エレミヤ12章1~6節「どうして、どうして、どうして」

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きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

Ⅰ列王記19章

 今日は、列王記第一19章から学びます。

 Ⅰ.自分の死を願ったエリヤ(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。4節までをお読みします。「1 アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」」

18章には、エリヤとバアル預言者との戦いが記されてありました。1対450です。火をもって答える神、それが真の神です。まずバアルの預言者450人が一日中祈りました。しかし、何も起こりませんでした。次にエリヤが祈ると、雄牛にたくさんの水をかけたのにも関らず、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くしました。それによって、主こそ神であることが明らかとなりました。エリヤが勝利したのです。それでエリヤは、バアルの預言者たちをキション川で殺しました。今回の箇所は、その後の出来事です。

アハブはカルメル山でエリヤがしたこと、また、預言者たちを皆殺しにしたことの一部始終を、妻のイゼベルに報告しました。するとイゼベルは使者をエリヤのところに遣わして、こう言いました。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

どういうことでしょうか。24時間以内にエリヤを殺すということです。もしそれが達成できなかったら、神々が自分を幾重にも罰せられるように、つまり、自分のいのちにかけてエリヤを殺すということです。ここに彼女の並々ならぬ決意が表れています。

それを聞いたエリヤはどうしたでしょうか。彼は、イゼベルのことばを恐れてベエル・シェバまで逃亡しました。イズレエルからベエル・シェバまでは、南に約 160㎞も離れています。どうしてそんな所まで逃げたのでしょうか。そこまで逃げれば大丈夫と思ったのでしょう。しかし、それで彼の恐れは消えることがありませんでした。彼は若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行くと、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

エリヤは、自分の死を願うほどのひどい鬱状態に陥りました。信じられません。私たちは前の章で彼の信仰について学びましたが、彼は「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」(18:15)と言って、カルメル山で450人のバアルの預言者と対決して勝利した人です。それなのに今、たった一人の異教徒の女イゼベルの脅しによって恐れを抱き、逃げられるところまで逃げて、自殺願望まで抱くようになるなんて考えられません。どうして彼はそんなに恐れたのでしょうか。霊的大勝利を体験したエリヤほどの信仰者であっても、このような状態に陥ることがあります。いや、不思議なことですが、こうした大活躍をした後こそ、このような状態に陥ることが多いのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節をご覧ください。ここには「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」とあります。彼は、自分のいのちを救おうとしました。言い換えると、神様から目を離してしまいました。彼は神様ではなく、自分自身に目を向けました。自分、自分、自分と、自分に関心が向いてしまうと、このように落ち込んでしまいます。でも、自分から神様に目を向けると守られます。イエス様もこのように言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ2:25)自分のいのちを愛そうとする者は、いのちを失うことになります。でも自分ではなく神様に目を向けるなら、守られます。エリヤの関心は自分のいのちを救うことでした。エリヤも普通の人でした。神から目を離した瞬間に、恐れに支配されてしまいました。その結果、恐れと落胆、孤独と失望にさいなまれてしまうようになったのです。

次に、5~8節までをご覧ください。「5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7 主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。」

エリヤがエニシダの木の下で横になって眠っていると、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言いました。死を願うほどひどく落ち込んでいたエリヤを癒すために主が取られた方法は、食事を取らせることでした。体調を守り、肉体を整えようとされたのです。

彼が見てみると、そこに焼け石で焼かれたパン菓子一つと、水の入った壺があったので、彼はそれを食べ、また飲みました。それを食べて飲むと、彼は再び横になりました。相当疲れていたのでしょう。再び横になり眠ってしまいました。そこで御使いがもう一度彼に触れ「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのですから。」と言うと、エリヤは起きて食べ、そして飲んで力が与えられました。すると彼は、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブまでやって来ました。なぜホレブまでやって来たのでしょうか。誰も神の山ホレブに行くようになんて言っていません。そこはかつてモーセが神から律法を受けた場所です。おそらく彼は、そこに行けば神からの新しい啓示が与えられるのではないかと思ったのでしょう。しかし、それは神の指示によるものではなく、自分勝手な判断によるものでした。これまでのエリヤの働きはすべて神からの指示によるものでした。たとえば、ケレテ川のほとりに行ったのも(Ⅰ列王17:3)、また、ツァレファテのやもめのところに行ったのもそうです(Ⅰ列王17:9)。アハブに会いに行った時もそうです(Ⅰ列王18:1)。つまり、神の御心から外れて自分勝手な道を歩み始めると、日々の生活の方向性を失ってしまい、信仰の漂流が始まるのです。そんなエリヤに、主は何と言われたでしょうか。

Ⅱ.ここで何をしているのか(9-18)

次に、9~18節をご覧ください。「9 彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」15【主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」」

神の山ホレブに着いたエリヤは、そこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごししまた。すると主は彼にこう言われました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。どういうことでしょうか。このことばで、神はエリヤに何を問うておられたのでしょうか。

彼は神の御心から外れて日々の生活の方向性を見失っていました。彼は本来いるべきところにいなかったのです。そこで主は彼に「ここで何をしているのか」と問われたのです。つまり、あなたはどこにいるのか、あなたはわたしが望んでおられるところにいるのかと問われたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。彼は10節でこのように答えました。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

エリヤは、「ただ私だけが残りました」と言っています。これは事実ではありません。アハブ王の側近であるオバデヤがすでに、主の預言者100人をほら穴に隠して養っていたことをエリヤは知っていました。それなのに彼は自分だけが主に仕えていると言いました。エリヤは、落胆と孤独で事実が見えなくなっていたのです。否定的なことしか見ることができなくなっていました。私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。たとえば、長いこと病気でいると、どうして自分ばかりこんなに辛い思いをしなければならないのか・・と。つまり、自分の置かれた状況に振り回されてしまうのです。

それに対して主は何と言われましたか。11節です。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると主が通り過ぎて行かれました。でもそこには主はおられませんでした。大風が山々を裂き、岩々を砕きましたが、そこにも主はおられませんでした。風の後に地震が起こりましたが、その火の中にも主はおられませんでした。そうした激しい自然現象の中には、主はおられませんでした。ではどこにおられましたか。火の後です。火の後に、かすかな細い声がありました。それは主の声でした。エリヤはそれが主の声でだとわかったので、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立ちました。エリヤが外套で顔をおおったのは、神に対する畏怖の念があったからです。

すると声がしました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」主はここで彼に同じ質問を繰り返されました。その質問に対してエリヤも同じ答えを繰り返しています。彼は依然として否定的な面にしか目を向けることができないでいました。なぜでしょうか。エリヤはこれまで多くの奇蹟を見ていきましたが、そのような奇蹟をもたらすのが万軍の主だと思い込んでいたからです。しかし主は、そのような奇跡の中だけにおられるのではありません。むしろ、そうしたことにばかり目が行ってしまうと、そうでない現実に疲れや落胆を抱くようになってしまいます。でもこのような奇跡が私たちを動かすのではなく、ただ自分の内に語られる神様のかすかな細い声、しずかな声によって私たちは動かされるのです。エリヤも激しい自然現象によってではなく、かすかな細い声に動かされて、ほら穴から出て来ることができました。この神のかすかな細い声が、私たちを人生の洞穴から導き出してくださるのです。その声が、私たちのじたばたやもがきを止めてくれるのです。私たちはこの声を聞くべきなのです。

Ⅲ.エリヤの後継者エリシャ(15-21)

最後に、15~21節をご覧ください。15~18節をお読みします。「15 主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

エリヤは、自分がどういうことをしたのか、他のイスラエルの民は何をしたのかとなど、いろいろな事を主の前に並べ立てました。しかし、主にとってそんなことはどうでも良いことでした。主が求めておられたことは、エリヤが自分に与えられている使命を果たすことだったのです。

そこで主は彼に、主は新しい使命を与えられました。それは、ダマスコの荒野へ帰って行き、そこでハザエルに油を注いで、アラムの王とすることでした。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とすること、そして、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、彼に代わる預言者とすることでした。アラムの王ハザエルは、偶像礼拝と不信仰に陥っていたイスラエルの民を裁く器となります。また、ニムシの子エフーは、北イスラエルの王アハブの家を罰し、滅亡させる器となります。シャファテの子エリシャは、エリヤに代わる預言者となります。この3人は、エリヤが始めたバアル撲滅運動を完成させる器なのです。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺します。そんなことをしたらイスラエルにはだれも残らなくなってしまうんじゃないですか。いいえ、違います。主はこのように約束してくださいました。18節です。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

ここで、エリヤの過剰なまでの自負心と孤独に対する最終的な解決が与えられます。それが、七千人の残りの者たちです。この「イスラエルの残りの者たち」(レムナント)という概念は、エリヤの時代に明らかになりました。彼らは、各時代にあって主を信頼した真の信仰者たちです。イスラエルの残れる者は、いつの時代にあっても少数者です。そしてそれは、イエスの時代も、使徒たちの時代も、さらに今の時代も、変わることがない真理なのです。

ですから、クリスチャンが少ないからと言って、悲しむ必要はありません。真の信仰者は、いつの時代であっても少数者だからです。それよりも、少数者でもバアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちがいることを喜び、感謝すべきです。エリヤは「自分だけが」という思いから深い孤独と絶望の中にいましたが、自分だけでなく、何と多くの兄弟姉妹たち、同労者たちに囲まれているということを知り、励ましと慰めを受け鬱から解放されたのです。立ち上がることができました。

19~21節をご覧ください。「19 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。」

そればかりではありません。彼はもう一つの事実を知って、完全に立ち直ります。それは、後継者が備えられていたという事実です。エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャのところへ行きました。エリシャの出身はアベル・メホラです。すなわち、彼はシナイ山から、アベル・メホラまでやって来たということです。アベル・メホラは、死海とガリラヤ湖の中間にあるヨルダン渓谷の町です。エリシャは12くびきの牛を先に立て、その12番目のくびきのそばで耕していました。農作業に従事していたということです。

エリヤが彼のところを通り過ぎると、彼はエリシャに自分の外套を彼に掛けました。この外套を掛けるという行為は、自分の後継者として選んだということです。エリシャはそれをすぐに理解して、それで自分の職を捨て、エリヤに従っていきます。そして、こう言いました。

「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」

どういうことでしょうか。エリヤについて行く前に、父と母に挨拶させてください。それからあなたに従って行きますと。するとエリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」と言いました。これは「あなたの思うようにしなさい」ということです。これはあなたと神様との問題なのだから、神の召しに答えるのに、自分がとやかく言えるものではないといった意味です。

エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせてからエリヤについて行きました。エリシャは家族のためにさよならパーティーを開き、その後でエリヤについて行ったのです。

主はエリヤに、イスラエルの中にバアルに膝をかがめず、口づけしなかった七千人を残すと言われましたが、ここでは、彼の後継者として、神の働きを行う者を備えておられました。神の働きは決して途絶えることはありません。神は、いつの時代も、ご自身のしもべを用意しておられるのです。このことを通して、エリヤは完全に孤独と落胆から解放されました。彼は「自分だけが・・」と思っていましたが、実際には自分だけでなく、バアルに膝をかがめない、口づけしない七千人の勇士と、彼の働きを受け継ぐエリシャが備えられていることを知って、大いに励ましを受け、そこから立ち上がることができたのです。

それは私たちも同じです。私たちも恐れや困難に直面すると自分のことしか見えなくなってしまいます。「自分だけが・・・」と、孤独と落胆に陥ってしまうのです。しかし、実際はそうではありません。神様は少数者でも私たちと同じように主に信頼する真の信仰者を残しておられるのです。そればかりか、この働きを担う後継者までちゃんと用意しておられるのです。あなたは決して一人ではないのです。あなたはその事実をきちんと見なければなりません。

エリヤは神様によってその事実を見せられることによって大いに励ましを受け、孤独と落胆から立ち上がることができました。私たちもこの事実をしっかりと見ましょう。そして、そこに励ましと慰めを受けたいと思います。それはかすかな主の御声を聞くことから始まります。御声によってその事実に目が開かれるとき、あなたはあなたの目を自分から神に向けることができるようになり、神に感謝することができるようになるのです。

エレミヤ11章11~23節「実りの良い、緑のオリーブの木」

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きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」
 主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは既に7:16にもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権であるらです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分の言うことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにもちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神様との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話の線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「それで」とか、「そこで」という接続詞があります。

「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」    

つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、それらは、決して彼らを救わないということです。「犠牲を供えている神々」とは、偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまであちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけのことです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決はあなたが罪を悔い改めて、真の神に立ち返ることです。あなた自身が変えられることです。そのことを忘れないでください。

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。ヨシヤ王の宗教改革はB.C.621年でした。その時ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後(B.C.609)、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていました。元の状態に戻ってしまったのです。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

これは私たちにも言えることです。信仰が単なるパフォーマンスになってしまうことがあります。信仰が私たちの生活の中に根差し、私たちの生活を変えるところまでいかないことがあるのです。私たちも考えなければなりません。私たちの中には、町の数のほどの偶像はないかということを。私たちの中心に主イエスがおられ、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神の御霊が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように祈りましょう。

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

これは、とりなしの祈りの禁止令です。ここで主はエレミヤに、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的にはいけにえをささげるために来ていましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかというのです。彼らの神殿で行う宗教的儀式というは彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。主はかつて彼らの名を「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれました。ところが、その美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。それは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。こうしてイスラエルはみな救われます。神の賜物と召命は変わることがないからです。すごいですね、神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

にもかかわらず、その「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主が」とありますが、彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル神を礼拝して、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が接ぎ木してくださったからであり、一方的な神の恵みによるのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうことがあるということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことをすっかり忘れてしまいます。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満といったものが消え去り、感謝が満ち溢れるようになるのではないでしょうか。

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。それを計画していたのは何と、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。彼らはエレミヤの語る主のことばを聞いて「ウザい!」と思っていました。そして彼を殺そうとしていたのです。エレミヤ当初その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださいました。

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、そのような時に限って、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

  • 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
  • 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
  • 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
  • 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それが21~23節にあることです。それは、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

あなたはどうですか?不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。一難去ってまた一難です。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。

Ⅰ列王記18章

 

 今日は、列王記第一18章から学びます。

 Ⅰ.主を深く恐れていたオバデヤ(1-15)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。3 アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。4 かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。5 アハブはオバデヤに言った。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない。」6 二人はこの国を分けて巡り歩くことにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバデヤは一人で別の道を行った。」

干ばつが始まって3年目に、アハブに会いに行くようにという主のことばが、エリヤにありました。それは「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らそう。」というものでした。それでエリヤは、アハブに会うためにサマリアに出かけて行きました。というのは、特にサマリアでの飢饉がひどかったからです。これは、主に敵対するアハブとイゼベルに向けられていたものだったのです。

アハブには宮廷長官でオバデヤという名の家臣がいました。彼は主を深く恐れていました。彼は、かつてアハブの妻イゼベルが主の預言者たちを殺したときに、百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養いました。飢饉のときに、百人分の食料を調達するのは容易なことではありません。それは信仰がなければできないことです。彼は主を深く恐れていたので、アハブに背いても主に従ったのです。

極悪な王アハブのもとで、北王国イスラエルがバアル礼拝へと向かっていた中でも、彼のように真実な信仰を持っていた人が残っていたということは驚きです。そして、神は今もこのような少数の者たちを残しておかれ、彼らを用いて、ご自身の御業を行っておられるのです。ですから、クリスチャンが少ないからと言ってがっかりしないでください。数が問題なのではありません。問題はそこにオバデヤのような神を恐れる真の神の民がいるかどうかということです。私たちの置かれている状況がどうであれ、私たちはいつも「私と、私の家とは主に仕える」という信仰に堅く立っていなければなりません。

アハブはオバデヤに言いました。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておくための牧草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」と。馬とらばは、戦いに必要な家畜です。ですから、何とかして家畜を絶やさないようにしたかったのです。それで、アハブとオバデヤは、国を分けてそれぞれ別の道を巡り歩くことにしました。その方が効率がよいからです。

7~15節をご覧ください。「7 オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」8 エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」9 すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。12 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。13 あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。14 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」

オバデヤが道を歩いていた時、エリヤが彼に会いにやって来ました。オバデヤはそれがエリヤだとすぐにわかったので、その場にひれ伏しました。彼はエリヤに、「あなたはわたしの主人エリヤではありませんか」と言いました。それは、エリヤに対する恐れと尊敬の表れでした。エリヤが預言したとおり干ばつが起こったことを知っていたオバデヤは、エリヤを恐れていたのです。

エリヤはオバデヤに、「そうです」と言うと、「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」と言いました。あなたの主人とはアハブ王のことです。

するとオバデヤは大いに恐れました。なぜ?エリヤが自分をアハブに渡し、殺すのではないかと思ったのです。どういうことかというと、これまでアハブはエリヤを殺そうといろいろなところに人を遣わして捜させましたが、「いない」と報告すると「本当か?」と言って誓いまで書かせていました。もし自分がそのエリヤがいることをアハブに報告している間にエリヤ本人がいなくなってしまったら、自分が殺されるのではないかと思ったのです。12節でオバデヤが言っていることはそういうことです。自分がアハブのところに報告にいっている間に、主の霊が彼をどこか知らないところに連れて行くことがあれば、私は殺されてしまうことになると言っています。エリヤは3年間アハブから逃れて隠れた生活をしていました。そのためエリヤは「主の霊」によって取り去られたのではないかという噂が広がっていたのです。そんなことが私の身に起こったら大変です。子どものころから主を信じ、主を恐れている自分にそのような悲劇があるとしたら、あまりにも理不尽です。

オバデヤは自分がしてきたことをエリヤに伝えます。13節です。「あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。」

彼がしたことは、主の預言者たちの間ではよく知られていました。当然、エリヤにも知らされていたはずです。彼はいのちがけで主の預言者をかくまい、彼らを養ったのです。そんな自分に災難が降りかかるようなことをしないでくださいとお願いしているのです。

するとエリヤは何と言ったでしょうか。15節をご覧ください。彼はこう言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」

エリヤは、自分のいのちを狙っているアハブの前に出ることは相当の恐れがあったと思いますが、彼が仕えている主は万軍の主であって、今も生きておられるお方であると信じていました。であれば、主は必ず守ってくださいます。その信仰をもって、今日、アハブの前に出ると言っているのです。どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。

エリヤは最初からこのような信仰を持っていたわけではありません。17章にあったことを思い出してください。彼はまずケレテ川のほとりに身を隠せと主から言われたのでそのようにすると、主は烏をもって彼を養ってくださいました。毎日、朝と晩に、肉とパンを運んできたのです。それから主はエリヤを、ツァレファテのやもめのところに遣わされました。このやもめは本当に貧しく、かめの中には一握りの粉と、壺の中にはほんの少しの油しか持っておらず、それを自分の息子のために調理して食べて、死のうとしていました。しかし、「主が血の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。」という主のことばを信じて従うと、そのことばの通りになりました。エリヤはこうしたケレテ川での体験や、ツァレファテのやもめの家での体験を通して信仰が強められ、揺るぎないものとなっていきました。それがこのことばの中に表れているのです。私たちも試練を通して練られ、強くされていきます。そうした苦難を通して信仰が養われていると信じ、神の御業を体験させていただきたいと思います。

Ⅱ.バアルとアシェラの預言者たちとの戦い(16-40)

次に、16~29節をご覧ください。「16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」

20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」

25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」

オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来ました。アハブはエリヤを見るやいなや、エリヤに言いました。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は」。アハブは、エリヤがイスラエルに災いをもたらしていると思っていたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。エリヤはこう言いました。18節、「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている」。イスラエルに災いをもたらしているのは自分ではなく、アハブと彼の家族であると指摘し、彼らが主の命令を捨てて、バアルの神々に従っている結果だと告げたのです。

そこでエリヤは続けてこう言いました。「今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」(19)

どういうことですか。真の神はだれなのかということです。エリヤが信じている万軍の神、主なのか、それともバアルなのかということです。そのことをはっきりさせようではないかというのです。それをはっきりさせるために、バアルの預言者とアシェラの預言者をカルメル山にいる私の自分のところに集めよ、といったのです。巻末の地図をご覧ください。カルメル山は、イズレエル平原の北西にある地中海沿岸から南東に伸びる、標高およそ520メートルの山脈です。そこに450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を集めるようにというのです。この預言者の数によって、当時の北王国イスラエルにおけるバアル礼拝の規模がどれほどのものであったかを想像することができます。それは相当の規模でした。

ここに彼らの問題の真の原因がありました。北王国イスラエルの物質的問題も霊的問題も、すべて主を退けバアルやアシェラといった偶像を礼拝していたことにあったのです。私たちも、自分が直面している問題の真の原因はどこにあるのかを考えなければなりません。それらすべての問題の原因は、神を神としないで、偶像を礼拝していることにあります。あなたのバアルは何でしょうか。あなたのアシェラは何でしょうか。私たちはバアルやアシェラといった目に見える偶像を拝むことはしていないかもしれませんが、神以上に愛するものがあるなら、それがあなたの偶像なのです。神を神として認め、この神を第一として歩むなら、神があなたを祝福してくださいます。

昨日、「1対1弟子養育聖書研究」という本を学んでいたら、サタンは「この世」を通して私たちクリスチャンを攻撃してくるとありました。そこに次のようなケースが紹介されていました。

ある若い夫婦が熱心に主に仕えていましたが、急に教会に出席するのを止めました。その理由を探ってみると、彼らが一生懸命に貯めたお金で家を勝ってから、妻は家を飾ることに神経を使い、夫は車を買うお金を稼ぐために仕事により多くの時間と勢力を費やすようになったということです。家と車を買うこと自体は罪ではありませんが、彼らがそれらを神様よりもってと愛したので、ついにサタンの誘惑に負けてしまったのです。私たちはこのような試みにどのように対処すべきでしょうか。

私たちの心を攻撃するこの世の心配が、短い人生の中で比重を占めています。今日のような物質主義、消費主義の社会においては、もっとそうなります。町の中で豪華なレストランやお店などが私たちを誘惑します。また、高級乗用車などが私たちの関心を引きます。このような誘惑は神様に対する私たちの愛が冷え始めると、その空白の中に入って来ます。このような外敵な試みは逃げて解決できるものではありません。この世を通して入って来た試みはこの世から逃げるよりは、神様に対する自分の愛がどうであるかで決まります。そのためには、自分の敬虔の生活を顧みなければなりません。

20節をご覧ください。そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めました。カルメル山は、バアル礼拝の聖地です。つまり、バアル神の力が最も発揮される所と言っていいでしょう。そこが霊的戦いの場となりました。しかし、エリヤにとってそんなことは問題ではありませんでした。むしろ、カルメル山がそのような所だからこそ、バアルの預言者たちとの戦いには最適なところだと考えたのです。本当の神はどちらかが明らかになるからです。

エリヤはイスラエルの民、皆の前に進み出て何と言いましたか。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」(21)

イスラエルの民は、主なる神とバアルの間を揺れ動いていました。いつまでもどっちつかずによろめいていたのです。それはよいことではありません。もし主が神であるならば主に従い、バアルが神であるなら、バアルに従えばいい。どっちつかずにいることを「二心」と言います。ヤコブ1:8-9にあるように、そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は、歩むすべてにおいて心が定まっていないのです。どちらかに決めなければなりません。主に仕えるのか、バアルに仕えるのか。しかし、イスラエルの民は一言も答えることができませんでした。

そこで、エリヤは民に向かって言いました。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。」(22)1対450です。エリヤは、彼以外にも主の預言者がいたことを知っていましたが(18:13)、この戦いに関しては、彼一人でした。敵は450人もいました。人間的に見れば勝敗は決まっているかのようですが、エリヤは自分の仕えている神は万軍の主であって、生きておられる神であると信じていたので、ただ主に信頼して戦いました。

彼は、2頭の雄牛を全焼のいけにえために用意するように命じました。そして、相手に自分たちの気に入った牛を選ばせ、それを切り裂いて薪の上に乗せるようにと言いました。そして、それぞれの神の名を呼んで、その呼びかけに対して、火をもって答える神が真の神であるということでよいかを確かめると、民が「それがよい」と言いったので、いよいよここにバアルの預言者たちとエリヤとの戦いの幕が下されました。

エリヤはバアルの預言者たちから始めるようにと言いました。人数が多かったからです。そこで彼らは、自分たちが選んだ雄牛を取って、朝から真昼までバアルの名を呼びました。「バアルよ、私たちに答えてください。」と。バアルは、天から雨を降らせ、作物を実らせる豊穣の神です。また、天から稲妻を降らせる神でもあります。ですから、彼らは必死になって彼らの神、バアルの名を呼びました。この光景がよく聖書の紙芝居に描かれていますが、おもしろいですね。阿波踊りのような格好で自分たちが造った祭壇のあたりで踊り狂っています。でも結果はどうだったでしょうか。何の声もありませんでした。何の声もなく、答える者もありませんでした。

それを見ていたエリヤは彼らを嘲って言いました。「もっと大きな声で読んでみたらどうか」「彼は神なのだから、呼べばきっと答えてくれるはずだ」。「もしかすると何かに没頭しているのかもしれない。旅に出ているのかな。もしかすると寝ているのかもしれない。」「だから、もっと大きな声で叫んで起こした方がいいんじゃないか」。

それで彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちのからだに傷つけたりしました。しかし、それでも何の声もなく、答える者もなく、注目する者もありませんでした。バアルには実体がないからです。偶像礼拝とは、実体のないものを神として礼拝しているだけのことです。それはただ森から切り出された木や石に、金箔とか、銀箔を塗っただけのものにすぎません。中身がないのです。ですから、どんなに叫んでも聞かれることはありません。空の空、すべては空です。偶像を拝む者もこれと同じです。それは空しいだけなのです。

それに対して、エリヤはどうしたでしょうか。30~40節をご覧ください。「30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた主の祭壇を築き直した。31 エリヤは、主がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。32 その石で、彼は主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。

36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」38 すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。39 民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」

エリヤは、すべての民を呼び寄せると、まず壊れていた主の祭壇を築き直しました。主の祭壇が破壊されたというのは、彼らの信仰が崩れていたことを表しています。北王国イスラエルは、主からも、主との契約からも、遠く離れた状態にありました。それをまず立て直さなければならなかったのです。すべては主の祭壇を立て直すことから始めなければなりません。それが個人であっても、教会であっても、また国であっても、私たちは壊れた祭壇を立て直すことから始めなければならないのです。あなたの祭壇は壊れていませんか。あなたの心の祭壇を建て直し、主との関係を再建することから始めなければなりません。

次に彼は「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって12の石を取りました。これはイスラエル12部族を象徴していました。その石で彼は、主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、2セアの種が入るほどの溝を掘りました。2セアとは、1セアが7.6リットルですから、約15リットルとなります。それほどの水が入る溝を掘ったのです。なぜでしょうか。次のところを見るとわかりますが、これから祭壇に注ごうとしている水が流れ出さないようにするためです。

それからエリヤは薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に乗せると、四つのかめに水を満たし「この全焼のささげものと薪の上に注げ。」と命じました。干ばつが3年以上も続く中、いったいどこからこの水を汲んできたのでしょうか。おそらく、カルメル山の麓のどこかに枯れていなかった泉が残っていたのでしょう。その水を全焼のいけにえと薪の上に3度も注いだのは、これから起こることがトリックではなく、神の御業であることを示すためでした。そのことばの通り3度水を注ぐと、周囲に掘られた溝に水が流れ出しました。エリヤは溝にも水を満たしました。それは絶対にトリックなどではないことを示すためです。

ささげ物をささげるころになると、エリヤは進み出て祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」

エリヤはどのように祈ったでしょうか。エリヤは、バアルの預言者のようにやみくもに祈ったり、何度も同じことばを繰り返したりはしませんでした。彼はまず、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と呼びました。これは、イスラエルの神は契約の神であるということです。つまり、このことが神のみことばの約束に基づいて行われたことであると訴えているのです。次に彼は、主がこの祈りに応えてくださることによって、神の民であるイスラエルが主こそ神であることを知ることができるように、また、その心を翻してくださるようにと祈りました。

その結果はどうだったでしょうか。38~39節をご覧ください。「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」

すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、何と溝の水もなめ尽くしました。主が勝利したということです。民はこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。民はようやく、主だけが真の神であることを認識したのです。

私たちの誰もが、エリヤが体験したような奇跡を体験するわけではありません。しかし、日々の生活において、神はこのような奇跡を行っておられます。何よりも私たちの存在と生き方がそうなのではないでしょうか。

先週、那須で88歳と83歳の御夫妻が洗礼を受けられましたが、それは東京に住んでおられる一人娘さんの生き方に深く感動してのことでした。鬱で寝たきりの御主人を真心を込めて介護する力は、主イエスを信じる信仰から出ているということを、その姿から伝わってきました。

まことに私たちは取るになりない小さな者ですが、このような小さな者を通して成される主の御業を通して、それを見る人たちが「主こそ神です。主こそ神です。」と告白することができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

Ⅲ.福音のためなら何でする(41-46)

最後に、41~46節をご覧ください。「41 エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」42 そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。」

「上って行って」とは、カルメル山の山頂に上って行ってということではありません。自分の宿営地に帰って行ってということです。そこで食べてり、飲んだりするようにということです。なぜなら、激しい大雨の音がするからです。干ばつが終わり、もうすぐ雨が降るからということです。だから宴会を開いてお祝いするようにというのです。

すると、アハブは食べたり飲んだりするために上って行きました。彼には悔い改めも霊的洞察力もなく、ただ現状を見てホッとしたのです。何事もなかったかのように振る舞いました。

すると、エリヤはカルメル山の頂上に上り、地にひざまずいて祈りました。「自分の顔を膝の間にうずめる」とは、彼の祈りが真剣なものであったことを表しています。そして若い者に言いました。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」

若い者は上って行って見ましたが、何も見えなかったので「何もありません」と言うと、エリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返しました。そして七回目に上って行ったとき、人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上ってくるのが見えました。するとエリヤはその若者に、アハブにこう伝えるように言いました。「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。」どういうことでしょうか。

エリヤは、手のひらほどの小さな雲が、やがて大雨に変わることを知っていました。それは、そのように前もって知らされていたからです。しかし、ただ知らされていただけでなく、彼が祈っていたからです。エリヤはずっと祈っていたので、それがどういうことなのかを悟ることができたのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも祈っていなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。しかし、エリヤのように祈り求めていると、確かに約束がかなえられていることを悟ることができるのです。たとえそれが小さな兆候でも。小さな始まりを軽んじてはいけません。

しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい雨になりました。アハブは、その雨の中戦車に乗って、イズレエルへ行きました。それはカルメル山とイズレエル平原の間に、彼が冬を過ごす宮殿があったからです。すると主の手がエリヤに下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行きました。どういうことでしょうか。カルメル山からイズレエルの入り口までは、約35~40㎞あります。その距離を走り続けるというのは並大抵のことではありません。それは、主から超自然的な力が与えられていなければできなかったことです。エリヤは主の力をいただいて、アハブの車の前を走り続けました。何とかしてアハブを主に立ち返らせようと思ったからです。エリヤは背教の王を主に立ち返らせるために何でもしようと思ったのです。それで、アハブの車の前を35㎞も走ったのです。

このエリヤの姿から、主のしもべとはどのような者なのかを教えられます。彼の行動はすべて福音のため、主の栄光のためでした。主の栄光のために彼は、バアルとアシェラの預言者たちと戦い、主の栄光のために祈りました。主の栄光のためにアハブ王の車の前を何十キロと走り続けました。それは私たちも同じです。福音のためなら何でもするという決意で、ただ主の栄光が現わされることを求めなければなりません。ピリピ1:21で、パウロはこう言っています。「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」これがパウロの生き方でした。生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。私たちも、私たちの身をもって、ただキリストの栄光が現わされることをひたすら求めて歩もうではありませんか。