イザヤ52:13-15 レジュメ  

「驚くばかりの恵み」                    N082

Ⅰ.高められた主のしもべ(13) 

 ここから53章の終わりまで、いわゆる第四のしもべの歌が続く。50:4~9までのところには、いったいどのようにして主のしもべは自分に与えられた使命を果たすのかが記されてあった。何とそれは受難を通してであった。ここでは、その苦しみはいったい何のためであったのかが語られる。すなわち、それは私たちの罪の代償の死であったということである。

まず13節には「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」とある。神の知恵と永遠の計画によって歩まれる主のしもべは栄え、他の何ものにも比べられないほど高くあげられる。ピリピ2:9~10には、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とある。主のしもべであるイエス・キリストは、それほどまでに高められる。私たちはこの方を見なければならない。

Ⅱ.低められた主のしもべ(14~15a)

いったいなぜ彼はそれほどまでに高められたのだろうか。それは、彼が何よりも低くなられたからである。14節には、「多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔立ちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―」とある。「あなた」とはイスラエルのことを指している。多くの人がイスラエルがバビロンに捕らえられ、そこで苦難を受けたのを見てショックを受けて驚いたように、主のしもべは激しい苦難を受けるということである。しかし、それはイスラエルのそれとは比べものにならないほどであった。その顔立ちは、そこなわれてもはや人のようではなかった。その姿も人の子らとは違っていたのである。それほどに彼は痛めつけられた。マルコ15:16~24を見ると、その時イエスがどのような苦しみを受けられたかが記されてある。彼は紫の衣を着せられ、いばらの冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫ばれ、あざけられた。葦の棒で頭をたたかれたり、つばきをかけられたり、あげくの果てに十字架に釘付けされた。

15節に、「そのように、彼は多くの国々を驚かす」とあるが、この「驚かす」という言葉は「振りかける」という意味の言葉である。何を振りかけたのか。勿論、「血」である。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)イエスは私たちの罪を赦すために十字架にかかり、血を注いでくださった。そこまで低くなられたのである。それは私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うためであった。それゆえに神は彼を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのである。

Ⅲ.賛美される主のしもべ(15b)

それゆえに、私たちは口をつぐまなければならない。ここには「王たちは彼の前で口をつぐむ。」とある。このような圧倒的な恵みの前に、もう何の言葉もない。あるのはただこの方に対する感謝と賛美だけである。

黙示録5章には、ほふられた小羊を前に、四つの生き物と二十四人の長老たちは、ひれ伏して、このように賛美した。「あなたは巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。・・・ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(5:9~13)

このことが私たちにも求められている。私たちはこの方を前にしてもう何の言葉もない。口をつぐむしかない。あるのはただこの方に対する感謝と賛美だけである。私のためにそこまでしてくださった主に、自分の全存在をもって賛美をささげるしかないのだ。

黒人奴隷を輸送して莫大な富を得ていたジョン・ニュートンは、ある日、奴隷を輸送していた船が嵐に遭い浸水、転覆の危機に陥り、今にも海に呑まれそうな船の中で必死に祈ったその祈りが聞かれた時、人間として最低の自分を救ってくれた神の恵みに対して「アメージング・グレース」と叫んだ。もう他に何のことばもなかった。ただ口を閉じるしかなかったのだ。

それは私たちも同じである。私たちはこの主のしもべであるイエス・キリストの十字架の御業を前にして口を閉じ、ただこの方の前にひれ伏して、感謝と賛美をささげるべきである。不平不満を言うべきではない。自分のことばかり語るのを止めなければならない。他の人のことを語ることもそうである。他の人のことを責めて、他の人を非難することも止めなければならない。なぜなら、イエスは私の罪も、また他の人の罪も全部背負って十字架で死んでくださったからである。

私たちは口をつむぎ、ただ黙って主の前にひれ伏し、圧倒的な主の恵みに対して、自分の心を注ぎだして賛美をささげなければならないのである。これが本当の礼拝である。それこそ私たちのために十字架にまでかかって低くなられ、今は何よりも高くあげられた主のしもべにふさわしい応答なのである。