ホセア書6章1~3節「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは9~10月頃に降る雨のことで「先の雨」とも呼ばれています。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありませんが、雨が降らない乾季は土地がカラカラに乾いてしまうので種を蒔くことができません。その乾いた土地がこの雨が降って潤されるのです。この雨は次の作物の種を蒔くために必要な雨で、この雨が降らないと種を蒔くことができないのです。
  一方、3~4月頃に降る雨があります。これは「後の雨」と呼ばれているもので、これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われます。この雨は収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。この雨がないと収穫を期待することができません。これは穀物を実らせる祝福の雨なのです。真っ先に先の雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」が降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによってこのような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅰ列王記21章

 

 今日は、列王記第一21章から学びます。

 Ⅰ.ナボテのぶどう畑(1-16)

まず、1~16節までをご覧ください。「1 これらのことがあった後のことである。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。2 アハブはナボテに次のように頼んだ。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」4 アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。5 彼の妻イゼベルは彼のもとに来て言った。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか。」6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うから、おまえのぶどう畑を譲ってほしい。あるいは、おまえが望むなら、代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。9 彼女は手紙にこう書いた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、10 彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」11 そこで、その町の人々、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言ってよこしたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりに行った。12 彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせた。13 そこに、二人のよこしまな者が入って来て、彼の前に座った。よこしまな者たちは民の前で、「ナボテは神と王を呪った」と証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。14 こうして、彼らはイゼベルに「ナボテは石打ちにされて死にました」と言ってよこした。15 イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」16 アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。」

「これらのことがあって後」というのは、アハブがアラムの王ベン・ハダドと戦って、彼を生かして逃してしまった後ということです。怪我をしている兵士を装った預言者によって、アハブは、アラムの王の命の代わりにあなたのいのちが取られる、と言われました。そこでアハブは不機嫌になり、激しく怒って、自分の宮殿に帰って行きました。アハブには、性格上大きな問題がありました。それは、自分の気に入らないことがあるとすぐに不機嫌になってしまうということです。へりくだって悔い改めるどころか甘えん坊の子供のように、すぐにふてくされてしまうのです。今日のところにも、そんな彼の性格が如実に出てきます。

これらのことがあった後、イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていましたが、それがアハブの宮殿のそばにあったこともあり、それを欲しがるのですが、断られます。アハブはナボテに次のように頼みました。2節です。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」

アハブはいつも自分の宮殿からナボテのぶどう畑を見ていて、「あそこはいいぶどう畑だ。きっといろいろな野菜も育てられるだろう」と思っていたのでしょう。何とかそれを手に入れたいと思いました。そのために、もっと良い畑を与えると提示しました。何だったら、それ相当の銀貨を払ってもいいと思いました。何とかして手に入れたかったのです。

それに対して、ナボテはどのように答えましたか。ノーです。先祖のゆずりの地、相続地を譲るなど、主にかけてあり得ないことだったからです。ナボテは神を恐れるイスラエル人でした。モーセの律法によれば、先祖からの相続地を売ることは禁じられていました(レビ25:23~28,民36:7)。それで彼はアハブの申し出を断ったのです。

するとアハブはどうしたでしょうか。4節です。彼は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入りました。彼はベッドに横になると、顔を向けて食事もしようとしませんでした。皆さん、どう思いますか。皆さんにもこういうことがありますか。自分の思うようにいかないと、嫌になって、ずっと寝てしまうということが。何もしたくありません。食べたくもない。ただベッドに横になっていたいということが。これは、20章43節にも見られる彼の悪い癖でした。彼は自分の思いどおりにならないことがあるとすぐにふてくされて、このような態度を取ってしまうのでした。

それを見た妻イゼベルは彼のもとに来て言いました。5節です。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか」。それで彼は、事の次第を彼女に告げました。すると彼女はどうしましたか。彼女はその地所を手に入れるために悪知恵を働かせて、ある行動に出ます。それは、アハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送るということでした。その手紙にはこう書きました。9節。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」

どういうことでしょうか。イゼベルはモーセの律法を悪用しました。モーセの律法には、「神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をののしってはならない。」(出エジプト22:28)とあります。もし神をののしる者があれば、石打の刑で殺されなければなりませんでした(レビ24:13-16)。そのためには、最低2人の証人が必要だったので、彼女は、彼の前に二人のよこしまな者を座らせ、彼らにナボテが神と王を呪ったと証言させるようにしたのです。

これらのことは、合法的に土地を手に入れたかのように見せかける陰謀でした。悪魔は、神のことばを引用し、神の民を破壊しようとします。悪魔の化身のようなイゼベルも、同じ手法でイズレエル人ナボテを抹殺しようとしたのです。悪魔に対抗するために必要なのは、みことばの正しい理解と適用です。時としてクリスチャンも御言葉を誤って用いる場合がありますが、それが本当に神のみこころなのかどうかを、御言葉によって十分吟味しなければなりません。

ナボテの町の人々は、彼女が彼らに言ってよこしたとおりに実行します。すなわち、断食を布告し、ナボテを民の前に引き連れ出して座らせると、そこに、二人のよこしまな者を座らせて、「ナボテは神と王を呪った」と証言させ、彼を町の外に引きずり出し、石打ちにして殺したのです。実は、この時に殺されたのはナボテだけではありません。Ⅱ列王記9章26節を見ると、彼の息子たちも殺されたことがわかります。なぜなら、ナボテが死ねば、その所有地は息子たちのものになるからです。そうさせないように、イゼベルは息子たちも殺すように手配していたのです。相続人のいない土地は、王宮のものになりますから。このようにして彼女はナボテのぶどう畑をアハブが手に入れることができるようにしたのです。

イゼベルはナボテが石打にされて殺されたと聞くとすぐ、アハブに告げました。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」(15)これは聖書の中で最も悪臭を放っているひどいことばの一つです。罪のないナボテが、アハブの欲望とその妻イゼベルの策略によって殺されてしまったのですから。

アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行きました。アハブの良心は完全に麻痺していました。最初のうちはそれ相当の代価を銀で払って買い取ろうとしましたが、それが叶わないと人殺しまでして手に入れようとしました。まさにヤコブの手紙にあるとおりです。「1 あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4:1-3)。他人のものを欲しがることが、諸悪の根源です。物にこだわらないことこそ、平安の秘訣なのです。

それにしても、ナボテの人々は、なぜイゼベルの要求をはねのけなかったのでしょうか。それは、彼らがイゼベルを恐れたからです。彼らは主を恐れる以上に、バアル神の崇拝者であったイゼベルを恐れていました。「人を恐れるとわなにかかる、しかし、主を恐れる者は守られる。」(箴言29:25)とあります。人を恐れるのではなく、主を恐れ、主に従いましょう。

Ⅱ.ティシュベ人エリヤの登場(17-24)

次に、17~24節をご覧ください。「17 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。18 「さあ、サマリアにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。19 彼にこう言え。『主はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『主はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』」

20 アハブがエリヤに「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたが主の目に悪であることを行うことに身を任せたので、見つけたのだ。21 『今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。それは、あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ。』23 また、イゼベルについても【主】はこう言われる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』」」

神様のタイミングってすごいですね。ちょうどそのとき、エリヤに、サマリアにいるアハブに会いに行くようにと、言われたからです。「そのとき」とは、まさに、アハブがナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った、ちょうどその時です。そのときに、エリヤに主のことばがあったのです。エリヤは、ちょっと前までホレブ山にいましたが、エリシャに油を注ぎなさいという主の命令を受けて、イスラエルの地に戻っていました。そのエリアに、アハブに会いに行って、次のように言うようにと告げられたのです。「『主はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『主はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』」(19)つまり、アハブは人殺しをしてまでナボテからぶどう畑を奪ったので、悲惨な死に方をするということです。そんなひどいことをしたので、何と犬たちがナボテの血をなめた場所で、その犬たちが今度はアハブの血をなめるようになるというのです。これはⅠ列王記22章38節で成就することになります。

すると、アハブは何と言いましたか。彼はエリヤにこう言いました。「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」(20)それに対してエリヤは「そうだ。あなたが主の目の前で悪を行うことに身を任せたので、見つけたのだ。」と言いました。

どういうことでしょうか。アハブにとってエリヤは敵のような存在でしかなかったということです。かつてアハブはエリヤのことを「イスラエルを煩わすもの」(Ⅰ列王18:17)と呼びました。まさに目の上のたんこぶのような存在です。アハブは、ナボテのぶどう畑を略奪したことが神の人エリヤにばれるのではないかと心配していたようです。「おまえは私を見つけたのか」という言葉が、それを示しています。それが実現しました。エリヤは彼を見つけ、神のさばきを告げたのです。

それは21~24節の内容です。それはアハブの家がヤロブアムの家ように、また、バシャの家のように、滅ぼされるということです。これはどういうことかというと、北イスラエルでは、これまで一つの王家が根絶やしにされるということが二度、ありました。一つはヤロブアムの家であり、もう一つがバシャの家です。そのヤロブアムの家のように、また、バシャの家のように、アハブの家を根絶やしにされるというのです。それは、彼が引き起こした罪に対する神の怒りのゆえであり、彼がイスラエルに罪を犯させたためです。

また、イゼベルについては、「犬がイゼベルの領地でイゼベルを食らう」とあります。死体が犬に食われるのは、犬に血をなめられるよりも屈辱的であり、厳しい裁きです。そして最後にアハブの家系に属する者に対するさばきが告げられますが、彼らは犬に食われるか、空の鳥に食われるかのいずれかの運命をたどるようになるのです。これが後に現実のものとなります(Ⅱ列王9:30~10:28)。

罪に対して鈍感になっていたアハブは、神の人エリヤを自分の敵としか見ることができませんでした。彼には真の友と真の敵を見分ける力がなかったのです。エリヤこそ、アハブに罪を示し、彼が主に立ち返るようにと勧めた最良の友であり、イゼベルこそ、ナボテのぶどう畑の事件を見てもわかるように、彼を地獄に突き落とす最悪の敵だったのに、それを見分けることができませんでした。なんと悲しいことでしょうか。しかし、いつの世でも真理は変わりません。私たちにとって最良の友は、私たちが過ちを犯す時それを戒め、神の道に引き戻そうとする者であり、最悪の敵は、誘惑と自己満足に引き込み、奈落の底へと突き落とす者です。友情から出た勧告を敵の声だと勘違いするなら、恐ろしい結果を刈り取ることになります。敵に見えるような人でも、愛をもって真理を語り、忠告を与えてくれる友の声に耳を傾けることができるように祈りましょう。

Ⅲ.アハブの悔い改め(25-29)

最後に、25~29節をご覧ください。「25 アハブのように、自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。26 彼は、主がイスラエル人の前から追い払われたアモリ人がしたのと全く同じように、偶像につき従い、非常に忌まわしいことを行った。27 アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。28 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。29 「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」」

北王国イスラエルに、アハブほど主の目に悪を行った者はいませんでした。彼は最悪の王でした。その最大の原因は、彼の妻イゼベルです。イゼベルが彼をそそのかしたのです。アハブは完全に妻イゼベルの尻に敷かれていました。妻の尻に敷かれるとは妻の言いなりになるということですが、必ずしもそれ自体が悪いわけではありません。しかし、神様が行なってはいけないと禁じていることをしたり、あるいは行なわなければいけないと命じていることを行わないようにと妻が要求するとしたら、そしてその妻の言うことを聞いてしまうなら、それは問題です。たとえば、アダムは神の命令に反して妻のエバが言うことを受け入れてしまいました。食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったのです。それゆえ、全人類に罪が入ってしまいました。ですから、妻の尻に敷かれることは構いませんが、それは神が命じていることなのかどうかをよく吟味し、そうでないときは毅然とした態度を取らなければなりません。まぁ、そういう時はあまりありませんけど。アハブの場合は、イゼベルに完全にそそのかされてしまいました。アハブの罪は、アモリ人の罪を再びイスラエルにもたらしたことでした。それは忌むべきカナン人やアモリ人の偶像礼拝やそのならわしを、イスラエルの中に導入したことです。特に妻イゼベルの影響で、イスラエルにバアル崇拝を持ち込んだのが大きな罪でした。

27節の「これらのことば」とは、21~24節でエリヤが語ったことばのことです。彼はそれを聞くとどうしましたか。彼は自分の外套を裂き、粗布を身にまとって断食しました。これは悔い改めのしるしです。彼はエリヤのことばを聞くと、粗布をまとって悔い改めたのです。本当ですか?あれほど主に背きひどいことをしてきた彼が、本当に悔い改めたのでしょうか。本当です。29節には「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。」とあるように、アハブは主の前にへりくだって悔い改めたのです。それゆえ主は、彼が生きている間はわざわいを下さないと言われたのです。

アハブほどの悪王はいないというのに、彼が悔い改めた時、いつくしみ深い主は彼にあわれみ示されました。主はどこまでもいつくしみ深い方なのです。

主は私たちにも恵み深くあられます。どのような罪を犯した人であっても、主の御前にへりくだり、心から悔い改めるなら、主はその罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいます。父なる神は今日も、ご自身の子が立ち返るのを待っておられるのです。

マタイの福音書1章18~25節「ヨセフのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、沈黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。あなたを救ってくださる。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。この罪こそ、私たちすべての問題の根源にあるものです。

今年はロシヤのウクライナ侵攻とういう暴挙がありましたが、それももとはと言えば、この罪が原因です。台湾の問題もあります。私たちは、いつ第三次世界大戦が勃発してもおかしくない時代に生きています。それは戦争ばかりでなく、私たちの社会、私たちの人生に襲い掛かる様々な問題においても言えることです。どんなに法律を作っても、この世から悪が一掃されることはないでしょう。それは私たち人間に罪があるからです。この罪がすべての問題を引き起こすのであって、真の平和を実現するためには、この罪を取り除かなければなりません。その罪から救ってくださるお方、それが神の御子イエス・キリストなのです。その方は罪のない方でなければなりませんでした。だから、聖霊によって身ごもらなければならなかったのです。

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が震えるような体験をしたのです。

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

私たちの人生においても、ひとり静かに黙さなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。

Ⅰ列王記20章

 今日は、列王記第一20章から学びます。

 Ⅰ.アラムの王ベン・ハダドによる侵攻(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。「1 アラムの王ベン・ハダドは彼の全軍勢を集めた。彼には三十二人の王と、馬と戦車があった。彼はサマリアに上り、これを包囲して攻め、2 町に使者たちを遣わして、イスラエルの王アハブに3 こう言った。「ベン・ハダドはこう言われる。『おまえの銀と金は私のもの。おまえの妻たちや子どもたちの、最も美しい者も私のものだ。』」4 イスラエルの王は答えた。「王よ、仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」5 使者たちは再び戻って来て言った。「ベン・ハダドはこう言われる。『私はおまえに人を遣わし、おまえの銀と金、および、おまえの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。6 明日の今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らは、おまえの家とおまえの家来たちの家の中を探し、たとえ、おまえが一番大事にしているものさえ、手をかけて奪い取るだろう。』」7 イスラエルの王は国のすべての長老たちを呼び寄せて言った。「あの男が、こんなにひどいことを要求しているのを知ってほしい。彼は人を遣わして、私の妻たちや子どもたち、および、私の銀や金を求めたが、私はそれを断りきれなかった。」8 すると長老たちや民はみな、彼に言った。「聞かないでください。承諾しないでください。」9 そこで、彼はベン・ハダドの使者たちに言った。「王に言ってくれ。『初めにあなたがこのしもべにお求めになったことは、すべてそのようにいたしますが、このたびのことはできません。』」使者たちは帰って行って、このことを報告した。10 するとベン・ハダドは、彼のところに人を遣わして言った。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」11 イスラエルの王は答えた。「こう伝えてくれ。『武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。』」12 ベン・ハダドは、このことばを聞いたとき、王たちと仮小屋で酒を飲んでいたが、家来たちに「配置につけ」と命じたので、彼らはこの町に向かう配置についた。」

アハブの妻イゼベルの言葉に恐れ鬱になったエリヤでしたが、主のかすかな声を聞いて大いに励まされました。それは、イスラエルの中に七千人の信仰の勇士を残しておくということ、そして、エリシャを彼の後継者として立てるということでした。

その頃、北イスラエルの脅威となっていたのが、北に位置していたアラムでした。そのアラムの王ベン・ハダドが、全軍勢とともに32人の同盟国の王と、馬と戦車をもって、北王国イスラエルの首都サマリアに上り、これを包囲しました。彼は使者たちを遣わしてアハブにこう言いました。「おまえの銀と金は私のもの。おまえの妻たちや子どもたちの、最も美しい者も私のものだ。」つまり、アハブが持っている金、銀、財宝、それに彼の家族を引き渡すようにと要求したのです。それに対してアハブは勝ち目がないと判断したのか、その要求をすんなり受け入れました。

すると、ベン・ハダドはアハブがあまりにも簡単に要求を受け入れたので、再度使者たちを遣わして、さらなる要求をしました。それは、自分の家来たちが彼の家と家来たちの家を略奪することを許可するようにということでした。

それでアハブ王は、国のすべての長老たちを呼び寄せて協議すると、長老たちや民はみな、その要求を聞かないようにしようということになり、アハブは、ベン・ハダドの使者たちにそのことを伝えると、ベン・ハダドは、アハブのところに人を遣わしてこう言いました。10節です。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」どういうことでしょうか。

これは、サマリアはちりみたいなもので、自分たちの民にはあまりにも小さすぎるという意味です。つまり、全軍で攻撃し、全てを略奪し尽くすということです。ここに彼の傲慢さと貪欲さが頂点に達しました。

するとアハブはこう伝えます。「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。」これは、戦争に勝ってから誇りなさいという意味です。尾山令仁先生は、これを「とらぬ(たぬき)皮算用(かわざんよう)」と訳しています。これは、狸をまだ捕まえていないのに、その皮を売ったと考えて、(もう)けの計算をすることから、手に入れていないものを当てにして、様々な計画を立てるこという意味です。名訳だと思います。戦いに勝ってから言え、ということです。

随分勇敢なことを言ったアハブでしたが、実際にはこの戦いに勝ち目がないことは誰よりもよく知っていました。しかし彼は、バアル礼拝に心が奪われていたので、イスラエルの神、主に祈りませんでした。バアルには、アハブとその民を救う力はありません。それなのに、真の神、主に祈れなかったというのは残念なことです。こうした危機に関しては、日頃の信仰がものを言います。日々主とともに歩むことが、こうした危機から守られるための最善の道なのです。

これを聞いたベン・ハダドは、仮小屋で酒を飲んでいましたが、イスラエルに戦いを挑むための配置につきました。

Ⅱ.ベン・ハダドに勝利したアハブ(13-21)

次に、13~21節をご覧ください。「13 見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言った。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」14 アハブが、「誰を用いてそうなさるのか」と尋ねると、預言者は、「主はこう言われる。『諸州の知事に属する若者たちである』」と答えた。王が、「誰が戦いを始めるのか」と尋ねると、彼は、「あなたです」と答えた。15 そこでアハブが、諸州の知事に属する若者たちを召集すると、その数は二百三十二名であった。続いてすべての民すなわちイスラエル人七千人を召集した。16 彼らが出陣したのは正午であったが、ベン・ハダドと援護に来た三十二人の王侯たちは仮小屋で酒を飲んで酔っていた。17 諸州の知事に属する若者たちがまず出て行った。ベン・ハダドは、サマリアから人々が出て来るとの知らせを、遣わした者から受けると、18 「彼らが和平のために出て来たとしても生かしたまま捕虜にし、戦いのために出て来たとしても、生かしたまま捕虜にせよ」と命じた。19 諸州の知事に属する若者たち、更に後続部隊が町から出て来た。20 それぞれがその相手を打ち、アラム軍は敗走した。イスラエルの人々は追い打ちをかけたが、アラムの王ベン・ハダドは馬に乗り、騎兵を伴って逃げ去った。21 イスラエルの王も出陣して、軍馬や戦車を撃ち、アラムに大損害を与えた。」

ちょうどそのころ、一人の預言者がアハブ王に近づいて言いました。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」

ここは興味深い預言です。極悪人であるアハブに対して、神はなおも、ご自分が主であることをアハブに現わそうとされたのです。主はいつまでも忍耐深く、アハブに接してくださる方です。主はアハブに勝利を約束されました。この約束はアハブに何か称賛すべき資質があったからではなく、一方的な主のあわれみによるものでした。それは、この勝利によって彼が主こそ神であることを知るためでした。

それでアハブが、「それはだれによってもたらされるのでしょうか」と尋ねると、その預言者は「諸州の首長に属する若者たちによって」と答えました。つまり、各州の青年将校たちによるということです。さらにアハブが、「誰が戦いを仕掛けるのでしょうか」と尋ねると、「あなたです」という答えがありました。アハブがこの戦いの総司令官になるということです。それで彼は、諸州の首長に属する若者たちを調べてみると、その数は232人、それに兵士たちが7千人いたので、真昼ごろ出陣しました。

そのころ、ベン・ハダドは何をしていたかというと、味方の32人の王たちと仮小屋で酒を飲んで酔っ払っていました。この地方では、昼間の熱い時間帯は戦いを避けるのが普通だったからです。彼らはまさかこの暑い中を攻めてくるなど全く想像していませんでした。ベン・ハダドは、「人々がサマリアから出て来ています」という報告を聞いても、「和平のために出て来ても生け捕りにし、戦うために出てきても生け捕りにせよ」と言いました。彼はアハブの軍勢を見下し、完全に油断していたのです。

しかし、戦いは予想外の方向に展開します。諸州の首長に属する若い者たちと、これに続く軍勢がアラムの軍勢を打ったので、イスラエルは大勝利を収めることができました。アラム人は逃げ、ベン・ハダドは馬で逃走しました。

この戦いから、どんなことが教えられるでしょうか。主だけがイスラエルを救うことができる神であることです。しかし、この戦い以降も、アハブは不信仰な態度を取り続けます。主に信頼する人は幸いです。そのような人は、人生の勝利を収めることができるからです。しかし、これを無視するなら、最後は自らに滅びを招くことになります。

Ⅲ.アハブの失敗(22-34)

次に、22~35節をご覧ください。まず22~25節をお読みします。「22 その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って言った。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをよく考えなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るからです。」23 そのころ、アラムの王の家来たちは王に言った。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかし、私たちが平地で彼らと戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。24 このようにしてください。王たちをそれぞれ、その地位から退かせ、王たちの代わりに総督を任命し、25 あなたは失っただけの軍勢と馬と戦車を補充してください。彼らと平地で戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」王は彼らの言うことを聞き入れて、そのようにした。」

戦いに勝利した後、あの預言者が再びアハブ王に近づいてこう言いました。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをよく考えなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るからです。」

一度の勝利で安心してはならないということです。なぜなら、再び敵が攻めてくるからです。私たちの敵である悪魔も、容易に誘惑の手を緩めません。その戦いにいつも備えていなければならないのです。

そのころ、アラムの王の家来たちが王に言いました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかし、私たちが平地で彼らと戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」

彼らは、自分たちが戦いに敗れたのは、イスラエルの神が山の神だからであって、もし平地で戦えば必ず勝てると思いました。それで同盟関係にあった32人の王たちをその王位から退け、その代わりに総督を任命し、彼らが失った軍勢と馬と戦車を補充して、平地で戦うなら、絶対自分たちが勝ちますと進言すると、アラムの王ベン・ハダドは、そのようにしました。ベン・ハダドの高官たちは、戦争に勝利をもたらすのは戦車ではなく、神であることを理解していませんでした。

それはクリスチャンの生活においても同じことが言えます。クリスチャン生活において、勝利をもたらすのは自分の置かれた環境とか状況ではなく、キリストの臨在、神の力によります。私たちはきょうも、神の力によってこの世に出て行かなければなりません。

26~30節をご覧ください。「26 年が改まると、ベン・ハダドはアラム人を召集し、イスラエルと戦うためにアフェクに上って来た。27 一方、イスラエル人も召集され、食糧を受けて、彼らを迎え撃つために出て行った。イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのように陣を敷いたが、アラム人はその地に満ちていた。28 ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」

29 両軍は互いに向かい合って、七日間、陣を敷いていた。七日目になって戦いに臨んだが、イスラエル人は一日のうちにアラムの歩兵十万人を打ち殺した。30 生き残った者たちはアフェクの町に逃げたが、その生き残った二万七千人の上に城壁が崩れ落ちた。ベン・ハダドは逃げて町に入り、奥の間に入った。」

年が改まると、ベン・ハダドはアラム人を召集して、イスラエルと戦うためにアフェクに上って行きました。「アフェク」という町がどこにあるか巻末の地図をご覧ください。地図6を見るとあります。ガリラヤ湖の東岸ですね。ダマスコからイスラエルに下ってくる途中にあります。北からアラム軍が下り、南西の方面からイスラエルが上って来てぶつかるところです。しかし、正確なところはわかっていません。サマリアからは離れ過ぎるからです。それでアフェクのところに?のマークがあるわけです。ある学者は、イズレエルの平原のどこかにあったのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。

一方、イスラエル人もまた、アラムの軍勢を迎え撃つために進軍して行きました。イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのようであったのに対して、アラム人はその地に満ちていました。両者の兵力は歴然としていたということです。

そのとき、一人の神の人が近づいて来て、アハブにこう言いました。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」

アラムは、イスラエルの神は山の神であって平地の神ではないと言っているので、この平地で主は、彼らをイスラエルの手に渡すということでした。それは、アハブ王とイスラエルの民のすべてが、主こそ神であるということを知るためです。二度目の勝利の預言です。アハブはどれほど勇気づけられたことかと思います。

両軍は互いに向き合って、七日間、陣を敷いていましたが、七日目になって戦いに挑みましたが、イスラエルは一日のうちにアラムの歩兵10万人を打ち殺しました。生き残った者たちはアフェクの町に逃げましたが、彼らの上に城壁が崩れ落ちたので、2万七千人が死にました。それでベン・ハダドは逃げて町に入り、奥の間に入ったのです。またもやイスラエルの大勝利です。

31~34節をご覧ください。「31 家来たちは彼に言った。「イスラエルの家の王たちは恵み深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」32 こうして彼らは腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに行って願った。「あなたのしもべ、ベン・ハダドが『どうか私のいのちを助けてください』と申しています。」するとアハブは言った。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」33 この人々は、これは吉兆だと見て、すぐにそのことばにより事が決まったと思い、「ベン・ハダドはあなたの兄弟です」と言った。王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダドが王のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。34 ベン・ハダドは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。あなたは私の父がサマリアにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」「では、契約を結んで、あなたを帰そう。」こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。」

 「家来たち」とは、ベン・ハダドの家来たちのことです。彼らはベン・ハダドに言いました。「イスラエルの家の王たちは恵み深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」

荒布と縄は、悔い改めと従順のしるしです。彼らは腰に荒布をまとい、首に縄をかけて、イスラエルの王アハブのもとに行きました。

すると、イスラエルの王アハブはこう言いました。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」彼は私の兄弟だとは、彼は親しい友人であるということです。そしてベン・ハダドがアハブ王のところに出て来ると、彼を戦車に乗せました。

ベン・ハダドはアハブ王に、自分の父がイスラエルの王バシャの時代に数々の町々を奪い取ったが(Ⅰ列王15:20)、それらをイスラエルに返還すると言うと、アハブに一つの提案をしました。それは、ダマスコに市場を設けることができるように契約を結ぼうというものでした。するとアハブは、「では、契約を結んで、あなたを帰そう。」と言って彼と契約を結び、彼を去らせたのです。いったい彼はなぜベン・ハダドとこのような契約を結んだのでしょうか。

アハブがしたことは一見良さそうにみえますが、これが致命傷となります。彼はアラムと同盟関係を結ぶことで、北からの脅威であったアッシリアに対抗しようとしたのですが、それは人間的な知恵であって、信仰から出たことではありませんでした。結局、これがいのち取りとなり、イスラエルは滅ぼされてしまうことになります。私たちが良かれと思ってやっていることが、必ずしも主の御心にかなっているとは限りません。主の御心に反する歩みを続けるアハブには、将来の希望がありませんでした。私たちも注意しなければなりません。何か重大な決断をする前に主に御心を求めて祈り、それが御心に反していないかどうかを吟味しなければならないのです。いつも、主に聞かなければならないということです。

Ⅳ.御心を損なったアハブ(35-43)

最後に35~43節をご覧ください。 「35 預言者の仲間の一人が、主のことばにしたがって、自分の仲間に「私を打ってくれ」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。36 そこで彼はその人に言った。「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のところから出て行くと、すぐ獅子があなたを殺す。」その人が彼のそばから立ち去ると、獅子がその人を見つけて殺した。37 彼はもう一人の人に会ったので、「私を打ってくれ」と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。38 それから、その預言者は行って、道端で王を待っていた。彼は目の上に包帯をして、だれだか分からないようにしていた。39 王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人が一人の者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにおまえのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』40 ところが、しもべがあれやこれやしているうちに、その人はいなくなってしまいました。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「おまえは、そのとおりにさばかれる。おまえ自身が決めたとおりに。」41 彼は急いで目から包帯を取った。そのとき、イスラエルの王は彼が預言者の一人であることに気づいた。42 彼は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」43 イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」

アハブが行なったことがいかに主の御心を損なったのかを伝えるために、主があの預言者を再びアハブの元に遣わします。そのために彼は、自分の仲間に「私を打ってくれ」と頼みましたが、す。彼はそれを拒んだので、この預言者が言った通り、彼は獅子に食い殺されてしまいました。これは、主がこれから起こることを効果的にアハブに伝えるための預言でした。主はそれほどに、自分の思いをアハブに伝えたかったということです。

それで、彼はもう一人の人に会ったので同じように他の頼むと、その人は彼を打って傷を負わせたので、その預言者は目の上に包帯をして、道端でアハブ王を待っていました。そして王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言いました。39~40節の内容です。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人が一人の者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにおまえのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』ところが、しもべがあれやこれやしているうちに、その人はいなくなってしまいました。」(39-40)

これはたとえ話です。捕虜を見張るように命じられた者が、その捕虜を逃がしでもしたら、その捕虜のいのちの代わりに見張り人のいのちを取るか、または、銀1タラントを罰金として払わされることになります。銀1タラントは高額です。それは、この捕虜が重要な人物であることを示しています。しかし、彼はその重要な捕虜を、不注意のためるに逃がしてしまいました。さて、どうしたらいいものか。ダビデの姦淫の罪を責めるためにナタンが遣わされ、彼はダビデに富んでいる人が貧しい者の一匹の小さな雌の子羊を奪い取り、それで自分のところに来た人のために調理したが、果たしてどうすべきかと、尋ねているのに似ています。(Ⅱサムエル記12章)

そのときダビデはその男に対して激しい怒りを燃やし、「そんなことをした男は死に値する。」と言いましたが、ここでアハブ王もこう言いました。40節です。「おまえは、そのとおりにさばかれる。おまえ自身が決めたとおりに。」

すると、その預言者の仲間の一人は、急いで目から包帯を取りました。その時アハブは、彼があの預言者の一人であることに気付きました。この預言者が兵士に変装したのは、アハブが犯した罪を自らさばかせるためでした。敵を逃がした兵士が罰せられなければいけないのであれば、アハブがベン・ハダデ王にしたのもそれと同じである、ということです。つまり、アハブは、主が聖絶しようとした者を逃がしたので、彼のいのちはその者のいのちの代わりとなり、彼の民はその者の民の代わりとなるのです。ベン・ハダドを聖絶することが主の御心だったのに、アハブは逃してしいました。それゆえ、彼自身がベン・ハダドに代わって死ぬことになるのです(Ⅰ列王22:30)。

それを聞いたアハブはどうしたでしょうか。43節、「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」

彼は不機嫌になり、激しく憤って、自分の宮殿に戻って行きました。彼は、へりくだって悔い改めるどころか、非常に不機嫌になり、甘えん坊の子供のように、ふてくされて家に帰ったのです。いわゆる「逆切れ」です。主によって叱責を受けたときに、自分を正すのではなく、逆に頭に来たのです。

神に敵対する人には平安がありません。いつもアハブのように不機嫌になり、ふてくされています。憤り、怒りがその人の心を支配するからです。時として私たちも間違いを犯しやすい者ですが、その間違いを示されたなら、へりくだって悔い改めなければなりません。そうすれば、主が共にいてくださり、その心に平安を与えてくださるのです。

マタイの福音書1章1~17節「イエス・キリストの系図」

アドベントの第二週を迎えました。御言葉からキリストの御降誕を待ち望みたいと思います。今日は、マタイの福音書1章前半にある「イエス・キリストの系図」からお話ししたいと思います。

多くの人が初めて手にする聖書は新約聖書ではないかと思いますが、その最初のページをめくって抱く印象は、「戸惑い」ではないでしょうか。私も、高校3年生の時、当時はわかりませんでしたが国際ギデオン協会の方々が校門の前で配っていた赤いカバーの聖書を手にして、「いったい何が書いてあるんだろう」と興味津々、帰宅して読み始めたのが、このマタイの福音書1章でした。そこには読み慣れない名前の羅列と、無味乾燥に見える系図が書かれてあって、「何だ、これは?」とすぐに読むので止めてしまいました。でも捨てるに捨てられず、他にバスケットボールの本しかなかった本箱に飾っていたら、その後、後に妻になる1人の宣教師と出会い教会へと導かれました。そして、そこでイエス・キリストに出会うことができたのです。でも私のようなケースは稀で、ほとんどの人はこの箇所を見て読むのを断念するのではないかと思います。

かつてある人がこんなことを言いました。「新約聖書はマタイの福音書よりもマルコの福音書の方が最初にあったほうがいい。多くの人はせっかく手にしてもマタイの福音書1章の系図につまずいて、それ以上先に読み進めなくなってしまう。」

確かに、いきなり系図から始まっては、読み手は面食らってしまうかもしれません。それよりも一切の前置きを省略して、真っ直ぐイエス・キリストの物語に進むマルコの福音書のほうが、人々が福音に触れるにはよいのではないかと思います。実際に書かれた年代からすれば、マタイの福音書よりもマルコの福音書の方が先に書かれました。それなのになぜマルコの福音書ではなく、マタイの福音書が最初に置かれたのでしょうか。しかも、なぜその冒頭が系図だったのか。そこには深い神様の意図があったと思うのです。
 

Ⅰ.アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(1)

まず1節の冒頭のことばから見ていきましょう。ここには、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。

これを書いたマタイは、これから書き連ねていく福音書の主人公イエス・キリストがどのような方なのかを紹介するにあたり、アブラハムから始まる系図を示して、イエス・キリストとは誰なのかを紹介しています。なぜ系図から書いたのでしょうか。それはこの福音書の著者であるマタイが、ユダヤ人ないしユダヤ社会の価値観に生きていた人々に向けてこれを書いたからです。

このような系図が出てくると、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものですが、当時のユダヤ人にとってはむしろピンと来たのではないかと思います。というのは、彼らが一人一人の名前を読むとき、その人物とその時代の歴史的背景を次々に思い出すことができたからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現までの、約二千年間の物語です。これほど壮大なドラマは、そんじょそこらに見出せるものではありません。ユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっていたので、こうした系図も容易に理解することができたのです。

その系図の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」でした。マタイはまず、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であると述べています。「子」とは「子孫」であるということです。これはある意味この系図の要約であり、またこの福音書全体の主題であるとも言えます。

アブラハムは、皆さんもご存知のように、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福すると約束をされたからです。創世記12章1~3節にこうあります。「1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

このように神様はアブラハムとその子孫によって、すべての民族を祝福すると約束されました。その子孫こそ、イエス・キリストです。ですから、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、私たちはこの子孫によって祝福される、つまり救われるのです。マタイは、イエスが「アブラハムの子」であると言うことによって、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを、読者に伝えたかったのです。

また、マタイはイエスが「ダビデの子」であるとも言っています。ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王でした。ユダヤ人は今日でもその国旗にダビデの紋章を用いていることからもわかります。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムが生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に生きていました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界を揺さぶるような約束を与えられています。それは、Ⅱサムエル7:12~13にある「ダビデ契約」と呼ばれているものです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この「世継ぎの子」とは直接的にはソロモンのことですが、これはダビデの子孫から出るメシヤのことです。それはここに「とこしえまでも堅く立てる」と言われていることからもわかります。そのメシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されるというのです。その王こそ、ダビデの子として生まれるイエスなのです。

それで、国を滅ぼされたユダヤ人は、このダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれるメシヤの現われを待ち望むようになりました。そして、メシヤを待望する信仰が生まれたのです。そのメシヤとはだれか。マタイはここに「ダビデの子」と記すことによって、その子孫から生まれるイエスこそダビデ契約の成就者であり、全人類に救いをもたらすメシヤであるということを伝えたかったのです。

Ⅱ.イスラエルの歴史(2-16)

では、アブラハムからダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる系図とはどのようなものだったのでしょうか。2~16節にその長い系図が出てきます。2~6節までは、アブラハムからダビデまでの、いわゆる族長時代、士師の時代の歴史です。そして7~11節には、ダビデからバビロン捕囚までのイスラエルの王朝の系図、そして12~16節には、バビロン捕囚からイエス誕生までの歴史が記されてあります。

まず2~6節をご覧ください。「2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、」

司会者泣かせの箇所です。でも、ここまでは比較的ポピュラーな人たちの名前なのでそれほど大変でもありませんが、この後16節までずっと読み進めていくと、舌を噛みそうになります。

この6節までに出てくる人たちの名前の中で特徴的なことは、ここに4人の女性たちの名前が記されてあることです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この系図全体にはもう一人の女性の名前が出てきます。それは16節に出てくるイエスの母マリアです。それと合わせると全部で5人の女性の名前が記録されてありますが、そのうちの4人は6節までに出てきます。

圧倒的な男性優位の社会の中にあって、このように女性の名前が記録されていることは非常に珍しいことでした。マタイはなぜここにこれら4人の女性の名前を記したのでしょうか。マタイがこの特定の女性を選んでわざわざ記したのには、それなりの深い意図があったのではないかと思います。

系図の中で最初に登場する女性は、タマルです。3節をご覧ください。タマルに関しては、創世記38章に詳しく書かれてありますので、後でゆっくりご覧いただきたいと思いますが、タマルはユダの長男(エル)の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎのために次男(オナン)がタマルを妻としましたが、次男も死んでしまいました。そこで父のユダは「三男(シェラ)が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、三男まで殺されるのがいやだったので、タマルに与えるつもりはありませんでした。

そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダと関係をもって子どもを設けようと考えたのです。ユダはタマルと関係を持ち、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖を彼女に与えました。その後、ユダはタマルが妊娠していることを聞くと「あの女を引き出して、焼き殺せ。」と言いましたが、タマルは「私はこれらの品々の持ち主によって身ごもったのです」と言うと、ユダは「あの女は私よりも正しい」と認めました。そのタマルが、イエスの先祖として加えられているのです。いったいなぜタマルの名前が記されたのでしょうか。それは、どんなに罪深い人でも許されることを示すためでした。

思いつめたタマルは、義父を誘うという不道徳な行動を取ってしまいましたが、神はタマルを赦して子どもを与え、その子ペレツをイエス・キリストの祖先の一人としてくださいました。私たちもまた、タマルのようにしばしば間違った行動を取ってしまうことがありますが、神はそんな間違いやすく罪深い私たちが、神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいるのです。

次に登場する女性は、ラハブです。5節をご覧ください。ラハブについては、旧約聖書のヨシュア記2章に書かれてあります。ラハブもエリコに住む売春婦、遊女でした。タマルは売春婦に変装しましたが、ラハブは正真正銘の売春婦でした。しかもユダヤ人ではなくカナン人でした。カナン人とはカナンの先住民族のことで、占いとか、呪術、霊媒などを行っていた民族です。そればかりか、自分たちの息子や娘をいけにえとして火で焼いたりしていました。つまり、神に忌み嫌われていたことを平気で行っていた民族だったのです。そんなラハブの名がここに記されてあるのです。なぜでしょうか。それは彼女がエリコという異教社会にあって、限られた知識しかないにもかかわらず、リスクを顧みずに、敵であったイスラエルの神こそまことの生ける神であると信じ、告白したからです。

彼女はヨシュアによってエリコ偵察のために遣わされた二人のスパイを家の屋上にかくまうと、エリコの警備兵には嘘をついて、二人を助けました。ラハブは屋上に上ると、亜麻の間に隠れているイスラエル人に、なぜ自分が二人をかくまったのかを語りました。それは、「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

何とラハブの口から出たのは、イスラエルの神に対する信仰告白でした。二人の斥候は驚きました。彼女は旅人たちからイスラエル人のうわさを聞き、そこに働いている神の力を知ったとき、それこそ真の神であると信じるようになっていたからです。

それからラハブは、二人の斥候に、「私はあなた方を助けました。どうか、今度は、あなた方が私と私の家族を救ってください。」と要求すると、二人は、窓に赤いひもを結び付けておくようにと言いました。やがてイスラエルがこの地に攻め入るとき、その赤いひもが目印となって、彼らを救うためです。そのようにして、ラハブとその家族が救われました。これは、イエス・キリストの十字架の血の象徴でした。キリストの十字架の血を受け入れる者は誰でも救われるのです。

たとえ遊女のように汚れた者であっても、たとえ神から遠く離れた異邦人であっても関係ありません。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。遊女ラハブの名がここに記されてあるのは、そのことを示すためだったのです。

キリストの系図に出てくる三人目の女性はルツです。ルツのことは旧約聖書の「ルツ記」に書かれてあります。ルツも信仰深い女性でしたが、モアブ人でした。モアブ人は、異邦人の中でも最も嫌われていた民族でした。というのは、かつてモアブの娘たちがイスラエルの民を惑わして不道徳と偶像崇拝に導いたからです。その出来事は民数記25章1~3節にありますので、後でご覧いただけたらと思います。それで、モアブ人は「主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」(申命記23:3)と厳しく命じられていました。そのモアブ人ルツの名前がここに記されてあるのです。どうしてでしょうか。それはルツが素敵なお嫁さんだったからではありません。それは彼女の信仰のゆえでした。

二人の息子を亡くした姑のナオミが、「あなたがたは、それぞれ自分の家へ帰りなさい。そして、いい人を見つけて再婚しなさい。神があなたがたに恵みを賜りますように。」と言ったのに、ルツは、「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言って、ナオミについてベツレヘムまでやって来ました。つまり、彼女はモアブ人でありながら、ナオミの信じていたイスラエルの神、主を信じのです。

それだけでありません。ルツの名前がここに記されてあるのは、彼女の信仰がすばらしかったというだけでなく、彼女がベツレヘムで誠実で、忠実な信仰の人ボアズと出会い、結婚したからです。ベツレヘムに戻ったナオミは、苦しい生活の中にあって、ルツが落ち穂ひろいをして生計を立てていました。その麦畑の主人がボアズでした。彼はルツをあわれみ、買い戻しの権利という権利を使って、やもめとなっていた彼女を自らの妻として迎え入れました。実は、このボアズはイエス・キリストのひな型でした。ですから、これはキリストとその花嫁である教会がどのようなものなのかを示しているのです。つまり、そこにはユダヤ人とか異邦人といった区別は全くなく、キリストにあって一つであるということを表していたのです。

村の人々はみな、ルツとボアズを祝福し、こう言いました。「どうか、主がこの娘を通してあなたに授かる子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」(ルツ4:12)

タマルがユダに産んだペレツの家とは、先ほど見てきたとおりです。ルツとボアズの家がその家のようになりますようにというのは、その系統を引き継いでいるということです。そのペレツの子孫であるボアズからオベデが生まれます。このオベデは、ダビデのお祖父ちゃんに当たります。そこからキリストは生まれてくるのです。神様の不思議な救いの計画が、ここにも脈々と流れているということです。そのために用いられたのがルツであり、ボアズでした。神様は本当に不思議なことをなさいます。

キリストの系図に出てくる4人目の女性は「ウリヤの妻」です。これはバテ・シェバのことです。でもマタイは「バテ・シェバ」と書かないで「ウリヤの妻」と書きました。どうしてでしょうか。それは彼女が他人の妻であったからです。ダビデはその他人の妻と関係を持って妊娠させてしまいました。そればかりか夫のウリヤを戦場に送り、計略によって戦死させ、その事実をもみ消そうとしました。その出来事はⅡサムエル記11章にありますので、後でご覧ください。ダビデは姦淫をし、何と殺人までも犯してしまったのです。名君と言われ、ユダヤ人が誇りに思っていたダビデが、このような大きな罪を犯したのです。これはユダヤ人にとっては耳痛いことでした。触れられたくない事実でした。でもあえて神はマタイを通してそのユダヤ人たちの誇りを打ち砕くかのように、ウリヤの妻という形でここにその事件のことを記したのです。

こうやって見ると、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかに異邦人の血が混じっていたり、決して純粋ではなく、そのうえ数々のスキャンダルや罪の汚点があったことがわかります。イエスは、そうした人間の罪の中から生まれてくださいました。それは、罪深い人間をあわれまれ、罪人を救うためです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15-16)

マタイはこれらの4人の女性の名前をあげることで、そうした事実を思い起こさせているのです。

それは、この4人の異邦人の女性だけでなく、7節以降の南ユダ王国の王たちの歴史や、12節以降に出てくる人物を見てもわかります。私たちは今ちょうど礼拝でエレミヤ書を、祈祷会で列王記第一を学んでいますが、そこに出てくる王たちの歴史は、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝にふけり、主の律法に背いた悪しき王たちです。その結果として王国の滅亡とバビロン捕囚がもたらされるわけです。

12節以降は、バビロン捕囚後の系図ですが、ここに出てくる人物は、旧約聖書の中に名前も出てこない人たちです。文字通り名もなき人々の系図が記されてあるのです。そしてついにはイエスの父ヨセフが生まれますが、ヨセフはかつてのダビデ王家の血筋も今は昔で、ナザレでひっそりと大工業を営む家となっていました。

ですから、マタイの福音書がこの系図の冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記していても、事柄はそう単純ではなく、旧約聖書に預言された救い主メシヤの訪れはまさに主の救いのご計画と人間たちの歴史、苦難と栄光、光と影の織りなす歴史であったことがわかります。その中からイエス・キリストは生まれてきたのです。私たちは、この方を私たちは救い主としてお迎えするのです。マタイが伝えたかったのはそのことだったのです。

Ⅲ.神の完全な救いのご計画(17)

最後に17節を見て終わりたいと思います。17節にはこうあります。「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を三つに大きく区分しています。それは、アブラハムからダビデまでの全部で十四代の期間と、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、そして、バビロン捕囚からキリストまでの十四代です。

しかしよく見ると、この系図はマタイの福音書がある意図をもって「十四代」ごとにまとめ上げたものであることがわかります。たとえば、これはもともとこの部分は旧約聖書の中の歴代誌第一3章にある系図を基に書かれてありますが、それと読み比べてみると、マタイ1章8節には「ヨラムがウジヤを生み」となっていますが、実際にはヨラムとウジヤの間にいるアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王が抜けていることがわかります。また、11節にはヨシヤがエコンヤを生みとありますが、実際にはその間にエホヤキムがいて、彼の名が省略されています。さらに12節には、シェアルティエルがゼルバベルを生みとありますが、その間のペダヤが省略されています。これはどういうことかというと、マタイはそういう操作をしてまで、「14」という数字にこだわったということです。

旧約聖書においては「7」という数は完全数と呼ばれ、完全さの表れを意味しています。「14」はその倍です。さらなる完全さを象徴していたのです。完全の完全です。マタイはこのことを踏まえつつ、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの時が一つの完全な時であったことを示すことで、神の救いのご計画が完全な神の御業であったことを示しているのです。また、マタイはこのように系図をたどることによって、アブラハムに約束された神の救いが、いよいよ実現しようとしていることを思い起こさせているのです。そういう意味でこの系図は旧約聖書と新約聖書を結び付ける上できわめて重要なものであると言えます。マタイの福音書が新約聖書の冒頭に置かれたのは、単なる偶然ではなく、神の完全なご計画であったのです。

このような完全な神のご計画の前に、私たちに求められていることは、私たちも神の救いの約束の確かさ、完全さを信じて、アブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを救い主として受け入れることなのです。

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:2-4)

あなたはどうですか。聖書に、このようにあらかじめ約束されていた御子イエス・キリストを信じ、この方に従っているでしょうか。主の御名を呼び求める者は、みな救われます。あなたもアブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを信じてください。