きょうから、エレミヤ書の講解説教に戻ります。きょうは39章全体から、「主に信頼する者は守られる」というタイトルでお話します。これまでエレミヤを通して何度も語られてきたエルサレム陥落の預言が、ここに実現します。これは旧約聖書を理解する上でとても大切な鍵になる出来事なのでぜひとも覚えておいていただきたいのですが、前586年のことです。しかし、その中にあっても救われた人たちがいます。それはこのエレミヤであったり、クシュ人エベデ・メレクといった人たちです。どうして彼らは救われたのでしょうか。それは彼らが主に信頼したからです。きょうの箇所の17節と18節にこうあります。
「17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──主のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──主のことば。』」
皆さん、主に信頼する者は守られます。主はそのような人を必ず助け出してくださるのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一に、エルサレム攻め取られた次第です。エルサレムはどのように陥落したのでしょうか。それは主が語られた通りでした。主が語られたことは必ず実現するのです。第二のことは、そのような中でもエレミヤは解放されました。どうしてでしょうか。それはエレミヤが語ったとおりになったことを、異教徒のバビロンの王ネブカドネツァルや親衛隊の長ネブザルアダンが認めたからです。つまり、彼らはそれが神の御業であることを認めたのです。だから、神が語られたことは必ず実現すると信じて、神に信頼しなければなりません。第三のことは、クシュ人エベデ・メレクの救いです。彼は異邦人でありながどうして救い出されたのでしょうか。それは、彼が主に信頼していたからです。主に信頼する者は守られるのです。
Ⅰ.エルサレム陥落(1-10)
まず、1~10節をご覧ください。1~3節をお読みします。
「1 ユダの王ゼデキヤの第九年、第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。2 ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、都は破られ、3 バビロンの王のすべての首長たちが入って来て、中央の門のところに座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。」
前の章、38章の最後の節には、「エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである」とありますが、ここにはエルサレムが攻め取られた次第、すなわち、エルサレムがどのように陥落したのかが記されてあります。
ユダの王ゼデキヤの第九年とはユダヤの暦ですが、これは現代の暦で言うと前588年のことです。その年の第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻め入り、これを包囲しました。そしてゼデキヤの治世の第十一年の第四の月、これは現代の暦で言うと前586年7月となります。ですから、実に2年半もの間、エルサレムはバビロンによって包囲されていたわけですが、ついにその城壁が破られる時が来たのです。その時、バビロンの王のすべての首長たちがエルサレムに入って来て、中央の門のところに座を閉めました。これは、軍の総司令本部を置いたということです。エルサレム陥落です。
それを見たユダの王ゼデキヤはどうしたでしょうか。4~7節までをご覧ください。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
それを見たゼデキヤとすべての戦士は逃げ、夜の暗やみに乗じてエルサレムを脱出し、アラバへの道に出ました。アラバは、ヨルダン川沿いの南北に伸びている低地です。すなわち、彼らはエリコの方面に逃げたわけです。しかし、そのエリコの草原でバビロンの追跡軍に追いつかれると、捕らえられてハマテの地リブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れて行かれました。リブラはエルサレムの北約350キロのところにあります。ゼデキヤはそこでネブカドネツァルと対面することになったのです。
するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみな虐殺しました。しかし、ゼデキヤは剣で殺されることはありませんでした。彼は両目をえぐり取られ、青銅の足かせにつながれて、バビロンに連れて行かれることになりました。ゼデキヤがその目で最後に見たのは、自分の息子たちが殺される光景でした。なんと悲惨な人生でしょうか。このようにして、エルサレムは陥落し、城壁は破られ、町は火で焼かれ、そのおもな住民は、9節にあるように、バビロンへ捕囚の民として連れて行かれたのです。
一方、何も持たない貧しい民の一部はどうなったかというと、10節にあるように、ユダの地に残され、ぶどう畑と畑地が与えられました。どうして彼らにぶどう畑や畑地が与えられたのかはわかりません。恐らくネブカドネツァル王は、それまで冷遇され、みじめな生活を強いられていたユダの貧しい人々が、悪利をむさぼり土地を自分たちの思うように使っていた身分の高い人々に反感を持っていたことを知っていたのでしょう。支配下に置かれた地域を有効に治めるために、彼らにぶどう畑や畑の所有権を与えることにしたのです。
問題は、こうしたエルサレムが陥落した一連の出来事は、これを読む読者に何を伝えようとしているのかということです。それは、神が語られたことは必ず実現するということです。それは、時にはのろいのようにしか見えないかもしれませんが、それが良いことであれ悪いことであれ、時が来ると必ず実現するのです。ここに記されてあることはすべて、預言者エレミヤによって預言されていたことです。それがここに実現したのです。たとえば、エルサレムはバビロンの王の手に渡され、火で焼かれることや、ゼデキヤは必ず捉えられて、彼の手、すなわちバビロンの王の手に渡されるということ、そこで彼はバビロンの王の目を見、王の口と語るということ、しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになるということについては、エレミヤが預言していたことでした。エレミヤ34章2~5節をご覧ください。
「34:2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。34:3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。34:4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。34:5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」
これはエレミヤが以前預言していたことです。この預言のとおりに、エルサレムは火で焼かれ、ゼデキヤ王は捕らえられてバビロンの王の手に渡されました。そこで彼はバビロンの王の目を見、彼の口と語りました。しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになったのです。また9節に「親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した。」とありますが、このこともエレミヤによって預言されていたことです。すなわち、これら一連の出来事は、預言者エレミヤによって預言されていたことがそのとおりに実現したということです。
エルサレムはどのように攻め取られたのでしょうか。すべてエレミヤによって語られていたとおりに、です。神が語られたことは必ず実現するのです。その時点では「どうかなあ」「そんなことはないだろう」と思うかもしれませんが、時が来ると、その通りであったことを知ることになります。
イスラエルを約束の地に導いた時のリーダーはモーセの従者ヨシュアでしたが、彼はその晩年、このように告白しました。
「23:14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。23:15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。23:16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」(ヨシュア21:14-16)
ヨシュアはその晩年、自分の生涯を振り返り、主が自分たちに約束されたことは、それが良い事であれ、悪いことであれ、一つもたがわずみな実現した、と告白しました。皆さん、主が約束されたことはみな実現します。たとえ今、何の変化もないようでも、時が来れば、神が語られたとおりに実現したことを知るようになるのです。
アメリカのミネソタ州にベイウィンド・クリスチャンチャーチという教会がありますが、その教会の牧師であるヘルマー・ヘッケル牧師の証を読んだことがあります。彼は、1958年にドイツからアメリカに移住した移民者です。彼はアメリカへの移住を果たすとすぐに路傍伝道で救われ、献身しました。その彼がドイツからアメリカにやって来た時のことを想起して、次のように言っています。
「1958年12月、私は輸送船ブトナー号に乗ってドイツからアメリカにやって来ました。ブレマーハーフェン港を出港し、北海を通って北大西洋に入りました。船は荒波にもまれ、来る日も来る日も、北を向いても南を向いても、東を向いても西を向いても、見えるのはと言えば水また水、聞こえるものと言えば船のエンジンだけという単調なうなり声だけでした。
しかし5日後に、劇的な変化がやって来ました。東と南に見えるのは海水だけでしたが、西には自由の女神像が朝日にきらめいていたのです。ようやくたどり着くことができたのです。」
彼は、ようやくたどり着くことができました。信仰によって歩むのもこれと同じです。私たちの置かれている状況は何の変化もないようですが、時が来れば、神が語られたことは必ず成就し、私たちは主のご計画のままに導かれてきたことを知るようになるのです。それは、これから先のことについても言えることです。聖書は世の終わりのことにどんなことが起こるかをはっきり語っています。であれば私たちはその神のことばを信じ、そのことばに従い、ただ神に信頼して、神に忠実に歩まなければなりません。たとえあなたの人生が拓かれていないように見えても、神は必ず語られたことを実現してくださいますから、ただみことばに信頼して歩ませていただきたいと思うのです。
次に、11~14節をご覧ください。
「11 バビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤについて、親衛隊の長ネブザルアダンを通して次のように命じた。12 「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」13 こうして、親衛隊の長ネブザルアダンと、ラブ・サリスのネブシャズバンと、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェルと、バビロンの王のすべての高官たちは、14 人を遣わして、エレミヤを監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。」
ここにはエレミヤの処遇について、バビロンの王ネブカドネツァルが親衛隊の長ネブザルアダンに命じたことが記されてあります。その内容は、エレミヤを連れ出し、目をかけてやれということでした。目をかけてやるとは、かわいがって面倒をみるとか、ひいきにするということです。バビロンの王はエレミヤをかわいがって面倒を見るようにと命じたのです。悪いことは何もするなと。ただ彼が語るとおりに、彼を扱うようにと。こうして親衛隊長のネブザルアダンとバビロンの王の高官たちは、人を遣わしてエレミヤを監視の庭から連れ出し、エルサレムの総督に任じられていたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤの家に連れて行かせました。そこは特別な保護の下で安全に過ごすことができる場所だったからです。これこそ神が備えられた助けだったのです。いったいなぜネブカドネツァルはこのように命じたのでしょうか。
恐らくエレミヤのことを誰かから聞いていたのでしょう。彼がどんなことを語っていたのかを。つまり、バビロンに降伏することこそが神のみこころであり、ユダの民が生きる道であるということを。彼はエレミヤが忠実な神の預言者であるとか、バビロンにとって有益な人物だからという理由で目をかけてやれと言ったのではありません。ただエレミヤが語っていたとおりになったのを見て驚いたのです。それは40章2~4節を見てもわかります。ここでは、そのネブカドネツァルの親衛隊の長ネブザルアダンがエレミヤを釈放する時にこのように言ったことが記されてあります。
「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」」
ここで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤに、主はこの場所にわざわいを下すと語られたとおりに行われた、と言っています。つまりエレミヤが語ったとおりに、ユダの民が神の声に聞き従わず、神の前に罪ある者となったので、エルサレムが陥落した。だから、エレミヤを釈放すると言ったのです。彼は異教徒でありながらも、イスラエルの神、主がエレミヤを通して語られたしたとおりに成されたのを見て驚き、それが神の御業であると認めたのです。あなたも神のみことばに信頼し、神のみこころに従うなら、必ず神の御業を見るようになるのです。
私たちは、1983年に福島で開拓伝道をスタートしましたが、翌年から仕事を辞め仙台の神学校で学ぶことになったので、生活のために家で英会話クラスを始めるにしました。とはいっても、実質的にはやったのは私ではなく家内でしたが・・。そこに1人の年輩の男性の方で石川さんという方が来られました。この方は衣料品の卸業を営んでおられる方でしたが、以後、私たちが大田原に来るまでの20年間、ずっと学び続けてくれました。最初に来られた時はもう60を過ぎていましたから、その後20年というと、とうに80を超えていたかと思います。私たちは今でもこの方の話をすることがあります。どうして石川さんは私たちのところに来られたのかねと。
実はこの方の亡くなられた奥様がクリスチャンでした。そして奥様が通っておられた教会の牧師が、奥様の命日に毎年この方のお宅を訪れて祈ってくれていたんですね。そのことをよく私たちに話しておられました。だから私たちの家がボロボロの借家でも、看板に十字架があるということで信頼して来てくれたのだと思っていました。しかしある時、それもあったかと思いますが、それは神様が送ってくださったんだと確信するようになりました。
というのは、その後教会で会堂建設に取り組むことになりますが、私たちが建てようとしていた土地が調整区域といって建物を建てることができない土地だったのですが、この方の一言で大きく前進することになったからです。県から開発許可を受けることが難しく、もう止めようと諦めかけていたとき、英語のクラスの後でこの方が「だったらあの方にお話してみたら」と言われたのです。その方は県会議員をしている方でしたが宅建の資格を持っていて、その免許の更新の時によくお話する間柄だということでした。私も全然知らない方ではなかったので早速電話をしてみると、「一応、話だけはしてみます」ということでした。するとしばらくして県の担当者から連絡があり、申請に必要な書類を持って来てほしいと言われました。そして、ついに1997年11月に開発許可が下りたのです。それは祈り始めてから4~5年後のことでした。
私はその時、神様から与えられていたみことばを思い出しました。それは創世記26章22節のみことばです。
「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」
これはイサクがペリシテの地に井戸を掘ったとき彼らから出て行ってほしいと言われ、仕方なく今度はゲラルの谷間に井戸を掘ると、ゲラルの羊飼いたちから「この水はわれわれのものだ」と言われて争いとなったため、仕方なくもう一つの井戸を掘らなければなりませんでした。それがこのレホボテです。意味は「広々とした地」です。イサクにとってそれは三度目の正直でしたが、私たちも開拓してから三度目の場所でした。しかもそこは600坪もある広々とした土地でした。ですからそれは私たちに対する神様からの約束だと受け止めましたが、すっかり忘れていたのです。しかし、こういう形で与えられたとき、そのみことばを思い出しました。あり得ないことです。でも神様はこのみことばの約束のとおりにしてくださいました。そのために神様は彼を送ってくださったのです。
20年ですよ。どうして神様は彼を送ってくださったのかわかりませんでしたが、後でわかりました。このためだったんだと。もちろん、伝道しましたよ。毎週英語のクラスの後で自然な会話をしながら、その中でイエス様を信じてくださいと勧めました。でも最後まで信じませんでした。決して受け入れたくないというわけではありませんでした。信じるならキリスト教だと思っていましたから。でもそのように勧める度にいつも笑ってこう言うのでした。「はい、自分が死ぬちょっと前に信じますから。」と。そんなのいつかわからないじゃないですか。今が恵みの時、今が救いの日です、と勧めましたが、結局私たちが大田原に来るまで信じることはありませんでした。そして、こっちに来てからその方が召されたことを知りました。本当に残念です。あんなにいい方で、あんなに神様に心を開き、あんなに教会のためによくしてくださった方なのに、イエス様を信じなかったのは本当に残念だと思いました。でも、その中でも神様は働いておられ、ご自身の御業を進めてくださったのです。神にはどんなことでもできること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
あなたにとって難しい、できないと思っていることは何ですか。でも神様にはどんなことでもおできになられます。ですから私たちは神を信じて、神のことばに信頼しなければなりません。そうすれば、あなたも神の御業を見るようになるのです。
最後に、15~18節をご覧ください。
「15 エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。16 「行って、クシュ人エベデ・メレクに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都にわたしのことばを実現させる。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらはその日、あなたの前で起こる。17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──【主】のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──【主】のことば。』」」
クシュ人エベデ・メレクについては、前の章の38章7~13節で学びました。エレミヤが泥の中に沈みかけていた時、彼がエレミヤをその泥の中から救い出したという話です。ですから時間的な順序で言うなら、この箇所はその直後に記されるべき内容です。それがここに記されてあるのは、おそらくこのエルサレムの崩壊に際して、エベデ・メレクが行ったことに対する神の報い、神の約束が成就したことを記すためだったのではないかと思います。エレミヤが泥の中から救い出された時、彼は監視の庭に閉じ込められていましたが、その時このクシュ人エベデ・メレクに対して、16~18にある預言がエレミヤを通して語られたのです。それは17節にあるように、主は必ず彼を救い出す、助け出すということです。「あなたのいのちは戦勝としてあなたのものになる」というのは、「いのちだけは助かって生き残る」という意味です。新共同訳ではそのように訳されています。彼はその危機を生き延びて、その生涯を平安のうちに終えたと理解することができます。いったいなぜ彼はその危機から救い出されたのでしょうか。
18節にその理由が次のように記されてあります。「あなたがわたしに信頼したからだ。」
それは、彼が主に信頼したからです。彼は異邦人でありながら、イスラエルの神、主に信頼しました。だから、彼は助け出されたのです。彼がエレミヤを泥の中から助け出したのも、それは彼が主に信頼していたからだったのです。それで彼は神からの祝福を受けたのです。
それは私たちも同じです。実はこの異邦人エベデ・メレクは私たちの型というか、私たちのモデルなのです。というのは、私たちもイスラエルの民からすれば異邦人であり、神から遠く離れていた者であったにも関わらずイエス・キリストを信じたことによって神の民とされ、神の祝福を受け継ぐ者とされたからです。主イエスを信じる者は救われます。彼に信頼する者は失望させられることはありません。エペソ人への手紙2章11~13節にはこうあります。
「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」
私たちもかつてはキリストから遠く離れ、イスラエルの民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって何の望もなく、神もない者でした。しかし、そのような私たちもキリストの血によって神に近い者、いや、神の民とされたのです。それは一方的な神の恵みによるのです。その神の恵みを受けてエベデ・メレクが神に信頼し、エレミヤを助けたように、私たちもキリストの血によって神の民の一員として加えられ、神に信頼する者とされました。それゆえ、神の祝福を受ける者とされたのです。
であるなら、私たちの人生において最も重要なことは何でしょうか。それは私たちがどういう者であるかとか、どれだけ力があるかということではなく、誰と共に歩むのかということです。何に信頼して歩むのかです。
あなたは何に信頼していますか。誰と共に歩んでおられるでしょうか。主に信頼する者は守られます。「しかしその日、わたしはあなたを救い出す─主のことば─。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ─主のことば。」
もしかすると、あなたはエレミヤのように泥の中に沈みかけているかもしれません。お先真っ暗ですと。でも主に信頼するなら者は守られます。決して失望することはありません。それが神のことば、聖書があなたに約束していることです。神様は異邦人エベデ・メレクを救い出したように、またエレミヤを助けてくれたように、必ずあなたを救い出し、助け出してくださいます。私たちも主に信頼しましょう。それはあなたがだれに信頼したかによって決まるのです。