Ⅰ列王記13章

 今日は、列王記第一13章から学びます。

 Ⅰ.1人の神の人(1-10)

まず、1~10節までをご覧ください。「1 一人の神の人が、主の命令によってユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。2 すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言った。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」3 その日、彼は一つのしるしを与えて、次のように言った。「これが主の告げられたしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして「彼を捕らえよ」と言った。すると、彼に向けて伸ばしていた手はしなび、戻すことができなくなった。5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手は元に戻り、前と同じようになった。7 王は神の人に言った。「私と一緒に宮殿に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたいのです。」8 すると神の人は王に言った。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。また、この場所ではパンも食べず、水も飲みません。9 というのは、主のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです。」10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。」

前回のところでは、ソロモンの子レハブアムが王位に着いたとき、北イスラエルの人々はヤロブアムを立てて、彼を通して重税を軽減してくれるようにレハブアムに頼みましたが、彼はそれを受け入れなかったので、北イスラエルはヤロブアムを王に立て、それで王国が北イスラエルと南ユダに分裂しましたこと学びました。それは、預言者アヒヤを通して語られたことを実現しようと、主がそのように仕向けられたからです。

しかしヤロブアムは、イスラエルの民がエルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行けば、民の心が自分から離れてしまうのではないかと恐れ、何と金の子牛を造って、それをダンとベテルに置きました。そればかりか、レビ人ではない一般人を祭司に任命して、自分勝手な祭儀を行いました。今日のところには、このヤロブアムの悪行を止めさせるために主が遣わされた一人の神の人が登場します。

この神の人は、主の命令によってユダからベテルにやって来ました。ここでのポイントは「主の命令によって」という言葉です。この言葉が、何度も出てきます(1,2,9節)。彼は主の命令によって南ユダから遣わされたのです。

ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていました。すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言いました。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。これが主の告げられたしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。

どういうことでしょうか。ダビデ王朝にヨシヤという一人の男の子が生まれるが、彼は高き所で仕える祭司たちをいけにえとして、その祭壇の上で焼いてしまうということです。そのしるしは、祭壇が裂け、その上の灰がこぼれ落ちるということです。

これは、驚くべき預言です。なぜなら、ヨシヤという具体的な王の名前を挙げて、ヤロブアムの祭壇の上で、人の骨が焼かれることを預言したからです。これは、約300年後に南ユダの王ヨシヤによって、ことごとく実現しました。Ⅱ列王記23:15~17に書いてあります。ヨシヤ王は、偶像礼拝をなくすために、ユダだけでなくイスラエルにも行って、ヤロブアムが造った祭壇も高き所も打ち壊し、焼いて粉々に砕いて灰にしました。また、墓から骨を取り出して、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとしたのです。この「一つのしるし」とは、将来に起こることの預言が確実であることを証明するための、今すぐに起こる出来事のことです。それは、祭壇が裂け、その上の灰はこぼれ出るということでした。つまり、祭壇で焼かれるいけにえが祭壇からこぼれ出て、生焼けのままで地に落ちるということです。

するとそれが実現します。ヤロブアムが、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして「彼を捕らえよ」と言うと、彼に伸ばしていたヤロブアムの手がしなびて、元に戻すことができなくなってしまいました。そして、この神の人が語ったとおりに、祭壇が裂け、祭壇から灰がこぼれ出たのです。この神の人が語った「しるし」が、すぐに成就したのです。

驚いたヤロブアムは、神の人に向かってこう言いました。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」

ここで注目していただきたいことは、ヤロブアムが「あなたの神、主」と言っていることです。彼はもはや、主との関係はなくなっていました。それで、神の人は、ヤロブアムの願いを聞き入れて祈ってあげると、彼の手は元に戻り、前と同じようになりました。これは、神の権威が王の権威に優るものであったことを示しています。それは、ヤロブアムが主に立ち返るようにするための主の御業でした。

ヤロブアムは感激し、この神の人に、自分と一緒に来て、食事をして元気をつけてくれるように頼みます。彼に贈り物をしたかったのです。しかし、その神の人はヤロブアムの申し出をきっぱりと断ります。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。」また、「この場所ではパンも食べず、水も飲みません。」と言いました。なぜなら、主のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられていたからです。おそらくこれは、北イスラエルが偶像で汚れており、これらの人々と交流しないで、ただ主が与えた使命を果たすという意図があったものと思われます。こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰って行きました。

Ⅱ.ベテルに住む老預言者(11-19)

しかし、次の箇所を見ると、これほどの神の人も誘惑に陥ってしまいます。11~19節をご覧ください。「11 一人の年老いた預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、彼らは、この人が王に告げたことばも父に話した。12 すると父は「その人はどの道を行ったか」と彼らに尋ねた。息子たちは、ユダから来た神の人が行った道を知っていた。13 父は息子たちに「ろばに鞍を置いてくれ」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、14 神の人の後を追って行った。そして、その人が樫の木の下に座っているのを見つけると、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と尋ねた。その人は「私です」と答えた。15 彼はその人に「私と一緒に家に来て、パンを食べてください」と言った。16 するとその人は言った。「私は、あなたと一緒に引き返して、あなたと一緒に行くことはできません。また、この場所では、あなたと一緒にパンも食べず、水も飲みません。17 というのは、私は主のことばによって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない』と言われているからです。」18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」こうして彼はその人をだました。19 そこで、その人は彼と一緒に帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。」

ここに一人の老預言者が登場します。彼はベテルに住んでいました。そして、彼の息子たちが彼のところに来て、ベテルでこの神の人がしたことを残らず話しました。また、この神の人が王に告げたことも話しました。

すると、父親である年老いた預言者は、息子たちから神の人が行った道を聞き出すと、ろばに乗って、後を追って行きました。そして、樫の木に座っていた神の人を見つけると、自分と一緒に家に来て、パンを食べてくれるようにと言いました。なぜこの老預言者は、このようなことを言ったのでしょうか。もしかすると、子どもたちの話を聞いて、このように主を愛する、すばらしい若者がいることを知って、ぜひとも時間を共に過ごしたいと思ったのかもしれません。自分はベテルにいながらヤロブアム王の悪行について何も言うことができなかったのに、この若者はわざわざユダからやって来て、すばらしい主の御業を行ったからです。あるいは、最初からこの神の人を陥れようとしていたのかもしれません。それはこの後で明らかになりますが、ただ一つだけ確かなことは、このこともまた主から出たことであったということです。この神の人は、その申し出を断りました。主から、ベテルではパンを食べてはならない、水を飲んでもならないと、命じられていたからです。

すると、この老預言者は何と言ったでしょうか。彼はこう言って神の人を騙します。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」

しつこいですね。ここにははっきりと「だました」とあります。老預言者は、自分の願望を果たすために神の人を騙したのです。何としてもこの神の人と一緒に食事をしたいと思ったのかもしれません。あるいは、自分も預言者のはしくれとして主から任職を受けている者としてプライドがあったのかもしれません。

すると、この神の人は彼と一緒に行き、彼の家でパンを食べ、水を飲んでしまいました。彼はそれが嘘であることを見抜けず、その誘いに乗ってしまったのです。つまり彼は、留まってはならないというベテルに留まってしまったのです。どうしてでしょうか。いろいろな理由が考えられます。たとえば、この老預言者が自分よりも年上の預言者であるということで、尊敬しなければならないという思いがあったかもしれません。あるいは、そこに同じ神のことばを伝える預言者という仲間意識が働いたのかもしれません。一つだけ確かなことは、一仕事終えた彼に安心感や心の緩みがあったということです。何か大きなことを成し遂げた後は、だれでも心に緩みが生じるものです。そういう心の隙を、悪魔が攻撃したのです。

イエス様はこう言われました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」また、Ⅰペテロ5:8には、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探しまわっています。」とあります。私たちの敵である悪魔は、吠えたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めて探しまわっています。このような失敗は私たちにも起こり得ます。ですから私たちも、誘惑に陥らないように祈らなければなりません。

Ⅲ.老預言者の嘆き(20-34)

問題は、その結果どうなってしまったかということです。そのことについて、20~34節にこうあります。「20 彼らが食卓に着いていたとき、その人を連れ戻した預言者に主のことばがあったので、21 彼は、ユダから来た神の人に呼びかけて言った。「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、22 引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」23 彼はパンを食べ、水を飲んだ後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に放り出され、ろばは、そのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。25 そこを人々が通りかかり、道に放り出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らは、あの年老いた預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばに背いた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡され、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」27 そして、息子たちに「ろばに鞍を置いてくれ」と言ったので、彼らは鞍を置いた。28 彼は出かけて行って、道に放り出されている死体と、その死体のそばに立っている、ろばと獅子を見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを引き裂いてもいなかった。29 そこで、年老いた預言者は神の人の遺体を取り上げ、それをろばに乗せて自分の町に持ち帰り、悼み悲しんで葬った。30 彼が遺体を自分の墓に納めると、皆はその人のために、「ああ、わが兄弟」と言って悼み悲しんだ。31 彼はその人を葬った後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。32 あの人が主のことばにしたがって、ベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての高き所の宮に向かって叫んだことばは、必ず成就するからだ。」

33 このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。34 このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった。」

この老預言者は、自分で騙しておきながら、ユダから来た神の人にこう言いました。「「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」

これは神の人に対する神の裁きの預言です。ひどいですね、自分で罠をかけておきながら、相手が罠に陥ると「ほら、みろ」と、今度は神の裁きを宣言するのです。実際、ユダから来たこの神の人は、神の命令に従わなかったので、この預言のとおりさばかれることになります。

24節以下をご覧ください。この神の人が用意されたろばに乗って帰路に着こうとすると、道で獅子に会い、殺されてしまいました。この獅子は、神の裁きの道具として神から送られたものでした。なぜなら、獅子はこの人をかみ殺しましたが、死体を食べることも、ろばを襲うこともしなかったからです。ただ死体のそばに立っていただけでした。

そのことを聞いた年老いた預言者は、死んだ神の人の遺体を持ち帰り、悼み悲しんで自分の墓に手厚く葬りました。また、町の人たちも皆、神の人の死を悼み悲しみました。彼はその人を葬った後、息子たちに、自分が死んだら、あの神の人を葬った墓に葬り、あの人の骨のそばに納めてくれと頼みます。全く理解に苦しみます。元はと言えば、自分のせいであの神の人が殺されることになったのではありませんか。それなのに、その神の人の死を悼み悲しみ、自分が死んだら彼の葬られた墓に葬ってくれと言うのは変な話です。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

33~34節に、その意味が記されてあります。「33 このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。34 このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった。」

ここで強調されているのは、ヤロブアムの罪です。ヤロブアムから始まった背教の罪は、北イスラエルの中に霊的腐敗をもたらしました。その結果、北王国イスラエルは、大地の面から根絶やしにされることになります。これは、B.C.722年にアッシリヤによって滅ぼされるという預言です。事実、その通りになります。そして、この神の人が神にさばかれるというこの出来事は、それを象徴していたのです。つまり、たとえ神の人(祭司、預言者、聖職者)であっても、神の命令に従わなければ、厳しくさばかれることになるということです。彼はパンを食べ、水を飲むというわずかばかりのことのために、真剣で忠実な態度を崩してしまいました。そして、神の命令に背いてしまったために滅びなければならなかったのです。

それは私たちに対する教訓でもあります。私たちは神を信じている者として、神のみことばに立ち、神のみこころを行いたちと願っています。しかし、ややもすると、このくらいなら大丈夫だろうと、神の命令を破ってしまうことがあります。その結果、この神の人が経験したような神の裁きを受けることになるのです。それはやがてアッシリヤによって滅ぼされてしまう北イスラエルの象徴でもありました。ですから、私たちはどんなささいなことでも、神のみこころから離れ、罪を犯しているなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。ヤロブアムは、それでも悔い改めず、悪の道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して祭司にしました。そのことがヤロブアムの家の罪となり、ついには大地から根絶やしにされることになりました。これは、あなたにも言えることなのです。これは私たちに対する警告なのです。主はいつも、私たちに警告を与え、主に立ち返る機会を与えてくださいます。その警告を聞き入れるかどうかは、一人一人に委ねられています。私たちはヤロブアムのように神を無視して悪を続けるのではなく、悔い改めて、主に立ち返りましょう。それがこの神の人の死が私たちに語っていることだったのです。

エレミヤ書9章1~9節「主を知るということ」

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主の御名を賛美します。今日はエレミヤ9:1~9のみことばから、「主を知るということ」というタイトルでお話したいと思います。

前回は、「エレミヤの涙」というタイトルでお話しました。エレミヤは、同胞が滅ぼされると聞いて、涙に打ちひしがれました。彼はそれを聞いたとき、いてもたってもいられなかったのです。それはきょうの箇所にも見られます。1節には「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」とあります。これは、どれほど泣いても泣き足りないという意味です。新共同訳では、9:1を8:23としていますが、そのようにも分けることもできます。ここにも、エレミヤと神様の民に対する心の痛みがよく描かれています。

ちなみに、漢字の「優」という字がありますが、これは「人」と「憂」の合成語です。人のために泣く人は優しい人です。エレミヤは「ああ」と叫んで、神への背信行為を続ける同胞イスラエルのために泣きました。いったいなぜユダの民は背信行為を続けたのでしょうか。いったいなぜ滅びなければならなかったのでしょうか。

きょうのところに、その原因が語られています。それは、主を知らなかったからです。3節後半と6節後半にそのことが繰り返して語られています。彼らは主を知らなかったので悪の道へと突き進んで行ったのです。いったい主を知るとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.不真実な民(1-3a)

まず、1~3a節をご覧ください。「1 ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。3 「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。」

今お話したように、エルサレムの崩壊を告げられたエレミヤは、敵の侵略によって殺される人たちの悲惨さを思い、涙を流します。「私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、昼も夜も、泣こうものを。」とは、どれほど泣いてもなき足りないという彼の思いを表しています。

ところが2節を見ると、「ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。」とあります。どういうことでしょうか。とてもエルサレムには住んでいられないということです。そこには姦通する者、裏切る者たちがいたからです。そういう人たちとは一緒に住むことができない。だから、もし荒野に旅人の宿を持っていたらそこに行って、彼らから距離を置きたいと言っているのです。あれっ、たった今、彼らのことをあわれんで、どんなに泣いても泣き切れないと言ったばかりなのに、今度は、そんな彼らから距離を置きたいと言っています。ここにエレミヤの心の動きというか、彼の心情がよく表われています。彼らが滅ぼされることを考えると本当にかわいそうで、かわいそうで、何とかならないものかともがいていますが、でも、いくら言っても聞こうとしない彼らには、ほとほと疲れ果てているのです。できれば少し離れたい。だれもいない静かなところで過ごしたい。もし荒野に旅人の宿があったら、そこに逃れて暮らしたい。そういっているのです。そんな彼のジレンマがよく表れているのではないでしょうか。

なぜエレミヤは彼らから距離を置きたいと思ったのでしょうか。それは、彼らはみな姦通する者であり、裏切り者だからです。そこには真実がありません。たとえば、ここに「姦通者」とありますが、姦通者とは何かというと、夫や妻を裏切る者のことです。そこには真実の愛がありません。イスラエルの民は、彼らの神、主という夫を裏切る者、姦通者でした。そこには主に対する真実な愛がありませんでした。彼らは裏切り者の集まりだったのです。

また、3節には、「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ」とあります。「舌をつがえて」という言い方はあまり聞きませんね。「つがえる」というのは元々、弓に矢をかけることです。それが総じて「曲げる」になりました。ですから、これは「舌を曲げて偽りを言う」ということです。第3版ではそのように訳しています。「彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる」と。つまり、彼らは嘘つきであったということです。「嘘も方便」という言葉がありますが、方便どころじゃありません。嘘ばかり言っていました。

このどちらにも共通しているのは何かというと、真実ではないということです。主が私たちに求めておられるのは何でしょうか。真実であるということです。どれだけ大きなことをしたかとか、どれだけ多くのものをささげたか、どれだけ伝道したかということではなく、真実であったか、誠実であったか、忠実であったかということです。

イエス様はこう言われました。「21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-22)

彼らとは、偽預言者たちのことです。彼らは主の名によって預言し、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって多くの奇跡を行いました。しかし、主はそんな彼らにこう言われたのです。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」恐ろしいですね。全然知らないというのですから。個人的に何の関係もなければ、話をしたこともないというのです。彼らはイエス様を知っているつもりでしたが、イエス様の方では全然知りませんでした。彼らは口では「主よ、主よ」と言っていましたが、そこに真実がなかったからです。

あなたはどうでしょうか。主があなたをご覧になられる時、何と言われるでしょうか。そこに偽りはないでしょうか。主が荒野に退きたい、あなたから距離を置きたいと思うような、不真実はないでしょうか。主があなたに求めておられるのは真実なのです。

「ある夜,ある男が隣人の畑からトウモロコシを盗もうと出かけて行きました。幼い息子を連れて行き、柵の上に座らせて,人が通りかかったときには警告するんだぞと告げて、見張りをさせました。男は大きな袋を腕に抱えて柵を飛び越え、トウモロコシを取り始める前にまず一方を見て、反対を見て、袋に詰めるところを目撃している人がいないか見渡しました。すると、息子が叫びました。

『お父さん、まだ見ていない方向があるよ!・・・上を見忘れてるよ!』」

だれもが受ける誘惑ですが、不誠実であるように誘惑されるとき、だれにも分からないと思うかもしれませんが、でも、天の神様はいつも見ておられます。私たちに必要なことは正直であることです。そうすれば、主はいつも私たちとともにいてくださいます。

ピリピ4:8にはこうあります。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

どうすれば、神があなたとともにいてくださるのですか。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することに心を止めることによってです。そうすれば、平和の神があなたとともにいてくださいます。神があなたから離れて荒野にある旅人の宿に住みたいと言われることがないように、真実、全き心をもって主に仕えていきたいと思います。

Ⅱ.主を知ることを拒んだ民(3b-6)

いったいなぜイスラエルの民は不真実の民、偽りの民となってしまったのでしょうか。次に、3b~6節をご覧ください。ここに、その最大の原因が語られています。それは彼らが主を知らなかったからです。「悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。──主のことば──4 それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。5 彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。6 あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」」

彼らが真実でなかったのは、彼らが主を知らなかったからです。この「知る」ということばは、ヘブル語で「ヤダー」と言います。皆さんは言わないでくださいよ。「ヤダー」。神様は「ヤダー」と言いませんが、私たちはよく「ヤダー」と言います。「宿題しなさい」、「ヤダー」。「手を洗いなさい」、「ヤダ―」。「部屋を片付けなさい」、「ヤダー」。「お手伝いしなさい」、「ヤダー」。何を言っても「ヤダー」です。先日、4歳になった孫を見ていると、いつもそうです。「ヤダー」。

この言葉が聖書の中で最初に使われているのは、創世記4:1です。ここには、「人は、その妻を知った。」とあります。この「知った」がそうです。この「人」とはアダムのことです。最初の人アダムは、その妻エバを知りました。この「知った」という言葉です。これはただ対面してエバという存在を知ったということではなく、もっと親密なレベルで、個人的に、人格的に知ったということです。それが夫婦であれば、性的関係を持ったということを表現しています。これ以上に親密なレベルでの知り方はありません。

エレミヤの時代、イスラエルの民は主を知っていると思っていました。彼らには主の宮がありました。また、祭司やレビ人がいて、主なる神に動物のいけにえをささげていました。しかし、確かにそこで宗教的な儀式を行っていたかもしれませんが、それは表面的ものにすぎませんでした。知識としては知っていましたが、自分の伴侶を知るというような深いレベルで知るということではありませんでした。

主を知らないとどうなるでしょうか。4~6節には、その結果三つの状況に陥ると言われています。第一に、人間関係がギクシャクします。4節には、「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。」とあります。

ユダの民は、神様との関係が完全に崩壊していました。神様を個人的、人格的なレベルで深く知っていたのではなく、ただ表面的に知っているにすぎませんでした。そのように神との関係が崩壊すると、人間関係も崩壊することになります。神様との愛の関係が壊れると、それぞれ互いの愛の関係も壊れてしまうことになるのです。神を信じられないので、人も信じられなくなります。ここには「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。」とあります。互いに不信感を抱くようになるのです。皆さん、どうして人間関係がうまくいかないのでしょうか。どうして人間関係がギクシャクするのでしょうか。それは神様との関係がうまくいっていないからです。神との関係がギクシャクすると、人との関係もぎくしゃくするようになります。ですから、人間関係がうまくいかない時に考えてほしいことは、あなたと相手との関係がどうであるかということではなく、あなたと神様との関係がどうであるかということです。もしあなたと神様と関係が良ければ、人との関係もうまくいきます。

4節には「どの兄弟も出し抜き」とありますね。この「出し抜き」という言葉は、ヘブル語で「アーコーブ」と言います。どこかで聞いたことはありませんか。「アーコーブ」、そうです、これはあの「ヤコブ」という名前の語源となった言葉です。ご存知のように、ヤコブはイスラエルの先祖となった人物です。「ヤコブ」という名前がイスラエルに改名されました。その子孫がイスラエル人です。この「ヤコブ」という名前は、「出し抜く」とか「押しのける」という意味があります。双子の弟ヤコブは、お母さんのおなかの中にいるときから兄のエサウのかかとをつかんで、エサウを出し抜きにいて、押しのけて先に出てこようとしました。長男の座を奪おうとしたのです。それは生まれてからもそうでした。彼は押しのける者だったのです。

そんなヤコブが砕かれる時がやって来ます。いつですか。叔父のラバンのところで20年間も仕えて、家族と一緒に故郷に戻って来る途中のことです。ヤボクの渡し場で一晩中神と格闘した時がありました。その時彼のももの関節が外れてしまいました。そのとき、神は彼に言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)彼はヤコブからイスラエルになりました。人を押しのける者から神によって支配される者へと変えられたのです。名は体を表します。名前が変わったということは、古い性質から新しい性質に変わったということを表しています。これまでは自分が中心となって人を押しのけ、ただ自分だけを信じ、自分の力、自分の思いですべてを成そうとしていました。そんなヤコブが神によって支配される者に変えられたのです。人を押しのけるという古い性質が、神によって砕かれて、神によって支配される者に変えられたのです。

それなのに、ヤコブの子孫であるイスラエルは、古い性質に逆戻りしてしまいました。「イスラエル」ではなく「ヤコブ」に戻ってしまったのです。その結果、人を信用できなくなってしまったのです。どの兄弟も出し抜き、どの友も中傷して歩き回るようになっていました。人間関係がギクシャクし、完全に崩壊していたのです。それは神を知らなかったからです。神を知らなかったので、人間関係まで崩壊してしまったのです。

第二に、神様を知らなかった結果、疲れきるまで悪事を働くようになりました。5節です。「彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。」

「疲れきるまで悪事を働く」とは、悪を働くことに熱心であるという意味です。悪を働くことに一生懸命なのです。汗水たらして悪事を働きます。それでも悔い改めません。それほど腐っていたのです。まさにうなじのこわい民です。頑固な民でした。ここまで来たら救いようがありません。そういう状態にまで堕ちていたのです。

第三に、神様を知らなかった結果、彼らは人を欺くというだけでなく、自分も欺いていました。6節には「あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。」とあります。彼らが住んでいたのは欺きの世界でした。うそで懲り固められた世界だったのです。人にも嘘をつくし、自分にも嘘をつきます。嘘だらけです。何一つ本当のことはありません。頭ではわかっていても、それとは裏腹のことをしていたのです。皆さんもそういうことありませんか。何が正しいかがわかっていても、それとは反対の行動を取ってしまうということが。

なぜでしょうか。それは、彼らが主を知ることを拒んだからです。知りたくないのです。頭で知っていればそれで十分だと思っていたのです。それを心まで引き下げようとしませんでした。そんなことしようものなら、へりくだることが求められるからです。そのためにはプライドを捨てなければなりません。やりたくないこともやらなければならないのです。自分の意志を殺してでも、神のみこころを行わなければならないからです。そんなの嫌です。ヤダモン!となるわけです。イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自 分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

そんなことしたくありません。それは大変なことです。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られました。それは汗が血のしずくのようにしたたり落ちるほどの壮絶な祈りでした。

でも、同じことが私たちにも求められています。私の思いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。これが私たちに求められている祈りです。これが主を知るということです。それでも神を人格的に、個人的に知りたいと願う人は、それを厭いませんと。どんな犠牲を払ってでも、神様に近づきたいと願うのです。肉においては拒否反応があっても、霊においてはもっと神様に近づきたい、神様を知りたい、神様と深い関係を持つことを求めているからです。

Ⅲ.最後の希望(7-9)

最後に、7~9節をご覧ください。「7 それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい、娘であるわたしの民に対してほかに何ができるだろうか。8 彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。9 これらについて、わたしが彼らを罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」」

それゆえ、万軍の主は彼らを精錬して試されます。彼らを炉の中で精錬されるのです。ちょうど金属の不純物を火で溶かして取り除くように精錬されるのです。本当に価値あるもの、ピュアなものだけを抽出するように、神のさばきを通して彼らを精錬されるわけです。

いったい、ほかに何ができるというのでしょうか。娘である神の民が神に立ち返るために、ほかにどんなことができるというのでしょうか。彼らの舌はとがった矢です。人を欺くことを言います。口先では友に向かって平和を語りますが、心の中ではそうではありません。心の中では待ち伏せを企みます。常に悪意に満ちているのです。顔ではニコニコしていても、また友達のフリをしながら、いつでも裏切る準備をしています。怖いですね。人間というのは。何を考えているのかわかりません。常に悪意を心に含んでいるわけです。そのような人たちは神のさばきを免れることはできません。でもそれは、神のあわれみを尽くした結果だということを忘れないでください。神様は最初からさばきを宣告しているのではありません。何度も何度も警告しても心をかたくなにして悔い改めず、神に反抗する者に対してさばきを宣告しているのです。

しかし、そのさばきの目的は何でしょうか。それは彼らを精錬することです。そのことを忘れてはなりません。神様からの再三の忠告を無視し、悔い改めることを拒み、自分勝手な道に進んでいった結果、神は最終的にさばかれるわけです。しかし、そのさばきでさえ、彼らを滅ぼすためではなく、建て上げるためなのです。それはいわば、神の民にとって最後の希望なのです。それは具体的にはバビロンによって滅ぼされるということですが、神の民はそれで終わりではありません。神は70年という時を経て、回復の御業を成されるのです。

それは私たちも同じです。神に背き、いつまでも頑なに神を拒み続けることでさばきを受けることがありますが、それで終わりではありません。それは私たちを聖めるための神の愛の御業なのです。精錬されるのはだれでもイヤです。でもそれで不純物が取り除かれるならば、これほど幸いなことはありません。

ハリソン・フォード主演の映画「心の旅」をご覧になられた方もおられるでしょう。ハリソン・フォード演じる主演のヘンリーが、ある日タバコを買いに行くと、店に押し入った強盗にピストルで撃たれてしまいます。一命は取りとめたものの、すべての記憶を失ってしまいました。昨日まではNYを代表する有能な弁護士。でも今は、自分の家族の顔もわからず、文字も読めないリハビリに励む一人の男です。そんな彼のリハビリを担当したのが、理学療法士のブラッドリーという黒人でした。彼は明るく陽気な性格で、ヘンリーが記憶喪失になってからの彼の良き理解者となります。やがて自宅に戻り、職場復帰を果たしたヘンリーですが、以前の自分とのギャップに苦しみ、落ち込んでいる彼を励ますために、ブラッドリーがヘンリーの家にやって来ます。実のところ、ヘンリーの妻が彼にお願いしたのですが。そこで彼は、自分がどうして理学療法士になったのかを語るのです。

「おれは大学でフットボール選手だったが、膝の故障で選手生命を断たれた。しかしそのおかけでリハビリ師に出会い仕事を得た。あんたにも会えたし歩かせることもできた。あんたも状況が変化し、別の人生が始まったんた。あれは試練だったんだ。」

ヘンリーはこの言葉に勇気づけられ閉じこもり生活に終止符を打つことができたのです。

私たちも、挫折や試練を遭遇すると、これで自分の人生も終わりだと思うことがあるかもしれません。しかし、それは神があなたの人生から信仰の不純物を取り除くために、神が与えてくださった試練なのです。私たちは試練に会うと辛いので、早くこの時を終わらせてくださいと祈りますが、神様は私たちの最善をご存知であって、その痛みを無駄にされません。

ですから、このことをぜひ覚えていただきたいのです。たとえあなたの人生の中で精錬されるようなことがあったとしても、それで終わりではないということを。それはあなたが聖められために、あなたが本当の意味で神を知るようになるために、神があなたに与えてくださった手段であるということを。神は今でもあなたが神のもとに帰って来ることを待っておられます。救い主から離れないようにしましょう。神の慰めと平安が豊かにありますように。

Ⅰ列王記12章

今日は、列王記第一12章から学びます。

 Ⅰ.長老たちの助言を退けたレハブアム(1-15)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 レハブアムはシェケムに行った。全イスラエルが彼を王とするために、シェケムに来ていたからである。2 ネバテの子ヤロブアムは、まだソロモン王の顔を避けてエジプトに逃れていた間に、レハブアムのことを聞いた。そのとき、ヤロブアムはエジプトに住んでいた。3 人々は使者を遣わして、彼を呼び寄せた。ヤロブアムは、イスラエルの全会衆とともにレハブアムのところに来て言った。4 「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」5 するとレハブアムは彼らに、「行け。三日たったら私のところに戻って来るがよい」と言った。そこで民は出て行った。」

ソロモンが死ぬと、その子レハブアムが王となりました。レハブアムはシェケムへ行きました。それは、全イスラエルが彼を王とするためにシェケムに来ていたからです。シェケムはエフライム族の主要な町であり、北の10部族が集合するのに適した場所でした。彼は、北の10部族のプライドを傷つけないように、エルサレムではなく、シェケムを選んだのです。

ネバテの子ヤロブアムは、ソロモン王の顔を恐れてエジプトに逃れていましたが、そのエジプトにいた時に、レハブアムのことを聞きました。ヤロブアムについては11章に記されてあります。彼は、アヒヤという預言者によって、「神がソロモンから国を引き裂き、あなたにイスラエルの10部族を与える。」(11:31)と伝えられていました。しかし、ソロモンが彼を殺そうとしたので、彼はエジプトに逃れ、ソロモンが死ぬまでそこにいました。彼は反乱によって神の預言を成し遂げようとするのではなく、神の導きにゆだねようとしたのです。

しかし、イスラエルの人々がヤロブアムのところに使者を遣わし彼を呼び寄せたので、彼はイスラエルの全会衆とともにレハブアムのところに来て、あることを直訴しました。それは4節にあるように、民のくびきを軽くしてほしいということです。ソロモンの時代、王国の維持のために、民は過剰な負担を強いられていました。その過酷な労働と思いくびきを軽減してほしいと訴えたのです。

それに対してレハブアムは何と答えたでしょうか。「行け。三日経ったら私のところに戻って来るがよい。」と言いました。どういうことでしょうか。彼は即答を避けました。三日というのは、エルサレムから助言者たちを呼び寄せるために必要な日数です。もしこの時、レハブアムが彼らの要請に前向きに応えていたなら、当面の間は分裂を避けることができたでしょう。しかし、レハブアムにはそこまでの知恵がありませんでした。かつてソロモンは主から、「あなたに何を与えようか。願え。」(1列王3:5)と尋ねられたとき、ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。」(1列王3:9)と答えましたが、レハブアムはそうではありませんでした。彼に求められていたのは、この善悪を判断して民をさばく心、知恵の心でした。相手の立場を思いやることのできる人こそ人格者であり、知恵ある人です。それは主を恐れることからもたらされます。ですから、私たちはいつも主を恐れ、主に祈り、主のみこころを歩むことによって主から知恵を与えられ、真の人格者となることを目指しましょう。

次に、6~11節をご覧ください。「6 レハブアム王は、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちに、「この民にどう返答したらよいと思うか」と相談した。7 彼らは王に答えた。「今日、もしあなたがこの民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えて親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、あなたのしもべとなるでしょう。」8 しかし、王はこの長老たちが与えた助言を退け、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちにこう相談した。9 「この民に何と返答したらよいと思うか。私に『あなたの父上が私たちに負わせたくびきを軽くしてください』と言ってきたのだが。」10 彼とともに育った若者たちは答えた。「『あなたの父上は私たちのくびきを重くしました。けれども、あなたはそれを軽くしてください』と言ってきたこの民には、こう答えたらよいでしょう。彼らにこう言いなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。11 私の父がおまえたちに重いくびきを負わせたのであれば、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのであれば、私はサソリでおまえたちを懲らしめる』と。」」

レハブアムはまず、父ソロモンが生きている間にソロモンに仕えていた長老たちに相談しました。この長老たちは、恐らく、父ソロモンと同年輩だったと思われます。彼らは王国における職制上の長老であり、経験豊かな政治家たちでした。彼らは、民の負担を軽減し、彼らに親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、レハブアムのしもべとなるでしょうと、助言しました。

一方、レハブアムは、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちにも相談しました。当時レハブアムは41歳(14:21)でした。ですから、これらの若者たちも、それくらいの年齢であったと推定されます。すると彼らは、長老たちのそれとは正反対のことを助言しました。民のくびきをもっと重くし、父ソロモンは彼らをむちによって懲らしめたが、あなたはさそりで懲らしめるというようにと助言したのです(10-11)。「私の小指は父の腰よりも太い」というのは、誇張法です。つまり、つまり父ソロモンよりも、もっと偉大だということです。「サソリ」というのは、金属片を埋め込んだむちのことです。奴隷を打つためのものです。それはソロモンのむちより強力で残酷なものでした。彼は自分の偉大さを誇示しようとしたのです。

1ペテロ5:5にこうあります。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へり くだる者に恵みを与えられるからです。」川の水が高い所から低い所に流れるように、神の恵みはへりくだった人に注がれます。それなのに彼らは「若さ」ゆえに「自分に出来る」という思いが強くありました。それゆえに彼らは失敗を招くことになります。

12~15節をご覧ください。「12 ヤロブアムとすべての民は、三日目にレハブアムのところに来た。王が「三日目に私のところに戻って来るがよい」と命じたからである。13 王は民に厳しく答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、14 若者たちの助言どおりに彼らに答えた。「私の父がおまえたちのくびきを重くしたのなら、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのなら、私はサソリでおまえたちを懲らしめる。」15 王は民の願いを聞き入れなかった。かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。」

三日目に、ヤロブアムとすべての民は、レハブアムのところに戻ってきました。するとレハブアム王は民に厳しく答え、長老たちの助言を退け、若者たちの助言どおりに伝えました。つまり、レハブアムは彼らの願いを聞き入れなかったのです。彼の問題は、知恵ある助言ではなく、自分が聞きたいことを求めたところにありました。若者たちの助言は彼の願いに合致するものだったので、その助言を受け入れてしまったのです。今、NHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放映していますが、源頼朝の後を受け継いだ頼家の姿に似ています。実際はどうであったかはわかりませんが、あのドラマの中で頼家は、頼朝に仕えた13人の家臣たちではなく、自分と同じ年齢の若い者たちを側近に付け、やりたい放題をして失敗します。それに似ています。長老たちの助言ではなく、自分の言いなりになる若者たちの助言を求めたのです。

しかし、この愚かなレハブアムの決断について、別の視点でその理由が述べられています。それは、「かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。」(15)ということです。王国が分裂するというのは、元々、ソロモンの罪に対する神の裁きだったのです(11:11-13)。それがソロモンの生存中に起こらなかったのは、ダビデ契約のゆえです。王国が分裂することは、すでに預言者アヒヤを通して語られていました。それが今起ころうとしていたのです。すなわち、主がそのように仕向けられたことなのです。

それは、主がこのようなレハブアムによる荒々しい態度を起こさせたという意味ではありません。レハブアムが荒々しい態度を取る選択をしたということです。しかし、初めからレハブアムがこのような態度を取ることを知っておられた主が、積極的にこの選択によって王国を分裂させることを意図しておられたのです。主は悪に対して主権を持っておられるという真理を知ることは大切です。悪をもご自分の計画の遂行のために用いられるのです。

しかし何よりも、ソロモンの罪がこのように尾を引いていることを思うと、罪のおぞましさというものをまざまざと見せつけられます。と同時に、私たちもこのような悲惨を招くことがないように、主に指摘される罪があれば悔い改め、いつも主に喜ばれる者であることを求めていきたいと思います。

Ⅱ.北の10部族の反乱(16-24)

次に、16~20節をご覧ください。「16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。17 ただし、ユダの町々に住んでいるイスラエルの子らにとっては、レハブアムがその王であった。18 レハブアム王は役務長官アドラムを遣わしたが、全イスラエルは彼を石で打ち殺した。レハブアム王はやっとの思いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げた。19 このようにして、イスラエルはダビデの家に背いた。今日もそうである。20 全イスラエルは、ヤロブアムが戻って来たことを聞いたので、人を遣わして彼を会衆のところに招き、彼を全イスラエルの王とした。ユダの部族以外には、ダビデの家に従う者はいなかった。」

レハブアムが自分たちの要求に耳を貸さないのを見て、民は王にことばを返しました。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」

これは、単なる不満の言葉ではなく、戦の叫びです。これは、約40年前にダビデが王として全イスラエルに迎え入れられたとき、イスラエル10部族とユダの人々との間に確執が生じましたが、そのとき、よこしまな者でシェバが語った言葉と同じです(Ⅱサムエル20:1-2)。つまり、北イスラエルの10部族はダビデ王朝に対してずっと不満を抱えていたということです。不当に扱われたという怒りは、そう簡単に消えるものではありません。

この問題を治めるべく、レハブアムは役務長官アドラムを彼らのところへ遣わしましたが、全イスラエルは彼を石で打ち殺してしまいました。それで事の深刻さを理解したレハブアムは、いのちからがらシェケムからエルサレムに逃れました。このようにして、イスラエルはダビデの家に背いたのです。そして、人を遣わしてヤロブアムを招き、彼を全イスラエルの王としました。イスラエルの分裂王国の始まりです。ユダの部族以外はダビデの家に従う者はありませんでした。実際にはベニヤミン族もいましたが、小部族だったので数の内に入っていません。北の10部族によるイスラエルと、南のユダとベニヤミンの2部族に分裂したのです。預言者アヒヤを通して語られた通りです。

ダビデとソロモンが約40年かけて築き上げてきた王国が、数日で崩壊してしまいました。築くのは大変ですが、壊すのは簡単です。愚かな行為は一瞬にしてすべてを壊してしまいます。ここから教訓を学びたいですね。私たちの教会も大田原で開拓して18年が経ちましたが、その間、那須とさくらにも開拓することができました。それはただ主のあわれみによるものですが、そこにどれほどの労苦があったことでしょう。でも壊すのは簡単です。神のみこころに立たないで自分の思いを通すなら、すぐに壊れてしまいます。それは私たちにとって一番残念なことです。教会がみことばの上にしっかりと立てられ、ずっとこの地域で主を証するために、主に従う群れでありたいと思います。

21~24節をご覧ください。「21 レハブアムはエルサレムに帰り、ユダの全家とベニヤミンの部族から選り抜きの戦士十八万を召集し、王位をソロモンの子レハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした。22 すると、神の人シェマヤに次のような神のことばがあった。23 「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、ユダとベニヤミンの全家、およびそのほかの民に告げよ。24 『主はこう言われる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰れ。わたしが、こうなるように仕向けたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。」

外交交渉に失敗したレハブアムは、エルサレムに返ると、ユダとベニヤミンの部族から選り抜きの戦士18万人を召集し、北の10部族と戦おうとしました。

すると、神の人シェマヤに、神のことばがありました。それは、「上って行ってはならない」ということでした。彼らの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならないということです。シェマヤは南で活躍した預言者でした。一方、アヒヤは北で活躍した預言者です。いったいなぜ主はシェマヤにこのように告げられたのでしょうか。それは、主がそのように仕向けられたからです。それは偶然の出来事ではなく、主が導かれたことであるということです。それゆえ、彼らの兄弟たちと戦ってはならないのです。

それで彼らは主のことばに従い、主のことばとおりに帰って行きました。レハブアムはもっと早くこのような態度を取っていれば分裂の危機を乗り越えることができたであろうに、高慢にも「私の小指は父の腰よりも太い」なんて言って、自分の思いを通してしまった結果、北と南は分裂することになってしまいました。しかし、このことも主が仕向けられたことでした。これは主が起こされていることなのだから、自分がそれに対して争ってはいけないと、彼は戦いことを止めたのです。このように、あくまでも自分の思いで突き進み状況をさらに悪化させるのではなく、これも主が仕向けられたことだからと、主の御手にゆだねることも大切です。その時、主が憐れんでくださり、最善に導いてくださいますから。

私たちの人生には自分でも予期せぬ出来事が起こりますが、それさえも主が許されたことであって、その背後で主が導いておられると信じて、どうしてそのようなことが起こったのか自分ではわからなくても、すべてを主にゆだねて、主のみこころに歩むことが求められるのです。

Ⅲ.ヤロブアムの恐れ(25-33)

最後に、25~33節をご覧ください。「25 ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。27 この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」28 そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。」

北王国の王となったヤロブアムは、エフライムの山地にシェケムを築き直しました。彼はシェケムを北王国の首都に定め、そこを補強し、拡張したのです。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直しました。首都をシェケムからペヌエルに移したということです。シェケムはユダに近すぎると判断したのでしょう。ペヌエルはヨルダン川の東側の山地にあったので、そこなら大丈夫だろうと思い、ペヌエルを再建してそこに移ったのです。実は、ペヌエルに移る前にシェケムからティルツァに移動していたことがわかります(14:17)。ですからシェケム、ティルツァ、そしてペヌエルと移動したのです。そして最終的に、オムリ王の時代に首都をサマリヤに定めます。

そして彼は、イスラエルの民の心を自分に向けさせるために、とんでもないことをします。何と金の子牛を二つ作りました。これは明らかに偶像礼拝です。かつてアロンが金の子牛を作って民に拝ませたとき、イスラエルの民の上に神の怒りがどれほど注がれたのかを、彼は知らなかったのでしょうか(出32章)。また、彼はダンとベテルに神殿を設け、その金の子牛を据えました。それによって民が、エルサレムに上らなくても、宗教的儀式を行うことができるようにしたのです。

さらに彼は、祭司を新しく任命しました。31節をご覧ください。ここには、「それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。」とあります。彼が任命した祭司は、一般の民の中から選ばれました。民数記18:1~7には、幕屋で仕えることができる祭司は、アロンの子孫から選ばれることが定められていました。アロンが属していたレビ族はそれを手伝うことができましたが、他の者が携わることはできませんでした。それを一般の民の中から選んだというのは、明らかに律法違反です。それは、祭司は彼らが選んだからではなく、神が選び出されたからです。神の選びと召命がなければ、その人は祭司の務めを行なうことができないのに、彼らはそんなことはお構いなしでした。それは彼らの中に神を恐れる思いがなかったことを表しています。

さらに32節を見ると、祭りの日も変更しました。これは仮庵の祭りです。仮庵の祭りは第七の月の15日に行われますが、ここではそれをそれよりもひと月遅らせた第八の月の15日に、行うようにしたとあります。

いったい彼はなぜこんなことをしたのでしょうか。彼は神様から、北王国の確立を約束されていました(Ⅰ列王11:31,11:37~38)。もし彼がダビデのように主の命令を守るなら、彼の王国は主によって守られ、祝福されたはずです。しかし彼は主のことばに背を向け、不信仰に陥ってしまいました。民が自分から離れてしまうのではないかと恐れたからです。そのような時こそ神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈ればいいものを、彼は自分の策略で身の安全を確保しようとしたのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちの人生にも、仕事や人間関係、将来のことで不安を覚えることがあります。そして、そのようなときこそ神様に信頼すべきなのに、自分で何とかしようとするのです。しかし、そういう時だからこそすべてを主にゆだね、主に信頼して歩まなければなりません。たとえ不安があっても、主の御手に落ちることが最善なのです。人間の不安や恐れがもたらす影響力がどれほど大きいかを知り、愚かな自分の策略を捨て、神の御手にすべてをゆだね、神を信頼して歩みましょう。

エレミヤ書8章18~22節「エレミヤの涙」

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きょうは、エレミヤ書8章後半から「エレミヤの涙」というタイトルでお話します。前回のところで主は、エレミヤを通して「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」と、自然の法則を用いて語られました。しかし、彼らは主のもとに帰ろうとしませんでした。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言って、主のことば、主の招きを拒んだのです。その結果、主は彼らにさばきを宣告されました。12節にあるように、「彼らは倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」ことになったのです。具体的には、バビロン軍がやって来て、エルサレムとその住民を食らうことになります。17節にある「まじないの効かないコブラや、まむし」とはそのことです。神様はバビロン軍を送って、彼らを食い尽くすと宣言されたのです。

それを聞いたエレミヤはどうなったでしょうか。18節をご覧ください。ここには「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている。」と言っています。エレミヤは、同胞イスラエルの民が滅びることを思って死ぬほどの悲しみに押しつぶされました。彼はとても複雑な心境だったと思います。こんなに神様のことばを語っているのに受け入れず、耳を傾けようとしなかったのですから。普通なら「だったら、もう勝手にしなさい!」とさじを投げてもおかしくないのに、その悲惨な民の姿を見てエレミヤ自身が涙しているのです。それは、エレミヤがユダの民と一体となって民の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めていたからです。それは神に背き続ける民に心を痛め、嘆きながらも、それでも彼らをあきらめずに愛される神様の思いそのものを表していました。きょうはこのエレミヤの涙から、神に背き続ける民に対する神の思い、神の愛を学びたいと思います。

Ⅰ.民の思い違い(18-19)

まず、18~19節をご覧ください。「18 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。

8:19 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」」

19節の「遠い地から」とは、バビロンのことを指しています。ユダの民はバビロンに連行されて行くことになります。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。実際にはこの後に起こることですが、エレミヤは預言者として、その時のユダの民の姿を幻で見ているのです。彼らはそこで悲しみ、嘆いています。そして、このように叫ぶのです。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」どういうことでしょうか。

「シオン」とはエルサレムのことです。これは7章に出てきた民のことばに対応しています。7:4で彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫びました。エルサレムには主の宮があるではないか、だったら滅びることがないという間違った思い込みです。これは彼らの勝手な思いに基づくものでした。そこにどんなに主の名が置かれている神殿があったとしても、主のことばに従い、行いと生き方を改めなければ何の意味もありません。それなのに彼らは、ここには主の宮があるから大丈夫だ、絶対に滅びることはないと思い込んでいたのです。それなのにそのシオンは滅ぼされ、神の民はバビロンに連行されて行きました。いったいどうしてそのようになったのか、主はシオンにおられないのかと嘆いているのです。

それに対して主は何と言われたでしょうか。19節の次の「」のことばを見てください。ここには、「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」とあります。これは主なる神様の御声です。民の叫び、嘆きに対して、主が答えておられるのです。つまり、主がシオンにおられるかどうかということが問題なのではなく、問題は、彼らが犯していた偶像礼拝にあるというのです。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、主の怒りを引き起こしていました。それなのに、「主はいないのか」というのはおかしいじゃないかというのです。思い違いをしてはいけません。主の宮があれば何をしてもいいということではありません。たとえそこに主の宮があっても、偶像礼拝をしていたら、むしろ神の怒りを引き起こすことになります。それは神様の問題ではなく、神の民であるイスラエルの問題であり、彼らの勝手な思い違いによるものだったのです。

このことは、私たちにも言えることです。時として私たちも何らかの問題が起こると、自分の問題を棚に上げ神様のせいにすることがあります。「もし神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるんですか」「神様が愛のお方なら、このようなことを許されないでしょう。」と叫ぶことがあります。でも私たちはそのような問いが正しいかどうかを、自分自身に問うてみなければなりません。自分が神様に従っていないのに、あたかも問題は自分にではなくだれか他の人であったり、神様のせいにしていることがあるのではないでしょうか。

たとえば、ここには偶像礼拝について言及されていますが、イスラエルの民は、それぞれ自分の思いつくものを拝んでいました。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、神の怒りを引き起こしていました。2:27には「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父』、石に向かって『あなたはわたしを生んだ』と言っている。」とありますが、木や石に向かってそのように言っていました。当時のイスラエルは農業に依存していたので、私たち以上に天気には敏感だったでしょう。ですから、神の民が約束の地に入った時も、土着の宗教であったバアルやアシュタロテといった偶像に惹かれて行ったのも理解できます。自分たちの生活とかいのちに直接影響を与えるようなものに、しかも目に見えるものに、だれでも頼りたくなりますから。これは昔だけでなく今でもそうです。たとえば、健康のことや経済のこと、あるいはこれから先のことで多くの人は不安を抱えています。だからこそこの天地を造られた神様を頼ればいいものを、そうは問屋は降ろさないわけです。目に見える何かに頼ってしまいます。昔ならバアルやアシュタロテといった偶像でしょうが、現代ではそれが姿を変え、たとえば自分の力や努力であったり、お金であったり、健康であったりするわけです。母が生きていた時の口癖があります。それは「健康が一番だ!」という言葉です。クリスチャンになってからもしょっちゅう言っていました。「健康一番!」確かに健康は大切なものですが、その健康でさえ神様からの贈り物だということをすっかり忘れています。健康も経済も、すべて神からの賜物なのです。詩篇127:1~2にこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きは空しい。あなたが朝早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:1-2)

新改訳改訂第3版では、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と訳されています。主は愛する者には、眠っている間に、このように添えてくださるのです。

今週は修養会が持たれますが、テーマは「教会を建て上げる喜び」です。教会が神の家族としてしっかりと建て上げられるように、そして、神様のご計画の中心であるより多くの教会を建て上げていくための心構えを学びます。そのためには働き人が必要ですね。イエス様も言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 と。ですから、私は毎日そのために祈っていますが、これってそう簡単なことではありません。

しかし、先月娘の結婚式でシカゴに行ったとき、日曜日に近くの教会に行った時のことです。Faith Bible Churchという教会でした。すると礼拝後に、1人の若い青年が私たちのところに来て挨拶してくれました。彼はHenryという名前の人で、高校を卒業したばかりでこれからムーディー聖書カレッジで学ぶために備えているということでした。彼は小さい時から宣教師になるように召されていて、その少し前にも南米エクアドルに短期宣教に出かけて帰って来たばかりだと話していました。でも自分の母親がラオスの出身ということで、いつかアジアの国々、特に中国か、韓国か、日本に、宣教師として行きたいと教えてくれました。礼拝後に昼食会があったので参加したら彼のお母さんがやって来て、彼にどんなにタラントが与えられているかを教えてくれました。語学は英語とスペイン語のほかにラオス語、中国語ができます。スポーツも得意で特にバレーボールでは全米の大会に出場したほどです。そればかりか音楽も得意でヴァイオリンも弾くことができ、大学に行ってからは交響楽団に所属することになっていると教えてくれました。何でもできる優秀に人材を、神様は宣教師のために備えておられることを知ったとき、私は、あの聖書のことばを思い出したのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」私たちは何でも自分の力で何とかしようとしますが、そこには神様がいません。主が家を建てるのでなく、自分で建てようとしている。それは偶像礼拝と同じです。そうした偶像を抱えながら、「主はシオンにおられないのか」と言うのはおかしいのです。

私たちはそうした思い違いをしないように気を付けなければなりません。神様を自分の手の中に収められるかのように思いそれを言い訳にして嘆くのではなく、神様を神様として、その神様を恐れ、神様に従っているかどうかということを吟味しなければならないのです。

Ⅱ.エレミヤの涙20-21)

次に、20~21節をご覧ください。イスラエルの民の嘆きが続きます。次に彼らはこのように嘆いています。20節、「20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

エレミヤは、さらに預言者の目で将来を見ています。ユダの民は、捕囚の民となった自らの運命をこう嘆いています。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

何とも悲しい詩です。これほど悲しい詩はありません。「刈り入れ時」とは、春の刈り入れ時のことを指しています。春の刈り入れの時が過ぎ、夏が過ぎても私たちは救われていないと嘆いているのです。収穫の時が来ているのに収穫の喜びがありません。つまり、捕囚の状態から解放されていないということです。

その民の嘆きを見たエレミヤは何と言っていますか。21節です。彼はこう言っています。「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。」

エレミヤは、民が傷ついているのを見て、深い悲しみに襲われました。決して他人事とは思えないのです。民が傷ついているのを見て、自分も傷つき、悲しみに打ちひしがれました。もう感情を抑えることなどできません。そのこみ上げてくる感情を、ここでさらけ出しているのです。涙とともに・・。

9:1を見ると、そのことがよくわかると思います。9:1でエレミヤはこう言っています。「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

エレミヤは民の救いのために生きていました。それなのに、その民が目の前で死んでいくのです。それを見た彼は、ただ泣くしかありませんでした。彼が泣き虫だったからということではありません。同胞が死んでいくのを見てあまりにも悲しくて涙が止まらなかったのです。私はあまり泣きません。あまり泣かないので涙腺が乾いてドライアイになったほどです。時々テレビを見ていて感動して涙を流すことがありますが、そういう時でも妻にわからないようにそっと鼻をすすります。まして、人前で泣くことはほとんどありません。どこか恥ずかしいという思いがあるんでしょうね。でもエレミヤはそういうレベルではありませんでした。泣くとか、泣かないとかということではなく、泣かずにはいられなかったのです。同胞イスラエルの民のことを思うとあまりも悲しくて、あまりにも辛くて、涙が溢れてきたのです。信仰ってこういうことだと思うのです。信仰とはただことばだけではなく、それを全身で受け止めるというか、心で感じることなのです。

エレミヤは、4:19で何と言いましたか。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と言いました。それはこういうことだと思うんです。彼はユダの民に対する神のさばきが下るということを聞いたとき、はらわたが悶えると表現しました。はらわたが引き裂かれるような思いであったということです。それはエレミヤにとって耐えがたいほどの苦しみであり、耐えがたいほどの悲しみだったからです。エレミヤはそれを、自分の苦しみとして受け止めたのです。

それは私たちの主イエスもそうでした。ルカ19:41には、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」とあります。都とはエルサレムのことです。イエス様はラザロが死んだときも涙を流されましたが、ここでも、神の都エルサレムのために泣かれました。やがてエルサレムが滅ぼされてしまうことを知っておられたからです。この「泣く」とことばは、テレビを見て感動して涙を流すというようなレベルではなく、大声を出して泣くという意味です。一人の男が皆の前で、大声で泣いているのです。それは、エルサレムが滅ぼされることになるからです。実際エルサレムは、イエス様がこの預言を語られてから30年後に、ローマによって滅ぼされることになります。そのことを知っておられたイエス様は大声で泣かれたのです。エレミヤもそうでした。エレミヤも、この時から約20年後にエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、神の民が捕囚の民としてバビロンで苦しむ姿を見た時、大声で泣いたのです。ただイエス様の場合は、それを見て深く悲しみ、涙を流されただけではありませんでした。イエス様は人々の痛みや悲しみをその身に負われました。ツァラアトという重い皮膚病の人がご自分の前に来た時には、感染するかもしれないという恐れの中でも、深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、こう言って癒されました。「わたしの心だ、きよくなれ。」(マルコ1:41)いわゆる濃厚接触ですね。コロナの感染が収まらずソーシャルディスタンスが叫ばれている今では考えられないことです。またイエス様は、当時差別されていた罪人や取税人たちと一緒に食事をされました。これも濃厚接触です。イエス様は罪に病んでいる人を見てただあわれまれたというだけでなく、その傷を癒すために、自ら肉体を取ってこの地上に来てくださり、その痛みを一身に受けられたのです。イエス様は天国からテレワークをされたわけではありません。イエス様は神様ですからテレワークも出来たでしょう。でも神の子は罪人と同じ姿を取られ、罪人に触れて罪人を癒してくださいました。そして最後はその罪をご自身の両肩に十字架を負ってくださり、神の怒りを私たちに代わって死んでくださいました。それが私たちの主イエスです。ただ遠くから見つめているだけではありませんでした。痛み、悲しみ、悩み、苦しんでいる人と同じ姿となりそれを共に担うこと、それが愛です。それが信仰なのではないでしょうか。エレミヤがここでこんなにも痛み、苦しみ、うなだれ、絶望したのは、民の痛みを負い、それを自分のこととして担ったからでした。あなたはどうでしょうか。そのような魂への情熱があるでしょうか。そのような愛を実践しているでしょうか。

1800年代半ば、南アフリカで宣教したアンドリュー・マーレ―は、宣教を「教会の究極のもの」と考え、南アフリカのリバイバルに貢献しました。そのアンドリュー・マーレ―が、次のようなことばを残しています。

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちは何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に休むことができなかったほどに、魂への情熱が満ち溢れていたならば、私たちは今の私たちと非常に違った存在になったであろうに。」

アンドリュー・マーレ―のことばです。魂が滅びつつあるというのに、私たちは自分さえよければいいと思っています。自分さえ天国に行けるならそれでいいと思っているのです。あとは気楽に何不自由のない生活ができればそれでいいと。でも実際にイエス様を信じなければ、彼らの魂は滅んでしまいます。それなのに、何と安楽に満足した生活をしていることでしょうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちはあまり感じてはいないのではないでしょうか。魂への情熱が満ち溢れていたら、今の自分とは非常に違った存在になるのではないかと、アンドリュー・マーレ―は言ったのです。あなたはどう思いますか。

第二次世界大戦時に、ナチスによって処刑されたドイツの神学者にボンヘッファーという人がいました。彼はヒトラーの暗殺計画に関わって、ドイツ敗戦の直前に39才の若さで処刑されました。ヒトラー暗殺計画ですから殺人計画に加わったということになります。そのことについて彼は後にこう言っています。「目の前に暴走しているトラックがあり、そのトラックが次々と人を跳ねていたら、その運転席から運転手を引きずり降ろさないだろうか。あなたはどう思うか。」そういう言い方をしています。私たちも彼の生き方をどう捉えるかが問われるわけです。

実は、彼はアメリカに亡命するチャンスがありました。1936年6月に、アメリカの著名な神学者にラインホルド・二―バーという人がいて、彼に招かれてアメリカに渡りました。そこで仕事を紹介され、働く道も用意されていました。それは、若くて将来が期待されていたボンヘッファーが殺されてしまうことを心配したニーバーが、配慮してくれたことによるものでした。その時の日記が残っています。1939年6月13日の日記にボンヘッファーはこう記しています。

「今まで蛍など見たことがなかった。全くファンタジーに溢れた光景だ。非常に心のこもった、肩ひじ張らないもてなしを受けた。にもかかわらず、ここで自分に欠けているのは、ドイツと兄弟たちだった。初めて一人で過ごした時間が、重苦しくのしかかってくる。どうしてここに自分がいるのか理解に苦しむ。たとえそれに深い意味があったとしても、また、償って余りあろうとも、毎晩最後に行き着くところは、聖書日課と故郷に残してきた仕事への思いである。祖国(ドイツ)のことについて何の知らせも受けずに過ごすようになってから、かれこれもう2週間になる。これはほとんど耐え難いことだ。」

ボンヘッファーには、ドイツの人たちを祖国に残してアメリカに来たことに対する疑問と、自責の念があったのです。それで彼はドイツに戻る決断をします。そして、ニーバーに宛てて手紙を書き送るのです。そこにはこう書きました。

「もし私がこの時代の試練を同胞と共に分かち合うことをしなかったら、私は戦後のドイツにおけるキリスト教の再建に与る権利を有しないでしょう。」
 彼は、旧約聖書と新約聖書の聖書日課を読んでいましたが、ある日読んだ聖書箇所にこう書かれてありました。「何とかして冬になる前に来てください。」(Ⅱテモテ4:21)これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙のことばです。「冬になる前に来てほしい」。ボンヘッファーは、これを自分に語られたことばとして受け止めたのです。

彼はドイツ人の苦しみを背負って生きようとしました。私たちも小さなキリスト者ですが、キリスト者という名前を持っている者です。エレミヤは預言者として民の苦しみを負って生きましたが、私たちも小さなキリスト者として、この社会であったり、自分の家であったり、教会であったり、それぞれ置かれたところで、その破れ口に立ち、その痛みや苦しみを共に負い、祈り、キリスト者としての務めを全うさせていただきたいと思うのです。

エレミヤはこの苦しみを背負うことで、お腹が痛くなったり、もだえ苦しんだり、泣けてきたりしましたが、苦しみや悲しみを負うということはそういうことだと思うんです。私たちはそこから逃れることはできないし、逃れてはいけないと思います。なぜなら、イエス様は私たちのために十字架を負ってくださったからです。そのイエス様に従って行く者に求められているのは、十字架を負うということだからです。イエス様はご自分についてくる者に、その心構えとしてこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

私たちにも、それぞれ自分の十字架があります。エレミヤもそうでした。その十字架を負ってイエス様について行くことが求められています。イエス様は十字架を通って復活されました。十字架を通らなければ復活の栄光に至ることはできません。私たちも十字架を通って復活の栄光に至る者になりたいと思うのです。

Ⅲ.ここに真の医者がいる(22)

最後に、22節をご覧ください。「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。」

これもエレミヤのことばです。「乳香」とは、傷を癒す薬として用いられていました。「ギルアデ」は、ヨルダン川の東側の地域のことです。そこには傷を癒す乳香がありましたが、その乳香がないのか、どうして癒すことができないのかと、そのもどかしさを表現しているのです。また、傷口を癒すことができる医者はいないのかと嘆いています。皆さん、どうですか。民の傷を癒す薬はないのでしようか。その傷を癒すことができる医者はいないのでしょうか。います!それは私たちの主イエス・キリストです。私たちの主イエスは、私たちの罪のための苦しみ、すべての傷をいやすことができます。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちは、ギルアデの乳香によってではなく、主イエスの打たれた傷、流された血潮によって癒されるのです。その結果、私たちは罪と悪魔の支配から完全に解放されます。

それなのに私たちはなかなか主の許に行こうとしません。目の前に治療の手段があるのに、それを用いようとしないのです。残念ですね。救いは目の前にあるのに、癒しは目の前にあるのに、罪の赦しはすぐそこくにあるのに、解決は目の前にあるのに、それを受け取ろうとしないのです。

神様はどんな病気でも癒すことができます。どんな罪でも赦すことができます。どんな問題やトラブルでも解決することかできます。でも神様がどんなに薬を提供しても、どんなにすばらしい治療を約束しても、それを受けなければ癒されることはできません。

イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

これは、健康な人には医者はいらないということではありません。というのは、すべての人が罪という病にかかっているからです。すべての人に魂の医者が必要です。しかし、その癒しを求めて医者のもとに行こうとする人はごく僅かです。自分が病気だと認めなければその必要性を感じないからです。病気なのに病気じゃないと思っている。そういう人は気が付いたときにはもう手遅れになってしまいます。もっと早く診てもらっていたらこんなことにはならなかったのに、ちゃんと検査していたらもっと早く発見して治療することができたのに、後悔してもしきれません。自分が病気だと認めさえすれば、もっと素直になっていれば、治るものもあったのです。病気を認めようとしない人たち、罪を認めようとしない人たちは、自分の罪の中に死んでいくことになります。イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来られました。そのイエス様があなたの目の前におられるのです。ですから、いつでもすがることができるし、いつでも助けを求めることができます。もしあなたが頑なにならないで、心を開いて、素直になるなら、主はあなたの傷も癒してくださるのです。

あるセミナーでの話です。講師が、講演の冒頭で20ドル紙幣を見せて、「欲しい人は手を上げてください。」と言いました。すると何人もの人が手を上げました。

「これをだれかに差し上げようと思いますが、まずこれをさせてください。」と、講師が言うと、講師はその紙幣をくしゃくしゃにしました。そして、「これでも欲しい人はいますか?」と聞きました。たくさんの人が手を上げました。

そこで講師は、その紙幣を床に落として、靴で踏みつけ、それから汚くなった紙幣を拾って言いました。

「さあ、これでも欲しい人がいますか?」」

すると、それでもたくさんの人が手を上げました。

それを見て、講師はこう言いました。

「今みなさんは、非常に大切な教訓を学ばれました。私がこの紙幣に何をしても、みなさんはそれを欲しいと言われました。紙幣の価値が減ったわけではないからです。私たちの人生も、くしゃくしゃになったり、踏みつけられたり、汚れたりすることがあります。時には、自分は無価値だと思うこともあるでしょう。しかし、何が起ころうとも、神様から見たあなたの価値は変わりません。私たちのいのちは、神にとってかけがいのないものなのです。

そうです、私たちのいのちは、神にとってかけがえのないものです。神様は、あなたがどんなに落ちても、決してあきらめたりしません。あなたを助け、あなたを癒し、あなたを救いたいのです。必要なのは、あなたがへりくだって主の御前にへりくだり、主にすがることです。そうすれば、主はあなたの傷を癒し、あなたを罪から救ってくださいます。そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。主は今もあなたのために悲しみ、痛みを負ってくださいます。その主に感謝して、主に信頼して、あなたの傷も癒していただきましょう。