「恐れるな。虫けらのヤコブ」 N061
Ⅰ.恐れるな。虫けらのヤコブ(14)
主はイスラエルを「虫けらのヤコブ」と呼んだ。ヤコブとは「かかとをつかむ者」、「押しのける者」という意味である。イスラエルはまさに人を押しのけるようなずる賢く、何の価値もない、踏みつけられて終わるような存在であった。そんな虫けらのヤコブに対して主は「恐れるな」と言われた。周辺諸国に比べたら本当に少数で、弱々しい存在であっても、恐れることはない。なぜなら、主が彼らを助けてくださるからだ。「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」である。主が彼らを贖ってくださったので、主が彼らを助け、守ってくださるからである。
Ⅱ.新しいもろ刃の打穀機とする(15-16)
そんな虫けらのヤコブを、主は鋭いもろ刃の打穀機とすると言われた。その刃ですべての山々を踏みつけて粉々に砕く。また、丘をもみがらのようにする。ものすごい変容ぶりである。たとえ虫けらのような者でも上からの新しい恵みと力に満たされるなら、もろ刃の打穀機のようになることができる。人生には何と山の多いことか。目の前に山が塞がって前進できないことがある。しかし神は虫けらのヤコブを新しいもろ刃の打穀機のように変え、もろもろの山を、粉々に踏み砕くようにしてくださるのである。
Ⅲ.荒野に水が流れる(17-20)
それだけではない。ここには「悩んでいる者は貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。」(17)とある。外敵から救ってくださるだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださるというのだ。バビロンの捕囚となっていたイスラエルはあわれな身分であった。水を探し求めても得られず、舌が干からびるほどの渇きに苦しめられていた。しかし神は彼らに答え、その渇きを潤してくださった。主が彼らとともにおられ、彼らに答え、その渇きを完全にいやしてくださったのである。主は決して彼らを見捨てることはなさらない。
また、「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。」(18-19)とある。これはバビロン捕囚によって荒れ果てたイスラエルを回復してくださるという預言である。やがてもたらされる世の終わりの千年王国において、主は文字通りイスラエルを回復してくださる。しかし驚くべきことに現在のイスラエルとみると、この預言が少しずつ成就していることがわかる。今から二千年前にローマ帝国によって離散の民となったユダヤ人は、1800年代後半から祖国エルサレムに帰還するようになり、1948年にはイスラエル共和国として国を再興した。こんなことは人間的に考えられないことである。しかし、神はみことばの約束のとおりに神の民であるユダヤ人をエルサレムに戻し、国を立ててくださった。そればかりではない。400年間も続いたオスマントルコ帝国の支配の下、アラブ人たちによって木が伐採されたためその地はまさに裸同然となったが、その地に彼らは多くの木々を植林し、緑地化に成功した。彼らがこの100年間に植林した木は2億2千万本にも上る。砂漠のように荒涼とした地に水が流れ、今では農業が盛んな国になった。そして全世界にフルーツや花などを出荷するまでになったのである。まさにこのイザヤ書の預言が成就しつつあるのを見ることができる。
そればかりではない。この新しい創造はイスラエルの土地だけでなく、荒れ果てた私たちのたましいも潤してくださる。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)あなたもイエスのもとに行くなら、完全ないやしを得ることができる。荒野のように渇いた人生が、いつも主の恵みの泉を掘り起こす豊かな人生となるように、この方のもとに行き、絶えず恵みの水を飲み続けていく者でありたい。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたの中に、自分は虫けらのように価値のない存在でも鋭い、新しいもろ刃の打穀機のように変えられます。あなたの前にはどんな山が塞がっていますか。
・あなたのたましいは渇いていませんか。もし渇いているならイエスのもとに行って飲みましょう。あなたは神の聖霊に満たされることを求めて祈っていますか。