46章から諸国の民についての語られた主のことばから学んでいますが、今日はダマスコに対して語られた主のことばと、ケダルとハツォル、そしてエラムに対して語られた主のことばから学びたいと思います。
三つのポイントでお話します。第一に、ダマスコに告げられたのは神のさばきという悪い知らせでしたが、ここに良い知らせがあります。良い知らせは、主イエスにあるということです。第二のことは、ケダルとハツォルに対する主のことばから教えられることですが、自分は一人でやっていけると思い上がるなら、滅びを招くことになるということです。そして第三のことは、エラムに対する主のことばから教えられることですが、あなたは何を誇り、力の源としていますかということです。神以外のものを誇るなら神はそのようなものを砕かれますが、主に立ち返るなら救いの恵みを受けることができということです。それでは、本文を見ていきましょう。
Ⅰ.ダマスコに対する預言(23-27)
まず、ダマスコに対する預言から見ていきましょう。23~27節をご覧ください。「49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。まことに、彼らは悪い知らせを聞き、海のようにかき乱され、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖にとらわれ、身を翻して逃げた。産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて。49:25 どうして、誉れの町、わたしの喜びの都が捨てられたのか。49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされる。──万軍の【主】のことば──49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす。」」
ダマスコはアラムの首都でした。アラムとは今日のシリアのことです。シリアはイスラエルの北方に隣接している国ですが、今日でもテレビのニュースでよく観ます。そのダマスコに対する預言です。
「ハマテとアルパデは恥を見た」とありますが、「ハマテ」と「アルパデ」はダマスコの北にあった町です。このハマテとアルパデは恥を見ることになります。彼らは海のようにかき乱され、静まることもできません。なぜなら、彼らは悪い知らせを聞くからです。それは敵によって海ようにかき乱され、静まることもできないという知らせです。ダマスコは弱り果て、恐怖にとらわれ、産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて、身を翻して逃げることになります。26節には、その日、敵の攻撃によってダマスコの若い男たちは町の広場に倒れ、戦士たちもみな、黙らされるとあります。黙らされるとは殺されるということです。そしてこの預言はB.C.605年に成就します。バビロンの王ネブカドネツァルはエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢を打ち破ると、このダマスコも打ちました。46章2節で見た通りです。27節には「わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その日はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」とありますが、ダマスコの城壁は崩され、ベン・ハダドの宮殿は焼き尽くされました。
23節の真ん中に「まことに、彼らは悪い知らせを聞き」とありますが、それは本当に「悪い知らせ」です。バビロンの王によって焼き尽くされ、捕らえられるというのは、悪い知らせでしかありません。しかし、ここに「良い知らせ」があります。それは、そのバビロン捕囚から解放されるという知らせです。それは「良い知らせ」、「福音」です。皆さんは「福音」という言葉をよく聞くと思いますが、福音とは何ですか。私はクリスチャンになる前にこの漢字すら読めませんでした。何だろう、「フクオン」って?「福音」とは、ギリシャ語では「εὐαγγέλιον」(エウアンゲリオン)と言いますが、元々はこのバビロン捕囚から解放されたという知らせのことです。それが罪の奴隷から解放されることを指すことばとして用いられるようになりました。つまり、悪い知らせとは罪の奴隷から解放されるということであるのに対して、良い知らせとは、その罪の奴隷から解放されるという知らせなのです。そこから解放してくださるのは誰ですか。そうです、それは言わずと知れた私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの罪のために十字架で死なれることによって私たちを罪から解放してくださいました。これが福音です。私たちはこの福音によって罪から救われました。そしてこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者としてこの世に置かれているのです。この世は良い知らせを知りません。知っているのは悪い知らせばかりです。テレビやネットに流れている情報は悪い知らせばかりじゃないですか。そこには全く希望がありません。この世は自分の中に神を慕い求める思いがあるのに、その神がどのような方かを知らないからです。まさに「知られていない神」です。どこに行ったら良いのかわからずにみんなさまよっています。もしこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を知ることができたら、どんなに希望と生きる力が与えられることでしょう。
先日、右眼の緑内障の手術を受けました。手術の前日、礼拝が終わって病院に直行しましたが、実は不安がありました。昨年11月に受けた時のように、出血が目の奥に入ったらどうしようと。というのは、前回はそれで4日目にもう一度手術をしなければならなかったので、かなりダメージがあったからです。
病院に到着後、その日は何もすることがなかったので、聴く聖書でテサロニケの手紙を聴きました。すると主はこのように語りかけてくださいました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Ⅰテサロニケ5:28)
強くあれ、雄々しくあれ、主があなたの前を進まれる。強くあれ、雄々しくあれ、主があなたの罪を贖われた。わたしはあなたとともにいる。本当に励まされました。こんな時「頑張ってください」と言われても、自分にはどうすることもできません。でも主があなたとともにおられるというメッセージは、本当に希望と平安を与えてくれます。そして主イエス・キリストの恵みによって手術は成功し、心配していた目の奥に血が入り込むこともなく、何と4日目に退院することができました。ハレルヤ!
ところで、手術が終わった日、ある方からメールをいただきました。その方は検診で引っ掛かり再検査を受けたところ、癌であることが判明しました。しばらく化学療法を続けた後で手術をする方針だとだということでした。
私は片目でしたがすぐにメールを差し上げ、自分に与えられたイエス・キリストの恵みその方にもあるようにと書きました。するとその方から返信が届きました。
「先生、恵みの言葉を有難う御座います。今病院から戻りました。お盆前で院内も患者でいっぱいでした。先生のメールを読んでいまして、あ―、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らに居られると思いました。これから始まる科学療法にも、太刀打ちできる勇気が湧いてきます。何より増して、大橋牧師の手術が成功された事が嬉しいです。良かったですね。・・・・牧師に大いなる神の恵みを。アーメン。」
何だか逆に私が励まされたような感じですが、私はこれを読んで福音の力ってすごいなぁと思いました。「あー、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らにおられる」って言えるのは、本当に凄いことだと思うんです。この世にこのような希望があるでしょうか。十字架で死なれ、三日目によみがえられた主があなたをすべての罪から解放してくださった。主がいつもあなたとともにおられ、あなたの前を歩んでくださるというメッセージは、本当にかけがいのなにメッセージ、良い知らせです。この世のどこを探してもこんなにすばらしいメッセージ、福音の良い知らせはありません。この良い知らせがあなたにも与えられているということを忘れないでください。
次に、ゲダルとハツォルに対する主のことばを観たいと思います。28~33節をご覧ください。「49:28 バビロンの王ネブカドネツァルが討ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう言われる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と。49:30 ハツォルの住民よ、逃げよ。遠くへ逃れよ。深く潜め──【主】のことば──。バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし、おまえたちに対して計略をめぐらしているからだ。49:31 さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物になり、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、もみ上げを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、あらゆる方向から彼らに災難をもたらす。──【主】のことば──49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなる。そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」」
「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア半島に住む遊牧民です。現在のサウジアラビアの辺りに住んでいたのではないかと考えられています。イスラム教徒によると、イスラム教徒の開祖はムハンマドですが、彼はこのケダルの子孫だと言っています。
「ハツォル」とは、ガリラヤ湖の北部にも「ハツォル」という町がありますがそのハツォルではなく、アラビア半島のどこかにあった町ではないかと考えられています。
そのケダルとハツォルに対して主は何と言われましたか。28節後半から29節には、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。」とあります。これはバビロンの王ネブカドネツァルに対して言われたことばですが、彼はケダルに攻め上り、これを荒らし回ります。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られることになるのです。天幕と羊の群れとか、らくだと言われてねピンとこないかもしれませんが、たとえばこれを資産とかホンダのSUVのような高価なものに置き換えるとわかりやすいかと思います。あなたが今まで築いてきた資産のすべてが奪われたとしたらどうでしょうか。もう絶望するのではないでしょうか。なぜここにラクダが出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、ラクダは当時の貿易では欠かすことができない高価なものだったからです。「ラクダ」は砂漠の船と呼ばれていて、価値あるものでした。今でいうとホンダの車であったり、ハーレーダビッドソンかもしれませんね。ラクダに乗ったら楽だ!なんて。そんな価値あるものがすべて奪われるとしたらどうでしょう。もう立ち上がれないのではないでしょうか。車だけならまだしも、家や資産のすべてが奪われたとしたら悲しい限りです。ケダルとハツォルはまさにそんな悲惨な目に遭うのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
31節をご覧ください。ここには「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」とあります。
どういうことでしょうか。ケダルとハツォルは遊牧民だったので、誰も自分たちのところに攻めてくる者はいないと、安心しきってのん気にしていたのです。鍵など必要ありませんでした。城塞都市ではなかったからです。いつものんきに暮らしていました。フーテンの寅さんのように。今の時代、鍵をかけなかったら大変ですよ。すっかり持って行かれます。娘が高校生の時、駅まで自転車で行っていましたが、何度盗まれたでしょうか。何台も盗まれました。しっかり鍵をかけていても、ですよ。
しかし、ゲダルとハツォルはそういう心配がありませんでした。扉も、かんぬきも必要なく、だれとも同盟関係を結ぶ必要もありませんでした。そんなことしなくたって自分たちだけでやっていけると高をくくっていたのです。そういう自負心というか、プライドの結果、31節にあるように、彼らは孤立して住んでいたのです。
これはどこかの国に似ているんじゃないですか。この国もどちらかというとそういう傾向があります。確かに日本には同盟国があり孤立しているわけではありませんが、でも自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。誰の助けを受けなくても、自分の力でやっていけると。
それはクリスチャンも例外ではありません。自分は一人でやっていけるので別に教会に行く必要がないと思っている人が意外と多いです。信仰生活は一人でも守っていけるから大丈夫ですという思いがあるなら、それはこのケダルやハツォルと何ら変わりがありません。一人で聖書を読んで、一人賛美して、一人で礼拝できるから大丈夫です。時には家に人を招いて家庭集会をすることもできるし、メッセージだってインターネットでいくらでも聴くことができます。交わりだって教会に行かなくてもできるから大丈夫ですと言うなら、このケダル人やハツォル人と同じなのです。とんでもない勘違いをしていることになります。私たちは一人でなんて生きていくことなどできないからです。神はそのために教会を用意してくださいました。主にある兄弟姉妹が共に集まって共に礼拝し、共に生きるようにと。だから礼拝に来ると元気が出るんです。そして神様がどのようなお方なのかを本当の意味で知ることができて、その神によって力を与えられるのです。
今年の教会のテーマは、ともに生きる幸いです。「133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1-3)とあるとおりです。
自分は一人でやっていけるとおごり高ぶるなら、ゲダルやハツォルのように、神のさばきを受けることになります。主はそういう人たちのところに攻め上れと、ネブカドネツァルに命じておられるように、やがて滅ぼされることになるのです。もうらくだ!なんて言えなくなります。
そしてこの預言の通り、B.C.599年にバビロンの王ネブカドネツァルがケダルを攻撃して、その天幕と家畜をすべて略奪しました。自分はどうなのかを吟味して、もしそのような思いがあるなら悔い改めて、神のみこころに歩ませていただこうではありませんか。
最後に、エラムについて語られた主のことばを見て終わりたいと思います。34~39節をご覧ください。「49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。49:35 万軍の【主】はこう言われる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに吹きつけさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らす。エラムの散らされた者が入らない国はない。49:37 わたしは、エラムを敵の前に、そのいのちを狙う者たちの前にうろたえさせ、彼らの上にわざわいを、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】のことば──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】のことば──49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」」
ユダの王ゼデキヤの治世の初めとは、B.C.597年です。エラムとは、バビロンの東にあった国で、今日のイランのことです。地図をご覧ください。

(ラーンテック、「世界史探求」~初期のペルシアとメディア(前7世紀頃)~)
バビロンとペルシアの間にある地域です。ユダからはだいぶ離れたところに位置しています。そのエラムに対して主が言われたことはどんなことでしょうか。35節には、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。」とあります。彼らの力の源は何でしたか。弓です。彼らは弓が得意だったのです。言うならば、これは軍事力ですね。それが彼らの力の源だったのです。彼らはそれを自慢していました。しかし主は、そんな彼らの力の源である弓を折ると言われたのです。もう頼りにならないようにすると。
それは私たちも同じです。もしあなたが神様以外ものを自慢しているなら、神様はそれをへし折られることもあります。神以外に誇るものがあるとしたら、それが何であれ折られるのです。使徒パウロはガラテヤ書6章14節で、私たちには私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりませんと言っています。もし十字架以外に誇るものがあるとしたら、神は時にそれをあなたから取り上げられることがあるということを覚えておかなければなりません。神の力によって私たちは砕かれ弱くされます。でもそれは一重に私たちが神を誇るようになるためです。
あなたが誇りにしているものは何ですか。あなたが自慢しているもの、あなたが絶対的な信頼を置いているもの、それは何でしょうか。私にはこれがある。あれがある。この資格がある。このキャリアがある。この仕事がある。健康がある。お金がある。家族がある。これらはすべて神の恵みです。それなのに、これらのものを神よりも誇ることがあるとしたら、神はそれを取られることがあるのです。でもその時はむしろ幸いです。なぜなら、神があなたの力となってくださるからです。
エラムの場合はどうでしょう。36節と37節をご覧ください。主は天の四隅から、四方の風をエラムに吹き付けさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らすと言われました。この「四方の風」とは、エラムに向かって攻めて来る敵のことですが、その結果、彼らはその地から散らされてしまうことになります。勿論、そこにはバビロンの王ネブカドネツァルもいました。彼はB.C.597年にバビロンはエラムを攻撃しました。そして最終的には37節にある通り、エラムは完全に絶ち滅ぼされてしまうことになるのです。主が語られたことは必ず実現します。自分を誇り、神以外のものに信頼を置くなら、あなたもエラムのような結果を招くことになることを覚えておかなければなりません。
しかし、エラムに対する預言はこれだけで終わっていません。39節をご覧ください。ここには、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」とあります。これは、エラムに対する回復の預言です。エラムには、将来の回復の希望が語られているのです。これは終末時代に起こることですが、しかし、歴史上、それが既に成就していることを私たちは見ることができます。たとえば、使徒2章7~11節を開いてください。ここには、「2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。
これはペンテコステの日に、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々からエルサレム集まっていましたが、そのとき聖霊に満たされた弟子たちが、御霊が語らせてくださるままに、その人たちの国のことばで話し始めまると、それを聞いた人たちは驚いて、呆気にとられて言いました。彼らが自分たちの国のことばで話していたからです。そして、福音のことばを理解した彼らはイエス・キリスト信じて救われて行ったのです。9節を見ると、その中にこのエラム人がいたことがわかります。
「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、」
彼らの完全な回復は終わりの日に成就しますが、このようにこの歴史においてすでに成就している部分もあるのです。
このように、神のさばきの宣告の中にも常に神のあわれみがあるのを見ることができます。46章からずっとさばきの宣告を聞き続けて、中には暗い気持ちになった人もおられるかもしれませんが、でも神はその都度その都度ちゃんと回復の希望を語り、救いの約束を与えておられたのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる主は、その救いの御手を差し伸ばし続けておられるのです。決して背を向けて見捨てることはありません。勿論、どこまでも頑なな者に対しては妥協することはありませんが、でも同時に神様はあわれみ深い方であり、もしあなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、驚くべき恵みを注いでくださるのです。もうさばかれても致し方ない者に対して救いの御手を差し伸べてくださる。最後の最後まであきらめずに。そして神にしかできない救いの御業を成し遂げてくださるのです。
それは私たち日本人も同じです。自分たちは神様に頼らなくたってやっていけると豪語し、神に背を向け自分勝手に歩んでいるような者にも救いの御手が差し伸べられているのです。そうです、世の終わりにあっては間違いなく私たちはさばきに向かっていますが、そこにはちゃんとあわれみも備えられているのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
ですから、私たちはこの時代がどういう時代なのかを見極めなければなりません。そして神のさばきを宣告しなければなりませんが、同時に神のあわれみと神の救いも、それ以上に力強く高らかに宣べ伝えなければならないのです。私たちは悪い知らせだけでなく、福音の良い知らせを宣べ伝えるために召された者なのですから。この世の人たちは良い知らせを知りません。知られない神を拝んでいます。こうした人たちにイエス・キリストのみ救いの良い知らせを宣べ伝えなければならないのです。それが私たちがここに置かれている最大の理由であり、最大の使命です。
エレミヤもその使命を全うしました。どのような取り扱いを受けようと、どんなに迫害されようとも、彼は最後までその使命を忠実に果たしたのです。私たちもそうありたいですね。確かに今は恵みの時、今は救いの日です。ここにその救いがありますと。救い主イエス・キリストを信じるなら、どんな人でも救われますと。たとえあなたがダマスコであっても、あるいはゲダルやハツォルのような人であっても、エドムのような人であっても救われて、永遠のいのちという神の祝福を受けることができるのです。その日を待ち望みつつ、主はこの国も救ってくださると信じて祈り続けようではありませんか。