エレミヤ21章1~10節「いのちの道か死の道か」

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きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
  私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
  先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。

Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。

しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」

14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。

エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。

神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。

これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。

だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
  でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。

では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
  ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。

どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。

ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。

確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。

皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。

  私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。

Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)

それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」

イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。

エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。

これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
  「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
  すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
  ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。

ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。

だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。

Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)

ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」

主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
  中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
  バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。

旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。

バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

Ⅱ列王記12章

 今回は、Ⅱ列王記12章から学びます。

 Ⅰ.高き所を取り除かなかったヨアシュ(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「12:1 ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。12:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも【主】の目にかなうことを行った。12:3 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」

ヨアシュは、エフーが北王国で治めていた第七年目に南王国の王となり、エルサレムで40年間治めました。彼の父はアハズヤで、母はツィブヤです。彼女はベエル・シェバの出身でした。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えていた間は、いつも主の目にかなうことを行いましたが、彼は、エホヤダの養育から離れてからは変わってしまいます。しかし、エホヤダが教えていた間でも問題がありました。それは、高き所は取り除かなかったということです。「高き所」とは偶像礼拝が行われていた場所です。それは必ずしも彼らが偶像礼拝を行っていたということではありません。彼らはヤハウェーなる神を礼拝していましたが、その高き所で礼拝していたのです。それは明らかにモーセの律法に違反することでした。というのは、申命記12章2~7節、13~14節には、全焼のささげ物を自分勝手な場所で献げないように気をつけなさいとあるからです。彼らは全部族のうちから選ばれる一つの場所、すなわち、エルサレムの神殿で献げものをしなければならなかったのに、この高き所でいけにえをささげることが習慣になっていました。そしてそれを変えられずにいたのです。おそらく、彼は高き所が存在することをさほど問題視していなかったのでしょう。伝統的に、南王国の王たちは高き所を軽く扱ってきたので、ヨアシュも同じような対応をしたのだと思います。

このようなことは、私たちクリスチャンにも見られることです。昔からのしきたりや習慣、言い伝えといったものを取り入れたまま、それをなかなか変えられずにいる場合があります。それらが心の深くに入り込んでいるので、それを変えることが難しいです。けれども、本当に神の方法で礼拝をささげたいと思うなら、それを変えなければなりません。パウロはローマ12章1~2節でこう言っています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

この世と調子を合わせてはいけません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。

Ⅱ.神殿の修復(4-16)

次に、4~16節をご覧ください。「12:4 ヨアシュは祭司たちに言った。「【主】の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に【主】の宮に献げられる金のすべては、12:5 祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」12:6 しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。12:7 ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。「なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならないからだ。」12:8 祭司たちは、民から金を受け取らないことと、神殿の破損の修理に責任を持たないことに同意した。12:9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。12:10 箱の中に金が多くなるのを確認すると、王の書記と大祭司は上って来て、それを袋に入れ、【主】の宮に納められている金を計算した。12:11 こうして、勘定された金は、【主】の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らは、それを【主】の宮を造る木工と建築する者たち、12:12 石工、石切り工に支払い、また、【主】の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、金は神殿修理のための出費のすべてに充てられた。12:13 ただし、【主】の宮のための銀の皿、芯取りばさみ、鉢、ラッパなど、いかなる金の用具、銀の用具も、【主】の宮に納められる金で作られることはなかった。12:14 その金は、工事する者たちに渡され、彼らはそれと引き替えに【主】の宮を修理したからである。12:15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々が精算を求められることはなかった。彼らが忠実に働いていたからである。12:16 代償のささげ物の金と、罪のきよめのささげ物の金は、【主】の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」

ヨアシュ王の最大の貢献は、神殿を修復したことです。これは列王記に出てくる最初の修復です。ヨアシュ王は、そのために主の宮に献げられるお金を充てようとしました。聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金とは、登録されたすべての人が献げる献金のことです。出エジプト記30章11~16節には、それは半シェケルと定められていました。また、自発的に主の宮に献げられる金とは、レビ記27章が規定する特別な誓願を立てた者たちの献げた金のことです。当初、ヨアシュはそのお金で神殿の修復工事をしようと考えていました。それを担ったのは祭司たちです。

ところが、ヨアシュ王の23年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しませんでした。つまり、これらの金では、祭司やレビ人の生活を賄い、神殿での礼拝を維持するだけで精一杯で、神殿の破損か所を修理する余剰金は出なかったのです。それでヨアシュは新しい計画を立て、このプロジェクトから祭司たちを除外しました。

7節に着目してください。ヨアシュは、祭司エホヤダと祭司たちを呼んでそのことを告げました。祭司エホヤダは、彼の霊的な親でもあります。そのエホヤダに命じるほど彼は王として、また霊の人として成長していたことがわかります。彼は7歳で王となり、これはその23年目のことですから、この時彼は30歳だったことがわかります。彼はエホヤダの養育から離れ、霊的な事柄においても識別力を働かせるほど成熟していたのです。

その新しい計画が9節に記されてあります。「祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。」

要するに、エホヤダは、献金箱を設けることによって宮の修繕のための特別献金枠を設けました。その結果どうなったでしょうか。そうしたら、人々からどんどん金を入れたので、箱がいっぱいになりました。それで、箱の中に金が多くなると、王の書記官と大祭司は上って来て、それを箱から取り出して袋に入れ、主の宮に納められているかを計算しました。

こうして勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡されました。監督者たちはその金を、宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに賃金として支払いました。 ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはありませんでした。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。すばらしいですね。忠実な者たちが働いていたので、公の会計報告をしなくても安心だったのです。エペソ6章7節には、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」とあるように、何事も主に仕えるように心を込めて、忠実に仕えるよう心掛けたいと思います。

Ⅲ.ヨアシュの死(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「12:17 そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。12:18 ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。12:19 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。12:20 ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。12:21 彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。」

そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取りました。ハザエルはさらにエルサレムを目指して攻め上って来ました。このハザエルについては、8章で見たように、主君ベン・ハダデを殺して王となりました。それはエリシャが預言した通りでした。その時エリシャは、彼が残虐な仕打ちをイスラエルに対して行なうことを預言しましたが、果たしてそれが今、実現することになります。彼はイスラエルを攻め、さらにユダにまで攻めて来ました。ガテは、イスラエル南部の沿岸地域にある町で、ペリシテ人の町として有名なところでした。ハザエルはそこを攻め、今度はエルサレムを目指して攻め上って来たのです。

それに対してヨアシュはどのように対応したでしょうか。18節をご覧ください。「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」

なんとヨアシュは、自分たちの神である主(ヤハウェ)に敵からの救いを祈り求めるのではなく、主の宮にある金をかすめ奪い、それをハザエルに贈り、和平を求めました。霊的堕落です。エルサレムの財宝を手に入れたハザエルは、そのまま去って行きました。

2歴代誌24章には、ヨアシュがどのように堕落したかその経緯が書かれています。祭司エホヤダが死ぬと、ヨアシュはユダの高官たちの影響を受け、アシェラ像とその他の偶像を礼拝するようになりました。それで主は彼と高官たちに預言者たちを送りましたが、ヨアシュと高官たちはそれを無視しました。最後に、祭司エホヤダの子ゼカリヤが立ち上がり、偶像礼拝の罪を糾弾しますが、ヨアシュはそのゼカリヤを石打にして殺すのです。

いったいなぜヨアシュは、このように堕落してしまったのでしょうか?幼い頃から非常に霊的な環境の中に育てられ、大人になってからも霊的な改革を行なっていたのに、どうしてこんなにも堕落してしまったのでしょうか?一言でいえば、「高ぶり」が大きな原因の一つでした。これはヨアシュだけでなく、他のユダの王たちも言えることですが、最初のころは、主に対して熱心だったけれども、主が国を繁栄させ力を増し加えてくださるにしたがって、主ではなく自分を誇るようになり、自分の力でこの国が成り立っているのだと考えるようになったのです。北王国イスラエルでは完全に主から離れているという問題がありましたが、南ユダでは、その霊的な力が逆に仇となって、主の前におけるへりくだりを忘れてしまうという問題があったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分が信仰に歩んでいると思うあまり、いつの間にか高慢になり、神さまの恵みに拠り頼み、必死にあわれみを請う謙虚さを失ってしまう危険があります。私たちはいつも、自分が主のみを自分の分け前としているのか、それとも、主に関する霊的環境に満足して、それに依存してしまっているかを吟味してみる必要があります。主を愛する牧者がいること、互いに愛する兄弟がいること、健全な教会形成なされていること、立派な会堂が与えられていることといった霊的な環境ではなく、ただ主のみを自分の分け前とし、日々、その新しいあわれみにすがっているかが問われているのです。

そんなヨアシュの最後はどうだったでしょうか。20節をご覧ください。「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。」

彼は彼の家来たちの謀反によって殺されてしまいます。手を下したのは、シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデです。この謀反自体は悪です。しかし、それを招いたのはヨアシュ本人でした。正義に支配された王のところに謀反は起こりません。みなが平和に暮らすことができるからです。支配者や指導者が道をそれますと、必ずこのような混乱が生じることになるのです。

21節には、「人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。」とありますが、彼は王たちの墓には葬られませんでした。2歴代誌24章25節には、「人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。」とあります。なぜなら、彼は神のさばきを受けて死んだからです。

何ということでしょう。彼は神殿の修復工事に情熱を燃やすほど信仰的な王でしたが、最後は、神殿の財宝を敵に与えても痛みを感じない王になっていました。人生の最後を信仰者として生きるのはなんと難しいことでしょうか。日々、クリスチャンとしての自分の立ち位置を確認しながら歩まなければなりません。

エレミヤ20章1~13節「落胆する者から賛美する者へ」

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きょうは、エレミヤ書20章から「落胆する者から賛美する者へ」というタイトルでお話します。これまでエレミヤ書をずっと見てきましたが、あなたはエレミヤのような人物をどのような目で見ていますか。スーパーマンのような何の弱さもないスーパーヒーローのような人物のように考えていませんか。エレミヤは若くして預言者として召されましたが、私たちと同じ弱さをもった人間でした。このエレミヤのように私たちの人生にも、山があれば谷もあります。落胆する時があれば歓喜する時もあります。エレミヤは落胆した時、それをどのように克服していったのでしょうか。

Ⅰ.パシュフルによる迫害(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「1 さて、主の宮のつかさ、また監督者である、イメルの子、祭司パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。3 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなく、『恐怖が取り囲んでいる』と呼ばれる。4 まことに主はこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。5 また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。6 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、捕らわれの身となってバビロンに行き、そこで死んで、そこに葬られる。あなたも、あなたが偽って預言を語り聞かせた、あなたの愛するすべての者たちも。」」

ここに、祭司パシュフルが登場します。彼は主の宮の司、エルサレム神殿を司る、また監督する立場にある人でした。彼はエレミヤがこれらのことばを預言するのを聞きました。「これらのことば」とは、前の章の19章15節にあるエレミヤが語った主のことばのことです。エレミヤは、主が遣わしたトフェトから帰り、エルサレムにある主の宮の庭に立ち、イスラエルの民全体にこう言いました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(19:15)

これを聞いた祭司パシュフルは、気分を慨し、不快感を(あら)わにして、エレミヤの預言を押しとどめようとしました。というのは、エレミヤが罪だとか、さばきだとか、悔い改めだとか、いつもネガティブなことばかり言っていたからです。これらのことばを聞いたパシュフルはエレミヤを打ち、彼をエルサレム神殿のベニヤミンの門という門にある足かせにつなぎました。これまでもエレミヤは主のことばをストレートに語った結果、人々から嫌われ、除け者にされ、時には殺されそうになりましたが、今回は肉体に危害が及ぶまでの迫害を受けたのです。

この祭司パシュフルについては、ここに「主の宮のつかさ、また監督者」とありますが、恐らく、エルサレムの神殿を管理する最高責任者だったのではないかと思われます。彼は主の宮のつかさとして神殿に出入りする人たちを見張り、そこにいかがわしい人物がいたら、その人を捕らえて尋問したりしていました。そこにエレミヤが彼らを責めるようなことを言ったので彼は嫌になり、エレミヤを打ち足かせにつないだのです。この「打ち」というのは、むち打ちのことです。旧約聖書にはむちは40回までと定められていました。もしこれを1回でもオーバーすると打った者が罪に定められたので、40回に1つ少ない39回のむち打ちが一般的でした。それはただ単にエレミヤを黙らせるためでした。これ以上エルサレムの住民に対して否定的なメッセージを語らないように、自分たち宗教家をバカにしないようにと脅したのです。
  それだけではありません。パシュフルはエレミヤをベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。この足かせは、からだがねじれた状態で手足を締め付ける道具です。一晩経つとからだ中の筋肉が痛みで悲鳴を上げるようになります。
  エレミヤは何も悪いことをしていませんでした。彼はただ神のことばをストレートに語っただけです。それなのにこんなひどい目に遭わなければなりませんでした。こんなに不当な仕打ちを受けなければならなかったのです。神の罰を語ったがゆえに、人の罰を受けることになってしまいました。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、彼の中には相当複雑な思いがあったのではないかと思います。

翌朝、パシュフルはエレミヤを解放しました。これでエレミヤを黙らせることができると思ったのでしょう。でもエレミヤはそんな軟弱な人間ではありませんでした。彼はパシュフルが彼の足かせを解いたとき、彼にこう言いました。3節です。
  「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる。」(20:3)
  どういうことでしょうか。恐怖によって四方八方から取り囲まれているという意味です。恐怖が彼の周りを取り囲むようになるということです。「パシュフル」という名前は、そもそも周りは安全であるという意味ですが、その名前が改名され、安全ではなく恐怖が周りを取り囲むようになると言ったのです。自由ではなく不自由になると。具体的には4~6節までにある内容です。彼と彼の家に住むすべての人が捕らわれの身になってバビロンに連れて行かれ、そこで死んで葬られることになります。バビロン捕囚という出来事です。彼と彼の家族だけではありません。ユダのすべての人もそうです。バビロンに引いて行かれ、剣で打ち殺されることになります。どうしてこのようなことになったのでしょうか。それは彼らが自分の安全を考えて神のことばをねじ曲げたからです。その結果、バビロンに連れて行かれることになってしまいました。安全ではなく恐怖が彼らを取り囲むようになったのです。神のことばよりも自分の安全を優先させるようなことがあると、恐怖があなたを取り囲むようになるのです。

Ⅱ.エレミヤの落胆(7-10)

次に、7~10節までをご覧ください。「7 「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。8 私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。10 私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『「恐怖が取り囲んでいる」と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています。『たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って、復讐できるだろう』と。」

これは、エレミヤの祈りです。彼がどれだけ落ち込んでいたかは、この祈りを見るとわかります。エレミヤは再び捕らえられるかもしれない恐怖の中にあっても、パシュフルに向かって「主はあなたの名をパシュフルではなく「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」と、大胆に主のことばを語りました。でも、彼の心は晴れませんでした。ここで彼は率直な自分の思いを神様に訴えています。

7節には、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。」と言っています。エレミヤのような信仰の勇者でも落ち込むことがあります。あの偉大な預言者エリヤもそうでした。エリヤもアハブの妻イゼベルから「おまえのいのちを取る」と言われたとき、脅えて自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」鬱ですね。もう嫌です。もうたくさんです。もう殺してください。あのエリヤが、ですよ。エレミヤも同じです。彼は落ち込んで自分の死さえ願うほどになりました。彼は私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。どんなにスーパーマンのような人であっても、山もあれば谷もあります。落胆する時もあれば、歓喜する時もあるのです。エレミヤもまた、私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。

エレミヤはどのように祈ったでしょうか。彼はまず、「あなたはわたしを惑わしたので、私はあなたに惑われました。」と言っています。これは聞き捨てならないことばです。というのは、神様は人を惑わすようなことはなさらないからです。ではこれはどういうことなのでしょうか。これは、神様の約束が違う!という意味です。自分は自ら進んで預言者になりたかったわけではなかったのに、主がそうせよというからそうしただけであって、そうすれば主が救ってくれると言ったのに、実際は違うじゃないですか。こんなひどい目に遭っています。それで、彼は主が私を惑わしたと言っているのです。でも、本当に主はエレミヤを惑わされたのでしょうか。

1章4~8節を開いてください。エレミヤが神から召命を受けた時の言葉です。「4 次のような主のことばが私にあった。5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」6 私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」
  主はエレミヤに対して、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(1:5)と言って預言者として召し出されました。
  そに対してエレミヤは何と答えましたか。彼はこう言いました。「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
  それに対して主が言われたことばがこれです。7節と8節です。
  「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
  主は、わたしが遣わすすべての所へ行って主が命じられたことを語るようにと言われました。恐れないで。なぜなら、主が彼とともにいて、彼を救い出すからです。
  でも、現実はどうでしたか。ここでは祭司パシュフルによって捕えられ、不当にもむち打ちを受け、足かせに繋がれるという恥辱を受けました。約束が違うじゃないですか。主よ、私はあなたに惑わされたんです。騙されたんです。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。それがこの(ざま)です。そう訴えているのです。

皆さん、どう思いますか。約束が違いますか。主が言われたことをよく見てください。主はエレミヤに何と言われましたか?「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(1:8)と言われました。主はエレミヤに、あなたは何の迫害も受けないとか、あなたの人生には何の問題もない、何の苦難もないなどとは一言も言っていません。むしろ、そういうことがあるということを前提に、「わたしはあなたともにいて、あなたを救い出す」と言われたのです。あなたの人生には間違いなくあなた一人ではとても耐えられないような患難があると。だから救い出される必要があるわけです。自分で自分を救い出せないような状況が起こるということを主は予めご存知であられ、でもそういう時でも心配しなくてもいい、恐れなくてもいい、なぜなら、わたしがあなたとともにいて救い出すからだと言われたのです。それがこの約束です。投獄されるようなことがあれば、そこにわたしもあなたと一緒にいるから、あなたはひとりぼっちじゃないから、ひとりで苦しむわけではない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すから、恐れなくていい。それが主の約束だったのです。

しかし、エレミヤはのことばを取り違えて、こんなことになるなんて話が違うじゃないかと、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」と訴えたのです。このようなことは私たちにもあります。私たちも人生の中で嫌なこと、苦しいことがあると、こんなはずじゃなかった。どうして私の人生にこんなことが起こるのかと言って嘆くことがあります。そして、この時のエレミヤのように主に対して「あなたは私を騙しました」とか「私を惑わしました」みたいなことを言うのです。皆さん、クリスチャンになるとは、バラ色の人生が約束されるということではありません。クリスチャンになっても患難はあります。失望落胆することがある。でも違うのは、そうした患難の中にあっても主がともにいて、あなたを救い出してくださるということです。これが神の約束なのです。

主はあなたの行く先々であなたと共にいてくだいます。あなたが直面している患難、試練の中にも共にいてくださるのです。今、あなたが悩み、悲しみ、ひとりぼっちで、だれにもわかってもらえないと孤独に感じる時も、主はあなたとともにおられるのです。これが主の約束です。主イエスはこう言われました。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
  イエス様は、世にあって患難が無くなるとは言いませんでした。確かに世にあっては患難はある。でも勇敢でありなさい、と言われたのです。なぜ?「わたしはすでに世に勝ったからです。」主イエスはすでに世に打ち勝たれました。死に勝利なさいました。その主が私たちと共にいてくださるのです。であれば、鬼に金棒です。鬼に金棒どころじゃない。私たちには万軍の主が共にいてくださるのだから、何も恐れる必要はありません。イエス・キリストはあなたと共におられます。たとえあなたが末期のがんであったとしても、たとえあなたが絶望の淵に陥っていても、主イエスがあなたと共におられるので、あなたは何も思い煩う必要はありません。これが主の約束です。

8節をご覧ください。エレミヤはここで、「私は、語るたびに大声を出して、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません」と言っています。これがエレミヤのメッセージでした。この「暴虐と暴行」という言葉は6章7節にも出てきましたが、エルサレムに対する神のさばきの宣言です。エレミヤのメッセージを一言でいうなら、この「暴虐だ。暴行だ」と叫ぶことでした。エルサレムの住民の罪は主に対する暴虐と暴行でしたが、それが神のさばきとして自分たちの頭上に帰ってくるということです。それが「暴虐と暴行」です。これはバビロンによってエルサレムが汚されて、完全に陥落するということです。

そういうことを語れば語るほどエレミヤはみんなから嫌われ、嘲りのもととなり、笑いぐさになりました。だれが好き好んでそんなメッセージを語りたいでしょうか。だれも語りたくありません。できればそんなこと口にもしたくありません。そんなことを言えば嫌われることくらい目に見えていました。不快なメッセージなのでだれも好き好んで語ろうとしないことですが、それでもエレミヤはずっと語ってきました。どんなに嫌われても、どんなに除け者にされても、どんなにいのちを狙われようと、ずっと語り続けてきたのです。

でもここでいよいよ耐え切れなくなりました。特にパシュフルによって拷問と辱めを受けることによって、彼の忍耐が一気に爆発してしまいました。もうやっていられない!もう嫌だ!もう止めた!英語でいうとThat’s all.です。これで終わり!です。

それで彼はどうなりましたか。9節をご覧ください。「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」

エレミヤは、「もう主のことばを宣べ伝えない。主の御名によって語らない。」と思いました。もうたくさんです、もうごめんです、や~めた!と思ったとき、何があったのでしょうか。主のことばが彼のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになりました。それで彼は自分の内にしまっておくのに耐えられなくなってしまいました。これはどういうことかというと、主のことばが彼の心のうちで燃えさかる火のようになったので、黙ってなどいられなくなったということです。「骨」とはからだ全体のことです。神のことばが骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになるので、もう爆発しそうになったのです。もう内側にしまっておくことができなくなりました。もう抑えることができません。もうどうにも止まらない、です。

ルカの福音書24章には、イエスの復活後、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていた時の様子が記録されていますが、そこにイエスが近づいてきて、道々お話してくださいました。その時二人の目はさえぎられていて、それがイエス様だとわかりませんでした。しかし、「道々お話してくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(ルカ24:32)とあります。彼らの心は内で燃えていました。イエス様が聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心の内はずっと燃えていたのです。それと同じです。主のことばが内に燃えたのです。エレミヤは非常に失望落胆していました。でも、主のことばが彼の心に入ると、そのことばが燃えさかる火のようになって燃えました。もう主の名によって語らないと思っても、語らずにはいられなくなりました。意気消沈していた心が燃えさかる火のようになりました。皆さんもそういう経験がおありでしょう。もう嫌だ、もう無理です、もうやっていられないと落ち込んだ時に主のことばが心に入ると、燃えて来たということが。それは消すことができないほどの、抑えきれないほど強いものです。これは何も牧師や伝道者に限ったことではありません。もしあなたが救われて神の聖霊を受けているなら、主のことばがあなたの心に入ると、あなたの心は燃えさかる火のようになります。それはあなたが消そうと思っても消すことが出来ないほどのものすごく強い衝動となって迫ってくるのです。もう黙ってなどいられなくなるのです。

だから、落ち込んでいられないのです。反対され、迫害され、もう二度とイエスの名を口にするなと言われても、それでも私たちは主のことばが心に入ると、それが点火して火のようになり、黙ってなどいられなくなるからです。ですから、大切なのは、主のことばがあなたの心のうちで、骨の中に閉じ込められるということです。そうすれば、あなたは燃えさかる火のようになります。まさにヘブル4章12節には、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、抵抗できない力をもって、私たちの心を占領するのです。

ですから、私たちが落胆した時に求めなければならないことは、自分の力で奮起しようとすることではなく、主のことばによって燃やされることです。主のことばに捉えられ、主のことばにすっかり魅了される。そうすれば、いつの間にか主の御思いに動かされるようになります。Ⅰペテロ2章2節にはこうあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」純粋な霊の乳、みことばの乳を慕い求めましょう。それによって成長し、救いを得ることができるからです。主のことばがあなたの心に燃えるとき、あなたはあなたの思惑ではなく、あなたの願いでもなく、あなたの意志でもなく、ただ神によって動かされていくようになるからです。そういう信仰生活を送らせていただきたいですね。

Ⅲ.エレミヤの勝利(11-13)

エレミヤがそのように深く落胆したとき、彼はどのようにしてそれを克服したのでしょうか。最後に11~13節を見て終わりたいと思います。「11 しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。12 正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私に見させてください。私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。」13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」

絶望的な祈りが、突然勝利の祈りに変わります。そのきっかけとなったのが、11節の「しかし、主は私とともにいて」という短い言葉です。これは、エレミヤの信仰告白です。主がともにおられるということが勝利です。主がともにいて、荒々しい勇士のようなので、自分を迫害する者たちはつまずき、勝つことかできません。神に敵対する者たちは、必ず恥を見ることになります。これが、主が約束されたことです。エレミヤはここでその約束に立ち返っているのです。それがこの「しかし」ということばに表されています。これは、みことばに基づいた信仰と言えるでしょう。このようなみことばに基づいた信仰こそ逆境の中でモノを言うことになります。ただ信じているというのではありません。みことばの約束のゆえに必ず勝利することができると確信しているのです。なぜなら、私には思いと心を見られる万軍の主がともにいて助けてくださるからです。何を言われても、何をされても、高らかに、大胆にこのように告白できるのは、みことばの約束を信じているからなのです。そうでなければ、信仰は簡単に揺らいでしまうことになります。みことばをベースに置いていなければ、信仰は簡単に倒れてしまいます。でもみことばがベースにあるなら、どんな逆境にあっても立ち向かうことができます。主がともにいてくださると確信することができるねからです。ローマ8章31節を開いてください。ここには、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも敵対することができません。この方があなたとともにいてくださるからです。

私たちは、しばしば孤独や絶望や挫折を経験します。しかし、そんな時に共にいて慰めや希望や勇気を与えてくださる神がおられることを知っている人は何と幸いなことでしょう。
  神は天から私たちを見下ろして、ただ「ガンバレ」と声援を送るだけの方ではありません。この神は今から二千年前に人として私たちの世界に来られたイエス・キリストです。キリストは、33年間、この地上を歩まれました。そして私たち人間が経験する孤独や痛み、悲しみのすべてを経験されたのです。このキリストがこう約束してくださいました。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 この方があなたとともにおられるのです。であれば、だれがあなたに敵対することができるでしょうか。だれも敵対することはできません。主があなたとともにいてくださるなら、あなたは落胆から勝利へ、勝利から勝利への人生を歩むことができるのです。

以前に紹介したことがありますが、一つの美しい詩を紹介したいと思います。それは、マーガレット・F・パワーズという人が書いた「あしあと」という詩です。
  ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
  暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
  どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
  一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
  これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
  そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
  このことがいつも私の心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
  「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、わたしのすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
  それなのに、わたしの人生でいちばんつらい時には、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
  主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた」

主はあなたとともにおられます。主はあなたとともにいて、あなたを守られるのです。この約束をあなたがどれだけ信じて受け止めるかで、あなたの状況はまるっきり変わります。つまり、あなたは神が見えない時は落胆し、神が見える時は勝利することができるということです。

13節をご覧ください。エレミヤは、ひどい落胆の中でこの約束を信じました。その結果、どうなりましたか。その結果、彼はこのように告白することができました。ご一緒に読みましょう。「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
  落胆の中にいたエレミヤは、主を賛美する者に変えられました。なぜなら、彼は自分の状況を見て嘆くことを止め、主がみことばによって与えてくださった約束に目を留めたからです。「しかし、主は私とともにいて、私を助け出される」と。それは私たちも同じです。私たちもすぐに自分のことで失望落胆することが多い者ですが、その中で主を見上げ、主がともにおられるというみことばの約束に目を留め、落胆から賛美する者へと変えられていきたいと思います。

Ⅱ列王記11章

 今回は、Ⅱ列王記11章から学びます。

 Ⅰ.ヨアシュの保護(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「11:1 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼした。11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。11:3 彼は乳母とともに、【主】の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤが国を治めていた。」

場面は南ユダ王国に移ります。アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼしました。アハズヤは南ユダ王国の王でしたが、戦いで傷を負っていたイスラエルの王ヨラムを見舞うためにイズレエルにやって来ていましたが、彼もまたエフーによって殺されてしまいました。それでアタルヤは、ただちに一族全員を滅ぼしたのです。なぜ彼女はそんなことをしたのでしょうか。自分が南王国ユダを支配する王になるためです。
   彼女は、北王国イスラエルの王であったアハブとイゼベルの娘です。彼女は、南王国の王ヨラムと結婚し妻となり数人の子を儲けましたが、ペリシテ人とアラビア人の攻撃を受け、末子アハズヤ(別名エホアハズ)以外は、皆殺されてしまいした(2歴代21:17)。そのアハズヤが殺されたので、彼女が王の実権を握るには一族全員を滅ぼさなければならなかったのです。それにしても一族全員を殺すとはおぞましいことです。彼女がこのような恐ろしいことができたのは、彼女の中に母イゼベルの性質が宿っていたからです。イゼベルはかつてヤハウェの預言者を次々と殺し、もはや主に忠実な者がほとんど残されていないのではないかと思われたほど殺しました。そしてアタルヤもその残虐性を受け継いで、目的のためには手段を選ばない女になっていたのです。

しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れました。エホシェバは、ヨラム王の娘で、死んだアハズヤの腹違いの姉妹です。彼女は、アタルヤが殺そうとした孫たちの中からヨアシュを盗み出し、寝具をしまう小部屋に隠したのです。この時ヨアシュはわずか1歳でした。こうして彼は乳母とともに、主の宮に六年間、身を隠していました。その間、アタルヤが国を治めていました。彼女は南王国で唯一の女王であり、ダビデの家系ではない唯一の王です。もし、アタルヤがヨアシュを殺していたら、ダビデの家系は完全に途絶えてしまい、メシヤ誕生の約束が挫折するところでした。しかし、神はそれをお許しになりませんでした。

このように神の働きが失敗し、悪魔が勝利しているように見えるときがありますが、決してそんなことはありません。主は必ずご自分のみこころを成就するために、一人の赤ん坊を守られたように守ってくださいます。アタルヤは悪魔の手先ですが、神はそんな敵の攻撃からヨアシュを守り、悪魔の策略を砕かれたのです。

Ⅱ.祭司エホヤダの計画(4-16)

次に、4~8節をご覧ください。「11:4 七年目に、エホヤダは人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを【主】の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで【主】の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せた。11:5 彼は命じた。「あなたがたのなすべきことはこうだ。あなたがたのうちの三分の一は、安息日に務めに当たり、王宮の護衛の任務につく。11:6 三分の一はスルの門に、もう三分の一は近衛兵舎の裏の門にいるように。あなたがたは交互に王宮の護衛の任務につく。11:7 あなたがたのうち二組は、みな安息日に務めに当たらない者であるが、【主】の宮で王の護衛の任務につかなければならない。11:8 それぞれ武器を手にして王の周りを囲め。その列を侵す者は殺されなければならない。あなたがたは、王が出るときにも入るときにも、王とともにいなさい。」」

7年目とは、アタルヤの治世の第七年目ということです。祭司エホヤダがヨアシュを王にするために動きます。彼は、ヨアシュが主の宮で隠されていることを知っていました。そして、その時を待っていたのです。彼は密かに人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを主の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで主の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せました。つまり、正当な後継者が存在していることを彼らに示したのです。カリ人とは、ケレテ人のことです。彼らはダビデに忠誠を誓った兵士たちです(2サムエル20:23)。彼らは ダビデの子孫が王にならなければいけないことをよく知っていました。彼らはアタルヤにくみしていない忠実な兵士たちでした。ですから、彼らがそのことを聞いた時どれほど喜んだことでしょう。そして、エホヤダは彼らと契約を結び、王位奪還計画を開始するのです。それが5~8節にある内容です。

彼らのうちの三分の一は安息日の務めに当たり、王宮の護衛の任務につきます。三分の一は東のスルの門を固め、残りの三分の一は近衛兵舎の裏の門の護衛に当たります。王宮の護衛は交代制とし、三組の二組は安息日には勤務しないが、主の宮の王子の護衛に当たります。それぞれ武装して王子の身辺警備を厳重にするようにと。これは王の戴冠式に備えるための準備です。

祭司エホヤダの信仰と勇気はすごいですね。彼は個人的な理由でアタルヤを殺害し、ヨアシュを王にしようしたのではありません。彼はあくまでも神のみこころが成就するために動いたのです。つまり彼は主の代理人として、悪魔が送り込んだ強奪者を排除しようとしたのです。彼は信仰により、いのちがけで王位奪還に動き出しました。

9~16をご覧ください。「11:9 百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行った。彼らは、それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、安息日に務めに当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れて来た。11:10 祭司は百人隊の長たちに、【主】の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えた。11:11 近衛兵たちはそれぞれ武器を手にして、神殿の右側から神殿の左側まで、祭壇と神殿に向かって王の周りに立った。11:12 エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだ。11:13 アタルヤは近衛兵と民の声を聞いて、【主】の宮の民のところに行った。11:14 彼女が見ると、なんと、王が定めのとおりに柱のそばに立っていた。王の傍らに隊長たちやラッパ奏者たちがいて、民衆がみな喜んでラッパを吹き鳴らしていた。アタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫んだ。11:15 祭司エホヤダは、部隊を委ねられた百人隊の長たちに命じた。「この女を列の間から連れ出せ。この女に従って来る者は剣で殺せ。」祭司が「この女は【主】の宮で殺されてはならない」と言ったからである。11:16 彼らは彼女を取り押さえた。彼女が馬の出入り口を通って王宮に着くと、彼女はそこで殺された。」

百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行いました。それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れてきました。

すると祭司エホヤダは百人隊の長たちに、主の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えました。これらの槍と小盾は国家行事の際に用いられるもので、この戴冠式が正式なものであることを示すものでした。近衛兵たちはそれぞれ武装し、主の宮の正面に向かって王の周りに立って護衛しました。エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、モーセ五書を渡しました。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだのです。

アタルヤはヨアシュの存在について知りませんでした。彼女は近衛兵と民の声を聞いて、主の宮にいる民のところに行ってみると、なんと、王が立つ定位置にヨアシュが立っているではありませんか。それはヨアシュが新しい王として即位したことを示していました。そして、民が喜んでラッパを吹き鳴らしていました。それを見たアタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫びましたが、だれも彼女に加勢する者はいませんでした。

すると祭司エホヤダは、百人隊の長たちに、彼女を捕らえ、王宮まで連行するように命じました。そして、彼女に従って来るものは剣で殺すようにと命じました。主の宮は礼拝する場所であって、処刑所ではないからです。そこで彼らは彼女を取り押さえ、王宮の馬の門に着くと、彼女はそこで処刑されました。

アタルヤは、栄華の絶頂期の中で突然の死を迎えました。詩篇49篇20節に「人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」とありますが、たとえどんな栄華の中にあっても悟ることがなければ、それは滅び失せる獣と何ら変わりありません。日々主のみことばを通して悟りが与えられ、主の御前に誠実に歩まなければなりません。

Ⅲ.バアル神殿の破壊(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「11:17 エホヤダは、【主】と、王および民との間で、彼らが【主】の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。11:18 民衆はみなバアルの神殿に行って、それを打ち壊した。彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺した。祭司エホヤダは【主】の宮に管理人を置いた。11:19 彼は百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆すべてを率いた。彼らは王を【主】の宮から連れて下り、近衛兵の門を通って王宮に入った。王は王の座に着いた。11:20 民衆はみな喜んだ。アタルヤは王宮で剣で殺され、この町は平穏となった。11:21 ヨアシュは七歳で王となった。」

エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、また、王と民との間でも契約を結ばせました。これは、モーセの律法に従って、主の民として生きるという再献身の表明です。また、王はモーセの律法に従って民を統治し、民はその王に従うという内容の契約です。すばらしいですね、私たちは主の所有の民である、主のものであるということを再認識することは。ある時には神様のものだけれども、ある時には自分の好きなようにということではなく、いつでも、どこでも、自分たちは主の民、その牧場の羊であり、そこに立てられた王の統治に従って生きると認識することは大切なことです。

それで民はどうしたかというと、バアルの神殿に行って、それを打ち壊しました。エルサレムになんとバアルの神殿が建っていたのです。これはアタルヤが南王国にバアル礼拝を広げるために建てたたものです。民は、それを打ち壊したのです。そればかりでなく、彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺しました。アタルヤによって持ち込まれたバアル礼拝が、この時点で一掃されたのです。そして祭司エホヤダは、バアル礼拝者たちがそこに入らないように主の宮を管理する管理人たちを置きました。エホヤダは百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆を率いて、王を主の宮から連れ下り、王宮に導きました。そこでヨアシュは王の座に着きました。ヨアシュが7歳の時です。ヨアシュは7歳で王になりました。

一方アタルヤはどうなったかと言うと、彼女は王宮で殺されました。それでこの町は平穏になりました。この町とはエルサレムのことです。エルサレムは再び平穏になりました。アタルヤが南王国にバアル礼拝を持ち込んで以降、エルサレムは霊的混乱が蔓延していましたが、それが解消されたのです。北王国ではイゼベルがバアル礼拝を推進し、南王国ではイゼベルの娘のアタルヤがその役割を果たしました。しかし、南王国は北王国ほどバアル礼拝の影響を受けていませんでした。それはダビデの血筋に属する南王国の王たちの中に主を恐れる者たちが何人かいて、南王国を霊的堕落から守ったからです。私たちも祭司エホヤダに導かれた民を見習って、主の民であるという身分が与えられたことを感謝し、主に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。