Ⅰサムエル記12章

 今回は、サムエル記第一12章から学びます。

 Ⅰ.非難されるところがなかったサムエルの生涯(1-6)

 まず、1~6節までをご覧ください。
「サムエルは全イスラエルに言った。「見よ、あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上に王を立てた。今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。私は年をとり、髪も白くなった。そして、私の息子たちは、あなたがたとともにいる。私は若いときから今日まで、あなたがたの先に立って歩んできた。さあ今、主と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません。」サムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見出さなかったことについては、今日、あなたがたの間で主が証人であり、主に油注がれた者が証人である。」そこで、ある人が「証人は」と言うと、サムエルは「主である。モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせた方である」と民に告げた。

11章の終わりに、「サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」(11:14-15)とありますが、サウルの王政が樹立した段階で、サムエルの士師としての役割は終わりを告げました。そこでサムエルは告別説教をします。この箇所はその冒頭部分にあたります。

サムエルがここで言っていることは、第一に、自分はイスラエルの要求を受け入れて、イスラエルの民の上に王を立てたということ(1)、第二に、そればかりか、若い時から今日まで、彼らの先頭に立って歩んできたが、その士師としての生活の中で、何か一つでも不当にその地位を利用して悪事を行うことがあったか、あったのなら、それを主と主に油注がれた者の前に出して、訴えてほしいということ(3)でした。たとえば、だれかの牛を取ったとか、だれかのろばを取ったり、だれかを虐げたり、だれかの手から賄賂を受け取って、自分の目をたくらませたりしたとかです。すると、イスラエルの民は、そういう事実はただの一つもない、と言いました。
権力の座について、それでいてなおかつ、それを乱用せずに生き抜くことはとても難しいことです。自分が置かれている立場を利用する誘惑はいっぱいあるからです。けれども、サムエルは最後の最後まで、非難されるべきところがなく生きてきました。最後まで主にお従いすることは、本当に栄誉あることです。

するとサムエルは言いました。「あなたがたが私の手に何も見出さなかったことについては、今日、あなたがたの間で主が証人であり、主に油注がれた者が証人である。」(5)
「油注がれた者」とはサウルのことです。サムエルに非がないことは、主と主に油注がれた者であるサウル王が証人である、ということです。5節のその後のところに、「そこで、ある人が「証人は」と言うと、」とありますが、新改訳第三版では、「すると彼らは言った。「その方が証人です。」となっています。この方がわかりやすいかと思います。つまり、彼らは、サムエルの言うとおり、主と、主に油注がれた方が証人であると認めたということです。

Ⅱ.サムエルの告別説教(7-18)

次に、7~18節までをご覧ください。
「さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わし、彼らはあなたがたの先祖をエジプトから導き出し、この場所に住まわせた。しかし、先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで先祖たちは彼らと戦うことになったのだ。先祖たちは主に叫んで、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテの神々に仕えて罪を犯しました。今、私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してください』と言った。すると主は、エルバアルとバラクとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それで、あなたがたは安らかに住んだのだ。しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。今、見なさい。あなたがたが求め、選んだ王だ。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手が、あなたがたとあなたがたの先祖の上に下る。今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。今は小麦の刈り入れ時ではないか。主が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。そしてサムエルは主を呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨を下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。」

そこで、サムエルは告別説教を語り始めます。彼はまず、イスラエルの歴史から語ります。彼がこのようにイスラエルの歴史から語るのは、主が、ご自分の民にどのように働かれたのかを思い起こさせるためです。その中心は、神がモーセとアロンを立てて、イスラエルの先祖をエジプトの地から導き出された方であるということです。
 それにもかかわらず、彼らの先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長、シセラの手に、またペリシテ人の手、モアブの王の手に渡されました。しかし、彼らが悔い改めて主に叫んだので、主は士師たちを起こし、彼らを助け出されました。エルバアルとはギデオンのことです。また、バラクやエフタ、サムエルなどです。それで、彼らは安らかに住むことができました。

 これらのことからわかることは、イスラエルの民を解放したのは人間ではなく、士師たちを遣わされた主ご自身であるということです。私たちも今、自らの歩みを振り返り、ここまでの歩みを支えてくださったのが誰であるのかを思い起こし、この主イエス・キリストの父なる神に感謝して、ますます主に信頼して歩ませていただきたいと思います。

しかし、アンモン人の王ナハシュがイスラエルに向かって攻めて来たとき、彼らはどうしたでしょうか。イスラエルの神、主こそ彼らをその窮地から救い出してくださる方なのに、彼らはその主に助けを求めたのではなく、人間の王を求めました。「いや、王が私たちを治めるのだ。」と言って。それがサウルでした。
 サムエルは、主が王として民を救ってくださるのに、人間の王が欲しいと言い張ったのは罪であったことを指摘した上で、主は民の上に王を置くことを許されたのだということを説明します。それは明らかに彼らの罪でした。けれども主は、彼らが落ちていったそのレベルにまで降りてくださり、人間の王が統治する中で彼らを見守ることに決められました。そして、彼らがそれ以上落ちることがないように、主の律法に忠実に歩むようにと、サムエルはこう勧めるのです。14~16節です。
 「もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手が、あなたがたとあなたがたの先祖の上に下る。」

そして、「今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。」(14-16)と言いました。それは、小麦の刈り入れの時に、サムエルが主に、雷と雨を下されるようにと祈ると、主はその祈りに応えてくださるので、それを見て、彼らが主の前に犯した悪がいかに大きかったかを認めて、心に留めるように、と言うのです。小麦の刈り入れ時期は、普通6月中旬から末にかけてです。雨は5月には止んでおり、6月は乾季に入りますから、その時期に雨が降るとしたら、それはサムエルの祈りに主が応えてくださったということになります。

そして、サムエルがそのように主に祈ると、主は彼の祈りに応えてくださり、その日に、雷と雨を下されたので、民はみな、主とサムエルを非常に恐れました。これ以外の方法では、自らの罪を実感できなかった民が大勢いたでしょう。私たちが頑なに一つのことを求めるなら、主はそのことを与えてくださる場合があります。しかし、それは神がただ許容されただけであって、実際には悲しませることになります。にもかかわらず、私たちはそれが叶うと、あたかも自分が正しい者であるかのように錯覚してしまいます。私たちは、自分の思いによって神を動かそうとする愚かな罪を犯していないかどうかを吟味しなければなりません。そして、いつも柔和な心で神の御声を聞き、主に従わなければなりません。

Ⅲ.ただ主を恐れて(19-25)

最後に、19~25節までをご覧ください。
「民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」

すると民の心に主への恐れが生じ、彼らはサムエルに、自分たちが死なないように、主に祈ってほしいと、言いました。
それに対してサムエルは、彼らに「恐れてはならない」ということ、そして、主に従う道から外れないで、心を尽くして主に仕えるようにと言いました。主の恵みと選びとは変わることはありません。主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨てたりなさらないからです。これは主の契約に基づく不変の愛です。すばらしいですね。勿論、サムエルも彼らのために祈ることをやめたりしません。彼らに真理を伝えることを止めたりはしないのです。だから、王政になったとしても、主を恐れ、誠実に主に仕えるようにと勧めたのです。もし、彼らが悪を重ねるなら、彼らも彼らの王も滅ぼし尽くされることになります。

すばらしいですね。主の賜物と召命とは、変わることがありません(ローマ11:29)。私たちは、そのような不変の愛で愛されているのです。だからと言って、どう生きてもいいというわけではありません。神の愛は不変であり、私たちの救いは確かなものであるがゆえに、私たちは主を恐れ、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛し、主に仕えなければならないのです。それは私たちが愛されるためではなく愛されたから、神の大いなる愛を経験しているからです。

ヨハネの福音書12章27~36節「光があるうちに」

きょうは、「光があるうちに」というタイトルでお話しします。「光」とはイエス様のことです。イエス様は、「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。」(35)と言われました。また、「光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(36)と言われました。きょうは、この「光があるうちに」ということで三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.イエスの祈り(27-28)

 まず、27~28節をご覧ください。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」

イエス様は、過越の祭りを祝うためにエルサレムに来られました。これがイエス様にとっての最後の過越の祭りです。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架で死なれるからです。すると、そこに何人かのギリシア人がいて、弟子のピリポを通して、「イエスにお目にかかりたいのです」(21)と頼みました。ピリポはアンデレと一緒にイエス様のところに行きそのことを伝えると、イエス様は驚くべきことを言われました。それがあの有名な「一粒の麦」の話です。24節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」それは、イエス様の十字架上での死のことを表していましたが、そのことをもっと明確に示すために、それに続いてこう言われました。27節、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」

これはイエス様の告白であり、祈りです。イエス様の心は騒いでいました。なぜなら、間もなくご自分が十字架につけられることを知っていたからです。ヨハネの福音書では、この「時」のことがずっと語られてきました。例えば、カナの婚礼では、母マリヤに対して、「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と言われました。しかし、今その時が来ました。十字架につけられる時です。それで心が騒いでいたのです。神の御子であるならどうして心を騒がせる必要があったのでしょうか。それは、たとえ神の御子であっても、たとえ、それが永遠の神のご計画であるということがわかっていても、十字架で死ぬことがどんなに恐ろしいものであるかを知っていたからです。それを知っていたなら苦しみ悶えるのは当然のことです。それは、十字架での死というものが単に肉体的な苦しみを意味していただけでなく、それ以上に父なる神から見捨てられることを意味していたからです。イエス様は、「わたしと父はひとつです。」(10:30)と言われましたが、そのように言うことができる方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばなければならないのです。それほど理不尽なことはありません。それは、イエス様にとってもっとも恐ろしいことでした。それゆえ、「この時から私をお救いください。」と祈らずにはいられなかったのです。

イエス様はここで、「この時からわたしをお救いください」と祈られましたが、あのゲッセマネの園でも同じように祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」(ルカ22:42)それは、同様の理由からです。人類の罪を背負って十字架で死ぬということが、どれほど恐ろしい神の刑罰なのかをよく知っておられました。だから、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈らずにはいられなかったのです。ここでも同じです。

しかし、イエス様の祈りはそれだけではありません。それに続いてこう祈られました。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」それがどんなに苦しく恐ろしいものであっても、それが神の御心であり、ご自分がそのために来られたことを確信していたので、イエス様はこのように祈ることができたのです。あのゲッセマネの園での祈りで「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈られたのと同じです。これはご自身がメシアであることの確信を表していました。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだと。だから、「父よ、御名の栄光を現してください。」と祈ることができたのです。私たちもこのように祈りたいですね。自分の願いよりも、御名の栄光が現されるようにと。そのためには、自分が何のためにここにいて、この時に至ったのかを確信しなければなりません。そうでないと、ちょっとでも嫌なことや苦しいことがあると、すぐにつぶやいてしまうことになってしまいます。しかし、ここにいるのは神がそのように導いてくださったからだと、信仰によって確信することができるなら、イエス様のように、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。

米沢の恵泉キリスト教会から送られてきた週報に、脳梗塞で入院しておられた佐藤信幸さんという方の証しが掲載してありました。それには「神さまのご計画」という題が付けられていましたが、つぎのような証でした。
11/24(日)の夜9時30分頃、午後はずうっとソファに横になっていたので筋トレして浴室に向かった。あれっ右手が経験したことのない感覚。物がつかめない。すぐ直るだろうと思い、シャワーを済ませて上がった。この日は、気温が高く浴槽にお湯は貼らなかった。その後リビングで家内と会話をしている時、ろれつがまわらないのではと家内が問いかけてくれた。その時、自分でもおかしいと自覚できた。病院に行こう。市立病院に電話をし、救急車で来て下さいと言われましたが、家内の車で11時に到着。ほとんど待たずに診察室にベッドに乗せられて入った。その後CT検査をし、自分に起こった現実を見ることになった。左側の脳に出血が広がっていた。信じられなかった。診察されたドクターは、厳しい口調で話された。天井ばかり見ていました。でもなぜか心は平安でした。「神さまは最善以下になさらない」このことばが、思い浮かばれ安心感がありました。あとで、聞いたのですが、家内は主治医に深刻なことを言われたそうで、家に一人でかえって一晩中泣いていたそうです。
入院翌日、千田先生が見舞いに来てくださいました。必ず良くなる、また車の運転をお願いしたいとおっしゃってくださいました。とても嬉しかったです。この日から、回復が始まっていました。3日目からリハビリが始まっていました。最初に手のリハビリでした。積み木を右から左へ、またその逆を片手で移動するテストでした。評価は、左右ともに98点、右が左より逆に2㎏強かった。次は、脚部のリハビリ、何の障害もなく楽しくトレーニングをしました。次は頭のリハビリでした。図の認識、漢字捜しで今までこんなにできる患者さんは初めてと評価を頂きました。最後は車の運転テストでした。シュミレーションドライブできるのかと期待しましたが、縦横6マスで36組の交差点を埋めていく絵合わせテストでした。何の問題もないと評価して頂きました。5日目にリハビリの先生方と看護師と主治医の方々が集まり、評価してくださったそうで、リハビリは特に問題ないので早めの退院可能となりました。12/1看護師長と面談があり、明日にでも退院してもよいとおっしゃっていただき、12/4に退院することができました。感謝でいっぱいです。
今回の病気を通して、家内のやさしさが身に染みました。夫婦の絆がさらに強まったと思います。また、同室のKさんと友達になれました。私より2日遅れて私の真向かいに来られた方で、昨年の夏前から茨城から米沢に来られた日系ブラジル人男性で、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語が話せる方です。退院したら福田町チャペルで会おうと約束してくださいました。
そしてこの病気を通して神さまは、わたしに忠実になりなさいと言ってくださいました。
「主は二日後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ちあがらせる。私たちは御前に生きるのだ。」(ホセア書6:2)
12/17退院2週間後に再診査を受けた。CT画像から白い部分は無くなっていた。順調に回復していますとのことであった。そして翌日から仕事に復帰しました。感謝です。
ハレルヤ!この病気を通して、御名の栄光が現されました。驚異的な回復もさることながら、この病を通して主が兄弟に忠実になりなさいと語ってくださり、みことばの約束の通りに、兄弟を立ち上がらせてくださいました。そればかりか夫婦の絆が強められ、同室の方と友達になり、その方と教会で会うことまで約束できました。すばらしいですね。私たちもこのように祈ろうではありませんか。「父よ、御名の栄光を現してください」と。

28節をご覧ください。すると、天から声が聞こえました。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」どういうことでしょうか。神様は、イエス様の生涯を通して栄光を現されました。特にヨハネはこれまでイエスが神の子である証拠としての奇跡を七つ記してきました。
最初のしるしは、ガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡でした。それから、カペナウムでは病気で死にそうだった役人の息子を癒されました。また、ベテスダの池では、38年間も病気で伏せていた人を癒されました。さらに、男だけで五千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人を越えていたでしょう、その人たちの空腹を5つのパンと2匹の魚で満たされました。そればかりか、余ったパン屑を拾い集めてみると、何と大きなかごが12個にもなりました。
五番目の奇跡は、弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていると、夜中の3時頃ですが、イエス様が湖の上を歩いて近づかれたことです。近づいて何をするのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、何とも意地悪な感じもしないでもないですが、弟子たちが強風で恐れているのを見て、「わたしだ。恐れることはない。」(6:20)と言われ、舟はほどなく目的地に着きました。また、生まれつきの盲人を見ると、地面に唾をして泥を造り、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアムの池に行って洗いなさい。」(9:7)と言われました。すると、彼は見えるようになりました。
そして、七番目のしるしは、死んだラザロが生き返るという奇跡でした。死んだばかりの状態ではなく、死んで四日も経っていたラザロを、蘇生することは全く不可能だったラザロを生き返らせたのです。

これら7つのしるしによって、神はご自分の栄光を主イエスにあって現わされました。しかし、ここではもう一度栄光を現わそう、とおっしゃっています。どのようにしてもう一度栄光を現されるのでしょうか。それは十字架の死と復活を通してです。十字架での死と復活が、どうして神の栄光なのでしょうか。人々にあざけられ、苦しめられて死んでいくのです。その十字架が、いったいどうして神の栄光なのでしょうか。その理由が、次の29~33節で語られます。それは、この十字架こそ、私たちをキリストのもとに引き寄せてくれるからです。

Ⅱ.イエスの十字架での死(29-33)

そのことが、続く29節から33節に述べられています。
「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」

天からの声が聞こえてきたのは、そう何回もあるわけではありません。主イエスの地上での生涯においては3回だけでした。それはイエス様がバプテスマを受けられた時と、ペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて高い山に登られ、そこで御姿が変貌したとき、そして、今回です。今回というのは、きょう学んでいるこの箇所においてです。

いったいなぜ神様はこの時、御声を発せられたのでしょうか。ここにその理由が記されてあります。29節です。「イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。」どうしてこれが私たちのためなのでしょうか。31,32節で主はこのように言われました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」どういうことでしょうか?

イエス様は、続く33節のところで、「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」と言っておられます。つまり、イエス様がここで語っておられることは、十字架で死なれることでした。イエス様が十字架で死なれることによって、「この世を支配する者」が追い出されるのです。「この世を支配する者」とは誰ですか?それは言うまでもなく、悪魔、サタンのことです。この悪魔に下るわざ、悪魔にくだるさばきが十字架なのです。アダムとエバが罪を犯して以来、悪魔はずっと人を神から引き離していました。しかし、イエス様が十字架で死なれることによってその悪魔の仕業を、根本的に、完全に打ち破られました。なぜなら、イエスの十字架の死によって、罪によってこれまで断絶していた神との関係が産められ、神と一つになることができるようになったからです。イエスの十字架の死によって、悪魔の力は完全に無力になりました。それが、「この世に対するさばきが行われ」ということです。この世を支配していた悪魔が追い出されるのです。イエス様が十字架で死んでくださったので、私たちは悪魔に完全に勝利することができるようになったのです。

勿論、それは直ちに悪魔がこの世から完全に追い出されて、もはや何の誘惑もなくなったということではありません。悪魔が完全に力を失い、誘惑することができなくなるのは主の再臨の時であり、それまで待たなければなりませんが、しかし、イエス様が十字架で死なれた時、これまでわがもの顔にふるまっていた悪魔が、そのようにはできなくなりました。ですから、悪魔をあなどることは極めて危険なことですが、そうかと言って、びくびくする必要もないのです。イエス様が十字架で死なれたことによって、悪魔はすでに征服され、ある限られた力しか持っていないからです。

そればかりではありません。32節には、「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」とあります。「わたしが地上から上げられるとき」とは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指していますが、そのときイエス様はすべての人をご自分のもとに引き寄せられるのです。これは、ニコデモとの会話と同じです。イエス様は、人が新しく生まれるためには、水と御霊によらなければならないと言われましたが、その御霊によって生まれるために、神の救いの御業を信じなければなりません。それが十字架にあげられるということです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(3:15)ここでも同じことが言われています。イエス様が地上から上げられる時、すべての人がイエス様のもとに引き寄せられます。ユダヤ人だけではありません。すべての人です。ユダヤ人も異邦人も、すべての人を、ご自分のもとに近づけてくださり、イエスをキリスト、救い主と信じることができるようにしてくださるのです。

ヨハネは、この書の冒頭で「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1:12-13)と言いました。この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子としての特権が与えられますが、それは血によってではなく、また人の願いや意志によってでもなく、ただ、神によってです。私たちがキリストを信じるのは、自分の意思や力によってではありません。私たちが信仰を持つことができるのは、永遠の神の御子がこの世に来られ、私たちと同じ人間の姿を取ってくださり、あらゆる悩み、あらゆる苦しみをつぶさになめられ、ついには私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに引き受けて十字架で死なれるという、たぐいまれな出来事によってなのです。キリストの十字架によって、私たちは主のみもとに引き寄せられたのです。ですから、十字架こそ、私たちの救いの土台なのです。十字架で死なれたイエス・キリストこそ、神が人となってこの世に来られた、まことの救い主にほかなりません。

Ⅲ.光があるうちに歩みなさい(34-36)

ですから、第三のことは、この光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなさいということです。34節から36節までをご覧ください。34節には、「そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」」とあります。

これを聞いていた群衆は、イエス様が言われたことをよく理解することができなかったのか、イエス様に質問しました。それは、「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」ということでした。
旧約聖書には、確かに救い主(キリスト)は永遠に生きておられると教えられています(詩篇110:4、イザヤ9:6-7)が、しかし、イザヤ書53章には、このメシアが苦しみを受けて、断たれることについても教えられています。つまり、救い主は苦しみを受けてから栄光に至るというのが、旧約聖書全体で語られていましたが、彼らはそれを無視し、メシアの永遠性についての預言にのみ目を留めていたのです。ですから、イエス様が語られた内容を理解することができなかったのです。それで、「あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」と問うたのです。

それに対してイエス様は、彼らの質問には答えられないで、その人の子がご自分であることを前提にこのように言われました。35,36節です。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」

ここには、「闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光を信じなさい。」とあります。「襲う」という言葉は、1章5節では「打ち勝つ」と訳されています。そこには、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(1:5)と言われています。イエス様がこの世に来られた時、この闇の中で輝いておられました。このように、イエス様が闇に打ち勝たれたお方であるなら、私たちも自動的に闇に打ち勝つことができるのではないかと考えやすいのですが、この箇所で言われていることはそうではなく、まだしばらくの間、光であられるイエス様があなたがたの間におられるのですから、闇があなたがたを襲うことが無いように、光があるうちに、光を信じなさいということです。つまり、闇に征服されてしまわないために、光であるわたしを信じなさいということです。

今日、私たちにとって光のない生活など考えることなどできません。昔の人々は、日が昇ると起き出し、日が沈むと寝るという生活をしていました。それから、ランプを考え出すと、たとえ太陽が西に沈んでも、そのランプの光によって、生活することができるようになりました。そして、エジソンが電気を発明してからは、夜も電気の光で昼間と変わりがないような生活をすることができるようになりました。今では電気のない生活は考えられません。もし災害等で停電にでもなったりしたら、あるいは、街灯も何もない夜道を懐中電灯も何もなしで歩かなければならないとしたら、月の光でもあればまだしも、真っ暗闇の夜などは歩けるものではありません。時々、那須の会堂で夜学び会がありますが、それが終わって消える頃になると辺りはレストランの営業も終わり真っ暗闇になります。会堂の電気を消して駐車場に歩いて向かう時には真っ暗で何も見えず、どこを歩いているのかさえわかりません。光のない生活など考えられません。

その光こそイエス・キリストです。イエス・キリストを持たない人の人生は、「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません」とあるように、何のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そういった人生の目的がわかりません。ですから、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光の子供となるために、光を信じなければなりません。

イエス様がここで、「光があるうちに」とおっしゃっているのは、直接的には、光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまいます。

また、ここにはもう一つのことが勧められています。それは、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに歩きなさいということです。まず、光があるうちに、光の子どもとなるために、光であられるイエス様を信じなければなりません。そして、そればかりではなく、この光がある間に歩かなければなりません。「歩く」というのは「生活する」ということです。イエス・キリストを信じた者は、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それは具体的にどういこうとかというと、この文脈に従って見るなら、イエス様が語られたあの一粒の麦のように生きなければならないということです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)
つまり、自己中心的な生き方ではなく、神中心の、神のために生きるということです。この世の価値観よりも神の国の価値観を本当に重視した生き方です。それがなかなかできないのは、本当に「光のある間」というものがあるのだということを、信じられないからではないです。だれも自分が死ぬなんて考えられません。自分だけはこのままずっと生き続けるのではないかと思っています。しかし、それはすべての人にやって来ます。100%です。
詩篇90篇には、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)とありますが、私たちの人生は本当にはかないものです。それは草花のようにすぐに枯れてしまいます。その時この世のものはどんなに価値あるものでも、すべて過ぎ去ってしまうのです。ただそこには永遠の御国、神の国だけが残ります。また、神が私たちにもたらしてくださる報いだけが待っているのです。ですから、光がある間に、光を信じなければなりません。そして、光であられるキリストの弟子として、どこに行くのかわからないような生き方ではなく、天の御国を目指して歩まなければならないのです。

私たちはいつでも決断できると考えではなりません。その決断はいつするのですか。「今でしょ。」確かに今は恵みの時、救いの日です。信仰の決断も、できなくなる時がやってきます。闇があなたを襲うことがないように、この光がある間に、光であられるイエス様を信じ、イエス様が歩まれたように歩む決断をなさってください。あなたにとって今なすべきこととは何でしょうか。光がある間に光を信じること、それが、私たちにとって今なすことなのです。

出エジプト記20章

出エジプト記20章を学びます。ここには、神の律法(モーセの律法)が記されてあります。モーセの律法は613からなっていますが、十戒は、その最初に出てくるものです。この十戒に関して多くの誤解や混乱があります。たとえば、ある人たちは十戒の規定は今も有効であると考え、土曜日に礼拝しなければならないと主張したり、逆に、律法そのものを悪と見る人たちもいます。そのような人たちは、旧約は終わったのだから新約だけを読めばいいと言います。しかし、神の救いの計画を正しく理解するためには、モーセの律法に関して正しく理解しなければなりません。

Ⅰ.十戒の前提(1-2)

まず1~2節をご覧ください。
「それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」

ここには、これから十戒を与えられる神がどのような方であるかが記されてあります。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」ということです。これはどういうことかというと、神はイスラエルの民をエジプトから贖われた方であるということです。すなわち、神によって救い出された者たち、神の所有とされた民であるということです。イスラエルの民は、神の力と恵みを体験しました。それゆえ、その神との信頼関係をベースとして契約が結ばれるのです。つまり、これは贖われた者たちに対する神の命令であるということです。これは彼らが救われるためではなく、すでに救われた者たちに対する戒めであるということです。しかもここには、「あなたの神、主である」とあります。あなたがたの神ではなく、あなたの神です。神との個人的な関係があって、その上で語られている戒めなのです。

 これはクリスチャン生活にも同じことが言えます。私たちは神に愛され、赦されました。それゆえに、神の愛への応答として献身の生涯を歩むのです。パウロはローマ12:1~2節で、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と言っています。彼は1~11章にかけて、神の救いとはどういうものか、すなわち、すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることがでず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって、義と認められる、ということを語りました。そのような神の恵みがベースになり、自分自身を神にささげるという霊的な礼拝が始まるのです。ですから、これがなかったら、ただの律法となってしまいます。私たちが神の命令に従うのは、私たちが救われるためではなく、私たちが神の恵みによって罪から救われたのだからということを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.十戒の内容(2-17)

 では、その神の戒めとはどのようなものでしょうか。3~17節には、十戒の内容が記されてあのます。

まず、3節をご覧ください。ここには、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」とあります。いったいまことの神、主のほかに、神がいるでしょうか。いません。イザヤ45:22には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」とあります。イスラエルの主だけが神であり、ほかにはいません。それなのに、なぜこのようなことが命じられているのでしょうか。それは、人間は神以外のものを神にしたがる傾向があるからです。思い出してください。彼らがエジプトにいた時には、そこには多くの神々がいました。ナイルの神、かえるの神、牛の神など、あらゆるものが礼拝の対象とされていました。あの十の災いは、そうした神々に対するさばきでもあったわけです。

当時は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていました。たとえば、カナンの土着信仰として有名なのは「バアル」と「アシュタロテ」です。バアルとアシュタロテは男神と女神の夫婦であり、双方が交わることによって、子どもや家畜、作物の高収穫がもたらされると信じられていました。いわば、家内安全、商売繁盛の神といったところでしょうか。新年にはこの日本の多くの人が初詣に出かけますが、そこで何を祈るのかというと、この家内安全、商売繁盛です。それが自分の欲望を満たすものです。それを神としたがるのです。聖書には「マモン」という神も登場します。これはお金の神です。ここから「money」という言葉が派生しました。もしお金がすべてだと考えているとしたら、それはこのマモンという神を持っていることになります。

つまり、もし私たちが主なる神よりも大事にするものがあるとしたら、それが神になってしまうということです。自分が大事にしているもの、最も情熱を傾けているものがあれば、それが神になってしまうことがあるのです。

第二の戒めは、自分のために偶像を作ってはならないし、それらを拝んではならない、ということです。4~6節にあります。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

「偶像」とはヘブル語で「ベセル」と言います。意味は刻んだものです。神のイメージにかたどって造られたもの、それが偶像です。神を真似たもの、神のイメージに刻んだものです。ギリシャ語ではこれを「エイドーロン」と言いますが、ここから英語の「idol」という語が生まれました。これは現代語にもなっています。それは崇拝されるものです。ですから、偶像とは、崇拝されるために神にかたどって刻まれた像のことです。でも、彫刻などの美術を禁じているわけではありません。

なぜ神様は偶像を造ることを禁じているのでしょうか。それは間違った方法で神を礼拝してほしくないからです。自分のイメージで、自分の考えで、自分の思いつきで、自分の概念で、勝手に礼拝してほしくないのです。どちらかというと、人は神に対して勝手なイメージを持ちがちです。たとえば、何か神々しいものをみると、神はこういうものであるにちがいないと思い、それを神にしたがります。
32章を見てください。モーセが山から下りてくるのに手間取っていると、民はアロンに言いました。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(32:1)
それで彼はイスラエルの民がつけていた金の耳輪を持って来させると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にして、こう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」(32:4)アロンはなぜこんなものを造ったのでしょうか。それは彼がエジプトにいた時、牛が神だったからです。アビスという神です。そういうイメージを持っていたのです。バカじゃないかと笑えません。意外と日本人の多くもこんなイメージを持っているからです。このようなものを造って神にしたがるのです。

ヨハネの福音書4章の中てで、主はサマリヤの女に、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:24)」と言われました。神は霊ですから、私たちの目には見えない方です。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。私たちはこの見えない神を、真理の御言葉をとおして礼拝することができます。なぜなら、御言葉には、見えない神を見せてくださったキリストについて記されてあるからです。このキリストを見た者は神を見たのです。このキリストを礼拝する者は、神を礼拝するのです。

けれども、人は目に見えないものよりも、見えるものに頼りたくなります。神のご臨在を強く意識することができるからです。それが偶像です。そういうものを神としてはいけません。間違った方法で神を礼拝してはいけないし、正しい方法で神を礼拝しなければならないのです。

5節をご覧ください。ここには、なぜ偶像を造ったり、それらを拝んではならないのかの理由が記されてあります。それは、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」からです。神はねたむ神です。この「ねたむ」というのは、それらの偶像に嫉妬するということではありません。そうではなく、あなた自身をねたまれるということです。なぜなら、神はあなたの神だからです。神はあなたを奴隷の家から連れ出された方です。そのために大切な御子イエス・キリストを犠牲にされました。それほどにあなたを愛してくださったのに、それなのに、そのあなたが他の神々に仕えるというようなことがあるとしたら、悲しまれるのは当然のことでしょう。

また、ここには、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。とあります。どういうことでしょうか。これもよく誤解されることです。もし偶像を拝むようなことがあれば、あなたの家は呪われることになるのでそれを断ち切らなければならないと、呪いを断ち切る祈りをする人がいますが、ここで教えていることはそういうことではありません。神を憎む者の咎が親から子に、子から孫に代々受け継がれていくということではありません。影響が及んでいくということです。逆に、神の命令と教えとを守るなら、良い影響が及んでいきます。その人が神の命令を守らないのに、必死になって呪いを断ち切ろうとしても、何の意味もありません。あなたとあなたの家族が主を信じ、主に従うなら、あなたは救われます。その良い影響はあなたの子孫にまで及ぶのです。そうでなければ、その影響はあなたの子孫にも伝わっていくということです。ですから、呪いを断ち切るのではなく、あなたが悔い改めて神に立ち返ることが求められているのです。

 第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならないということです。7節をご覧ください。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」主の御名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。

 ユダヤ人は、この戒めを文字通りに唱え、主の御名を呼びません。主とはヘブル語で「יהוה ヤハウェ」と言いますが、英語のアルファベットで表記すると「Y」「H」「W」「H」の四つの文字で表します。これは「神聖四文字」、テトラグラマトンと呼ばれています。これはあまりにも神聖なためヤハウェと呼ばず、「アドナイ」と呼びました。日本語では「エホバ」と表記されています。ユタヤ人は「ヤハウェ」があまりにも神聖なので、この戒めに従って一切口にしないのです。

しかし、たとえばエレミヤ33:2~3節には、「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」とあります。この「主」は「ヤハウェ」です。この主が、「わたしを呼べ」と言っておられるのです。「呼べ」とは、主の御名によって祈れということです。ですから、主の御名をみだりに唱えてはならないというのは、主の御名を一切口にしてはいけないということではありません。ではこれはどういうことなのでしょうか。

ここで鍵になるのは「みだりに」ということばです。これはヘブル語で「シャーブ」ということばですが、意味は「中味がない」とか、「実体が伴わない」、「価値がない」、「空虚である」という意味です。名前には意味があります。よく「名は体を表す」と言われますが、神の名前には神のご性質や神の働きがどのようなものであるかが反映されているのです。それは、「わたしは、「わたしはあるというものである」という意味です。主は他の何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。その神の名が空虚なものになってはいけないということです。つまり、これは「主の御名を無価値なものにしてはならない」とか、「無意味なものにしてはならない」ということであって、「主の御名」を唱えてはならないということではないのです。むしろ私たちは主の御名によって祈らなければならないし、祈るべきです。ただ口で唱えるというのではなく、神の御名が崇められるように祈らなければなりません。

では、いったいどういう時に神の御名が無価値なものになるでしょうか。主よ。主と呼びながら、主の言われるとおりにしない、そのとおりに生きようとしなければ、それは主の御名をみだりに唱えていることになります。マタイ7:21~23には、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」とあります。
ここで問題となるのは、主よ。主よと呼びながら、実体がないことです。主の御名を呼びながら、主のみこころに反することを行っています。そういう人に対して主は、「不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」と言われるのです。これが主の御名を、みだりに唱えるということです。ここに「罰せずにはおかない」とあります。主の御名によって罪を行うことがあるとしたら、それこそ大きな過ちなのです。

ですから、私たちも注意しなければなりません。信仰の実体が伴うように生きていくことを求めていかなければなりません。キリスト教的であるとか、そうした雰囲気ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、主に仕えなければならないのです。

第四の戒めは、安息日に関する規定です。8~11節までをご覧ください。「安息日を覚えて、こ
れを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

安息日を覚えて聖なる日としなければなりません。なぜですか?なぜなら、主が六日のうちに、天と地と海と、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからです。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言されました。

これを読むと、主が創造のみわざをなされ七日目に休まれたので、私たちにも休みが必要だというように捉えがちですが、意味は全然違います。「安息日」はヘブル語で「「שבת「シャバット」と言いますが、ここから英語の「Sabbath (Day)」ということばが派生しました。これはもともと休むではなく、「止める」という意味です。神は六日間働いて七日目にその働きを止めたので、私たちも止めなければならないのです。なぜ神は七日目に休まれたのでしょうか。それは疲れたからではありません。神は疲れることなく、たゆむことのない方です。ですから、神様は休む必要などないのです。それなのにその手を休まれたのは、創造のみわざを完成され、その御業の数々をご覧になって満足なさるためでした。

ですから、申命記5:15には、同じ十戒が書かれてありますが、出エジプトには書かれてないことが記されてあるのです。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったこと、そして、彼らの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、彼らをそこから導き出したことを覚えていなければならない、ということです。それゆえ、主は安息日を守るようと命じたのです。すなわち、神が安息日の戒めを定められたのは、その手を休めて、普段やっていることを止めて、この日を特別の日にするためです。いつもしている六日間とは別に、この日だけはそれらの日と区別して、主なる神はどのような方なのかを覚え、礼拝するためなのです。

ここに「安息日を覚えて」とあるのはそのためです。安息日には、このことを覚えなければなりません。この日は創造主なる神を覚える日なのです。これが命令されているということは、私たちは忘れやすいからですね。自分が造られたものにすぎないということを忘れ、自分が神であるかのように思い込んでしまいます。そうではなく、あくまでも自分たちは造られたものにすぎないということを覚え、私たちを造ってくださった方をほめたたえなければなりません。これが、安息日が目指していることです。この日、私たちは主のものであり、私たちに与えられたもののすべては神様のものであって、すべてが恵みだということを思い起こすのです。これが結果として休息、安息につながるわけです。日常的なことを休むので、その結果、体が休みます。休息、安息となるのです。

けれども、どちらかというと私たちは休まない傾向があります。何かしていないと気が済みません。あれもしなければならない、これもしなければならない、時間がない、忙しいといって走り回っています。特に日本人は勤勉で有名ですが、このような人間に神様は休むことの豊かさを教えてもいるのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、この日にはいっさいの仕事をしませんでした。これは珍しいことなのです。日本では日曜日に休むようになったのは明治時代に入ってからのことでした。しかもそれは官公庁に限られていました。一般の社会では働くことが美徳でした。働いていないとだめです。ちょっとでも休んだりすると「だらしない」と思われていました。

ですから、どちらかというと休むことができないのです。「そんなビジネスチャンスの時に休んでなどいられるか。」「若いんだから、今働かなければいつ働くんですか。」「もっと年をとったら休みます」と言って、休もうとしません。マナを集めに行ったイスラエルの民も、七日目は主の安息だから休めるようにと、神は前日に二日分のマナをちゃんと用意してくださったのに、「こんな稼ぎ時に休んでいられるか」と行って集めようとした人がいました。人間は休まないで働こうとする。しかし、そこに祝福はありません。一週間に1日は普段の生活を止めて、その日を主の日として聖別して、その日を、主を礼拝する日として休むようにすること。それがこの安息日の規定です。

それなのに、いつしかこの戒めの本質が見失われ、これはユダヤ人に対する戒めであってクリスチャンには関係ないとか、これを厳格に日曜日と理解して、日曜日は聖日だからクリスチャンは聖日を厳守しなければならないとか、(これはすばらしいことだが、日曜日だけが安息日なのではないことに気づいていない。その本来の目的を見失っている)、安息日は土曜日なんだから土曜日に礼拝を守らなければならないと主張する人たちもいます。しかし、このような考えには、この安息日の本来の意味が見失われています。

新約聖書には、安息日論争が繰り広げられています。一つは福音書の中で、イエス様ご自身が律法学者やパリサイ人と論争されている箇所が出てきます。主は、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない、と言われました。ユダヤ教は、この安息日についての規則を細部に至るまで定めています。その結果、安息をもたらすはずの喜びの日が、自分でも負いきれないほどの重荷となっていました。

 そして、新約聖書ではもう一つ安息日についての論争がありました。教会が誕生し、ユダヤ人だけでなく異邦人にもキリストの救いが広がって行ったとき、ある問題が提起されたのです。それは、異邦人クリスチャンも安息日を守るべきなのかどうか、ということです。それに対する使徒たちの答えは、明白でした。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ2:16-17)
つまり、安息日は、次に来るものの影であり、その本体はキリストにある、とパウロは論じたのです。

これは、クリスチャンが礼拝に行かなくても良いということではありません。旧約の神は、新約の神でもあります。使徒の働きや手紙の中には、初代教会の信者たちが週の初め、つまり日曜日に集まっていたことが記録されています。それはキリストが復活された日が日曜日であり、また聖霊が臨まれて教会が誕生した日も日曜日だったからでしょう。日々の働きを止めて、礼拝に集い、主をともにあがめることはとても大切なことです。神が休まれたので、神が止められたので、私たちも日々の働きを止め、安息の主を覚えて、これを聖なる日としなければならないのです。

次に12節をご覧ください。ここには、第五の戒めが記されてあります。それは、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これまでは神と人との関係についての戒めでしたが、ここからは人と人との関係、対人関係についての戒めが語られます。この順番が大切です。人と人との関係が正されるためには、まず神との関係が正しくなければなりません。

その対人関係の最初に出てくる戒めは、父と母との関係に関するものです。なぜ父と母との関係に関する戒めが対人関係の最初に語られているのでしょうか。それは、父と母が、神の代表として立てられている存在だからです。神に対して恐れと尊厳をもって仕えるように、神の代理者である父母に対しても恐れと尊厳をもって仕えなければならないのです。それは神が定められた秩序です。その秩序を重んじるようにというのが、この戒めが意図しているところです。ですから、これは単に父母を敬えというだけでなく、神が定められた社会の秩序において、上に立てられた権威に従うことも含まれているのです。家庭における両親、社会における年長者、組織における責任者、国における政治を司る人々のことです。そうした人々を敬わなければなりません。

ところで、「父と母を敬う」とはどういうことでしょうか。それは、神が私たちの上に立てられた人々に対して、私たちが尊敬と服従と感謝を表すことです。特に両親を尊敬しなければなりません。それは、私たちが今この世にこうしているのは両親のお陰でもあるからです。だから、両親を尊敬しないものは、人間として最も基本的にところに欠けていると言えます。

創世記9章に出てくるノアの3人の子どもの内、ハムは父を尊敬しませんでした。彼は父ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていたとき、「あざ笑った」とあります。当時、裸をさらすということはのろいに値することでした。その父の裸を見て彼はあざ笑ったのです。これは父の名誉を傷つけることでした。他の2人の子どもセムとヤペテはそうではありませんでした。彼らは父の裸を見ないようにそれを覆いました。父を尊重するように、その弱さ、醜さ、罪を見ないように覆ったのです。しかし、ハムはあざ笑いました。それゆえに彼は呪われてしまいました(9:25)。ここでハムではなくその子孫であるカナンが呪われているのは、その呪いが子孫にまで影響を及ぼしているということです。父と母を敬わない人は、その人の人生だけでなく、その子孫にまで影響を及ぼすことになるのです。

この戒めには特別な祝福が約束されています。それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これは単に長生きするということではなく、質の高い豊かな人生を味わうことができるという意味です。たとえば、神に従わなかった最初のアダムは930歳まで生きましたが、神に従った第二のアダム(イエス・キリスト)は、33歳でこの世を去られましたが神の右の座に引き上げられました。そういう生涯が約束されているのです。

この戒めについて注意すべきことは、使徒パウロがエペソ6:1で言っているように、「主にあって」従うということです。つまり、この服従は信仰の行為としてなされなければならないということです。と同時に、親が信仰に反対し、神の律法を犯すようなことがある時には、当然、私たちは真の権威者であられる神に従わなければなりません。それは両親ばかりでなく、家庭であれば夫であり、会社であれば上司、学校であれば先生など、あるゆる場合において言えることです。そして、そうした人たちのために、私たちはとりなしの祈りをささげるべきなのです。それこそ、父母を真に敬うということであり、愛することなのです。

第六の戒めは、「殺してはならない。」(13)です。当たり前と言えば当たり前のことでいすが、どうして神はこのように言われたのでしょうか。この「殺してはならない」という戒めをめぐっては、いろいろな誤解があります。たとえば、ここに「殺してはならない」とあるので、これは一切、人を殺してはならないということであって、それは戦争で武力を行使することや、警察がいわゆる正当防衛で犯人を殺してしまうことも含まれる、つまり、聖書は戦争をしてはならないと教えているという解釈です。

けれども、これはそういうことではありません。この「殺してはならない」ということばはヘブル語で「ラツァック」ということばですが、英語では”murder”と翻訳されているように、明らかに人が故意に、計画的に、不法に人を殺害する場合を指しています。つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのです。もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはありませんが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられないことです。そうした悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがあるのです。

また、旧約聖書をみると、イスラエルがカナンの地に入っていくとき、その地の住民を皆殺しにするようにと命じています。女も、子供も、家畜に至るまで。これを「聖絶」と言いますが、ただ読んだだけでは、聖書の神は何と残酷なことをされるのかと思ってしまいます。神は愛だと言いながら、みな殺しにせよというのはひどいじゃないか・・・と。そのような記述を読むと、聖書は矛盾しているのではないかと感じたりします。そして、求道者はそのようなことに躓いてしまうのです。
しかし、あの箇所をよく見ると、あれは神のイスラエルに対するあわれみのゆえの命令であったことがわかります。つまり、カナンの地は偶像に満ちていました。そのような偶像に満ちていた地には昔からの習慣があって、そうした習慣から彼らを守るための神の計画だったのです。

また、この前の章には、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(19:12)とあり、21:12には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければいけない。」とあります。一方で殺してはいけないと命じておきながら、もう一方で殺しなさいと言うのは矛盾しています。その他にも、聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。普通に読めば、ここは殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所です。警察が、他の人や自分を殺そうとしている凶悪犯に最後の手段として銃を使って殺すことや、また攻撃してくる外国の敵に対して自国の軍隊が反撃することではありません。もちろん、これらのことも理想的な状態ではあるとは言えません。しかし、現実には罪のゆえにこうしたケースが起こるわけで、そうしたことに対してはきちんと対処することを、聖書は禁じてはいないのです。

もう一つの誤解は、ここに「殺してはならない」とあるので死刑制度はおかしいのではないかという考えです。しかし、創世記9:6には、「人の血を流す者は、人によって、血をながされる。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあることから、人の血を流す者は、人によって血を流されなければなりません。これが、神が定めている死刑制度です。これは律法が定められる前のことであり、神が人類に与えておられる普遍的な原則なのです。このみことばは、カインの殺人事件にまで遡ります。ご存知のように、人類最初の殺人事件はアダムとエバの子カインがアベルを殺したことに端を発します。自分のささげたものを神は受け入れずアベルのものを受け入れたことを知ったカインは、弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その時神は何と言われましたか。「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(4:15)と言って、だれも彼を殺すことがないように守ってくださいました。そして、その子孫のレメクにはこう言っている。「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(4:24)。これはどういうことかというと、俺は何をしても赦される。だれも俺に手を出すことなどできないと宣言しているのです。つまり、彼は神のあわれみをねじ曲げそれを利用するかのようにして、自分のやりたい放題のことをしたのです。カインが人を殺しても死刑にならなかった。カインが殺されなかったのであれば、自分も何をしても赦される、という思いです。そして、その結果がノアの時代に続きます。創世記6:5に、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。何をしてもいい。人を殺したって大した問題ではないといった思いです。そうした人間を神はどうされたかというと、大洪水で滅ぼされたわけです。人を殺してはならない。人を殺せば、自分も殺されると。残酷なようだけども、人を殺すなら、その責任を負わなければなりません。もちろん、だからといって救われないということではありません。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、この地上での責任は負わなければならないのです。これが神の定めた死刑制度なのです。

もう一つの誤解は、この戒めは自分には関係ないと思っていることです。そのような人に対してイエス様はこのように言われました。マタイ5:20~26です。イエスさまは「殺してはならない」の戒めの真意を、山上の垂訓でさらにお語りになっています。もし兄弟に向かって、馬鹿、と言ったら、あなたがたは最高法院に引き出される、と言われました。つまり物理的に殺さなくとも、殺意を抱けばそれでこの戒めを破ったことになるのです。「こいつさえいなければ、幸せなのに」と思ったとき、私たちは、実は人を殺していることになるのです。そういう意味では、私たちはどれだけの人を殺しているでしょうか。そういう意味では、この戒めは私たちとも無関係ではありません。私たちは人を憎んだり、馬鹿者と思ったりする弱い者ですから、この律法を完全に守ることなどできません。だから、イエス様の赦しを、イエス様の義を求めなければならないのです。人を殺している人を見て、何てひどいことを・・と思いますが、実は私たちもそのような者なのだということを覚えて、イエスの十字架の赦しの中に生きなければならないのです。

 次は、「姦淫してはならない」(14)です。これは第七の戒めとなります。これは婚外交渉をしてはいけないということです。結婚前に性交渉を持つことも含まれます。結婚の外でのありとあらゆる性行為や不健全な性行為全般のことです。それが禁じられているのです。神は天地を創造されたとき、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地に従えよ。」と命じられました。ですから、生殖行為は神から与えられた賜物ですが、それを神が定めたところ以外で用いることを、禁じているのです。この世ではばからしいと感じられるかもしれません。この世では全く反対の動きがあります。この世の性的な価値観は聖書のそれとはかなりの違いがあります。

この教えについても、自分には関係がないと、人ごとのように感じておられる方もいるかもしれません。しかし、イエス様はこの戒めの真意を次のように教えられました。マタイ5:27~28です。ここには、「情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる」とあります。当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。しかし、聖書は私たちの内面を取り扱っています。心の中で情欲をもって女を見るなら、姦淫を犯すことになるのです。つまり、殺人もそうですが、こうした姦淫も心の中が問われているのです。心の中でそうした思いを抱くので、それが外側に行為となって表れるのです。ですから、心の中でそのような思いを抱いた段階で罪を犯すことになるのです。そういう意味では、本当に私たちは弱い者に過ぎず、主イエスの助けと赦しがなければ生きていくことはできません。

この「姦淫してはならない」という戒めを破ることのおそろしい点は、これが自分自身を滅ぼすことにつながっていくことです。箴言6:32には、「女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす」とあります。この「自分自身」ということば「自分のたましい」という意味です。「ネフェシュ」ということばが使われています。自分のたましいを滅ぼすことになります。それは肉体的な面だけでなく、感情的な面でも、人格の面でも、それ以上に霊的な面にまで及びます。主イエスは、あなたの目がつまずかせるなら、それを取ってしまいなさいと言われましたが、こうした情欲を抱かせる者に対しては徹底的に捨てる、遠ざける必要があります。

第八番目の戒めは、「盗んではならない」(15)です。これも自分とは関係がないと思う人が多いかもしれませんが、実は私たちと深い関わりがあります。というのは、これは物を盗むことだけではなく、所有権を犯すことだからです。もちろん、泥棒、詐欺、万引きは盗みですが、たとえば借りたものを返さないこともそうなのです。試験でカンニングするのもそうです。キセルも料金も盗む罪です。脱税や税金をごまかすことも、会社の備品を持って帰ることも含まれます。カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に返さなければなりません。

詩篇24:1には「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあります。この地のすべては主のものです。ですから、私たちは主のものを主のものとして返さなければなりません。それを返さなかったら盗んでいることになるのです。それが十分の一献金です。十分の一を主にお返しすることによって、私たちは主のものを主のものと認めているわけです。それをしなかったら盗んでいることになります。マラキ書4章で十分の一をささげていなかったイスラエルに対して神は何と言われましたか?「あなたがたは盗んでいる」と言われました。彼らはドキッとしたでしょう。

その神のものを神のものとせずに盗んでいた人に対して、どんなさばきがあったでしょうか。ヨシュア6,7章には、アカンの罪について記されてあります。アカンは、アカンことをしました。イスラエルがエリコの町を占領したとき、彼は神のものに手につけたのです。神はすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、彼は一部の物を取っておきました。その結果、次のアイとの戦いにおいて、イスラエルは大敗を喫しました。原因はアカンが神の命令に背いて、自分のために取っておいたことです。神のものを神のものとしませんでした。神のものを盗んでいたのです。そういうことには神のさばきが伴うのだということを覚えておきたいと思います。

第九番目の戒めは、「偽りの証言をしてはならない」ということです。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(20:9)とあります。これは法廷において事実と異なる証言をすることを禁じることですが、ここではそれ以上の意味が込められています。

ハイデルベルグ信仰問答書があります。その112問に次のような問答があります。
「十戒の中の第九戒では、何が求められていますか?」
それに対する答えはこうです。
「私がだれに対しても偽りの証言をせず、誰のことばをも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえってあらゆる嘘やごまかしを悪魔のわざとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる取引においては真理を愛し、正直に語り、また告白すること。さらにまた、私の隣人の栄誉と威信とを、私の力の限り守り、促進するということです。」

よくまとめられていると思います。ですから、これは単に嘘を言ってはならないということではないのです。その具体的な例として、マタイ26:59~63で、イエスを訴えるための偽証をあげることができます。ここで問題だったのはどんなことでしょうか?それは彼らが自分たちに都合がいいようにイエス様のことばを勝手に解釈し、それをねじ曲げたことです。確かにイエス様は「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言いましたが、それは目に見える神殿のことではなく、御自分のからだのことを指して言われました。十字架と復活のことです。それなのに、彼らはそれを、イエス様を訴える口実として利用しました。偽りの証言のいやらしさがここにあります。彼らの動機が間違っていました。彼らはイエス様を訴えるためにそれを用いたのです。

これが悪魔のすることです。ヨハネ8:44には、悪魔は真理に立っていない、とあります。自分にふさわしい話し方をしているが、偽っているわけです。最初の人アダムとエバもそうでした。悪魔はエバに、「神は本当に言われたのですか」と神が言われたことを引用して、それを用いて騙しました。それを食べるそのとき、あなたの目が開かれ、神のようになる・・・と。嘘も方便ということばがありますが、半分本当でも、半分嘘なのです。自分に都合がいいように勝手にねじ曲げました。それが悪魔のやることです。

しかし、嘘が必ずしも悪いことではありません。ヨシュア記をみると、カナンの娼婦であったラハブはイスラエルのスパイをかくまったとき、嘘をついて彼らを守りました。そして、それゆえに称賛されています。かつてナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺の事件のときも、コーリー・テンブーン家族はユダヤ人をかくまって守りました。そのように人のいのちを生かすとき、他者の利益のために、嘘をつくことがありますが、よほどのことがないかぎり、嘘をついてはいけないのです。なぜなら、それはサタン的だからです。

黙示録12:10を開いてください。ここには「私たち兄弟たちの告発者」とあります。これはサタンのことです。皆さん、サタンは告発者なのです。神の前に訴える者です。私たちの犯した罪を並び立てて訴えるのです。だれでも罪を犯したり、失敗したりします。ですから、そのように訴えられたら弁解しようがないわけです。しかし、偽りの証人は自分にとって都合がいいように事実をねじ曲げます。半分は事実ですが、半分は間違っています。その動機が間違っています。Iヨハネ2:1には、私たちには弁護人がいます。義なるキリストです。私たちはどうしようもない罪人です。しかし、そんな私たちのために罪を清めてくださった方がおられる。それがキリストです。これも事実なのです。それなのにサタンは半分しか言いません。これがサタンの巧妙なわざです。

これは私たちも注意しなければなりません。クリスチャンならみな天国に行きます。にもかかわらず、あのクリスチャンが、このクリスチャンが、と悪く言うとしたら、神はどう思われるでしょうか。そうした偽りの証言を、神はどれほど忌み嫌われることでしょうか。箴言19:5には、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」とあります。半分の事実だけを取り上げて、ねじ曲げて、その人のことを悪く言うとしたら、それはサタンと同じようなことをしていることになります。神は、そういうことを忌み嫌われるのだということを覚えておきたいと思います。

ではどうしたらいいのでしょうか。イエス様はこのように言われました。マタイ5:37です。「はい、は、はい。いいえは、いいえ、はいいえと言いなさい。」と。口は災いのもとと言われますが、そうです。これは物を盗むことよりも被害が大きくなることがあります。人の噂話によって広がっていき、ある人の信用を傷つければ、その人は一時的に物を失うよりももっと長い、いや死ぬまで続くほどの害を被ることさえあります。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(3:6)と言いました。

ですから、自分が偽りの証言をしないように、いつも主が自分の口を守ってくださるように祈らなければなりません。詩篇119:29,120:2,箴言3:8を参照してください。このように祈ることが偽りの証言から自分の身を守る秘訣なのです。

17節をご覧ください。十番目の戒めです。「あなたの隣人の家を欲しはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲してはならない。」(17)
 最後の戒めは、むさぼってはならないという戒めです。この戒めの特徴は心に関することであるということです。他の戒めは行為に関することですが、これは心から出るむさぼりを取り扱っています。欲しがること、あるいは、むさぼりは他の戒めを破ることにつながる、最初の欲望です。盗むのは他人のものをむさぼっているからです。姦淫するのも、他人の妻をむさぼっているからです。嘘をつくのは、自分がむさぼっていることを隠したいからです。父母をののしるようなことをするのは、父母に与えられた神の権威を欲しがっているからです。今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが、むさぼりから守られる秘訣です。ヘブル13:5にはこう書いてあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」

 マタイ19:16~22には、金持ちの青年がイエス様のもとに来て、救われるためにはどうしたら良いと尋ねる場面が出てきます。それに対してイエス様が律法を守るようにと言うと、彼はそのようなものはみな守っています、と答えました。そこでイエス様は最後にこの戒めを言うのです。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は悲しんで去って行きました。財産と霊性は切っても切り離せない関係にあります。お金の使い方でその人の霊的状態がわかります。いま持っているもので満足しなさい。神を第一に求めていくこと、それが、この戒めが指摘していることだったのです。

Ⅲ.神への恐れ(18-26)

すると、民はどのように応答したでしょうか。18~19節をご覧ください。
「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

イスラエルの民は十戒を聞いて、神が恐くなり、たじろぎ、遠く離れました。律法によって神に近づけられたのではなく、神から遠ざかろうとしたのです。これは単に、彼らが雷や稲妻などの物理的な現象に驚いていたからではありません。神の聖さに触れたからです。あの預言者イザヤも、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」と叫びました。「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主の栄光を見たとき、彼もたじろぎました。ここでも、イスラエルの民は、聖なる神の臨在に触れた時、自分たちがいかに汚れた者であるかがわかったのです。

 神の律法に触れると、私たちにも同じようになります。律法は聖なるものであり、正しいものであり、そこには神の聖いご性質が表れています。したがって、律法の鏡に写し出されてみてはじめて、自分がいかに罪深い者であるかを知ることになるのです。そして、律法を守ることによっては神に正しいと認められることなどできないということ、むしろ自分がいかに汚れ、罪人であり、死罪に値する者であるかに気づかされます。私たちは地獄があるなんて恐ろしく、神がそこに人を入れるなんてひどいと思うかもしれませんが、律法が与えられるとき自分が地獄に行かなければならない存在であり、永遠のさばきを受けなければいけない存在なのだと気づくのです。

 そして、神のあわれみにすがるようになります。「どうかあなたのあわれみによって、私の罪を赦してください。」と。その結果、神の救い、キリストの十字架による贖いの死を信じる信仰へと導かれます。ローマ8:3に、「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」とある通りです。
このように、律法は私たちを清める力はありませんが、私たちを救い主の許へと導きます。ですから、パウロはガラテヤ書で、律法はキリストへ導く養育係であると言っているのです。イスラエル人と違い、私たちは神に大胆に近づくことができます。それは、キリストの血によって、神の御座がさばきの座ではなく、恵みの座になったからです。おりにかなった助けを受けるために、神の御座に大胆に近づくことができるのです。信仰により、恵みによって義とされていることを感謝しましょう。

20~21節をご覧ください。「それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。」

モーセは、「恐れてはいけません」と言いました。神が来られたのは彼らが恐れるためではありません。彼らを試みるためです。彼らがいかに罪深い者であるかを悟り、自分の義ではなく神の義に頼るかどうか、そして、神に従って生きるようになるためだったのです。それなのに神を恐れて、「やっぱりだめだ。自分は汚れている。とても神様に従うことなんてできない」と思ったら本末転倒です。そうではなく、彼らが神を恐れ、神の愛と恵みに生きることを神は願っておられたのです。

最後に、22~26節をご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」

ここで神はどのように神を礼拝したらよいかを語られます。彼らは、神が天から語ったように銀の神々や金の神々を造ってはなりません。彼らは、神のために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛を全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。そうすれば、主が彼らに臨み、彼らを祝福してくださるというのです。どういうことでしょうか。これは、彼らが神を礼拝する時には、シンプルでなければならないということを意味していました。金や銀で出来たあでやかな祭壇ではなく、土で出来た質素な祭壇です。なぜなら、もし金や銀で祭壇を作るなら、そうしたものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。神は、自分以外に人々の注意がそれることを望まれませんでした。神を礼拝するときは、それを妨げる要素をなるべくなくさなければなりません。それで土の祭壇です。私たちの礼拝はどうでしょうか。礼拝堂は金や銀のようにあでやかになってはいませんか。賛美をリードする人は、神ご自身よりも自分の音楽技術を披露するようなことにはなっていないでしょうか。牧師が説教する時、神のみことばではなく、自分の体験談ばかり話たりして、神の栄光に陰りが出ていないでしょうか。神を礼拝する時は、神に集中できるように、土で祭壇を造らなければなりません。また、その上に、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげなければなりません。なぜなら、神への礼拝は動物の犠牲によって成り立つからです。この動物のいけにえこそイエス・キリストを指し示していました。私たちは、言えうす・キリストの犠牲のゆえに神のものとされ、神に受け入れられる礼拝をささげることができるのです。

そのことは、次の所でも言われています。25節には、「もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。ここには、もし祭壇を築いて主を礼拝しようするなら、次の三つのことをまもらなければならないと命じられました。すなわち、石で祭壇を造るなら、それは切り石で築いてはならないということ、また、それにのみを当ててはならないということ、そして、主の祭壇に階段で上るようにしてはならないということ、つまり、高くしてはならないということです。そして三つ目のことは、その上で、あなたの裸をあらわにしてはならないということです。

切り石で築いてはならないとか、のみを当ててはならないというのは、加工された石を使ってはいけないということです。それは先ほども申し上げたように、そのようなものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。祭壇は、その上でいけにえをささげるためのものです。ですから、それに人が勝手に手を加えることなど出来ないのです。ここには「わたしの祭壇」とあるように、それは主の祭壇であって、そこでは主のいけにえがささげられるのです。キリストの十字架がたてられたのは、土や石のあるゴルゴタの丘でした。切り石で築いたきれいな丘ではありませんでした。自然の石の上に立てられたのです。同じように、主の祭壇も、切り石やのみを当てたりしない自然の石ので築かなければなりません。

それから、主の祭壇に階段で上るようにしてはいけませんでした。高くしてはならないということです。世界各地に残っている当時の祭壇は、高く、きれいなものであることが多いです。そこに、裸の祭司が上って、いけにえをささげる事が多かったのです。太陽礼拝、月礼拝などの祭壇は、特に高く造られていました。バベルの塔がそのいい例です。それは、ほんとうの神への挑戦を意味していました。この世での様々な宗教においては、誰からも見えるところに造られたのです。でも、主が定めた祭壇の掟は、むしろ簡素な、目立たないものでした。これは、人の側の謙遜を意味するものでした。後のところで、幕屋と祭壇が作られますが、それは、幕屋の中の、隠されたところにありました。当時の人々は、神を礼拝する事を、人に見せびらかすため、そして、神にアピールするために行っていました。それはとても派手で、華々しく、仰々しい事だったでしょう。祭司が高い祭壇に上って行き、そこで儀式が行われたのです。しかし、神を礼拝するのは神にアピールするためでも、人に見せびらかすためでもありません。イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われました(マタイ6:6)そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われたのです。これが祈りです。これが礼拝です。それは人に見せることでも、神に見せることでもありません。ただ単純に神を恐れ、単純に神を愛し、単純に神を求め、単純に神に感謝し、ささげものをし、そして、常に謙遜であることです。それは、形式でもありません。祭壇は、すぐに崩れてしまうようなもので十分でした。きらびやかなものである必要はなかったのです。高い所に造る必要もありませんでした。

そして、ここには、「その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。私たちの派だかがあらわにならないようにするために必要なのは、そのようにして造られた祭壇の上に、全焼のいけにえと交わり(和解)のいけにえをささげることによってです。それは、私たちのために十字架で死んでくださったキリストの贖いを示しています。私たちが神を礼拝できるのは、このキリストの犠牲のゆえなのです。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉で綴り合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい、全く役に立たなかったでしょう。しかし、神はそんな彼らのために動物の皮で作った着物を着せてくださいました。まさに、その動物こそがキリストの血を象徴していたのです。そのように神がしてくださいました。

ですから、私たちに必要なのは、私たちが何か神のためにするということではなく、神が私たちにしてくださったことを思い、そのことに感謝し、神を神として、心から神に感謝をささげることです。これが神を礼拝するということです。神を神として畏れ、ひれ伏す事。神を神として、価値のある方、素晴らしい方として礼拝する事。神を王の王、主の主、すべてを支配なさる方として敬う事です。その神の前で、わたしたちは、ちっぽけで、罪深く、価値のない、虫けらのような存在であることを自覚する事です。そして、その虫けらのわたしたちを愛してくださる主に、心から感謝する事なのです。

Ⅰサムエル記11章

 今回は、サムエル記第一11章から学びます。

 Ⅰ.アンモン人ナハシュの圧力(1-5)

 まず、1~5節までをご覧ください。
「さて、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、あなたに仕えます。」アンモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。」ヤベシュの長老たちは彼に言った。「イスラエルの国中に使者を遣わすため、七日の猶予を与えてください。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたのところに出て行きます。」使者たちはサウルのギブアに来て、これらのことばを民の耳に語った。民はみな、声をあげて泣いた。ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、いったい何が起こったのか。」彼らは、ヤベシュの人々のことばを彼に告げた。」

サウルは王として油注ぎを受けたとき、神に心を動かされた勇者たちは彼について行きましたが、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼について行きませんでした(10:26-27)。彼は自分の町ギブアに帰り、農夫としての仕事を続けながら、神の時が来るのを待っていました。

すると、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷きました。ヤベシュ・ギルアデは、ヨルダン川東岸にあるイスラエルの町です。アンモン人が住んでいるところのすぐそばにあった町です。そのヤベシュ・ギルアデに対して、アンモン人が戦いを挑んで陣を敷いたのです。

ヤベシュの人々は自分たちに勝つ見込みがなかったので、和平条約を申し入れます。それは、自分たちと契約を結んでほしいということでした。そうすれば、あなたがたに仕えます・・・と。するとアンモン人ハナシュは、無理難題を突き付けてきました。何と右の目をえぐり取ることを条件に契約を結ぼうというのです。右目をえぐり取られるとは、戦うことができなくなることを意味していました。それは非常に屈辱的な要求でした。それで、ヤベシュの長老たちは7日間の猶予をもらい、イスラエル全土にこの状況を伝え、救いを求めました。

彼らはまず、サウルのいるギブアに使者を遣わしました。ヤベシュからの使者たちの知らせを聞いたギブアの人たちはみな、声を上げて泣きました。自分たちに近いヤベシュの町があまりにも屈辱的な状況に直面していたからです。

すると、ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来ました。そして、民が泣いているのを見て、「何が起こったのか」と尋ねると、彼らはヤベシュの人々のことばを彼に告げました。ここから、サウルの王としての活動の火ぶたが切られることになります。神は思いもかけない方法で、その道を開いてくださいました。サウルは、自分が王になったことを言いふらさなくても、その機会が自然に向こうからやってきたのです。それは神の導きにほかなりません。このように、こうした機会は意外と問題を通してやって来ることがあります。しかし、問題が起こると私たちは恐れを抱いてしまうため、それを見逃してしまうことがあるのです。私たちは信仰によって恐れを克服し、神の機会を見失うことがないようにしなければなりません。

Ⅱ.アンモン人との戦い(6-11)

次に、6~11節までをご覧ください。
「サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。彼は一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言った。主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た。サウルはベゼクで彼らを数えた。すると、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言いなさい。「明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って行って、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。ヤベシュの人々は言った。「私たちは、明日、あなたがたのところに出て行きます。あなたがたの良いと思うように私たちにしてください。」 翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けの見張りの時に陣営に突入し、昼までアンモン人を討った。生き残った者は散り散りになり、二人の者がともにいることはなかった。」

サウルがヤベシュの人々のことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下りました。このように、旧約聖書においては、神がゆだねられたある使命を果たさせるために、その人物の上に激しく下ることがありました。その結果、サウルの怒りが激しく燃え上がりました。それはそうでしょう。同胞が敵に虐げられているのを見て黙ってなどいられるはずがありません。これは聖なる怒りとも言うべきものです。

それでサウルは一くびきの牛を取り、それを切り分けて,使者に託してイスラエルの国中に送ってこう言いました。「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」これによって、イスラエルの全部族を招集したのです。それにしても、なぜサウルはここでサムエルの名前を加えたのでしょうか。まだ自信がなかったのでしょう。まだサウルのことを認めていない人たちがいたので、サムエルの名前を出せば、民の敬意と服従を得られるのではないかと思ったのです。

すると主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出てきました。その数を数えるとイスラエルの人々が30万人、ユダの人々が3万人でした。彼らは、やって来た使者たちにこう言いました。「明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。」ヤベシュの人たちはどれほど心強かったことでしょうか。使者たちが帰って行って、ヤベシュの人たちにそのことを告げると、彼らは非常に喜びました。

すると、ヤベシュの人々がサウルに、「私たちは、明日、あなたがたのところに出て行きます。あなたがたの良いと思うように私たちにしてください。」と言ったので、翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けに奇襲攻撃をかけて、昼までアンモン人を討ちました。その結果、アンモン人は散り散りになり、二人の者がともにいることはありませんでした。

サウルは戦争の経験がない王様でしたが、その彼がこの戦いに勝利することができたのはどうしてでしょうか。それは、神の霊が彼の上に下り、知恵と力を与えてくださったからです。「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでわたしの証人となります。」(使徒1:8)私たちも宣教においてアンモン人という敵の前にすぐに怖気着くような者ですが、神の聖霊によって勝利することができます。神の使命を果たそうとする時、恐怖心が湧いてくることがありますが、そのような時、聖霊の導きを信じて一歩踏み出すなら、聖霊が勝利をもたらしてくださるのです。

Ⅲ.サウルの王権の更新(12-15)

最後に、12~15節までをご覧ください。
「民はサムエルに言った。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」

イスラエルがアンモン人を討ち破ると、民はサウルに言いました。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」この者たちとは、10:27に出てきた「こいつがどうしてわれわれを教えるのか」と言ってサウルを軽蔑した人たちです。その時サウルは黙っていました。言いたい者には言わせておこうと思ったのでしょう。しかし、そんな者たちにギャフンと言わせる絶好の機会が訪れました。

しかし、サウルは神に栄光を帰し、「きょうはだれも殺してはならない」と言いました。そして、彼らの提案を退けました。これは神の知恵による寛大な処置でした。悔い改めた敵対者たちを殺すよりは、自分の味方につけた方が何倍も良いからです。復讐は何の益ももたらすことはありません。

そして、イスラエルの民にこう言いました。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」王政を樹立するとは、王権を新しくすると言う意味です。サウルは既にミツパで王としての油注ぎを受けていました。それをギルガルで更新しようというのです。ギルガルは、かつてイスラエルの民が約束の地に入り、割礼の儀式を再開した場所です。そこで民は再びサウルを王としました。これは王権を確立したということでしょう。彼らはそこで、主の前に和解のいけにえをささげ、サウルが王になったことを喜びました。

この日の喜びは、サウルが神の知恵によって寛大な心を示し、また、この勝利を自分の手柄としないで「主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださった」と語り、主に栄光を帰したことでもたらされました。サウルの王としての歩みは、最初は順調であったというか、非常に良かったのです。しかし、最初の思いを忘れてしまうことで、この後で致命的な失敗を犯してしまうことになります。黙示録2章には、主がエペソの教会に書き送った手紙がありますが、その中で主は、「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(2:4)と言われました。「だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」(2:5)

これはサウルだけのことではありません。私たちも同じです。初めの愛から離れてしまうことがあります。ですから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなければなりません。そうすれば、主が赦してくださいます。問題は、私たちが何をしたかではなく、何をしなかったかです。悔い改めて、初めの愛に帰ることを神は願っておられるのです。

ヨハネの福音書12章20~26節「一粒の麦となって」

新年おめでとうございます。この新しい年も、主の栄光が現される年となるように祈ります。この新年の初めに、まず一つのクイズから入りたいと思います。「りんごの種の中にはいくつのりんごがあるでしょうか?」答えは、「無数」です。どうですか、正解だったでしょうか。正解した人はきっといい年になるでしょう。そうでなかった人もいい年になります。主が共におられるなら、すべては「良い」ですから。

きょうは、イエス様が言われた御言葉、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)から、「一粒の麦となって」という題でお話しします。

 Ⅰ.イエスとの出会いを求めて(20-21)

 まず、20~22節をご覧ください。
「さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。」

この祭りとは「過越しの祭り」です。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架につけられて死なれます。この祭りに、何人かのギリシア人がいました。ここには「礼拝のために上って来た人々」とありますから、彼らはユダヤ教に改宗した異邦人であったことがわかります。ここには、「主イエスにお目にかかりたいのです」と言っていることから、彼らはイエス様に会うことを熱心に願っていました。なぜ彼らはイエス様に会いたかったのでしょうか。おそらく、イエス様に対する群衆の熱狂ぶりを見て、自分たちもイエスという方に是非とも会ってみたいと思ったのでしょう。そして、確かに彼らはユダヤ教に改宗していましたが、どこかマンネリ化していたユダヤ教の教えに限界を感じていたのかもしれません。主なる神との生ける交わりを求めていたのです。

様々な人々が、様々な理由でイエス様のもとに来られます。教会には、他の場所には無い安らぎがあります。そこに自分の疲れた身を置き、暫しの安息の時を持ちたいという動機で来られる方もいるでしょう。また、妻や夫や子供が、教会に行きたいと言っているから仕方なく着いてきた、という人もいるかもしれません。あるいは、ただ讃美歌を歌いたくて来た、という人もいるでしょう。それがどのような動機であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストとの出会いを通して真の解決を得ることができます。ですから、それがどのような動機であっても、キリストのもとに来て、キリストと会いたいという人々を、教会は心から歓迎するのです。なぜなら、それらの人々を招かれたのは、他でもない、教会の頭であられるイエス・キリストご自身であられるからです。

このギリシア人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、そのことを頼みました。なぜ彼らは直接イエス様のところへ行かなかいで、ピリポのところに来たのでしょうか。おそらく、イエス様に直接声をかけるのは畏れ多いと思ったのでしょう。それでだれか弟子の一人にお願いしようと思ったのですが、それがピリポだったのです。なぜピリポだったのか?それは、彼がガレラヤのベツサイダという所の出身だったからです。ここにはわざわざ「ガリラヤのベツサイダ出身のピリポ」とあります。ベツサイダという町は、ヘロデ大王の子ピリポが再興した町です。そこはローマ帝国の色彩が強い町でした。このピリポという名前もこのヘロデ大王の子ピリポにちなんで付けられた名前ですがギリシア名であったことから、彼らにとっては近づきやすい存在だったのでしょう。ピリポはその役割を果たすにはピッタリの人物でした。というのは、彼は、人々を執り成す役割をよくしていたからです。弟子のナタナエルをイエス様のところに導いたのも彼でした。神様は、願い求める者に最も相応しい導き手を用意してくださるんですね。

さて、何人かのギリシア人たちに頼まれたピリポはどうしたでしょうか。彼はいきなりイエス様の所には行かないで、まず弟子の仲間のアンデレに話しました。このアンデレも、執り成し手です。覚えていらっしゃいますか。イエス様に最初に着いて行った弟子のうちの一人がこのアンデレでした。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(ヨハネ1:41)と言いました。そのようにしてアンデレは、自分の兄弟のペテロをイエスのもとに導いたのです。ピリポはこのアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに伝えたのです。

このように、様々な理由でイエス様に会いたいという人を、イエス様のもとに導くこと、これが伝道です。伝道とは、何かすばらしい音楽を聞かせることとか、だれかすばらしい人を紹介するということではなく、人々をイエスのもとに導くことです。私たちは先に救われた者として、このように人々をイエス様のもとに導く役割が与えられています。それは、私たち自身が福音を理路整然と語らなくてはいけないということではなく、人々を、イエスのもとに連れて行くことなのです。具体的には、教会に案内することです。今私たちはこのように教会に来ていますが、最初から一人で来た訳ではありません。必ず、誰かが執り成し手になってくれたので来ることができました。ピリポやアンデレのような人がいたので教会に来てイエス様に出会い、救われることができたのです。

全世界に教会が存在する限り、人々は教会の門を叩いてこう尋ねるでしょう。「本当に、神様はおられるんですか。」「いったい私たちは何のために生きているのですか。」「私たちの人生に確かな望みはあるのでしょうか。」「この世にあって、愛するということが本当に可能なのでしょうか。」「今の私の悩みは、どうしたら解決するんですか。」そうした様々な問い掛けに対して、主イエスが確かな答えを与えてくださるのです。

Ⅱ.一粒の麦(23-24)

では、その答えとはどのようなものでしょうか。23節と24節をご覧ください。ここには、「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』」とあります。

これが答えです。彼らはいったい何のことを言っているのかと、驚いたのではないかと思います。でも、これが答えなんです。すべての問いに対する答えがここにあります。それは、一粒の麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば、実を結ぶということです。どういうことでしょうか。

「まことに、まことに」というのは、イエス様が重要なことを語られる時に言われる言葉です。意味は「アーメン、アーメン」です。まことにそのとおりです、真実です、という意味です。何が真実なのでしょうか。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、しかし、死ねば、豊かな実を結ぶということです。

イエス様はここで旧約聖書の言葉を一切用いず、あえて自然の法則を用いて語られました。それは、語っている相手がギリシア人であったからです。パウロも言っているように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように語られました。彼らがよく理解できるように、彼らの思考レベルに合わせて語られたのです。それがこの一粒の麦のたとえでした。

時は、過越の祭りの時でしたから3~4月頃です。大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる頃です。小麦はギリシア人にとってもとても身近な食べ物でした。その一粒の麦が地に落ちることを死ぬと言っていますが、そのように死ぬことがなければ、多くの実を結ぶことはできません。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶのです。

これは一般的な真理として語られただけでなく、ご自分について語られたのです。また、その後の言葉を見ると、これがご弟子たちへの勧めとして、あるいは、覚悟として語られたことがわかります。一粒の麦は、そのまま食べてしまえばそれだけのことです。しかし、もしこれを地中に蒔けば一粒の麦としては食べられなくなってしまいますが、その麦から芽が出て、やがて多くの実を成らせることになります。それと同じように、イエス様が地上の王、政治的な救い主として、この地上のいのちを用いるのであれば、そこにいる人々が一時的に良い生活をすることができるかもしれませんが、それまでのことです。しかし、十字架に掛かって死なれるのなら、多くの人々を救うことになります。それはその時代の人々だけでなく、それ以前に生きた人も、それ以後に生まれて来る人も含めたすべての人です。そのすべての人を救うことができるのです。それはただ単にこの地上で良い生活をすることができるというだけではなく、永遠に神の国において主と共に生きるという、豊かないのちのことです。ですから、これは直前に迫って来ていた十字架上での贖いの死を予告しておられたのです。この一粒の麦のたとえによって、イエス様の死が、殉教の死とか、自己否定の模範としての死ではなく、私たちの身代わりとしての死であるということを、はっきりと示されたわけです。

これが、すべての問いに対する答えであり、私たちに与えられている唯一の答えです。麦が、土の中に姿を隠してしまった。見えなくなってしまった。死んだとしか思えない。しかし、そんなところから緑の芽が芽生え、やがて豊かな実が実るようになるのです。そして、その実が私たちの養いになります。毎年、繰り返されている自然の営みですが、しかし、もし、この一粒の麦が、ここで死んでしまうのは嫌だと言って、倉庫の片隅に、留まっているとしたら、この実りはもたらされません。私たちのいのちが養われることはありませんでした。イエス様ご自身が、一粒の麦として死ぬことが、父なる神様の御心であることを、だれよりもはっきりと知っておられました。

そして、この過ぎ越しの祭りの時こそが、それが成される時でした。ですから、主はここで、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのです。「人の子」というのは、イエス様ご自身のことです。「栄光を受ける」とは、イエス様が十字架に掛けられて死なれ、復活されることを意味しています。一般的に「栄光を受ける」という言葉を聞いて私たちが思い浮かべるのは、オリンピックの表彰台ではないでしょうか。優勝者が、金メダルを授けられる場面です。それは人生の頂点に立つようなすばらしい瞬間です。イエス様も、ここで、栄光を受けようとしておられました。しかし、それは華やかな表彰台に上って、金メダルを授けられることではありません。それは、「一粒の麦」として死なれることでした。イエス様が栄光を受けられた場所は、晴れやかな表彰台ではなく、ゴルゴダの丘に立てられた十字架でした。イエス様は、表彰台に上られたのではなく、十字架に上られました。授けられたメダルは金メダルではなく、茨の冠でした。そのどこにも、人々が考えていたような、栄光の輝きはありませんでした。そのように、イエス様の栄光は、最も低い所に現れたのです。主イエスは、最も低い所に立たれました。しかし、私たちは、この主の十字架の犠牲によって罪赦され、希望に生きることができるのです。私たちは、そのことを知っています。つまり、イエスの死と埋葬と復活がなければ、永遠のいのちはないということです。これが答えです。私たちが求めなければならないのは、この十字架につけられたイエス・キリストなのです。パウロはそのことを、次のように言いました。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(Ⅰコリント1:22-24)

いったい私たちは何を求めているでしょうか。ユダヤ人のようにしるしや奇跡でしょうか。あるいは、ギリシア人たちのように、知恵や知識でしょうか。しかし、どんなにしるしを求めても、またどんなに知恵を追及しても、イエスのいのちにあずかることはできません。でも、十字架につけられたキリストを求めるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。なぜなら、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでも、ユダヤ人であっても、キリシア人であっても、召された者たちにとっては、十字架こそ神の力、神の知恵だからです。十字架につけられたキリストが答えです。この世は知恵とか、知識とか、力とか、しるしとか、奇跡を追い求めるでしょうが、私たちが求めるのは、十字架につけられたキリストなのです。これが答えであり、すべてのニーズに応えるものなのです。

100歳を超えても現役の医師として活躍された日野原重明先生が、最も大切にしていたという御言葉も、これでした。日野原先生は、「私を変えた聖書の言葉」、という本の中で、その理由を書いておられます。
1970年3月30日、羽田から、福岡空港に向かって、飛び立った「よど号」が、日本赤軍によってハイジャックされました。日野原先生は、この飛行機に乗っていました。飛行機は韓国の金浦空港に拘留され、四日間に亘って韓国当局と、赤軍の交渉が続けられました。もし、交渉が上手くいかなければハイジャック犯は、ポケットに持っているダイナマイトを使うかもしれない。そうなったら、命が危ない。そうした緊張と不安の中で、日野原先生は、ハイジャック犯から借りた「カラマーゾフの兄弟」という本を読みました。そして、その本の表紙に書かれていた御言葉がこれでした。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば実を結ぶ」。日野原先生は、この御言葉によって平安を与えられました。
無事に、日本に帰還できた日野原先生は、心配してくれた多くの方々へのお礼状で、こう述べました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと願ってやみません」。
この御言葉が、日野原先生に新しい人生観をもたらしてくれたのです。それは日野原先生だけでなく私たちも同じです。この御言葉が、私たちの人生にも新しい人生観をもたらしてくれます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

Ⅲ.一粒の麦となって(25-26)

ですから、第三のとこは、私たちも一粒の麦となりましょう、ということです。25-26節をご覧ください。ここには、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」とあります。

「自分の命を愛する者」とは、自分が自分の命の主人になろうとしている人のことです。イエス様を自分の命の主人として受け入れない人のことです。この私を生かすために、主イエス様が一粒の麦となって死んでくださったということを受け入れないのです。自分は、自分の力だけで生きている。そう思っている人。それが、「自分の命を愛する者」です。もっと分かり易く言えば、自分中心に生きている人のことです。

一方、「自分の命を憎む者」とは、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人のことです。自分が今生かされているのは、一粒の麦が死んでくださったからだ。自分は、キリストによって、生かされているのだ。そういう思いに生きている人のことです。そういう人は、永遠の命に至ることができる、と主は言われたのです。

星野富弘さんが「いのちよりも大切なもの」という詩を書きましたが、それはこの真理を語ったものです。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
いのちよりも大切なものとは何でしょうか。それはキリストにあるいのち、永遠のいのちです。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者、すなわち、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人は、永遠のいのちに至るのです。それがあると知った時、生きるのが嬉しくなったのです。人生のベクトルが自分、自分と、自分の方を向いている時は、これほど楽しいことはないと思うでしょう。でも実際は違います。生きるのが苦しくなります。自分のすべてが満たされていて、もう何もすることがない。これほど辛いことはありません。しかし、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられ、世のため、人のため、そして神の栄光のために自分が生かされているという新しい使命が与えられ、その使命に生きる人は幸いです。そのような人は古い殻が破られて、そこに神のいのちが流れるようになります。そういう人は、生きるのが嬉しくなるのです。

私たちは、どんな人でも犠牲を払うことを好みません。そういう意味では、みな自己保身的であるわけです。これは人間の生まれながらの性質です。しかし、主に従って行こうと思うなら、イエス様のように一粒の麦にならなければなりません。自分がいのちを全うし、自分は少しも傷つかないで、主の弟子という栄誉だけを得ようとしても、それは無理なことなのです。自分のいのちを愛する者は、永遠のいのちを失ってしまいます。しかし、自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠いのちに至るのです。

26節をご覧ください。ここで、主は、このように言っておられます。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

主に仕えようと思う人は、主が行かれるところへ行き、主がおられるところにいなければなりません。なぜなら、私たちはキリストと一つにされた者だからです。それはキリストのいのちに与ったというだけでなく、キリストの死にも与ったということです。キリストの苦しみをも賜ったのです。賜ったのです。イエス様はこのように言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)
また、こう言われました。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27)
キリストの弟子というのは、十字架を負う者です。自分の十字架を負って、キリストに従う者、それがキリストの弟子です。自分の十字架を負ってキリストについて行かない者は、キリストの弟子になることはできません。

インドの宣教師にエミー・カーマイケルという人がおられますが、彼女は「カルバリの愛を知っていますか」という本の中でこう言っています。「地に落ちて死ぬ。そういう一粒の麦となることをもし拒絶するならば、その時私はカルバリの愛を全く知らない。」一粒の麦として、自己否定、自己犠牲を拒むならば、カルバリの愛、十字架の愛を全く知らない、というのです。

私たちもクリスチャンとしてイエス様のいのちに与りましたが、同時に、イエス様の死にも与っているのです。これがキリストの弟子像です。ですから、キリストの弟子たる者は、イエス様と同じ性質、同じ考え、同じ価値観、同じ歩みをすべきなのです。

よく「才能が埋もれる」とか、「異国の土となる」という言葉を聞くことがありますが、これは骨を埋めるということです。これを聞くと、宣教師たちのことを思い出します。イエス・キリストもさることながら、イエス・キリストによって遣わされた宣教師たちは、まさにこの一粒の麦となって地に落ちてくだいました。日本にも大勢の宣教師が来て、文字通り骨を埋めてくれました。その結果、彼らが蒔いた種によって新しく生まれた人がたくさんいるのです。私もそのうちの一人ですが、最近の宣教師はそれほどでもありませんが、昔の宣教師が日本に来るということはまさに命がけでした。自分を犠牲にして、自分の命を犠牲にしてまで日本を愛し、日本人のために生涯をささげられました。そうした一粒の麦によって、多くの実を結ぶことができたのです。

これは宣教師だけのことではありません。私たちも同じなのです。同じ使命が与えられています。もし豊かな実を結びたいと思うなら、多くのたましいを獲得したいと思うなら、私たちも地に落ちなければなりません。死ねば、豊かな実を結ぶのです。イエスは種まきのたとえの中で、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結んだと話されましたが、それが良い地に蒔かれるということです。良い地に蒔かれた種とは、御言葉を聞いてそれを悟る人のことですが、究極的には、このイエス様と同じようになることです。そういう人は豊かな実を結びます。そればかりではありません。ここには、「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます」とあります。これは、主が与えてくださる報いのことです。自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、父なる神はその人を重んじてくださいます。「重んじてくださる」は、新共同訳では「大切にしてくださる」と訳しています。主に従い、喜びも、悲しみも共にし、どんな時も主と共にいる者を、父なる神様が大切にしてくださるのです。

父なる神様がおられ、そして、主イエスがおられる。この聖なる交わりの中に、私たちを招いてくださるために、主は、一粒の麦となって死んでくださいました。それほどまでに、神は私たちを愛してくださいました。イエスは言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

大正から、昭和の前半にかけて、素晴らしい働きをした人で、升崎外彦(ますざきそとひこ)という伝道者がおられます。この人の伝記、『荒野に水は湧く』という本に、一粒の麦のように生きた、若い女性の話が書かれています。
キリスト教に対する迫害の激しかった出雲の地で、秘かに信仰を持った旧家の娘がいました。名前を香代と言いますが、その香代が、若くして結核にかかり、死も間近と宣告されます。
そこで、最後の願いを聞いてあげよう、ということになりました。香代は、土地の人たちから迫害されていた升崎牧師からバプテスマを受けたい、と言いました。その願いがかなえられ、香代は、病床でバプテスマを受けました。
ところが、その後、奇跡的に、病状が回復し、香代は、元気を取り戻したのです。そこで、困ったのは、家の人たちです。「香代さんが、ヤソになった」、という噂が村中に知れ渡り、大問題になったからです。家の人たちは、香代に、信仰を捨てるようにと、強く迫りました。でも、彼女は、頑として、信仰を捨てませんでした。そこで、家の人たちは、彼女を座敷牢に閉じ込めてしまいました。
ある冬の寒い朝、香代が、祈りの姿勢のままで死んでいるのが発見されました。その後、香代の遺品を整理したところ、彼女の日記が出て来ました。その日記は、死の二日前までのことが、綴られていました。そこには、家の者に対する恨みや辛みは、一言も書かれておらず、それどころか、どのページも、両親のための祈りと、神様への賛美の言葉で満ちていました。
家の人たちは、それを読んで、激しい感動を覚えました。彼らの心は、一変しました。そして、何と、一家11人が、イエス様を信じたのです。香代の墓標には、この24節の御言葉が、記されています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

香代は、大正時代の出雲の村で豊かな実を結んだ、一粒の麦だったのです。イエス様は一粒の麦が地に落ちて死ぬように、十字架で死なれました。しかし、それによって、私たちは、永遠の命に生きる者とさせて頂くことができたのです。この主イエスの愛を自分のものとして受け取って生きる時に、私たちも一粒の麦としての生き方に招かれます。周りの人たちのために、自分を献げて生きる生き方へと招かれるのです。

先ほど、日野原先生のことを話させていただきました。日野原先生も、命の危険が迫る中で、この御言葉に出会い、平安へと導かれました。そして、その後の人生を、自分のためだけに生きるのではなく、多少なりとも、自分以外のことのために、献げたいという願いに導かれていったのです。私たちも、主イエスという、一粒の麦によって、生かされた者です。そうであるなら、周りの人たちの救いのために、小さな実を結ぶことを、願う生き方へと、導かれてまいりたいと思うのです。この新しい年がそのような一年になりますように。主の聖霊によって、主イエスの価値観と考え方をもって、与えられた人生を全うさせていただきたいと思うのです。