伝道者の書4章1~16節「三つ撚りの糸は簡単には切れない」

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伝道者の書4章に入ります。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」と、日の下での労苦、神様抜きの、神様無しの労苦がいかに空しいものであるかを語ってきた伝道者ですが、その中にも光る言葉というか、含蓄のある言葉が散りばめられています。今日のみことばもその一つでしょう。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」今日は、この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.片手を満たして憩いを得る(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。3節までをお読みします。「私は再び、日の下で行われる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」

伝道者は改めて、日の下で行われている一切の虐げを見ました。虐げる者たちが力で人々を虐げ、ねじ伏せているのです。虐げられている人たちは無力で、何の抵抗もできません。彼らはただ涙するだけで、立ち上がることすらできないのです。しかも、そんな彼らを慰める者もいません。どうしようもない非情な社会です。

この伝道者の生きていた時代がどういう時代であったのかわかりませんが、伝道者が見ていた状況は、現代にとても似ています。この伝道者の時代も格差社会だったのでしょう。今、日本では経済的格差がどんどん広がり、富める人はますます富み、貧しい人は貧しいまま、負のスパイラルから抜け出せずにいます。

伝道者はこうした現実を見てこう言います。2節です。「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」いのちがあって虐げられながら生きている人よりは、死んだ人のほうがましだということです。死人は、地上での労苦から解放されているからです。生きていても虐げから逃れることができず、涙するしかないのであれば、むしろ死んだ人の方が幸いではないか、というのです。これはいじめられた人がよく口にすることです。「こんなことなら死んだ方がましだ」。いじめや虐待は、それほど辛いものなのです。

それだけではありません。3節には、「また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。すごいことばです。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指しています。この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だと言うのです。なぜなら、最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。虐げられることもありません。しかし、これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実を見て、それがいかに空しいものであるのかを述べているだけです。いったい問題はどこにあるのでしょうか。それは、彼が日の下の現実だけを見ていたことです。1節には「日の下で行われる一切の虐げを見た」とありますし、3節にも「日の下で行われる悪いわざ」とあります。「日の下で」ということが強調されているのです。すなわち彼は、日の上を見ませんでした。

伝道者はここで、虐げられている者には慰める者がいないと言っていますが、果たしてそうでしょうか。確かに「日の下」だけを見たらそうでしょう。しかし、「日の上」には慰めがあります。そうした虐げられている人たちの背後には神がおられ、彼らの嘆きの声を聞き、その歩みを守っておられるのです。詩篇10:17-18にはこうあります。「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや彼らをおびえさせることがないように。」

「それでも夜は明ける」という映画を観ました。原作は「トゥエルブ・イヤーズ・ア・スレーブ」ですが、奴隷制度がはびこっていたアメリカを舞台に、自由の身でありながら拉致され、南部の綿花農園で12年間も奴隷生活を強いられた黒人男性の実話を描いた映画です。主人公が体験した壮絶な奴隷生活と、絶望に打ち勝つ希望を描き出している映画です。実際はもっとひどかったんだろうなあと思いながら観ていましたが、こんな人生なら死んだ方がましだと思ったことでしょう。「日の下」の現実だけをみたらそうなんです。どこにも希望など見いだすことなどできません。しかし、日の上を見るなら、そこに貧しい者たちを顧みてくださる神がおられます。そして、その神が慰めと希望、耐える力を与えてくださいます。それが「ゴスペル」です。ゴスペルは、そんな黒人の奴隷たちが、神の助けとあわれみを求めて魂を注ぎ出して歌った歌なのです。その映画の中にも奴隷生活を強いられていた人たちが魂を注ぎ出して神に歌うシーンがあって、とても印象的でした。

キリストはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)この方は、あなたを休ませてくれます。この地上でどんなに虐げられていても、その人を自由にし、罪から解放してくださいます。あなたがこの方のもとに来るなら、あなたも虐げという苦しみから解放され、平安と慰めを得ることができるのです。

次に、4節をご覧ください。4節には「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。

次に伝道者は、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見ました。しかし、それは人間同士のねたみと嫉妬が動機で行われているのを知るのです。ある人がすべての才能を用いて努力し、労苦して成功すると、周りの人々はそれを喜ぶどころかかえってねたむという現象が生じます。そこには、相手を蹴落とさなければ生き残れないという競争原理が働いているからです。しかし、あらゆる労苦とあらゆる仕事の目的が、そのように人間同士が競い合うことにあるとしたら、何と空しいことでしょうか。それもまた風を追うようなものです。

5-6節をご覧ください。「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。その反面、怠惰で愚かな者は、何もしないでただ傍観し、自分のからだを弱らせるだけだということです。5節の「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。」は、新改訳改訂第3版では、「愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。」となっています。「手をこまねく」とは、「怠ける」という意味です。ですから、愚かな者は怠けて、自分の身を食いつぶす、すなわち、自滅するのです。

しかし、それとは反対に、賢い人の生き方があります。それが6節にあることです。「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。新共同訳ではここを、「片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。」と訳しています。つまり、あれも欲しいこれも欲しいと、両手ですべてをつかみ取ろうとしてあくせく働くよりも、片手でもいいから得られるもので満足し憩いを得る方がずっと良い、ということです。今あるもので満足するという知恵です。箴言30:8には、「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」とあります。貧しさも富も私に与えないで、ただ、私に定められた食物で、私を養ってくださいとは、このことです。自分に与えられたもので満足するということです。皆さんはどうでしょうか。自分に与えられたもので満足しているでしょうか。それとも、もっと良いものをと、両手に労苦を満たしているでしょうか。

ヘブル13:5にはこうあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」」いま持っているもので満足するのです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスはこう言いました。「いま持っているものに満足しない者は、ほしいものを手に入れても満足しない」満足とは欲しいものを得ることではなく、今あるもので十分だと思うことです。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良いのです。片手を満たして憩いを得る人生を、いま持っているもので満足する、そういう人生を求めたいと思います。

Ⅱ.三つ撚りの糸は簡単には切れない(7-12)

第二のことは、共同体の力についてです。7節から12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。「私は再び、日の下で空しいことを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」

伝道者は再び、日の下で空しいことを見ました。それは、ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人です。その人は朝から晩まで仕事、仕事、仕事と、仕事に依存的になっています。その労苦には終わりがありません。しかもそれは世のため、人のためではなく、自分のため、自分の富を得るためです。もっと多くの富を持とうと目をギラギラさせ、ただ労苦して働く毎日です。1年365日、寝ても覚めても仕事のことばかり。ひたすら働き続ける企業戦士というイメージです。そこには飽くなき欲望があります。しかも、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」と自ら問うこともしません。つまり、自分は何のために働いているのか、だれのためにこんなに自分を犠牲にしているのか」と考えることすらしないのです。いわゆる思考停止状態です。現代に生きる私たちに対する警鐘と受け取れる言葉ではないでしょうか。

いったいどこに問題があるのでしょうか。ひとりで労苦していることです。ひとりで労苦するよりも、人と力を合わせて生きる方がどんなに美しいでしょう。家族や信仰の共同体もなく、ひとりで生きることは辛いことです。孤独に生きて絶えず働いても、自分のものに満足できず、財産や名誉に執着して神に与えられた人生を味わえないなら、それはとても不幸でむなしい人生です。

ですから、伝道者はそのことを勧めるために、次のように語るのです。9節から12節です。ご一緒に読みたいと思います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

「二人は一人よりもまさっている。」という言葉は、よく結婚式で引用される言葉です。人はひとりでは生きられない、という共に生きることのすばらしさを教えてくれます。しかし、これは結婚においてだけ言えることではなく、この社会全体に言えることです。一人よりも二人、二人よりも三人と、共に生きて互いに力を合わせるほうがまさっています。なぜでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」その方がもっと良い報酬が得られます。また10節には、「どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。」とあります。二人なら、どちらか一人が倒れても、もう一人がその仲間を支えて起こしてあげることができます。さらに11節には「二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。」とあります。寒い日に寝るとき温まることができます。だんだん朝晩が寒くなってきました。足が冷たいとなかなか寝付かれません。ひどい時には一晩中眠れないこともあります。でも、どうでしょう。そんな時でも妻の足で暖めてもらうとよく寝ることができます。妻は「や~だ、冷たい!」と嫌がりますが、聖書は何と言っているかというと、二人が一緒に寝ると温かくなる、と教えています。これが戦争などの場合であれば、もっと実感するでしょう。兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合って寝るなら、温かく寝ることができるでしょう。つまり、一人よりも二人、二人よりも三人です。互いに力を合わせて一つになれば、ひとりでいる時よりも強い力を発揮することができるのです。これにもし神が結び合わされたらとしたらどうでしょう。それは強力な絆になります。簡単には切れません。

12節をご覧ください。ここには、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。さらにそこに神がともにおられるなら、その絆はもっと強くなります。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。これは夫婦関係においても、家族においても、学校や職場、社会全体においても、そして信仰の共同体である教会にも言えることです。どんなことがあっても分かち合って共に歩む信仰の共同体は、神が私たちに与えてくださったすばらしい贈り物なのです。

地球上で最大の哺乳動物と言われているシロナガスクジラは、ジェットエンジンよりも大きな声で歌うことで有名です。驚いたことに、全世界のシロナガスクジラが同時に同じ歌を歌えるそうです。実験の結果、太平洋のシロナガスクジラが歌を変えると、大西洋のシロナガスクジラも歌を同じように変えることがわかりました。まるで指揮官がいるように合唱するのです。神は、私たちがひとりでどれほどうまくやれるかを見ておられるのではなく、それぞれ任されたパートをしっかりと演奏し、一つの美しいハーモニーを奏でるオーケストラのように、共同体の中で一致することを望んでおられるのです。

「自分ひとりで」信仰生活をするほうが楽だと言う人がいます。集まること自体が負担で時間の浪費だと考えるのです。しかし、ひとりで信仰生活をしようとする人は、苦難の波が襲ってくる時もひとりで耐えなければなりません。私たちの人生はそれほど簡単なものではありません。時には倒れ、時につまずき、時には苦しむことがあります。そんな時起こしてくれる人がいないとしたら、どんなに大変なことでしょうか。二人は一人よりもまさっています。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

ずっとうまくいっていた事業が破綻した中年男性が、次のように言いました。「事業の失敗によって経済的損失を被ったことはもちろんつらいですが、周りの人々がみな自分を無視して去って行き、ひとり残されたことが最もつらいです。」
つらいとき、そばにいてくれる人がいるだけでも慰められ、苦難を克服する力になります。信仰の共同体の中にいるなら、つまずいたり倒れたりしても、周りの兄弟姉妹たちが支えてくれる力によってもう一度立ちあがることができます。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

Ⅲ.人の評判を気にしない(13-16)

第三のことは、人の評判を気にしないということです。なぜなら、人気とか評判といったものは、人の気まぐれによっていつでも変わるものだからです。13節から16節までをご覧ください。13節と14節をお読みします。「貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる。そのような若者は、牢獄から出て王になる。たとえ、その王国で貧しく生まれた者であっても。」

伝道者はここで、貧しくても知恵のある若者と、年老いた王を比較しています。この若者には何の影響力もありませんが、彼には知恵がありました。一方、年老いた王は、若い時に幾多の試練を乗り越え、ついに王位に就きましたが、しかし年をとると頑固になり、他人からの忠告に耳を貸さなくなりました。受け入れなくなったのです。年を取ると丸くなるというのは間違いです。年をとればとるほど反対に頑固になっていきます。丸くなるというのはいちいち口論したり、抵抗したりするのが面倒くさくなるのでそのように見えるだけです。でも心の中では全くもって納得できず、逆に苦々しい思いを持ってしまうのです。自分でも気づかないうちに頑固になっていきます。この年老いた王がソロモン自身なのかわかりませんが、もしかすると、自分の経験から言ったのかもしれません。いずれにせよ、そのように貧しくても知恵のある若者と、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王ではどちらがまさっているでしょうか。貧しくても知恵のある若者です。たとえ彼が牢獄から出て王になったとしても、あるいは、その王国で貧しく生まれた者であったとしても、です。

しかし、事はそれだけでは終わりません。15節と16節をご覧ください。「私は見た。日の下を歩む生きている者がみな、王に代わって立つ、後継の若者の側につくのを。その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」どういうことでしょうか。

これは、ちょっとわかりづらい訳です。新共同訳では16節をこのように訳しています。「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」つまり民衆は、先の王に代わった後継の若い王に対して、最初のうちは期待してその若者の側につくかもしれませんが時間が経つうちに不満を抱くようになり、次第に彼を喜ばなくなる、ということです。初めは賢くていい王だなぁと思っていても、慣れてくると、やっぱりこの王も幼いところがあるなとか、ああいう考えはおかしいなどと批判するようになるのです。民衆はそのようなことを限りなく続けているわけです。「その民すべてに終わりがない」とはそういうことです。明後日はアメリカの大統領選ですね。トランプかバイデンか、どちらが大統領になるかわかりませんが、どちらが大統領になっても言えることは、評判がいいのは最初のうちだけで、そのうち批判されるようになるということです。飽きてくるのです。国民はそういうことを限りなく続けています。それを見た伝道者は何と言っていますか。これもまた空しく、風を追うようなものだ。あんなにすばらしいと絶賛した人を、今度はこき下ろすかのように忌み嫌う民衆の態度に空しさを覚えているのです。

いったい何が問題なのでしょうか。15節にあるように、彼の心が日の下のことに奪われていることです。日の下を歩む人たちはみな、そうなのです。そのすべてに終わりがありません。それは果てしなく続くのです。なぜでしょうか。人の心とはそのようなものだからです。人の心はそれほど移ろいやすく、気まぐれなものであり、頼りないものなのです。人の心はコロコロ変わるからこころと言うんだ、と言った人がいますが、人の心はそれほど変わりやすいものなのです。そんな人の評判を気にし、それを人生の最終目標とするなら、そこには何の満足も安心も得られないでしょう。私たちは、日の下のそうした人の評判や評価ではなく、神の評価、神の評判を求めなければなりません。

一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。神を中心とした共同体の中で、兄弟姉妹の語る神の声に耳を傾けながら、神の評価を求めながらいきていく、そういう人生こそ真に幸いな人生であり、いつまでも人々の尊敬を受ける知恵ある生き方なのではないでしょうか。

出エジプト記34章

出エジプト記34章から学びます。まず、1~3節をご覧ください。

Ⅰ.主の御名(1-9)

「主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

主はモーセに、「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。」と言われました。主は、モーセが砕いた石の板にあった、あのことばをその石の上に書き記そうとされたのです。「あのことば」とは「十戒」のことです。神は、ご自分の指で書かれた二枚の石の板をモーセに授けられました(31:18)が、モーセはそれを山のふもとで砕いてしまいました(32:19)。宿営に近づくと、民が金の子牛を拝んで踊っているのを見たからです。それでモーセの怒りは燃え上がり、持っていた二枚の石の板を砕いてしまったのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、神は彼らとともにいて、ご自身の栄光を現してくださると約束してくださいました。

そして、モーセに「前のものと同じような二枚の板を切り取れ。」と言われました。その石の板の上に、前の石の板にあった、あのことばを書き記すためです。神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされたのです。私たちも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

次に、4~5節をご覧ください。「そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」」

モーセは、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を取って、山に登りました。これが三度目の登頂です。毎回、40日40夜山頂にとどまりました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立って、主の名を宣言されました。主の名を宣言するとは、主のご性質を明らかにされたということです。御名とは神の本質であり、それこそモーセが祈りの中で願っていたことです。モーセは祈りの中で「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」(35:18)と祈りましたが、神はご自身のご性質を示すことによって栄光を現そうとされたのです。それが6,7節にあることです。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

「主はあわれみ深く、情け深い方」というのは、一般の日本人が抱いている神の概念とはだいぶ違います。一般に日本人は、神は怖い方、たたりをもたらすような方恐ろしい方だと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」なるべく神に関わらないようにしたい。人生の節目、節目にお参りして、厄払いをしてもらって、そうしたたたりが起こらないようにしようと考えているのです。

しかし、聖書の神はそのような方ではありません。「主は、あわれみ深く、情け深い方」です。このことを理解することはとても大切です。33:19にも「主の名」が出てきました。そこには「あらゆる良きものをあなたの前に通らせ」とありました。主は良い方、あらゆる恵みとあわれみに富んだ方であり、それを私たちにお与えになる方です。そのように理解することで、自ずと神に近づき、神と交わりを持つことができます。恐れがあると、必ず退いてしまいます。神が良い方であると理解していないと、神は自分を罰して、自分に意地悪をするのではないかと恐れて、神から遠ざかることになってしまいます。それではサタンの思うつぼです。神はあわれみ深く、恵み深い方であることを知っているからこそ、自ずと悔い改めに導かれ、その神のあわれみを求めて祈るように導かれるのです。

このことはクリスチャンにとっても大切なことです。クリスチャンの中にも間違った神概念をもっている人がいます。すなわち、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい、愛の神だといった理解です。旧約の神と新約の神を分けてしまうのです。しかし、そうではありません。旧約の神も、新約の神も同じ神です。旧約聖書にもこのように「主はあわれみ深く、恵み深い方」であることが語られているし、新約聖書にも、特に黙示録などを見ると、罪を裁かれる神として描かれています。ですから、旧約聖書と新約聖書の神は同じ神なのです。神はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方。この神理解をしっかりと持つことが重要です。

「あわれみ深く」とは、当然受けるべきものを受けないということです。私たちは罪ゆえにさばかれても当然な者でしたが、神はそのさばきを受けないようにしてくださいました。それが「あわれみ」ということです。これに似たことばで「恵み深い」ということばがあります。これは当然受けるに値しない者が受けることです。私たちは罪深い者であるがゆえに、当然永遠のいのちを受けるに値しない者ですが、そんな者が受けるとしたら、それは恵みです。私たちはそれだけの価値などないにもかかわらず、それを受けるとしたら、それは神からの一方的な恵みでしかないのです。そう、恵みとは過分な親切とも言えます。神は、恵みとまことに富んでおられる方です。これは主イエスについても言われています。「この方は恵みとまことに富んでおられた。」(ヨハネ1:14)とあります。これが神のご性質です。

しかし、ここには「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」とあります。そして、父の咎を子に、子の子に、三代に、四代に報いる者である。」とあります。これはどういうことでしょうか。これは、親の犯した罪が遺伝のように子どもに受け継がれていくということではありません。エゼキエル18:1-4には、「次のような【主】のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──【神】である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」とあります。ですから、自分の状況が悪い時、それを親のせいにしたり、先祖のせいにするのは間違っています。

しかし、父の咎を受けなくとも、その影響は子どもに与えてしまいます。子どもがすることで、何でこんなことをしてしまったのかと思うとき、よく考えてみると、それがまさに自分の姿であるのを見ることがあります。自分の醜さなり、自分の弱さ、自分のあり方が子どもに受け継がれていくことがあるのです。良いことも、悪いことも。ですから、霊的なことにおいてはできるだけ子どもに良い影響を及ぼすように努めていかなければなりません。でも、たとえ悪いからといってあきらめる必要はありません。それを断ち切ることはいくらでもできます。それは断ち切る祈りをするということではなく、主のみことばを学び、謙虚に主の前にひざまずくことによってです。

8,9節を見ると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏したとあります。なぜでしょうか。主はあわれみ深く、恵み深い方であることを知り、その主のご性質に信頼して祈ろうと思ったからです。彼はこう祈りました。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(9)

イスラエルの民はうなじのこわい民で、決して主に受け入れられるような者ではありませんでしたが、主があわれみ深い方であることを知って、どうか主が自分たちのただ中いて、進んでくださるように、と祈ったのです。
ここに礼拝者としてのモーセの姿が描かれています。モーセは神のご性質の前にひれ伏し、ありのままをさらけ出して祈る礼拝者でした。別に何も隠し立てすることなく、弱さを持ったままの人間として、それを正直に主の前に告白し、主のあわれみを求めて祈ったのです。私たちにもこの神の恵みとあわれみが差し出されています。それゆえに、モーセのように、神のあわれみを求めてひれ伏し、ひざまずいて祈ろうではありませんか。

Ⅱ.契約の更新(10-28)

次に、10~28節をご覧ください。まず、20節までをお読みします。「主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。」

主は、ご自身のご性質を示された後で、イスラエルと契約を結ぶと言われました。神との契約を守るなら、彼らがどの地にいても、どの国にいても、かつてなされたことのない奇しいことを行うというのです。その契約とはどのようなものでしょうか。その内容は20~23章に記されてあるシナイ契約にあるものと同じです。つまり、主はイスラエルの民と再びシナイ契約を結ぶと言われたのです。

その具体的な内容は、まず、彼らが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにということでした(12)。いや、彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければなりません。彼らの娘たちを自分のり息子にめとらせるようなことはしてはなりません。どうしてでしょうか。その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕って、みだらなことをさせるようになるからです。つまり、罠に陥ってしまうことになるからです。ここでいう罠とは、自分たちの神である主ではなく、その地の神々を慕って、みだらなことをしたり、拝んだりすることです。主はそれを忌み嫌われます。なぜなら、主はねたむ神だからです。

第二のことは、自分のために鋳物の神々を造ってはならないということです。17節をご覧ください。「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」

鋳物の神々とは何でしょうか。ここには偶像と言わないで鋳物の神々と言われています。偶像は鋳物の神々のことです。自分の好きな形にかたどり、自分の欲望に合わせて造られた神、それが偶像です。しかし、真の神は違います。真の神は鋳物でかたどって造られたものではなく、私たちを造られた創造主なる神です。私たちのために命を捨てて、私たちを罪から救い出してくださった神、この方こそ真の神なのです。それ以外の神を拝んではなりません。

第三のことは、種を入れないパンの祭りを守らなければならないということです。18節をご覧ください。「あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。」

種を入れないパンの祭りとは、過ぎ越しの祭りに続いて行われた祭りのことです。その祭りを通して、出エジプトの出来事を思い起こし、神に感謝と賛美をささげなければならなかったのです。パン種とは罪を象徴していました。罪のない神の子キリストがあなたのために十字架に掛かって死んでくださることによって、あなたの罪を贖ってくださいました。イスラエルがエジプトから脱出したことを思い出したように、あなたが罪の奴隷から救われたことを思い出す必要があったのです。

第四のことは、19-20節にあります。「最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折る。また、あなたの息子のうち長子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。」

最初に生まれるものはすべて主に捧げなければなりません。なぜなら、最初に胎を開くものはすべて、主のものだからです。彼らの家畜の雄の初子はみな、牛も羊も主にささげなければなりませんでした。「初物」とは最高のもの、ベストなものという意味です。残りものではなく、最初のものを、良いものを、最高のものを主にささげなければなりませんでした。

ただし、ろばの初子は羊で贖われなければなりませんでした。すべての初子は、主のものですが、ろばはきよくない動物であったためいけにえとしてささげることができなかったからです。神はきよくないものを受け入れることができなかったので、贖わなければならなかったのです。それを贖ったのが羊でした。

これはどういうことかというと、私たちと救い主イエス・キリストのことを示しています。私たちはきよくないろばです。そのろばが贖われるためには贖われなければならなかったのですが、それが小羊であられるキリストだったのです。キリストが代わりに死んでくださいました。私たちは罪に汚れたものなので神に受け入れられませんでしたが、その罪を小羊であられたキリストが贖ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠の死に落ちなければなりませんでした。しかし、傷のない小羊がすでに私たちのために血を流し、致命的な律法ののろいから私たちを解放してくださいました。この傷のない小羊に対する私たちの感謝を主にささげようではありませんか。

その後のところをご覧ください。ここには、「だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない」とあります。これはどういうことでしょうか?いつでも主にささげる用意をして、主の前に出るようにということです。私たちが普通主の前に出るのは主に祝福してもらうためだと考えています。それもあります。しかし、もっと大切なのは主にささげることです。私たちは主に賛美をささげ、主に感謝をささげ、主を喜ぶために主のもとに来るのです。だから主の栄光をほめたたえるために、私たちのすべてのものを持って、主の前に出なければならないのです。

第五は、安息日を守ることです。21節をご覧ください。「あなたは、六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。」

安息日を守るように命じられています。それは主を覚えるためです。主の偉大な御業を覚えて礼拝するために、六日間は働き、七日目を休まなければならなかったのです。ところで、ここには「耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」とあります。どういう意味でしょうか。最も忙しい時もということです。猫の手も借りたいような時でもです。そのような時に休むのには信仰が試されます。最も忙しい時にその手を離すことはチャレンジです。しかし、それによってだれが一番重要なのか、何を一番大切にしているのかがわかります。どんなに忙しくても本当に大切な人のためなら時間を取るはずです。それを最優先にするでしょう。何とか時間をやりくりして都合をつけるはずです。それを神のためにするようにということです。そうでないと輝きを失ってしまいます。これは決して律法ではありません。あくまでも私たちが輝くためです。忙しくて教会に行けない。忙しいとは心を亡くすと書きます。それは祝福を失ってしまうことになります。イスラエルで安息日を迎えることは私たちがお正月を迎えるようなものでした。家族そろって喜んで迎えたのです。そのように安息日を迎えなければなりません。

22節の、「小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の代わりには収穫祭を行わなければならない。」とは、「七週の祭り」と「仮庵の祭り」のことです。「七週の祭り」は、別名「ペンテコステ」とも言います。過越の祭りから数えて七週+1日で50日、これをペンテコステと言うのです。この日に何があったか覚えていますか?使徒2章を見ると、この日に聖霊が降臨して教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会が誕生した日です。初穂とは、過越の祭りから最初の日曜日に行われました。これが、主が復活した日です。主は過越しの小羊として十字架で死なれ、三日目によみがえられました。それは死んでも生きるという永遠のいのちの初穂としての復活だったのです。その記念のために七週の祭りを行うのです。教会に集まって主の復活を祝う。これがないと輝きません。なぜなら、クリスチャンには充電が必要だからです。たまにくればいいというものではなく、いつも、週ごとに集まって主の復活を祝い、主を礼拝することで、聖霊に満たされるのです。

それだけではありません。「年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。」とあります。これは仮庵の祭りのことです。かつてイスラエルが荒野で40年間過ごしたことを思い出すために、神が定めてくださったお祭りです。自分たちで作った小屋(キャンプテントのような)で、神がかつてイスラエルを荒野で守ってくださったことを思い出したのです。これは主イエスが再びこの地上に戻って来て、この地上に千年王国を打ち立ててくれることの預言でもあります。そのとき完全に成就します。だから、この仮庵の祭りは、主の再臨を待ち望むことでもあるのです。このように主を待ち続ける人は幸いです。

これが、先の種を入れないパンの祭り(過越しの祭り)と合わせて、イスラエルの三大祭りです。イスラエルには例祭が七つあって、その中でもこの三つの祭りは重要でした。イスラエルの成人男性はみな、主の前に出なければなりませんでした。それが23節で言われていることです。ここで「男子」と言われているのは、男子が義務づけられていれば、妻やこどもたちも自動的に着いてきたからです。イスラエルは年に三度、神の前に出て、これを祝わなければなりませんでした。それはこの世俗から離れ、主の御名の栄光を求めたということです。どんなにこの世にいても自分たちは主のものであって、主に従って歩む民であるということを、このような形で示したのです。それは年に三度そのようにしなければならないということではなく、私たちの心のあり方にとって必要なことでもあります。いつも主の前に出て、主の御顔を仰ぐ者でありたいと思います。特に男性は一家の大黒柱として、いつも主の前に出て、家族の霊的祝福を祈らなければなりません。教会も牧師が主の前に出ないと、教会全体が曇ってしまいます。霊的リーダーとして建てられていることを覚えて、その務めを果たしていかなければならないのです。

24節には、そのように年に三度、主の前に出るために上る間、家も、土地も守られるという約束です。祭りに参加するなら、主があなたの家と土地を守ってくださるのです。

25~26節をご覧ください。ここには、「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンに添えて献げてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

いけにえの血とは、礼拝でささげる血のことです。それを、種を入れたパンに添えて献げてはなりませんでした。なぜなら、種は罪を象徴していたからです。礼拝でささげるものの中に罪が入っていてはならないということです。肉的な思い、自己中心的な思いからではなく、純粋に主を求め、主に礼拝を献げなければなりません。

26節の「最上のもの」とは、十分の一献金のことです。初穂は最上のものでした。それは主のものです。だから、それを主にささげなければならなかったのです。

「子やぎをその母の乳で煮てはならない」というのは、肉と乳製品を一緒に煮てはならないということです。それはカナン人たちの慣習であったからです。彼らは子やぎを母の乳で煮て食べました。それが豊穣の神への礼拝だったのです。だから、それは偶像礼拝を避けよということです。クリスチャンが日本の伝統行事だからといって豆まきをしたり、門松を飾ったり、鏡餅を置いたりしてはなりません。それは悪鬼を追い払う行事として行っていたもので、そのようなものから遠ざかるようにしなければなりません。

27,28節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」モーセはそこに四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」

モーセは四十日四十夜、主とともにいました。彼はパンも食べず、水も飲まずにいたのです。普通は何も食べず、何も飲まないと9日で死んでしまいます。しかし、モーセは四十日四十夜、何も食べず飲みませんでした。主イエスもそうです。モーセは神と会見していたので、何も食べなくても大丈夫だったのです。それでモーセはガリガリになったかというそうではありません。彼の顔は光を放っていました(29)。私たちも主とお会いすると輝きを放ちます。神と会見し、神を礼拝したのに輝かないとしたらどこかおかしいと言えます。それは主と顔と顔とを合わせていなかったことになります。何か考え事をしていたり、全く別の世界にいたり、よからぬ事を考えたりしていると輝くことはありません。しかし、主に向くなら輝きます。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記しました。

Ⅲ.モーセの輝き(29-35)

最後に、29~35節をご覧ください。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。」

モーセが山から降りて来ると、主と話したために顔の肌が輝きを放っていました。モーセは主の栄光を見たために、月が太陽の光を反射させるように、主の栄光を反射させていたのです。モーセ自身はそのことを知りませんでしたが、アロンと、イスラエルの子らはそれを見て、モーセに近づくのを恐れました。それで、モーセは彼らを呼び寄せて、主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。

モーセはイスラエルの民に語り終えたときに、再び顔に覆いをかけました。語っているうちにその輝きが消えていくからです。それが律法の輝きです。Ⅱコリント3:6-18には、それはやがて消え去る栄光とあります。それが律法の輝きです。古い契約は一時的なもので、やがい消え去って行くものです。しかし、新しい契約によってもたらされる栄光は、永遠に消えることがありません。モーセは消え去る栄光を見られまいとして顔に覆いを掛けましたが、福音を信じることによって与えられる御霊の務めとその栄光は決して消え反ることのない輝きです。ですから、モーセが消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けるようなことはしません。それなのに、イスラエルの人々の思いは鈍くなったので、今日に至るまで、そのおおいが取れのけられていません。古い契約が朗読されるときはいつでも、いつでも同じおおいが掛けられているのです。

しかし、人が主に向くなら、おおいは取り除かれます。それはキリストによって取りのけられるものだからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおおいが取のけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。

モーセは「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言いました(33:18)。私たちにとっての最高の喜びは主の栄光にあずかることです。主のご臨在。そのために必要なことは主の恵みとあわれみのご性質に基づいて祈り、主が与えてくださった恵みの契約を行っていくこと。つまり、主に向いて、主のみこころを求めて生きることです。そうすれば、主の御霊が私たちを輝かせてくださるのです。

 

伝道者の書3章16~22節「人は獣にまさっているのか」

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きょうは、伝道者の書3章後半から学びます。前回のところで伝道者は、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある」と語りました。そして、神のなさることのすべてを私たちは見極めることができませんが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のだから、その神にすべてをゆだね、永遠の今を生きることが大切だと言いました。

けれども、その目を一旦日の下に向けると、上向いた伝道者の心がまたダウンします。さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見たからです。それでは獣と同じではないか、人は獣にまさっているのか、まさっていない、と結論付けるのです。皆さん、どうですか、人は獣にまさっているのでしょうか。よく「あの人は動物以下だ」というのを聞くことがありますが、人は動物以下の存在なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。きょうは、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅰ.神のさばき(16-17)

まず、16節と17節ご覧ください。16節、「私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」

神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、神の計画の完全さを述べた伝道者は、ここではそれとは裏腹に、日の下で行われている空しさの一つの事例を取り上げています。それは、さばきにおいて不正が行われているという現実です。この「さばきの場」とは、正義が行使されるはずの法廷のことを指しています。その後の「正義の場」とは、これも「さばきの場」と同じ意味です。ある人(G・A・バートン)はこの「正義の場」を「さばきの場」と区別して、「正しい人の場」、つまり、神との関係においての正しい場のことであると解釈していますが、そういう意味ではありません。むしろ、同じことを、異なった言い方で二度繰り返して強調することによって、正義のみが行使されるはずの法廷において、不正がはびこっているということを訴えているのです。法律が曲げられている。法律が機能していません。そういう社会の現実を見たのです。

17節、「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」

このような社会の矛盾を見て、伝道者は心の中でこう考えました。神は悪者を決して見逃しはしない。いつか正しい人も悪者も裁かれるが、それは人間が考える時ではなく、神が定めた時である。今それがなされないのは、すべての営みと、すべてのわざには、神の時があるからだと。

皆さん、すべての営みには時があります。これは前回のテーマでもありました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」(3:2-8)

神が裁きを行われることにも時があります。たとえ、この地上で不正が見逃されたとしても、最終的に神のさばきがあります。へブル9:27には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。最終的な神はさばきの時に、すべての正しい人と悪しき者の行いを義によってさばかれるのです。世のさばきは正しくなくても、神のさばきは正しく行われます。であれば私たちは、正しくさばかれる神の御前に、しっかりと備えておかなければなりません。どのようにして備えていたら良いのでしょうか。イエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神の子としていただくことです。イエス様を信じる者はさばかれることがありません。

使徒パウロは、ローマ2:16で「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」と言っています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われます。それが明らかにされるのはいつでしょうか。終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、神の義であられるイエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神に喜ばれる歩みを求めて生きなければなりません。

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やすほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは何一つありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼は、自分が望むすべてのものを手に入れることができました。にもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋に幾つもの鍵をかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視していなければなりませんでした。絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも度々ありました。心の孤独と悲しみやつらさに、来る日も来る日も身震いしながら過ごしていたのです。イザヤ48:22に「悪者どもには平安がない」とありますが、彼には平安がなかったのです。これが裁きです。

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまったのです。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったことは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」ということでした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼には平安がありませんでした。

終わりの日に受ける神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対して、明確な解決を持っていない人はみな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

あなたは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられますか。キリストの下に来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何も恐れることはありません。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられ、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、神の怒りと憤りがくだるのです。そのさばきがいつであるかはわかりません。すべての営みと、すべてのわざに、神の時があるからです。しかし、それがいつであっても「備えあれば憂いなし」です。確かな神のさばきに備えて、救い主イエス・キリストを信じ、神の御心に歩もうではありませんか。

Ⅱ.人は獣にまさっているのか(18-21)

次に、18-21節までをご覧ください。18節には、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とあります。

正義の場に不正がはびこり、それが当然のような社会が存在するのはどうしてなのか、伝道者はここでもう一つの理由を述べています。それは、人間を試みて、彼らが獣にすぎないということに気付かせるためです。人間と動物は何ら変わらない、同じだというのです。

皆さん、どう思いますか。輪廻転生を信じている人は、「そのとおり」と言うかもしれませんね。彼らは、死んであの世に行った霊魂は、また生まれ変わってくると信じています。つまり、輪廻と転生を繰り返すと考えているのです。どんな世界に生まれ変わるのかというと、仏教では人の生まれ変わりには、生前の悪行が関連していて、それに応じて六道のいずれかに生まれ落ちると言います。つまり、必ずしもまた人に生まれ変われるとわけではないのです。もしかすると、動物に生まれ変わるかもしれません。「ワン、ワン」、「ニャーン」です。「あら、また会いましたニャン」とか、「元気でしたワン」とか言うのです。

しかし、これはウソです。人間は動物とは全く違います。なぜ伝道者はそのように言っているのでしょうか。19節と20節をご覧ください。ここには、伝道者がそのように言う理由が記されてあります。「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。」

なぜ、人と獣は何ら変わらないのか、伝道者は、その結末が同じだからだと言います。これも死ねば、あれも死ぬ。どちらも同じ所に行きます。すなわち、すべてのものは土から出て、土に帰るからです。つまり、人も獣も、どちらも最終的には死を迎えるということです。

さらに、21節には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」とあります。これは伝道者が死という点では同じだが、その霊の行き着く所は人の子らと獣とでは違うと言っているのではありません。実際にはそのとおりで、人の子らと獣が行くところは違いますが、この時点で伝道者がそのように悟っていたわけではないのです。ここで伝道者が言いたかったことは、「人の子らの霊が上に昇るかどうか、また、獣の霊が下に降りて行くかどうかを、だれが知るだろうか、だれも知らない。」ということです。つまり、人間の行きつくところと獣の行きつくところ、その運命は同じであるということです。それゆえ、人は獣にまさっているのかというとそうではありません。まさっていない。人も獣も同じです。すべては空しいからです。これが、伝道者の結論でした。

けれども、そうでしょうか。注意して見てください。この時、伝道者の信仰はバックスライドしていました。日の下で行われる一切のことを見て、すべては空だと思っていました。この世の何をもってしても自分の心を満たすものがないのを見て、すべてが空しいと感じていたのです。何のために生きているのかがわかりませんでした。人生に失望し、落胆していたのです。信仰によって物事を見ることができませんでした。ですから彼は、この世の人たちと何ら変わらない目しか持っていなかったのです。その目で見たら、人も獣もみな同じでしょう。人が獣よりもまさっているのは何もないと思ったのです。

しかし、そうでしょうか。これは完全に間違っています。もし進化論に立てばそうかもしれません。進化論では、宇宙の起源を物質と考えています。進化論者たちは、宇宙と人間の起源が、水や火、土、空気、原子、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと考えています。ですから、すべては偶然であり、人生や宇宙には何の意味もないということになります。試験管を振ったら偶然にいのちが生まれたというようなものです。すべては偶然なのです。だとしたら、それは空しいことです。

一方、聖書では何と言っているのかというと、聖書は、人間は決して偶然の産物ではなく、神様によって造られたと教えています。神様は天と地と海と、その中に住む一切のものを造られ、最後に人を創造されました。しかし、人はそれまで造られたものとは全く違います。それは、神のかたちに造られたという点です。創世記1:26には、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」とあります。そして、こう仰せられました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)。

神のかたちとして造られたとはどういうことでしょうか。それは霊を持つ者として造られたということです。この霊をもって神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神と交わりを持つためです。そうです、私たち人間は、霊的に造られたのです。私たちは肉体と精神を持っていますが、そればかりではなく、霊を持つ者として創造されました。ですから、どの時代の、どの民族であれ、どんな人でもみな手を合わせて生きてきたのです。それがどういう神であるかは別として、人はみな神を礼拝する者として造られているのです。これが動物とは決定的に違う点です。動物は肉体と本能を持っていますが、この霊を持っていません。これは人間にだけ与えられているものです。皆さん、動物が祈っているのを見たことがありますか。かわいい犬が手を組んで「ワン、ワン」と祈ったり、猫が目を閉じて「ニャン、ニャン」と祈っているのを見たことがあるでしょうか。ないでしょう。もしかると、祈っているのかなと思うような行動をしているのを見たことがあるかもしれませんが、それは単に甘えているか、じゃらけれているだけです。祈っているのではありません。しかし、人はいつの時代でも、どんな人でも、手を合わせます。なぜ?そのように造られているからです。11節には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますね。第三版では、「永遠の思いを与えられた」となっています。人にはそのような思いが与えられているのです。

娘が小学生の時、バスケットボールの試合で青森に行く機会がありました。先生や父兄の方々は飲み会ばかりやっていましたが、あまりおもしろくなかったので、一人で青森市内にある三内丸山遺跡を見に行きました。三内丸山遺跡は、日本最大級の縄文時代の集落跡です。今から約4,000年から~5,000年前の人々はどんな暮らしをしていたのかとても興味がありました。
行ってみると、その集落の真中に大きなやぐらが建っていました。地面に穴を掘って、直径1mもあるクリの木を6本立て、それを組み合わせて作ったものです。高さは15mくらいありました。いったいどうして集落の真中にこんなに大きなやぐらが建てたのかと不思議に思いガイドさんに尋ねてみたら、それはいろいろな用途のために作られたようですが、中でもそこで暮らす人たちが農業の収穫に感謝して、神を礼拝する祭りのために作られたのではないか、と教えてくれました。
今から5,000年も6,000年も前の人たちはすでに、神に祈ることをしていたのです。それは、人は神によってそのように造られているからであり、永遠を思う心が与えられているからです。そのように造られた人によってむしろそれは自然の営みなのです。

ですから、人は死んだら肉体はちりに帰りますが、霊はこれを造られた神に帰るのです。伝道者も、後でこのことに気付きます。12:7に「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。しかし、この時点ではまだそのことに気付いていませんでした。全部一緒じゃないか。人も獣もみんな一緒。すべてのものは土から出て、土に帰る。人が獣にまさっていることなど何もない・・と。

しかし、そうではありません。人は神の計画によって、特別に神のかたちに造られました。そして、やがてその霊は神のもとに帰るのです。ですから、伝道者の「それでは、人は獣にまさっているのか。」という問いに対しては、私たちはこのように答えることができます。「Yes,人は獣にまさっています。神の計画によって、特別に神のかたちに造られたのですから。」決して人の子と獣の結末は同じではありません。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」のです。

であれば私たち人間には、私たちを造られた方、創造者の目的があるはずです。それは何でしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウエストミンスター小教理問答書第一問にはこうあります。
「人のおもな目的は何ですか。」
「人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」

これが私たちに与えられた人生の目的です。この目的に従って生きるとき、私たちの心は真の満たしを受けます。そうでしょ、たとえば、ここにマイクがありますが、このマイクは何のためにあるのかというと、ここで話をする人の声を大きくし、聞きやすくするためです。もしこれが故障していてその役割を果たさなかったら、逆に、ハウリングを起こして使いものにならないとしたら何の意味もありません。同じように、私たちも私たちを造られた創造主なる神の目的に従って生きるとき、すべては空しいのではなく、真の喜びと満足を得ることができるのです。

Ⅲ.だれが、これから後に起こることを見せてくれるか(22)

最後に22節をご覧ください。「私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」

人生の目的がわからなかった伝道者は、ここで一つの結論を見出します。それは、生きているうちに楽しむ以外に良いことはないということです。それにまさる幸いはないと。なぜなら、これから後に起こることを見せてくれる人がいないからです。「これから後に起こること」とは、これから後の将来のことという意味もありますが、むしろ、死後のことを意味しています。人は死んだらどうなるかということです。人は死んだらどうなるかなんてだれもわからないのだから、生きている今を思う存分楽しむしかない、それが人の幸いというものだ、というのです。それが人の受ける分であるからだ。果たしてそうでしょうか。

もしこれから後に起こることがわからなければ、そうかもしれません。この先どうなるのかがわからなければ今を存分に楽しむしかないでしょう。しかし、もしこれから後に起こること、死んだらどうなるのかを見せてくれる人がいるとしたら、そしてそれが真実であると受け止めることができるなら、そのような価値観は一変し、それに備えた生き方をするようになります。そして、「これから後に起こること」を見せてくれることができる方がおられます。だれですか。そうです。死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。

キリストはソロモンよりも偉大な方です。ソロモンは偉大な知恵の持ち主で、シェバの女王がその知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たほどですが、そのソロモンさえわからなかったことを、キリストは知っておられるのです。なぜなら、この方は天から来られた方だからです。ヨハネ3:13には「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来られた者、人の子は別です。」とあります。キリストは天から下って来られました。永遠の神であられるお方が人の姿を取って、この地上に来てくださったのです。ですから、この方は別格です。この方は生も死も、また永遠の世界も、また三位一体の神の関係についても、目に見えない世界のこと、天地創造以前の世界についてもすべてご存知であられました。ソロモンとは比較にならないほどの知恵を持っておられた方なのです。この方は、死からよみがえられました。ですから、これから後こと、すなわち、死後のことまでも完全に知っておられたのです。このような方は他にはいません。確かに、これまで死んで蘇生した人はいます。しかしそのような人たちは、やがてまた死んで行きました。けれども、キリストは死からよみがえられただけでなく、永遠に死ぬことのないからだによみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。

伝道者ソロモンはここで、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」と言っていますが、キリストはこの問いに対する明確な答えをもっておられるのです。私たちはよく「死ぬのが怖い」と言いますが、なぜ怖いのでしょうか。先が見えないからです。死んだらどうなるのかがわかりません。だから怖いと感じるのです。しかし、私たちにはそれを見せてくださる方がいます。だから、私たちは不安に苛まれる必要はありません。恐怖に脅える必要もないのです。イエス・キリストが答えです。神はイエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって、死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

プロテスタントのホーリネス系の団体で日本宣教会という団体がありますが、その創立者の一人で、相田登代という先生がおられました。この方は新潟県の有名な神社の神主の娘でしたが、キリストを信じ、さらに伝道者とて歩まれました。先生はお元気な時に、説教の中で「死を恐れてはなりません。一階から二階に上がるように、私達にとって死は、この地上の住まいから、天の御国に移ることなのです。」と言いました。

すばらしいですね。死は一階から二階に上がるように、この地上の住まいから、天の御国に移ることです。確かに、愛する者との一時的な離別では悲しみが伴いますが、それは永遠の離別ではありません。天に於いて、再び、愛する者と再会します。そして永遠に、喜びと祝福、そして愛に満ちている御国に住むのです。神はイエス・キリストを信じる者にこの永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

私たちはイエス・キリストを通して、この希望を持っているのですから、ここで伝道者ソロモンが言っているようにこの地上で楽しむことがすべてだと言わなくても良いのです。私たちはイエス・キリストによって永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この地上での生涯を、日々神と交わりながら、すべてを神にゆだねて生きていくことができるのです。

Ⅰサムエル記29章

今日は、サムエル記第一29章から学びたいと思います。

Ⅰ.このへブル人たちは、いったい何なのか(1-3)

まず、1-3節をご覧ください。「ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」」

話は再び、ダビデに戻ります。この箇所は、28:2に続くものです。ペリシテ人は全軍をアフェクに終結し、イスラエル人はイズレエルにあるほとりに陣を敷きました。「アフェク」とは、シュネムとイズレエルの間に位置していたと思われる町です。28:4には、ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いたとありますから、ペリシテ人が自分たちの支配地からイスラエルの地にかなり入ったところまで軍を前進させていたことがわかります。また、イスラエルもイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いたとありますから、それまで陣を敷いていたギルボアよりも軍を前進させていたことがわかります。

ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続きました。ペリシテ人の軍勢は、5大都市国家の連合軍から成っていました。各軍には首長(王)がいて、その首長たちによって率いられていましたが、アキシュはその一人で、ガテの王でした。ダビデとその部下は、そのアキシュと一緒にその軍の後に続きました。

すると、それを見た他の首長たちが、「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」と言いました。「ヘブル人」という言い方は、異邦人がイスラエル人を指して言う場合によく使われた呼び方です。これからそのイスラエル人と戦おうとしているのに、どうしてそのイスラエル人が一緒にいるのかといぶかしがったわけです。当然と言えば当然です。途中で寝がえりをされることも考えられるわけですから。

それに対してアキシュは、ペリシテの主張たちに言いました。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

ダビデはサウルの手から逃れるためにアキシュのところで仕えましたが、王と同じところにいるのは畏れ多いと別の町を与えてくれるように願うと、アキシュは彼にツィケラグという町を与えたので、そこに住みました。そこでダビデは、アマレク人やゲゼル人などの町を襲っては、男も女も殺し、その略奪品の一部をアキシュに献納していたので、アキシュはダビデをすっかり信用していました。実際にはダビデが襲った町々はユダの町々ではなく他の町々でしたが、ダビデはアキシュの信頼を勝ち取るために、そのように虚偽の報告をしていたのです。その間、1年4か月です。ここでアキシュは他の首長たちに、「この1,2年、私のところにいる」と言っていますが、それはアキシュが説得力を増すために誇張して言ったことでした。また、「私のところかに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」と言っていることばからも、彼がどれだけダビデを信頼していたかがわかります。

Ⅱ.ペリシテの首長たちの反対 (4-5)

次に、4-5節前半をご覧ください。「ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌っていたダビデではないか。」

しかし、他の4人の首長たちは、アキシュのことばを聞いて、腹を立てました。いくらアキシュに何の過ちを犯していないと言っても、戦いの最中に寝がえりしないとも限りません。自分の主君の好意を得るために、自分たちの首を使うことだって考えられます。何と言っても、この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたあのダビデですから、油断は禁物です。そう釘を刺したのです。どういうことでしょうか。

確かに、ダビデはイスラエル人と戦うつもりはありませんでした。むしろ、この状況からどのように脱出できるかと思案していたことでしょう。ですから、この出来事の背後には、主の御手があったのです。主はこのような方法でダビデが罪を犯すことがないように守ってくださったのです。ダビデは約束の地から離れてしまったために、このような危険な状況を招いてしまいましたが、主はそんな彼を苦しみから解放してくださるために、このペリシテの首長たちの怒りを用いられたのです。これはまさに主が導いたというか、主が引き起こしたことだったのです。

このようなことは私たちの生活の中にもよくあるのではないでしょうか。本当はあそに行く予定だったのに何らの出来事によって行くことができなかったけれども、そのことによって危険から救われたとか、あの時こうしたいと思っていたけども、こういう問題が起こってできなくなってしまったが、そのお陰でこうなったというようなことです。

先週「赦しのちから」という映画を観ました。とてもすばらしい映画です。福音が余すところなく自然に語られています。この映画は、クロスカントリー競技の一人の高校生の少女ハンナのストーリーです。彼女が通う高校はバスケットボール部が強く、州の決勝にも出場するほどの実力がありました。しかし、その町の工場が閉鎖されたことで、その高校に通う多くの生徒が他の地域へ引っ越すことが余儀なくされました。せっかく来年は州で優勝しようと思っていた矢先に部の存続さえ危うくなってしまいました。結局、バスケットボール部は廃部となりコーチのジョンはクロスカントリー競技のコーチになるのですが、部員はたった1人で、喘息持ちの少女でした。それがハンナでした。しかし、彼女もパッとしませんでした。どの大会に出場してもあまり良い成績ではなかったのです。

そんな時、彼が通う教会のメンバーのお見舞いに病院に行った際、隣の部屋に入院していた一人の男性と知り合いました。彼はかつてクロスカントリーで州で3位になったことがある人で、しかし、アルコールやドラッグで人生を台無しにしてしまったこと、今は糖尿病などの合併症で両目の視力を失い、死を待つだけの状態だが、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、すべての罪が赦され、神の子とされて、新しい人生を始めることができたことを聞きました。それでジョンは、彼からクロスカントリーのコーチのやり方を教わるのですが、その時彼は15年前に一人の娘を捨てたことを告げるのです。それが、ハンナでした。ハンナは、祖母から両親は死んだと聞いていたので、そのことを聞いたときとても驚きますが、自分を捨てた父親を赦すことができませんでした。

しかし、ある日彼女は校長先生から、自分がどれほど神に愛された者であるか、そのために神は御子イエス・キリストを与えてくださったことを聞いて、イエス様を信じて心に受け入れたのです。そして、校長のアドバイスにしたがいエペソ書1,2章を読みながら、自分が何者であるかを知るのです。すなわち、自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャンであるということです。彼女は罪が赦されたことを思うと、父を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っている状態でしたが、それを告げたのです。

そして、クロスカントリーの州大会で、ジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それで彼女は州大会で、何と優勝することができたのです。

この映画は、赦しのちからがどれほどの力であるかということを描いていますが、同時に、バスケットボールの廃部によってクロスカントリーという別の道が開かれ、もっとすばらしい神の栄光にあずかることができたジョンの人生をも描いていると思いました。

私が福島に住んでいたとき、家のオーブンが壊れてしまったことがありました。オーブンといっても家のオーブンは小さなものではなく米国製の大きなものでした。家内の料理はオーブンを使うのがほとんどで、オーブンがないととても不便なのです。どこが悪いかとガス屋さんに点検してもらったら、どうもオーブンの裏の配管がネズミにかじられていたようでした。オーブンの裏には断熱材もあるので心地よかったんでしょうね。でもそのお陰でこちらは大変でした。交換するにしてもすぐには手に入らないし、お金もかかります。悪いことにというか、いつもですが、どこにもお金がありませんでした。でもそれがないと仕事になりません。神様、助けてくださいと祈ってもお金が降ってくるわけではないし、八方塞がりでした。しょうがないので生命保険の掛け金から借り入れようとしましたが利子が取られるので、あまり平安がありませんでした。結局、家内を説得して保険会社から借りようと申込書を投函したのですが、いつになっても連絡が来ませんでした。どうしたのかと電話をしても、先方では申込書が届いていないというのです。「おかしいな、ちゃんと送ったのにどうしたんだろう。早くしてください」とお願いしたのですが、それでも手続きが一向に進みませんでした。

そうこうしているうちに、アメリカの教会から連絡がありました。私たちのために献金を送ったので生活のために使ってほしいという内容でした。私たちはそのことをだれにもお話ししていなかったし、その頃はほとんどアメリカの教会からは献金はなかったので不思議に思いましたが、それがちょうど借り入れようとしていた金額と同じだったのです。

それですぐに保険会社に電話をして、借り入れが不要になった旨を伝えました。先方では申込書が届いていたのですが担当者のミスで見落としていたということでしたが、実はそうではなく、私たちが借り入れをしなくてもいいように、神が手続きを遅らせておられたのです。手続きがスムーズに進んでいたら手数料が取られていたでしょし、それを解約するにも手間がかかったことでしょう。しかし、そういうことがないように、担当者の方が見落としてくれるように導いてくださったのです。

日々の生活の中で、このように主の御手を見ることができる人は幸いです。私たちはどうしようもない時でも主に祈り、主がその中に働いていてくださることを信じて、主の解決、主の助け、主の導きを待ち望みたいと思います。

Ⅲ.ダビデの演技(6-11)

最後に、6-11節をご覧ください。「そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが『彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。」ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」

そこでアキシュは、ダビデを呼んで事情を説明します。なぜ彼を戦いに連れていかないのかを。まず彼は、ダビデがどれほど真実な者であるのかを認め、自分と一緒に戦いに来てほしかった思いを伝えます。ここで彼は、「主は生きておられます」と、ダビデの神の名、イスラエルの神の名を呼んでいます。それはアキシュが誠実に事態を伝えようとしていたからです。

しかし、ペリシテの他の領主たちがダビデのことを快く思いませんでした。自分がどんなに彼を連れて行きたくても、彼らがそのように思わない以上、ダビデを連れていくことはできません。したがって、このまま穏やかにツィケラグに帰ってほしいということでした。ツィケラグは、アキシュによって与えられた町でした。「穏やかに」とは、他の領主たちを起こらせないでということです。気持ちはわかるが、ここであれやこれやと言って波風を立てるようなことをしないでほしい。このまま静かに帰ってほしいということです。

それに対してダビデはどうしましたか。ダビデは、「私が何をしたというので、王の敵と戦うために出陣できないのか」(8)と、食ってかかります。内心は「ああ、助かった」とほっとしたはずですが、アキシュに対しては、いっしょに行けないのは心外であると答えたのです。ものすごい演技力ですね。彼は、おそらく最高の役者にも慣れたのではかと思うくらい、良いしもべを演じきりました。

それを聞いたアキシュはどうしたでしょうか。彼は、ダビデの演技が偽りであることにも気付かず、彼の忠誠心がどれほど正しいものであるかをよく知っていると勘違いして、でも、ペリシテの首長たちが反対している以上、連れて行くわけにはいかないので、自分の家来たちと、翌朝早く、明るくなり次第出発するように命じました。かくしてダビデは、自分で努力することなく、板挟みから解放されました。ペリシテ人たちの異議申し立てによって、ダビデはそこから解放されたのです。彼を戦いから解放することは主のみこころだったのです。それは神のあわれみによるものでした。

私たちの人生においても、主は同じように働いてくださいます。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)あなたの人生にも脱出の道も備えていてくださると信じて、ますます主に信頼しましょう。

出エジプト記33章

出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

伝道者の書3章1~15節「すべての営みに時がある」

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きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時は、神が決めた時があるのです。それを誤る徒、神の恵みを逃してしまうことになります。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられていました。収穫のために、適切な収穫の時を与えてくださった主に感謝しました。

3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」
「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みや悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。

また、古くなったものを取り壊し、そこに新しいものを建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりであればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うようなことがあっても、その中にも必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」
「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。

「抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある」とは、愛を表現する時とそうでない時があるということです。抱擁をやめる時とは、愛すべき人と死別して抱擁したくてもできない時か、あるいは、抱擁をやめることによって愛を示さない時のことを言っていると思われます。それは不道徳の場合の時などです。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。

また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」
「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。

黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。
「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。
私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。
あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。
あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。
これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。
そうです、主イエスよ、来てください!」
(「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:國井 健宏

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんだとしても空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノーストリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。
「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」
本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。私たちは神の一方的な恵みによって、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われたのであって、その神に感謝し、喜んで主に仕えるのです。これが福音です。

また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければならないのです。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。

Ⅰサムエル記28章

今日は、サムエル記第一28章から学びたいと思います。

Ⅰ.アキシュの護衛に任命されたダビデ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を召集した。アキシュはダビデに言った。「承知してもらいたい。あなたと、あなたの部下は、私と一緒に出陣することになっている。」ダビデはアキシュに言った。「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「では、あなたをいつまでも、私の護衛に任命しておこう。」

「そのころ」とは、前回見たように、ダビデがガテ王アキシュのところに身を寄せていたころです。ダビデはサウルを恐れ、ペリシテ人の地に逃れていました。その間約1年4か月、ダビデはアキシュから信頼してもらうために、「今日は、ユダのネゲブを襲いました」とか、「今日は、エラフメエル人のネゲブを襲いました」とか、虚偽の報告をしていました。実際には、イスラエルの町を襲うようなことはしていませんでした。

しかし、そんなダビデにとって困ったことが起こりました。ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして、軍隊を招集したのです。アキシュがダビデに、自分と一緒に出陣してほしいと言うと、ダビデはあいまいな返答をしました。「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」と表面ではアキシュに従っているかのように装いながら、心の中では「どうしたら良いものか」と悩んでいたのです。アキシュの要請を断れば、自分のいのちが危うくなります。かといって、イスラエルと戦うことなど、決してできません。どうしたらいいかわかりませんでした。身から出た錆です。彼は神のみこころに背き、自分の判断によってペリシテ人の地に逃れてきました。そのつけが回ってきたのです。アキシュは、ダビデの答えを自分に都合が良いように解釈し、彼を護衛に任じました。この話は29章に続きます。ですから、その後どうなったかについては、29章で学びたいと思います。

Ⅱ.霊媒する女(3-19)

次に、3-8節前半をご覧ください。「サムエルはすでに死に、全イスラエルは彼のために悼み悲しみ、彼を彼の町ラマに葬っていた。一方、サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた。ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いた。サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた。サウルは【主】に伺ったが、【主】は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家来たちに言った。「霊媒をする女を探して来い。私が彼女のところに行って、彼女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。サウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れて行った。彼らは夜、女のところにやって来た。」

ペリシテ人は集まってシュネムに来て陣を敷きました。シュネムは、カルメル山から東方に約24㎞、ガリラヤ湖の南西約30㎞にある町です。一方、サウルは、シュネムの南にあるギルボア山に陣を敷きました。ギルボア山は、イズレエルの南東にある位置518mの山です。彼らはイズレエルを挟んでにらみあっていたわけですが、サウルはペリシテの陣営を見て非常に恐れ、その心は激しく震えました。圧倒的な数の兵士がいたからでしょう。サウルはどうしたら良いかわかりませんでした。サムエルはすでに死んでいました。そこで彼は主に伺いましたが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者たちによってもお答えになりませんでした。それもそのはずです。神のみこころに背き、自分のことだけを考えてダビデを殺そうとしたのですから。御霊の導きや、神の御声など聞こえるわけがありません。

そこでサウルは、とんでもない行動に出ました。何と霊媒をする女を探させたのです。霊媒とは、死人の霊を呼び出して未来の出来事や、ものごとの吉凶を語らせることです。霊媒はモーセの律法によって禁じられていました(レビ記19:31、申命記18:11)。霊媒や口寄せがいるなら、男でも女でも、必ず殺されなければなりませんでした(申命記20:27)。それでサウルは、国内から霊媒や口寄せを追い出していたのです。それなのに今、自分が国内から追い出したその霊媒をする女を探しに行かせたのです。

すると家来たちはエン・ドルに霊媒をする女を見つけました。そこでサウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れてエン・ドルに行きました。ちょっと前には主に伺ったかと思ったら、今度は霊媒です。結局のところ、彼の信仰とはうわべだけのもので、自分のために神を利用する信仰だったのです。そのような者の祈りに主が応えるはずがありません。

私たちも、ややもするとサウルのように自分に都合のいい神を求めていることがあるのではないでしょうか。ですから、物事が自分の思うように進んでいる時にはあたかも神に信頼しているかのように見えても、そうでないと手のひらを返したような言動をとってしまうのです。実際には神に従っているのではなく、自分に神を従わせているのです。神は、それのような者の祈りに答えられません。私たちは神を利用するのではなく、神を愛し神に従う者でありたいと思います。

8節後半から14節をご覧ください。「彼らは夜、女のところにやって来た。サウルは言った。「私のために霊媒によって占い、私のために、私が言う人を呼び出してもらいたい。」女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちに罠をかけて、私を殺そうとするのですか。」サウルは【主】にかけて彼女に誓って言った。「【主】は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「私のために、サムエルを呼び出してもらいたい。」女はサムエルを見て大声で叫んだ。女はサウルに言った。「あなたはなぜ、私をだましたのですか。あなたはサウルですね。」王は彼女に言った。「恐れることはない。何を見たのか。」女はサウルに言った。「神々しい方が地から上って来るのを見ました。」サウルは彼女に尋ねた。「どのような姿をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることが分かって、地にひれ伏し、拝した。」

そこでサウルは変装し、夜の間に、すなわち、誰にも気づかれないように女の下に行きました。そして、霊媒によって、自分が言う人を呼び出してもらいたいと頼みました。女は、自分が罠をかけられているのではないかと警戒していましたが、サウルが主にかけて誓ったので、彼の願いを受け入れることにしました。

彼女が、「だれを呼び出しましょうか。」と言うと、サウルは「サムエルを呼び出してもらいたい」と言いました。それで彼女がサムエルを呼び出すと、彼女は驚いてしまいました。本物のサムエルが出てきたからです。どういうことでしょうか。霊媒師は死者の霊を呼び出してその霊と交信しますが、霊媒師が呼び出しているのは、死者を装った悪霊です。ですから、霊媒師とは、霊媒の霊が宿る者のことを言うわけです。しかし、ここでは、通常では起こり得ない事が起こりました。本物のサムエルの霊が出てきたのです。女は驚いて、大声で叫びました。また、彼女は依頼人がサウルであることに気付き、「あなたはなぜ、私をだましたのですか。」と言いました。まさか目の前にいる人物がサウル本人であるとはな考えられなかったのです。サウルはかつてこの国から霊媒や口寄せをみな追い出した本人ですから。

驚きを隠し得ない女にサウルが、「恐れることはない。何が見えるか」と尋ねると、「神々しい方が、地から上って来るのを見ました。」と答えました。「神々しい方」とは、サムエルのことです。「地から上ってくる」とあるのは、旧約時代において聖徒はみな「よみ(シェオール)」にくだり、天に入ることを待っている状態だったからです。「シェオール」とは、死んだ者すべてが行く場所で、最終的な神のさばきを待っている所です。イエス様がこの世に来られ十字架で死なれよみにくだられたとありますが、その時、よみにいた神を信じた聖徒たちを天に上げられました。ですから、ここではまだ地から出てきたのです。サウルは、サムエルが生きていたときには、その助言に従おうとしませんでしたが、サムエルが死ぬと、律法の掟を破ってまでサムエルと語ろうとしたのです。全く「あまのじゃく」です。私たちもサウルのようにならないように気を付けましょう。主に従うのは「いつか」ではなく「今」なのです。

サウルは、その人がサムエルであることに気付き、地にひれ伏して拝みました。霊媒師によって現れたサムエルは何と言ったでしょうか。15-19節をご覧ください。「サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。【主】はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。【主】は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。【主】は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あなたが【主】の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、【主】は今日、このことをあなたにされたのだ。【主】は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。【主】は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」」

こうした霊媒師の働きの背後には悪霊の働きがあり、悪霊が霊媒師に入り、死者のふりをして語るのですが、ここでは本物のサムエルの霊が現われて語りました。これは神の働きによるものです。サムエルはサウルに「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」と言いました。先ほども申し上げたように、旧約聖書の時代には、人は死ぬとみな「よみ」に行きました。そこは、聖徒たちが行くところと悪人たちが行くところに分けられていました。聖徒たちが行くところは神がともにいる平安な場所だったのでしょう。サムエルはそこから呼び出されたものですから、「なぜ私を煩わせるのか」と抗議したのです。

それでサウルは、自分が困りきっていることを説明します。ペリシテ人が攻めて来ているのに、神が預言者によっても、夢によっても、自分に答えてくださらないので、自分はどうすればよいのかを教えてもらうために呼んだのだと。

それに対してサムエルは、確かに主は彼から去られたこと、そして、主はサムエルを通して語られたように、サウルから王位をはぎ取って、ダビデに与えられたことを告げます。それはなぜか。サウルが主の御声に聞き従わなかったからです。ここでは具体的に一つの事例が取り上げられています。それは主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったことです。これは15章にあった出来事です。主はサウルにアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、サウルは、アマレクの王アガクと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのです(Ⅰサムエル15:9)。彼は主の命令に従うふりをしながら、結局は、自分の思いを優先させました。それゆえ主は、イスラエルと一緒にサウルとサウルの息子たちを、明日、ペリシテ人の手に渡されると宣言されたのです。

サムエルが生きていた時にはその助言をひたすら無視し続けてきたサウルでしたが、サムエルが死ぬと熱心にその助言を求めるようになります。しかし、サウルが受けた助言は助言どころか、自分の死を予告するおそろしい神からのさばきの宣告でした。神のさばきは、ある日突然びっくりするようなかたちでやって来るのではありません。日々の生活の中で、神は私たちに語りかけ、悔い改めを迫っておられます。それなのにそれを無視し続けるとしたら、そこに神のさばきがくだるのは当然のことではないでしょうか。日々の生活の中で主の御声を聞き、それに応答して悔い改めて主のみもとに立ち返りたいと思います。

Ⅲ.悔い改めるのに遅すぎることはない(20-25)

最後に、20-25節をご覧ください。「すると、サウルはただちに地面に倒れて棒のようになり、サムエルのことばにおびえた。しかも、その日一昼夜、何も食べていなかったので、力は失せていた。女はサウルのところに来て、サウルが非常におじ惑っているのを見て彼に言った。「あなたのはしためは、あなたが言われたことに聞き従いました。私はいのちをかけて、あなたが言われたことばに従いました。今度はあなたが、このはしためが申し上げることをお聞きください。パンを少し差し上げます。それをお食べください。お帰りのとき、元気になられるでしょう。」サウルはこれを断って、「食べたくない」と言った。しかし、彼の家来も女もしきりに勧めたので、サウルはその言うことを聞き入れて地面から立ち上がり、床の上に座った。女の家に肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、また、小麦粉を取って練り、種なしパンを焼いた。それをサウルと家来たちの前に差し出すと、彼らは食べた。そしてその夜、彼らは立ち去った。」

すると、サウルはサムエルのことばにおびえ、地面に倒れて棒のようになりました。しかも、その日一日何も食べていなかったので、力は失せてしまいました。それを見た霊媒の女は、再びサウルのもとに来て、彼に食事を取らせました。彼女が食事を用意したのは、サウルの哀れな姿を見てかわいそうに思ったからでしょう。しかしそればかりでなく、彼女自身のためでもありました。もしサウルが彼女の家で死んだとなれば、彼女は霊媒をしたことを追及され、死刑にされてしまうからです。

サウルは初めこれを断わり「食べたくない」と言いましたが、彼の家来もしきりに勧めたので、彼らの言うことを聞き入れて食べることにしました。それは肥えた子牛と種なしパンという豪華なものでした。サウルとその家来たちはそれを食べて元気になり、その夜戦場へと立ち去って行きました。

サウルは、自分が死ぬという神からの宣告を聞いておびえて地面に倒れ、棒のようになりましたが、彼は悔い改めることも、神のあわれみを求めることもしませんでした。彼は最後まで利己的な人間でした。もし彼が悔い改めて神に立ち返っていたらどうなっていたでしょう。もしかしたら、事態は変わっていたかもしれません。彼の生涯はそういうことの繰り返しでした。神は、どんな罪人の祈りでも聞いてくださいます。十字架の上で主イエスに赦しを求めた罪人は、「きょう、あなたは私とともにパラダイスにいます。」との罪の赦しの宣言を受けました。最後まで神のあわれみにすがり、熱心に悔い改めましょう。愛と恵みに富んだ神は、必ずその祈りを聞いて赦してくださいます。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神ょ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
悔い改めるのに遅すぎることはありません。もしあなたが神の御声を聞くならその時が、あなたが悔い改める時なのです。

 

伝道者の書2章12~26節「神のみこころのままに」

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伝道者の書から学んでおります。きょうは、2章後半の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者ソロモンは、日の下で行われるすべてのことを見て、そこに何の益も見出すことができないと、「空の空。すべては空」と言いました。たとえば、この自然界を見てもそうです。一つの時代が去り、次の時代が来ますが、地はいつまでも変わることがありません。日は昇り、日は沈み、また、元の昇るとこへと帰ってきます。風は南に吹いたかと思うと、巡り巡って北に吹きますが、結局のところ、巡る道に帰って来ます。川はみな海に流れ込みますが、また元の場所に戻ってきます。つまり、同じことを繰り返しているだけなのです。

私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生も、もっと何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、昔からすでにあったものにすぎません。

そこで伝道者は、日の下に何か益になるものはないかと探究します。彼はまず、知恵と知識を得ました。しかし皮肉なことに、知恵が多くなると悩みも多くなり、知識が増すと苛立ちも増しました。

次に試してみたのは、笑いと快楽でした。しかし、それもまた、空しいものでした。

それでは、事業を拡張したらどうでしょうか。そこで彼は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果実を植えました。木の茂った森を潤すために、いくつもの池も造りました。たくさんの男女の奴隷を得、多くの牛や羊、金、銀、財宝を集めました。毎晩有名なエンターテーナーを招き、ショーを催しました。人の子らの快楽である、多くの女性も手に入れました。彼は心の赴くままに、あらゆることを楽しみましたが、すべては空しく風を追うようなものでした。日の下には何一つ益になるものはなかったのです。

これが私たちの人生です。日の下でどんなに労苦しても、それらのものは私たちの人生に何の益ももたらしません。あの人はいいなぁ、あんたにお金持ちで、あんな豪邸に住んで、優秀な家族がいて、社会的にも地位があって、どんなに幸せなんだろうと思うことがありますが、そうでもないということです。日の下で、神様の抜きの生活は、たとえ心の赴くままに、あらゆることを楽しんだとしても、実に空しいのです。風を追うようなものなのです。それでは、どうしたらいいのでしょうか。ソロモンは、さらに二つのことに着目してその解決を求めます。

Ⅰ.知恵の空しさ(12-17)

まず、知恵です。12節から17節までをご覧ください。14節までをお読みします。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」

伝道者が行ったさまざまな探究は、空しい結果に終わりました。そこで彼は、次に知恵ある生き方と愚かな生き方を比較し、どちらの方が優れているかを探ろうとしました。その結果は、彼の跡を継ぐ後継者たちにも伝えられます。なぜなら、後継者たちがこれ以上のことを発見することはないからです。1:9に、日の下には新しいものは一つもないとあったように、「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは前の時代にすでにあったものにすぎません。ですから、彼の後継者たちが、これ以上のものを発見することはありません。

そして、わかったことは何ですか。知恵は愚かさに勝っているということです。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっています。当たり前と言えば当たり前のことですが、14節には、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。知恵のある者は頭に角があるのではなく目があります。これはどういうことかというと、先が見通せるということです。将来の具体的な人生設計まで描くことができます。しかし、愚かな者はそれができません。愚かな者は闇の中を歩くからです。闇の中を歩く者は、心が盲目なので先を見ることができないのです。だから、闇の中を歩くしかありません。

しかし、です。確かに知恵のある者は愚かな者にまさっています。しかし、両者の結末はどうでしょうか。同じ結末に行き着きます。同じ結末とは、死ぬということです。どんなに知恵があっても、あるいは愚かであっても、結局のところ、どちらも死ぬわけです。死ぬときは何も持って行くことができません。よく言われますよね。「あなた、どんなに稼いだって、死ぬときは何も持っていけないのよ。」人は皆裸で生まれ、裸で死んで行きます。どんなに棺桶の中にいろいろな物を入れたとしても、すべて焼かれて無くなってしまいます。あの世には何も持っていくことはできないのです。どんなに知恵があっても・・。

そこで伝道者は何を思うのでしょうか。15節をご覧ください。「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」

伝道者はこう考えます。もし自分も愚かな者と同じ結末を迎えるのであれば、なぜ、知恵を追及する必要があるのか。死の現実を考えると、生涯をかけて知恵を追及することに、いったい何の意味があるというのでしょう。これもまた空しいことです。

16-17節を見てください。「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはありません。どんなに有名な人でも、ノーベル賞を取るような偉大な人でも、死んでしまうと、いつかは忘れられてしまいます。悲しいですね。
「大田原キリスト教会の牧師、だれだったか覚えている。」
「ええと、大橋富男という人じゃない。」
「あっ、そう」
「だれ、それ?」
こんな感じです。でも、これが現実です。すぐに忘れ去られてしまいます。

その現実を悟った伝道者は何と言っていますか。「私は生きていることを憎んだ。」と言っています。生きていること自体を憎むようになりました。最近、テレビのドラマで俳優の三浦春馬さんを見ることがあります。亡くなる前に収録されたのでしょう。番組の終わりには、「三浦春馬さんは・・お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。」というテロップが流れます。生前の三浦春馬さんのお顔を見ながら、いったいどんなお気持ちだったんだろうと思います。つい最近も、私の好きな女優さんで竹内結子さんが亡くなりました。詳しい事情はわかりませが、もしかしたら、この伝道者と同じような気持ちだったのかもしれません。伝道者は、「日の下で行われるわざは、私にとってわざわいだからだ。」と言っています。すべては空しく、風を追うようなものだったのです。

人生を真剣に考えれば考えるほど、同じような結論に達するのではないでしょうか。死という現実の前に、私たちは何の成す術もありません。この伝道者の絶望は、私たち現代人の絶望でもあります。日の下でどんなに労苦しても、それが人にとっていったい何の益になるでしょうか。すべては空しく、風を追うようなものです。私たちの人生は、この地上生涯を越えたところに生きる目標を持たない限り、何の希望も見出せず、空しいままで終わってしまうのです。

Ⅱ.労苦のむなしさ(18-23)

次に伝道者が着目したのは「労苦」です。18~19節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を憎みました。なぜでしょうか。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからです。なぜそれが問題なのでしょうか。立派なことじゃないですか。そうです、立派なことです。跡を継ぐ者のために自分が労苦して残してあげる。立派なことです。問題はその跡を継ぐ者がどういう者であるかがわからないことです。その者が知者なのか、それとも愚かな者なのか、だれも知ることができません。その知らない者が、自分が骨折り、知恵を使って築いてきた財産を、支配するようになるのです。

事実、ソロモンの後継者はレハブアムという息子でしたが、彼は本当に愚かな者でした。ソロモンが築いた国の繁栄と栄華を、国家を二分させることで台無しにしたからです。彼については列王記第一12:6以降に記されてありますが、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちの助言を受け入れてイスラエルの民のくびきを重くしたため、結局、国が二分されることになってしまいました。そしてそれ以降、北はアッシリア帝国に、南はバビロニア帝国に捕囚され衰退の一途をたどることになりました。ソロモンが建てたエルサレムの神殿も破壊されてしまいます。日本でも、初代起こして、二代目まずまず、三代目につぶれるということを耳にすることがありますが、自分の跡を継ぐ者がどういう者であるかが、企業においても、教会においても、非常に重要なことです。しかし、それがどういう者なのかが分からないのです。ソロモンの場合は、自分のすぐ下、二代目でつぶれました。イスラエル王国はダビデによって盤石なものとされ、ソロモンによって黄金期を迎えましたが、三代目のレハブアムの時に衰退の一途をたどることになったのです。ですから、自分がどんなに汗水たらして一生懸命働き、立派なものを残したとしても、それを継ぐ者がそれをちゃんと使ってくれるかというと、その保証はありません。これはまた空しいことです。そういう目的のために労苦することも空しいことです。せっかく努力して築き上げたものが台無しにされてしまうのですから。逆に、そうしたものが仇になってしまうことさえあります。こうやって見ると、聖書って非常に現実的ですね。

20~21節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望しました。21節には、「これもまた空しく、大いに悪しきことだ」とあります。「大いに悪しきことだ」は、第三班では「非常に悪いことだ」と訳されています。これが悲観主義の根底にあるものです。「非常に悪い」という感情に支配されることです。非常に悪いという感情に支配されますと、悲観的になってしまいます。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないとしたら、そして、その築き上げたものが台無しにされてしまうとしたら、いったい労苦そのものに何の意味があるというのでしょう。何もありません。これもまた空しいことです。最悪です。

それゆえ伝道者は、この労苦について次のように結論しました。22~23節です。ご一緒に読みましょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」

日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何の意味もありません。その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休めないのです。なかなか眠れません。どうですか、皆さん、共感するところがあるのではないでしょうか。毎日、朝から晩まで働いても、その労苦と思い煩いは、いったい何なのでしょうか。そう考えると早く退職して、自分の好きなことでもして、ゆっくりと過ごしたいと思うのもわかります。やっとその歳になったかと思ったら、病気にかかって死んでしまうということも少なくありません。そうであるなら、日の下だけを見て労苦することがどんなに空しく、悲しいことであるかがわかります。そこには絶望しかありません。

しかし、私たちは日の下だけではなく、日の上があることを知っています。そして、日の下での私たちの労苦はその日の上でのためであり、そこでもたらされる報いにつながるものであるということを知っているのです。Ⅰコリント15:58には、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」とあります。「ですから」とは、私たちは、一瞬のうちに変えられるのですから、という意味です。すなわち、終わりのラッパが鳴るとき、死者は朽ちないからだ、栄光のからだ、霊のからだによみがえるからです。そのとき、「死は勝利に呑まれた」と記されたみことばが実現します。そうです、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利と希望を与えてくださいました。「ですから」です。この死に対する勝利、永遠の希望が与えられている人にとって、日の下での私たちの労苦は決して無駄ではありません。確かにどんなに労苦しても、人は死ななければならない存在であることを思うと、この地上での労苦に何の意味も見出せないかもしれませんが、しかし、日の下での労苦が日の上に続くものであることを知るなら、それは決して無駄ではないことがわかるのです。この地上で主に対して行われた労苦が、天の上でもたらされる報いから漏れることがないということを思うとき、むしろ、喜んで主のわざに励むことができるのです。

Ⅲ.神のみこころを求めて(24-26)

ですから、第三のことは、神のみこころを求めて生きましょうということです。24~26節をご覧ください。「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

「食べたり、飲んだりして」とは、ただいのちをつなぐだけの人生のことです。人には、食べたり飲んだりして自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがありません。しかし、そのようにすることもまた、神の御手によるのです。つまり、それもまた神の恵みによるのであって、神を除外してはあり得ないことなのです。実に神から離れては、だれも食べだれも楽しむことはできません。イエス様はマタイ6:34で、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」と言われました。明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。だれが、明日どうなるかを知っているでしょうか。私たちは、しばらくの間現れてすぐに消えてしまう霧にすぎません。であれば、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをとよう」と言うべきではないでしょうか。ヤコブは、彼の手紙の中でそのように勧めています(ヤコブ4:13-15)。それなのに私たちは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言うのです。これは、神を無視して富だけを追及する罪人たちへの警告であります。罪人は神を無視して富だけを追い求めるので、日毎に与えられる糧にさえ満足できないのです。使徒パウロは言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

それゆえ、伝道者の結論は何かというと、26節です。ご一緒に読みたいと思います。「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

神のみこころにかなう生き方をする人には知恵と知識と喜びが与えられるが、罪人には労苦の人生が与えられることになります。この伝道者の書のことばで言うなら、こういうことです。12:13-14、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

あなたはどうですか。食べること、飲むことに執着するあまり、それを豊かに与えておられる神に目を向けているでしょうか。

リビングライフのエッセイに、韓国のイ・チェチョルさんの証があります。ハンさんという聖徒が日曜日に礼拝をささげるために子どもたちと一緒にタクシーに乗りました。料金を払おうとして1万ウォンを出すと、運転手はおつりがないと言いました。ハンさんは子どもたちから小銭を借りて支払いましたが、その運転手から1万ウォンを返してもらっていないことに気付きました。しかし、手遅れでした。タクシーはもう行ってしまったのです。ハンさんは不愉快になりました。しかし、その瞬間「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)とのみことばが思い浮かび、「神様がお金に対する執着を捨てる訓練をさせてくれているのだ」と悟り、心が平安になりました。
子どもから借りたお金を返そうと近所の店で両替していると、子どもが叫びました。「お母さん!さっきタクシーのおじさんが、道の向こう側から窓の外に1万ウォンを振りながら小道に入って行ったよ。行ってみよう。」
しかし、ハンさんは次のように答えました。「いいのよ。あのおじさんは、あのお金を受け取る価値がある人なの。あの1万ウォンよりももっと大切な平安をお母さんにくれたんだから。」そして道を歩きながら心の中で祈りました。「イエス様、もしあの人がイエス様のことを知らないなら、きょうをきっかけに主を信じて、この平安が与えられますように。」

すごいですね。生活のすべてに主が生きて働いています。「主のみこころなら、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というみことばに生きておられます。これこそ、伝道者が見出した結論でした。

あなたはどうですか。人は、神から離れては真の幸福を得ることはできません。それがなかったら、すべてが空しいだけでなく、絶望的な人生となってしまいます。しかし、神を恐れ、神とともに生きるなら、そこに感謝と喜びと平安が溢れるようになります。実に、人の幸せは神の御手にかかっているのです。神が恵みを施してくださらない限り、私たちは生きることがでないのです。神を喜ぶ人、神を喜ばせる人、神を第一にして生きる人に、神はこの世の知らない平和と喜びとあらゆる恵みを与えてくださいます。人の手ではなく、神の御手によるものが、私たちを幸せにするのです。