きょうは、エレミヤ書15章後半の個所から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節の御言葉から取りました。
「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」
前回のところでエレミヤは、自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔しました。10節でしたね。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を生んだので、私は全地にとって争いの相手、口論する者となっている。」それは彼が、エルサレムが滅びるという極めて悲惨な預言をユダの民に語らなければならなかったからです。そしてそれを聞いた民が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。必ず主は彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。再び彼は神に不平をもらすのです。それが今日の箇所です。そして、それに対する神の答えがこれだったのです。「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)
まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。これは実に正直でストレートな祈りです。自分の思いの丈をぶつけています。言葉で飾るようなことをしていません。
15節で彼は、「私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。」「私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」と言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えているのです。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したということです。そしたらそれが楽しみとなり、心の喜びとなりました。リビングバイブルでは、「有頂天となった」と訳していますが、そういう意味です。これは、飛んだり、跳ねたりして喜ぶ様を表しています。御言葉を食べたら、そのあまりの美味しさに小躍りするくらいうれしくなったというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。それは、患難や苦難が無くなるということではありません。神の御言葉を食べて喜んでも、患難や苦難があなたを襲うことがあります。人々から誤解されたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることがあります。でも違うのは、そのような中にあっても、神の御言葉があなたを支えてくれるということです。エレミヤは神の御言葉によって支えられていました。彼が神の御言葉を食べていなかったら、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。御言葉を食べて、御言葉を味わい、御言葉を楽しみ、御言葉を心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!神様を信じたって何の役にも立ちません。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは神の御言葉です。イエスのことばを聞いてそれを食べ、それを楽しみ、それを喜び、それに従う人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることがないのです。
それでも、エレミヤは傷ついていました。神の御言葉食べてそれを楽しんでいても、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言ってしまいます。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
どういうことでしょうか。エレミヤはここで神様に向かって、「あなたは偽り者だ!」と言っているのです。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか。私はいつまで続まなければならないのですか。私の打ち傷は治らず、癒されません。そんなのおかしいじゃないですか。あなたは約束してくださいました。あなたはいのちの水の泉だと。だから私はあなたに信頼したのです。それなのに、あなたに頼ってもあなたは答えてくれません。それは欺く小川の流れのようです。当てにならない水にすぎません。そう言っているのです。これは本来言ってはいけないことばです。神様に不平不満をもらしているのですから。
この「小川」というのは、「ワディ」と呼ばれる川のことですが、この川は雨の季節は水が流れていることはあっても、乾燥した季節は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういう水のことです。あるようでない。あるように見せかけても実際にはありません。エレミヤは神様をこの当てにならない小川にたとえたのです。あると思ったのにない。神様は欺く小川の流れだと。全く役に立たない。祈っても答えてくれない。期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきです」なんて言えません。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼になっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いを正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信じていいんですかと。
私たちにもこのようなことがあります。落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることがあります。でも、エレミヤのようにそれを正直に神に訴えることができません。ちゃんと祈らなければならないと思っているからです。それで美辞麗句を並べて、心にもないことを言ってしまうのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛め苦しんでいますが、あなたはもっとひどい苦しみを受けられました。あなたは十字架で「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。ですから、私もあなたの御言葉に従ってあの人を赦します。あの人を愛します。あの人のために祈ります。どうか、あなたのお力を与えてください。アーメン」
すばらしい祈りです。でも本音は違うでしょ。本当は憎いのです。赦せないのです。ムカついています。それなのに、きれいな言葉で祈らなければならないと思っています。クリスチャンだから。一応。
でも神様は、あなたの心の思いを全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はなのです。あなたの正直な気持ちをエレミヤのように神様に訴えていいのです。なかなか祈れないという人の問題はここにあります。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。だから祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。仮面を被ったもう一人の自分が祈っているかのような、そんな感覚さえ抱いてしまいます。しかし、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりをする必要はありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に祈っていいのです。
詩篇を見るとそういう祈りがたくさん出てきます。詩篇109篇などはそうです。その中でダビデは敵に仕返ししてくだいというだけでなく、敵がことごとくのろわれるようにしてくださいとまで祈っています。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様の教えを知っている私たちにとっては戸惑いを感じますが、それでいいのです。自分の心の思いを正直に主に申し上げることが大切なのです。
私は、1993年に初めて韓国に行きました。当時ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われていた教会がソウルにあって、その教会が主催した牧師のセミナーに参加したのです。教会の信徒さんが「ぜひ先生も行って恵まれて来てください。その費用は私たちが献げますから。先生が恵まれることで私たちも恵まれますから」と、背中を押してくれたのです。それは光林教会という教会でした。今でも覚えています。礼拝が始まると同時に礼拝堂の窓のカーテンが自動的に閉まるのです。すると講壇の前にいたオーケストラが賛美歌を奏でました。「来る朝ごとに」でした。荘厳な雰囲気の中で荘厳な曲が奏でられ、体が震えました。あたかも天国にいるかのような光景でした。
私たちは、その教会が所有している祈祷院に宿泊したのですが、そこには毎晩のように多くの信徒が祈るために来ていました。何を祈っているのかわかりませんが「チュよ、チュよ」と犬の遠吠えのような大きな声が聞こえてきました。私も隣の部屋で祈っていましたが声が気になってなかなか祈れませんでした。
そこで担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈るんですよと。韓国人はそういう国民性なのかと驚いて、もっと大きな声で祈りましたが、ナイーブな私にはやはりうるさくて祈れませんでした。でも韓国の兄姉は違うんですね。もっと大きな声で祈ります。他の人は関係ありません。全く視野に入ってこないのです。ただ主を見上げて、「チュよ、チュよ」と叫ぶのです。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。
当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会もそうでした。私は徹夜祈祷会にも行きましたが、11月の末のとても寒い時ですよ。教会を出たところで多くの人たちがあちこちでひざまずいて祈っているのです。中では礼拝形式で祈祷会が持たれていましたが、集会の終わると多くの兄姉が講壇になだれ込み、「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っていました。それはもう祈りじゃないです。叫びです。主に向かって心を注いで叫んでいるという感じでした。飢えた魚がえさを求めるように。周りの人がどう思うかなんて関係ありません。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤのつぶやきや疑いに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんなことを祈るなんてひどいヤツダとか、私を疑うなんてとんでもないことだとか、お前のような者はもうわたしのことばを語る資格などないとか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを受け入れてくださいました。19節からのところで、その祈りに対して主が応答していることからもわかります。正直に言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それが祈りです。それがエレミヤの祈りでした。祈りとはまさにコミュニケーション、対話です。それがこの中に見られるということです。
私たちは神様とこのようなコミュニケーションを取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈ります、という通り一辺倒の祈りではなかったでしょうか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わってはいなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあるかもしれません。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいのです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもってとりなしてくださいますから。ローマ8章26節にこうあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエスが、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神様に対して自分の気持ちを隠す必要はありません。仮面を被らなくてもいい。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢することができません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」これでいいんです。
でも、これで終わってはいけません。ここが重要なポイントです。これを神に訴えるとはどういうことかということです。これを神に訴えるとは、だから助けてください!ということなのです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにということではなく、神様に助けを求め、神様がその力を与えてくださるように願うことなのです。神様はあなたの本音を知っておられますから。正直な気持ちを知っておられますから。それをまず神様にぶつけない限り何も始まりません。それを正直に訴えたうえで神に助けを求める。そこに主が働いてくださいます。それを隠したまま、ただことば巧みに自分を霊的、信仰的な者であるかのように見せかけると、そこに「偽善」が生じることになります。そうじゃなくて、そんなあなたのやるせない思い、正直な思いをありのままに神様に訴えて、その上で神様にきよめていただく、助けていただく、それが神様が望んでおられることなのです。
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。19節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、疑いに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神様を疑ったからではありません。神様に本音で訴えたからではないのです。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであると失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていました。エレミヤは、そんなことならいっそのこと民といっしょになって不信仰でもいい、その方がよっぽど楽だと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは神を疑うほどまで落ち込んでいました。それは預言者としては失格でした。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていたのです。これはエレミヤの生涯における最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないでください。まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。そして、もし、彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはなりません。「彼ら」とはユダの民のことです。エレミヤは神の預言者として神に立てられた器ですから彼らに流されたり、彼らの影響を受けるべきではない。預言者としての使命を果たしなさいということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えてくださいました。20~21節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに繰り返して語られました。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
これと同じことを、パウロはこう表現しています。Ⅱコリント4章7~9節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストのこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「土の器」の「の」を取ると、ただの「土器」です。皆さん、私たちはただの「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
皆さん、私たちの人生にはポッカリと穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然ポッカリ穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇することがある。突然病気になったり、事故に遭ってしまった、会社が倒産した、会社は大丈夫だけれども、自分が失業した、愛する人を突然亡くした、というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明けて、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。