Ⅱ列王記1章

 

 

 

 列王記第二の学びに入ります。今日は1章から学びます。

 Ⅰ.アハズヤの病気(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「1 アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。2 アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。4 それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。」

前回、Ⅰ列王記の最後の章を学びましたが、その中で北イスラエルの王アハブが死んだことを学びました。それは、主が語られたことばのとおりでした。そのアハブの死後、北イスラエルを治めたのはアハブの子のアハズヤでした。アハズヤについては、Ⅰ列王記22章51節から53節までに記録されてあるので、本来であればそれに続けた方が良かったのですが、ここでプッリツと切れた形になっています。それは、もともと列王記第一と第二は、ヘブル語聖書では一つの書でしたが、それが15世紀になってギリシャ語聖書ややラテン語聖書の影響を受けてここで分割してしまったからです。でも元々は一つになっています。ではなぜここで分割してしまったのか。おそらく同じ大きさの巻物に均一に治めるためだったのでしょう。もしⅠ列王記22章50節かⅠ列王記1章18節で分割されていたら、アハズヤの治世をその途中で二つに分けるという不自然さはなかったかと思われます。

ですから、1節に「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた」とありますが、この記述も唐突に感じるのです。本来ならⅠ列王記22章53節とⅡ列王記1章1節はつながっているからです。

かつてモアブはイスラエルを支配していましたが、ダビデによって征服されました。その後一時的に独立した期間もありましたが、オムリとアハブの時代に再び制圧されていました。その結果、モアブはイスラエルに多額の税を納めるようになっていましたが、アハブが死んでアハズヤの時代になったとき、モアブはイスラエルに背いたのです。それは彼らが、アハブよりもアハズヤが弱い王であると判断したからでしょう。もしかすると、アハズヤが欄干から落ちて重体に陥ったことも関係していたかもしれません。このように考えるとつながりが見えてきます。

彼は、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体になりました。「欄干」とは、バルコニーの手すりのことです。おそらく彼は、屋上に設置してあったバルコニーから落ちて地面にたたきつけられたのでしょう。彼は相当の傷を負ったものと思われます。それで彼はどうしたかというと、使者たちを遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに、この病が治るかどうか伺いを立てました。エクロンとは、サマリアから南西に65㎞ほど離れたペリシテ人の町です。なぜアハズヤはイスラエルの神ではなく「バアル・ゼブブ」に癒しを求めたのでしょうか。

このエクロンの神「バアル・ゼブブ」の、本当の名前は「バアル・ゼブル」です。意味は「命の主」です。しかし、ユダヤ人たちはその名を揶揄して「バアル・ゼブブ」と呼びました。その意味は「(はえ)の主」です。イエス様の時代には、この偶像神がサタンの象徴となっていました。それが「ベルゼブル」です。それはサタンを指していました。ここでアハズヤはこのエクロンの神「バアル・ゼブル」に癒しと助けを求めたのです。

それは、前回学んだⅠ列王記22章52~53節に、彼の生涯について「52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」とあったように、彼は父アハブの影響を受け、バアル礼拝に深くかかわっていたからです。ですから、いざという時に彼が求めたのはイスラエルの神、主ではなく、このバアル・ゼブルだったのです。また、それまでに主の預言者たちが偶像礼拝の罪を糾弾していたことも、主に伺いを立てることを躊躇させていたのかもしれません。いずれにせよ、彼はイスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てました。

そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに現れて、こう告げました。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

かつて、アハブがナボテのぶどう畑を奪い取りに行こうとしたとき、エリヤに主のことばがあったように(Ⅰ列王記21:17)、アハズヤの悪に対しても、主がエリヤに告げられたのです。それは、アハズヤの偶像礼拝に対する裁きは死であるということでした。彼はその寝台から起き上がることはできません。必ず死ぬことになります。これが主の使いがエリヤに告げたことでした。それでエリヤは出て行きました。

それにしても、「アハズヤ」という名前は「主が支えてくださるもの」という意味です。しかし、彼は「主」ではなく「バアル・ゼブブ」を求めました。バアル・ゼブブをはじめ、偶像には私たちを救う力はありません。それは田んぼの中のかかしにすぎません。そんなものに頼るのは愚かなことです。私たちの救いは主から来ます。詩篇121篇3~8節には、次のようにあります。
「3 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。7 主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。8 主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」

私たちの救い、私たちの助け、私たちの癒しは主から来ます。主が私たちを支えてくださると信じ、主にのみ信頼しましょう。

Ⅱ.天から下って来た火(5-10)

次に5~10節をご覧ください。「5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。6 彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」7 アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」8 彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。9 そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。」

アハズヤは、使者たちが予定よりも早く帰ってきたので驚き、その理由を尋ねます。「なぜおまえたちは帰って来たのか。」すると使者たちは答えました。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」(6)

それを聞いたアハズヤは、その男はどんな人だったかと尋ねると、彼らは、「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えました。それを聞いたアハズヤはすぐにピンときました。「それはティシュベ人エリヤだ」と。毛皮を来て、腰に皮の帯を締めていたのは、イスラエルに悔い改めを説いた預言者の姿でした。エリヤはアハズヤの父と母であるアハブとイゼベルに悔い改めを説いてきた主の預言者でした。

そこでアハズヤはエリヤを捉えようと、50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしました。するとエリヤは山の頂に座っていましたが、隊長は彼に何と言いましたか?「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」と言いました。何とも優しい言葉ですね。日本語では優しく訳していますが、実際は違います。実際には命令調でした。「王の命令だ。すぐに降りて来い」といったニュアンスです。

するとエリヤは彼に答えてこう言いました。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」するとそのようになりました。天から火が下って来て、彼とその部下50人を焼き尽くしたのです。

興味深いのは、50人隊の長が、「王の命令だ、下りて来い」と言った「下りてこい」と、「天から火が下りてきた」の「下りてきた」が同じ言葉であることです。英語はどちらもcome downという言葉です。王の全権を携えている使者が、神の全権を携えている預言者によって、さばかれているのです。天から火が下ったのは、カルメル山で天から火が下って来たのと同じ奇跡が起こったということです(Ⅰ列王18:20-40)。

つまり、アハズヤが従うべきお方はバアル・ゼブブではなく、イスラエルの神、主であるということです。それは私たちにも言えることです。私たちが従うべきお方は、イエス・キリストの父なる神のみです。自分が今何に頼っているかをもう一度吟味しましょう。

Ⅲ.アハズヤの死(11-18)

最後に11~18節をご覧ください。「11 王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」12 エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。 13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。14 ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」15主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、16 王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」17 王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。18 アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

アハズヤは再びエリヤのもとに部隊を遣わします。もう一人の50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしたのです。ただ前回と違うことは、今回はさらに「急いで下りて来てください」と言っている点です。前回よりももっと強く言っています。でも結果は同じでした。50人隊の長とその部下50人は、天から下って来た神の火によって焼き尽くされてしまいました。

それでアハズヤはまた50人隊長と、その部下50人を遣わしました。これで3回目です。しかし、この3人目の50人隊の長はそれまでの長と違い、エリヤの前にひざまずくと、懇願してこう言いました。13節です。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」

彼はエリヤが神の人であることを認め、恵みが与えられるように懇願したのです。それゆえ、彼と50人の部下のいのちが助かりました。これは私たちにも言えることです。私たちのいのちが助けられるのは、私たちがただ謙遜になって、主の前にひれ伏し、「私のいのちを助けてください」と懇願することによってのみなのです。

この時、主の使いがエリヤに「彼といっしょに降りていけ。彼を恐れてはならない。」と言われたので、エリヤは立って、彼と一緒にアハズヤのところに下って行き、臆することなく、主のことばを伝えました。16節です。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

すごいですね。アハズヤ王を目の前にして、彼の不信仰を責め、死のさばきを宣告したのですから。すると、エリヤが告げた主のことばのとおりに、アハズヤは死にました。主が語られたことは必ず成就します。カルメル山の戦いの後、エリヤの信仰は揺らいでいましたが、ここでは完全に立ち直っています。エリヤの信仰を支えた主は、私たちの信仰も支えてくださいます。

アハズヤの死後、ヨラムが代わって王となりました。アハズヤには息子がいなかったからです。アハズヤに対する神の裁きは、息子がいなかったことにも表れています。その治世も2年間と短いものでした。それは彼が主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだからです。そして、イスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに、仕え、それを拝み、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたからです。つまり、「アハズヤ」(主が支えてくださるもの)ではなかったからです。この教訓から学びましょう。私たちは偶像ではなく主にのみ仕え、主にささえていただくものとなりたいと思います。

エレミヤ13章1~11節「ぼろぼろになった帯」

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きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られたのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならないという意味で、洗濯してはならないことを意味していたからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も洗わないものを身に着けるのは不衛生です。たとえば、私が同じシャツを何週間も着ていたらどうでしょう。汚い!と思うでしょう。まあ、そこまで見ている人はいないと思いますが・・。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことをしなければならないのか」と思ったかもしれませんが、主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範です。私たちも聖書を読んでいると時々、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、それでもエレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、長さはアメリカンフットボールのコートの1つ半、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に考えて、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりにする必要はないと従おうとしないことがありますが、考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれに従うことが大切です。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか「みことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次のステップに進めないということです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。4節です。「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、ユーフラテス川まで行くには相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはエレミヤの故郷アナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方がこの後で主がこの一連の行動の意味を説明される時、その深い意図が明らかとなるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですか。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・。皆さん、知っていますか?聞いたこともないでしょ。これは世界三大珍味の一つで高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは、他にフォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はもう一度ユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐って、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇りと何でしょうか。誇りとは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し自分の考えで進もうとすること、これが誇っているということ、高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆にへりくだっている、謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しいということを「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の思いを全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になっ+た心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それがへりくだっていると言うことなのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それはへりくだっているようでも誇っています。謙遜であるかのようでも高慢なのです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持とうとしないのです。「そういう道もあるでしょうね。でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であるということ、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司とは礼拝を司る者ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。そこまで私たちと一つになりたいのです。これが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これがイスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、これが私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

Ⅰ列王記22章

 今日は、列王記第一22章から学びます。列王記第一の最後の章となります。

 Ⅰ.預言者ミカヤ(1-23)

まず、1~23節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 アラムとイスラエルの間に戦いがないまま、三年が過ぎた。2 しかし、三年目になって、ユダの王ヨシャファテがイスラエルの王のところに下って来ると、3 イスラエルの王は自分の家来たちに言った。「おまえたちは、ラモテ・ギルアデがわれわれのものであることをよく知っているではないか。それなのに、われわれはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」4 そして、彼はヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」5 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」

アラムとイスラエルの間に戦いがないまま、三年が過ぎました。思い出してください。20章で見たとおり、アラムすなわちシリヤの王ベン・ハダドが、イスラエルに戦いをしかけて敗北しました。それでイスラエルの王アハブは彼を聖絶しなければならなかったのに、やすやすと逃してしまいました。あれから三年が経過しました。この間、アラムとイスラエルの間には戦いがありませんでした。

その頃、南ユダの王ヨシャファテがイスラエルの王のところにやってきました。南ユダ王国に関する記述は、Ⅰ列王記15章24節のアサ王の死後ありませんでした。アサ王は15章11節に「父祖ダビテのように、主の目にかなうことを行った」とあるように善い王だったので、41年間南ユダを統治することができましたが、ヨシャファテはその息子です。あれからずっと南ユダ王国に関しての記述がなかったのは、北イスラエルの王アハブに関する出来事を伝えたかったからです。しかし、この22章40節でアハブに関する記述が終わるので、41節から再び南王国ユダに関する戻ります。

そのユダの王ヨシャファテがアハブところにやって来ました。これまでイスラエルとユダの関係は敵対関係にありましたが、アラムという共通の敵を前にして、友好関係を築いていたのでしょう。ですから、このヨシャファテの訪問は、いわゆる表敬訪問だったということです。

しかし、ヨシャファテがアハブのところに下って来たとき、自分の家来たちに言いました。「おまえたちは、ラモテ・ギルアデがわれわれのものであることをよく知っているではないか。それなのに、われわれはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」どういうことでしょうか。アラムの王ベン・ハダドは、アハブとの戦いに敗れ恩赦を受けた時、そのお礼としてかつて彼の父がアハブの父親から奪い取った町々を返却すると約束しました(Ⅰ列王記20:34)が、ラモテ・ギルアデという町が返却されていなかったので、それを奪い返そうとしたのです。巻末の地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧ください。ラモテ・ギルアデの位置を確認しましょう。そこは、ヨルダン川の東にあるガド族の領地にある町です。この町は、軍事的に戦略的に重要な町でした。その町をアラムの王の手から奪い返すのに、ヨシャファテの力を借りようと思ったのです。それで南ユダ王国のヨシャパテが来たとき、一緒に戦いに行ってくれるように頼んだのです。

それに対して、ヨシャファテはどのように応答したでしょうか。彼は一つ返事で快諾しました。4節です。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」しかし、彼はまず「主のことばを伺ってください。」とアハブに言いました。さすがヨシァファテですね。南王国ユダの善王の一人です。しかし、順序が逆でした。彼はアハブから協力を依頼されたとき「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」とすぐに返事をするのではなく、その前に主に伺いを立てるべきでした。まず主のみこころを確かめてから答えるべきだったのです。これはヨシャパテばかりでなく、私たちもよく犯すものです。私もよく失敗します。その時の自分の思いで即答してしまうのです。しかし、後になって冷静に考えてみると、必ずしもそれが良い判断ではないことに気付いて撤回しようとすると、後に引けなくなってしまうことがあります。まず、主に伺いを立て、まず、主の導きを祈り求めること、それが私たちの確かな信仰生活につながる鍵なのです。

次に、6~18節をご覧ください。「6 イスラエルの王は約四百人の預言者を集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」彼らは答えた。「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。」7 ヨシャファテは、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言った。8 イスラエルの王はヨシャファテに答えた。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」ヨシャファテは言った。「王よ、そういうふうには言わないでください。」9 イスラエルの王は一人の宦官を呼び、「急いでイムラの子ミカヤを連れて来い」と命じた。10 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にある打ち場の王の座に着いていた。預言者はみな、彼らの前で預言していた。11 ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って言った。「主はこう言われます。『これらの角で、あなたはアラムを突いて、絶ち滅ぼさなければならない。』」12 預言者たちはみな、同じように預言した。「あなたはラモテ・ギルアデに攻め上って勝利を得てください。主は王の手にこれを渡されます。」

13 ミカヤを呼びに行った使者はミカヤに告げた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に対して良いことを述べています。どうか、あなたも彼らと同じように語り、良いことを述べてください。」14 ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」15 彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ、われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」彼は王に答えた。「あなたは攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」16 王は彼に言った。「私が何度おまえに誓わせたら、おまえは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」17 彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」18 イスラエルの王はヨシャファテに言った。「あなたに言ったではありませんか。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言すると。」

イスラエルの王アハブは約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきか、それとも、やめるべきか尋ねます。彼らはバアルの預言者ではありません。そんなことをしたらヨシャファテを大いに侮辱することになるでしょう。彼らは主の預言者でした。しかし、真の預言者ではなくただ王が喜ぶことだけを告げる偽預言者でした。彼らは「攻め上ってください。主は王様にこれを渡されます。」と答えました。これはまさに、アハブ王が聞きたいと思っていた言葉です。聞きたいと思っていることを告げるのが良い預言者ではありません。真の預言者とは民が聞きたいことではなく、神が語れと言われることを語る預言者です。

ヨシャファテはそれを聞いて、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのか」(7)と言いました。おそらくヨシャファテは、彼らが告げることばを聞いて違和感を覚えたのでしょう。四百人が四百人同じように答えたからです。ヨシャファテには霊的洞察力が備わっていました。私たちも預言者である牧師が語る主のことばを聞いて、それが本当に主から来たものなのかを見分ける霊的洞察力が求められます。

イスラエルの王アハブはヨシャファテに答えました。8節です。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」

いるにはいるけど、自分はあまり好きではない。なぜなら、彼は自分について良いことは預言せず、悪いことばかり預言するからです。その人は、イムラの子ミカヤです。ミカヤはエリヤと同時代の預言者で主のことばを忠実に伝えていました。ですから、彼の告げることばは必ずしもアハブにとって都合が良いことばかりではありませんでした。都合が悪いことでも語る、いや、悪いことばかり語るのではないかとアハブには思われていました。ヨシャパテはピンとくるものがあったのでしょう。アハブに「そういうふうにいわないでください」と言って、ミカヤを連れて来させました。

イスラエルの王アハブと南ユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にあるうちばの王の座に着いていました。「打ち場」とは麦打ち場のことです。そこは他の場所より一段高くなっていました。ですから、王たちが座り預言者たちのことばを聞くのに適していた場所でした。

まず登場したのは、ケナアテの子ゼデキヤでした。彼は、鉄の角を作ると、それを振りかざしながら、「これらの角でアラムを突いて、絶ち滅ぼさなければならない」と言いました。他の預言者たちもみな、同じように預言しました。

次に、ミカヤが連れて来られました。彼は連れて来られ前に使いの者から、「いいですか」と、彼らと同じように良いことを語るようにと忠告を受けていました。彼は王たちの前に連れて来られると、主が告げられたとおりのことを語りました。それは15節にあるように、「あなたは攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」と言いました。

これを聞いたアハブ王はハレルヤ!と喜ぶかと思ったら、彼にこのように怒って言いました。「私が何度おまえに誓わせたら、おまえは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」どういうことでしょうか。これこそ彼が聞きたかったことばじゃないですか。他の預言者たちが告げた内容と同じです。それなのにアハブ王はそれを聞いて怒りました。なぜでしょうか。それはこれが他の預言者が語った内容と同じでも、皮肉って語ったからです。「行ったらいいんじゃないですか。主はあなたの手にこれを渡されますよ。きっと・・・」といった感じです。それを聞いたアハブはすぐにわかりました。皮肉っていると。そういう語り口調だったのでしょう。それは、その後の彼のことばを見ればわかります。ミカヤはその後ですぐ真実な預言を語り始めます。それが17節にある内容です。「彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」

「全イスラエルが山々に散らされる」とは、アラムとの戦いに敗れて散り散りになるということです。それはまるで羊飼いのいない羊のようになるということです。戦いに敗れて主人がいなくなってしまうからです。それは、アハブ王が死ぬことを意味していました。

それを聞いたアハブはヨシァファテに告げます。「あなたに言ったではありませんか。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言すると。」(18)アハブは、ミカヤの預言は信じるに値しないもので、信ずべきものは四百人の預言者たちの一致した預言であると強調したのです。つまり、自分と同盟関係を結んで、一緒にアラムと戦ってほしいと懇願しているのです。

自分の計画に固執していると、神の声が聞こえなくなってしまうことがあります。そして、やがて神の声を無視するという行為が習慣となり、滅びを招くことになるのです。

するとミカヤは、主のことばに耳を貸そうしないアハブに対して、別の角度から神のことばを告げます。それはミカヤが見た幻を通してです。それが19~23節にある内容です。「19 ミカヤは言った。「それゆえ、主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。20 そして、主は言われました。『アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか。』すると、ある者はああしよう、別の者はこうしようと言いました。21 ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言うと、主は彼に『どのようにやるのか』とお尋ねになりました。22 彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』主は『きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ』と言われました。23 今ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に、偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

ミカヤは、主が御座に着き、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。そこで主が、「アハブを惑わして攻め上がらせ、ラモテ・ギルアデで彼を倒れさせるのはだれか」と言うと、ある御使いはこうしようといい、また別の御使いはああしようと提案しますが、その時ひとりの天使が御前に進みで、「この私が彼を惑わします。」と告げるのです。「どうやって惑わすのか」と尋ねると、彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』

すると主は、「きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ」と言われました。その偽りを言う霊こそ、ここにいるすべての預言者たちであるというのです。そして、それはアハブに下るわざわいのことばだというのです。

ここで注目すべきことは、主はご自身のみこころを実行するために、悪霊さえも用いられるということです。しかし、それは神が悪霊を遣わしたということではありません。ただ悪霊が惑わすことを許可されたということです。同じようなことがヨブ記にも見られます。サタンはヨブに害を加えようと神の前に出ています。そうすればどんなに正しい人でも、神をのろうようになると。それで神はサタンにこう言われました。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」(ヨブ2:6)主は、サタンがヨブに害を加える事を許されたのです。サタンは神に反抗する霊ですが、そのようなものさえも神が用いられることがあるのです。しかし、それさえも神の御手の中にあります。それを超えてサタンが働くことはできません。ここでも、主に背くアハブ王を倒すために悪霊が用いられ、偽りを言う預言者たちの口を通して、アハブにわざわいを下されるのです。

Ⅱ.アハブ王の死(24-40)

次に、24~40節をご覧ください。28節をお読みします。「24 ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬を殴りつけて言った。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」25 ミカヤは答えた。「あなたが奥の間に入って身を隠すその日に、あなたは思い知ることになる。」26 イスラエルの王は言った。「ミカヤを捕らえよ。町の長アモンと王の子ヨアシュのもとに連れて行き、27 王がこう命じたと言え。『この男を獄屋に入れ、私が無事に帰るまで、わずかなパンと、わずかな水だけ与えておけ。』」28 ミカヤは言った。「もしも、あなたが無事に戻って来ることがあるなら、主は私によって語られなかったということです。」そして、「すべての民よ、聞きなさい」と言った。」

するとゼデキヤがミカヤに近寄り、彼の頬を殴りつけて言いました。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」ひどいですね。ミカヤの頬を殴りつけるなんて。おそらくゼデキヤは自分が神の霊によって語ったと思い込んでいたのでしょう。それを「偽りを言う霊」、悪霊によって語ったと言われたので頭にきたのではないかと思います。

ミカヤはその質問には一切答えず、ただ「あなたが奥の間に入って身を隠すその日に、あなたは思いしることになる。」と言いました。これは、アハブ王が死ぬときゼデキヤは奥の間に隠れるようになるが、その時、彼は自分が語ったことが偽りの預言であったことを知るようになるということです。時がすべてを証明するということです。だから青筋を立てて怒る必要はないのです。

するとアハブ王はミカヤを捕え、監獄に入れ、自分が無事に帰るまで、わずかなパンと、わずかな水だけを与えて養っておけ、と命じました。

するとミカヤは「もしも、あなたが無事に戻って来ることがあるなら、主は私によって語られなかったということです。」と言い、「すべての民よ、聞きなさい」と言いました。これは、すべての民がこのことの証人であるということです。

ここでアハブは悔い改めの機会が与えられたにもかかわらず、その頑なな心を変えようとしませんでした。彼は21章27節ではエリヤのことばを聞いて悔い改めましたが、ここではそうしませんでした。残念ですね。一度悔い改めたから大丈夫だということはありません。私たちはすぐに高ぶり、神の前に罪を犯す者ですが、大切なのはその都度悔い改めることです。そうでなければ、悲惨な最後を迎えることになるからです。

次に、29~40節までをご覧ください。「29 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。30 イスラエルの王はヨシャファテに言った。「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは自分の王服を着ていてください。」イスラエルの王は変装して戦いに行った。31 アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に次のように命じた。「兵とも将軍とも戦うな。ただイスラエルの王だけを狙って戦え。」32 戦車隊長たちはヨシャファテを見つけたとき、「きっと、あれがイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼の方に向きを変え、戦おうとした。ヨシャファテは助けを叫び求めた。33 戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返した。34 そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」35 その日、戦いは激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中で立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血が戦車のくぼみに流れた。36 日没のころ、陣営の中に「それぞれ自分の町、自分の国へ帰れ」という叫び声が伝わった。

37 王は死んでサマリアに運ばれた。人々はサマリアで王を葬った。38 それから戦車をサマリアの池で洗った。犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。39 アハブについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が建てた象牙の家、彼が建てたすべての町、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。40 アハブは先祖とともに眠りにつき、その子アハズヤが代わって王となった。」

イスラエルの王アハブとユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上りました。しかし、イスラエルの王アハブは変装して行きました。たぶん、ミカヤの預言を恐れたからでしょう。変装して行けば、攻撃される可能性は低くなると考えたのです。しかし彼はヨシャファテには、自分の王服を着るようにと言います。自分は着たくないのに、ヨシャファテには着せようとしました。どうしてでしょうか。何かあった時にはヨシャファテの命が狙われても自分の命は助かると思ったからです。アハブはどこまでも身勝手な人間でした。

しかし、結果的に、王服を来たヨシャファテは助かり、変装したアハブが死ぬことになります。アラムの王が狙っていたのはイスラエルの王アハブの命だけでした。アラムの戦車隊長はヨシャファテを見つけたときそれがイスラエルの王アハブだと思って戦おうとしましたが、ヨシャァファテが助けを叫び求めたので、それがイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返しました。

そのとき、ある一人の兵士が何気なく弾いた弓が、イスラエルの王アハブの胸当てと草摺りの間を射抜きました。胸当てと草摺の間とは、鎧の隙間のことを指しています。ある兵士が偶然放った矢が、何とアハブの鎧の間を射抜いたのです。これは偶然のように見えますが、38節を見ると、そうではないことがわかります。これは、主が語られたことばが成就するためであったことがわかります。それがこのような経緯で実現したのです。そのことを記したかったのです。彼はその兵士が放った矢によって負傷したので自分の陣地に戻りましたが、その日、戦いは激しさを増し、結局、アハブはその日の夕方に死んでしまいました。彼が戦車の中で立っていたのは指揮官としての自分の姿を見せることで、自陣の兵士たちを鼓舞するためです。

日没のころ、自営の中に「それぞれ自分の街、自分の国へ帰れ」という叫び声が伝わったのでアハブ王もサマリアに運ばれましたが、彼はそこで死んで、葬られました。血のついた戦車はサマリアの池で表れ、流れた血を犬たちがなめました。また遊女たちがその身を洗いました。これは、エリヤが語った預言のとおりです(Ⅰ列王21:19)。主が語られたことばのとおりになりました。アハブが先祖たちとともに眠りにつくと、その子アハズヤが代わって王となりました。

アハズヤについては、51~53節に記録されてあります。「51 アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファテの第十七年にサマリアでイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」

彼の治世は、わずか2年間でした。それは彼が主の目に悪であることを行い、彼の父の道と母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの道に歩んだからです。彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたからです。

主が語られたことは必ず成就します。主を恐れることが、知恵のはじまりです。主を恐れ、主に従いしましょう。それが確かな人生の鍵なのです。

Ⅲ.ヨシャファテの治世(41-50)

最後に、41~50節をご覧ください。「41 アサの子ヨシャファテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年であった。42 ヨシャファテは三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。43 彼はその父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。44 ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。

45 ヨシャファテについてのその他の事柄、彼が立てた功績とその戦績、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。46 彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。

47 そのころ、エドムには王がなく、守護が王であった。48 ヨシャファテはタルシシュの船団をつくり、金を得るためにオフィルに行こうとしたが、行けなかった。船団がエツヨン・ゲベルで難破したからである。49 そのとき、アハブの子アハズヤはヨシャファテに、「私の家来をあなたの家来と一緒に船で行かせましょう」と言ったが、ヨシャファテは同意しなかった。50 ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともに父ダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。」

ここから、南王国ユダの王ヨシャファテの記録に移ります。彼については、アハブ王との関係の中で、その活動の一部が紹介されていましたが、ここに彼の一生の記録がまとめられています。

彼は35歳で王となり、エルサレムで25年間王として南ユダを統治しました。彼は父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行いました。彼は南ユダ王国に登場する8人の善王の一人です。彼は父アサにならい宗教改革に尽力しましたが、完全に偶像を取り除くことができませんでした。一度は取り除いたのでしょうが、高き所、偶像礼拝の場所を再建したのです。ヨシャファテはイスラエルの王アハブと敵対することを止め、同盟関係を結びました。その結果、ヨシャファテの息子ヨラムとアハブの娘のアタルヤが結婚することになります。アタルヤはイゼベルの娘でもありますが、このことによって南ユダにも偶像礼拝をもたらすことになります。ヨシャファテは父アサのように偶像礼拝の撲滅に熱心でしたが、その働き中途半端で終わりました。父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼を除き去ることをしませんでした。

ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られました。そして、その子ヨラムが代わって王となりました。ヨシャファテは時には愚かな選択をしたこともありましたが、その中心は主に向かっていました。その結果、彼は8人の善王の中に数えられるようになりました。私たちも失敗することがありますが、いつも主に立ち返り、主に信頼して歩みましょう。その心がどこに向かっているのかが問われているのです。

エレミヤ12章7~17節「絶望の中にある神の希望」

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クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。
10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。
「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。