしょう。汚い!と思うでしょう。まあ、そこまで見ている人はいないと思いますが・・。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことをしなければならないのか」と思ったかもしれませんが、主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範です。私たちも聖書を読んでいると時々、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、それでもエレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、長さはアメリカンフットボールのコートの1つ半、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に考えて、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりにする必要はないと従おうとしないことがありますが、考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれに従うことが大切です。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか「みことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次のステップに進めないということです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。4節です。「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、ユーフラテス川まで行くには相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはエレミヤの故郷アナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方がこの後で主がこの一連の行動の意味を説明される時、その深い意図が明らかとなるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですか。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・。皆さん、知っていますか?聞いたこともないでしょ。これは世界三大珍味の一つで高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは、他にフォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はもう一度ユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐って、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇りと何でしょうか。誇りとは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し自分の考えで進もうとすること、これが誇っているということ、高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆にへりくだっている、謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しいということを「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の思いを全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になっ+た心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それがへりくだっていると言うことなのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それはへりくだっているようでも誇っています。謙遜であるかのようでも高慢なのです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持とうとしないのです。「そういう道もあるでしょうね。でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であるということ、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司とは礼拝を司る者ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。そこまで私たちと一つになりたいのです。これが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これがイスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、これが私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

エレミヤ12章7~17節「絶望の中にある神の希望」

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クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。
10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。
「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。

エレミヤ12章1~6節「どうして、どうして、どうして」

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きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

エレミヤ11章11~23節「実りの良い、緑のオリーブの木」

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きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」
 主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは既に7:16にもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権であるらです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分の言うことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにもちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神様との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話の線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「それで」とか、「そこで」という接続詞があります。

「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」    

つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、それらは、決して彼らを救わないということです。「犠牲を供えている神々」とは、偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまであちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけのことです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決はあなたが罪を悔い改めて、真の神に立ち返ることです。あなた自身が変えられることです。そのことを忘れないでください。

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。ヨシヤ王の宗教改革はB.C.621年でした。その時ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後(B.C.609)、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていました。元の状態に戻ってしまったのです。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

これは私たちにも言えることです。信仰が単なるパフォーマンスになってしまうことがあります。信仰が私たちの生活の中に根差し、私たちの生活を変えるところまでいかないことがあるのです。私たちも考えなければなりません。私たちの中には、町の数のほどの偶像はないかということを。私たちの中心に主イエスがおられ、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神の御霊が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように祈りましょう。

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

これは、とりなしの祈りの禁止令です。ここで主はエレミヤに、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的にはいけにえをささげるために来ていましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかというのです。彼らの神殿で行う宗教的儀式というは彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。主はかつて彼らの名を「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれました。ところが、その美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。それは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。こうしてイスラエルはみな救われます。神の賜物と召命は変わることがないからです。すごいですね、神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

にもかかわらず、その「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主が」とありますが、彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル神を礼拝して、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が接ぎ木してくださったからであり、一方的な神の恵みによるのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうことがあるということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことをすっかり忘れてしまいます。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満といったものが消え去り、感謝が満ち溢れるようになるのではないでしょうか。

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。それを計画していたのは何と、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。彼らはエレミヤの語る主のことばを聞いて「ウザい!」と思っていました。そして彼を殺そうとしていたのです。エレミヤ当初その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださいました。

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、そのような時に限って、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

  • 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
  • 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
  • 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
  • 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それが21~23節にあることです。それは、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

あなたはどうですか?不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。一難去ってまた一難です。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。

エレミヤ11章1~10節「この契約のことばを聞け」

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エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。

エレミヤ10章17~25節「あなたの道を主にゆだねよ」

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きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから長い旅に出ることになるからです。それはGo to travelのような楽しい旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうのです。でも彼らには信じられませんでした。当時はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配していました。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒し、南ユダを滅ぼすことができるというのでしょうか。そんなことはあり得ないと。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。そんな神の民を、どうやって滅ぼすというのか。そんなこと絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそういうことがあっても何度か生き延びることができましたが、今度はそういうことはない。今度こそ間違いなく放り出されることになるいう、神の強い意志が表されています。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されるということです。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされるとか、そのすべての綱が断ち切られるというのは、彼らの土地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節では「わたしは悲しい」とか、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また、20節でも「私の天幕は荒らされ」とか、「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。「私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ」と言っています。彼らの天幕が荒らされるといっているのではありません。彼らの子らが彼らから去ってというのではないのです。自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られると言っているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞ユダヤ人をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない、そういう愛の絆で結ばれていたのです。

そしてそれは、私たちに対する神の愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、「この傷は癒しがたい。」「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と言ってくださるのです。そしてその通りに、主は私たちの罪を負ってくださいました。十字架の上で。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは私たちが負わなければならない病を、その身に負ってくださいました。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、それはちょうどこのエレミヤ書が書かれた約100年前ですが、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章です。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言したものですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

やがて来られるメシヤは、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、彼が代わりに負ってくださったからです。それが十字架です。ここに神様の私たちに対する愛がいかんなく表されていると思います。

クリスチャンのシンガーソングライターで岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんはクリスチャンになって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たちに対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいとどれほど思ったことでしょう。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。神は罪に苦しんでいる私たちを見て、代わりに死んでくださったのです。これこそわたしが負わなければならない病だと言って。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されました。これが神の愛です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ひとり子さえも与えてくださる愛、神様の愛は本当に偉大ですね。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

次に、22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

ここでエレミヤは一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来る、という声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節には、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」とあります。

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのは神様です。神によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。箴言16:9にはこうあります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。

「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束ですね。人は神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。ですから、どうぞ皆さん安心してください。

あなたはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5にはこうあります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

また、箴言3:5-6にもこうあります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)

ある人のクリスチャンの証です。主に示された道を進もうとした時、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかにやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

最後に、24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

これは、エレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないということを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈っています。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくだるようにと祈っています。なぜなら、彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったのに、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

でも私たちは先に、神がエレミヤにこう言われてことを知っています。「この民のために祈ってはならない。」(7:16)彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないということを。それは11:11とか、11:14にも出てきます。それなのに、エレミヤはこの民のために祈っているじゃないですか。これはどういうことでしょうか。

よく見ると、エレミヤは民のために祈っていません。彼は自分のために祈っています。ここには、「主よ、私を懲らしめないでください。」とか、「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と言っています。ユダの民のためではなく自分のために祈っているのです。しかし、その自分というのはだれかというと、ユダの民の代表としての自分です。ですから、直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵というか、賢さを感じます。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、これは神から与えられたエレミヤの知恵なのです。それは神の願いでもありました。それほどまでに民を愛していたからです。それが私たちの神です。神は、ご自身の民を冷たく突き放すような方ではありません。神はあなたが救われるようにと祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神様です。ここまで考えてくださるのが私たちの神様なのです。このような神の愛にあなたはどのように応答されますか。

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したことでしょう。と思いきや、26:8~11を見るとそうでないことがわかります。ここにはこうあります。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 信じられません。主が語れと言われたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。でも神が特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができました。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神を信じて、神の道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召しを受け、会津若松市で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町という町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝にお邪魔したことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間伝道してたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神様なのに、受け入れるのはごくわずかです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけの人を救いに導いたかとか、どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたがどれだけ主に忠実であったかということ、どれだけ誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。