イザヤ53:1~6 レジュメ   

「最高の愛」                      N083

Ⅰ.だれが信じたか(1) 

 52:13から続く第四のしもべの歌の一部である。ここには、主のしもべはなぜ苦難を受けなければならなかったのか、その理由が語られている。それは、私たちの罪のためであった。それは身代わりの死だったのである。「私たちの聞いたことを、だれが信じたのか。主の御腕は、だれに現れたのか。」(1)「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのこと。このすばらしい救いの知らせをいっただれが信じたのだろうか?この箇所は、ヨハネ12:38とローマ10:16にも引用されている。そこには、この預言がイエスによって成就したにもかかわらずだれも信じなかった、とある。なぜだろうか?彼らが想像していたメシヤ像とあまりにも違っていたからである。彼らが信じていたメシヤは、イスラエルを軍事的、政治的に復興してくれる人であった。ローマの支配から自分たちを解放してくれるメシヤを待ち望んでいたのである。自分たちを罪から救ってくれる霊的メシヤなんてどうでもよかった。彼らの関心はこの地上のことだけであり、自分たちに物質的な繁栄をもたらしてくれるメシを待ち望んでいたのである。

それはどの時代も同じである。どんなに福音を伝えても、だれも信じない。われわれが聞いたことを、われわれが体験したことを、われわれが受けた良い知らせを、だれも信じようとしない。しかし、だからといって語ることを止めてはならない。なぜなら、そのような中にあっても、われわれが信じる者に変えられたのだから。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)信仰は聞くことから始まる。だから、信じてほしいと願うなら、何とかして、このキリストについての良い知らせを聞かせなければならない。そうすれば、だれも信じないと思えるような中にあっても、神は信じる人を起こしてくだるのである。

Ⅱ.さげすまれたしもべ(2~3)

では、主の御腕はいったいだれに現れたのか。2節には、「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。」とある。「若枝」とは「吸枝」(きゅうし)のことである。吸枝とは植物の根から最初に出る枝で、地面の下に根のように伸びる。これは「吸う」という言葉から派生した言葉で、赤ちゃんのようにおっぱいを吸うイメージだ。だから「若枝のように芽ばえ」とは、赤ちゃんのように全く力がなく、何かに頼らなければ生きていけないような弱々しい姿で生まれたということである。そればかりではない。主は砂漠の地から出る根のように育った。砂漠の地から出る根を見たことがあるだろうか。それはカラカラに干からびていて、死んだような状態だ。まさに主のしもべはそのようにして育った。だから、彼には見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(3)のである。

しかし、主の御腕は、このようなしもべに現れた。だから、見た目で善し悪しを判断してはならない。たとえ弱々しいから、たとえ干からびたようだからといって、のけ者にしてはならない。私たちが見とれるような輝きがないからといって、さげすんではならないのである。

Ⅲ.私たちの罪を負われたしもべ(4~6)

いったいなぜ彼は、そのようにさげすまれたのであろうか?なぜ病を負い、痛みをになったのか?それは私たちのためであった。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(4)それまでは、彼がそのようになったのは神に打たれたからだと思っていたが、その理解は間違っていた。このしもべの過ちに対する神の懲らしめだと思っていたのに、そうではなかった。それは私たちのためだったのである。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5)

ここに「刺し通す」とか、「砕く」とあるが、まさにキリストが受けた十字架の苦しみを表している。これはキリストが生まれる七百年も前に預言されたものだから、十字架を見て預言したわけではない。けれども、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写である。その十字架の痛み、苦しみは、いったい何のためだったのか?それは「私たちのそむきの罪のため」であり、「私たちの咎のため」であった。これは「私たちの代わりに」ということである。それは私たちの身代わりの死だったのである。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が身代わりに殺された。その血が注がれることによって罪が赦され、その肉が食されることによって、人々の肉体のいのちが保たれた。つまり、イエスはその神の小羊となって死なれたのである。

あなたは今、何で苦しんでいるだろうか?何を悩んでいるだろう。もしあなたが何かで苦しんでいるのなら、十字架のキリストを見上げてほしい。それはあなたのためであった。あなたが苦しまなくてもいいように、あなたの代わりにキリストが死んでくださったのである。あなたにとって必要なことは、あなたの代わりに死んでくださった神の小羊なるキリストを信じることである。そうすれば、あなたはすべての悩み、すべての痛み、すべての苦しみからいやされる。その苦しみのすべてを、キリストが代わりに受けてくださったからである。