エレミヤ27章1~22節「神の時がある」

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きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」

1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。

ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。

その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。

でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです

それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。

いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
  5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
  5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
  5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
  5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
  6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)

ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。

ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。

主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
  「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)

第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」

だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。

では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
  「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
  バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。

16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」

バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。

聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。

苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
  1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)

2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。

3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)

4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)

5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)

実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。

Ⅲ.この場所に戻す(19-22)

最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。

このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」

19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。

これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。

エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。

ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。

Ⅱ列王記18章

 今日は、Ⅱ列王記18章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヒゼキヤ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。3 彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。4 高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。5 彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。6 彼は【主】に堅くつき従って離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。7 【主】は彼とともにおられた。彼はどこへ出て行っても成功を収めた。彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えなかった。8 彼はペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。」

イスラエルの王ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王になりました。北イスラエルは、このホセアが王の時アッシリアの捕囚となります。ですから、ヒゼキヤは北王国が滅びた時の南ユダの王でした。彼は25歳で王となり、エルサレムで29年間治めました。彼について特筆すべきことは、彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことをおこなったということです。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが造った青銅の蛇を砕きました。歴代のユダの王も比較的善い王で主の目にかなうことを行なっていましたが、高き所は取り除きませんでした。けれどもヒゼキヤは違います。彼は高き所も取り除きました。そして父アハズ王が導入させた異教の神々の像を打ち壊しました。それだけではありません。かつて、モーセが作った青銅の蛇を打ち砕いたのです。この青銅の蛇は「ネフシュタン」と呼ばれていたものですが、これはイスラエルの民が荒野の旅をしていた時、水がないことやいつもマナばかり食べていることについて不平を鳴らしたとき、主が怒られ彼らに燃える蛇を送られましたが、そこから救われるためにモーセが作り、旗ざおの上に掲げたものです。「かまれた者はみな、それを仰ぎ見ると生きる」と。(民数記21:5~9)それ以来、イスラエルの民はこれを偶像化し、犠牲を供えていました。ヒゼキヤは、青銅の蛇も砕いたのです。

かつて祝福をもたらしたものでも、それを偶像化すると信仰の妨げになってしまうことがあります。それがいかによいものであっても、それを神以上に大切にするなら、それは偶像礼拝となり、霊的成長を妨げてしまいます。私たちの生活の中で、そのようなものがないかどうか吟味しなければなりません。

5節と6節をご覧ください。彼はイスラエルの神、主に信頼していました。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいませんでした。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。

ヒゼキヤは、南ユダの王たちの中で最もすばらしい王でした。なぜ彼が最もすばらしい王だったと言えるのでしょうか。どういう点が彼のすばらしい点だったのでしょうか。それは彼がイスラエルの神、主に信頼していたという点においてです。これは、他の王たちとの能力的な比較ではなく、信仰の面での比較です。ヒゼキヤは、何よりも、イスラエルの神、主への信頼を第一にした王だったのです。

彼は、6節にあるように、主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。彼は、他の王たちのように晩年になって自分の信仰を放棄するようなことをせず、最後までモーセの律法を守り続けました。それは、この後に出てくるアッシリアの王セナケリブの脅しにも屈せない彼の態度や、神殿の修理や再建(Ⅱ歴代29:3~36)、過越しの祭りや他の祭りの実行(Ⅱ歴代30:1~27)、種々の宗教改革(Ⅱ歴代31:2~21)に表れています。

主はそのようなセゼキヤの信仰を祝福し、主は彼とともにおられ、彼がどこへ出て行っても成功を収めさせました。まず彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えることをしませんでした。これはすごいことです。彼の父のアハズ王は親アッシリア政策をとっていたからです。でも彼はアッシリアに仕えることを拒みました。近隣諸国と同盟関係を結び、アッシリアに対抗したのです。
  また彼は、ペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張のやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破りました。これはどういうことかというと、彼の父アハズ王の時代に、ペリシテ人はユダの町々をいくつか奪っていましたが、ヒゼキヤはそれを奪還したということです。ガザはペリシテの地の最南端の町ですので、彼の征服はペリシテ全土に及んだことが分かります。

ヒゼキヤは、私たちの手本のような人物です。彼は神を恐れ、神の命令を実行しました。私たちもそのような者であるように目指しましょう。その人は肉体的にも霊的にも、主の大いなる祝福を受けるのです。


Ⅱ.ヒゼキヤの試練(9-16)

次に、9~16節をご覧ください。12節までを読みます。「9 ヒゼキヤ王の第四年、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、10 三年後にこれを攻め取った。すなわち、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリアは攻め取られた。11 アッシリアの王はイスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に定住させた。12 これは、彼らが彼らの神、【主】の御声に聞き従わず、その契約を破り、【主】のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」

「サマリア」は、北イスラエルの首都です。ヒゼキヤの治世の第四年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って、これを包囲し、三年後に攻め取りました。このことは既に17:1~6で見てきたとおりです。ここで再び取り上げられているのは、これがヒゼキヤにとっても重要な意味を持つ出来事だったからです。つまり、アッシリアの王はユダにも進出してきたということです。

13~16節をご覧ください。「13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。15 ヒゼキヤは、【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。16 そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が【主】の神殿の扉と柱に張り付けた金を剥ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。」

北王国を滅ぼしたのはアッシリアの王サルゴン2世でしたが、サルゴンが死ぬと、息子のセナケリブが王位を継承しました。そのセナケリブが、ヒゼキヤ王の第十四年にユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取りました。残るはエルサレムだけとなりました。セナケリブは、エルサレムに攻め上るために、ペリシテの地に近いラキシュに本営を置きました。包囲されたことを知ったヒゼキヤは、降伏したほうが良いと判断して、そのことを、ラキシュにいるセナケリブに伝えます。そこで、セナケリブが要求してきた通りの金銀を、主の宮と王宮の中にあるものから取って支払いました。セナケリブが要求してきたものは、銀300タラント(約11トン)と金30タラント(約1トン)でした。代価を支払って平和を買い取るのは、決して賢明なこととは言えません。敵は、一度味を占めると、二度も、三度も、要求してくるようになるからです。信仰者と悪魔の戦いも同じです。最初に妥協すると、その流れが続くことになります。

Ⅲ.セナケリブの脅迫(17-37)

それが、17~37節に見られるセナケリブの脅迫です。まず27節までをご覧ください。「17 アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフは、彼らのところに出て行った。19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だというのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。21 今おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。22 おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、【主】に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。23 さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。25 今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、【主】を差し置いてのことであろうか。【主】が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」26 ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフは、ラブ・シャケに言った。「どうか、しもべたちにはアラム語で話してください。われわれはアラム語が分かりますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、われわれにユダのことばで話さないでください。」27 ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らはおまえたちと一緒に、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」」

セナケリブは、ヒゼキヤが差し出した貢ぎ物で満足することなく、完全な服従を要求してきました。セナケリブは3人の大使を大軍とともに派遣し、エルサレムに送りました。彼らはエルサレムに上って来ると、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立ちました。これはギホンの泉から荒野に向かって水が流れる場所で、洗濯場になっていました。城壁のすぐ外に位置しており、とても賑やかな場所です。

彼らはヒゼキヤに呼び掛けましたが、ヒゼキヤは直接対応することをせず、3人の代理人を送り、彼らと交渉させました。すなわち、ヒルキヤの子である宮廷長官のエルヤキム、書記のシェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフです。

アッシリアの大使のラブ・シャケは、エルサレムの住民にもわかるような言葉で、脅迫の言葉を告げます。それが19~25節の言葉です。その強調点は、彼らの王セナケリブの偉大さです。彼はまずヒゼキヤが拠り頼んでいるものがいかに無力なものであるかを示します。その一つが「あの傷んだ葦の杖」であるエジプトです。そんなのにより頼んでも無駄だというのです。これは正しい分析です。

次に彼が指摘したのは、「われわれの神、主に拠り頼む」ことについてです。彼は、ヒゼキヤが高き所を取り除いて、偶像礼拝を一掃したことを知っていました。そんな無慈悲で排他的な神にいったいどんな力があるというのかというのです。彼はヒゼキヤの宗教改革をこのように非難したのです。

その上で彼は、アッシリアの王と賭けをしないかと提案します。それは、ヒゼキヤが乗り手をそろえることができるなら、アッシリアの王が二千頭の馬を与えるというものでした。それはユダがエジプトに期待したのは、馬を提供してくれることだったからです。どんなに馬をそろえても、乗り手がいなければ何の意味もありません。いや、アッシリアの総督の一人さえも追い返させないだろうというのです。

そして彼はこう結論付けるのです。「今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。」これは衝撃的な言葉です。アッシリア軍がエルサレムに上って来たのは、主のみこころによるものだというのですから。これは全くあり得ないことではありませんが、ラブ・シャケの巧みな誘導による言葉です。「主」によるものであると聞いたら、ユダの民が激しく動揺するからです。


  それを聞いたヒゼキヤの使者のエルヤキムとシェブナとヨアブは、住民にわかるユダの言葉ではなく、アラム語で話してほしいと要請します。高等教育を受けた高官たちはアラム語を理解することができたので、アラム語で話してほしいと言ったのです。住民に分かられると都合が悪かったからです。

するとラブ・シャケはその要求をはねつけました。なぜなら、彼がこのようなことを話すのは彼らのためではなく、むしろ住民たちのためだったからです。エルサレムを陥落させるためには、住民の戦闘意欲を砕く必要があったのです。エルサレムが包囲されて一番苦しむのは住民です。その時には自分の排泄物まで食べるようになるからです。

ラブ・シャケのことばはあまりにも傲慢でした。神の民を侮辱することは神の御名を侮辱することと同じことだからです。このような者には神のさばきが下ることを覚えておかなければなりません。そして、たとえどんなに脅されても、主に信頼する者は失望させられることはないと信じて、主に拠り頼み続けなければなりません。

最後に、28~37節までをご覧ください。「28 ラブ・シャケは突っ立って、ユダのことばで大声で叫んで、こう告げた。「大王、アッシリアの王のことばを聞け。29 王はこう言っておられる。『ヒゼキヤにごまかされるな。あれは、おまえたちを私の手から救い出すことができないからだ。30 ヒゼキヤは、「【主】が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに【主】を信頼させようとするが、そうはさせない。』31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王はこう言っておられるからだ。『私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる。32 その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。そこは穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。おまえたちが生き延びて死ぬことのないようにするためである。たとえヒゼキヤが、「【主】はわれわれを救い出してくださる」と言って、おまえたちをそそのかしても、ヒゼキヤに聞き従ってはならない。33  国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか。34 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。35 国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。【主】がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。』」36 民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。37 ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である史官ヨアフは、自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」


  しかし、ラブ・シャケは聞き入るどころか、ますます声を大きくし、今度は、一般民衆に対して告げて、彼らの心がヒゼキヤから離れるように仕向けます。彼は、ヒゼキヤに従ってアッシリアと戦うよりは、降参して自分の命を救うほうが良いと説得します。もしアッシリアの王と和を結び、幸福するなら、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになると。これは大きな誘惑です。「自分のぶどうと自分のいちじくを食べ」とか、「自分の井戸の水を飲む」とは、食べる物、飲む物に困らないようにさせてあげるぞという意味です。

「その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。」とは、アッシリアの征服方法です。原住民を他の地域に移住させ、そこで生活させることです。そのようにすることで、アッシリアに反逆させる力を削ぐ狙いがありました。しかし、そこで彼らは穀物とぶどう酒、パン、オリーブと蜜が味わえるようになると誘惑しているのです。

それゆえ、ヒゼキヤにそそのかされて死ぬよりは、自分の命を大切にした方が良いというのです。なかなか説得力がありますね。

「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主エルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。」というのは、それぞれの国で「神、神、といっているが、どの神がアッシリアの王の手から救い出すことができるというのか。どの神も無力ではないか、という問いかけです。これは、エルサレムの住民を不安に陥れるには十分な力を持っています。

私たちも、このような責めを心の中のささやきで、あるいは、実際の声として聞くことがあります。イエス・キリストを信じていても、問題は解決しないばかりか、状況はもっと悪くなっている。神に拠りすがることに、いったいどんな意味があるのかと。

このような言葉に騙されないようにしましょう。ラブ・シャケの言葉は、悪魔的なものです。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。」(ヨハネ8:44-45)悪魔の言葉ではなくイエスの言葉、真理の言葉に耳を傾けなければなりません。

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」

ラブ・シャケは城壁の上に集まっていた民に大声で語りかけましたが、何の反応もありませんでした。それは「彼に答えるな」というのが、ヒゼキヤ王の命令だったからです。これは賢い判断です。敵の目的は、民の心を煽ることです。自分の議論の中に、相手を引き込みたいことです。しかしその手に乗るな、とヒゼキヤは戒めたのです。それでも民は激しく動揺し、議論し合ったことでしょう。ラブ・シャケのことばには、なるほどと思わせるものが多く含まれていたからです。けれども、そのような時こそ黙する必要があります。そこに神の救いがあるからです。ダビデは詩篇62:1~2でこう言っています。「私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」

私たちも黙って主を待ち望みましょう。私たちの救いは神から来るからです。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら、私は決して揺るがされることはないからです。

エレミヤ26章1~24節「たとえ、どんなことがあっても」

きょうは、エレミヤ書26章全体から、「たとえ、どんなことがあっても」というタイトルでお話します。エレミヤ書の通読をマラソンにたとえるなら、折り返し地点を通過し、ゴールを目指して復路に入ったあたりが、この26章から29章です。マラソンではこのあたりが一番苦しい地点ですが、エレミヤ書もこのあたりに試練の頂点ともいえる出来事が集められています。エレミヤはいろいろな迫害を受けます。それこそ死に直面するような迫害を、です。それはエレミヤだけではありません。私たちもそのような苦難を受けることがあります。そのような時、いったいどうしたらそれを乗り越えることができるのでしょうか。今日は、エレミヤが死の危機を乗り越えた出来事を通して、そのことをご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.エレミヤの苦難(1-11)

まず、1~11節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、【主】から次のようなことばがあった。2 【主】はこう言われた。「【主】の宮の庭に立ち、【主】の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。4 彼らに言え。『【主】はこう言われる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、5 あなたがたに早くからたびたび遣わしてきた、わたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら──実際、あなたがたは聞き従わなかった──6 わたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする。』」」

ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに主のことばがありました。これはB.C.609年のことです。25:1をご覧ください。ここには、ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とあります。年代が遡っていることがわかります。エレミヤ書は年代順に書かれているわけではないので、そのことを注意して読まなければなりません。そのエホヤキムの治世の最初の年に、エレミヤに主のことばがありました。それは、主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るすべての町の者に、主が語れと命じたことばを語れということでした。イスラエルでは、成人男性は、年に3回エルサレムに上るように律法で命じられていました。それは過越の祭り、七週の祭り(五旬節)、仮庵の祭りの3回です。おそらく、エレミヤはそのいずれかの祭りの期間にこのメッセージを語ったのでしょう。そのメッセージの内容は、3節から6節にあるように、このメッセージを聞いてもしそれぞれ悪の道から立ち返るなら、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直すが、そうでなければ、神のさばきが下るというものでした。しかし、残念ながら彼らは聞き従いませんでした。それで主はこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とすると言われました。

「この宮」とはエルサレム神殿のことです。そのエルサレム神殿をシロのようにするというのは、かつてサムエルの時代、このシロには神の幕屋がありましたが、ペリシテ人との戦いに敗れた時、神の箱が奪われてしまいました。神の箱は神の臨在の象徴です。その神の箱がないということは廃墟を意味していました。そこにどんなに立派な神殿があっても、どんなにすばらしい宗教儀式が執り行われても、神の臨在がなければ何の意味もありません。かつてシロがそうだったように、このエルサレム神殿もそのようになるというのです。

それを聞いた祭司と預言者と民全体は、どのように反応したでしょうか。7~11節をご覧ください。「7 祭司と預言者と民全体は、エレミヤがこのことばを【主】の宮で語るのを聞いた。8 【主】が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、【主】の名によって預言したのか。」そこで、民全体は【主】の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から【主】の宮に上り、【主】の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」

彼らはただちにエレミヤを捕らえ、彼を攻撃しました。彼らはエレミヤをにせ預言者だと判断し、律法の規定に従って処刑しなければならないと思いました。それでエレミヤに「あなたは必ず死ななければならない」と言ったのです。それにしても、すごい脅しですね。「あなたは必ず死ななければならない」というのは。私は礼拝で説教した後、聴衆から「あなたは必ず死ななければならない」と言われたことはありません。もし言われたらどういうリアクションをしたらいいかわかりません。まだそこまで言われたことがないのでわかりませんが、相当ビビルのではないかと思います。たまにメールで脅されることがあります。「何で講壇から私のことを語ったんですか。」と。私は講壇から個人のことを語ることはありませんが、その時のメッセージを聞いたその人が、そのように感じられたのでしょう。「どうして講壇から私を攻撃したんですか。」私は決してその人のことを攻撃したことなどないのに、気の弱い私はそう聞いただけでシューンとなってしまいます。神のことばを忠実に語れば語るほど、必ずといってよいほど脅しがかかるのです。そんな脅しにひるむようであってはならないと思うのですが、ついついひるんでしまいます。ましてエレミヤの場合は、逮捕されて面と向かって言われたのですから、相当ビビッたのではないかと思います。でも彼はそれで黙ったかというとそうではなく、全く口をつむぐこともなく語り続けました。すごいですね。彼の気迫を感じます。

10節をご覧ください。これらのことを聞いたユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着きました。「新しい門」というのは、現代の裁判所のようなところです。そこでは政治や行政も行われていましたが、法廷にもなりました。ユダの指導者たちは、そこで尋問しようとしたのです。彼らはユダの首長たちの前で、エレミヤは死刑に値すると主張しました。

エレミヤにとってはどうみても不利な状況でした。周りの者たちはみな彼の敵でした。誰一人味方する者はいませんでした。もし皆さんがエレミヤの立場だったらどういう心境だったでしょうか。それは、決して容易なことではなかったと思います。エレミヤも相当脅えたのではないかと思いますが、その後のところを見ると彼のメッセージは全然変わっていないのがわかります。全くひるんでいないのです。一貫していました。どうして彼はこのような状況の中でも恐れなかったのでしょうか。それは、彼には神の約束のことばが与えられていたからです。1:7~8をご覧ください。彼が預言者として召しを受けた時に語られた主のことばです。エレミヤは自分は若くて、何をどう語ったらいいのかわかりませんというと、主は彼に次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】のことば。」
  一見、エレミヤはたった一人、被告人席に立たされているかのようでした。でも、その傍らには主が立っておられました。そしてすべてが悪い方にしか向いていない状況の中で弁護者として彼を助け、その状況を打開し、そこから救い出してくださるという約束を与えてくださったのです。
  1:19にもこのような約束が与えられていました。「彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救い出すからだ。」
  神がともにおられるならば、神が私たちの見方であるなら、だれが敵対できるでしょうか。誰もできません。神があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

神は私たちを迫害に遭わせないとは言っておられません。神は私たちを試練に遭わせない、苦難に遭わせないとは約束しません。神が約束しておられることは、たとえあなたが迫害に直面しても、試練のただ中にあったとしても、苦難の悲劇のどん底にいたとしても、あなたとともにいるということです。あなたともにいて、あなたを助け出されるということです。これが神の約束です。エレミヤはこの神の約束を信じることができたので、「あなたは必ず死ななければならない」と脅されても、ひるまずに大胆に神のことばを語り続けることができたのです。いくら罵声を浴びても、いくら脅迫されても、自分にはイエスがともにいて救い出してくださる。ひるむ必要はない。だってイエスが共にいるんだから。エレミヤはこの約束を信じ、神にすべてをゆだねていたのです。
イエスがいるから 明日は怖くない
because we have Jesus we’re not afraid of tomorrow
イエスがいるから恐れは消え
because we have Jesus all fears disappear
イエスがいるから人生は素晴らしい
because we have Jesus our life is wonderful
彼に全てを委ねたいまは
now that we surrendered everything to him
(「イエスがいるから」  詞・曲:Gloria & William J. Gaither)

それは私たちも同じです。私たちもエレミヤのようにすべてを敵に回し四面楚歌に置かれてしまったかのように思える時があります。でも、どんなに孤独でも、あなたは独りぼっちではないということを知っていただきたいと思います。イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。イエスは世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。その約束を信じなければなりません。

Ⅱ.エレミヤの弁明(12-19)

第二に、12~19節をご覧ください。15節までをご覧ください。「12 エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「【主】が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。13 さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従いなさい。そうすれば、【主】も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。14 このとおり、私自身はあなたがたの手の中にあります。私を、あなたがたの目に良いと思うよう、気に入るようにしなさい。15 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に【主】が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。」

裁判の席でエレミヤは、自らの行動の弁明として、彼がそのように語るのは、神ご自身がそのように預言するよう、自分を遣わされたからだと言いました。その上で彼は、もし悔い改めるなら、神は彼らに語られたわざわいを思い直されるであろうと伝えます。これはエレミヤの一貫したメッセージです。どんなに脅されても彼のメッセージは変わりませんでした。ブレることがなかったのです。すごいですね。エレミヤはいのちの危険を顧みず、ずっと一貫したメッセージを語ったのですから。さらに彼は、自分を殺すなら殺してもよいが、罪のない者を殺すようなことがあるとしたら、その血の責任を負わなければならないと言いました。どうしてエレミヤはこのように言うことができたのでしょうか。それは彼が自分のいのちを完全に神にゆだねていたからです。彼は、自分のいのちは自分の手の中にはないという自覚をもっていました。それはすべて神の御手の中にあると。だから、すべてを神にゆだねたのです。具体的には、裁判官の手に自分のいのちをゆだねました。なぜなら、この裁判官を立てたのは神ご自身であられるからです。それがエレミヤの理解であり、パウロの理解であり、聖書が教えておられることです。ローマ13:1にこうあります。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」。勿論、例外はあります。もし上に立つ権威が信仰に抵触することを無理やり強制するようなことがあれば、断固として拒絶すべきです。たとえば、上に立つ権威がイエス・キリストを否定しなさい、というようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。あるいは、キリスト教を捨ててしまえと言うようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。それに対しては「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5:29)の原則を適用すべきです。しかし、そうでない限り、私たちは上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。だからエレミヤは自分のいのちを裁判官の手にゆだねたのです。それが神にゆだねるということだからです。

その結果、どうなったでしょうか。16~19節をご覧ください。「16 すると、首長たちと民全体は、祭司たちと預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、【主】の名によって、私たちに語ったのだから。」17 それで、この地の長老たちの何人かが立って、民全体に言った。18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19 そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが【主】を恐れ、【主】に願ったので、【主】も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」」

すると首長たちと民全体は、「この人は死刑にあたらない。」と言いました。なぜなら、エレミヤが自分の神、主の名によって語ったのだからです。彼らは訳のわからないことを言っています。彼らは、エレミヤの迫力に圧倒されたのでしょう。皮肉なことに彼らは、エレミヤが主の名によって語る真の預言者であることを認めました。そればかりか、その地の長老たちの幾人かが立って、モレシェテ人ミカについて、かつてイスラエルの歴史に起こった出来事を引用し、エレミヤの無罪を主張したのです。

この「モリシェテ人ミカ」とは、ミカ書を書いたミカです。ミカは預言者イザヤと同時代の預言者で、エレミヤよりも約100年前の預言者です。そのミカが神のメッセージを取り次いだとき、当時ユダの王であったヒゼキヤが悔い改めました。そのメッセージは18節にありますが、「万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」というものです。そのときヒゼキヤとユダのすべての民はミカを殺したかというとそういうことはなく、むしろ主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されました。つまり、ユダとエルサレムは、アッシリアの王セナケリブによる侵略を免れることができました。

このような長老たちの発言は、聖書の中の他の個所にも見られます。たとえば、使徒5章には、律法の教師でガマリエルという人の助言が記されてあります。イエスの弟子たちが、神はイエスをよみがえらせたと語ったとき、パリサイ人たちやサドカイ人たちは怒り狂い、彼らを殺そうとした時、このガマリエルが立ち上がり、少し以前に起きたテウダの事件を取り上げて、彼が自分をあたかもメシアであるかのように標榜し、四百人もの人たちが従ったが、結局のところ彼は殺され、従った者たちもみな散らされて跡形もなくなったように、もしそれが人間から出たものなら自滅するでしょうから、放っておくがいい。でも、それが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、それによって神に敵対する者になってしまうかもしれない。だから、もう少し様子を見た方がいいと言ったのです。すると当時のユダヤ教の指導者たちも賛同して、「あなたのおっしゃるとおり」となり、殺すことを思い止まらせました。

エレミヤの時代のこの地の長老たちも同じです。遡ること100年も前に起こった出来事を例に取り上げて、エレミヤを殺すことに反対したのです。エレミヤのいのちは、歴史から学ぶ人々によって救い出されました。と同時に、ユダの民もまた、重大な罪を犯すことから救い出されました。

このように歴史から学ぶことは重要なことです。歴史から学ばない人は同じ失敗を繰り返すことになります。勿論、自分の経験からも学ぶことができますが、それは限られたものでしかありません。しかし、人類の歴史からは本当に多くのことを学ぶことができます。そして聖書こそ、その人類の歴史が記録されてある書です。ですから聖書を学ぶなら、多くの益を受けることができます。聖書にはたくさんの失敗談と、それをどのように乗り越えてきたかについて記されてあるからです。しかし、聖書を見ると人間の罪や過ち、汚れ、失敗、醜さなど、赤裸々な人間の姿が記されてあります。いったいどうしてそんなに赤裸々な人間の姿が記されてあるのでしょうか。それは私たちにとって半面教師となるためです。そして、そこから多くのことを学ぶことができるからです。新約聖書にもそうあります。旧約聖書は教訓として与えられていると。先ほどのシロのこともそうでしたね。聖書に記されて歴史を見ると、私たちはどうあるべきなのかが見えてきます。そこから得られた知識は、現代の問題を解決するヒントになります。きょうのエレミヤ書の個所も、エレミヤがかつて神のことばを語ったときに捕らえられ、殺されそうになったときどうしたのか、どのように乗り越えたのかという歴史上の出来事から教えられているわけですが、これが現代を生きる私たちの知恵、力、助け、励まし、ヒントになるのです。

Ⅲ.そこに神の助けがある(20-24)

その聖書の歴史が終える第三のことは、そこに神の助けがあるということです。20~24節をご覧ください。「20 【主】の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。21 エホヤキム王、すべての勇士、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。22 そこで、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わした。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を随行させて、エジプトに送った。23 彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。24 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」

ここに「ウリヤ」という預言者のことが取り上げられています。彼はエレミヤと同じ時代に活躍した預言者です。彼もまた主の御名によって預言していた預言者で、エレミヤとすべて同じような預言をしていました。つまり、エレミヤは独りぼっちではなかったということです。少なくてもウリヤという同じメッセージを語っていた預言者がいました。他にも無名の人がいたかもしれません。私たちもついつい自分ばかりと思ってしまうことがあります。家族の中でも自分だけかクリスチャンです。学校のクラスの中でも自分だけがクリスチャン。職場でもクリスチャンは自分だけです。そして、だからだれからも理解されないし、むしろ(うと)まれ、嫌われていると思ってしまうのです。でも、あなただけが一人で戦っているわけではないということを知ってほしいと思います。エレミヤも、自分だけがという思いがあったと思いますが、実際は彼と同じことを語っていた預言者がいたのです。エリヤの時代そうでしたね。彼も主の預言者は自分だけだと思っていましたが、主はバアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たち七千人をイスラエルの中に残しておられました。

このように、神が残しておられる民がいるということを知っていただきたいと思います。あなたは一人じゃないのです。あなただけが辛い思いをしているわけではない。あなたには神の家族が与えられています。そのことを忘れないでください。自分だけが特別だと思ってはいけません。むしろそれが普通です。クリスチャンであれば、必ず苦難があります。イエスも言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)主イエスにあって敬虔に生きようと思う者はみな、迫害を受けるのです。これが普通です。あなただけが特別なのではありません。あなたと同じように、バアルに膝をかがめない人七千人がいるのです。主はそういう人たちをちゃんと用意しておられるのです。

ところで、このウリヤですが、いったい何のために彼のことがここに記されてあるのでしょうか。21~23節を見ると、彼はエレミヤのように主のことばをストレートに語っていましたが、エホヤキム王がそれを聞いた時彼を殺そうとしたので、彼はエジプトに逃れました。すると、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わし、彼を殺しました。一方エレミヤはどうかというと、同じメッセージを語りましたが殺されませんでした。その違いは何でしょうか。それは、エレミヤはエルサレムにとどまったのに対して、ウリヤはエジプトに逃れたということです。どういうことでしょうか。ここで言わんとしていることは、ウリヤは怖くなって逃げたので殺されたということではありません。逃げたからといって必ずしも殺されるとは限らないからです。たとえば、エリヤがそうでした。彼も逃げましたが、彼は殺されませんでした。ですから、逃げた者は負け犬だから殺されるということではないのです。ここで言わんとしていることは、私たちのいのちは主の御手の中にあるということです。そして、主に従う者を、主はご自身の御使いをもって守ってくださるということです。ウリヤの場合、本来は助かるいのちが助からなかったということではありません。エレミヤの場合は、このような形では殺されなかったのは、そこに神の別のご計画があったからなのです。エレミヤにはエレミヤの召しがあったということです。だから、エレミヤとウリヤを比較して、どちらが正しくてどちらが間違っているのか、どちらがすぐれていて、どちらが劣っているのかという話ではないのです。わかることは、そこに神のご計画があったということです。いいえ、私たちのすべての出来事の背後には、神の御手が働いているのです。

それが24節で言われていることです。ここには「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。エレミヤの場合、彼が生き延びて神のご計画を果たすために、シャファンの子アヒカムを備えてくださいました。シャファンの子アヒカムがエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることがないようにしたのです。調べてみるとシャファンはエホヤキムの父ヨシヤ王の時代に書記官を務めました。また彼は祭司の一人であっと言われています(Ⅰ列王22:14)。そしてヨシヤ王の時代に破壊されていたエルサレム神殿の修復をしますが、その修復作業にも携わりました。つまり、シャファンという人物はとても敬虔な人であったのです。その息子のアヒカムがエレミヤを助けました。勿論、エレミヤはヨシヤ王の時代の預言者でしたから、当然シャファンとも面識があったでしょう。非常に綿密なつながりがありました。だからこそ、その息子のアヒカムがいのちを張ってまでエレミヤを助けたのです。だれもがエレミヤの敵だったのに、アヒカムはいのちを張って自分が盾となってエレミヤを守ったのです。

こういう人が、あなたにも与えられています。あなたにもアヒカムが与えられています。あなたのためにいのちを張ってくれる人。そういう人がいるのです。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。何を心配しているのですか。あなたがどんなに恐ろしい状況にあっても、神はあなたとともにいてあなたを救い出してくださいます。その方法はいろいろですが、このようにアヒカムを与えて救い出してくださるのです。
  パウロは、Ⅱコリント1:10でこう言っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」
  これは私たちの告白でもあります。パウロは、自分の経験として神が救ってくださると信じていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。

あなたはどうですか。あなたはどこに希望を置いていますか。神は、それほど大きな危険からもあなたを救い出してくださった。だからこれからも救い出してくださると信じることができるのです。エレミヤもそうでした。神は死の危険からも自分を救い出してくださったという経験を通して、この神に希望を置いたのです。それは私たちも同じです。私たちもいろいろな患難や苦難が襲ってくるでしょう。まさに私たちの人生の海にはさまざまな嵐が襲ってきます。でも神はその危険から救い出してくださいます。この神に希望を置いて、エレミヤのように神から与えられた使命を、大胆に、力強く担っていきたいと思います。