「恐れるな、たじろぐな」 N060
Ⅰ.ひとりの者(1-7)
主はここで、諸国の民に向かって語られる。「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」(1)と。これは法廷のシーンである。偶像を拝む諸国の民に対して、どちらが本物の神なのか、どちらが信じるに値する神なのかを論じ合おうではないかというのだ。まずまことに神について語られる。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収められるのか。」(2)これは後に起こるメデイャとペルシャの連合軍の王クロスのことである。神はクロス王を起こしバビロンによって捕らえられたイスラエルを解放し、祖国エルサレムに帰還させるというのだ。「だれが、これを成し遂げたのか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」(4)このようなことはだれにもできない。ただ全能の神だけがなし得ることができる。それはやがて来られるメシヤ、救い主の型でもあった。神はクロス王を立てバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放したように、ご自身のひとり子を立て、罪の中にあえいでいた人類を解放してくださった。人間に守ってもらうしかない無力な偶像とは訳が違う。この方こそまことの神であって、私たちが信じるに値する方なのである。
Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)
いったいなぜ神はイスラエルを守り、助けてくださるのか?それは神がイスラエルを選び、ご自分のしもべとしてくださったからだ。しもべというと自由がなく、こき使われるというイメージがあるが、実はしもべであるということは、主人に守ってもらえる立場にあることを意味している。イスラエルは神に選ばれた神のしもべである。ゆえに神は、どんなことがあっても彼らを守ってくださる。エペソ1:3-5には、私たちクリスチャンも神に選ばれた存在であることがわかる。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくだった。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらがしめ定めておられた。私たちは神に選ばれた神のしもべなのである。時々私たちは神に捨てられたのではないかと感じる時があるが、実はそうではなく、そのように感じる時でも神は私たちの苦しみを担っておられ、私たちを一歩一歩導いておられるのである。神は私たちを選んでご自分のしもべとしてくださったので、どんなことがあっても私たちを捨てるようなことはなさらない。
Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13)
だから、恐れてはならない。たじろいてはならない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10)神があなたとともにいてくださる。この神は人が造った、人によってかたどられた神ではない。この神は全宇宙を造られた創造主なる神である。この方があなたとともにいてあなたを守り、支えてくださるのなら、何も恐れることはない。また、神はあなたの神である。ただの神ではない。あなたと個人的に関わってくださる神なのである。そして神は義の右の手であなたを守ってくださる。「義の右の手」とは勝利の手である。神は必ずあなたを守り、あなたに勝利をもたらしてくださる。もしあなたに対していきり立つ者があれば、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになる。あなたと争うような者は、何も無い者のようになる。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手で、あなたを守ってくださるからだ。だから、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはない。職を失うことがあっても、苦難が訪れ苦しみのただ中に置かれるようなことがあっても、家族に背を向けられても、友人に裏切られるようなことがあっても、何も恐れることはない。神があなたとともにいてくださるからだ。主がともにおられるなら、明日はこわくない。明日のことで心配することは全くないのだ。必要なのはただこれを信じる信仰である。この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができる。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたが今、恐れていることはどんなことですか?その原因はどこにあると思いますか?その恐れを克復するために必要なことはどんなことでしょうか?