Ⅰ列王記2章

 今日は、列王記第一2章から学びます。

 Ⅰ.ダビデの遺言(1-12)

 まず1~12節をご覧ください。4節までをお読みします。「1 ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように命じた。2 「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。3 あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。4 そうすれば、主は私についてお告げになった約束を果たしてくださるだろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、いのちを尽くして、誠実にわたしの前に歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』。」

ダビデの死ぬ日が近づきました。それで彼は息子のソロモンに遺言を残します。その内容は、まず強く、男らしくあれということでした。これはかつてモーセがヨシュアに告げた内容に似ています(申命記31:23、ヨシュア1:1~9)。ソロモンはま若く、経験もなかったので、彼を力づける必要があったのです。

次にダビデが語ったのは、モーセの律法の書に書かれてあるとおりに、主の命令を守り、主の道に歩みなさいということでした。それはソロモンが何をしても、またどこへ行っても、栄えるためです。詩篇1篇の中に、主のおしえを喜びとする人は、水路のそばに植えられた木のようで、何をしても栄えるとあります(詩篇1:1~3)。これはダビデ自身の経験でもありました。

また、そうすれば、主がダビデに告げてくださった約束を果たしてくださるからです。その約束とは、Ⅱサムエル7章12~13節にあるダビデ契約のことです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

ダビデの家系からメシヤが出ることは、この契約によって保証されました。神の約束は真実で、そのまま信じるに値するものです。ソロモンにはモーセの律法に従うという責務が与えられましたが、新約の時代に生きる私たちにとってそれは、キリストの律法に従うという責務です。それは新しい戒めです。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)

キリストに愛され、キリストによって罪赦された者として、キリストの愛に心から従い、キリストの新しい戒めを守り行う者でありたいと思います。

次に、5~9節をご覧ください。「5 また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。6 だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。7 しかし、ギルアデ人バルジライの子たちには恵みを施してやり、彼らをあなたの食卓に連ならせなさい。彼らは、私があなたの兄弟アブサロムの前から逃げたとき、私の近くに来てくれたのだから。8 また、あなたのそばに、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼は、私がマハナイムに行ったとき、非常に激しく私を呪った。だが、彼は私を迎えにヨルダン川に下って来たので、私は主にかけて、『おまえを剣で殺すことはない』と彼に誓った。9 しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかが分かるだろう。」」

ダビデの遺言の続きです。ここでダビデは3人の人物の取り扱いについて語っています。それはツェルヤの子ヨアブと、ギルアデ人バルジライ、そしてバフリム出身のベニヤミンゲラの子シムイです。どうして遺言の中で彼らについて述べているのかというと、その中の2人は悪人ですが、彼らを野放しにすれば、ソロモンによって継がれる王国が危険にさらされる恐れがあったからです。

まずツェルヤの子ヨアブですが、彼は平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけました。彼は、サウルの子でイスラエル王国の第2代の王であったイシュボシェテの将軍アブネルを殺しました(Ⅱサムエル2:12~32,3:22~30)。アブネルはダビデと契約を結び、ダビデの側に付いたにもかかわらずです(Ⅱサムエル3章)。ヨアブはまた、将軍職を追われた時には次に将軍となったアマサを殺して将軍の座に復帰しました(Ⅱサムエル20:4~10,23)。またアブサロムが謀反を起こした時には、ダビデの命令に背いてアブサロムを殺害しました(Ⅱサムエル8:1~15)。ヨアブは、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけました。その責任を取られることになったのです。

一方、ギルアデ人バルジライには、恵みを施してやらなければなりません。それは、ダビデがアブサロムの前から逃げたとき、ダビデの近くに来て助けてくれたからです(Ⅱサムエル17:27~29)。ダビデはその恩に報いアブサロムの死後、このバルジライに対して一緒にエルサレムに来てくれませんかと頼みましたが、彼は高齢であり、故郷で死にたいと言って断わりました。それで彼の子キムハムがダビデと一緒にエルサレムに行きました。ダビデはこのようにバルジライと約束したので、その約束を果たすべくソロモンに命じたのです。

もう一人はベニヤミン人ゲラの子シムイです。彼はダビデがマハナイムに行ったとき、非常に激しくダビデを呪いました。しかし彼はダビデを迎えにヨルダン川まで下って来たので、主にかけて彼を剣で殺すことはしないと誓いました(Ⅱサムエル16:5~13,19:16~23)。そのためダビデは自ら手を下すことをせず、その処置をソロモンに委ねたのです。もし彼をそのまま放置するなら、必ず同じことを繰り返すでしょう。だからソロモンに、あなたの知恵によって行動するようにと言ったのです。

このように、ダビデは過去の出来事をよく覚えており、自分の語ったことばを忠実に果たそうとしています。それは裏を返せば、私たちも主の命令に従い、主の道に歩まなければならない、ということです。やがてその報いを受けることになります。それはすぐにではないかもしれませんが、その行いに応じてさばかれる時がやってくるのです。

かくして、ソロモンはダビデからの遺言を受け取りました。ソロモンはその統治の最初の段階から難題が課せられました。ソロモンが神の知恵と聞き分ける心を必要としたのもうなずけます。複雑な人間関係の中で生きている私たちも、神からの知恵が必要です。あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。神様からの知恵が与えられるように、熱心に祈り求めましょう。

このようにして、ダビデは先祖とともに眠りにつきます。10~12節です。「10 こうして、ダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。11 ダビデがイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。12 ソロモンは父ダビデの王座に就き、その王位は確立した。」

ここで、ダビデは先祖たちと眠りにつき、とあります。これはダビデが死んだことを表しています。しかしそれは一時的な眠りでしかありませんでした。ダビデには復活の希望があったのです。私たちもまた、キリストにあって同じ希望が与えられています。クリスチャンの死は絶望で終わるものではないのです。

こうしてダビデは死んで、ダビデの町に葬られました。これはエルサレムのことです。当時のエルサレムはまだ小さな町で、ダビデの町と呼ばれていたのです。ダビデは40年間王としてイスラエルを治めました。ダビデは恐ろしい罪を犯したこともありましたが、基本的には神に忠実に歩みました。それはⅠ列王記15章5節を見るとわかります。ここには「それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。」とあります。

私たちも罪ある者ですが、このダビデのように主の目にかなうことを行い、主にこのように評価される一生を送らせていただきたいと思います。

Ⅱ.アドニヤの愚かな願い(13-25)

次に13~25節をご覧ください。18節までをお読みします。「13 あるとき、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテ・シェバのところにやって来た。バテ・シェバは「平和なことで来たのですか」と尋ねた。彼は「平和なことです」と答えて、14 さらに言った。「お話ししたいことがあるのですが。」すると彼女は言った。「話してごらんなさい。」15 彼は言った。「ご存じのように、王位は私のものでしたし、イスラエルはみな私が王になるのを期待していました。それなのに、王位は転じて、私の弟のものとなりました。主によって彼のものとなったからです。16 今、あなたに一つのお願いがあります。断らないでください。」バテ・シェバは彼に言った。「話してごらんなさい。」17 彼は言った。「どうかソロモン王に頼んでください。あなたからなら断らないでしょうから。王がシュネム人の女アビシャグを、私に妻として与えてくださるように。」18 そこで、バテ・シェバは「いいでしょう。私から王にあなたのことを話します」と言った。」

あるとき、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテ・シェバのところにやって来ました。アドニヤは1章で見たようにダビデの四男でソロモンの兄に当たる人物ですが、まだダビデが王様であったとき「私が王になる」と言って野心を抱いた人物でした。そのときは、預言者ナタンとソロモンの母が必死にダビデに訴えたので、ダビデはソロモンを王に任じました。本来であればアドニヤは殺されても致し方なかったのですが、ソロモンのあわれみによって許されたのです。ソロモンはこう言いました。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。」(1:52)しかしアドニヤはここで、バテ・シェバに愚かな願い事をしました。それは、ソロモン王に頼んでシュネムの女アビシャグを、自分の妻として与えてくれるように頼んでほしい、ということでした。

シュネム人の女アビシャクは、ダビデが老齢のときに彼に仕えるために連れて来られた若い女性です。1章4節には、「この娘は非常に美しかった。」とあります。しかし、彼女はダビデの側室でした。その女を妻にするということは、王位を狙っていることを意味していました。アブサロムが、屋上でダビデの側めたちのところに入ったのはそのためでした(Ⅱサムエル16:22)。それは、アブサロムが王位をダビデから奪い取ったことを、公に示す行為だったのです。

不思議なことは、それを聞いたバテ・シェバがそれを好意的に受け止めていることです。彼女はアドニヤの話を聞いたとき「いいでしょう。私から王にあなたのことを話します。」(18)と答えています。なぜ彼女はアドニヤの陰謀に気付かなかったのでしょうか。多くの注解者たちは、彼女はお人好しで、人の心を読めない女性であったからだと考えています。しかし王位継承をめぐるこれまでの彼女の動きを見ると、彼女は決して鈍感な女性ではなかったことが分かります。また、彼女自身がダビデの妻でもあったので、そうした陰謀に気付かないはずがありません。おそらく彼女は自分の子ソロモンが王位を継承したことで、安心していたのでしょう。気の緩みが生じていたのだと思います。まさかいのちを救われたアドニヤが、そのような暴挙に出るとは考えもしなかったのでしょう。

19~25節をご覧ください。「19 バテ・シェバは、アドニヤのことを話すために、ソロモン王のところに行った。王は立ち上がって彼女を迎え、彼女に礼をして、自分の王座に座った。王の母のために席が設けられ、彼女は王の右に座った。20 彼女は言った。「あなたに一つの小さなお願いがあります。断らないでください。」王は彼女に言った。「母上、その願い事を聞かせてください。断ることはしませんから。」21 彼女は言った。「シュネム人の女アビシャグを、あなたの兄アドニヤに妻として与えてやってください。」22 ソロモン王は母に答えた。「なぜ、アドニヤのためにシュネム人の女アビシャグを願うのですか。彼は私の兄ですから、彼のためには王位を願ったほうがよいのではありませんか。彼のためにも、祭司エブヤタルやツェルヤの子ヨアブのためにも。」23 ソロモン王は主にかけて次のように誓った。「アドニヤがこういうことを言ってもなお自分のいのちを失わなかったなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。24 主は生きておられる。主は私を父ダビデの王座に就かせて、私を堅く立て、約束どおり私のために家を建ててくださった。アドニヤは今日殺されなければならない。」25 こうしてソロモン王は、エホヤダの子ベナヤを遣わしてアドニヤを討ち取らせたので、彼は死んだ。」

バテ・シェバが、アドニヤのことを話すためにソロモン王のところに行くと、ソロモンは立ち上がって彼女を迎え、深々と彼女に礼をして、自分の王座に座りました。彼女はアドニヤの願いをそのままソロモンに伝えると、ソロモンは激怒しました。ダビデとアビシャグの間には肉体関係はありませんでしたが、彼女はダビデの側室となっていたので、その彼女を求めるということは王位を求めることと等しいことだったからです。ソロモンは彼の陰謀を見抜き、アドニヤを打ち取らせたので、彼は死にました。ソロモンは、父ダビデの存命中はアドニヤを殺すことを控えていました。それなのに彼はそのことを忘れ、依然として陰謀を企てたのは全く愚かなことです。ソロモンの知恵と彼の愚かさは、実に対照的です。私たちは愚かさを捨てて、神からの知恵によって歩まなければなりません。

Ⅲ.祭司エブヤタルとヨアブ、シムイ(26-46)

最後に26~46節を見たいと思います。ここには、ダビデの遺言の中に出てきた注意すべき2人の人物と祭司エブヤタルの処刑について記されてあります。まず祭司エブヤタルです。26~27節をご覧ください。「26 それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰れ。おまえは死に値する者だが、今日はおまえを殺さない。おまえは私の父ダビデの前で神である主の箱を担ぎ、父といつも苦しみをともにしたからだ。」27 こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から追放した。シロでエリの家族について語られた主のことばは、こうして成就した。」

それから、ソロモン王は祭司エブヤタルに言いました。アナトテの自分の地所に帰るようにと。彼はアドニヤが王位を狙ったとき、その動きに賛同したので、アドニヤが処刑されたとき一緒に処刑することもできましたが、そのようにはしませんでした。それは。彼が父ダビデの前で神である主の箱を担ぎ、父ダビデといつも苦しみをともにしていたからです。

こうして彼は主の祭司職から追放されました。これは、シロでエリの家族について語られた主のことばが成就するためでした。これは、Ⅰサムエル記2章31~33節にある内容です。それは、エリの子孫から祭司が出ることはなくなるという預言でした。エブヤタルは、エリの家系に属する祭司だったのです。この祭司エブヤタルの追放によって、シロで語られたエリに関する預言は完全に成就しました。ここにこのことが記されてあるのは、神のことばの確かさを伝えるためです。このことは、列王記が進展していくに従って、ますますあきらかにされていきます。私たちも、神が語られたことばは必ず実現するという信仰に立って、神に従って行きたいと思います。

次はヨアブです。28~35節をご覧ください。「28 この知らせがヨアブのところに伝わった。ヨアブはアブサロムにはつかなかったが、アドニヤについていたのである。ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ。29 ソロモン王に「ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇の傍らにいる」という知らせがあった。するとソロモンは、「行って彼を討ち取れ」と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。30 ベナヤは主の天幕に入って、彼に言った。「王がこう言われる。『外に出よ。』」彼は「いや、ここで死ぬ」と言った。ベナヤは王にこのことを報告した。「ヨアブはこう私に答えました。」31 王は彼に言った。「彼が言ったとおりにせよ。彼を討ち取って葬れ。こうして、ヨアブが理由もなく流した血の責任を、私と、私の父の家から取り除け。32 主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返される。彼は自分よりも正しく善良な二人の者に討ちかかり、剣で虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、イスラエルの軍の長である、ネルの子アブネルと、ユダの軍の長である、エテルの子アマサを虐殺したのだ。33 二人の血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭に注ぎ返され、ダビデとその子孫、および、その家と王座には、とこしえまでも主から平安があるように。」34 エホヤダの子ベナヤは上って行き、彼を打って殺した。ヨアブは荒野にある自分の家に葬られた。35 王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍団長とした。また、王は祭司ツァドクをエブヤタルの代わりとした。」

「この知らせ」とは、エブヤタルが祭司職から追放されたという知らせです。これがヨアブのところに伝わると、ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかみました。それはかつてアドニヤがやったように処罰から免れるためです。しかし彼は、死刑を免れることはできませんでした。殺人者にはこの規定は適用されないからです。ソロモンはエホヤダの子ベナヤを遣わして、彼を討ち取るように命じました。ところがヨアブは神殿の外に出ようとしなかったので、ベナヤはソロモンからの許可を得て、その場で彼を討ち取りました。そして、荒野にある自分の家に葬られました。

ヨアブが処刑されたのはなぜでしょうか。それは彼が理由もなく人の血を流したからです。その責任を、自分と自分の父の家から取り除き、彼の頭に返すためでした。具体的には、彼は自分よりも正しい善良な2人に討ちかかり、剣で虐殺しました。善良な2人の人とは、イスラエルの将軍アブネルとユダの将軍アマサのことです。ヨアブは彼らをダビデが知らないうちに殺害しました。

このようにしてヨアブ処刑され、ヨアブに代わってベナヤを軍団長にしました。また、祭司ツァドクをエブヤタルの代わりにしました。それはソロモンが王として治めていく上でダビデが危惧していたことでしたが、このことによってソロモンの治世が安定していきました。

それにしても、ヨアブの流した血は、ヨアブの頭に注ぎ返されるとは恐ろしいことです。私たちも、自分の犯した罪の代価を要求される時が来ます。しかし幸いなことに、私たちの場合は御子イエスがその代価を十字架で返してくださいました。イエス様は十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と言われましたが、それはそのことです。それゆえ、御子イエスを信じる者の罪の代価が、その頭に返されることはありません。イエス様がその代価を受けてくださいましたから。主イエスの尊い贖いの恵みに感謝しましょう。

ダビデが危惧していたもう1人の人物がいました。それはシムイです。彼は、サウルの家の一族で、ダビデがアブサロムの反乱で逃れたとき、激しい言葉をもってダビデを罵倒しました(Ⅱサムエル6:5~13)。しかし、ダビデが王としてエルサレムに戻って来たとき、ダビデを迎えにヨルダン川まで迎えに来たので、ダビデは主にかけて、剣で彼を殺すことはないと誓っていました。そのシムイです。36~46節をご覧ください。「36 王は人を遣わしてシムイを呼び寄せ、彼に言った。「エルサレムに自分の家を建て、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。37 出て行ってキデロンの谷を渡った日には、おまえは必ず死ななければならないと覚悟しておけ。おまえの血の責任はおまえ自身の頭上に降りかかるのだ。」38 シムイは王に言った。「よろしゅうございます。しもべは王様のおっしゃるとおりにいたします。」このようにしてシムイは、何日もの間エルサレムに住んだ。

39 それから三年たったころ、シムイの二人の奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに「あなたの奴隷たちが今、ガテにいる」という知らせがあったので、40 シムイはすぐ、ろばに鞍を置き、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻した。41 シムイがエルサレムからガテに行って帰って来たことが、ソロモンに知らされた。42 すると、王は人を遣わし、シムイを呼び出して言った。「私はおまえに、主にかけて誓わせ、『おまえが出て、どこかへ行った日には、おまえは必ず死ななければならないと覚悟しておけ』と警告しておいたではないか。すると、おまえは私に『よろしゅうございます。従います』と言った。43 それなのになぜ、主への誓いと、私がおまえに命じた命令を守らなかったのか。」44 王はまたシムイに言った。「おまえは心の中で、自分が私の父ダビデに対して行ったすべての悪をよく知っているはずだ。主はおまえの悪をおまえの頭に返される。45 しかし、ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つ。」46 王はエホヤダの子ベナヤに命じた。ベナヤは出て行ってシムイを討ち取り、シムイは死んだ。こうして、王国はソロモンによって確立した。」

ソロモンはシムイを、エルサレムに閉じ込めておくことにしました。そこから出るようなことがあったら必ず死ななければならないと警告しました。「キデロンの谷」とは、エルサレムの東側にある谷のことです。そこを渡るというのは、自分の故郷に帰ることを意味していました。そうなれば、謀反の可能性が高くなります。それで、そのキデロンの谷を渡ることがあれば必ず死ななければならないと、命じたのです。

シムイはそれに同意し、何日もの間エルサレムに住みました。しかしそれから3年が経ったころ、彼の二人の奴隷が、ガテの王アキシュのところへ逃げたのです。それでシムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻しました。これは命令違反です。そのことがソロモンに知らされると、ソロモンは人を遣わしてシムイを呼び出して討ち取ったので、彼は死にました。

なぜシムイはソロモンの命令を破ったのでしょうか。考えられるのは、ガテはエルサレムから南西に40㎞ほど離れたところにあるペリシテの町です。シムイがソロモンから命じられたのは、エルサレムの旧市街地の東に位置するキデロンの谷を渡ってはならないということでした。ガテとキデロンの谷があるのは反対の方向です。それゆえ、シムイはそのことがソロモンの命令に背いているとは思わなかったのでしょう。

しかしそれは、ソロモンの命令の精神に違反していました。シムイにはそのことがわからなかったのです。彼の中にはどこか、自分がソロモンよりも知恵があると思っていたのかもしれません。自分の立場をわきまえていませんでした。そして何よりも大きな理由は、46節に「こうして、王国はソロモンによって確立した」とあるように、ソロモンの王国が確立するためだったのです。いわばそれは、神のご計画が遂行するためだったのです。

こうしてソロモンは、不安定要因であった危険人物を取り除き、平和を確立することができました。これらのすべては、主の公正とあわれみと正義に基づいて行なわれました。ソロモンという名前の意味は、「平和」です。ソロモンが王になることによって、これまで戦いが続いていたイスラエルに平和が確立されました。これはやがて来られる主イエス・キリストの型でした。主イエスこそ、神との平和によって、真の平和をもたらことができる方です。そしてこの方が再臨される時、主はご自身に反抗するすべての者を取り除き、従順な者たちを御国の中に入れてくださるのです。平和の御国を確立されるのです。

猶予はあります。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めることを願っておられます。神は忍耐深い方であり、ご自分のさばきをすぐに下すことをされず、悔い改めるのを待っておられるのです。しかし、タイムリミットがあります。いつまでも待たれるというわけではありません。必ずさばきの時がやって来ます。ですから今、自分がどうしなければいけないかを決めなければなりません。私たちはキリストに従い、その平和を享受する者でありたいと思います。

エレミヤ3章19~25節「救いは主にあります」

 きょうはエレミヤ書3章19節から25節までの御言葉から、悔い改めについてお話します。これは前回の続きです。前回は3章6節から18節までの箇所からお話しました。その中で主は背信のイスラエルに、立ち返れと語られました。なぜなら、主は恵み深い方であられるからです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、イスラエルが咎を認めて主に立ち返るなら、主は赦してくださいます。

そればかりではありません。そのようにしてイスラエルが主に立ち返るなら、驚くべき回復と希望がもたらされることも語られました。覚えていらっしゃいますか。それは残りの者を残してくださり、彼らを北の国から解放するということでした。それは、エレミヤの時代で言うならアッシリヤとかバビロンといった国から解放されることでしたが、遠い未来、世の終わりにおいては、完全な神の支配がもたらされ悪が一掃されることの預言でした。つまり、キリストが再臨される時にもたらされる千年王国のことです。16節の「その日」とか、17節の「そのとき」、また18節の「その日」とは、世の終わりのキーワードですが、そのことを表しています。すなわち、イエス・キリストが再臨される時の預言でもあるのです。そのとき、主が御座に座してくださるのですべての悪は一掃され、完全な平和の時代がやって来るのです。今ウクライナ情勢が緊迫していますが、こうした戦いのない平和な時代がやって来るのです。それがこのような文脈の中で預言されているというのはすごいですね。これはまさに神のことばです。神様でなければ決して書けないような内容です。

しかしそれは世の終わりの時だけでなく、イエス・キリストを信じて生きる今の私たちにも言えることです。つまり、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを心の王座に迎えている人は、イエス様がその心を支配してくださるので、この世にありながらさながら天国のような歩みをすることができるのです。そのような回復と希望が与えられます。ですから「立ち返れ」と言われているのです。

きょうはその続きです。きょうのところでも主は、イスラエルに立ち返るようにと呼びかけておられます。なぜでしょうか。救いは、主にあるからです。だから、もしあなたが自分の罪を認めて主に立ち返るなら、主はあなたを癒してくださるのです。

 Ⅰ.主を裏切ったイスラエル(19-21)

まず、19節から21節までをご覧ください。「わたしは思っていた。どのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに慕わしい地を与えようかと。国々のうちで最も麗しいゆずりの地を。また、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れないと思っていた。20 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ-主のことば-。21 一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らが自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。」

主はイスラエルをわが子とし、アブラハムに約束してくださった契約に従って、国々の中で最も麗しい地を与えようと思っていました。それは約束の地カナンのことです。また主は、彼らがご自身を父と呼ぶことを喜ばれました。それは彼らが主に従って、もう離れないと思っていたからです。旧約聖書の時代、イスラエルの民が神をここまで親しく呼ぶことは許されていませんでした。「主」とか「神」とかと呼ぶことはあっても、「父」と呼ぶことは許されていなかったのです。「父」と呼ぶことは、それだけ親しい関係にあるということです。

私たちがお祈りをするとき「天のお父さん」と呼ぶのはそのためです。私たちは罪が赦されて神の子どもとされました。ヨハネの福音書には、それは「特権」と言われています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)これは特権なんです。それまでは恐れ多くて、とてもお父さんなんて言えませんでした。「天の父なる御神様」という感じでしょうか。でも、今は「お父さん」と呼べるようになりました。私は小さい時、父を「父ちゃん」と呼んでいましたから、「天の父ちゃん」という感じです。神様をこのように呼べるというのはものすごいことなんです。それほどに神は、イスラエルを実の子のように愛してくださったのです。

それなのに彼らは、なんと、妻が夫を裏切るように、主を裏切ってしまいました。皆さんは人から裏切られたという経験があるでしょうか。愛を裏切られるほど骨身にしみる苦痛はありません。その結果、彼らは裸の丘の上で、哀願の泣き声を上げるようになりました。「裸の丘の上」とは、以前もお話したように、偶像礼拝が行われていた場所のことです。彼らは主を裏切って偶像に仕えるようになった結果、苦痛によって嘆き、哀願の泣き声を上げるようになったのです。

私たちも主を裏切るようなことがあれば、彼らと同じように神の祝福を失うことになります。その祝福とは何でしょうか。それは罪の赦しであり、永遠のいのちであり、神の子どもとされる特権です。神が共にいてくださるという約束です。神が共におられるほどの祝福はありません。それこそ、私たち人間が造られた目的なんですから。

皆さん、人が造られた目的は何でしょうか。人は何のために生きているのでしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウェストミンスター小教理問答書という信仰問答書がありますが、その第1問は、「人の主な目的は何ですか。」です。その答えはこれです。

「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。それを実現してくださったのがイエス様です。イエス様は、神から離れ罪の中に死んでいた私たちのために十字架で死んでくださり、その罪を贖ってくださいました。ですから、このイエスを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。永遠のいのちとは、永遠に神が共にいてくださるということです。これほどすばらしい祝福はありません。これこそ、私たちが生きる目的なのですから。これがなかったら、真の喜びや満足を得ることはできません。なぜなら、どんなにこの世の満足を手に入れてもそれは一時的なものであって、すぐに消えてしまうからです。

映画「風と共に去りぬ」の主演男優クラーク・ゲーブルは、オスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金があり、恋もあり、名誉もあり、人気も最高でした。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世の物のすべてを手にしたかのように見えました。

しかし、彼はある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺しているのが発見されました。飢え渇いたその魂を、この世の物で満たすことはできなかったのです。永遠のいのちの水を見つけられずに終わったその魂が、残念に思えてなりません。

しかし、イエス・キリストは、永遠の水を与えることができます。イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

主イエスは、あなたに永遠のいのちを与えます。それはすぐに消えて無くなってしまう一時的なものではなく、永遠に続くものです。永遠に神が共におられるのです。永遠に神を喜ぶことができる。これほどすばらしい特権はありません。それなのに、これを失うことがあるとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。

イスラエルは、神との契約によってこのすばらしい特権が与えられていたにもかかわらず、主を裏切り、自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れてしまい、この特権を失ってしまいました。

それは私たちにも言えることです。私たちもイスラエルのように神を信じ、イエス・キリストの贖いによって神の子とされたのに、神に背いて、その祝福を失ってしまうことがあります。一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利を譲ったエサウのように、霊的なことに目が開かれず、いつも肉的なことを考えて、神の祝福と特権を失ってしまうことがあるのです。勿論、本当に信じたのであれば、絶対に救いを失うことはありません。そういう人は必ず神に立ち返ります。

パウロは、ピリピ3章17~19節でこのように言っています。「17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」

ここでパウロはピリピの兄弟たちに、「私を見ならう者になってください。」と言っています。また、「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」と言っています。なぜなら、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいたからです。キリストの十字架の敵として歩むとはどういうことでしょうか。ここには、彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの思いは地上のことだけです、とあります。教会にはいつでも、右に道を踏み外す人と左に道を踏み外す人がいます。右とは、何事も決まりをきちんと守って救いを全うしようとする人のこと、いわゆる律法主義的な人のことです。左とはそれとは逆に、決まりなどどうでも良い、自分の好き勝手に生きればいいのだという快楽主義者のことです。聖書の教えよりも自分の思いに従って生きればいいと考えている人のことです。ここでは後者のことを指しています。神様のことよりも、自分の快楽に従って生きればいいと考えているのです。彼らの思いは地上のことだけです。彼らの神は彼らの欲望なのです。彼らはキリストの十字架の道を踏み外していました。彼らの最後は滅びだったのです。

私たちもエサウのように地上のもの、目先のものばかりを追い求め、目がくらんでしまうということがあるのではないでしょうか。神様よりも自分の思いに従って自由に生きていきたいということがあります。イエス様を心の王座にするのではなく、自分が王様のようにドスンと居座っていることがあるのです。聖書ではこれを罪と言っています。罪とは何か悪いことをするだけでなく、それ以上に神を神としないことです。神に背いていることを言うのです。その結果パウロは、彼らの最後は滅びだと言いました。そのようなことを続けていると、神様からの祝福と特権を失っていることがあるのです。勿論、先ほども申し上げたように、本当に信じたのであればそのようなことは絶対にありません。イエス様は、ヨハネの福音書10章28節でこのように言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

こういう人は一時的に神様から離れたとしても、必ず神のもとに帰ってきます。しかし、そうでないとしたら、すなわちイエスを救い主と信じたのでなければ、永遠に離れてしまうこともあるのです。私たちはいつも神に背いては神を悲しませているような者ですが、もし神に背いているのであれば、それを悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

 Ⅱ.背信の子らよ、立ち返れ(22a)

それが、次のポイントで語られていることです。22節の前半をご覧ください。ここは短いところなので、ご一緒に読みたいと思います。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。』」

「立ち返れ」。これがエレミヤ書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止め、主なる神を神として崇めて生きるように、ということです。これが、罪が赦されるための第二のステップです。第一のステップは何でしたか?13節にありました。「ただ、あなたの咎を認めよ。」ということでしたね。そして罪、咎を認めたら、次のステップは「立ち返る」ことです。神のもとに立ち返るのです。自分の罪に気づいているのに、その重荷を自分に背負わせて、神のもとに立ち返ろうとしない人がいます。自分の罪はあまりにも大きいので、赦されるはずがないと思っているのです。けれども主はこう言われます。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒そう。」

そこはあなたが居るべき場所ではありません。そこはあなたが行くべきところではないのです。あなたが居るべきところはここです。わたしに帰れ。そうすれば、わたしがあなたの背信を癒そうと言っておられるのです。主は不正や罪を見逃されることはありませんが、かといっていつまでも怒っておられる方ではありません。自分の罪を認め、主に立ち返るなら、主はその罪を赦してくださるのです。

ここには「わたしがあなたがたの背信を癒そう。」とあります。主は癒してくださる方なのです。これは主が背信の子イスラエルを病人と見立て、それを癒されるお医者さんであることを表しています。病人にとって必要なのは癒してくれるお医者さんです。お医者さんにもいろいろな方がおられますが、患者にとって一番うれしい医者は、病人に寄り添い、病人の気持ちを理解し、その病気を癒してくれる医者です。

私は18年前に大田原に引っ越してきましたが、引っ越して来て一番悩んだのは、どの病院にかかったらよいかということでした。私は、27歳の時、アメリカの妻の実家に行った際、ステーキを食べ過ぎて痛風になりまして、それ以来、毎年1回くらい足の親指に痛みが出るようになりました。言っておきますが、それは食べ過ぎだけが原因ではなく、体質とかその時の体調によっても左右されます。ストレスとかによっても引き起こされる病気なんです。それでも福島にいた頃は若かったということもあって、それほどひどくもなかったのですが、大田原に来てからはしばしば発作に悩まされました。それで真面目に治療しなければならないと思いましたが、どの病院にかかったらよいかわかりませんでした。

ところが、たまたま近くの病院に行きましたら、その病院のお医者さんは私の症状をちょっと診ただけで、「ああ、これでしょ」とすぐわかるのです。「念のためレントゲンを撮りましょう」と言うと、「やっぱりそうだ。これです。この薬を飲むと3日で痛みが取れます」というのです。ホンマかいなと半信半疑で処方された薬を飲むと、本当に痛みが取れるのです。ある時は私の顔を見ただけで、「ああ、あの問題でしょ」と言います。顔を見ただけでわかる。優れたお医者さんでした。

残念ながら数年前に、病院が閉じられていました。たぶん、亡くなられたのだと思います。それで他の病院をいろいろ探してみたのですが、あのようなお医者さんはなかなか見つかりません。本当に良いお医者でした。私の病を癒してくれました。

イエス様は、私たちの病気を癒してくださるお医者さんです。イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(マタイ9:12-13)イエス様は魂の医者として、罪に病む心と体と魂を癒して下さいます。それなのに、罪人を招くために来られたイエス様のもとに行かないで、自己診断するようなことがあるとしたら残念なことです。自分が一生懸命に頑張れは罪はなくなると。しかし私たちは自分で自分の病気を治せないように、自分の熱心さや頑張りでは救われることはできません。信仰者として生きていくことはできないのです。私たちに罪の赦しを与え、信仰者として生かして下さるのは、ただ神の憐れみによるのです。

ですからイエス様は、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」と言われたのです。私たちがどんなに立派ないけにえを捧げるかということではなく、神の憐れみが私たちを救うのです。そのことを「行って、学べ」と言われたのです。自分はこれだけのことをやってきた、そういう思いの中にあぐらをかいているのではなく、そこから立ち上がって、罪人を招いて下さるイエス様のもとへ行きなさいと言うのです。それは自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れるということであって、さらに、イエス様を信じてからもつい神様に背いている私たちの罪を認め、神のもとに立ち返りなさいということです。そのことによって私たちは、罪人を招くために来られたイエス様の恵みをみことばによって学びつつ、健全な信仰者として歩んでいくことができるのです。

 Ⅲ.救いは主にあります(22b-25)

 その悔い改めの招きに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。22節後半から25節までをご覧ください。「「今、私たちはあなたのもとに参ります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。23 まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。24 しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。25 私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」」

これはイスラエルの悔い改めの祈りです。彼らはどのように悔い改めたでしょうか。彼らはまず、主のもとに行きました。22節に「今、私たちはあなたのもとに参ります。」とあります。そして、彼らは彼らの神、主を、神と認めました。ここには「あなたこそ、私たちの神、主だからです。」とあります。

そして、偶像は偽りであり、まことの救いは主にあると告白しました。23節です。「まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」「もろもろの丘」とか「山の騒ぎ」とは偶像礼拝が行われていた場所のことです。それは偽りであった言っています。

そしてそうした偶像礼拝の結果、羊の群れや牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしたと言っています。24節と25節です。「しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。」

この「恥ずべきものが」ということばですが、新改訳聖書第三版では「バアルが」と訳しています。「バアル」とは豊穣の神でした。豊穣をもたらすはずの神なのに、恥をもたらしました。豊穣ではなく先祖たちの労苦の実や牛の群れ、羊の群れを食い尽くしたのです。全く皮肉な話です。豊穣をもたらしてくれるはずなのに、繁栄とか、成功とか、祝福といった人間の願望を満たしてくれるはずなのに、逆に、あなたのすべてを奪ってしまうのです。豊穣というのは名ばかりで、実態はあなたを蝕み、あなたを食い尽くすのです。それがバアルであり、この世の神であります。彼らはそのことを痛感したのです。エレミヤ10章14節に、「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。」とある通りです。いのちのない偶像を拝んでも恥を見るだけです。彼らはそのことを痛感しました。

 私たちも偶像を拝むなら、バアルを拝むなら、恥を見ることになります。偶像とはなにも木や石で作ったものばかりでなく、神よりも大切にするもの、優先するものがあれば、それは偶像礼拝です。コロサイ人への手紙3章5節に「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝なのです。もしあなたが上にあるものを思わないで、地にあるものを思うなら、そこにはこうした偶像によって恥を見ることになるのです。

しかし私たちは新しい人を着ました。「新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け真の知識に至ります。」(コロサイ3:10)キリストのようになるということです。それは深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、すなわち、愛の心です。「確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」偶像ではなく、イエス・キリストを主とし、イエス・キリストに従うなら、あなたには救いがあるのです。あなたはどうですか。あなたの神は何ですか。あなたは上にあるものではなく、地にあるものを求めていませんか。それは偶像礼拝です。それはあなたに豊穣をもたらすはずなのに、逆にあなたを蝕み、あなたを食い尽くすことになります。ですから、もしあなたが今、上にあるものではなく、地にあるものを求めているなら、イスラエルの神、主から離れ、主を忘れ、主を裏切っているなら、どうか主に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたの背信を癒してくださいます。

あなたはどうですか。あなたの神は何ですか。あなたは上にあるものではなく、地にあるものを求めていませんか。それは偶像礼拝です。それはあなたに豊穣をもたらすはずなのに、逆にあなたを蝕み、あなたを食い尽くすことになります。ですから、もしあなたが今、上にあるものではなく、地にあるものを求めているなら、イスラエルの神、主から離れ、主を忘れ、主を裏切っているなら、どうか主に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたの背信を癒してくださいます。

先週まで、祈祷会ではサムエル記からダビデの信仰を学びました。ダビデは信仰に生きた人でしたが、主のみこころにかなわないことも行いました。その一つがバテ・シェバとの姦淫であり、また、イスラエルとユダの人数を数えるという罪でした。それでも彼のすばらしかった点は、彼が罪を犯した時はすぐにその罪を認め、悔い改めて神に立ち返ったことです。そして、彼が主に立ち返ったとき、主は彼の罪を癒してくださっただけでなく、そこから救いの御業を始められました。それがⅡサムエル記24章の「アラウナ打ち場」での体験です。

ダビデは、民の数を数えた後で、良心のとがめを感じて、主に悔い改めて祈りました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」(Ⅱサムエル24:10)

すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、民のうち七万人が死にました。しかしさらに御使いが、エルサレムを滅ぼそうと手を伸ばしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、主の使いに「もう十分だ。手を引け。」と言われました。そのとき、ダビデがいたのがこのエブス人アラウナの打ち場でした。主は、そこに祭壇を築きなさいとダビデに言われたので、ダビデはそこに主の祭壇を築いたのです。これはどういうことかというと、このアラウナの打ち場こそ、主がご自身を現わしてくださる所ということです。すなわち、そこは神のさばきだけでなく、罪の赦しと神のあわれみが示される場所であるということです。

そこはかつてアブラハムがその子イサクを神にささげようとしたモリヤの山であり、やがてダビデの子孫から出る救い主イエス・キリストが、十字架につけられる場所になるところです。そして、そこにダビデの子ソロモンが神殿を建てることになるのです。つまり、確かにダビデは主の前に罪を犯しましたが、その罪を認め、悔い改めて主に立ち返ったとき、主は、その背信を癒してくださったばかりか、そこからご自身の救いの御業を始められたのです。

これが、神がなさることです。神は、あなたがどんなに罪を犯しても、その罪を認め、ご自身のもとに立ち返るなら、その罪を癒し、そこからご自身の救いの御業を始めてくださいます。あなたもこの真実な神の愛に立ち返ってください。神はあなたを決して裏切ることはなさいません。その御言葉の約束のとおりに、あなたの背信を癒し、まことの救いを与えてくださるのです。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。

エレミヤ3章6~18節「背信の子らよ、立ち返れ」

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 今日は、エレミヤ書3章6~18節までから「背信の子らよ、立ち返れ」というとタイトルでお話します。エレミヤは3章1節で、「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」と問いかけました。それに対する答えは、No , but Yesでした。神の律法ではNoです。しかし、神は律法を越えたお方です。律法では、他の男たちと姦通した妻を去らせ、彼女がほかの男のものとなったら、先の夫のもとに戻ることはできませんでした。汚れているとされたからです。しかし、神はそのように汚れた者でも、もう一度受け入れてくださるというのです。それは神が律法をないがしろにしているというのではなく、神ご自身がそれを処理してくださったからです。罪は罪として処理しなければなりませんが、その罪の処理を、罪を犯した本人ではなく、神の御子イエス・キリストの十字架で負わせてくださったのです。ですから、この御子を信じる者はそのすべての罪がきよめられ、全く罪を犯したことがない者とみなされるのです。すごいですね。これが神のあわれみです。ですから、もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなっても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。受け入れてくださる。だから、「わたしに帰れ」と言われるのです。

 今回はその続きです。神は、背信の子らに、立ち返れ、と呼び掛けておられます。12節に「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。また、14節にも「背信の子らよ、立ち返れ」とあります。ここでのキーワードは「帰れ」です。どんなに罪に汚れていても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださいます。神はいつまでも怒っておられる方ではありません。神は恵み深いのです。ですから、私たちは自分の咎を素直に認め、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

 きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、彼らが罪に陥った原因です。それは彼らが、歴史から何も学ばなかったからです。第二に、神に立ち返る理由ですね。それは、主は恵み深い方であられるからです。第三に、その結果です。罪を悔い改めて神に立ち返る者に、神は回復と祝福を与えてくださいます。

 Ⅰ.歴史から学べ(6-10)

まず、イスラエルが神に背くようになった原因を見てみましょう。6~10節をご覧ください。「6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。7 わたしは思った。彼女がこれらすべてを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかし、帰っては来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。8 背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった-主のことば。」

「ヨシヤ王の時代」、これが、エレミヤ書が書かれた背景にあるものです。具体的には1章2節にありますが、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことで」す。それはBC627年のことでした。その年にエレミヤは預言者として召命を受けるのです。ですから、この3章6節の出来事は、それから数年後のことです。おそらくBC625年頃のことでしょう。その時、主がエレミヤに言われました。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。」

この「イスラエル」とは、北王国イスラエルのことです。イスラエル王国はソロモン王の死後、北と南に分裂しました。北王国イスラエルと南王国ユダです。BC931年のことです。その北王国イスラエルはここで「背信の女」と呼ばれています。彼らはあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行いました。これは偶像礼拝のことです。霊的姦淫ですね。しかし主は、イスラエルが悪行の限りを尽くした後で、ご自身のもとに帰って来るだろうと思っていましたが、彼らは帰って来ませんでした。その結果どうなったでしょうか。8節にこうあります。「背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。」これはBC722年に起こったアッシリヤ捕囚と呼ばれている出来事です。北王国イスラエルはアッシリヤの攻撃を受けて滅び、捕囚の民として連れて行かれたのです。

問題はそれを見ていた南王国ユダです。ここでは南王国ユダが、北王国イスラエルの妹として描かれています。その妹のユダが、姉のイスラエルがたどった歩みを見ても、悔い改めることをしませんでした。8節には「しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も淫行を行った」とあります。この「恐れもせず」とは、神様を恐れもしなかった、ということです。神様を恐れない者は罪を止めることをしません。9節には、「彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した」とあります。すなわちユダはイスラエルと同じように、偶像礼拝を行ったのです。ですから10節で彼らは「裏切る女」と呼ばれているのです。姉の北王国イスラエルは「背信の女」でしたが、妹の南王国ユダは「裏切る女」です。背信の女もひどいですが、「裏切る女」もひどいです。いや、背信よりも裏切りの方がひどいでしょう。なぜなら「背信」とは神に背を向けることですが、「裏切り」とは顔と顔を合わせていながら、なおかつ背信行為をすることだからです。それが10節で言われていることです。彼らは「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち帰らず、ただ偽ってそうしただけだった」のです。どういうことかというと、彼らは一応エルサレムの神殿で礼拝をしていましたが、それはただの形だけのものであって、心からのものではなかったということです。一応エルサレムの神殿に身を置いていましたが、そこに身を置きながら、同時に偶像を拝んでいたのです。それはちょうどクリスチャンが一応教会には来てはいるけれど、そこに心が全く伴っていないようなものです。教会には来るけれどもそれは極めて形式的であり、儀式的なものであって、心は全く別のところにあるようなものです。何とかその時間をやり過ごせばいい、とりあえず教会に通うといった感じです。心のすべてをもって主に立ち返るのではなく、ただ偽ってそうしているだけだったのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが歴史から何も学ばなかったことです。妹のユダは、姉のイスラエルがたどった道を見て、神に背くとどうなるかを学ぶべきでした。というのは、7節に「妹のユダもこれを見た」とありますが、彼らは姉の北王国イスラエルが主に背いた結果どうなったのかを見ていたからです。北王国イスラエルは神に背いた結果、アッシリヤによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。BC722年のことです。あれから100年が経っていました。それは南ユダにとって大きな警告となるはずだったのに、学ぶべき教訓がたくさんあったにもかかわらず、彼らは何も学ばなかったのです。それどころか、妹のユダもまた偶像礼拝にふけり、聖なる目的のために与えられた約束の地を汚してしまいました。確かにヨシヤ王の時代(BC640~609年)、一時的なリバイバルが起こりましたが、それさえも表面的な宗教改革であって、内面的な悔い改めには至らなかったのです。その結果、彼らもまた離縁状を渡されることになります。それがBC587年のバビロン捕囚です。

それは南ユダだけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも過去の歴史から学ぶべきです。「人が歴史から学んだことがあるとすれば、それは、人は歴史から何も学ばないということである」と言った人がいますが、その通りだと思います。私たちは過去の歴史から学ぼうとしません。

たとえば、今オミクロン株でコロナウイルス感染が爆発的に拡大していますが、これは今に始まったことではなく、これまでの歴史の中でも何回も繰り返されてきていることです。たとえば、100年前に「スペイン風邪」が流行し、世界中で多くの死者を出しました。今回のコロナウイルスでも本当に多くの方が亡くなっておりますが、このことはいったい私たちに何を教えているのでしょうか。それはこうしたパンでミックに対する最大の備えは、すべてを治めておられる創造主なる神を恐れて生きるということです。もちろん、こうした疫病に対する治療法などの研究も重要です。しかし、こうした疫病に対して私たちができることは限られているのです。そのことを認め、私たちの知恵を越えたところで支配しておられる創造主を恐れることが求められているのです。しかし人類は、それとは逆に神を無視し人間の力、科学の力だけで乗り越えようとしています。歴史から学ぼうとしないのです。

歴代誌第二7章13~15節には何とあるでしょうか。「13 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、14 わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」

ここに、「わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには」どうすればよいかが記されてあります。そのときには、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」とあります。歴史から教えられることは、このような疫病が起こったときには、主の民が自らへりくだり、祈りをささげ、主の顔を慕い求めてその悪い道から立ち返ることです。そうすれば、主は親しく天から聞いて、私たちの罪を赦し、この地を癒してくださいます。これが主の約束です。これが歴史の中で教えていることです。ワクチンも大切でしょう。でもそれ以上に大切なのは、主の前にへりくだり、悔い改めて主に立ち返ることです。そうすれば、主は天から聞いて、この地を癒してくださいます。この歴史から学ぶべきです。

南王国ユダは、北王国イスラエルの失敗から学ぶべきでした。その悪いお手本から、それを半面教師として学ぶ必要があったのです。でも彼らは学びませんでした。こうした経験から学ぶことは大きいことです。それだけのことを自分で体験しようと思ったら、かなり高くつくことになります。しかし、他の人の経験や、他の人の失敗から学ぶなら、そうした代償を払う必要はありません。私たちはそれを歴史の先人たちや聖書から学ぶことができるのです。これはありがたいことです。にもかかわらず、そこから学ぼうとしなかったら残念です。もし南ユダが北イスラエルから学んでいたら、偶像礼拝をして、堕落して、神から捨てられる必要など全くなかったでしょう。それなのに、彼らは学びませんでした。それが彼らの問題だったのです。

 Ⅱ.背信のイスラエルよ、帰れ(11-13)

次に、11~13節をご覧ください。ここには悔い改めの招きと、その理由が語られています。「主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。12 行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば- わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。-主のことば- わたしは、いつまでも恨みはしない。13 ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。あなたはあなたの神、主に背いて、青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし、わたしの声に聞き従わなかった。-主のことば。」

主はエレミヤに言われました。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。」別に北王国イスラエルが正しかったということではありません。南王国ユダよりも正しかったということで、あくまでも彼らは「背信の女」であることには変わりはありません。ただユダよりも罪が軽かったのです。なぜなら、ユダにはイスラエルという反面教師がいたのに、そこから学ばなかったからです。イスラエルにはそれがありませんでした。ただそれだけのことです。北王国イスラエルも悪かったのです。

それで主はエレミヤに、「行って、北の方に叫べ」と言われました。「背信のイスラエルよ、帰れ。」と。「帰れ」ということばは、この書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止めて、主のみを神として崇めて生きるように、ということです。そうすれば、主は赦してくださいます。ここには「わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。」とあります。「顔を伏せはしない」は、新改訳第三版では「しからない」、新共同訳では「怒りの顔を向けない」と訳しています。口語訳でも「怒りの顔をあなたがたに向けない」と訳しています。つまり、主はいつまでも怒っていないのです。たとえイスラエルが「背信の女」と呼ばれても、たとえ離縁状を渡して追い出した妻であっても、「帰れ」と言われるのです。それは、主は恵み深いからです。主は不正や罪を見逃さずに怒られる方ですが、いつまでも怒り続けることはしません。あなたが自分の咎を素直に認めて主に立ち返るなら、主はあなたの背きの咎を赦してくださるのです。

あの放蕩息子は、父親から財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たすと、食べることにも困り果て、ついには豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいほどになりましたが、その時彼ははっと我に返るのです。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行ってこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

こうして彼が立ち上がり、父のもとへ向かうと、父親は彼を見付け、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしました。「よく帰って来た」と。そればかりではありません。父親は急いで一番良い着物を持って来て着せると、手に指輪をはめ、足に履き物をはかせました。そして肥えた子牛を引いて来て屠り、お祝いしたのです。父親はどれほどうれしかったことか。その喜びが溢れています。

人間の父親でさえ、こんなにも愛しているのに、父である神の愛が、これよりも劣ると思いますか。私たちに対する神の愛は、海のように深く、空のように高いのです。ここには「わたしは恵み深いから」とあります。主は恵み深いのです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、あなたはあなたの咎を認めなければなりません。悔い改めて、神に立ち帰らなければならないのです。神が用意してくださったひとり子イエス・キリストを信じなければならなりません。これが、神が用意してくださった救いの道です。もしあなたが主の御声に従い、主に立ち返るなら、主はあなたの背きを癒し、豊かな恵みを注いでくださるのです。

 Ⅲ.悔い改める者にもたらされる恵み(14-18)

 第三に、悔い改める者にもたらされる神の恵みがどほど大きなものであるのかを見て終わりたいと思います。14~18節をご覧ください。「14 背信の子らよ、立ち返れ──主のことば──。わたしが、あなたがたの夫であるからだ。わたしはあなたがたを、町から一人、氏族から二人選び取り、シオンに連れて来る。15 また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。16 あなたがたが地に増えて多くの子を生むとき、その日には──主のことば──人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。彼らがそれを思い出すことも、調べることもなく、それが再び作られることもない。17 そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。18 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。」

 14節には、主がイスラエルに向かって「背信の子らよ、立ち返れ」と言われますが、ここにその理由が記されてあります。それは「わたしが、あなたがたの夫であるからだ。」この聖句には、ことばの遊びというか、偶像の神バアルに対する明白な挑戦が見られます。というのは、この「夫」と訳されている言葉は、ヘブル語で「バアル」という言葉なんです。ここで主は、神として権威を持っているまことの夫は誰なのか、それは「バアル」ではなくこのわたしであると強調しているのです。

 そして14節後半において、「わたしはあなたがたを、一つの町から一人、一つの氏族から二人選び取って、シオンの丘に、契約の箱が置かれている聖所に連れて来る」と言っておられます。これは文字通り一人、二人ということではなく、わずかながらも、ということです。わずかながらも、神に立ち帰ろうとする人たちがいて、その人たちをシオンに連れて来るというのです。これはイスラエルの「残りの者」のことです(イザヤ10:22,28:5)。神はイスラエルを完全に滅ぼすことはなさいません。わずかながらも残りの者を備えてくださり、そこから回復されるのです。滅び去って当然の民の中に「残りの者」を残し、その一人をもって新たなる救いの歴史の出発点とされるのです。これは、彼らの時代的に見るなら、アッシリヤとかバビロン捕囚からの解放のことですが、それはこれから起こることの預言でもあります。すなわち、イエス・キリストが再びこの世に戻って来られるときにもたらされる救いの完成のことです。それは16節に「その日」とありますし、17節にも「そのとき」とあります。また18節にも「その日」とあることからわかります。この「その日」とか「そのとき」というのは、世の終わりの終末預言のキーワードです。すなわち、エレミヤはここで、単にイスラエルがアッシリヤやバビロン捕囚から解放されて戻って来た人たちによってイスラエルの新たな救いの歴史の1ページを始めていくということを語っているだけでなく、はるか遠い未来にイエス・キリストが再びこの世に戻って来られるとき、主はその残りの者を通してイスラエルの民に完全な解放をもたらしてくださることを預言していたのです。

 そのときどんなことが起こるのでしょうか。16節には「その日には、主のことば。人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。」とあります。また17節には「そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。」とあります。

 これはどういうことかというと、そのとき、イエス・キリストは王の王、主の主として、エルサレムに御座を設けられるので、エルサレムは「主の御座」と呼ばれ、そこでイエス・キリストが治めてくださるということです。ですから、もう主の契約の箱は必要ありません。主の契約の箱には十戒が刻まれた2枚の石の板が収められていましたが、それは神の臨在の象徴でした。でも、それはもう必要ないのです。なぜなら、主イエス・キリストがそこにおられるからです。神がそこに臨在しておられるのです。本物があればその模型は必要ありません。主の契約の箱は、いわばイエス・キリストの影のようなものでした。本人が目の前にいるので、もはや影は必要ないのです。本人が目の前にいるのに、いつまでもその人の写真を大事に扱う人はいません。目の前に本人がいれば、それで十分なのです。たとえば、皆さんに夫がいて、その夫のことをとても愛しているとします。だから、その夫の写真を肌身離さず持っているわけですが、その夫が家に帰ってきらどうしますか。夫には知らんふりして、その写真に必死に語り掛けるようなことをするでしょうか。あなたのダーリンがあなたのそばにいるのに、ダーリンの写真に向かって「ハ~イ、ダーリン」なんて言いません。本物がいるからです。本物がいなければ写真に語り掛けるということもあるでしょうが、本物がいればそれで十分なのです。主の契約の箱は、主イエス・キリストの影のようなものでした。ですからイエス・キリストがいる今、もう契約の箱は必要ないのです。契約の箱について語ることも、それが心に上ってくることもありません。イエス様がそこにおられるからです。

そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民がこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはしません。その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともども、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来るのです。「北の国から」とは北海道のことではありません。それはイスラエルの北の国のことで、アッシリヤとかバビロンのことを指しています。それは先ほども申し上げたように、彼らの時代から見ればアッシリヤとかバビロン捕囚から解放のことですが、遠い未来のことで言うなら、イスラエルが世界の果てから集められるということであり、やがてイエス・キリストが再臨されるとき、私たちを含むすべての民、万国の民がこの御座、エルサレムに集められ、二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない、ということです。

いつかそういう時がやって来ます。それはそう遠くないように感じます。そのときには一切の罪が取り除かれ、また、罪によって腐敗した世界が回復されるのです。そういう時がやって来ます。すばらしい約束です。これこそ真の希望です。この世にあってはコロナのような問題や戦争の不安、病気の苦しみ、人間関係のトラブル、経済の苦しみなど心が休まりません。けれども、そうした中にあってイエス・キリストが来られあなたの心を治めてくださるとき、そうした不安や恐れから解放され、神の臨在と平和の中を生きることができるのです。そのために私たちに求められているのは何でしょうか。13節、「ただ、あなたが自分の咎を認めよ」です。ただ、あなたの咎を認め、悔い改めて主に立ち返るなら、あなたもこのような恵みを受けるのです。もう宗教的な儀式とか、プログラムとか、奉仕とか、活動に頼らなくてもいいのです。ただ、あなたはあなたの咎を認めるだけでいいのです。あなたが神に立ち立ち返るなら、あなたは主イエスの御支配を受け、さながら天国のような人生を歩むことができるのです。私たちにはこのようなすばらしい約束が与えられているのですから、主の招きに応答して、ただ、あなたの咎を認めて、主に立ち返りましょう。主の驚くべき恵みが、あなたにも豊かに注がれますように。

Ⅰ列王記1章

 今日から列王記第一に入ります。早速本文に入りたいと思います。

 Ⅰ.王位継承問題(1-10)

 まず1~10節をご覧ください。「1 ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。2 家来たちは王に言った。「王のために一人の若い処女を探し、御前に仕えて世話をするようにし、王の懐に寝させて王が温まるようにいたしましょう。」3 こうして彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を探し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。4 この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。
 5 ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。6 彼の父は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった。そのうえ、彼は非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子であった。7 彼がツェルヤの子ヨアブと祭司エブヤタルに相談をしたので、彼らはアドニヤを支持するようになった。8 しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者ナタン、それにシムイとレイ、およびダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。9 アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、羊、牛、肥えた家畜をいけにえとして献げ、王の息子たちである自分のすべての兄弟たちと、王の家来であるユダのすべての人々を招いた。10 しかし、預言者ナタン、ベナヤ、勇士たち、そして自分の兄弟ソロモンは招かなかった。」

列王記は、実際はそのままサムエル記第二の続きになっています。つまり、サムエル記第二の最後にダビデの晩年について書かれてありましたが、列王記第一はダビデの晩年の姿が描かれているのです。そしてダビデが死に、王権はその子ソロモンに受け継がれていき、イスラエル王国が隆盛を極める話へと移っていきます。

1節には「ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。そのため衣をいくら着せても温まらなかった。」とあります。このときダビテ70歳くらいになっていたと考えられます。というのは、Ⅱサムエル記5章4節によると、彼は30歳で王となり、40年間王であった、とあるからです。彼は、死の直前肉体的に非常に弱くなっていました。血行が悪かったのか、自分で体を温めることができませんでした。いくら衣を着せても温まりませんでした。それで家来たちは王に、若い処女を連れて来て、王の懐に寝させて温まることができるように、また、王に仕えて世話をさせるようにしましょう、と進言しました。

こうして王の前に連れて来られたのは、シュネムの女でアビシャグという女性でした。シュネムは、ガリラヤ湖の南東タボル山の麓にある町です。ダビデの家来たちが、エルサレムからガリラヤ地方まで、この任務にふさわしい美しい娘を探し回ったことがわかります。今でいうとミス・日本のような女性だったのでしょうか。彼女は非常に美しかったとあります。それで彼女は王の世話をするようになりましたが、王は彼女を知ることがなかった、つまり、性的関係を持つことはありませんでした。それは彼が年を取り過ぎて生殖機能が衰えてしまったからというよりも、バテ・シェバとのことから、その罪を悔い改め、愛に裏づけられた結婚関係以外の性的関係を絶っていたからだと思われます。もしかすると、この後で王位継承問題が勃発しますが、子を儲けることでその問題がさらに複雑になることを避けたのかもしれません。

このようにダビデが非常に老いてしまったことにより、イスラエル王国の王位継承問題が浮上してきました。5節をご覧ください。「ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。」

アドニヤは、ダビデの四男です。すでに長男のアムノンと三男のアブシャロムは死んでいました。次男はキルアブですが、彼のことについてはⅡサムエル記3章3節に出てくるだけで、その後は出てきません。おそらく、若くして死んだのでしょう。そして、四男がこのアドニヤ(Ⅱサムエル3:4)でした。彼は生存していた息子たちの中では、最年長に当たります。ですから彼は、自分がダビデの後を継ぐことができると考えたのでしょう。それで彼は「私が王となる」と宣言し、戦車、騎兵、それに自分の前に走る50人を手に入れました。

しかし、すでにダビデはその子ソロモンに王位を継承すると話していました。Ⅰ歴代誌22章にあります。ここには、ダビデが主の命じられた通りにエブス人オルナン(アラウナ)の打ち場を買い、そこに神の宮を建てる計画が示されてありますが、それを実行するのはソロモンであると語られていました。Ⅱ歴代誌22章9~10節にはこうあります。「9 見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。10 彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしの子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』」

アドニヤが、そのことを知らなかったわけではありません。それなのに、彼がこのようなことをしたのはどうしてか。一つは5節にあるように、野心を抱いたからです。こうした彼の態度は、野心と思い上がりの結果から出たことだったのです。彼は父ダビデ王の存命中に「私が王になろう」と心に決めていたことがわかります。このような下劣な人間がイスラエルの王になっていいはずがありません。彼が戦車や騎兵、そして自分の前を走る50人の者を手にいれたのも、ただ民の関心を買うためでした。

もう一つの理由は、6節に「彼の父は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった。そのうえ、彼は非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子であった。」とありますが、彼は父ダビデからとがめられたことが一度もなかったからです。つまり、彼は甘やかされて育ったのです。こうした自己中心的な性格が、彼をこのような行動へと走らせたのです。確かに彼は非常に体格もよく、美男子(新改訳)で、姿の良い人(口語訳)であり、堂々として(新共同訳)いたこともあり、イスラエルの民の注目を受けていたのかもしれませんが、そうした見かけの良さは、王としての資質とは無関係です。彼には王として備えるべき判断力や知恵、義なる性質といった資質が備えられていませんでした。

王位を狙うアドニヤはどうしたでしょうか。7節をご覧ください。彼は有力な指導者たちの中から支持者を集めます。それがツェルヤの子ヨアブであり、祭司エブヤタルでした。ヨアブは将軍で、ダビデの治世の最初からダビデに仕えてきた人物です。またエブヤタルはアヒメレクの子です(Ⅰサムエル23:6)が、祭司の町ノブがサウル王によって皆殺しにされたとき、そこから逃亡してダビデのもとに身を寄せた人物です(Ⅰサムエル22:20)。それ以来、エブヤタルはダビデの助言者となっていましたが、その彼がダビデを裏切ってアドニヤを支持するようになったのです。一方、祭司ツァドクと軍隊における重鎮であったベナヤ、そしてダビデの友人でもあった預言者ナタンは、アドニヤにくみしませんでした。

アドニヤは、エン・ロゲルの近くにあるゾヘレテの石のそばで、自分のすべての兄弟たちと、王の家来であるユダのすべての人々を招いて祝宴を開きました。これは、実質的に彼が王であることを確認させるためのものでした。自分の兄弟たちを招いたのは、彼らに王位継承を放棄させるためです。また、自分を支持してくれる人たちだけを招き、そうでない人たちは招きませんでした。招待から漏れたのは、彼らくみしなかった預言者ナタン、ベナヤ、勇士たち、そして自分の兄弟ソロモンです。預言者ナタンは宗教的力を持っていたからでしょう。また、ベナヤは軍事的力を持っていました。そしてソロモンは、王位継承者として指名されていたからです。

アドニヤのやり方は、話し合いによる平和的な解決ではなく、自分の敵を除去しようとする暴力的なものでした。神を恐れる者は一か八かの暴挙に出来るのではなく、常に平和的な解決を求めなければなりません。主イエスは「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもとよばれるから」(マタイ5:9)と言われました。私たちは主の御言葉に従い、平和をつくる者となることを求めていきたいと思います。

 Ⅱ.ソロモンの油注ぎ(11-40)

次に11~40節までをご覧ください。まず14節までをお読みします。「そこで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。「われらの君ダビデが知らないうちに、ハギテの子アドニヤが王になったことを、あなたは聞いていないのですか。12 さあ今、あなたに助言をしますから、自分のいのちと、自分の子ソロモンのいのちを救いなさい。13 すぐにダビデ王のもとに行って、『王様。あなたは、このはしために、「必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く」と誓われたではありませんか。それなのに、なぜアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。14 あなたがまだそこで王と話している間に、私もあなたの後から入って行って、あなたのことばが確かであることを保証しましょう。」」

このアドニヤの王位乗っ取り計画に対して、預言者ナタンが素早く行動に移します。彼は、アドニヤが王になったら、自分の脅威となるソロモンとその母バテ・シェバを殺すことは明らかであると思いました。そこで彼はバテ・シェバのところへ行き、彼女に助言します。それは、彼女がダビデ王にところへ行き、ソロモンが彼の跡を継いで王となると誓ったことを思い出させるようにせよということ、そして、その話をしている間に自分も行って、彼女のことばが確かであることを保証するというものでした。これは、モーセに律法に基づくものでした。すなわち、それが真実であるかどうかを証明するためには、2人以上の証人が必要であると定められていたからです。もしダビデの記憶が薄れたとしても、預言者ナタンが証人として証言するなら、ソロモンの王位継承の正当性が保証されることになります。

15~21節をご覧ください。「15 バテ・シェバは寝室の王のもとに行った。王は非常に年老いていて、シュネム人の女アビシャグが王に仕えていた。16 バテ・シェバがひざまずいて、王に礼をすると、王は「何の用か」と言った。17 彼女は答えた。「わが君。あなたは、あなたの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く』と、このはしためにお誓いになりました。18 それなのに今、ご覧ください、アドニヤが王となっています。王様、あなたはそれをご存じではないのです。19 彼は、雄牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとして献げ、王のすべてのお子様と、祭司エブヤタル、それに軍の長ヨアブを招いたのに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。20 王様。王様の跡を継いで王座に就くのはだれと告げられるのかと、今や、全イスラエルの目はあなたの上に注がれています。21 このままですと、王様がご先祖とともに眠りにつかれるとき、私と私の子ソロモンは罪ある者と見なされるでしょう。」」

それでバテ・シェバは王のもとに行きました。そして、ナタンが助言したように、ソロモンがダビデの跡を継いで王になると誓ったこと、にもかかわらず、アドニヤが王になろうとしていることを告げます。ダビデ王はそのことを知らなかったようです。それでバデ・シェバは、だれがダビデ王の跡を継いで王座に就くのかを告げるようにと勧めています。そうでないと、もしやダビデ王が先祖たちとともに眠りにつかれるとき、自分と自分の子ソロモンは罪ある者とみなされて殺されることになるでしょう。

この直訴には、バテ・シェバとソロモンのいのちがかかっていました。それゆえ、彼女は必至に王にアピールしたのです。このバテ・シェバの知恵と熱意から学びましょう。私たちも神の約束に立ち、命がけで願うなら、神は私たちの祈りを聞いてくださいます。あなたの祈りはどうでしょうか。これほどの知恵と熱意をもって祈っているでしょうか。神が約束されたことは必ず成就します。そのことを信じて、あきらめないで、熱心に祈り続ける者でありたいと思います。

次に22~31節までをご覧ください。「22 彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンが入って来た。23 家来たちは、「預言者ナタンが参りました」と言って王に告げた。彼は王の前に出て、地にひれ伏し、王に礼をした。24 ナタンは言った。「王よ。あなたは『アドニヤが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に就く』とおっしゃったのでしょうか。25 実は今日、彼は下って行って、雄牛や肥えた家畜や羊をたくさん、いけにえとして献げ、王のお子様すべてと、軍の長たち、そして祭司エブヤタルを招きました。彼らは彼の前で食べたり飲んだりしながら、『アドニヤ王、万歳』と叫びました。26 しかしあなたのしもべのこの私や、祭司ツァドク、エホヤダの子ベナヤ、それに、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。27 このことは、王から出たことなのですか。あなたは、だれが王の跡を継いで王座に就くのかを、このしもべに告げておられません。」

28 ダビデ王は答えた。「バテ・シェバをここに。」彼女が王の前に来て、王の前に立つと、29 王は誓って言った。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。30 私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」31 バテ・シェバは地にひれ伏して王に礼をし、そして言った。「わが君、ダビデ王様。いつまでも生きられますように。」」

彼女がまだ王と話しているうちに、預言者ナタンが入って来ました。打ち合わせの通りです。ナタンもまた王に敬意を払い、アドニヤが王座に着いたことを告げます。ダビデの最も私的な秘密を知っているナタンとその相手であるバテ・シェバが同時にダビデの前に現れたのですから、彼の心が動揺しないはずがありません。彼が言ったことはバテ・シェバが言ったこととほとんど同じでした。ただバテ・シェバが伝えたことよりももっと新しい情報を連れ加えています。それは、アドニヤが王として即位して宴会を催しているということでした。そして27節にあるように、ダビデの跡を継いで王になるのはだれなのかを明言するようにと決断を迫りました。

ナタンの言葉を受けたダビデ王はすぐに決断しました。それは、ソロモンが彼の跡を継ぐということです。まず、ダビデ王はバテ・シェバを自分の部屋に呼び入れ、彼女に誓ってこう言いました。29~30節です。「主は生きておられる。主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。私がイスラエルの神、主にかけて、『必ずあなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に就く』とあなたに誓ったとおり、今日、必ずそのとおりにしよう。」

ダビデ王は、後継者としてソロモンを指名しました。ソロモンが彼の跡を継いで王になると。しかもそれを「今日」すると言ったのです。バテ・シェバは地にひれ伏し、「わが君、ダビデ王様。いつまでも生きられますように。」と言いました。これは、王が正しい決断をしたので、神が長寿をもって祝福してくださるようにという祈りです。

神の御心を確信したダビデは「今日、必ずそのとおりにしよう」と言って、すぐにそれを行動に移しました。

32~40節をご覧ください。「32 それからダビデ王は「祭司ツァドクと預言者ナタン、それにエホヤダの子ベナヤをここに呼べ」と言った。彼らが王の前に来ると、33 王は彼らに言った。「おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。34 祭司ツァドクと預言者ナタンは、そこで彼に油を注いでイスラエルの王とせよ。そうして、角笛を吹き鳴らし、『ソロモン王、万歳』と叫べ。35 それから彼の後に従って上れ。彼は来て、私の王座に就き、私に代わって王となる。私は彼をイスラエルとユダの君主に任命する。」36 エホヤダの子ベナヤが王に答えて言った。「アーメン。王の神、主も、そう言われますように。37 主が王とともにおられたように、ソロモンとともにいて、その王座を、わが君ダビデ王の王座よりもすぐれたものとされますように。」38 そこで、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それにクレタ人とペレテ人が下って行き、ソロモンをダビデ王の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ行った。39 祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、ソロモンに油を注いだ。彼らが角笛を吹き鳴らすと、民はみな、「ソロモン王、万歳」と言った。40 民はみな、彼の後に従って上って来た。民が笛を吹き鳴らしながら、大いに喜んで歌ったので、地がその声で裂けた。」

それでダビデは、祭司ツァドクと預言者ナタン、それにエホヤダの子ベナヤを呼び寄せ、ソロモンに油を注いで王とし、角笛を吹き鳴らして、「ソロモン王、万歳」と叫ぶように命じました。ソロモンを王の雌ろばに乗せるのは、彼が新しい王の地位に就いたことを民衆に示すためです。そして彼はダビデの王座に就き、ダビデに変わって王となります。

ダビデから命令を受けた3人のリーダーたちは、王が命じたとおりにソロモンを雌ろばに乗せ、ギホンの泉に行き、そこでソロモンに油を注いで王としました。この3人とは、祭司ツァドクと預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤです。これは、神からの承認と王からの承認、そして軍からの承認(ベレヤの賛同)を象徴していました。かくしてソロモンはダビデに代わってイスラエルの新しい王になったのです。

ここでダビデのすばらしかったのは、彼はそれが神の御心だと確信すると、すぐに行動に移した事です。次の王はソロモンであるとバテ・シェバに告げたダビデは、すぐにそれを実行しました。神の御心がわかっていても、なかなか重い腰を上げようとしない人がいます。あたかもそれが冷静で、信仰的であるかのように考えているのです。しかし、真に霊的であるとは、神の御心は何かを祈り求め、それが示されたならすぐに従うことです。御心を求めて祈ることは大切なことです。でももっと大切なのは、御心が示されたならそれに従うことです。「今日」という日に行動を起こす人は幸いなのです。

Ⅲ.ダビデの賛美 (41-53)

次に41~53節までをご覧ください。48節までをお読みします。「41 アドニヤと、彼とともにいた客はみな、食事を終えたとき、これを聞いた。ヨアブは角笛の音を聞いて言った。「なぜ、都で騒々しい音がするのか。」42 彼がまだそう言っているうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンがやって来た。アドニヤは言った。「入れ。おまえは勇敢な男だから、良い知らせを持って来たのだろう。」43 ヨナタンはアドニヤに答えた。「いいえ、われらの君、ダビデ王はソロモンを王とされました。44 ダビデ王は、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それに、クレタ人とペレテ人をソロモンにつけて送り出されました。彼らはソロモンを王の雌ろばに乗せ、45 祭司ツァドクと預言者ナタンが、ギホンで彼に油を注いで王としました。こうして彼らが喜びながら、そこから上って来たので、都が騒々しくなったのです。あなたがたが聞いたあの物音がそれです。46 しかも、ソロモンはすでに王の座に就きました。47 そのうえ、王の家来たちが来て、『神がソロモンの名をあなたの名よりもすぐれたものとし、その王座をあなたの王座よりも大いなるものとされますように』と、われらの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると、王は寝台の上でひれ伏されました。48 また、王はこう言われました。『イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。』」

アドニヤと、彼とともにいた客はみな、食事を終えたとき、都で騒々しい音がするのを聞いて不安になりました。ソロモンの油注ぎが行われたギホンの泉までは、わずか1㎞しか離れていなかったからです。この音は何の音かとヨアブが尋ねたところに、祭司エブヤタルの子ヨナタンが入って来て、ダビデ王がソロモンを王としたことを伝えました。ヨナタンが報告したことは、すでに起こったことでしたが、新しい情報もあります。それは47節のことばです。「そのうえ、王の家来たちが来て、『神がソロモンの名をあなたの名よりもすぐれたものとし、その王座をあなたの王座よりも大いなるものとされますように』と、われらの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると、王は寝台の上でひれ伏されました。」これはどういうことかというと、ソロモンの即位後、ダビデの高官たちがダビデのもとに来て祝福の言葉を述べたということです。

それに対してダビデ王はこう言って応えました。48節です。「イスラエルの神、主がほめたたえられるように。主は今日、私の王座に就く者を与え、私がこの目で見るようにしてくださった。」この時点で、アドニヤの夢は完全についえ去りました。

ダビデは、ソロモンが王座に就いたことを感謝し主をほめたたえました。彼が主に感謝したことは、主が、息子ソロモンが王座に就くことをその目で見ることができるようにしてくださったということでした。私たちの子孫が主の救いに与ることをその目で見て天に召される人は幸いです。私たちの信仰は自分たちだけのものではなくその子孫にまで継承されることが大切です。そのことを覚えて祈りつつ、その実現のために私たち自身がしっかりと信仰に立ち、また教会全体がそのことを覚えて重荷を持つ者でありたいと思います。

最後に49~53節を見て終わりたいと思います。「49 アドニヤの客たちはみな身震いして立ち上がり、それぞれ帰途についた。50 アドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかんだ。51 そのとき、ソロモンに次のような知らせがあった。「アドニヤはソロモン王を恐れ、祭壇の角をしっかり握って、『ソロモン王がまず、このしもべを剣で殺さないと私に誓ってくださるように』と言っています。」52 すると、ソロモンは言った。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない。」53 それから、ソロモン王は人を遣わして、アドニヤを祭壇から降ろさせた。アドニヤが来てソロモン王に礼をすると、ソロモンは彼に言った。「家に帰りなさい。」」

ソロモン即位の知らせを聞いて、アドニヤの招待客たちはみな身震いして立ち上がり、それぞれ帰途につきました。そしてアドニヤもソロモンを恐れて立ち上がり、行って祭壇の角をつかみました。これはどういうことかというと、祭壇の角とは、神殿のところで、動物のいけにえをささげる青銅の祭壇のことです。その祭壇の四隅には角がありました。その角をつかめば、ちょうど逃れの町に逃れるように、自分の命を取るために追う者たちから救われると考えられていたのです。それで彼は行って祭壇の角をつかんだのです。

そのことがソロモンに知らせられました。するとソロモンはこう言いました。「彼が立派な人物であれば、その髪の毛一本も地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪が見つかれば、彼は死ななければならない。」(52)

ソロモンは寛容な態度で対処に当たりしました。ソロモンが求めたことは、アドニヤが謀反を起こさず善良なしもべとして生きることです。ソロモンはアドニヤを祭壇から降ろさせ、自分の前に立たせると、「家に帰りなさい」とだけ告げて、彼に恵みを施しました。

それにも関らず、アドニヤはその後ソロモンに反抗しその結果死刑に処せられることになります。詳細は2章に記されてありますが、アドニヤがダビデ王の死後、ダビデ王の王妃シュネムの女アビシャグを自分の妻にしようとしたのです。王の妻を自分の妻にするということは、王位を主張することと同じであったのです。自分の受けた恵みを忘れる者、また、失敗から学ばない者は愚かな者です。私たちは、神から大いなる恵みを受けました。その恵みを無駄にすることがないように注意しなければなりません。その恵みを無駄にしないというのは、その恵みに応答して生きるということです。パウロはこう言っています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」

神から受けた恵みを無駄にしないようにしましょう。神が私たちにキリストの救いというどれほど大きな恵みを与えてくださったのかを覚え、それに応答して生きる者でありますように。