ヨハネの福音書1章9~13節「神の子どもとされる特権」

今日は、ヨハネの福音書1章9節から13節までの箇所から、「神の子どもとなる特権」というタイトルでお話ししたいと思います。12節をご覧いただくと、ここに

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。

よく「人類、みな兄弟」とか、「だれでもみな神の子ども」といった標語を聞くことがありますが、ここで言われている「神の子ども」とはそういうことではありません。聖書は、私たちはだれも生まれながら神の子どもである人はいないと教えています。もともとは神のかたち、神の子どもとして造られましたが、最初の人アダムが罪を犯したことで、人はみな神の子どもとしての資格を失ってしまいました。ですから、聖書は、私たち人間は新しく生まれ変わらなければ神の子どもとしての資格が与えられないと教えています。しかもその資格はただの資格ではありません。ここには「特権」とあります。これはものすごい特権なのです。きょうは、この「特権」についてご一緒に考えていきたいと思います。

 

Ⅰ.すべての人を照らすまことの光(9)

 

まず、9節をご覧ください。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」

 

ヨハネは、4節で「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」と述べました。キリストは人の光です。もし光がなかったらどうなるでしょうか。光がなかったら大変なことになってしまいます。

 

今月6日、北海道で震度7の地震が発生しました。それは明け方3時頃の出来事で、一時北海道全域の295万戸が停電となりました。それまでついていた明かりが一瞬に消え、あたり一帯が真っ黒になりました。街を歩いていた人は暗闇の中でどこを歩いているか分からなかったので不安だったと言います。また、停電は一部で復旧はしたものの多くの地域では停電が続いたため、さすがに夜は暗くて怖かったと言います。水と合わせて電気がないと生活ができません。光がないと生きることができません。その光こそイエス・キリストです。キリストは、すべての人を照らすまことの光なのです。

 

確かにこの世界には、私たちの生活を明るくする光のようなものがいくつもあります。たとえば、科学はその一つでしょう。科学技術が進歩したおかげで生活が非常に便利になりました。病気で死ぬ人の数も減り、日本は世界でも有数の長寿国となりました。しかしながら、いくら科学技術が進歩しても、それで人間が幸せになったのかというとそうではありません。今日の日本ほど自由で平和な国はありませんが、それなのに、日本人のみなが幸福な生活をしているかというと決してそうではないのです。古き良き時代を思い返して、「あの時は良かった!」ということも少なくないのではないでしょうか。

ですから、物質的には豊かになり、思想的には自由になっても、それが人間を本当に幸福にするのかというとそうではなく、人間を幸福にするには、これとは別のもっと重要な面があることを知らなければなりません。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。

 

人はどんなに知的に優れていようが、経済的に豊かであろうが、自由を享受しようが、それだけでは幸福になることはできません。なぜなら、前回のメッセージでもお話ししたように、人は神のかたちに造られているからです。神のかたちとは何でしょうか?覚えていらっしゃいますか?それは、神につながる部分、つまり霊のことです。人は肉体と精神だけで造られているのではなく、霊を持つものとして造られました。ですから、神から離れたら本当の満足を得ることはできません。それが動物と決定的に違う点です。私たちが人間として幸福に生きるためには神を礼拝し、神との交わりを欠かすことはできないのです。

 

神は、そのために必要な光をこの世に与えてくださいました。それがイエス・キリストです。この光はすべての人を照らす光です。そして、この光はまことの光です。そのまことの光が、世に来ようとしていたのです。

 

Ⅱ.この方を受け入れなかった人々(10-11)

 

次に10節と11節をご覧ください。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」

 

それに対して、この世はどのように応答したでしょうか?この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はこの世界を造られた創造主であられるのに、この世の人々はキリストがこの世に来られた時、この方を受け入れませんでした。

 

なぜこの方を受け入れることができなかったのでしょうか?それは人には罪があるからです。罪があるので神を認めたくないのです。真理を真理として認めるためには、その人の心の態度が重要です。初めから偏見を持っていたのでは、決して真理を真理として認めることができません。そうした偏見を捨てて、真理の前に虚心坦懐になることが必要です。しかし、神から離れている人は、自分では虚心坦懐になったつもりでも、なかなかそのようになれません。霊的に盲目になっているからです。霊的に盲目な人は、自分でも気づかずに偏見を持っていて、真理に対して敵対してしまうのです。ですから、キリストはご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこれを受け入れなかったのです。

 

11節には「この方はご自分のところ来られたのに」とありますが、この「ご自分のところ」とは、下の注釈にもあるように、「ご自分のもののところ」のことで、イスラエルの民のことを指しています。イスラエルの民は、神が特別に選ばれた神の民として特別な恵みが与えられていたのに、この方が来られると、受け入れないどころか、十字架につけて殺してしまいました。キリストはそのことを、ぶどう園の農夫たちのたとえでお話しなさいました。

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。

収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。

その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」」(マタイ21:33-40)

 

このように、イスラエルの民がキリストを十字架につけて殺したことについては、もはやは何の言い訳もできないことでした。イスラエルの民にしてそうなのです。ましてやそのほかの民はなおさらのことです。

 

「親の心子知らず」ということわざがあります。子供は親がどれだけ配慮してくれているか、犠牲を払ってくれているのかなかなか分かりません。自分一人で大きくなったと思っていますが、決してそうではありません。親がいてくれるからこそ、ここまで大きくなることができたのです。それなのに、だんだんと成長するに従い反抗的になってきます。

 

恥ずかしい話ですが、私にもそういう時がありました。小さい頃はかわいくて、本当にいいだったのに、中学生になった頃から少しずつ反抗的になり、母親に対してひどいことを言うようになりました。「あんたなんて親でもない。だれも生んでくれなんて頼んだことなんてないし・・・。」ひどい言葉ですね。これは子どもが親に対して言う最低の言葉でしょ。本当に罪です。結婚して子供が生まれたとき、それがどれほどひどい態度であることがわかりました。

赤ちゃんにおっぱいを飲ませ、おむつを交換し、さまざまな愛の配慮をするわけですが、それがどれほど大変なことか・・。自分の子どもを育てて初めてわかりました。その子どもから、「だれもあんたに生んでくれなんて頼んだことなんかない」とか、「あんたなんて親でも何でもない」と言われたら、どれほど悲しいでしょう、苦しいでしょうか。けれども、私たちはそうなんです。神様に対して反抗し、一人で大きくなったかのように思い込んでいるのです。これはとんでもない錯覚であり、思い違いです。

 

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世は、この方を知りませんでした。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこれを受け入れなかったのです。

 

ヨハネの福音書1章1節と2節からのメッセージで紹介したギュツラフ訳では、11節をこう訳しています。「彼は自身の屋敷へ参った。ただし、自身の人間は彼を迎えでなんだ。」

何とも味がありますね。「自身の屋敷へ参った」とか、「自身の人間は彼を迎えなんだ」という表現は、庶民的というか、すーっと入ってきます。

でも想像してみてください。皆さんが、家族のために一生懸命働いて家に帰って来たとして、玄関のドアをあけたとたん、「あなたは誰ですか?」「あなたのことなど知らないし、必要でもないです」と言われたとしたらどうでしょう。

イエス様は、ご自身の民のところへ来られたのに、そのように言われたのです。それは本当に悲しいというか、悲しいを越えてどれほど苦しかったことかと思います。

 

Ⅲ.この方を受け入れた人々(12-13)

 

けれども、そのような中にあっても、この方を受け入れた人々がいます。12節と13節をご覧ください。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

多くの人々が罪のゆえに、また偏見に基づいてキリストを毛嫌いし、受け入れないという中にあっても、謙虚になって神を求め、キリストを受け入れる人もいます。そのような人には、神の子どもとされる特権が与えられると約束されてあります。

 

先ほども申し上げたように、この神の子どもとされるというのは「人類、みな兄弟」とか、「だれでもみな神の子ども」といったことではありません。罪のために断絶していた神との関係が回復され、新しい絆で結ばれるようになるということです。また、罪のために死んでいた状態にあった人が神の御霊によって新しく生まれ、神のいのちによって生かされることです。

 

ルカの福音書15章に、有名な放蕩息子の話があります。ある人に二人の息子がいましたが、弟のほうが父親から財産を譲り受け、すぐに父親の元を離れ、遠い国に行って、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たしてしまいます。

しかし、その地方全体に激しい飢饉が起こると、食べることにも困り始めたので、ある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせたのです。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時です。彼ははっと我に返るのです。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ。」そうだ、父のところに帰ってこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしたのです。そして、息子がお父さんに、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前にも罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」

するとどうでしょうか。父親は、しもべたちに言いました。

「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(ルカ15:22-23)

 

いったいなぜこの父親はこんな息子のために祝宴まで開いたのでしょうか?うれしいかったからです。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。

そうです、私たち人間は神様の目で死んでいた者であり、いなくなっていました。神様によって造られたのに、その神のもとを離れて自分勝手な生活を送っていました。つまり、霊的に失われた者、死んでいたのです。しかし、神は、そんな私たちを探し出してくださり、もう一度子どもとしての資格を与えてくださるのです。

 

神様は、私たちが神様のもとに帰ることを待ち望んでおられます。そして、その道を備えてくださいました。それがイエス・キリストです。キリストは神とともにおられた神であり、このいのちを持っておられました。それは人の光です。イエス様は、父なる神様がどんなに愛に満ちた方であるかを示し、私たちの心を照らし私たちの惨めな状態、罪の心を悟らせて、神様のみもとに返る道を照らしてくださいました。すべてを照らすそのまことの光が、この世に、私たちのところに、来てくださったのです。ですから、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、この神の子どもとなる特権を与えられるのです。

 

ヨハネ黙示録3章20節には、こう書かれています。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 

イエス様は私たちの心の戸をたたいておられます。その音を聞いて、戸を開けるなら、イエス様がその人のところに入ってくださいます。そして一緒に食事をしてくださいます。一緒に食事をするというのは、イエス様と親しく交わることができるということです。これまでは神に敵対していました。神よりも自分の考えや思いを中心に生きていました。そのため、神との関係が断たれ、霊的には死んでいたのですが、神の呼びかけに応答して扉を開けるなら、神はあなたの中にも入ってくださり、食事を共にするという幸い、つまり、神の子どもとしての特権を与えてくださるのです。

 

いったいそれはどのようにして成されるのでしょうか。13節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 

ここには、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである、とあります。どういうことでしょうか?「血によってではなく」とは、「血筋によってではなく」ということです。それは、先祖や親の身分、地位によってではなくということです。

ユダヤ人たちは、自分たちの先祖がアブラハムであり、そのアブラハムの偉大さのゆえに、その子孫である自分たちは神の子どもになれると考えていました。しかし、そうではないのです。

「あなたは血筋が良いから、家柄が良いから」神の子にしてあげよう、ではないのです。「健康だから、頭がよいから、姿形が整っていて美しいから」神に子になれるということではないのです。

 

また、「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」というのは、私たちの願望とか熱意によってではなくということです。「あなたは一生懸命に頑張ったから」神の子になれるとか、「そのために努力したから」なれるということでもありません。ただ神によって生まれたのです。

 

考えてみれば、確かにそうではないでしょうか。私たちはこの時代に生まれようと思って生まれてきたのでしょうか。どこか他の国ではなく日本に生まれようと思って生まれてきたのでしょうか。男として生まれよう、女として生まれようと計画して生まれてきたのでしょうか。この家庭に生まれよう、あの家庭に生まれようと願って、生まれたのでしょうか。そうではありません。こうしたことは、自分の力ではどうすることもできないことです。私たちの人生には、自分の願いや努力ではどうすることもではないことがあるのです。

 

三浦綾子さんがこのようなことを書いておられます。「自分は若い頃、海に入って自殺しようとしたが、人に助けられて死ぬことができなかった。しかし今は生きたいと願うようになったのに、肺結核となり、いつ死ぬか分からない状態である。」

死にたいと思う時には死ねないで、生きたいと思う時には死にそうになっている。私たちの人生とは、このようなものです。私たちの人生は、決して自分が思うようにはならないで、大きな方の意志によって動かされていることがわかります。

 

それは私たちの救いに関しても言えることです。私たちが教会に来て、神を信じるようになったのは、自分がそう願ったから、そのように努力したからというよりは、その背後に神の導きがあったからです。そこにはいろいろな人との出会いもあったでしょう。しかし、そうした出会いもまた神様が導いてくださったものです。

 

私は18歳の時イエス様を信じましたが、よく考えてみると、本当に不思議なことだと思います。信じたくて信じたわけではありません。私の家族や親戚にはクリスチャンは一人もいませんでしたし、そういう環境でもありませんでした。ただ幼稚園がキリスト教の幼稚園で、小さい頃からイエス様へのあこがれがあったのは事実です。死に対する恐怖心がありました。あまりにも怖くて電車の線路の上を、「母ちゃんが死ぬなんて嫌だ!」と泣きながらずっと走ったのを覚えています。だからと言って、それで必ずしもイエス様を信じられるかというとそうと、そうではありません。しかし、神様はその後も私の人生において様々な人との出会いや出来事を通して私を捕らえてくださいました。何か見えない糸に導かれるようにして信仰に導かれたのです。本当に不思議なことです。

 

ですから、私たちが神の子どもとなるのは、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によってなのです。「神によって」とは、「神を信じることによって」ということです。もしあなたが今、そのように導かれているなら、どうかこの方を信じてください。信じて、あなたの心に受け入れてください。この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられるのです。

それはことばを変えて言うなら、キリストの懐に飛び込むということです。キリストを受け入れることとキリストの懐に飛び込んで行くことは丁度逆のようですが、全く同じことです。というのは、キリストを受け入れるとは、キリストを全面的に自分のうちに迎えるということで、キリストの中に飛び込んで行くことにほかならないからです。

 

そのことさえも、実は神の恵みなのです。自分で飛び込みたくても怖くて飛び込めないという方もおられるでしょう。しかし、この方の懐に飛び込むなら、この方がしっかりと受け止めてくださいます。ですから、あなたのすべてをキリストにゆだね、清水の舞台から飛び降りるように、キリストの懐に飛び込んでください。そのとき、あなたは神によって新しく生まれます。神の子どもとしての特権が与えられるのです。

 

また、私たちが今ここに存在して生きていること、キリストを信じていること、教会に集うことができること、これらすべてのことは神の恵みであり、ただ神によって導かれていることを覚え、神に感謝しつつ、さらにこの信仰に歩ませていただきたいと思います。

士師記8章

士師記8章からを学びます。

Ⅰ.仲間からの敵対心(1-9)

まず、1~9節までをご覧ください。まず、3節までをお読みします。「1 エフライムの人々はギデオンに言った。「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。2 ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。3 神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」ギデオンがこのように話すと、彼らの怒りは和らいだ。」

「エフライムの人々」とは、イスラエル12部族の一つですが、彼らはギデオンに対して激しく責めました。それは、ギデオンがミディアンとの戦いに出て行ったとき、彼らに呼びかけなかったからです。このような人が意外と多くいます。たとえそれがどんなにすばらしいことでもそこに自分が関わっていないと喜ぶことができないのです。逆に、うまくいくと苦々しい思いを抱いてしまいます。それは生まれながらの肉の性質です。

それに対してギデオンは何と言いましたか。2節と3節には、「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」 とあります。

どういうことでしょうか。彼らの手柄に比べたら、自分の働きなど何でもないということです。アビエゼルとは、ギデオンが属していた家系のことです。つまり、ギデオンのぶどうの収穫よりも、エフライムの人たちのぶどうの収穫の方がずっと良かったではないか、というのです。それは何を意味しているのかというと、彼らが殺したミディアン人の二人の首長オレブとゼエブのことです。つまり、ギデオンが倒した相手よりもエフライムの人たちが殺した二人の首長たちの方が、ずっと価値があったということです。

すると、彼らの怒りは和らぎました。ギデオンは、彼らの自尊心を傷つけないように細心の注意を払ったからです。すごいですね。同胞からこんな非難をされたらすぐにカッとなってしまうところですが、彼はそうしたことに対して忍耐し、寛容な心で受け止めました。箴言15章1節にはこうあります。「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」彼は柔らかな答えで怒りを鎮めたのです。私たちもこうした状況の中で怒りを鎮めるというのは難しいことですが、自分の感情をしっかりとコントロールし、主に喜ばれる人間関係を求めていきたいですね。

しかし、いつもそうした態度だけが望ましいのではなく、時としては毅然とした態度で臨まなければない時があります。それが4~9節で言われていることです。「4 それからギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。5 彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来た兵に円形パンを下さい。彼らは疲れているからです。私はミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」6 すると、スコテの首長たちは言った。「おまえは今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。われわれがおまえの部隊にパンを与えなければならないとは。」7 ギデオンは言った。「そういうことなら、【主】が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」8 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに話した。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々と同じように彼らに答えた。9 そこでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

次に、ギデオンに心無い態度を取ったのはスコテの人々でした。スコテの人々とは、ガド族の割り当て地の中、ヨルダン川を渡ってすぐの所にあります。ギデオンは確かに大勝利を収めましたが、まだミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っていました。ギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡り、かなり疲れてはいましたが、追撃を続けていたのです。そこでスコテの人々に、この三百人の兵に円形のパンを下さい、とお願いると、スコテの人々は「おまえは今、ゼパフとツァルムナの手首を手にしているのか。」と言って、その申し出を断わりました。ゼバフとツァルムナの首を手にしているのなら与えてもよいが、そうでないのに与えることなどできないというのです。たかが三百人の兵士で敵を打ち破ることができるという考えは甘い。ゼバフとツァルムナが武装していつ逆襲してくるかわからない。パンを与えるとしたら完全に敵に勝利してからであって、それまでは少しのパンでも分けてやることはできないと、見下すような態度を取ったのです。考えてみると、彼らは、デボラとバラクの戦いの時にも参戦しませんでしたが(5:15-17)、この戦いに勝算があるかどうかわからなかったからでしょう。

このように、彼らはいつも日和見的な判断に終始し神のみこころに積極的に関わろうとしないばかりか、そういう人たちを軽んじては神の民の一致を破壊していました。そのような者は、神のさばきを受けることになります。7節には、このような彼らの態度に対して、ギデオンはこう言いました。

「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」

厳しいことばです。パンを与えなかっただけでどうしてこれほどのさばきを受けなければならないのでしょうか。それはただギデオンを見下げたというよりも、神を見下げたことになるからです。というのは、ギデオンをイスラエルの士師としてお立てになったのは神ご自身であられるからです。そうしたリーダーへの不平不満、非難は、神への非難であって、そのような態度には神の厳しいさばきが伴うということを覚えなければなりません。神は高ぶる者には敵対視、へりくだった者には恵みを与えられる。」(Ⅰペテロ5:5)のです。

それは、ペヌエルの人たちも同じでした。ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように言うと、彼らはスコテの人々と同じように答えました。そこでギデオンはペヌエルの人々にも言いました。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

ペヌエルは、かつてヤコブがエサウに会う前に神と格闘した場所です。その時ヤコブは顔と顔とを合わせて神を見たので、その場所を「ペヌエル」と名付けたのに、そのペヌエルの人たちもギデオンの要請に応じませんでした。それでギデオンによりその町は破壊され、住民は虐殺されることになりました。

Ⅱ.報復(10-21)

次に10~21節までをご覧ください。まず、17節までをお読みします。「10 ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千人からなる陣営の者もともにいた。これは東方の民の陣営全体のうち、生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていた。11 そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の、天幕に住む人々の道を上って行き、陣営を討った。陣営は安心しきっていた。12 ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らの後を追った。彼は、ミディアンの二人の王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営を震え上がらせた。13 こうして、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。14 彼はスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて尋問した。すると、その若者はギデオンのために、スコテの首長たちと七十七人の長老たちの名を書いた。15 ギデオンはスコテの人々のところに行き、そして言った。「見よ、ゼバフとツァルムナを。彼らは、おまえたちが私をそしって、『おまえは、今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。おまえに従う疲れた者たちに、われわれがパンを与えなければならないとは』と言ったあの者たちだ。」16 ギデオンはその町の長老たちを捕らえ、また荒野の茨やとげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。17 また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺した。」

ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約1万五千人からなる陣営の者もともにいました。すでに12万人がギデオンによって倒されていました。残されたのはたった1万五千人でした。ギデオンは果敢に彼らの天幕に上って行き、陣営を打ちました。ゼバフとツェルムナは逃げましたが、ギデオンはその後を追って行き、ついにこの二人の王を捕らえ、ヘレスの坂を通って帰って来ました。

すると、ギデオンはスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて、スコテの首長たちと長老たちの名前を尋問したので、彼はその名前を書きました。すると、ギデオンはスコテに行き自分たちをそしった者たちと長老たちを捕らえ、荒野の茨やとげを取って、スコテの人々に思い知らせました。また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺しました。

18~21節です。「18それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。「おまえたちがタボルで殺した者たちはどんな人たちだったか。」彼らは答えた。「彼らはあなたによく似ていました。どの人も王子のような姿でした。」19 ギデオンは言った。「私の兄弟、私の母の息子たちだ。【主】は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしなかったのだが。」20 そしてギデオンは自分の長男エテルに「立って、彼らを殺しなさい」と言ったが、若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若く、恐ろしかったからである。21 そこで、ゼバフとツァルムナは言った。「あなたが立って、私たちに討ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのだから。」ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。」。

それから、ギデオンが、ゼバフとツァルムナに、「おまえたちがタボルで殺した者たちはどんな人たちだったか。」と尋ねると、彼らが「彼らはあなたによく似ていました。どの人も王子のような姿でした。」と答えたので、それが自分の兄弟であることを知り、彼らを殺します。ギデオンは自分の長男エテルに「立って彼らを殺しなさい」といいましたが、彼らは剣を抜くことができませんでした。彼はまだ若く、恐ろしかったからです。そこでギデオンが彼らを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取りました。

Ⅲ.罠(22-35)

最後に、22~35節までを見て終わりたいと思います。まず、22~23節をお読みします。「22 イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」23 しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。【主】があなたがたを治められます。」

ギデオンがミディアン人に完全に勝利すると、イスラエルの人々が彼にいました。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」

これはどういうことかというと、世襲制による支配のことです。政治でも政治家の世襲というのが話題になっていますが、ここでもギデオンの世襲による支配が求められたのです。

これに対してギデオンはきっぱりと断りました。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。」なぜなら、彼らを収められるのは主であられるからです。これはすごいことです。だれでも成功を収めると、それを自分の支配に置きたいと思うものです。そして、自分だけでなく、自分の子孫に継がせたいと考えるものですが、ギデオンは、そのようには考えませんでした。なぜなら、神の民を治められるのは神ご自身であられるからです。

ここに真のリーダーの姿を見ることができます。ギデオンは、イスラエルを守り導いたのは自分ではなく、神の恵みであることをよくわかっていました。だから自分が治めるのでも自分の子孫たちでもなく神が治めるべきであって、その神に目を向けさせたのです。自分の地位に執着するのではなく、そうした支配欲から解放されていたギデオンの態度は立派であったと言えます。

しかし、そんな彼にも弱さがありました。24~28節までをご覧ください。「24 ギデオンはまた彼らに言った。「あなたがたに一つお願いしたい。各自の分捕り物の耳輪を私に下さい。」殺された者たちはイシュマエル人で、金の耳輪をつけていた。25 彼らは「もちろん差し上げます」と答えて、上着を広げ、各自がその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。26 ギデオンが求めた金の耳輪の重さは、金千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、耳飾りや、ミディアンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首に掛けてあった首飾りなどもあった。27 ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。28 こうしてミディアン人はイスラエル人の前に屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

どういうことでしょうか?敵の部族はイシュマエル人で、金の耳輪をつける風習がありました。イスラエル人は、それらをたくさんぶんどってきていたのです。人々は、「もちろん差し上げます」と、金の耳輪をどっさり差し出しました。その重さは金千七百シェケル、約20㎏もありました。このほかにも、いろいろな飾り物類や、ミディアンの王たちが着ていた豪華な服や首飾りなどが差し出しました。

いったい何のためにギデオンはこうした物を求めたのでしょうか。27節には、「ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。」とあります。エポデとは、大祭司の装束の一部であって、胸当てのようなものであったり、占いの道具であったり、様々な形で使われたものです。大祭司でもなかったギデオンが、なぜエポデを作ろうと考えたのかはわかりません。おそらく、勝利のしるしに記念に残したかったのではないかと思います。偉そうに王様として君臨することは望まなかったギデオンでしたが、神が自分に語り、自分を通して勝利を与えてくださったことを記念に残しておきたかったのでしょう。

しかし、そのことがギデオンとその一族にとって大きな罠となりました。イスラエルの人々はみなそれを慕って、そこで淫行を行うようになったからです。つまりイスラエルの民は神の与えてくださった定めとおきてから目を背けてしまい、神に示された正しいことではなく、間違ったこと、おぞましい行いをするようになってしまったのです。

この「罠となった」という言葉は、「落とし穴となった」という意味です。第三版にはそのように訳されてあります。気づかないうちにいつのまにか深く掘られ、普通に歩いているつもりで一歩を踏み出した先に待ち受けていて人を飲み込んでしまいます。私たちは日々神に守られています。ですから、信仰によって歩むなら、神が勝利を与えてくださいます。けれども、油断してはなりません。喜びに気持ちが高ぶる時こそ、静かに祈ることが大切なのです。日々、神さまが示してくださるみことばに淡々と従い、自分や自分の過去、役割に執着しないで、いつも新しい道を示してくださる神に従うことが求められているのです。

それだけではありません。29~35節までをご覧ください。「29 ヨアシュの子エルバアルは帰り、自分の家に住んだ。30 ギデオンには彼の腰から生まれ出た息子が七十人いた。彼には大勢の妻がいたからである。31 シェケムにいた側女もまた、彼に一人の男の子を産んだ。そこでギデオンはアビメレクという名をつけた。32 ヨアシュの子ギデオンは幸せな晩年を過ごして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。33 ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。34 イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、【主】を、心に留めなかった。35 彼らは、エルバアル、すなわちギデオンがイスラエルのために尽くしたあらゆる善意にふさわしい誠意を、彼の家族に対して尽くさなかった。」

ギデオンの支配した40年間、イスラエルは平和でしたが、彼の死後、悲劇が起こりました。彼には大勢の妻がいたため、息子が70人もいました。そのうちの一人が、国を我がものにしたいという欲望にかられ、残りの兄弟を皆殺しにしたのです。名前はアビメレクです。そればかりか、ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、あっと言う間にバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分の神とし、主を、心に留めることはありませんでした。

何ということでしょうか。主が、周囲のすべての敵の手から彼らを救い出してくださったというのに、また元の状態に戻ってしまったのです。いったいどうしてでしょうか?どんなに信仰の勝利を体験したとしても、そのような体験はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうからです。大切なのは、神のみことばに従い、神の霊、聖霊に満たされ、聖霊に従って生きることです。

パウロは、このことを次のように言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:24-25)

パウロはここで、キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたといっています。十字架につけたというのは、もう死んでいるということです。死んでするのですから何もすることができません。そのとき、自分ではなく神の御霊に支配されて生きることができます。それが御霊によって生きるということです。そうするなら、一時的な平穏ではなく、永続する平和を見ることができるでしょう。神は私たちにそのように歩むことを願っておられるのです。

ヨハネの福音書1章6~8節、19~34節「ヨハネの証し」

今日は、ヨハネの福音書1章6節から8節、19節から34節までの箇所から、「光について証しする人」」というタイトルでお話ししたいと思います。

ヨハネは、この福音書を書いた目的を20章31節でこのように述べています。すなわち、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

それでヨハネは、前回の箇所でイエスが信じるに値する方であることのいくつかの理由を述べました。それは、イエスが初めから神とともにおられた神でありこの天地万物を造られた創造主であるということ、そして、この方にはいのちがありました。それは人の光であって、その光は闇の中に輝いています。どんな闇をも打ち破ることができるのです。

 

そして、きょうのところでは、バプテスマヨハネの証言を取り上げています。きょうは、このヨハネの証言からイエスが神の子キリストであるということを、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.光について証しするために来たヨハネ(6-8)

 

まず、6節から8節までをご覧ください。

「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

ここに登場する「ヨハネ」とはこの福音書を書いているヨハネではなく、別のヨハネ、バプテスマのヨハネのことです。彼は、イスラエルの人々が悔い改め神に従って生きるようにとヨルダン川でバプテスマを授けていたので、バプテスマのヨハネと呼ばれていました。

 

このヨハネが登場した時代は、沈黙の時代と呼ばれていました。旧約聖書の最後の預言者はマラキですが、そのマラキが登場してからイエス様が登場するまでの約四百年間は、預言者らしい預言者はほとんど登場していませんでした。その期間の出来事は聖書に全く記録されていないので、沈黙の時代と呼ばれていたのです。  しかし、四百年が経ってその沈黙を破るかのように、一人の預言者が登場しました。それがバプテスマのヨハネです。彼は、荒野に住み、らくだの毛の衣を着て、腰には革の帯を締め、野密といなごを食べていたので、もしかするとこの人がキリストではないかと人々から思われていました。というのは、彼の格好と生活のスタイルは、昔の預言者そのものだったからです。

 

そのバプテスマのヨハネに対して、この福音書を書いているヨハネは何と言っているかというと、こうです。7節と8節です。

「この人は証のために来た。光について証するためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

彼は光(キリスト)ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。26節と27節には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と言っています。人々からキリストではないか、光ではないかと思われていた人が、「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言うとしたら、人々は、果たしてこれから来られる方は、どれほど偉大な方なのだろうと思ったに違いありません。人々の目は自然と、今まさに現れようとしていたイエス・キリストに向かって熱く注がれたことでしょう。

 

これがバプテスマのヨハネに与えられていた使命でした。彼は光ではありませんでした。ただ光について証しするために来たのです。つまり光の先駆者にすぎなかったのです。太陽が昇ると月がその光の中に消えていくように、キリストが来られると、バプテスマのヨハネは消えていくのです。それはバプテスマのヨハネが、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったとおりです。彼は光ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。それが彼に与えられていた使命であり、目的、役割だったのです。

 

皆さんは、何ために生まれてきましたか。そして、今、何のために存在しているのでしょうか。その答えがここにあります。それは、光について証しするためです。これがバプテスマのヨハネが来た目的であり、私たちすべての人に与えられている目的でもあります。私たちは光について証しするために来たのです。その証しによってすべての人が光を信じるために遣わされているのです。その方法はいろいろあるでしょうが、目的は一つです。それはキリストを証しすることです。

 

1640年代にまとめられた小教理問答書に「ウエストミンスター小教理問答書」というものがあります。これはプロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされているものです。

その第一の設問にはこうあります。「人の主な目的は何ですか。」皆さん、考えたことがありますか?これを言い換えるとこうなるでしょう。「あなたは何のために生きていますか」何のために生きていますかって、食うためですとか、生きるためです、といった声が聞こえてきそうですが、答えはこうです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。」

 

すばらしい答えです。これが、私たちが造られた主な目的です。私たちは生まれてから死ぬまでに、力を尽くして立ち向かうべき様々な課題が与えられます。勉強や育児、仕事など、課題は尽きることがありません。

けれども、その時々の課題に身をすり減らし、ベルトコンベアーで運ばれるようにいつの間にか死という終着点に辿り着くのであれば、それは本当に空しい一生ではないでしょうか。

また現代では、様々な課題を抱えた老後の生活も長いのです。その時々の課題だけが生きる目的であるならば、長い老後の生活は何の意味もなくなってしまいます。  人間として生きている限り、生き甲斐のある人生を送るためには、どんな時も変わらない「人の主な目的」を知る必要があります。それが、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。

 

どうしたら神の栄光をあらわすことができるでしょうか。二つあります。一つは、こうして賛美や祈り、礼拝、証し、教会での奉仕といった信仰生活によってです。もう一つは、私たちの生活全体そのものによってです。言うならば、私たちの置かれている場所は神によって遣わされている場であり、神の栄光を現す場であるということです。いったい私たちはなぜそれぞれの場所に遣わされているのでしょうか。それは「この方」を証しするためです。私たちはそのために遣わされているのであり、私たちの証しによってすべての人が信じることを神様は願っておられるのです。

 

皆さんは、「クリスチャン」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。もともと「クリスチャン」というのは、「キリストさん」という意味のあだ名です。

使徒の働き11章26節には、このように記されています。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」  アンティオキアはエルサレムの北、シリヤにありますが、パウロやバルナバはそこにあった教会から世界宣教へと遣わされました。弟子たちは、このアンティオキアに来て初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。なぜこのように呼ばれるようになったのかというと、彼らが口を開けば「キリスト」「キリスト」と言っていたからです。どこを切ってもキリストなので、「キリストさん」と呼ばれるようになったのです。それだけ彼らはキリストに夢中だった、キリスト信仰が板についていたということです。彼らはそのように生きていました。それが彼らの生き方だったのです。

 

先日の祈祷会にIさんというクリスチャンの方が参加されました。祈祷会の終わりに小さなグループに分かれてお祈りの時を持っているのですが、たまたま同じグループになったので一緒にお祈りをさせていただいました。お祈りの後で、「ところで、Iさんはどのようにしてクリスチャンに導かれたのですか」と尋ねると、彼女がこう言われました。

「私は、小さい時に小学校の校門のところで宣教師の人たちが聖書の紙芝居をしているのを見ていたので、あまり聖書に違和感がありませんでしたが、中学校、高校、大学と進んで行く中でそういう世界とは無関係な日々を過ごしていました。けれども、大学を卒業後職場で行き詰ったとき、同じクラスの中にクリスチャンという人が三人いることがわかったのです。思い返すと、その人たちはクリスチャンだということで教授からいろいろな嫌がらせ受けていましたが、そのような中でも明るく、親切に、みんなと接していました。それを思い出して自分も教会に行くようになったんです。」

「どうやってその人たちがクリスチャンだとわかったんですか。」と尋ねると、「それは風の便りで・・」と答えられました。

風の便りで彼らがクリスチャンだということがわかり、それで彼女も教会に行くようになりました。それは、風の便りで伝わってくるくらい、彼らがよく証ししておられたということでしょう。それこそクリスチャンの特徴です。

 

私たちもどこを切ってもキリストが出てくるような、キリストについて証しするために来たということをしっかりと覚えながら、それぞれの場所に遣わされていきたいものです。

 

Ⅱ.ヨハネの証し(1:19-28)

 

では、ヨハネはどのように証ししたのでしょうか。次に、その内容について見たいと思います。1章19節から28節をご覧ください。ここには彼の証しが゛のようなものであったかが記されてあります。

「さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。

それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。

 

19節の「ユダヤ人たち」とは、国家的、宗教的に権威を持っていた人たちのことです。そうした人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちを遣わして、彼にこのように尋ねさせたのです。

「あなたはどなたですか」なぜこのように尋ねたのかというと、ヨハネが非常に大きな影響力を持っていたからです。イスラエルの全土から人々が彼のところにやって来てバプテスマを受けていました。彼の説教は力強く、人々は悔い改め、神に立ち返りました。ですから、多くの人々が、もしかしたら、この人がキリストではないかと思っていたのです。それで、指導的な立場にあったユダヤ人たちが、祭司とレビ人を遣わして、はたしてそうなのかどうか尋ねさせたのです。

 

その質問に対してヨハネとどのように答えたでしょうか。彼はためらうことなく告白して、こう言いました。20節、「私はキリストではありません。」

それでは何者なのか。彼らはヨハネに尋ねました。21節です。「あなたはエリヤですか」

エリヤというのは、旧約聖書に出てくる代表的な預言者で、後に来られるキリストの先駆者でもありました。旧約聖書の最後の部分に、こう書かれてあります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)

ん?この預言を見る限り彼はエリヤではないのですか?彼は主の前に遣わされ、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせるわけですから。しかし、彼は「違います」と答えました。確かに、その役割についてはそうなのですが、それはイエスを信じる人たちにとってはそうであるということであって、そうでない人たち、すなわち、イエスを拒んだ宗教的指導者たちにとってはそうではありません。それは、マタイ11章14節のイエス様の言葉からわかります。イエス様はこう言われました。「あなたがに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤです。」

ですから、確かに主が来られる前触れをするという点ではエリヤなのですが、どんなに彼がエリヤであってもそれを受け入れない人たちにとっては、そうではないのです。それでヨハネは、「違います」と答えたのです。

 

それでは彼はだれなのか?彼らは続いて尋ねます。「では、あの預言者ですか。」「あの預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。申命記18章15節で、モーセはこのように言いました。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」ですから、「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。モーセのように神からのメッセージをそのまま語る預言者のことです。しかし、ここでは単なるモーセのような預言者のことではなく、やがて神から遣わされる神の御子イエスのことを指していました。つまり、モーセがイスラエルをエジプトから救い出したように、人々を罪から救う救い主のことです。ですから、これはメシヤ預言だったのです。これに対しても、ヨハネは否定しました。

 

それで彼らはヨハネに言いました。「あなたはだれですか。・・・あなたは自分を何だと言われるのですか。」

するとヨハネはこう言いました。23節です。ご一緒に読みましょう。

「「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

どういうことですか?これは、イザヤ書40章3節の御言葉からの引用です。彼はこの御言葉を引用して、自分に与えられている使命がどのようなことであるかを述べたのです。それは、キリストが来られる前に、人々の心をまっすぐにして、神に立ち返らせるために荒野で叫ぶ声にすぎない、ということです。

これは、当時、王がある地方を通るときに前もってその地方にやってくる人のことです。王が来る前にやって来て、王が通る道をまっすぐにします。石が転がっていたら取り除けて、くぼみがあったからそれを埋めます。こうして、王が通る準備をしたのです。

 

かつて福島で国体が行われた時、道路がすばらしく整備されたことがありました。こんなところにと思われるところにも、片側二車線のすばらしい道路ができました。それはその道を天皇陛下が通られるからです。そのためでこぼこ道は平らに舗装され、曲がった道もまっすぐなりました。天皇陛下が通る前にやって来て道路を整備したからです。ヨハネも同じです。彼は、預言者イザヤの書に書いてあるように、キリストの前に遣わされ、主の道を用意し、主が通られる道をまっすぐにするという使命が与えられていたのです。

 

それにしても、彼は、自分のことを「荒野で叫ぶ者の声」と言いました。「ことば」ではなく「声」です。なぜ「声」だと言ったのでしょうか?あくまでも「ことば」はキリストであられるからです。この書の最初にこうありましたね。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

彼は「ことば」ではありませんでした。あくまでも、「ことば」について証しする声でしかなかったのです。

ここに、人がわきまえなければならない立場があります。ヨハネは、「私は王なるキリストを指し示す声にすぎない。大切なのは私ではなく、神のことばであられるキリストだ」と言っているのです。

 

作者不明ですが、このような詩があります。

私ではなく、キリストがあがめられ、愛され、高められますように。

私ではなく、キリストが見られ、知られ、聞かれるように。

私ではなく、キリストがすべての行動の中にいますように。

私ではなく、キリストがすべての思いと言葉の中にいますように。

私ではなく、キリストが謙遜で静かな働きの中にいますように。

私ではなく、キリストがつつましく熱心な労苦の中にいますように。

キリスト、キリストだけです!

 

見栄や、見せびらかせがあってはいけない。

キリスト、キリストだけが魂を集めてくださる方です。

キリスト、キリストだけが遠からず私のビジョンを満たされるでしょう。

すばらしい栄光を私はすぐに見るでしょう。

キリスト、キリストだけが私のすべての願いを満たすのです。

キリスト、キリストだけが私のすべてとなられるのです。

 

私たちは、しばしばイエス様よりも自分が評価されることを求めることがあります。しかし、バプテスマのヨハネは、ただキリストだけがあがめられることを願いました。

 

それは彼の26節と27節のことばからもわかります。ここもご一緒に読んでみましょう。

「ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

つまり、ヨハネは、「私よりもはるかに偉大な権威を持っておられる方があなたがたの中に来ておられる。私は、ただその方の到来を知らせている声にすぎないのであって、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」というのです。

 

当時、家の主人のくつのひもを解いていたのはその家のしもべたちでした。しかしヨハネは、そのくつのひもを解く値打ちもない者、値しない人間であると告白したのです。なぜなら、自分はただの人にすぎないが、この方は神の子であられるからです。

 

彼がこのように証しすることで、人々のキリストに向かって注がれる思いは、どれほど大きなものだったかと思います。ただキリストだけがあがめられますように!ヨハネの証しは、このキリストだけがクローズアップされるものだったのです。

 

私は今、こうして説教していますが、このような説教や証しは自分の体験談や自慢話をするのではありません。また、説教や証しを聞くというのは、証しする人のことを知るためではなくキリストを知るため、あるいは、キリストをより身近に感じるためにするのです。時々キリストよりもそれを話している人に注目が向けられて、肝心のキリストがどこかへ行ってしまうことがありますが、証しするというのはそういうことではないのです。聖書を通してキリストを人々に伝え、それを聞いた人々がキリストに心が向くようにするためなのです。それが証しの本来の目的です。ただキリストだけがあがめられますように!そう願いながら、私たちもキリストを証しする者でありたいと思います。

 

Ⅲ.神の子である証し(29-34)

 

第三に、ヨハネはキリストが単に偉大な方であるというだけでなく、この方が神の子、救い主であることを証ししました。29節から34節までをご覧ください。

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」

そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」」

 

29節に、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」とありす。その翌日とは、ユダヤ人たちから遣わされた祭司たちとレビ人たちの質問に答えた翌日のことです。ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見ました。すると彼は何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」ヨハネはなぜこのように叫んだのでしょうか?

 

当時、ユダヤの人にとって、「子羊」には特別な意味がありました。それは「過ぎ越しの子羊」を表していたからです。イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しんでいたとき、神はモーセを遣わして、イスラエル人をエジプトから脱出させようとされました。イスラエル人を行かせまいとするエジプトの王パロに対し、神は十の災いをお下しになりましたが、十番目の災いは、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプト中の初子という初子を殺すというものでした。ただし、子羊の血を取って二本の門柱とかもいに塗れば、主はその血を見て、災いを通り越してくださる、と約束されたのです。

それで、エジプト中の初子からすべての家畜の初子に至るまで死んでしまいましたが、神様が言われたとおり子羊の血を取って、それを二本の門柱とかもいに塗ったイスラエルの家だけはこの災害を免れました。

それ以来、イスラエル人は毎年この出来事を記念して「過越の祭り」を祝っているのです。ですから、「子羊」という言葉には、神の災いから救うものというイメージがあるのです。

 

また「子羊」という言葉には、罪を贖うというイメージもありました。神殿では毎日、人々の罪が贖われるために、罪のためのいけにえである子羊がささげられていました。子羊は、人々を罪から解放するためのいけにえだったのです。

 

ここでヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだのは、こうした背景があってのことです。つまり、イエスこそ、私たちの罪を贖うための犠牲となって死なれる神の子羊である、ということです。

 

これが彼の証しでした。彼はキリストを信じれば病気が治るとか、心に平安が与えられるとか、商売が繁盛するとか、すべての願いが叶えられるとか、人生が豊かになると証言したのではなく、キリストは、私たちを罪から救ってくださる救い主であると証言したのです。勿論、イエス様を信じればすべての罪が赦され神との平和が与えられるわけですから、その結果、心に深い平安と喜びがもたらされるのは当然のことです。これまでは人の顔色ばかり気にしながら生きていたのが神を恐れて生きるようになるので、誠実な人となり、周りの人からも信頼され、仕事もうまくいくようになるでしょう。家族の中に喜びと楽しさがあふれるようになります。しかし、それはイエス様を信じた結果であって目的ではありません。私たちの人生の幸福の根源は罪が赦されることであって、それはこのキリストにあるということです。イエスこそ、世の罪を取り除く神の子羊であり、そのために永遠の昔から神によって備えられていた方だったのです。

 

ヨハネは、「その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。」と言いました。この「先におられた」というのは、先に生まれたということではなく、初めからおられたということです。つまり、永遠の初めからおられたということ、永遠の神であるということです。その方こそイエス・キリストであると言っているのです。

 

ヨハネはこの方のことを知りませんでした。バプテスマのヨハネは、イエスの従兄弟に当たりますから、面識がなかったということではありません。面識はありました。しかし、見識がなかったのです。見識というのは、物事の本質を見通すことです。ヨハネはイエスの従兄弟としてイエスのことを知っていましたが、その本質がわからなかったのです。イエスが神の子キリストであることを知らなかったのです。

 

このことが、私たち一人一人にも問われています。イエス様のことを聞いているかもしれません。しかし、イエスが神の子キリストであるということ、この方が私たちを罪から救ってくださる方であるということを知っているかというと、意外に知らないということがあります。

 

いったい彼はどのようにして知ったのでしょうか。32節をご覧ください。「そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。」

神の御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見たのでわかったのです。なぜなら、水でバプテスマを授けるようにと彼を遣わされた方が、彼にこう言われたからです。33節、「『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』」彼はそれを見たのです。それで彼は、この方こそ神の子であると証ししたのです。

 

これは何を表しているのかというと、イエス様のバプテスマの出来事です。イエス様は、バプテスマを受けるためにヨハネのところにやって来ました。勿論、ヨハネは罪のないキリストがバプテスマを受けるなんてとんでもないと断るのですが、そのときイエスが、「今はそうさせてもらいたい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)と言われたので、ヨハネはイエスが言われたとおりにしました。

するとどうでしょう。イエスがバプテスマを受けて、すぐに水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの上に降られるのを見たのです。それで彼は、この方こそ、神の子キリストだと確信したのです。そのことです。ヨハネはそれを見ました。それで、この方が神の子であると証ししているのです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは、それを見たでしょうか。この方の上に、神の御霊が降られたのをご覧になられたでしょうか。確かに、ヨハネのようにそのことを以前から聞いていたかもしれません。しかし、実際にこの方の上に神の御霊が降られるのを見ていないかもしれません。この方が、私たちを罪から救ってくださる方であるということを確信しなければなりません。水でバプテスマを受けているかもしれませんが、聖霊のバプテスマを受けなければなりません。聖霊のバプテスマとは、イエスを信じて、新しく生まれ変わることです。

 

ニコデモとの会話の中でイエス様がこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれければ、神の国に入ることはできません。肉によって笑まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」」(ヨハネ3:5-6)

 

この方こそ、聖霊によってバプテスマを授けることができる方です。この聖霊のバプテスマを受けておられるでしょうか。聖霊のバプテスマを受けること、つまり、キリストを信じて心に受け入れることで、すべての罪が赦され、神の聖霊があなたの心に住まわれるようになります。そして、この聖霊に支配され、満たされると、キリストの香り放つようになります。その結果、主が共におられるという確信が与えられ、聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が実っていきます。イエス様は、そのような人生の変革をもたらしてくださいます。それはこの方のことを聞いたことがあるというだけでなく、この方の上に御霊が降られるのを見たからです。この方が私たちを罪から救ってくださり、聖霊によってバプテスマを授けてくださったからなのです。

 

ヨハネはこのことを証ししました。私たちも罪から救われた者としてこのことを証ししましょう。ヨハネの「声」が荒野に響き渡ったように、あなたの「声」があなたの周りにキリストの恵みの声となって響き渡っていきますように。

ヨハネの福音書1章1~5節「闇の中の光」

先週までヨハネの手紙から学んできましたが、今週からヨハネの福音書から学んでいきたいと思います。きょうはその第一回目となりますが、「闇の中に輝く光」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.初めにことばがあった(1-2)

 

まず初めに1節と2節をご覧ください。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」

 

このヨハネの福音書は、何とも不思議な始まり方をしています。果たして初めてこれを読んで理解できる人がいるでしょうか。私も初めてこれを読んだ時、いったい何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。しかし、分からなくても、そのまま読み進んでいくうちに、「ああ、これはイエス様のことだ」と分かるようになりました。というのは、1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあるからです。

ことばは人となられました。そして、私たちの間に住まわれました。私たちは、父のみもとから来られたひとり子としての、この方の栄光を見ました。このお方は、恵みとまことに満ちておられました。

ここまで読めば、分かってきます。それは、イエス・キリストのことです。そしてこの福音書を読み進んでいくと、そのことがさらにはっきりと分かっていくように書かれています。

 

ヨハネはまず、イエス・キリストを、「ことば」として紹介しました。なぜ「ことば」と紹介したのでしょうか。

ことばは、コミュニケーションをする上で大切な手段です。私たちは言葉によって自分の考えを表現したり、説明したりします。確かに、「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、目を見ればその人が何を言いたいのか、何を考えているのかがある程度わかる時もありますが、やはりことばで言わないとわからないこともあります。そういう意味で、ことばはとても重要です。

 

しかし、それ以上に、ことばはその人の性質を表しています。その人がどのようなことばを発するかによってその人がどのような人であるかがわかります。汚いことばを発する人はそのような性質を持っており、丁寧なことばを発する人は、そのような性質を持っています。どのようなことばを発するかで、その人がどのような人であるかをある程度判断することができるのです。キリストは神の子として、完全なことばを持っていました。キリストは、神の人格として現れた方だからです。

 

また、ことばには大きな力があります。創世記1章3節には、「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」とありますが、神は、ご自身のことばをもって天地万物を創造されました。それは天地を創造する力があるのです。

 

また、ことばは、人を傷つけたり、破壊したりする力を持っているかと思えば、逆に、傷つき、苦しんでいる人を慰め、励まし、力づけ、絶望から救い出すこともできます。キリストは神のことばとして、私たちを人生のさまざまな苦しみから解放するだけでなく、罪によって死と絶望の淵にある私たちを、そこから救い出すことができるのです。

 

しかし、ヨハネがここでキリストをことばとして表現したのは、それ以上の意味があります。それは、キリストは神の知恵、神ご自身であられたということです。このヨハネの福音書もそうですが、新約聖書は、当時の共通語であったギリシャ語で書かれていますが、この「ことば」と訳されている語はギリシャ語の「ロゴス」で、これは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味があります。神の知恵、神ご自身が現れたということです。

 

どういうことかというと、当時のギリシャの哲学者たちは、すべての物は、形が存在する前に「考え」において存在していた、と考えていました。その考えをロゴスと呼んだのです。つまり、その考え、もしくはそれを考えることのできる存在、それを「ロゴス」ということばで表現したのです。

聖書を一番初めに日本語に訳したのは、オランダ伝道協会の宣教師カール・ギュツラフという人です。彼は、遠州灘で遭難し奇跡的に助け出された3人の日本人がマカオに到着した時彼らから日本語を学び、最初の日本語訳を学び、翻訳作業を開始しました。そして、ついに、約一年かけて、「ヨハネ伝」が翻訳されたのです。これが「ギュツラフ訳」聖書です。

このギュツラフ訳には、ヨハネの福音書1章1節と2節が次のように訳されています。

「はじまりに かしこいものござる

このかしこいもの ごくらくともにござる

このかしこいものは ごくらく

はじまりに このかしこいもの ごくらくともにござる」

これによると、「初めに、ことばがあった」という文章が、「はじまりに かしこいものござる」と訳されています。「ことば」をどのように訳したらよいのか相当悩んだことがわかります。ただのことばではなく、賢いもの、知恵ある者としての神、それを「かしこいもの」と訳したのです。また、「神とともにあった」を、「ごくらくとともにござる」と訳しました。神をごくらくと表現したところに、当時の日本人の神に対して抱いていた思いが伝わってくるかのようです。

 

ですから、この「ことば」がどのようなものであったのかが、その後のところでこのように紹介されているのです。すなわち、この「ことば」は神であったということです。なぜなら、この方は「初め」に神とともに存在しておられたからです。この初めとは永遠の初めのことです。この方は永遠の初めから存在しておられました。すべてのものが存在する前に、すでに存在しておられたのです。最初に父なる神がおられて、その後にイエスが存在したということではありません。初めから存在しておられ、父なる神とともにおられました。この方は神とともにおられた神なのです。

 

したがって、「初めに、ことばがあった。」というのは、すべての物の存在の前に、それを考える方がおられた、と言うことです。ヨハネは、世界を創造し、すべての人に知恵を与える神のことば、神御自身がおられたということ、そして、この神のことばはイエスにおいてあなたがたの間に来られたのです、と宣言しているのです。

 

 

Ⅱ.すべてのものはこの方によって造られた(3)

 

そればかりではありません。3節をご覧ください。3節には、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。どういうことですか?

創世記1章1節に戻ってください。聖書の一番初めのことばは、神の天地創造について私たちにこのように告げています。「はじめに神が天と地を創造された。」

 

確かにここには、神が天と地を創造されたとありますが、どこにもキリストが創造されたとは書いてありません。実はこの「神」ということばは、ヘブル語で「エロヒーム」ということばですが、これは複数形です。複数形ということは、2人以上おられるということです。しかも「創造した」ということばは単数形が使われていることから、複数の神が全く一つとなってこの天地を創造したことがわかります。どういうことかというと、神は唯一ですが、その神は父と子と聖霊という三つの位格を持っておられるということです。位格というのは存在とも言えます。神は三人おられ、これら三つの存在が完全に一つであるということです。これを三位一体といいます。

 

聖書には三位一体ということばは出てきませんが、この創世記の1章1節は、三位一体の神が天地を創造したということを表しています。ですから、創世記1章26節には、神が人を創造されたとき、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」と言われたのです。何ですか、「われわれ」とは?神はご自身のことを「われわれ」と言われました。普通、私たちが「われわれ」というとき、それは2人以上の時です。英語では「We」です。なぜ神はご自分のことを「われわれ」と言われたのでしょうか。それは、神は三人おられるからです。父と子と聖霊です。

 

エホバの証人は、これは尊厳の複数だと言います。神はあまりにも威厳に満ちておられる方なので「わたし」とは言わないで、「われわれ」という複数形で表現しているのだと言うのです。そうでしょうか。違います。神がここでご自身を「われわれ」と表現されたのは、神は2人以上おられるからです。神は3人おられ、その神が人をご自身に似るように、ご自身のかたちに人を造られたのです。

 

それは、このヨハネの福音書でも言われていることです。1章1節には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」ことばであられたキリストは神とともにおられた神であったとあります。そうです、キリストは初めから神とともにおられた神として、この天地を創造されたのです。

 

パウロは、この事実を確認して、コロサイ人の手紙1章15節でこのように言っています。

「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」

このようにして読むと、イエスがなぜ病人を癒したり、嵐を静めたり、悪霊を追い出したり、死人をも生き返らせることができたのかが分かります。なぜなら、この方は天地万物を創造された神だからです。

 

ところで、ここにはキリストについては書かれてありますが、もう一人の神である聖霊についは書かれてありません。聖霊についてはここで詳しくお話しすることはできませんが、聖霊も神であるということが聖書にはっきりと記されてあります。たとえば、コリント第二3章18節には、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。御霊とは聖霊のことです。ここではこの聖霊について、「御霊なる主」と言われています。

 

また、創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇がおお水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もなかったとき、神の霊、これは御霊、聖霊のことですが、神の霊が水の上を動いていました。この地に何もなかったとき、神の御霊が水の上を動いていたのです。そのとき、神のことばがありました。「光よ、あれ。」と。そのとき、光ができたのです。ですから、聖霊も永遠の存在であり、この天地創造に関わっておられたことがわかります。

 

ですから、イエス様は復活後天に昇っていかれる直前、弟子たちにこう言われたのです。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」」(マタイ28:19-20)

有名な大宣教命令です。ここには、「父、子、聖霊の御名」と言われています。何ですか、父、子、聖霊の御名とは?父、子、聖霊という神の名のことです。神は三つにして一つなる方なのです。

この神が天地万物を創造されました。ことばであられたキリストが、この天地を創造されました。

 

この歴史上最も偉大な人物として日本人に人気があるのは、織田信長や坂本龍馬です。坂本龍馬はちょうど今、大河ドラマ「Segodon」に登場していますが、薩長同盟を結ばせ幕末を終わらせて新しい日本の礎を築いた人物として有名ですが、キリストはそれどころではありません。キリストは神ご自身であられるからです。

世界で人気がある有名な偉人は、レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)とか、アインシュタインです。ダ・ヴィンチは、芸術家であり数学者であり発明家でもありましたが、様々な分野ですばらしい功績を残してきたことから「万能人」と称されました。

しかし、キリストはこうした世界の偉人と呼ばれる人たちとは全く比較にならないほどものすごいお方なのです。なぜなら、キリストはこの天地を創造された神ですから。

 

かつてJ.B.フィリップスが「あなたの神は小さ過ぎる」という本を書きましたが、私たちが考え、想像している神様はあまりにも小さすぎるのではないでしょうか。私たちが考えたり、想像したりするキリストはあまりにも小さすぎます。ヨハネはキリストを紹介するに当たり、まず初めにキリストは永遠のはじめから存在しておられた方であり、この天地を創造された神ご自身であると告げているのです。

 

Ⅲ.光は闇の中に輝いている(4-5)

 

さらにこれを読み進めていくと、ヨハネは印象深いイメージをもってキリストを私たちに紹介していることがわかります。4節と5節です。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

すべての物を造られた神は、人のいのちも造られました。すべてのいのちの源は、この方にあります。この「いのち」とは何でしょうか。「いのち」というと、普通肉体のいのちを考えますが、ここで言われている「いのち」とは、永遠のいのちのことです。

 

神が初めに人を造られた時、単に肉体が生きるというだけでなく、また精神的に生き生きとしているというだけでなく、霊的に生きるように造られました。それが「神のかたち」、霊的いのちです。創世記1章26節と27節にこうあります。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

それは神につながることによって、初めて可能となります。ですから、人類はどの時代の、どの民族でも、それがまことの神であるかどうかは別として、神を慕い求めて手を合わせてきたのです。

 

以前、青森に行く機会がありました。その時三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。それは縄文時代の竪穴式住居などの遺跡です。その集落の真中にこの遺跡のシンボル的な3層の大きな掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が再現されていたので、これは何のために造られたのですか?とガイドさんに尋ねたら、ガイドさんが教えてくれました。「これは祭り櫓です。この村落の中心に櫓が建てられ、神への祈りがささげられていたのです。」

紀元前五千年の時代に生きていた人たちも、神への感謝と祈りを中心に生活が営まれていたのです。それはいつの時代の、どの民族も同じで、神につながることを求める人間の自然な姿だと言えるでしょう。なぜなら、人はそのように造られているからです。それが人間にとって最も自然な姿で、幸福な瞬間なのです。それは、パスカルのこのことばからもわかるでしょう。「私の心には、本当の神以外にはとても満たすことのできない、真空がある。」

 

しかし、最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したことで、神との関係が断たれてしまいました。すなわち、霊的に死んでしまったのです。それゆえ、神はその罪から私たちを救い永遠のいのちを与えるために、ご自身の御子をこの世に与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)イエスが来られたのは、このいのちを私たちにもたらすためだったのです。

 

このいのちが私たちを生かします。ですからヨハネはここで、「このいのちは人の光であった。」と言っているのです。つまり、イエス様のいのちは、私たちの人生に欠くことのできない光のようなものとして注がれているということです。

 

「光」が注がれるとどうなるでしょうか。光が注がれると、それまで見えなかったものが見えるようになります。真っ暗の中では、どこをどう進んで行ったらよいかわかりません。しかし、闇が照らされることで、進むべき道がはっきりと見えます。また、今まではっきりわからなかったことが、わかるようになります。たとえば、かなり汚れていた部屋が、光に照らされることによってこんなにひどかったのかということがわかると愕然とすることがあります。しかし、光であられるイエス様が私たちの心の中に来てくださることによって、どんなに汚れた心も新しくしてくださり、喜びと感謝の中を生きることができるようになるのです。

 

つまり、このいのちは人の光であったという時、そのことが意味していたことは、光であられるイエス様は、闇を消し去ることができるということです。このことをヨハネは5節でこう言っています。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

「光」の反対は、「闇」です。キリストは闇ではなく、光なのです。キリストと共に人生を歩むということは、闇の中ではなく光の中を歩むことです。

 

ヨハネがキリストを紹介しながら、私たちに伝えようとするメッセージがここにあります。「いのち」という言葉は、ヨハネ福音書の中に何と50回も出てきます。また、「光」という言葉は、23回も出てきます。キリストは「いのち」であり、「光」であるということをヨハネは何回も繰り返し強調することによって、キリストはどのような闇をも消し去ることができる方であるということを伝えたかったのです。

 

皆さん、イエス・キリストにはいのちがあります。そして、このいのちは人の光です。どんなに闇が襲ってきても、これに打ち勝つことはできません。どんな闇があっても、キリストが私たちを照らしてくれます。この方にいのちがあり、このいのちが人の光であるからです。

 

たとえば、先ほど「ことば」についてお話ししました。それは人を傷つけたり、破壊したりしてしまうほどの実に恐ろしい力をもっています。しかし、生涯忘れられないほど傷つけられたことばを投げつけられたとしても、ことばであられるイエス様は、それをはるかに超えて、私を慰め、励まし、力づけてくれることがおできになります。この方は神とともにおられた神で、すべてのものを造られた創造主であられるからです。この方にいのちがあり、このいのちは人の光として、あなたの心の中で輝くからです。

 

あなたには今、どのような闇がありますか。それがどのようなものであっても、闇はこれに打ち勝ちません。ヨハネは語っています。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。これこそ、ヨハネがこの福音書を通して私たちに語りかけようとしているメッセージです。これがあなたの希望となり、生きる力となります。私たちは闇の中で右往左往するような者ですが、そのような私たちにキリストが光となってくださるということを信じ、この方に信頼して歩んでいきたいと思います。まことのことばであり、まことのいのち、まことの光であられるキリストは、今ここに、私たちと共にいてくださるのです。