伝道者の書5章1~9節「神は天に、あなたは地に」

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伝道者の書5章に入ります。伝道者は、日の下で益になるものはないかといろいろと探究しましたが、日の下には人の益になるものは何もありませんでした。「空の空。すべては空。」です。結局のところ、人は神から離れて、だれも食べたり、楽しんだりすることはできません。

しかし、伝道者の探究はこれで終わりません。であれば、宗教はどうなのか。熱心に宗教をすれば心が満たされるのではないかと思うのです。しかし、残念ながらそうではありません。大切なのは、宗教に熱心であることではなく、宗教が目指している神との関係がどうであるかということです。すなわち、神と正しい関係を持つことです。この伝道者のことばで言えば、7節にありますが、「ただ、神を恐れよ」ということです。きょうは、このことについてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神の宮へ行くときは(1-3)

まず、1節から3節までをご覧ください。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」

「神の宮へ行くときは、自分の足に来につけよ。」とは、教会に行くときには、車の運転に気を付けよ、という意味ではありません。まあ、車の運転には十分気をつけてほしいと思いますが、そういうことではないのです。神の前に立つ時には、その態度に気をつけるようにということです。つまり、神を礼拝する時の姿勢について語られているのです。どういうふうに気をつけなければならないのでしょうか。

その後のところには、「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。」とあります。どういうことでしょうか。信仰において大切なのは、近寄って聞くことだということです。どんなにいけにえを献げたとしても、主が自分に何を語っておられるのかを知り、それに聞き従うのでなければ何の意味もありません。イスラエルの最初の王サウルの問題はここにありました。彼は預言者サムエルを通して、「行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。」(Ⅰサムエル15:3)と命じられましたが、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。後でサムエルが彼のもとに来て羊や牛の鳴き声を聞いたとき、「この声は何ですか」と尋ねると、彼は、「あなたの神、主にいけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを取っておきました。しかし、残りのものは聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)と答えました。それは主にいけにえを献げるために取っておいたと言ったのです。もったいないから。でも神様の命令は何でしたか。すべてのものを聖絶せよ、ということでした。すべてのものですから、最も良いものもそうでないものもすべてです。しかし、彼はその命令を守りませんでした。自分に都合が良いように受け止めたのです。

それに対してサムエルは何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。「主はあなたに命じて言われました。「行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」(Ⅰサムエル15:18-19)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)  主の御声に聞き従うことは、いけにえにまさります。自分がどんなに献げものをしたからといっても、主の御声に従うことがなければ何の意味もありません。

人は本能的に宗教的なものを求めています。宗教といえば、一般にキリスト教もその一つと言えるでしょう。いわゆる宗教としてのキリスト教はあります。けれども、教会に通いながらもなおキリストにある神との生きた関係を持つのでなければ、どんなにそれに付随したことに熱心であっても、それは空振りに終わってしまいます。そのような宗教は、ソロモンが他の分野に求めたもの、たとえば、知恵、知識、富、名誉、財産といったものと同じように空しい結果をもたらすことになります。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからです。それもまた風を追うようなものです。信仰生活において大切なのは、近くに行って聞くこと、主の御声に聞き従うことです。あなたはどうでしょうか。主の御声を聞いておられるでしょうか。聞いて従っているでしょうか。

2節をご覧ください。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。

神の前ではどうあるべきか、ということです。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな」とあります。どういうことでしょうか。神の前では、それが誓いであれ、祈りであれ、軽率なことばは控えるべきであるということです。私たちが神に対して熱心であればあるほどことば数も多くなります。賛美であれ、祈りであれ、感謝であれ、多くの言葉を口にするのです。そのこと自体は悪いことではありませんが、注意しないと、それがただ口先だけの表面的なものになってしまうことがあります。私たちにとって必要なのは、神の前で心焦ってことばを出すことではなく、神の声を聞くことなのです。

そのことについてイエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。少し長いですが、引用したいと思います。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:1-8)

偽善者たちの問題は何だったのでしょうか。それは人に見せようとしたことです。自分を人に見せようと思うとことば数が多くなります。自分の前でラッパを吹いてしまうわけです。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っていますが、実際のところはそうではありません。大切なのはことば数の問題ではなく、それが真実な祈りであるかどうかということです。伝道者はその理由を次のように言っています。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」どういうことでしょうか。これはきょうのメッセージのタイトルです。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」つまり、神は天におられ、私たちに必要なものが何であるかを知っておられるからです。私たちは地にいますが、神は天におられます。そして、私たちに必要なもののすべてを知っておられるのです。であれば、私たちはこの神にすべてをゆだねて、人前ではなく、隠れたところにおられる主に、心から祈りをささげるべきではないでしょうか。

3節をご覧ください。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」これは2節で語られたことを強調するために引用した格言です。仕事が多いと悪夢にうなされます。それと同じようにことば数が多い人は、愚かなことばを口にするようになるということです。それは祈りにおいても、日常会話においても同じです。言わなくてもいいようなことをついつい言ってしまいます。新約聖書のヤコブ書にもありますが、舌は小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。それを制御することは簡単なことではありません。馬を御するためには、その口にくつわをはめればできますが、この舌を制御することはなかなかできません。だからこう祈りなさいと、イエス様は教えてくださいました。それが主の祈りです。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-13)

私たちも神の宮へ行くときは、このことに心を留めたいと思います。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すのではなく、逆に、神の近くに行って神の御声を聞き、心からの祈りをささげたいと思います。

Ⅱ.神に誓願を立てるときには(4-6)

次に4~6節をご覧ください。私たちは神の前でどうあるべきなのか、次に、伝道者が取り上げるのは「誓願」についてです。「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。」

ここには、神に誓願を立てるときにはどうしたら良いかについて教えられています。「誓願」とは、広辞苑を見ると、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと、とあります。その誓願を立てるときは、それを果たすのを遅らせてはなりません。人は安易に、「主よ。もし・・のことをしてくださるなら、私は・・のことをします」と誓いますが、いざとなると、それを果たすことを忘れてしまったり、先延ばしにしてしまうことがあります。しかし、誓っても果たさないなら、誓わないほうがましです。なぜなら、そのように誓うことによって、あなたの口が罪を犯すことになるからです。申命記23:21-23にはこうあります。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。 誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」

聖書にはこの誓願に関していくつかの例が見られます。たとえば、ハンナの誓願ですね。彼女は夫エルカナに愛されながらも、胎は閉じられていて、子どもがありませんでした。しかし第二夫人であったペニンナには多くの息子と娘たちがいて、夫に愛されているハンナを憎み彼女をいらだたせるようなことをしていました。それでハンナの心は痛み、主の宮で主に祈って激しく泣きました。そのとき、彼女は主に誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1サムエル1:11)
すると、このハンナの祈りは聞かれ、男の子が与えられました。そして生まれた男の子の名前をサムエルと名づけました。第一子は母親にとって最も大切な存在です。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓ったとおりに主にささげたのです。具体的には、祭司エリのもとに預けました。このようにして、誓願を立てて与えられたサムエルは、やがてイスラエルの歴史の舵取りをしていく者となったのです。

また、エフタの誓願もあります。士師記に出てきます。イスラエルの士師、さばきつかさであったエフタはアンモン人と戦っていましたが、その戦いがいよいよ激しくなったとき、彼は主に誓願を立てて言いました。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)
すると、主はアンモン人をエフタの手に渡されたので、彼はアンモン人に勝利することができました。しかし、彼が戦いに勝って自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らして、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは唖然としました。もしアンモン人に勝利することができたら、自分が無事に家に帰ったとき、その戸口から最初に自分を迎えに出て来た者を、主への全焼のいけにえとしてささげると誓っていたからです。いったい彼はどうしたでしょうか。聖書にはこうあります。「父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」(士師11:19)彼は誓ったとおりに彼女に行ったのです。このことについては、文字通り全焼のいけにえとしてささげたということなのか、終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということなのか意見が分かれるところですが、はっきり言えることは、彼は自分が誓ったとおりに行ったということです。

それにしても、人はなぜこのように誓願をするのでしょうか。ハンナにしても、エフタにしても、それだけ強い願いがあったからでしょう。ハンナは何としても子どもがほしいという思いがあったでしょうし、エフタにしても、アンモン人との戦いが激しさを増したとき、何としても勝利したいという気持ちが強かったのだと思います。それが、このような誓いという形になって出てきたのでしょう。でもまさか自分の娘が戸口から出てくるなんて思ってもいませんでした。いや、もしかしたらそのような可能性も考えられたかもしれませんが、それよりも勝ちたいという思いが、性急な誓いという形となって出て来たのではないでしょうか。

しかし、こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの誓願は、信仰の表れというよりは、むしろ彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

このように軽々しく誓うことが私たちにもよくあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私は・・・をささげます」というようなことを言ってしまうのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。ですから、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うべきです。それ以上のことを口にするのはよくないことです。サタンの罠にかかる恐れがあるからです。エフタは自分の直面している困難な状況を、誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

私たちはきょう「プリンセス」の献児式を行いました。献児式とは何でしょうか。献児式とは、神から賜った我が子を神様にお返しする式です。それは神のものですから神にお返しするのです。その中で、神から授かった子として神のみこころにかなった子どもとなるように大切に育てていく責任が両親に与えられているのです。ただのセレモニーではありません。「プリンセス」は神に献げられた神のものですから、両親はこの子を神から託された大切な子として神の愛をもって育てていかなければなりません。そして、やがてこの子が神を信じて神のもとに帰ることができるように、私たちも常に祈るものでありたいと願います。

Ⅲ.ただ神を恐れよ(7-9)

神の前でどうあるべきなのか、第三のことは、だから、ただ神を恐れよ、ということです。7-9節をご覧ください。「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」

「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。」とは、3節のことばを受けてのことでしょう。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」非現実的にことばを多く発するよりも、神を恐れることを学べということです。
預言者ヨエルは、やがて聖霊が降るとき、息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る、と言いました。しかし、それが神に栄光を帰すためではなく、神なしに見る夢は空しいだけで、悪夢にすぎません。

私が小さい頃、「いつでも夢を」という歌が流行っていました。橋幸夫さんと吉永小百合さんがデュエットです。「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる 声が聞こえる 淋しい胸に 涙に濡れた この胸に 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる  歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る すすり泣いてる この顔上げて きいてる歌の 懐かしさ 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る」
これは、昭和37年、日本レコード大賞グランプリに輝いた曲ですが、グランプリに輝いた、と云う割りに、あまり内容のない歌詞です。場面のイメージが湧いてきません。タイトルだけが独り歩きしているような感じです。とある人は言っています。神なしに見る夢には空しさがあるのです。

また、ことばが多いところにも空しさがあります。先ほども言いましたが、口を制御しない無節制なことばの習慣は、自分の過ちをあらわにします。多くの夢とことばに縛られて忙しく生きるより神を恐れて生きること、それが最も重要なことなのです。

それは、8-9節を見てもわかります。ある地域で貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚く必要はないと伝道者は言っています。なぜなら、その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからです。これは、堕落した官僚制度のことです。それぞれの段階で、各人が何らかの利益を得ています。上役には下の者を監視する役割が与えられているのに、現実にはそのようになっていません。しかし、虐げる者たちの上には、彼らよりもさらに高い神がおられ、すべてを見ておられます。

9節には「国にとって何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」とありますが、何のことを言っているのかよくわかりません。この聖句は、伝道者の書の中でも最も難解な箇所の一つだと言われています。へブル語の原文の確定が難しいからです。その中で最も意味が通じる訳は、英語訳(NIV)ではないかと思います。英語訳(NIV)では、「王もまた農地の収穫から利益を得ている」となっています。この場合、下級官僚から王に至るまで、腐敗の官僚体制が出来ているという意味になります。その点に関しては、ソロモンの王国も例外ではありませんでした。彼の王国も重税によって民は苦しめられていました。それはソロモンの時代だけではありません。現代でも言えることです。それはいつの時代でも横行している悪なのです。子どもの7人に1人が貧困に喘ぐ今の日本にあって、いったいどこに希望があるのでしょうか。

ソロモンは、その現実を見てこう言うのです。「ただ、神を恐れよ」と。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」私たちにとっての希望は、天におられる神が、地にいる私たちの歩みをご覧になっておられるということです。「主は天から目を注ぎ人の子らをすべてご覧になる。御座が据えられた所から地に住むすべての者に目を留められる。」(詩篇33:13-14)だから、ただ神を恐れ、神に従うこと、これがすべてです。これが唯一の希望であり、救いであり、神の御前における正しい人間の姿、神との正しい在り方なのです。

箴言14章27節には「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」とありますが、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人のいのちとたましいに対する権威を唯一持っておられる方を恐れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。神は天におられ、あなたは地にいるからです。この神を恐れ、神に聞き従いましょう。これが人間にとってすべてであり、神の前にある正しい姿なのです。