ヨハネの福音書13章16~20節「しもべは主人にまさらず」

前回は、13章の前半部分から、互いに足を洗うことについてお話ししました。主に足を洗ってもらわなければ、主と何の関係も持つことができません。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいからです。つまり、イエス様にきよめていただいた者は、足だけ洗っていただけばいいんですね。足を洗ってもらうとはどういうことでしたか?それは日々の歩みにおいて汚れる罪を悔い改めて、きよめていただくということでした。そのように全身をきよめていただいたということを前提に、互いに足を洗い合いなさいと言われたのです。

きょうは、その後の16節から20節までの箇所から、「しもべは主人にまさらず」という題で、クリスチャンの幸いについてお話ししたいと思います。

Ⅰ.しもべは主人にまさらず(16-17)

まず、16節と17節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」

「まことに、まことに」という言い回しは、イエス様が重要な真理を語られる時に使われた言葉です。この13章には4回使われていますが、その最初に出てくる場面です。何が重要なのでしょうか。「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」ということです。どういうことでしょうか?

これは、キリストの弟子とはどのような者であるかを示しています。つまり、キリストの弟子とはしもべであるということです。また、遣わされた者であるということです。何を言おうとしているのかというと、この前のところには、イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されてありましたが、「先生」とか「主」とか呼ばれていたイエスがそのようにして仕えたのであれば、主の弟子である私たちはそれ以上ではないということ、つまり、キリストの弟子である私たちはそれ以上に仕えるべきであるということです。

ヨハネ3:26~30には、バプテスマのヨハネの弟子たちが彼のところに来て、イエスがバプテスマを授けていること、そして、皆が彼の方に行っているということを告げたとき、ヨハネが次のように答えたとあります。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:27-30)
人は、天から与えられるものでなければ、何も受けることができません。すばらしいことばですね。自分の置かれた立場も、自分の成すべきことも、すべて天から与えられるのでなければ、何も受けることができないのです。このバプテスマのヨハネのことばは、ここでキリストが言われたことをよく表しています。自分はあくまでしもべにすぎないのであって、遣わされた者でしかありません。天から与えられるのでなければ、何も受けることはできないし、何もすることはできないのです。ですから、しもべは、主人に言いつけられたことを、ただ忠実にこなすだけでいいのです。遣わされた者も、遣わした方のメッセージを語るだけでいい。何か自分の考えを加えたり、自分の意見を加えたり必要はありません。自分の思いや考えで動いたりする立場ではないのです。あくまでも主人の、あるいは遣わされた方の意向にそって動くだけでいいのです。それが「しもべ」です。これが、「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」という意味です。私たちは、天から与えられるのでなければ何もできないし、私たちの成し得ることはすべて、神の恵みによるのです。

その中には、主人の言っていることを理解できないこともあるでしょう。でも、今はわからなくても、後でわかるようになります。ですから、しもべがすべきことは、主人が言っていることを理解できるかどうかではなく、理解できてもできなくても、主人に従うことなのです。これがしもべの役割です。ですから、この「しもべは主人にまさらず」というのは、たとえ主人が言われたことがわからなくても、その言われたことに忠実に従わなければならないということです。それがしもべの姿、私たちの立場です。

17節をご覧ください。ここには、「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」とあります。「これらのこと」とは何でしょうか。それは、今述べてきたように、しもべは主人にまさらないということです。そのことをわきまえて、主人が言っていることを理解できても、できなくても、それに従うということです。それが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。ここでは、ただ知っているというだけでなく、それを行うことの大切さが強調されています。
ヤコブ1:22~25には、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。
みことばを聞くだけでなく、行う人にならなければなりません。こういう人は、その行いによって祝福されるからです。私たちは、行いによって救われたのではありません。キリストの十字架の贖いのゆえに、それを信じる信仰によって救われたのです。救いは、一方的な神の恵みによるのです。しかし、そのように恵みによって救われたのであれば、結果としてそこに必ず行いが伴うはずなのです。そうでないとしたら、神の恵みによって救われるということがどういうことなのかを正しく理解していないか、あるいは、本当の意味で救われてはいないかのどちらかです。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いなのです。

この「幸い」ということですが、これはマタイの福音書5章の山上の説教で語られている「幸い」と同じです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)この「幸い」と同じです。それは単に物事が自分の願い通りになるということではありません。それは、霊的な祝福にあずかることを意味しています。神の祝福を受けることがまことの幸いです。皆さん、幸せって何ですか?一般に幸せというと、たとえば有名な大学に入ることとか、いい人と結婚すること、仕事に成功すること、マイホームを手に入れること、あの資格この資格を手に入れること、健康であること、こういうことが幸せなことだと思っていますが、そうではありません。そうしたものが悪いと言っているのではありませんが、そうしたものがないと幸せになれないと考えていることが間違っているのです。実際に、そのようなものをすべて手に入れても、虚しくなって自殺する人もいます。本当の幸せは神との関係にあります。「神共にいまし」、これが天国です。これが祝福です。まことに幸いな人とは、これらのことが分かっている人、そして、それを行う人です。そういう人こそ幸いな人なのです。

アメリカの有名な伝道者D.L.ムーディーは、このように言いました。「聖書は私たちの情報のためではなく、私たちの変革のために与えられたものである。」聖書はただの情報のために与えられたものではなく、私たち自身が変えられるために与えられたものです。罪人から聖徒に、罪の奴隷からキリストのしもべに、罪人から義人に変えられるために与えられました。私たちがキリストを信じてすべての罪が赦され、しもべは主人にまさらず、という木リスとのことばに従い、それを行うなら、あなたは幸いなのです。

Ⅱ.あなたがたが信じるため(18-19)

次に、18~19節をご覧ください。
「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

ここから話の流れが大きく変わります。イエス様はこれまで足を洗うこと、仕えることの意味を語ってきました。そして、それがどういうことなのかがわからなくても、しもべとして主人の言われるとおりにすることが祝福なのだと語られたのです。しかし、ここからはユダの裏切りについて語り始めます。

「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのでありません。」というのは、10節、11節でも述べられていたことです。イエスは、水浴した者は足以外に洗う必要はないが、皆がきよいわけではない、と言われました。これは、イスカリオテ・ユダのことを指して言われました。ユダはキリストの弟子でありながら、きよめられていませんでした。彼はイエスに足を洗ってもらいましたが、全身がきよめられていませんでした。うわべだけのきよめ、名ばかりの弟子だったのです。彼はまことの弟子ではありませんでした。6:70でも、彼は悪魔であったと言われています。ですから、彼は他の弟子たちのように全身がきよめられていませんでした。足だけ洗ってもらうだけではだめだったのです。全身洗ってもらわなければなりませんでした。水浴しなければなりませんでした。だれも彼を裏切り者だなんて思っていなかったでしょう。彼は有能な人物でした。他の弟子たちからも一目置かれる存在でした。ですから、この後でイエスが「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(13:21)と言っても、だれも彼をその人物だとは思いませんでした。それほど信頼が厚かったのです。しかし、イエスだけは知っていました。ここに、「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。」とあります。けれども、聖書に、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることが成就するために、この事が起こりました。このこととは、ユダがイエスを裏切るという事です。これは詩篇41:10の引用です。「かかとをあげる」とは、反逆するとか、敵対するという意味です。イエスはご自分が選んだ者たちの中から、自分に向かって反逆する者、裏切る者が出てくることを知っておられたのです。

このことを前提に、イエスは19節でこのようにおっしゃられました。「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」どういうことでしょうか?
「事が起こる前に」とは、ユダがイエスを裏切るという事が起こる前にということです。そのことが起こる前に、そのことを弟子たちに言っておくというのです。何のためでしょうか?それは、その事が起こったとき、わたしが「わたしはある」であることを、あなたがたが信じるためです。また出ました。「わたしは、「わたしはある」というものである。」これは出エジプト記3:14に出てきた言葉で、主がどのような方であるのかを表した言葉です。つまり、主はほかの何ものにも依存しない方、自存の神、全能者であるという意味です。そのことを信じるためです。

こんなことが本当に起こったら大変です。それこそ弟子たちの信仰を揺るがしかねません。そうでしょ、たとえば、教会で何か問題が起こったらどうなるでしょうか。「クリスチャンなのに信じられない」とか、「牧師なのにひどい」とかなりませんか。そのことに動揺して躓いてしまう人もいるでしょう。人の言動や罪、失敗、醜さなどに動揺し、うろたえては教会から離れたり、信仰から離れてしまうことがあります。しかし、ここでは、その事が弟子たちの信仰を揺るがすどころか、むしろ、そのことを通してイエスはどのような方なのか、「わたしはある」というものであることを、弟子たち信じるために用いられると言われたのです。

これはすごいことです。ユダの裏切り行為はショッキングなことであり、そのことだけを見たら信仰が揺れ動いてしまうかもしれませんが、しかし、聖書の御言葉に目を留め、それが旧約聖書の中にちゃんと預言されていたことであったということを知ると、むしろ、そのことによって、ああ、ほんとうにイエス様は神様なんだということを確信し、ますます神に信頼できるようになるのです。ですから、この出来事をどのように捉えるかは大切なことです。それを人間の視点で捉えるのか、神の視点で捉えるのかということです。人間の視点で見たら、何というひどいことをとなるでしょうが、神の視点で捉えるなら、「そういうことだったのか」と、逆に信仰が強められることになるのです。

ですから、どこを見るのか、だれに信頼するのかは、とても重要なことです。もし人を見れば動揺するでしょうが、神を見て、神のことばに耳を傾けるなら、どんなことが起こっても決して失望することはありません。なぜなら、聖書に、主に信頼する者は、決して失望させられることがない、とあるからです。(ローマ10:11)

Ⅰペテロ1:23~25には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。」とあります。
人はみな草のようです。その栄えはみな草の花のようです。ですから、人に信頼すると萎れてしまうことになります。裏切られたり、そのことばでいつも振り回される結果になります。しかし、主のことばはとこしえに変わることがありません。ですから、もしあなたが主のことばに目を留め、それに心を寄せるなら、あなたの心が揺れ動くどころか、むしろ強められることになるでしょう。確かにユダの裏切り行為自体は、あってはならないことです。そのこと自体を正当化されてはなりません。しかし、そのことがすべての人たちの救いにつながっていったということ、そして、神の栄光を現すために用いられたということも事実なのであって、そのことを覚えておかなければなりません。そして、主のことばに目を留め、主に信頼しましょう。そういう人が主から幸いを受けるのです。

Ⅲ.イエスによって遣わされた者(20)

第三に、20節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

ここにも「まことに、まことに」という言葉が使われています。ですから、ここでの内容も重要です。それはどんなことかというと、「わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」ということです。「わたし」とは、勿論イエスご自身のことです。イエスが遣わす者を受け入れる者は、イエスを受け入れるのであり、イエスを受け入れる者は、イエスを遣わされた方、これは父なる神のことですが、その方を受け入れることなのです。イエスはこれまで何度も、ご自分を遣わされた者を受け入れる者は、遣わされた方を受け入れることであると述べてきました。なぜなら、イエスが「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたように、イエスと父なる神は全く一つであられるからです。ですから、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方、父なる神を受け入れる者でもあるのです。しかし、ここでは、キリストを受け入れる者だけでなく、キリストが遣わされた者を受け入れる者は、キリストを受け入れると言っています。そして、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方を受け入れることになるのです。

なぜ、このことがそれほど重要なのでしょうか。それは、ここにも私たちがどのような者であるかが示されているからです。すなわち、私たちはキリストによって遣わされた者であるということです。何のために遣わされたのかというと、私たちを通して語られるキリストのことばを通して、それを耳にした人が信じるためです。すなわち、キリストを受け入れる者となるためです。クリスチャンになるためです。そうでないと、その人たちはクリスチャンになることはできません。私たちを通して聖書のことばを聞き、それを教えてもらって、初めて信じることができるのです。イエス様は、この尊い務めを私たちにゆだねてくださったのです。

ローマ10:17には、「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」とあります。信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。美しい夜空を眺めていたら、突然イエス様を信じるようになったというようなことがあるでしょうか?美味しい食事をしていたら、気持ちよくなってイエス様を信じようと思ったというようなことがあるでしょうか?その感情が一時的に盛り上がるということはあるかもしれませんが、それが信仰に結びつくことはありません。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことはキリストについてのことばを通して実現するからです。それは、イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいているのです。キリストを信じるためには、キリストについてのことばを聞かなければなりません。その中で聖霊が働いてくださいます。何回聞いてもピンと来ない人が、ある日、ある時、キリストのことばを聞いて「あ、そういうことだったのか」とわかる時があります。それは一方的な聖霊の働きによるのです。私たちはただこのキリストについてのみことばを語らなければなりません。キリストのみことばに出会うなら、そのとき信仰が生まれるからです。

そして、そのためには遣わされなければなりません。ローマ10:14には、「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」とあります。みことばを聞くためにはそれを宣べ伝える人が必要です。イエスはこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)と言われました。不思議ですね、全能であられる主が、収穫のためには働き手が必要だと言われたのですから。「わたしはある」と言われたる方が、この福音を伝えるために人を求めておられるのです。そのために主は、私たちを遣わしておられるのです。

近藤先生の書かれた証の中に、先生がどのように救いに導かれたのかが書かれてあります。先生が大学を卒業後高校の音楽の教師として働いていた時、生徒から「人間どうして努力しなくちゃいけないのか」「何のために生きているのか」と聞かれたそうです。その問に答える術がなく、悶々としていた時、人生に何か目標を持ちたいと、死ぬまでに一か国語でもいいから、外国語を話せるようになりたいと、フランス語を学び始め、翌年の夏休みを利用してフランスに行かれました。何気なく散歩していたら教会から流れてきたパイプオルガンの音色に、それまで味わったことのない感銘を受けるのですが、帰国して2学期が始まり、10月頃、風邪をひいて、家庭医の診察を受けました。その医師はクリスチャンの方で、診察の合間に、訪れた患者さんに神様のことをさりげなく語るということをしていたそうです。そして、近藤先生の診察が終わると、「近藤さん、よろしかったお茶でもしていきませんか」と誘ってくださいました。普通ならお断りするところですが、なぜかこの時は受け入れてしまいました。応接間に通されると、奥さんがお茶とお菓子を持ってきて、もてなしてくれました。片付けを終えるとその医師も応接間に入って来て、先生が恐れていたとおり、聖書を開いて、この世界には神様がおられること、そして人間には罪があること、その罪の赦しのためにイエス様が十字架で死なれたことをこくこくと話されたのです。先生はその医師が語っていることをすべて理解したわけではありませんでしたが、フランスで体験したことを彼に話してみると、その医者は「近藤君、神様は近藤君を招いていらっしゃる。聖書を読みなさい。」と勧めてくれました。
その翌日、学校からの帰りに駅前の本屋に行き、新約聖書を入手し、その夜から読み始めると、よく理解できませんでしたが、聖書のことばには力があって、自分が引っ張られていくような感じがしたそうです。それで、その医師が勧めたように教会にも行くようになり、伝道者の書のことばが目に留まり、信仰に導かれたのです。
私はその証を読ませていただきながら、この医師の方すごいなぁと思いました。牧師とか伝道者であれば当然かもしれませんが、自分が遣わされたところ、自分が置かれたところで、良いことを伝える足となったのです。それは、この方が自分はイエス様によってここに遣わされた者であるという使命感をしっかりと持っていたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
私たちも、主に遣わされた者です。本当に取るに足りない者ですが、そのような者を受け入れる者は、キリストを受け入れるのです。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。私たちは、しもべにすぎず、遣わされた者であるということを肝に銘じ、主人であられる主の命じられることを、淡々と行う者でありたいと思います。それが主のしもべです。天から与えられるものでなければ、私たちは何もすることができません。すべては主の恵みによるのです。そのように生きる者こそ幸いな者であり、主からの幸いを受ける者なのです。