Ⅱサムエル記24章

 サムエル記も最後の章を迎えました。これまでサムエル記第一、第二と学んできましたが、きょうはサムエル記第二の24章を学びます。

 Ⅰ.人口調査の罪(1-9)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。2 王はともにいた軍の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、私に民の数を知らせよ。」3 ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王の目が、親しくこれをご覧になりますように。ところで、わが主、王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」4 しかし、ヨアブと軍の高官たちへの王のことばは激しかった。ヨアブと軍の高官たちは、イスラエルの民を登録するために王の前から出て行った。5 彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真ん中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、6 ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。7 そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町に行き、ユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに至った。8 彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。9 ヨアブは兵の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。」

1節には「再び主の怒りが燃え上がった」とあります。「再び」というのは、21章で見たように、サウルとその一族がギブオン人たちを殺戮したことが原因で、3年もの間飢饉が続いた出来事のことでしょう。イスラエルに再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり」ました。それは、ダビデがイスラエルとユダの人口を数えたからです。並行箇所のⅠ歴代誌21章1節をみると、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした、とあります。これはサタンの誘惑だったのです。イスラエルの人口を数えることがなぜ問題だったのでしょうか。人口を調査すること自体は問題ではありませんが、その動機が問題でした。それは自分の力を誇ろうとする罪です。自分にはこれだけの数の民がいるのだと誇り、神から栄光を奪おうとしたのです。教会も注意しなければなりません。私たちの教会の週報にも前の週の出席者数を書いていますが、もしそれがダビデと同じような動機からであるなら問題です。幸いにも私たちが載せているのは単に祈りと記録のためです。全く誇れるような人数ではないので特に問題にはならないと思いますが。でも注意しなければなりません。

それが間違った動機から出たことであることは、3節のヨアブのことばからもわかります。ヨアブはダビデからダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、その数を自分に知られるようにと命じられたき、不安を感じ、実行をためらいました。そしてダビデにこう言っています。「王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」主が民を増し加えてくださるのに、なぜあなたは、あたかも民を自分の手中に入れるようなことをされるのですか、というのです。ダビデは、自分のプライドを満たすため人口調査をさせようとしていたのです。

しかし、ダビデのことばは激しかったので、ヨアブと軍の高官たちはその調査に着手しましました。彼らはヨルダン川を渡ってガドに行き、そこからちょうど時計と反対周りでイスラエル全土を東西南北に巡りました。そして9か月と20日の後にエルサレムに帰って来ると、兵の登録人数をダビデに報告しました。それによると、イスラエルには剣を使う兵士が80万人、ユダには50万人いました。合計130万人です。剣を使う兵士だけで130万人もいたということは、イスラエル全体では600万人くらいいたのではないかと思われます。ダビデは600万の王国の王様です。どれほどご満悦であったかと思います。しかし、それは主の怒りを引き起こす大きな罪でした。

自分にとって重大な罪ではないようなものでも、神の目には重大な罪であることが往々にしてあります。本人が気づかなくても、周りの人が気づく場合もあります。時には、信者でない人でさえ気づくこともあります。ヨアブたちは、ダビデよりも霊的には弱い者たちでしたが、そんな彼らでも、「なぜこのようなことを望まれるのですか」と言うほどのことだったのに、ダビデ本人にはわかりませんでした。私たちは自分で正しいと思っていてもそれが罪であることにさえ気づかないことがあります。それゆえ、自分の中にプライドや誇りといった罪はないかどうかを吟味し、常に謙虚になって周りの人たちの声に耳を傾ける必要があります。

 Ⅱ.ダビデの罪の結果(10-19)

その結果、どうなったでしょうか。次に10~19節までをご覧ください。「10 ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」11 朝ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。12 「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」15 主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下された。ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。16 御使いは、エルサレムを滅ぼそうと手を伸ばした。主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼす御使いに言われた。「もう十分だ。手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場の傍らにいた。17 ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「ご覧ください。この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。」18 その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」19 ダビデは、ガドのことばにしたがって、主が命じられたとおりに上って行った。」

ダビデのすばらしい点は、このような過ちを犯した時、すぐにそれを悔い改めた点です。ダビデは、民を数えた後で良心のとがめを感じました。そしてすぐに罪を告白し、悔い改めました。彼は主に言いました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

すると翌朝、先見者ガドが、主のことばを告げるためにダビデのところにやって来ました。彼は、主からの懲罰として三つの可能性があることを告げます。何でしょうか。一つは7年間の飢饉です。二つ目は3か月間の敗走、敵の前から敗走することですね、そして三つ目は、3日間の疫病です。一つ目の7年間の飢饉ですが、これは脚注にあるように「3年間」の間違いではないかと考える人もいます。というのは、他が3か月の敗走と、3日間の疫病とあるので、これも3年間の飢饉のことではないかというのです。他かに3年間の飢饉、3か月の敗走、3日間の疫病となると語呂合わせのようでおもしろいですが、はっきりしたことはわかりません。いずれにせよ、期間が短くなっているほど、さばきの内容も厳しくなっていることがわかります。これによると、疫病がどれほど厳しいさばきであったかがわかります。私たちは今コロナという疫病と闘っている最中ですが、これがどれほど厳しいものであるかを感じています。それがもう2年も経つわけですから、人々の不安と疲労がどんなにピークに達しているかは容易に想像できます。

ダビデはこの三つの中で何を選んだでしょうか。14節をご覧ください。ダビデはガドに次のように言いました。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」

ダビデが選んだのは3日間の疫病でした。なぜなら、彼は人の手に陥りたくはなかったからです。もし7年間の飢饉を選べばそれは食物を持っている者に頼ることになります。また3か月の敗走を選ぶと、敵に追いかけられてしまうことになります。すなわち、これも人の手に陥ることになるのです。ダビデは人の手に陥ることを嫌いました。主のあわれみは深いからです。彼は、主のあわれみを心から確信していました。彼の信仰の土台は、これだったのです。主のすばらしさ、主のあわれみです。ですから、直接的に主の手に陥る「疫病」を選んだのです。私たちはここまで主に信頼しているしょうか。たとえそれが主からの懲らしめであっても、主はあわれみ深い方だと思い、それを甘んじて受けることができるでしょうか。ダビデの心には、主に対してこのような深い信頼がありました。

こうして神のさばきが始まりました。15節をご覧ください。「主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下された。ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。」

そのさばきによって7万人が疫病で死にました。そして、御使いがエルサレムを滅ぼそうと手を伸ばしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、御使いに「もう十分だ。手を引け。」と言って、手を引かせました。なぜ主は手を引いたのでしょうか。ダビデの祈りを聞かれたからです。主の使いが民を打っているのを見たダビデは、主に祈りました。「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。」これは、悪いのは自分なんだから、自分と自分の家を打ってほしいという祈りです。ここでもダビデは自分の罪を告白し、とりなしの祈りをささげています。かくして、ダビデの罪に対する神のさばきは収まりました。これはエブス人アラウナの打ち場で起こったので、アラウナの打ち場の体験と呼ばれています。この「アラウナの打ち場」とは、かつてアブラハムがひとり子イサクを捧げたモリヤの山のことであり、後にソロモンがエルサレムの神殿を立てることになる場所です(Ⅱ歴代誌3:1,創世記22:2)。ダビデはここでこの体験をしたのです。これはどういうことでしょうか。

打ち場とは、脱穀場のことです。牛に踏ませたり、道具を用いて打穀したものを、熊手や箕(穀物の殻・ごみなどを除く道具のこと)を使って空中に放り投げ、風を利用して実と殻とにふるい分けるのです。そのため打ち場は平坦な岩地で、風通しの良い小高い場所に造られました。旧約聖書には、これは神の裁きの象徴として用いられています(エレミヤ51:33,ミカ4:12)。しかし打ち場は単に裁きの象徴というだけでなく、祝福と祈りの応え、あがないの象徴でもありました。ダビデはそこで罪を告白し、とりなしの祈りをささげたのです。その時に主は「もう十分だ。手を引け。」と言われました。つまり、ダビデは自分の不従順による神の裁きと民の犠牲に耐え、打ち砕かれたのです。そして彼が悔い改めた後で祝福がもたらされました。その子ソロモンによって神殿が建てられることになるのです。18節をご覧ください。そこにガドがやって来て「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」と告げます。このようにして、後にそこにソロモンの神殿が建てられることになるわけです。主の家を建てることはダビデの長年の願いでしたが、それがこのような形で実現するのです。

このことは私たちに何を教えているのでしょうか。私たちも打ち場の体験をすることがありますが、それはただ神のさばきの場というだけでなく、神のご計画が実現するところでもあるということです。確かに「打ち場」は私たちの罪からきよめられる場所です。されによって痛みや苦しみを通らされます。しかしそれは私たちを打ちのめすことが目的なのではなく、そのことによって私たちが自分の弱さと失敗に直面し、その中で神に出会い神の栄光が現わされる場に変えられるということです。痛みの伴う打ち場の経験が良きものと変えられ、最終的にこれまでの祈りがかなえられていくことになるのです。

Ⅲ.すべてを益にしてくださる主(20-25)

最後に、20~25節までをご覧ください。先見者ガドから、「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のための祭壇を築きなさい。」ち言われたダビデはどうしたでしょうか。「20 アラウナが見下ろすと、王とその家来たちが自分の方に進んで来るのが見えた。アラウナは出て行き、地にひれ伏して、王に礼をした。21 アラウナは言った。「なぜ、わが主、王は、しもべのところにおいでになったのですか。」ダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を築きたい。そうすれば民への主の罰は終わるだろう。」22 アラウナはダビデに言った。「わが主、王よ。お気に召す物を取って、お献げください。ご覧ください。ここに全焼のささげ物のための牛がいます。薪にできる打穀機や牛の用具もあります。23 王よ、このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたを受け入れてくださいますように。」24 しかし王はアラウナに言った。「いや、私は代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」そしてダビデは、打ち場と牛を銀五十シェケルで買った。25 ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。」

ダビデは、ガドのことばに従って主が命じられたとおりに上って行きました。それを見ていたアラウナは驚き、出て行き、地にひれ伏して、王に礼をしました。彼は先住民エブス人の生き残りです。ダビデに攻め込まれるのではないかと恐れたのでしょう。どうして自分のところに来たのかと尋ねるアラウナに、ダビデはその目的を告げました。それは、彼の打ち場を買って、そこに主のために祭壇を築くためであるということでした。そうすれば神の民に対する神罰は終わるだろうと。

それを聞いたアラウナは、打ち場だけでなく、いけにえのための牛もすべて無料で差し上げますと申し出ました。しかしダビデはその献身的な申し出を断ります。何の犠牲も払わずに、主にいけにえをささげることなどできないと考えたからです。それでダビデは、打ち場と牛を銀50シェケルで買い取りました。

このダビデの姿勢から信仰のあり方を教えられます。それは、信仰とは形式や外見を整えることではなく、自ら痛みを感じるような犠牲をささげ、心の底から神に従うということです。あなたの信仰はどうでしょうか。全く痛みの伴わない信仰でしょうか。そうではなく痛みの伴う犠牲をささげ、心から主に従う者でありたいと思います。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえを献げました。主がこの国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルの民に対する神罰は終わりました。

この場所が、先ほども申し上げたように、アブラハムが息子イサクをささげたモリヤの山です。ダビデの子ソロモンは、ここに神殿を建てることになります。そして、やがてここで主イエスが十字架につけられることになるのです。神殿が建つ場所が、ダビデが罪を犯したことによって、主があわれみを注いでくださった場所と同じであることは、印象的です。主の神殿は、私たち人間の正しさをいけにえとしてささげるところではなく、私たちの罪や足りなさ、過ちを主に明らかにしていただき、赦しとあわれみを請うところであり、主のあわれみが示される所なのです。

それと同時に、そこは主の贖い、主の救いのご計画が実現するところでもあります。創世記50章20節に、ヨセフが自分の兄弟たちに言ったことばかあります。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)

ヨセフは数々の試練や苦難を耐え忍ぶことを余儀なくされました。しかし、主は完全な贖いの計画を成就するために人間の邪悪な策略さえも用いられ、ヨセフを権威と影響力と財産のある重要な地位に引き上げました。

これがアラウナの打ち場で起こったことです。私たちも、このような経験をすることがあるでしょう。でもそれは神の裁きだけでなく、神が私たちに備えて下さった素晴らしい祝福と神の救いのご計画が成就するためであると信じ、ダビデのように「この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家にくだりますように。」と祈るものでありたいと思います。主のあわれみは尽きないからです。そのとき主の救いのご計画が大きく前進していくのです。

エレミヤ3章1~5節「わたしに帰れ」

 今日は、エレミヤ書3章1~5節から「わたしに帰れ」とタイトルでお話します。エレミヤは2章1節から最初の預言を語って来ましたが、今日の箇所はその最後の部分です。その中でエレミヤは、神の民イスラエルに対する神の悲痛な叫びを、10のたとえを用いて語りました。まず1~8節では不誠実な妻のたとえです。そして9~13節のところでは、壊れた水溜のたとえです。そして14~19節では、奴隷としてのイスラエルのたとえ、そして前回はもうどうにも止まらないと、次から次にいろいろなたとえをもって彼らの姿を描きました。20節では、自分のくびきを負わないかたくなな家畜です。21節では、質の悪い雑種のぶどうですね。22節では、たとえ重曹やたくさんの灰汁を使っても落ちない汚れ、23~25節では発情期の家畜、26~28には、見つかった時に恥を見る盗人、29~30節では反抗的な子どもの姿、そして36~37節では捕虜として連行される姿です。実に10のたとえをもって、イスラエルに対する神の悲痛な叫びが語られたのです。

今日の箇所はその最後の部分です。エレミヤは姦淫の女のたとえを用いて「わたしに帰れ」と語ります。神はご自身の民がその忠告を無視したり、受け止めようとしないなら、同じように悲しまれます。私たちは神の呼びかけに素直に応答して、神に立ち帰る者でありたいと思います。

 Ⅰ.再び戻れるか(1)

 まず1節をご覧ください。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。-主のことば-」

不誠実な妻のたとえは2章1節から8節までのところでも語られましたが、ここでもう一度イスラエルの姿を、不誠実な妻として描きます。ただ、2章と違うのは、2章では真実の愛を裏切ってただ夫のもとから離れて行った妻の姿が強調されていましたが、ここでは、そのようにして汚れた妻をもう一度受け入れることができるか、ということが問われています。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」ということです。

皆さん、考えてみてください。もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、その女が彼のもとに戻って来たからと言って受け入れることができるでしょうか。できません。それは単に感情的に受け入れられないというだけでなく、神の律法でそれが禁じられていたからです。申命記24章1~4節を開いてください。ここには「1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」とあります。

この「何か恥ずべきこと」とは「不貞」のことです。妻が何か不貞を働かせ気に入らなくなった場合、夫は妻に離婚状を書いて渡し、彼女を家から去らせることができました。問題はその後です。その後で、その妻が別の男と結婚したが、その男も彼女を嫌って家から去らせた場合、あるいは、後の男が死んだ場合、先の夫は彼女を再び自分の妻にすることができませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、彼女は汚れてしまったからです。他の男と関係を持つことで、汚れてしまったというのです。それは、主が忌み嫌われることでした。ですから、彼らが相続地に入ってからは、そのようなことをしてその地を汚してはならないと命じられていたのです。しかもこのエレミヤ書3章1節には、「あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか」とあります。不倫どころじゃありません。彼らには多くの愛人がいたのです。誰でもいいから声をかけて、まさに娼婦のようにいろいろな男たちと寝ていました。そのような人のもとに戻れるでしょうか。戻れません。

神はこれをご自身とイスラエルとの関係に当てはめているのです。離縁された妻とはイスラエルのこと、その妻が他の神々、他の偶像と結ばれて再婚しました。でもそれでも満たされず、「やっぱりもとの旦那の方のところに戻ろう」と言っても、戻ることはできないのです。

ところが、神はそのように多くの愛人と淫行を行った妻に「帰れ」と言われるのです。12節には「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。14節にも「背信の子らよ、立ち返れ。」と言われるのです。律法で禁じられていても、神はもう一度迎え入れてくださるというのです。これは驚くべきことです。なぜなら、律法に矛盾しているからです。律法は神のことばですから、神ご自身がそれを破るなんて考えられません。どういうことでしょうか。それは神が律法を破るというのではなく、その律法の刑罰をご自身で負ってくださったということです。確かに律法ではそのような者は石打ちの刑罰を受けなければなりませんでした。しかし神はその刑罰をご自身が受けることによって、その罪を解決してくださったのです。私たちは知っています。神はこのようなことをなさる方であるということを。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架につけて、私たちのふしだらのすべての罪を負ってくださいました。それによって、この方を信じるすべての人の罪を、律法によっては受け入れられない私たちのすべての罪を赦し、きよめてくださったのです。そして、全く罪を犯したことがない者とみなしてくださいました。すごいですね。そうなれば、そこには矛盾は無くなります。罪が贖われているならば、過去の罪が持ち出されることはありません。それはもう神の記憶にも残っていないのです。

イザヤ書43章23節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしい約束です。罪の記憶は自分を苦しめます。「どうしてあんな事を」と思い悩み、自分を責め、自己弁護し、自己嫌悪し・・。しかし、神を信じ神に立ち返る者に対して、神様はすでに赦しを与えておられるのです。過去の罪で私たちが責められることはありません。それどころか、その罪の記憶さえも捨て去ってくださるのです。「わたしはあなたの罪を思い出さない」と明言してくださる。神様さえも責められない過去の罪で、自分を責める必要はありません。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって、全ての罪が赦されたからです。だから神は背信の女イスラエルに「帰れ」と言われるのです。

 ホセア書のテーマは、まさにこの「赦し」です。ホセアは、不貞の女を妻として迎え入れるようにと神から命じられます。その言葉どおり、彼は彼女、ゴメルを妻としますが、やがて妻は夫を捨てて家を出、かつての罪の世界に戻っていきました。ホセアはどれほど傷ついたことでしょう。しかし、その傷がまだ癒えないうちに、神様は再びホセアに語りかけるのです。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(ホセア3:1)

何ですって!再び行って、他の男たちと姦通している妻を愛せというのですか。このことばを聞いた時、彼はどんなに悩み苦しんだことかと思います。他の男に愛されている女、姦淫を行っている妻を愛し、自分のもとに連れ戻しなさい、というのですから。いったい神様はどうしてこんなことを言われるのか。でもホセアはこのことばを受けて彼女を自分のもとに連れ戻しました。

いったいなぜ神はホセアにこのように命じられたのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示すためでした。神はこのゴメルのように何度も何度も夫に背き、他の愛人たちのところへ行って淫行を行うような妻を、何度でも受け入れてくださる方なのです。たとえ律法に背き、落ちるところまで落ちてしまった者でも、神はそこから引き上げてくださるのです。

ですから、もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先のもとには戻れるだろうか、という問いに対する答えは、No, but Yesです。通常では考えられないことですが、神はそれを可能にしてくださいました。あなたが多くの愛人と淫行を行ったとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し受け入れてくださいます。何とすばらしい知らせでしょうか。驚くべき知らせです。これが福音です。グッド・ニュースです。ですからあなたも、この神の招きに応答して、神に立ち返っていただきたいと思います。

 Ⅱ.雨はとどめられる(2-3)

次に2~3節をご覧ください。「2目を上げて裸の丘を見よ。あなたが共寝しなかったところがどこにあるか。荒野のアラビア人がするように、あなたは道端で相手を待って座り込み、淫行と悪行によって、この地を汚した。3それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」

ここにはイスラエルの罪と、その結果が記されてあります。「裸の丘」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼らはそこで文字通り裸になって性的な祭儀を行っていました。こうした偶像礼拝には神殿娼婦と呼ばれる女たちがいて、実際に淫行が行われていたのです。ですから、彼らはあちらこちらで共寝していたと言われているのです。彼らが共寝しなかったところはどこにも見当たりませんでした。

「荒野のアラビア人がするように」とは、荒野のアラビア人が、砂漠を通過する商人たちを襲うようにという意味です。そのように彼らは、淫行を行う機会を絶えず伺っていました。遊女のようになって、あちらことらで偶像礼拝をして霊的姦淫の罪を犯していたのです。

その結果どうなったでしょうか。3節には「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」とあります。 

乾燥地帯において、雨は恵みの雨です。これがなかったら作物は育ちません。したがって食べることができず、生きていくことができないのです。「後の雨」とは、3~4月にかけて降る「春の雨」のことです。イスラエルには10~11月に降る「先の雨」と、3~4月に降るこの「後の雨」がありますが、それ以外は乾季となります。ですからこの時期に雨が降らないと、干ばつや日照りで飢饉となり、危機的な状況に陥ってしまうのです。民は死に絶えてしまいます。

このようになることはすでに、律法の何で警告されていました。申命記11章16~17節にこうあります。「16 気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。17 そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。」

これはイスラエルが約束の地カナンに入る時に、モーセを通して神が語られたことです。エレミヤの時代からさかのぼること700年も前のことです。既に神は彼らに警告を与えていました。それは、あなたがたの心が横道に反れて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがあると、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、天を閉ざして、雨が降らなくようになるということでした。その結果、その地は産物を出さなくなり、最終的には、たちまち滅び去ることになると。こういう警告が与えられていたにも関わらず、彼らはそれを無視し、自分たちは大丈夫、聖書にそのように書いてあってもそれは自分たちにはあてはまらないと高をくくっていたのです。気をつけなければなりません。

これは、私たちにも言えることです。もし私たちが聖書の神、主イエス・キリストを捨ててほかの神々に走るなら、このような結果を招くことになります。クリスチャンでもほかの神々に走ることがあります。クリスチャンでも偶像崇拝をしていることがあるのです。それは貪欲という偶像礼拝です。コロサイ3章5節を開いてください。そこには「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。

偶像礼拝とは、ただ偶像を拝むことだけではありません。貪欲が偶像礼拝なのです。私たちが神様以上に愛するもの、神様以上に頼りにするものがあるとしたら、それがあなたの偶像礼拝なのです。あなたが神様以上に情熱を燃やし、多くの時間を割き、労力を注ぐものがあるとしたら、それがあなたの神になる危険性があります。それが聖書の神であれば幸いです。この神を愛し、神を第一とし、心を尽くして神を愛すること、それが本当の礼拝です。聖書にこうあるからです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22:37-38)これが、重要な第一の戒めです。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、力を尽くして、あなたの神を愛すること、それが本物の礼拝です。それが神様以外であるなら、イエス・キリスト以外であるなら、それはあなたの偶像礼拝となるのです。その結果、大雨はとどめられ、後の雨は降らなくなります。つまり、あなたの心はまさに雨が降らない状態となり、完全にドライになり、カラカラの状態に乾ききってしまいます。

私たちは時々、私はなぜクリスチャンなのにこんなにも心がカラカラなんだろうと思うことがあります。全然潤っていない、満たされていない、喜びがない、平安がない、イキイキしていないと、その原因をいろいろ探したりしますが、一番大きな原因はここにあります。偶像礼拝をしていることです。神様ではなく他のものを大切にしたり、優先したりしていることです。そうであればあなたの心が満たされることはありません。砂漠のように渇ききってしまいます。いくら祈っても、いくら聖書を読んでも、心が満たされることはありません。実際、このエレミヤの時代のイスラエルの民はエルサレムの神殿で主を礼拝していましたが、それなのに、同時に偶像礼拝をしていました。完全に断ち切っていませんでした。それは「主よ、主よ」と祈りながら、同時に偶像礼拝していたのです。勿論、私たちは教会に通いなが同時に神社を参拝することはないと思います。でもなかなか自分を捨てることができないことがあります。神様以上に自分を愛し、自分の欲望を満足させようとしているなら、それが偶像礼拝であり、心はカラカラに渇ききってしまうことになります。

イエス様はこのように言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

だれでもイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、従って行かなければなりません。そうでないと、イエス様につい行くことはできません。キリストの弟子にはなれないのです。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

ある方からお電話がありました。精神的にとても落ち込んでいると。教会の方が召されたり、家族が病気になったり、仕事が思うようにいかなくて悩んでいたとき、カウンセラーに相談したそうです。するとカウンセラーから、「聖書に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』とあるので、まず自分を愛することが大切だ」と言われたそうです。それで自分を愛そうと、自分の生い立ちを振り返ってみました。するとずっとセルフイメージが低く、自分を否定していたことに気付きました。でも自分の気持ちを自分に向けるほどもっと落ち込んでしまった、というのです。皆さん、どう思いますか。それはそうです。というのは、聖書には自分を愛しなさいなんて一言も言っていないからです。自分を大切にすることは必要です。でもそれは自分を愛することではありません。聖書が教えていることはその逆で、自分を捨てなさい、ということです。自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてキリストに従いって来なさいと。そうすれば、いのちを見出すと。もしあなたが自分、自分と自分のことばかり見ているなら、いつまで経ってもその穴から抜け出すことはできません。でもあなたの目を神に向け、キリストの十字架を負って、キリストに従うなら、神と隣人を愛するなら、あなたはいのちを見出すことになります。人に相談してはならないということではありません。しかしあなたがあなたの前に主を置いて、主のみこころは何かを考え、主に従うなら、あなたはいのちを見出すことになるのです。問題を見てはいけません。神を見て、神に信頼しなければなりません。

もし私たちが神を信じていても、同時に偶像礼拝をするなら、必ず大雨はとどめられ、心は渇き、弱り果て、干ばつや日照りで作物は取れず、不毛の人生を送るようになります。神は私たちにそのような者になることを望んでいません。だから主は私たちに「戻って来なさい」「帰って来なさい」と言われるのです。私たちは、大雨がとどめられないように、後の雨が降るように、もう一度、私たちの状態を顧みて、もし偶像を拝んでいるようであるならば、それを悔い改めて、今、神に立ち帰ろうではありませんか。

 Ⅲ.神への正しい祈り(4-5)

 最後に4~5節をご覧ください。「4 今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。』」

「今でも」とは、多くの愛人と淫行を行っている「今でも」ということです。今でも彼らは主にこう呼びかけていました。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。」 ユダヤ人の女性は、自分の夫のことを「父」と呼んでいました。ですから、この「父」とは、前の夫のことです。前の夫に対して、「あなたは私の若いころの恋人です」と言っているのです。この「恋人」とは、口語訳では「友」、新共同訳では「夫」と訳しています。新改訳第三版では「連れ合い」と訳しています。おもしろいですね、それぞれの訳によって微妙にニュアンスが違います。どちらかというと新共同訳と新改訳第三版では同じような意味で訳しています。「夫」、あるいは「連れ合い」のことです。彼らは多くの愛人、すなわち、多くの偶像を礼拝しながら、主に「あなたは私の夫です」と呼び掛けていたのです。皆さんどう思いますか。愛人と関係を持ちながら、「あなたは私の夫です。」イスラエルの民は主なる神と契約を結んでいたので、このように叫んでいるのです。それは私たちが、「私たちはまさにクリスチャンです」というようなものです。

 5節をご覧ください。彼らはあらん限りの悪を行っていながら、「いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのです」と言っています。彼らの問題は何だったのでしょうか。彼らの問題は、言行が一致していなかったということです。言っていることとやっていることが一致していなかったのです。彼らは、口では信仰的なことを言いながら、行いではあらん限りの悪を行っていました。

 このような過ちを私たちも犯すことがあります。口では「主よ、わたしはあなたのものです。わたしはあなたを心から愛します」と言いながら、一方では他の神々を慕っているということがあるのです。イエス様は「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)と言われましたが、そういうことがあるわけです。その結果、雨がとどめられ、窮地に立たせられると、もう苦しい時の神頼みで、「神様、助けてください」と叫ぶのです。藁をもすがるように、イエス様にすがろうとするのです。そのこと自体は問題ではありませんが、そのようにしながらも、一方ではあらん限りの悪を行うという、何ともチグハグなことをしているのです。偶像を捨てません。あきらめられないのです。こういうのを何というかというと、虫のいい信仰と言います。

 もし悔い改めて他の偶像を捨て、まことの神に立ち帰ったのであれば、「主よ、いつまで怒っておられるのですか。永久に怒っておられるのですか。どうぞあわれんでください。その怒りを鎮めてください。」と祈ることができます。そして、神様はあわれみをもってその祈りに答えてくださいますが、しかしこのイスラエルの民のように自分たちの罪を認めずそれを棚に上げてますます悪を行うなら、大雨はとどめられることになります。しかし、あなたが悔い改めて神に立ち帰るから、神はあなたに恵みの雨を与えてくださいます。

 4世紀に活躍したアウグスティヌスと言えば、古代の教会の教父、また哲学者、神学者として知られ、今なお、多くの人々から尊敬を受けている人物ですが、このアウグスティヌスも、若いころは、とんでもない生活をしていました。彼は、16歳の時、親もとを離れて、北アフリカのカルタゴという街に行きますが、そこで、ひとりの女性と同棲し子どもをもうけるようになるのです。おまけに、母から受けた信仰の教えを捨てて、当時のローマ世界にいきわたっていた「マニ教」という宗教に入信してしまうのです。

 母のモニカは、マニ教に走って行った息子のことで悩み、教会の司教アンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは「息子さんをそのままにしておきなさい。ひたすら彼のために主に祈りなさい。息子さんは彼らの書物を読んでいるうちに、それが何という間違った教えであるかを、いつか悟るでしょう。」と、モニカに話すのですが、それでも、彼女は泣き続けました。その時、この司教は言いました。「さあ、お帰りなさい。大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません。」この言葉の通り、アウグスティヌスは母モニカの涙の祈りによって、不道徳と、誤った教えから立ち返ったのです。

 それはあなたにも言えることです。神は、ひとりも滅びることを望んではおられません。すべての人が救われることを願っておられます。すべての人が神に立ち帰ることを待っておられるのです。主イエスの十字架によって赦されない罪はありません。主イエスの十字架の血潮は、どんな罪でも赦すことができるのです。この主の御腕の中に飛び込みましょう。「わたしに帰れ」とイスラエルを招かれた主は、今あなたをも招いておられるのです。