ヨハネの福音書2章1~11節「最初のしるし」

きょうは、ヨハネの福音書2章1節から11節にあるカナの婚礼の出来事から、キリストの最初のしるしを学びたいと思います。11節に、「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちも信じた。」とあります。これは最初のしるしでした。しるしとは何でしょうか。下の欄外の説明に、「証拠としての奇跡」とあります。ですから、これはキリストがこんなすごいことができるんだぞということを誇示するためではなく、キリストが神の子であるという証拠としての奇跡だったのです。ヨハネの福音書にはこの「しるし」が七つ記されています。そしてこのカナの婚礼の奇跡は、その最初のしるしでした。どのような点でこれがしるしだったのでしょうか。

きょうは、この最初のしるしからキリストがどのような方であるのかを、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.ぶどう酒がありません(1-3)

 

まず1節か3節までをご覧ください。

「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。」

 

「それから三日目に」とは、イエスがナタナエルとお会いした時から三日目にということです。ガリラヤのカナで婚礼がありました。ガリラヤのカナは、イエス様が育ったナザレという町から約15キロメートル離れた所にありました。そこで婚礼が行われたのです。その婚礼にイエスの母マリヤとイエス、そして弟子たちが招かれていました。誰の結婚式だったのかはわかりません。もしかすると新郎新婦のどちらかが、イエスの母マリヤと親戚だったのかもしれません。というのは、結婚の宴会の席でぶどう酒がなくなったとき、イエスの母マリヤが気を遣っているからです。一般の招待客なら接待に気を遣うということはないでしょう。そのように接待に気を遣っていたということは、彼女がもてなしをする側にいたということ、つまり、新郎新婦ととても近い関係であったと考えられます。ですからイエス様も招かれていたのでしょう。そして、弟子たちも招かれていました。

 

さて、このすばらしい結婚式で一つのトラブルが起こりました。ぶどう酒がなくなってしまったのです。ユダヤの結婚式では、ぶどう酒がなくなるということは絶対にあってはならないことでした。なぜなら、それは祝いの象徴、喜びの象徴であったからです。

ユダヤでは、結婚のお祝いが一週間続きました。親戚、友人、そのまた友人と、とにかく大勢の人を招いてみんなでお祝いしたのです。最近は、婚姻届けを提出して終わりケースも少なくありませんが、当時のユダヤではそういうことはありませんでした。みんなを招いてお祝いしたのです。ですから、ぶどう酒も相当量用意しなければなりませんでした。結婚式においてぶどう酒がないということは考えられないことだったのです。「ぶどう酒がなければ喜びもない」ということわざがあったほどです。ぶどう酒はそれほど大切なものでした。そのぶどう酒がなくなってしまったのです。

 

すると、母マリヤはどうしたでしょうか。彼女はイエスのところに行き、こう言いました。「ぶどう酒がありません。」どういうことでしょうか?どうして彼女はイエス様の所へ行き、このように伝えたのでしょうか?他に方法がなかったのでしょうか。たとえば、他の人のところに行ってぶどう酒を借りてくるとか、急いで町へ行って買ってくるとか考えられたはずです。それなのに彼女はまずイエスのところへ行き、「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。ただその状態をそのまま報告したのです。

 

ここにはマリヤの夫ヨセフは全く出てきておりません。おそらくヨセフは若くして死んでいたのでしょう。ですから、マリヤにとって頼りになったのは長男であったイエス様だったのです。彼女は、困った時はいつでもイエス様に相談し、頼っていました。

しかし、それはイエス様が長男であったからというだけでなく、イエス様がどのような方であるかを、彼女はよく知っていたからです。すなわち、この方はいと高き神の子であるということです(ルカ1:32)。マリヤはそのことを心に留めていました。そして、イエス様と共に過ごす中で、確かにそうだという確信を持っていました。ですからこれをイエス様のところに持って行けば、イエス様が何とかしてくださると信じていたのです。それがこの「ぶどう酒がありません」という彼女の言葉だったのです。

 

このことはとても大切なことです。私たちの生活の中にも、時としてぶどう酒がなくなるということが起こります。そのような時、自分でどうしよう、こうしようと考えるのではなく、それをまずイエス様のところへ持って行き、そのまま申し上げればいいのです。しかし、それをイエス様のところに持っていくよりも、自分であれやこれやと考えてしまうことが多いのではないでしょうか。

 

先月末に起こった台風24号は、ものすごい強風で甚大な被害をもたらしましたが、我が家の物置も風にあおられて倒れてしまいました。ただ倒れただけならよかったのですが隣の家の方に倒れてしまったので、駐車場においてあった隣の車に傷ついてしまいました。

翌朝早く隣の奥さんが来られたので、「えっ」と思って駐車場に行ってみると、無情にも物置が隣の家の方に仰向けに倒れていました。

それを見たとき一瞬「どうしよう」という思いがよぎり、「保険がきくかなぁ」と思いました。本来であれば、「本当にごめんなさい。」と言うべきところなのに、保険がきくかどうかしか考えられなかったのです。気が動転していたのです。自分で何とかとなければならないと、あれやこれやと一瞬のうちに考えました。

でもこういう時こそマリヤのように言うべきです。「ぶどう酒がありません。」自分であれやこれやと考える前に、その状況をそのまま申し上げるべきだったのです。

後で自分の姿を思い起こして、本当に情けないなぁと思いました。イエス様を信じていると言いながらも、保険のことしか考えられませんでした。信仰は持っていても、いざとなったらその信仰を働かせることができないのです。霊的なことは神様に、でも実際のことは自分でと、自分で解決しようとする思いがあったのです。

 

Ⅰペテロ5章7節にはこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

私たちが心配するのではなく、その思い煩いをそのまま神様にゆだねなければなりません。「神様、私は今こんな問題を抱えているんです」と正直に申し上げなければなりません。

「我が家の家計が火の車です」

「うちの息子は言うことを聞きません」

「妻が私を敬ってくれないのです。」

「夫があまりにも身勝手です」

と、正直に申し上げればいいのです。とにかく、自分の中にある思い煩いをそのまま神にゆだねなればいいのです。

 

私たちはどうしてもこのことは人には話せないという思いがあります。特に日本では昔から武士道の精神がありますから、家の恥をさらけ出してはならないという思いがどこかにあります。「そんなことを人に言うもんじゃない」「恥さらし!」それで、自然に口をつぐんでしまうのです。

しかし、聖書は全く逆のことを教えています。あなたにもし思い煩いがあるなら、心配事があるなら、それをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 

マリヤは自分の心配事をそのままイエスに伝えました。そのように私たちもまずイエス様のところへ行き、自分の心配事を伝えなければなりません。神が私たちのことを心配してくださるからです。

 

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(4)

 

次に4節をご覧ください。マリヤの訴えに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。「すると、イエスは母に言われた。『女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。』」

 

どういうことでしょうか?自分のお母さんに向かって、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」というのは・・。あまにも失礼じゃありませんか。日本語に訳された言葉を読むと、何ともぶっきらぼうで冷たく聞こえるかもしれませんが、実はそうではありません。

この「女の方」という呼び方は、当時、敬意をもって女性に呼びかけるときに用いられた言葉でした。また、「あなたはわたしと何の関係もありません」という言葉は、あなたとわたしは何の関係もないということではなく、あなたとわたしの関心は違いますという意味です。この言葉を直訳すると「あなたにとって何か、そして、わたしにとって」となります。

ぶどう酒の問題は、マリヤにとって最大の関心でした。ぶどう酒がなくなってしまったら結婚の宴会が台無しになってしまいます。ですから、マリヤはこの問題を何とかしなければなりませんでした。

しかし、イエス様の関心は違ったところにありました。イエス様の関心は、罪の赦しと永遠のいのちにありました。それがその次のイエス様のことばです。「わたしの時はまだ来ていません。」わたしの時はまだ来ていませんとは、どういうことでしょうか?

 

イエス様が「わたしの時」と言われるとき、それはご自分が十字架にかかる時のことを指していました。たとえば、ヨハネの福音書7章6節にはこの「わたしの時」が出てきます。仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていたとき、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしておられたので、イエス様はユダヤを巡ろうとはされなかったのですが、そのときイエス様の弟子たちが、「そんな隠れたことをしていないで、公に自分をこの世に示したらいいんじゃないか」と言ったとき、イエス様はこのように言われました。「わたしの時は来ていません。」

ところが、イエス様が十字架におかかりになられる直前になると、イエス様は、はっきりと、言われました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)つまり、イエス様が言われた「わたしの時」というのは、十字架にかかられる時のことだったのです。これは単に奇跡を行うかどうかの時ではありません。十字架へとつながっていく時なのです。

 

ですから、ここでイエス様が最も関心を持っておられたのは、ご自分がすべての人の罪のために十字架で死なれることでした。イエス様は、人々を罪から解放し、罪の赦しと永遠のいのちを与えるためにこの世に来てくださいました。それがイエス様の最大の関心事でした。そして、ぶどう酒は、その十字架の血を象徴するものだったのです。

 

でもイエス様はマリヤの訴えに無関心ではありませんでした。イエス様の返事は、マリヤにとって不思議に思えたかもしれません。でもこれは、「愛し尊敬するお母さん、わたしの関心とあなたの関心は少し違います。わたしの関心を成就する時はまだ来ていませんが、でも心配しないでください。この問題をわたしに任せてください。そうすれば、わたしのやり方で解決しましょう。」ということだったのです。

 

ですから、イエス様は決してマリヤを冷たくあしらわれたのではなかったのです。それはマリヤがこのことばを聞くと、手伝いをする人たちに「あの方が言われることは、何でもしてください。」と言っていることからもわかります。それはマリヤがイエス様の言葉を聞いて、とにかくイエス様にこのことを任せておけば大丈夫だと思ったからなのです。

 

そうです、イエス様はそれがご自身の関心とは違ったことでも、それが片田舎の小さな村の、小さな結婚式の、しかもぶどう酒がなくなるという小さな問題であっても、ちゃんと配慮してくださる方なのです。

イエス様はあなたの人生の小さな問題にも関わってくださいます。そして、ご自分の栄光を現してくださるのです。だから、こんな小さなことを祈っても無駄だなんて言わないで、どんな小さなことでも、イエス様に祈るべきです。「イエス様、私は今、こういう状況なんです。こういう問題を抱えています。この問題を何とかしてください。私をあわれんでください。」そう祈ればいいのです。

 

Ⅲ.水がぶどう酒に(6-11)

 

さあ、イエス様の言葉を聞いたマリヤはどうしたでしょうか。5節をご覧ください。「母は給仕する者たちに言った。『あの方が言われることは、何でもしてください。』」

 

すると、イエス様は給仕する者たちに言われました。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」

そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つおいてありました。それは二あるいは三メトレテス入りのものでした。一メトレテスは約40リットルですから、80リットルから120リットルの大きさの水がめだったということです。

 

この水は手足を洗うために使われました。ここに「ユダヤ人のきよめのしきたりによって」とありますが、当時のユダヤ人たちは、外から帰って家に入るときや食事の時に、また、汚れた身をきよめるために、水で手足を洗う習慣がありました。それで各家庭には、きよめの水を入れる水がめが置かれていたのです。

それはどちらかと言うと、衛生的な理由からというよりも、宗教的な理由からでした。旧約聖書の律法には、汚れたものに触れて身を汚した者は、水で身をきよめなければならないという規定があったからです。それで彼らは、外出したときに知らないうちに汚れたものに触れて身を汚したのではないかと心配して、家に入る前に水で身をきよめていたのです。それは、神様に受け入れていただくために大切な宗教的な儀式だったのです。

 

イエス様はその水を用いられました。この水がめを水で満たしなさいと言われたのです。普通なら、こんなことをしてどうするのと思うところでしょう。なんでこんなことをしなければならないのかと思うかもしれません。「何で・・」これが私たちの反応です。

でも彼らはマリヤの言葉を聞いていました。そのことばを心に留めていました。「あの方が言われることは、何でもしてください。」だから、彼らはそのとおりしたのです。

 

80リットルから120リットルと言ったら相当の量ですよ。私の家では天然水を注文していますが、一つ12リットルです。それを2階まで運ばなければならないのですが、かなり重くて大変です。水って結構重いんですよ。それを汲みに行かなければなりませんでした。村から井戸までは2キロメートルくらい離れていたと言われています。その距離を何回も往復しなければならないのです。でも彼らはイエス様が言われた通りにしました。

 

そればかりではありません。8節、今度は、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行かなければなりませんでした。イエス様は次から次にすべきことを指示されましたが、彼らはイエス様が言われることを、すべてその通りに行いました。

 

するとどうなったでしょうか。9節と10節までをご覧ください。

「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、 こう言った。『みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。』」

 

普通は、まず良いぶどう酒を出し、みんなの酔いが回ってくるとあまり質の良くない酒を出すものです。酔っぱらってお酒の味がわからなくなるので、もうどんな酒でもいいのです。ただ消費するだけですから。ですから、それを味見した世話役はびっくりして、「よくもまあ、こんな良いぶどう酒を取っておきました。」と言ったのです。イエス様に従った結果、花婿がほめられることになりました。

 

びっくりしたのは花婿の方だったでしょう。「えっ、俺は何にもしてないんだけれどなぁ・・・」彼は何も知りませんでした。舞台裏ではどんなことが起こっていたのかを全くしりませんでしたが、「よくもまあ、こんなに美味しいぶどう酒を取っておきましたね。」とほめられたのです。その鍵は何でしょうか。彼らがイエス様の言われたとおり行ったということです。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たかを知っていました。彼らがイエス様の言われた通りにした結果、そのようになったということを・・・。

 

私たちは時に「何でこんなことをしなければならないんだろう」「何であんなことを」と思うことがあるかもしれません。しかし、イエス様がおっしゃったとおりにするなら、神の栄光が現されるのです。ですから、たとえそれが自分にとって納得できないようなことであっても、期待をもって、「わかりました。イエス様、あなたがそのように言われるのならその通りにやってみます。」となると、次々と神の御業が展開していくようになります。

 

あるとき、イエス様はペテロにこう言われました。「深みにこぎ出し、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)

ペテロはびっくりしました。というのは、彼らは夜通し働きましたが、何一つ取れなかったからです。彼らは漁のプロでした。ずっとガリラヤ湖で魚を取っていました。だから魚のことは何でも知っていると思っていました。そんな彼らが夜通し働いてもだめだったのです。取れるはずがありません。時間的にも良くないし・・。

「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

と従ったとき、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになりました。イエス様のおことばに従うとき、すばらしい神の御業が現されるのです。

 

ところで、この水がぶどう酒になったという奇跡は、ただ水がぶどう酒に変わってめでたし、めでたしということだけではありませんでした。ここにはもっと深い意味があります。それは何かというと、律法との対比の中で、イエス様は私たちに本当の喜びを与えてくださるということです。

先ほど、この水が何を意味していたのかを説明しました。それは旧約聖書の律法によると、汚れたものに触れて身を汚した者は、この水できよめなければならないということでした。しかし、どんなに外側を水で洗っても、自分の内側の汚れや罪を洗いきよめることはできません。だからといって、その儀式を怠れば、罪責感が生じてきます。自分がちゃんとやらなければ、神様に受け入れられないという恐れや不安が出てきます。ですから、こうしたきよめの水は決して人々を罪から解放することはできないのです。

 

しかし、イエス様はこの水をぶどう酒に変えてくださいました。そして、そのぶどう酒は、人々に喜びを与えるものとなりました。つまり、この奇跡は、人は、一生懸命に努力して律法の行いをしても、本当の意味で自分をきよめることはできないし、喜びを与えることもできませんが、イエス様がもたらしてくださった十字架の血によって、私たちの罪は赦され、きよめられ、新しいいのち、永遠のいのちという、最上の喜びを与えてくださるということを示していたのです。

 

これが最初のしるしでした。それで弟子たちはイエスを信じたのです。この弟子たちは既にイエスを信じていました。ではこの「信じた」とはどういうことでしょうか。彼らは、この奇跡を通して、この方が神の子であるというだけでなく、今までの律法や儀式によっては決して与えられなかった自由と喜びを与えてくださる方であるということを知った、ということです。ですから、彼らは「イエスを信じた」のです。

 

皆さんはどうでしょうか。まだ「こうしなければならない」「ああしなければならない」といったことに縛られて、本当の自由と喜びを失ってはいないでしょうか。一生懸命に努力することは大切なことです。でも、そうした努力が自分を本当にきよめることができるのかというとそうではありません。あなたの罪を赦し、あなたを罪から解放し、あなたに真の自由と喜びを与えてくださるのは、あなたのために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じる以外にはありません。それ以外にあなたが救われる道はないのです。これがこの奇跡の意味していることでした。イエス様はこれを最初の奇跡として、ガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現されたのです。

 

そういう意味で、私たちの人生にイエス様をお迎えするということが最も重要です。水がぶどう酒に変わることによって人々に喜びがもたらされ神の栄光が現されたのは、そこにイエス様がおられたからでした。この婚礼にイエス様が招かれていました。それで、こんなにすばらしいことが起こったのです。

 

大切なのは、あなたの人生の中にもイエス様をお迎えすることです。あなたのどうしようもないその状況の中に、イエス様をお迎えしていただきたいのです。

「イエス様、私はあなたを必要としています。私には無理です。私がどんなに頑張っても自分をきよめることなどできません。イエス様どうぞ私の心の内側にお入りください」と願うことです。

「私は今子育てで苦しんでいます。どうしていいかわかりません。あなたが助けてください。」

「私たちの夫婦関係は壊れています。もう修復困難です。どうしようもありません。これまで一生懸命努力しました。でも夫は私を愛してくれません。妻は私を尊敬してくれません。もううちは終わりです。助けてください。」と祈ることです。

「うちの職場ではもう自分の居場所がないんです。一生懸命働いてきましたが、私はもうボロボロです。雑巾のようです。これ以上ここでは働けません。もう死ぬしかないのです。どうかあわれんでください。」

 

多くの方が悩み苦しんでいます。表面的には何の問題もないようでも、しかし、心の内側を探ってみると、心を開いてみて見ると、みんな苦しみを背負って生きています。それをだれにも話すことができなくて一人で苦しんでいるのです。

 

だから、みんなイエス様が必要なんです。イエス様にその心の内側に入っていただく必要があります。あなたの心の内側にもイエス様を迎えてください。そして、イエス様のおことばにしたがうなら、あなたも本当の自由と喜びを持つことができるのです。

士師記10章

士師記10章からを学びます。まず1~5節までをご覧ください。

Ⅰ.アビメレクの後に立ちあがった士師たち(1-5)

「アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んでいた。彼は二十三年間イスラエルをさばき、死んでシャミルに葬られた。彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいた。彼らは三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた。それらは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。ヤイルは死んでカモンに葬られた。」

「アビメレク」とはギデオンの息子です。彼は弟ヨタム以外のすべての兄弟を皆殺しにし、イスラエルの王として君臨しました。しかし神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に送られたので、彼もまたテベツの町でやぐらの上から一人の女が投げた石で頭蓋骨が砕かれて死にました。

アビメレクが死んだ後、イスラエルを救うために立ちあがったのがイッサカル人、ドドの子プアの息子トラでした。彼は6番目の士師としてイスラエルを治めました。彼はアビメレクの後のイスラエルの混乱期を鎮めた人物ですが、彼について聖書はあまり多くを語っていません。彼については、エフライムの山地にあるシャミルに住んでいたことと、23年間イスラエルをさばいていたということ、そして、死んでシャミルに葬られたということだけです。どうしてでしょうか。おそらく、士師記の著者にとってはその後に登場する勇士エフタに大きな関心があったからではないかと思います。エフタについては11章1節~12章7節まで続きます。そういう意味でこの10章は、エフタが登場するまでのエピソードがまとめられているのです。

3節にはヤイルが登場します。彼は7番目の士師です。彼についてはたった3節しか言及されていません。彼がギルアデ人の出身であったということ、また22年間イスラエルをさばいたということ、そして30人の息子がいたということ、また三十頭のろばと三十の町を持っていたということです。ろばは高貴な身分の人の乗り物ですから、彼の息子たちがろばに乗っていたということは、ヤイルがそれだけ富と権力を兼ね備えた人物であったということを示しています。また彼はギルアデの出身とありますが、ギルガルとはヨルダン川の東側の地域にあります。そこから士師が出たということは、主が東側の部族も忘れておられなかったことを表しています。

トラとヤイルは、アビメレクのように王になろうとはしませんでした。彼らは主からゆだねられた使命を忠実に果たし、イスラエルに富と繁栄をもたらしました。それは特筆すべきことのない平凡な時代だったかもしれませんが、だから悪いわけではありません。それはむしろ歓迎すべきことです。私たちの人生のほとんどは特筆すべきことのない平凡な日々の積み重ねですが、それこそ神の恵みなのです。何気ない「当たり前」の中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。

Ⅱ.苦境に立たされたイスラエル(6-9)

次に6~9節までをご覧ください。「イスラエルの子らは再び、主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に売り渡された。彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、十八年の間、ヨルダンの川向こう、ギルアデにあるアモリ人の地にいたすべてのイスラエル人を虐げた。アンモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったので、イスラエルは大変な苦境に立たされた。そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。」」

ヤイルが死んでカモンに葬られると、イスラエルは再び主の目の前に悪を行い、もろもろのバアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕え、主を捨て、主に仕えませんでした。ここには、彼らの霊的状況がさらに悪化していることがわかります。以前から拝んでいたバアルやアシュタロテといった神々に加え、アラムの神々やモアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々にも仕えるようになっているからです。アラムとは北の方のシリアのことです。また、シドンとは北の地中海沿岸地域、今のレバノンの地域です。それからモアブとはヨルダン川の東側の地域、アンモンは死海の東側の地域のことです。さらにペリシテ人の地域とは、地中海の沿岸地域のことです。つまりカナンのすべての神々に仕えていたと言ってよいでしょう。彼らは主を捨て、主に仕えるのではなく、こうした神々に仕えたのです。

それで主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に渡されました。ペリシテ人については13章からのところに出てきます。あの有名なサムソンが戦ったのはこのペリシテ人です。そしてアンモン人については、11章と12章に出てきます。

ペリシテ人とアンモン人はイスラエル人を打ち砕き、18年の間、ヨルダン川の川向う、ギルアデにあるアモリ人の地にいたすべてのイスラエル人を虐げ、アンモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったので、イスラエルは大変な苦境に立たされました。

ここにも士師記に見られるイスラエルのサイクルが見られます。これで6回目です。彼らが主に背いたのは。その度に彼らは苦しみ、主に叫び、何度も主に助けられたという経験をしてきたにもかかわらず、それでもまた同じことを繰り返しました。

これはイスラエル人に限ったことではありません。これは私たちにも見られることです。私たちも何度も主に背き、その度に苦境に陥り、主に助けを叫び求めることで、何度も主に助け出されたにもかかわらず、それでもまた同じことを繰り返してしまいます。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。背信、それに対する神のさばき、苦悩の中からの叫び、というのが士師記に見られるサイクルです。民が悔い改める時、神は必ず恵みをもって臨んでくださいます。この時のイスラエルの叫びに、主はどのように対応されたでしょうか。

Ⅲ.主のあわれみは尽きない(10-18)

10節から18節までをご覧ください。「10そのとき、イスラエルの子らは主に叫びました。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。」11主はイスラエルの子らに言われた。「わたしは、かつてエジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人から、12また、シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたを虐げてあなたがたがわたしに叫んだとき、あなたがたを彼らの手から救ったではないか。13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。14行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦しみの時には、彼らが救ってくれるだろう。」15イスラエルの子らは主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。」16彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。17このころ、アンモン人が呼び集められて、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。18ギルアデの民や、その首長たちは互いに言い合った。「アンモン人と戦いを始める者はだれか。その人がギルアデの住民すべてのかしらとなるのだ。」

イスラエル人の叫びに対して主は、「わたしはこれ以上あなたがたを救わない。」(13)と言われました。なぜなら、これまで何度もイスラエルが敵に虐げられて主に叫んだとき、主は敵の手から救い出してくださったのに、イスラエルは主を捨てて、ほかの神々に仕えたからです。だったら自分たちで解決すればいい、自分たちが選んだ神々に叫べばいいのではないか、そうすれば、そうした神々があなたがたを救ってくれるだろうから、というのです。何とも皮肉な話です。

ここで大切なのは、主がイスラエルを突き放したのは彼らを愛していないからではなく、救われた彼らが異国の神々のところに行ってしまったからです。もしそのようなことをするのであれば、救うということ自体に何の意味もなくなってしまいます。彼らが救われたのは彼らが主の民として主に仕えるためなのに、その主をないがしろにして他の神々に走っていくというようなことをするのであれば、そうした神々に助けを求めればよいと言うのは当然のことです。

神は真実な方であって、ご自身が約束されたことを破られる方ではありません。どんなことがあっても最後まで契約を守られる方です。しかしいくら神がそのような方であってももう一方がその愛に真実に応えるのでなければ、その契約自体が成り立ちません。不真実なのは神の側ではなく、イスラエルの側、私たち人間の側なのです。

するとイスラエルの民は、自らの罪の深さを悟り悔い改めました。「イスラエルの子らは主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。」

それが真の悔い改めであったことをどうやって知ることができるでしょうか。それは、彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に立ち返り、主に仕えたからです。真の悔い改めには、行動が伴わなければなりません。イスラエルの民は自分たちのうちから外国の神々を取り除き、主に仕えました。

これがただ悲しむことと、悲しんで悔い改めることの違いです。パウロはこのことをコリント第二コリント7章10~11節でこう言っています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。」

後にイスラエルは平和な状況の中で、また主に背いてしまうかもしれません。すぐに心変わりするかもしれない。でも、この時、イスラエルは真剣に悔い改め、切実に助けを求めました。

するとどうでしょう。それをご覧になられた主は心を動かされました。16節の後半部分には、「主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなった。」とあります。神はその心の叫びを聞いてくださいました。また裏切られるかもしれません。いやきっとそうなるでしょう。でも何度裏切られても、イスラエルが苦しみ、心から悔い改めるなら、主はその姿を見て忍びなくなるのです。

主のあわれみは、尽きることがありません。それは時代でも同じです。主は悔い改めるにあわれみを注いでくださるのです。主は怒るにおそく、あわれみ深い方です。そのあわれみのゆえに、私たちも滅びないでいられるのです。私たちもイスラエルのようにどうしようもない弱さ、愚かさがありますが、そんな者でも悔い改めて神に助けを叫ぶなら神があわれんでくださるのです。

哀歌3章22~23節にこのようにあります。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」

それは朝ごとに新しい恵み、あわれみです。尽きることのないあわれみなのです。ヨハネの福音書1章16節にもあります。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」「恵みの上にさらに恵みを受ける」とは、「恵みの代わりに恵みを受ける」という意味で、一つの恵みを受けたらそれで終わりということではなく、その代わりに新しい恵みを受けるということです。神の恵みは尽きることがありません。主の私たちに対する恵み、あわれみは尽きることがないのです。

だから私たちには望みがあるのです。私たちはこの神のあわれみによりすがり、いつも悔い改めて、新しい一歩を踏み出させていただきましょう。

ヨハネの福音書1章35~51節「キリストに会った人々」

ヨハネは、キリストが初めから神とともにおられた神であり、すべてのものを造られた創造主であると述べました。そして、この方は人となって私たちの間に住まわれました。それは神がどれほど恵みとまことに満ちておられるのかを示すためでした。ですから、この方を受け入れた人々には、神の子としての特権が与えられます。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けるのです。彼はこのことをバプテスマのヨハネの証言をもって証ししました。

 

きょうは、この方と出会った人たちの証言、つまり、バプテスマのヨハネの二人の弟子たちとヨハネの子シモン、そしてピリポとナタナエルの証言を通してキリストを信じる者の幸いについて見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.バプテスマのヨハネの二人の弟子(35-41)

 

まず、バプテスマのヨハネの二人の弟子たちの証言から見ていきましょう。35節から37節までをご覧ください。

「その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」

 

「その翌日」とは、バプテスマのヨハネが証をした翌日のことです。前日、主イエスが自分の方に近づいて来られるのを見たヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と叫びました。その翌日、彼が二人の弟子とともに立っていたとき、イエスが歩いて行かれるのを見たヨハネは、「見よ、神の子羊」と言ました。それを聞いたヨハネの二人の弟子は、イエス様について行ったのです。これが最初のクリスチャンです。

 

この「ついて行った」という言葉(原語のギリシャ語ではエーコルーセーサン)は、ただついて行ったということではなく、弟子としてついて行ったという意味です。つまり、イエス様の弟子になったということです。バプテスマのヨハネの二人の弟子は、キリストの弟子になることを決意したのです。このようにして彼らは、最初のクリスチャンとなりました。このように、最初のクリスチャンのほとんどはバプテスマのヨハネの弟子たちでした。彼らはヨハネの強力な証しによって、キリストの弟子となったのです。

 

38節と39節をご覧ください。

「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。」

 

イエス様は、ご自分につい来た二人の人を見て言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。」これはヨハネの福音書に記されているイエス様の語られた最初のことばです。イエスが「わたしに何を求めているのか」と言われた時、それはただ「私に何の用事があるのか」ということ以上の意味を持っていました。それは、あなたの人生においてあなたは何を求めているのか、ということです。だれでも何かを求めています。それが何であるかは自分でもよく分からないのですが、確かに何かを求めています。それはもしかすると自分の夢をかなえてくれるものかもしれませんし、自分が今必要としているものを満たしてくれるものであるかもしれません。それが何であるかは分かりませんが、確かに何かを求めています。この二人の弟子たちも何かを求めていました。それが何なのか、またどのようにして与えられるのかはわかりませんでしたが、ただ分かっていたことは、この方に従ってついて行けばきっと与えられるということでした。

 

それに対して、彼らは何と答えたでしょうか。38節には、「彼らは言った。『ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。』とあります。「ラビ」とは「先生」という意味です。敬称を込めた呼び方でした。彼らはまだこの時点ではイエスがどのような方であるかははっはりと分かりませんでした。それが分かるのはもうちょっと後になってからのことです。41節のところで、アンデレは「メシア」と呼んでいますが、これは「キリスト」、「救い主」という意味です。このように後で分かるようになるわけですが、この時点では分かりませんでした。分からなかったけれども、分かりたいと必死で求めていました。それが次の彼らの言葉に込められています。「どこにお泊りですか」どこに泊まろうとそんなのどうでも良いことではありませんか。なぜ彼らはこんなことを尋ねたのでしょうか?

 

これは彼らが単にイエス様が泊まっている場所を知りたかったということではありません。ヨハネ先生が証ししていた偉大な先生が泊まるところだからさぞかし立派な所だろうと、興味があったわけではないのです。彼らがこのように言ったのは、彼らがイエス様のそばにいて、イエス様のことばをじっくりと聞きたかったからです。イエス様がおられる場所を知り、イエス様の元にとどまり、イエス様と深い交わりを持ちたかったのです。

 

パウロは、ピリピ人への手紙3章7,8節で「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」と告白していますが、この「イエス・キリストを知ることのすばらしさ」のゆえに、すべてを損と思うほどであったわけです。同様にこの二人の弟子も、キリストを深く知りたかったのです。そのためには時間がかかります。ちょっとした立ち話で分かるようなものではありません。どこまでもイエス様について行くことによって、得ることができると考えたのです。

 

果たして、私たちはこの二人の弟子のように、キリストとの交わりを真剣に求めているでしょうか。少年サムエルが、「主よ、お語り下さい。しもべは聞いています。」と言ったように、主が語られる言葉を一つももらさないで聞きたいという思いで聞いているでしょうか。

 

家内が育ったアメリカの教会では礼拝の時間が大体1時間と決まっていて、少しでも説教が長くなると会衆はいらいらし始めるのだそうです。なぜなら、礼拝に来る前に家のオーブンをセットして出てくるので、ちょっとでも遅くなるとチキンが焦げてしまうからです。そのような態度でじっくりと神の御言葉を聞くことができるでしょうか。そういう習慣があるからか、家内はよく「あなたの説教は長い。日本人はよくみんな黙って聞いているなぁ。すごい!」と言います。でもそれは日本人がすごいのではなく、礼拝前にチキンをオーブンでセットして礼拝に出てくるのがおかしいのです。

イエス様がもてなしのために気をもんでいたマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)言われたことばはとても有名です。マリアが選んだ良い方とは何だったのか。どうしても必要な一つだけのこととは何だったのでしょうか。それは、主の足もとに座って、主のみことばに聞き入るということでした。

 

これが、私たちにも求められていることです。私たちがキリストの救いにあずかるために、また、救われてキリストを深く知るために、キリストがおられる場所に行き、そこでじっくりと御言葉を聞くこと、それがどうしても欠かすことができないことなのです。この二人の弟子たちが「どこにお泊りですか。」と尋ねたのはそのためでした。

 

さあ、それに対してイエスは何と言われたでしょうか。39節です。「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすれば分かります。』」これは、とても大切な言葉です。「分かったら、来なさい」ではなく、「来なさい。そうすれば分かります」。この順序が大切です。しかし、多くの人々は、これを逆にとらえています。分かったら、行こうとするのです。つまり、分かるまでは行かないのです。その方が科学的だと思っています。でもどうでしょうか。私たちは自分では何でも知っていると思っていますが、実のところ、本当に知らなければならないことさえも分かっていないということがあるのではないでしょうか。たとえば、自分自身のことです。自分自身と関係ないことについては意外とよく見えるのですが、いざ自分自身のことになると、客観的に観察しているつもりでも、全然見えていないということがあるのです。なぜなら、自分のことになると冷静になれないからです。そんな者が「分かったら、行こう」としたら、いつまでたっても行くことなんてできません。私たちの小さな頭で、この天地を創造された大きな方を理解しようとしても限界があるのです。

 

ですから、イエス様は「来なさい。そうすればわかります。」と言われたのです。この方にすべてをゆだね、この方のもとに行くなら、分かるようになります。これが信仰なのです。

 

彼らは、イエスが言われたとおり、イエスについて行きました。そして、イエスが泊まっているところを見ました。そしてその日、イエスのもとに留まりました。時はおよそ第十時とあります。この「第十時」ですが、ヨハネの福音書における「時」はユダヤの時間なのか、それともローマの時間なのかはっきりわかりません。しかし、4章6節にも「第六時」とあり、これがユダヤの時間で正午のことを指しているとすれば、この「第十時」もユダヤ時間と考えるのが普通だと思います。そうするとこの「第十時」というのは「午後四時」ということになります。つまり、彼らは一日中イエス様と一緒にいたということです。たった一日でしたがイエス様と一緒にいたことによって、二人は変わりました。どのように変わったのでしょうか。

 

40節と41節をご覧ください。

「ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。」

ここに二人がだれであったかが記録されてあります。一人はシモン・ペテロの兄弟で「アンデレ」であり、もう一人はだれであるかははっきりわかりませんが、多くの学者たちは、これを書いているヨハネではないかと考えています。しかし、わかることは、彼らはイエス様と一日中一緒にいて変えられたということです。それまで彼らはイエスのことを、敬称を込めて「ラビ」と呼んでいたのが、ここでは「メシア」と呼ぶようになりました。

 

「メシア」とは何でしょうか。メシアとは元々「油注がれた者」という意味ですが、旧約聖書では、預言者や祭司、王が任職する時に油が注がれたので、彼らのことを指して「油注がれた者」と呼ばれていました。しかし「メシア」という言葉が独特の意味を持ってくるのは、これが救い主を意味するようになったからです。つまり彼らはイエス様と一日中一緒にいたことによって、この方こそ来るべきメシア、救い主であると信じたということです。それは必ずしも完全な意味での霊的救い主としてのメシア観ではなかったかもしれません。キリストについての知識はまだ不十分だったでしょう。でも、私たちのあらゆる悩み、苦しみの根源である罪から救ってくださる救い主としてのメシアだと信じたのは確かです。

 

私たちもすぐにキリストについてのすべてを知ることはできないかもしれません。でもこの二人の弟子のようにイエスについて行き、そこでじっくりとイエスの御言葉を聞き、イエスにとどまるなら、必ず変えられていきます。「私たちはメシアに会った」という信仰の告白に導かれていくようになるのです。

 

Ⅱ.シモン・ペテロ(42)

 

次に、42節をご覧ください。

「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」

 

次にキリストに出会ったのは誰でしょうか?そうです、シモン・ペテロです。その

兄弟アンデレはイエスのところについて行き、イエスのもとにとどまって、イエスの御言葉を聞き、この方こそメシアであると確信しました。

 

そのアンデレが最初にしたことは何でしょうか。自分の兄弟をキリストのもとに連れて来ることでした。彼は兄弟シモンを見つけると、「私たちは、メシアに会った」と言って、シモンをイエスのもとに連れてきました。私たちがクリスチャンになってまずすべきことは、自分の家族や友人をキリストに連れて来ることです。聖書について説明しなければならないと言われたらできないかもしれませんが、自分の家族を教会に連れて来るということならできるはずです。アンデレはまず自分の兄弟シモンを見つけ、「私たちはメシアに会った」と言ってキリストに導きました。彼はイエスに会いたいと願う人を、イエスのもとに連れて来る奉仕をしたのです。すばらしい奉仕です。彼は決して表舞台で活躍する人ではありませんでしたが、キリストに会いたいと願う人がいればだれでもキリストのもとに連れて行ったのです。

 

イエスのもとに連れて来られたシモンはどうなったでしょうか。イエスはシモンを見ると、彼を見つめてこう言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」これはどういうことですか?

 

これは、シモンもイエスを信じたということです。どのようにしてそれが分かりますか?彼の名前が変わったことで分かります。ユダヤ人にとって、名は体人を表していました。ですから、名前が変わったということは、その人が変わったということなのです。たとえば、アブラハムの名前がアブラムからアブラハムに変えられた時、またヤコブの名前がイスラエルに変えられた時、それは神との関係が新しく生まれたことを意味していました。同じようにシモンという名前がケファに変えられたということは、彼が主イエス・キリストとの関係において新しい関係が生まれたことを意味していたのです。

 

「ケファ」というのは「岩」を意味するアラム語です。イエス様の時代、ユダヤ人は日常会話としてアラム語を使っていたので「ケファ」と呼びましたが、当時は国際語としてギリシャ語を使っており、新約聖書もギリシャ語で書かれたので、これをギリシャ語で書く必要がありました。そこでこれを言い換えて「ペテロ」となっているのです。しかし「ケファ」も「ペテロ」も同じ意味で、「岩」を表しています。ペテロのもともとの名前は「ヨハネの子シモン」ですが、イエス様は彼を「ケファ」「ペテロ」と呼びました。

 

生来のシモンは、おっちょこちょいで、感情的というか、すぐに気が変わってしまいやすい性格の持ち主でしたが、イエス様は彼に、不動の岩を意味する「ケファ」「ペテロ」という名前を与えられました。これは、イエス様がペテロの中にある潜在能力とか可能性というものを見抜いておられたということではなく、また、そうした隠されていたものを引き出すというのでもなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストとの新しい関係が、彼をこのような不動の者に変えてくださるというのです。

 

私たちは、このことから本当に慰めを受けます。私たちが生来シモンのようにどんなに変わりやすい性格の者であっても、キリストとの出会いによって、キリストとの関係が生まれ、私たちもペテロのように変えていただくことができるからです。ですから、生まれながらの自分のうちに何もないのを見ても失望してはなりません。キリストと出会い、キリストとの新しい関係に入るなら、私たちも全く新しい器に変えていただくことができるからです。

 

私は、聖書からペテロの記事を見るたびに、何だか自分のことを見ているような感じがして嫌になることがあります。「あなたが行かれる所ならどこにでも」と言ったかと思えば、次の瞬間には「知~らない」と手のひらを返したような態度を取ってしまいます。いつもコロコロと変わりやすい感情的な人間だなぅぁと、がっかりすることがあるのです。しかし、そんなペテロも変えられて、あのペテロの手紙の中で、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)と言うくらいに変えられたことを思うと、本当に希望が湧いてきます。

私たちはキリストとの出会いによって、また、キリストの中にしっかりととどまることによって、全く新しい者に造り変えていただくことができるのです。

 

Ⅲ.ピリポとナタナエル(43-51)

 

最後にピリポとナタナエルを見て終わりたいと思います。43節と44節をご覧ください。

「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。」

 

「その翌日」とは、ペテロがキリストを信じた翌日のことです。イエスはユダヤに近いヨルダン川のほとりからガリラヤ湖の方へ行こうとしておられました。そして、そこでピリポを見つけると、「わたしに従って来なさい」と言われました。この「従って来なさい」という言葉は、37節の「ついて行く」という言葉と同じ言葉です。つまり弟子してついて行くということです。しかも現在形で書かれていますが、現在形で書かれているということは継続を表しています。つまり、弟子としてずっと従って来なさい、という意味です。するとピリポはすぐに従いました。おそらく、彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身だったので、彼らからイエス様のことを聞いていたのでしょう。ですから、イエス様からそのように言われた時に、すぐに従うことができたのでしょう。

 

問題はもう一人のナタナエルという人です。45節と46節をご覧ください。「ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」」

 

ナタナエルという人はヨハネの福音書にしか出て来ないので、彼が誰なのかははっきり分かりません。ただ他の福音書を見ると、使徒たちについて記す時に、「ピリポとバルテマイ」というふうに、いつも二人ペアにして記していることから、バルトロマイではないかと考えられています。

 

そのナタナエルにピリポは、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言いました。これはどういうことかというと、旧約聖書に記されているメシアと会ったということです。今のように、聖書が一人ひとりの手にまだ渡っていない時代において、救い主を人々に証しするとき、聖書に記されている点を強調することは重要なことです。私たちもキリストを証しするとき、聖書から離れて、ただ自分の体験を語るだけではなく、聖書に記されているキリストを示していく必要があります。

 

ピリポの証しを聞いたナタナエルは、どのように応答したでてしょうか。46節を見てください。彼はこう言いました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」これはピリポが「ナザレの人」と言ったことに敏感に反応したのでしょう。「良いもの」とは救い主のことを指しています。旧約聖書のどこにナザレから救い主が出てくると書いてあるのか、というのです。なるほど、旧約聖書には救い主はナザレから生まれるとは書いてありません。ベツレヘムです。ナザレは救い主の両親が住んでおられたところでしたが、救い主はナザレから出るのではなくベツレヘムから出るのです。ですから、神は救い主の両親がナザレに住んでおられたにもかかわらず、旧約聖書に預言されていたように、彼らをわざわざベツレヘムまで旅をさせ、そこで生まれるようにはからわれたわけです。確かに、イエスはナザレの人で、ヨセフの子ですが、実際にはベツレヘムで、聖霊によって生まれました。

 

でもナタナエルにはそのことが理解できませんでした。自分では聖書をよく知っていると思っていたからです。だからそうでないことは全く受け付けられなかったのです。救い主がどのような方であるのかをきちんと調べないで、「ナザレ」という言葉を聞いただけで拒絶反応を示しました。このような人が意外と多くいます。聖書の話を聞く前からキリスト教は西洋の宗教だと決めつけているのです。それはここでナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っているのと同じです。

 

しかし、ピリポはナタナエルの反論にくじけませんでした。彼はナタナエルに、「来て、見なさい。」と言いました。とてもシンプルですね。「来て、見なさい。」来て、見てみたらどうですか。多くの人々は、ただ食べず嫌いで反対しているだけです。キリスト教が西洋の宗教だという理由だけで反対したり、自分の家には別の宗教があるから信じられないと言ったりします。まだ何も知らないうちに、ですよ。あり得ません。もし信じられないというのであれば、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触れて、実際に体験して決めるべきです。それなのに、まだ何も見ないうちに「キリストは信じられない」というのは変です。そういう人に必要なことは、来て、見ることです。

 

47節をご覧ください。ナタナエルがイエスの方に近づいて行くと、イエスは彼についてこう言われました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

どういうことでしょうか。彼は今、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったんですよ。「そんなの信じられない」と軽くあしらったのです。そんな彼を、「まさにイスラエル人です」とか、「この人には偽りがありません。」というのはおかしいでしょう。

これはイエス様が彼にお世辞を言っているのでも、へつらっているのでもありません。主がそのように判断して言われたのです。どうして主はそのように言われたのでしょうか。

 

48節をご覧ください。ナタナエルも不思議に思ってイエスに尋ねました。「どうして私をご存知なのですか。」するとイエスはこう答えました。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」

主はナタナエルとお会いする前から、ナタナエルのことを知っておられました。ピリポが彼を呼ぶ前から、彼がいちじくの木の下にいたのをご存知であられたのです。それにしても、「この人こそイスラエル人です」とか、「この人には偽りがありません」というのは言い過ぎではないでしょうか?いちじくの木の下にいたということで、彼をそのように呼ぶのは不思議です。たとえば、「私はあなたが来る前に、あなたがマクドナルドにいるのを知っていました。」と言われても、感激してイエス様を信じるという人はいないでしょう。

 

実は、いちじくの木は、ユダヤ人にとって特別の意味がありました。それは、平和と静けさです。ですから、ナタナエルがいちじくの木の下にいたというのは、いちじくの木の下で昼寝をしたり、休んでいるのを見たということではなく、祈っていたのを見たということなのです。いちじくの木の下で祈りながら、人生の意味や真理を捜し求めていたということです。それこそほんとうのイスラエル人です。つまり、イエス様はナタナエルとお会いする前から彼の外的生活だけでなく、内的生活も含めた彼のすべてを見通しておられたということです。

 

その言葉を聞いた彼は、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えました。私の心の思いをすべて読み取り、理解しておられる方、私の心の奥底にあることを見抜くことができる方、言葉では言い表せない私の魂のうめきを聞き取ることのできる方こそ神の子であられ、神の民であるイスラエルを統治されるお方であると告白したのです。

 

皆さん、キリストはこのようなお方です。キリストは私たちの心の思いのすべてをご存知であられます。私たちの心の奥底まで見通すことができる方なのです。この方の前に出る時、私たちはキリストの御前にひれ伏さざるを得ませんが、それなのに多くの人はキリストの御前に出てようとしません。ですから、ピリポが言ったことはとても重要なことです。「来て、見なさい。」

 

あなたがキリストのところに来て、キリストがどのような方であるのかを見るなら、キリストこそ神の子であり、神の民を治められる王であると告白するようになるでしょう。いや告白しないわけにはいきません。

 

最後に50節と51節のイエス様のことばを見ましょう。

「イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」どういうことでしょうか?

 

イエス様は、「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」と言われました。「それよりも大きなこと」とは何でしょうか。それは51節で、イエス様が言われたことです。イエス様はこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 

これは創世記28章にあるヤコブがベテルで体験した出来事が背景にあります。彼は霊的なことに長けていただけでなく、ずる賢い人間でしたから、兄エサウがおなかをすかせて猟から帰って来た時、一杯のスープと交換に、兄エサウの長子の権利を奪い取ってしまいました。そればかりでなく、彼は父イサクが自分の死が近いことを知り、愛するエサウを祝福しようとして、鹿を取って来て、それでおいしい料理を作って、持って来るようにと言うと、エサウを出し抜いて母リベカが造った料理を持って行って、エサウが受けようとしていた祝福を奪い取ってしまいました。

二度も弟にだまされたことを知ったエサウは、弟を殺そうとしますが、そのことを知った母リベカは、彼を助けようと、自分の実家へ逃がしてやります。こうしてヤコブはひとり旅をするようになりますが、彼がルズという所に来たとき、そこで野宿することになりました。最初の野宿ということでかなり心細かったことでしょう。石を枕にして寝たのですが、平安がありませんでした。

その時です。彼は一つの夢を見ました。それは天から地に向かってはしごがかけられている夢でした。そして、そのはじごの上を神の使いたちが上り下りしているというものでした。しかもその時、主がそばに立って、こう言われました。

「 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」」(創世記28:15)

それで彼は元気百倍、眠りから覚めると、「まことに主はこにおられるのに、私はそれを知らなかった。」と言って、そこを「神の家」という意味のベテルと呼んだのです。

 

イエス様が語られたのは、この出来事にちなんでのことでした。つまり、ヤコブがたったひとりぼっちだと思っていたその時に、主は天からはしごを送られ、彼のかたわらにいて、助けてくださいました。そればかりではなく、そのような時でも神との交わりが与えられているという事実です。つまり、主がここにおられる、主は生きておられるという体験です。ただ頭だけの知識ではなく、ほんとうに主はここにおられるという実体験です。そして、今やその天からのはしごとして、イエス・キリストご自身を備えてくださいました。それがここで言われている「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」ということです。

 

イエス・キリストを信じる者は、イエス様によって神の子としての特権が与えられるというだけでなく、どんな時でもイエス様が仲立ちになってくださって、父なる神様とのすばらしい交わりを持つことができるのです。これこそ、イエス様が言われた「それよりも大きなこと」です。この体験は、クリスチャンに与えられている特権です。私たちがキリストによるこのすばらしい神との交わりを体験するなら、たとい孤独であろうとも、たとえ健康が損なわれることがあっても、たとい患難や迫害の中にあっても、またいばらの道や石を枕としなければならないような時でも、そこに驚くべき力が与えられるのです。神の臨在を体験できるからです。

 

これはクリスチャンのすべてに約束されていることです。51節を注意深く見ると、これは単にナタナエルだけでなく、すべての弟子たちに語られたことであるのがわかります。それはここに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と複数形で言われているからです。それは私たちクリスチャンのすべてに言われていることです。イエス様を信じて救いの入口にとどまっているだけでなく、もっと救いの奥深さを知り、日ごとにそのすばらしさを味わい知る者でありたいと思います。もっと大きなことを見させていただきましょう。イエス・キリストこそ、私たちと父なる神を結びつけてくださるその架け橋にほかなりません。

ヨハネの福音書1章14~18節「恵みとまことに満ちた方」

ヨハネの福音書からメッセージをしております。きょうはその第四回目となりますが、「恵みとまことに満ちた方」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.恵みとまことに満ちた方(14-15)

 

まず、14節と15節をご覧ください。14節をお読みします。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

「ことば」とは、イエス・キリストのことです。そのことばが人となって、私たちの間に住まわれました。この「人」と訳されているギリシヤ語は「サルクス」という言葉で、下の欄外の説明にもあるように、直訳すると「肉」です。ことばが肉体を取って私たちの間に住まわれた。当時の人々にとって「肉」は弱いもので、すぐに朽ち果てていくものという考えがありました。ですから、ことばである神が人となるということは考えられないことでした。けれども、神は肉体を取って現われてくださいました。これを書いたヨハネは1章1節から5節までの箇所で、この方は永遠の初めから存在し、すべてのものを造られ、いのちの源、人の光であられたと言っておりますが、そのお方が人となって現われてくださったのです。これは奇跡です。私たちは毎年クリスマスをお祝いしていますが、それはこの奇跡をお祝いしているのです。神の栄光に満ちた方が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。これは奇跡できないでしょうか。いったい神はなぜ人となられたのでしょうか。

 

14節のその後のところにこうあります。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

それはこの方の栄光を見るためです。ひとり子としての栄光です。その栄光を見るなら、この方がどんなに恵みとまことに満ちておられるかがわかるでしょう。それはちょうど旧約聖書の時代にイスラエルの民が荒野を旅していた時、栄光の雲として現れてくださったようにです。この「住まわれた」ということばには「幕屋を張る」という意味があって、そのことを表しています。つまり、神があの会見の天幕(幕屋)で彼らと共に住まわれ栄光の雲として現れてくださったように、キリストと人となって私たちの間に住んでくださることによって、神の栄光を見ることができるということです。キリストは、そのために人となって私たちの間に住んでくださいました。そのことによって神がどんなに栄光に輝いておられる方であるか、恵みとまことに満ちた方であるかを示すためです。この方を信仰の目をもって見る人々には、この神の栄光を見ることができます。そして、その栄光は、恵みとまことに満ちていました。

 

恵みとまことに満ちておられたとはどういうことでしょうか。この「恵みとまことと」という言葉は、旧約聖書の「ヘセッド」と「エメット」というへブル語が背景にありますが、この二つの言葉が一緒に出てくる箇所を見てみると、これらは、いずれも神との契約において用いられていることがわかります。そしてこれは、神は契約を守ることにおいて真実であられるということを表しているのです。

 

皆さん、神様は契約を守られる方です。約束されたことは必ず果たされます。神様は、私たち人間に対して救いの約束をしてくださいました。その救いの約束というのは、神が御子をこの世に遣わして私たちが受けなければならない罪のさばきを代わりに受けることによって、私たちを罪から救ってくださるというものでした。その驚くべき救いの約束を果たすために、神はご自身のひとり子をこの世に遣わしてくださったのです。ですから、キリストが人となって私たちの間に住まわれたということ自体、神が真実な方であるということを表しているわけです。神様は、約束されたことを必ず守られるのです。

 

皆さんもよくご存知の「あしあと」という詩があります。マーガレット・F・パワーズというクリスチャンが書きました。この詩を見ると、本当に主は真実な方であることを感じます。

 

あしあと

「ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、  わたしと語り合ってくださると約束されました。  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、  ひとりのあしあとしかなかったのです。  いちばんあなたを必要としたときに、  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、  わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。  「わたしの大切な子よ。  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。  ましてや、苦しみや試みの時に。  あしあとがひとつだったとき、  わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

イエス様は、決してあなたを捨てることはありません。なぜなら、そのように約束してくださったからです。マタイの福音書の最後に書かれてある大宣教命令にはこうあります。

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」(マタイ28:19-20)

これがイエス様の約束です。そして、イエス様は約束されたことを必ず果たしてくださいます。私たちはそうではありません。「こうします」「ああします」と約束しても、自分の都合が悪くなると簡単に約束したことを破ってしまいます。私たちの約束はいとも簡単に破られてしまいます。「約束は破るためにある」という言葉を聞いたことがありますが、本当にそうですね。破るためにあるようなものです。しかし、イエス様はそうではありません。約束されたことは必ず果たされるのです。なぜなら、この方は真実な方だからです。パウロは、こう言っています。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

 

私たちもこのような人になりたいですね。箴言3章3節には、「恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。」とあります。いったいどうしたらこのような人になれるのでしょうか。この方を見てください。この方は恵みとまことに満ちておられます。この方は父なる神のみもとから私たちのところへ来てくださいました。私たちと同じ人となってくださり、私たちの間に住んでくださいました。だから、この方を見るとき、私たちも恵みとまことに満ちた者になることができます。

 

宗教改革者ジャン・力ルヴァンはこう言っています。「キリストこそは恵みとまことの泉であり、汲みつくされ得ないほどに豊かな泉である。私たちすべてはその泉から汲み取るべきである」  私たちが恵みとまことに生きたいと願うなら、キリストの元へ行かなければなりません。それは、イエス・キリストという泉から汲むことによって私たちに及んでくるからです。

 

ヨハネはこの方について証しして、こう叫んで言いました。15節です。「『私の後から来られる方は、私にまさる方です。私より先におられるからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

この「ヨハネ」とは、バプテスマのヨハネのことです。彼については前回のメッセージでお話ししました。彼は、自分の後から来られる方は、自分よりもまさる方だと言いました。なぜなら、自分よりも先におられたからです。どういうことですか?

ヨハネは、イエスの従兄弟にあたり、イエス様がマリヤから生まれる6ヶ月前にすでに生まれていました。それなのに私より先におられたというのは、この方が永遠の初めからおられたということ、つまり、この方は神のひとり子であられるということです。ヨハネは偉大な預言者で、女の中から産まれた者の中で、彼よりも偉大な者はいないと認められていたほどの人物ですが、そのヨハネが、「私はその方のくつのひもを解く値打ちがない」と言わしめるほど偉大なお方、それが神のひとり子キリストだったのです。

 

この方には神の栄光がありました。この方は恵みとまことに満ちておられました。ですから、あなたもこの方の元に行くなら、あなたも恵みとまことに満たされることができるのです。

 

Ⅱ.恵みの上にさらに恵みを受ける(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 

キリストは恵みとまことに満ちておられる方なので、この方を信じて歩む私たちも、その満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けることができます。ところで、この「恵みの上にさらに恵みを受けた」とはどういうことでしょうか?これは原文では「恵みの代わりに恵みを受けた」となっています。これはどういうことかというと、一つの恵みを受けたらそれでおしまいということではなく、その代わりにまた新しい恵みを受けるということです。ちょうど泉から水がこんこんと湧き出て来るように、神の恵みは尽きることがありません。

 

しかし、そればかりではありません。私たちの人生には、次々と問題が起こってくるものですが、たとえどんなに問題が起こっても、その問題に対する解答としての恵みがとめどなく与えられるということでもあります。いや、問題そのものさえも恵みとなります。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すということを知っているからです。問題さえも恵みであればすべてが恵みとなります。皆さん、キリストに信頼して歩む人生は、すべてが恵みなのです。どうしてそのように言えるのでしょうか。その理由が17節にあります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 

皆さん、律法って何でしょうか?律法とは、神の「教え」や「戒め」のことです。内容的には、神に対して私たちが成すべき責任から、私たちがこの社会の中で生きていく上で守らなければならない道徳的、倫理的教えを包んでいます。申命記7章6節以下によると、イスラエルの民は神の一方的な恵みによって諸国民の中から特別に選ばれた神の民なので、この神の命令を守る者なら祝福を与えると約束してくださいました。

その代表的な律法に「十戒」と呼ばれるものがあります。もし彼らが神の声に聞き従い。神との契約を守るなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、神の宝となると約束されました。出エジプト記20章3~17節に以下のようにあります。

①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
②あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 ・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
③あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

しかし、どうでしょう。どんなに神と約束しても、この命令を守ることのできる人がいるでしょうか。私は、いつも隣人の家を欲しがっていますから、もうアウトです。先日、アメリカの大学で学んでいる娘からラインで成績表が送られてきました。なぜ送ってよこしたのかわかりません。おそらく、これだけがんばっているよ!と伝えたかったのでしょう。何の科目なのかよくわかりませんが、ある科目は95.65%、別の科目は75.25%、他77.27%、80%、一つだけ57%というものがありました。その成績表はとてもわかりやすく、90%以上は鮮やかなグリーンの色で示してありました。80%以上は薄いグリーンの色です。70%以上は黄色。60%以下はレッドです。アメリカの大学では60%以下はレッドですが神の基準はとても高く、90%でないと鮮やかなグリーン色にはなりません。ちょっとでもミスをするとレッド色になってしまいます。まして神の律法は90点以上だけではだめなのです。常に100%でなければなりません。

 

しかし、どうでしょう。私たち人間の中で完全にこれを守ることのできる人などいるでしょうか。いません。私たち人間は自らの罪と弱さのために神の戒めを完全に守ることはできないのです。自分の力でどんなに頑張ってみても、神が求めておられる基準に達することはできません。律法は本来良いものであり、神の恵みとまことを受けるための手段として神が与えてくださったものですが、だれも行うことができないのです。

 

しかし、この律法とは別に、律法と預言者によって証しされた神の義が示されました。それがイエス・キリストです。キリストはこの律法を完全に行うことができた方であるというだけでなく、この律法が本来、指し示していた方でした。このキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことによって、この方を信じるすべての人の罪は赦され、神の前に義と認められるようになったのです。これが「恵み」です。「恵み」とは何ですか?恵みとは、受けるに値しない者に対する神の一方的な恩寵です。これはグッドニュース、福音です。

 

エペソ人への手紙2章1~5節にはこうあります。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

 

私たちは、かつては背きと罪の中に死んでいた者です。死んでいたわけですから、自分ではもう何もすることができません。死んだ人がヨイショと起き上がって動き出すことができるでしょうか。できません。しかし、神はそのような者をあわれんでくださり、一方的に救いの御手を差し伸べてくださいました。背きの中に死んでいた者を、キリストとともに生かしてくださったのです。これが恵みです。この恵みは、イエス・キリストによって実現しました。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物なのです。

 

そればかりではありません。この方を信じ、この方に結びつくことによって、恵みの上にさらに恵みを受けることができるようになりました。なぜなら、この方の恵みは満ち満ちておられるからです。この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを、尽きない恵みを受けるようになったのです。

 

Ⅲ.父のふところにおられるひとり子の神(18)

 

最後に18節を見て終わりたいと思います。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 

これまで私はよく色々な人から「神がいるなら見せてくれ」と言われたことがあります。「神がいるなら見せてくれ」と言われても、神は霊ですから私たちの肉眼で見ることはできません。ではどうしたら神を知ることができるのでしょうか。ここでヨハネはこう言っています。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 

神は私たちの肉眼で見ることはできませんが、そんな私たちでも神を知ることができるように、神はご自身の御子を人としてこの世に送られ、神がどのような方であるのかを私たち人間にはっきりと啓示してくださったのです。

 

ですから、もしだれかに「あなたが信じている神様はどういうお方ですか」と聞かれたら、「イエス・キリストを見ればわかります」と答えることができます。「いや、イエス・キリストご自身が私たちの信じている神様です」と答えることができます。なぜなら、キリストは父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができたからです。

 

「父のふところにおられるひとり子の神」とは、イエス・キリストが父なる神と不断の親しい交わりを持っておられたということを表しています。父なる神といつも一緒にいて親しく交わっておられたので、父なる神がどのような方かがよくわかりました。人間の親子でもそうでしょ。子どもであれば、親がどのような人かがよくわかります。いつも一緒にいるからです。うちの娘は私のことをよく知っています。いつも一緒にいてみているからです。でもその交わりにも限界があります。知っているつもりでも知らないこともあるのです。「親の心、子知らず」ということわざのとおりです。けれども、三位一体の神の交わりはそうではありません。神は完全な交わりを持っておられます。ですから、ひとり子の神が、神を完全に神を説き明かすことができたのです。

 

イエス様の弟子の一人ピリポはイエス様にこう言いました。

「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)これは私たちの持っている願いと同じですね。それに対して、イエス様はこのように言われました。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)
私たちも、神を見ることができたらと思うことがあります。しかしイエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。キリストを見れば、父なる神を見ることができるのです。キリストを見るということは神を見るということ、キリストを知るということは神を知るということなのです。

 

あなたはどれだけ神を知っておられるでしょうか。私たちの信仰生活は、この神をどれだけ深く知っているかにかかっています。ですから、私たちはこのイエス・キリストをよく知らなければなりません。イエス・キリストについては聖書の中に、特に四つの福音書に詳しく書かれています。聖書を通してキリストをよく知り、この方との生きた交わりを通して、まぐみとまことを豊かに頂き、さらに大きく成長させていただきたいと思います。

士師記9章

 士師記9章からを学びます。

 Ⅰ.アビメレクとシェケムの住民の悪(1-21)

 まず、1~21節までをご覧ください。6節までをお読みします。「1 さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。2 「どうかシェケムのすべての住民の耳に告げてください。『あなたがたにとって、エルバアルの息子七十人全員であなたがたを治めるのと、ただ一人があなたがたを治めるのとでは、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こすがよい』と。」3 アビメレクの母の身内の者たちが、彼の代わりに、これらのことをみな、シェケムのすべての住民の耳に告げたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らが「彼は私たちの身内の者だ」と思ったからである。4 彼らは、バアル・ベリテの神殿から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、粗暴なならず者たちを雇った。彼らはアビメレクに従った。5 アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末の子ヨタムは隠れていたので生き残った。6 シェケムのすべての住民とベテ・ミロのすべての人々は集まり、行って、シェケムにある石柱のそばの樫の木の傍らで、アビメレクを王とした。」

「エルバアル」とはギデオンのことです。ギデオンには七十人の息子がいましたが、その中の一人の子アビメレクが、シェケムにいた母の身内の者たちのところに行き、母の一族全員にギデオンの七十人の息子全員でイスラエルを治めるのと一人が治めるのとではどちらがよいかと告げると、シェケムのすべての住民の心はアビメレクに傾きました。なぜなら、彼はシェケムの出身だったからです。そこでシェケムの住民とベテ・ミロのすべての人々は集まり、アビメレクを王としました。

ここで「シェケム」の場所を確認しておきましょう。巻末の「地図4:イスラエルの各部族への土地の割り当て」を見ると、エフライムの境界線に近いマナセの領地にあることがわかります。ここは、かつてヨシュアがイスラエルの全部族を集め民と契約を結び、彼らのために掟と定めを置いた所です。(ヨシュア24:1-24)ヨシュアはそれらのことばを神の教えの書に記し、大きな石を取り、主の聖所にある樫の木の下に立てました(ヨシュア24:25)。この石こそ6節にある「石柱」のことです。その後、ヨシュアは百歳で死に、隣のエフライムの相続地にあるティムナテ・セラフに葬られました。また、エジプトから携え上ったヨセフの遺骸を、シェケムの地に葬りました。ですから、「シェケム」というのは地理的にもそうですが、信仰的にもイスラエルの中心であったことがわかります。そこであった出来事がこれなのです。

ギデオンが死んだ後、彼の一人の息子アビメレクが王となります。彼らはアビメレクからの提案を受けると、彼が自分たちの身内の者であるという理由で、彼を王にしようとしました。それで、彼らはアビメレクにバアル・ベリテの神殿から銀七十シェケル(798グラム)を取り出して与えました。するとアビメレクは、それで粗暴ならず者たちを雇い、ギデオンの七十人の息子たちのうち、末の子ヨタム以外の兄弟全員を殺しました。

すると、そのことが末の子ヨタムに告げられ、ヨタムは預言します。7~21節までをご覧ください。

「7 このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んだ。「私に聞け、シェケムの人々よ。そうすれば神はあなたがたに耳を傾けてくださる。8 木々が出かけて行って、自分たちの上に王を立てて油を注ごうとした。木々はオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』9すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は、神と人をあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために行かなければならないのだろうか。』10 木々はいちじくの木に言った。『あなたが来て、私たちの王となってください。』11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために行かなければならないのだろうか。』12 木々はぶどうの木に言った。『あなたが来て、私たちの王となってください。』13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人を喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために行かなければならないのだろうか。』14 そこで、すべての木が茨に言った。『あなたが来て、私たちの王となってください。』15 茨は木々に言った。『もしあなたがたが誠意をもって私に油を注ぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。もしそうでなければ、茨から火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くすだろう。』16 今、あなたがたは誠意と真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族に良くして、彼の手柄に報いたのか。17 私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミディアン人の手から助け出したのだ。18 しかし、あなたがたは今日、私の父の家に背いて立ち上がり、その息子たち七十人を一つの石の上で殺し、また、あなたがたの身内の者だからというので、女奴隷の子アビメレクをシェケムの住民たちの上に王として立てた。19 もしあなたがたが、今日、エルバアルとその家族に対して誠意と真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクによって喜ぶがよい。彼も、あなたがたによって喜ぶがよい。20 もしそうでなかったなら、アビメレクから火が出て、シェケムの住民とベテ・ミロを焼き尽くし、シェケムの住民とベテ・ミロからも火が出て、アビメレクを焼き尽くすだろう。」21 それから、ヨタムは逃げ去ってベエルに行き、兄弟アビメレクの顔を避けてそこに住んだ。」

このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、シェケムの人たちに叫びました。ヨタムは、ギデオンの末の子でしたが、アビメレクが自分の兄弟七十人を殺したとき隠れて難を逃れていたのです。

彼は、まずたとえを語ります。木々が自分たちの王になってくれるようにとオリーブの木に、次にいちじくの木に、次にぶどうの木にお願いします。「木々」とは、シェケムの人々のことです。オリーブの木やいちじくの木、ぶどうの木とは、ギデオンの後に出たイスラエルの勇士たちのことでしょう。ところが、これらはいずれもその願いを退けます。それで最後に、茨に向かって「あなたが来て、私たちの王になってください。」と言いました。すると、茨は木々に言いました。「もしあなたがたが誠意をもって私に油を注ぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。もしそうでなければ、茨から火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くすだろう。」(15)

この「茨」とはアビメレクのことです。彼は王にふさわしくない、野心に満ちた危険な存在であるとヨタムは警告しているのです。そして、これはあなたがたに善意を尽くしたギデオンに真実を尽くした結果なのかと問います。いや、そうではありません。ギデオンは良いことをしたのに、彼と彼の家族に感謝して誠意と真心をもって行動したかというとそうではなく、むしろ彼らは自分たちの欲望を満たすためにそむきの罪を犯したのだと断罪するのです。そして、もしそうでないなら、アビメレクから火が出て、シェケムの住民とベテ・ミロを焼き尽くすと宣言しました(20)。これはどういうことかというと、アビメレクとシェケムの人々は、今は悪い考えで一致しているが、その関係は決して長続きしないということです。彼らは、やがて互いに食い合い、滅ぼし合って、さばきをもたらし合うようになります。これを聞いたアビメレクやシェケムの人々は、そんなことはないと笑っていたことでしょう。事実、3年間はこの状態が保たれたようです。しかし、時が経過して、このヨタムの宣言は現実のものとなって行きます。

Ⅱ.暴虐への報い(22-49)

次に、22~49節までをご覧ください。25節までをお読みします。「22 アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。23 神は、わざわいの霊をアビメレクとシェケムの住民の間に送られたので、シェケムの住民たちはアビメレクを裏切った。24 こうして、エルバアルの七十人の息子たちに対する暴虐への報いが現れ、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに手を貸してその兄弟たちを殺したシェケムの住民たちの上に降りかかった。25 シェケムの住民たちは、アビメレクを待ち伏せする者たちを山々の頂上に置き、また道を通り過ぎるすべての者から略奪した。やがて、このことがアビメレクに告げられた。」

まず、シェケムの人々がアビメレクを裏切りました。それは、神がわざわいの霊をアビメレクとシェケムの住民の間に送られたからです(23)。シェケムの住民たちは、アビメレクを待ち伏せする者たちを山々の頂上に置き、そこを通り過ぎるすべての者から略奪したのです。これはどういうことかというと、シェケムの人たちが略奪を繰り返すことによってシェケムの治安を悪化させ、アビメレクの支配を揺るがそうとしたということです。こうしてアビメレクとシェケムの人たちの間に亀裂が生じました。前述のヨタムの言葉で言えば、シェケムから火が出たわけです。

そればかりではありません。今度はエベデ人ガアルが加わります。26~29節までをご覧ください。「26 エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの住民たちは彼を信用した。27 住民たちは畑に出て行って、ぶどうを収穫して踏み、祭りを催して自分たちの神の宮に入って行き、食べたり飲んだりしてアビメレクをののしった。28 そのとき、エベデの子ガアルは言った。「アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。彼はエルバアルの子、ゼブルは彼に仕える者ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えよ。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。29 だれか、この兵を私の手に与えてくれないものか。そうすれば、私はアビメレクを追い出すのだが。」彼はアビメレクに「おまえの軍勢を増やして、出て来い」と言った。」

エベデ人ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムの住民たちのところに来ると、シェケムの人たちは彼を信用しました。そして、畑に出て行って、ぶどうを収穫して踏み、食べたり飲んだりしたとき、アビメレクをののしりました。するとガアルは、「アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。彼はエルバアルの子、ゼブルは彼に仕える者ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えよ。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。だれか、この兵を私の手に与えてくれないものか。そうすれば、私はアビメレクを追い出すのだが。」と言いました。

このところからわかることは、彼はハモルと深いつながりがあったということです。「ハモル」とは、ヤコブがまだ生きていた頃、ラバンのところから約束の地に帰ってくるとき、シェケムにとどまっていたときの首長です。もともと、ここにはヒビ人ハモルとその子シェケムらが住んでいましたが、シェケムがディナを見てこれを捕らえ彼女と寝て辱めるという事件が起こったため、ヤコブの息子たちは一つの民となる約束を交わし、相手方に割礼を受けさせました。そしてその傷が痛んでいる間に襲って、すべての男子を殺したのです(創世記34章)。そのシェケムの父ハモルの血を引く者たちが残っていたのでしょう。ガアルもその一人だったと考えられます。その彼がシェケムの父ハモルの人々に仕えよ、と叫んだのです。先にアビメレクが自分はシェケム出身であると訴えて、シェケムの人々の心を勝ち取りましたが、今度はガアルがこの町のより深い歴史に訴えて、アビメレクに対する謀反を煽ったのです。こうしてアビメレクは自分がしたように他の人にもされることになりました。

 その結果どうなったでしょうか。30~40節までをご覧ください。「30 この町の長ゼブルは、エベデの子ガアルの言ったことを聞いて怒りを燃やし、31 ひそかにアビメレクのところに使者を遣わして言った。「今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムに来ています。なんと、彼らは町をあなたに背かせようとしています。32 今、あなたとあなたとともにいる兵が、夜のうちに立って、野で待ち伏せし、33 朝早く、太陽が昇るころ、町に襲いかかるようにしてください。すると、ガアルと、彼とともにいる兵があなたに向かって出て来るでしょう。あなたは手当たり次第、彼らを攻撃することができます。」

34 そこで、アビメレクと、彼とともにいた兵はみな、夜のうちに立って、四隊に分かれてシェケムに向かって待ち伏せた。35 エベデの子ガアルが出て来て、町の門の入り口に立ったとき、アビメレクと、彼とともにいた兵は、待ち伏せしていたところから立ち上がった。36 ガアルはその兵を見て、ゼブルに言った。「見よ、兵が山々の頂から下りて来る。」ゼブルは彼に言った。「あなたには、山々の影が人のように見えるのです。」37 ガアルはまた続けて言った。「見よ、兵がこの地の一番高いところから下りて来る。さらに一隊がメオンニムの樫の木の方から来る。」38 ゼブルは彼に言った。「『アビメレクとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは』と言ったあなたの口は、いったいどこにあるのですか。あなたが見くびっていたのは、この兵ではありませんか。さあ今、出て行って、彼と戦いなさい。」39 そこで、ガアルはシェケムの住民たちの先頭に立って出て行き、アビメレクと戦った。40 アビメレクが彼を追ったので、ガアルは彼の前から逃げた。多くの者が刺し殺されて倒れ、門の入り口にまで及んだ。」

 このことを聞いたアビメレクは、怒りを燃やし、夜のうちに立って、野で待ち伏せし、翌朝早く、町に襲いかかり、ガアルと、彼とともにいた者たちを打ちました。しかし、アビメレクの怒りはこれで収まりませんでした。裏切ったシェケム人に対する復讐心に燃え上がります。

41~45 節をご覧ください。「41 アビメレクはアルマにとどまったが、ゼブルは、ガアルとその身内の者たちを追い払って、彼らをシェケムにとどまらせなかった。42 翌日、兵が野に出て行くと、そのことがアビメレクに告げられた。43 そこで、アビメレクは自分の兵を引き連れ、三隊に分けて、野で待ち伏せた。彼が見ていると、見よ、兵が町から出て来た。そこで彼は立ち上がって彼らを討った。44 アビメレクと、彼とともにいた一隊は町に襲いかかって、その門の入り口に立った。一方、残りの二隊は野にいたすべての者を襲って打ち殺した。45 アビメレクは、その日一日中、町を攻め、この町を占領して、その中の民を殺した。彼は町を破壊して、そこに塩をまいた。」

アビメレクは、自分の兵を引き連れてシェケムの町に襲いかかり、すべての者を打ち殺しました。彼はこの町を破壊して、そこに塩をまきました。「塩をまく」という行為は、もう二度と再建されないという意味です。そればかりではありません。46~49節にあるように、エル・ベリテの神殿の地下室に逃げ込んだ者たちを滅ぼすため、この地下室に火をつけて一千人を皆殺しにしました。まさにギデオンの末の子ヨタムが預言したように、アビメレクから火が出て、シェケムの者たちを食い尽くしたのです。

 Ⅲ.アビメレクの死(50-57)

 それからどうなってでしょうか。最後に50~57節までをご覧ください。55節までお読みします。「50 それからアビメレクはテベツに行き、テベツに向かって陣を敷いて、これを占領した。51 この町の中に堅固なやぐらがあった。すべての男女、町の住民たち全員はそこへ逃げて立てこもり、やぐらの屋根に上った。52 アビメレクはやぐらのところまで来て、これを攻め、やぐらの入り口に近づいて、これを火で焼こうとした。53 そのとき、一人の女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。54 アビメレクは急いで、道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私にとどめを刺せ。女が殺したのだと私について人が言わないように。」若者が彼を刺したので、彼は死んだ。55 イスラエル人はアビメレクが死んだのを見て、一人ひとり自分のところへ帰って行った。」

アビメレクの怒りはそれでも収まりませんでした。シェケムの一部の人たちがテベツに逃れると、今度はテベツに行き、テベツに向かって陣を敷いて、これを占領しました。そして、やぐらに火を放ちそこへ逃げ込んだ住民たちを滅ぼそうとしました。しかし、そのとき一人の女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕きました。ひき臼は、直径30cmくらいの石です。そのような石がうまく命中して死ぬというのも、まさに神の御手によると言えます。

ここにも皮肉があります。アビメレクはギデオンの子らを一つの石の上で殺しましたが、その彼が、今度は石を投げつけられ、石の傍らで死ぬことになるのです。自分がしたようにされたのです。ヨタムはアビメレクを呪いましたが、彼が自ら手を下すことなくアビメレクは葬り去られたのです。

これらの出来事は、いったい私たちに何を教えているのでしょうか。この章の結論は56~57節です。「56 こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。57 神はまた、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返された。エルバアルの子ヨタムののろいが彼らに臨んだ。」

ここには「報い」という言葉が強調されています。こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返されました。また、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返されました。これは神の報いなのです。神に背いて王となったアビメレクと、それに共謀したシェケムの住民がともにさばきを受けることになったのです。

私たちも神にそむき、自分の欲望と満足に生きるのであれば、必ずその報いを受けることになります。現実的にはそう見えない時があってもそこに神の支配があり、時至って一人一人にふさわしい報いが与えられることになるのです。仮にこの世でそうしたことが成されなくても、来たるべき世において、必ずもたらされることでしょう。

ですから、私たちに求められているのは、神の恵みに心を留めるということです。神はギデオンがイスラエルのためにいのちをかけてミディアン人と戦い、彼らをミディアン人の手から救い出したように、ご自分のいのちをかけて、私たちを罪の中から救い出してくださいました。そのことを心に留めなければなりません。そのことから離れると、すぐに元の生活に逆戻りし、神の前に悪を行うことになってしまいます。悪は悪の報いをもたらします。その悪は必ず自分に戻ってくることになるのです。そういうことがないように、いつも主の恵みに心を留め、真実と全き心をもって主に応答し、主に喜ばれる生活をささげていかなければなりません。主の前に正しく生きる者の恵みは大きいのです。