ローマ人への手紙5章1~11節 「神との平和」

きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは、人は信仰によって義と認められるというテーマで語ってきました。すなわち、人はイエス・キリストの十字架の血潮を信じることで、悪魔と罪の支配から解放されるということです。これがローマ人への手紙の全体のテーマです。  ところで、このようにイエス様を信じて救われた人は、その後、いったいどのようになるのでしょうか。それがきょうのテーマです。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。第一のことは、信仰によって義と認められた人は、神との平和を持つようになります。第二のことは、それだけではなく、患難さえも喜ぶ力が与えられるということです。そして第三ことは、その根拠です。それは、信じる者に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

Ⅰ.神との平和(1-2)

まず第一に、1節と2節をご覧ください。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

これまでパウロは、信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、これまで述べてきたことを受けて、この5章ではその結果について語っています。信仰によって義と認められるとき、私たちの人生の中に、どのような実が現れるのでしょうか。ここには、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。これまで全くなかった神との平和が、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのです。逆の言い方をすると、私たちは10節にあるとおり「神の敵」であったわけですが、神のひとり子であられるキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれたことで、神様と私たちの間にあった敵意が取り除かれ、和解が実現したのです。

もし敵対関係のままであったとしたらどうなるでしょうか。それは人間関係に置き換えてみるとよくわかると思います。たとえば夫婦の間に亀裂が生じますと、お互いにイライラするばかりで平安がないばかりか、やがて離婚するしかなくなってしまいます。家庭においてはどうでしょうか。家庭に平和がないと地獄になってしまいます。なぜなら本来やすらぎを感じるはずの家庭に、やすらぎがなくなってしまうからです。これが国家間の関係になるとどうでしょうか。国家間に平和がないと戦争が起こり、世界中が大混乱になってしまいます。職場での最も多いトラブルは何かというと、給料の額の問題ではなく人間関係のトラブルです。それは実に耐え難いものがあります。いつも嫌な人の顔を見て仕事をしなければならないことに耐えきれず、辞めてしまうことさえあるのです。それは教会でも同じです。教会に平和がないと恵みも力もなくなり、争いが絶えないようになります。平和は人間が生きていく上で最も重要な原理です。その平和をもたらしてくださるのが神様です。この神との平和が基になってこの社会のさまざまな関係においても平和が生まれてくるのです。そしてこの神との平和は、私たちの主イエス・イエスキリストによって、与えられたのです。

それまで人間は神に対してどういう立場にあったのかというと、10節にあるように「敵」でした。神様との間に平和が無かったのです。いわば神様に敵対しているような状態だったのです。そういう人間が神様の前に出ようものなら、死ぬしかありませんでした。そのため旧約聖書の時代には、神に仕えていた祭司長ですら、御前に進み出ることができませんでした。神に近づくことのできる唯一の方法は、年に一度、過ぎ越しの祭りという祭りの大贖罪日に小羊の血をもって進み出ることでした。大祭司はその血を携えて、至聖所という奥の部屋に置いてあった契約の箱の上にその血を注ぎかけたのです。その血の注ぎによって、神の怒りがなだめられるためです。その際に大祭司は、二つの物を身につけて至聖所に入って行っきました。一つは腰に結びつけたひもで、もう一つが服に下げた鈴です。なぜこのようなものを身につけたかというと、かつてそのようにして至聖所に入って行った祭司たちの中であまりにも聖い神の御前に出ることができず、死んでいった人たちがいたからです。聖い神様の御前に出ることは、まさに命がけだったのです。そこでもし鈴がならなかったら、「あっ、死んだな」とわかりました。それでも人が中に入って行くことができませんから、ひもをつかんで引っ張り出したのです。そのひもと鈴です。神に敵対した罪深い人間にとって、神様の御前に進み出るということは、それほどそれほど恐ろしいことだったのです。

しかし、このイエス・キリストの血潮によって、この神様との間に平和が与えられました。大胆に神様の御前に進み出ることができるようになったのです。ヘブル人への手紙10章19節には次のようにあります。

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」

イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような恐れから解放され、大胆に御前に出ることができるようになったのです。そのことは、イエス様が十字架につけられた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたという出来事によってもわかります。マタイ27章51節です。

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

それまで神様と私たちとの間を隔てていた壁が完全に取り除かれたのです。このイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神様のみもとに行くことができるようになったのです。

パウロはこの事実を、2節のところで次のように言っています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」「いま私たちの立っているこの恵み」とは何のことでしょうか。このことです。神様の御前に恐れなく、大胆に進み出ることができるようになったということ。それまではまったく恐れの対象でしかなかった神が、幼子が「おとうちゃん」と言って父親の胸元に飛び込んで行くように、大胆に近づくことができるようになったことです。この「導き入れられた」ということばは「プロサゴーゲー」というギリシャ語ですが、「近づく」という意味のことばです。「連れて行って紹介する」という意味もあります。罪のために、聖い神様との関係が断絶している私たちの手を取って、父なる神様のみもとに連れて行って紹介し、父なる神様に近づくことができるようにしてくだったという意味です。その方法というか、手段が、私たちのために十字架にかかって、罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰だったのです。

何という恵みでしょうか。私たちはイエス様によって、この恵みの中に導き入れられました。私たちが何かをしたから、できるから、ということではなく、何もできないにもかかわらず、ただ信じることによってその道を開いてくださったのです。それゆえに私たちは、今、イエス・キリストの御名によって大胆に神の御前に進み出て、祈ることができるようになったのです。

Ⅱ.患難さえも喜ぶ(3-5a)

第二のことは、そればかりではなく、患難さえも喜ぶことができるようになりました。3~5節をご覧ください。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている新興宗教との大きな違いは、ここにあるのではないでしょうか。すなわち、一般的に言われている宗教では、患難、苦難を悪いものと見て、それから逃れる道だけを説きますが、キリスト教では必ずしもそうではないということです。キリスト教では、患難を必ずしも悪いものとして見てはいません。むしろ歓迎すべきものとして見ています。いや、ここでは患難そのものを喜んでいるとしるされてあります。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、この天国が約束されています。それは確実にもたらされるものなので、失望に終わることがないのです。

よくテレビやドキュメントレポートの中で会社のために自分の一生を捧げ尽くした人の姿が映し出されることがありますが、にもかかわらず晩年に会社に裏切られたとか、自らの歩みを振り返って虚しくなったと言われる方が少なくありません。そうだとしたら、それはなんと惨めなことかと思うのです。しかし、この希望は失望に終わることがありません。

そのような希望はいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。患難です。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していくのです。だから患難さえも喜ぶことができるのです。苦しみはできたら避けて通りたいものですが、しかし、そうした苦しみが精錬された金のように私たちを一回りも二回りも大きく成長させ、やがて天国へと導いてくれるのであれば、むしろそれは喜ぶべきものなのです。ですからヤコブは次のように言っているのです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

信仰が試されると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となることができるのです。 いわば練られた品性が生み出されるのです。もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることでしょう。この「練られた品性」ということばは「試験済みの」という意味のことばです。、それは、テストに合格した状態の、円熟した性質、練達した人柄のことを指しています。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言いました。その工程を見るならうなずけるに違いありません。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされます。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出されます。人が神によってそのように取り扱われるなら、円熟した品性が生み出されるのです。

聖書には、このような神の取り扱いを受けた多くの聖徒たちが登場していますが、そのひとりが創世記に登場しているヤコブでしょう。彼は生まれながらにずる賢い性格で、生まれた時にも双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれたきたほどです。そしてその生涯も自らの利益のためには他者をだましてそれを奪い取るという醜いものでした。そんなヤコブを神様は何度も何度も取り扱われました。父と兄をだまし、家を去り、それ故に叔父のラバンの下に身を寄せましたが、今度はラバンからだまされます。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けていました。そうした人生の苦しみを通して彼は、神を求め、何度も何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至ったのです。そこには練られた品性がありました。それがイスラエルです。彼はラバンのもとから帰る途中でヤボクの渡しというところを通ったとき、そこで一晩中神と格闘し、そのもものつがいを打って足を引きずらなくてはなりませんでしたが、そうした格闘を通して彼は、イスラエル、すなわち神こそ勝利であることを悟ったのです。  それは彼がラバンの下から出て行くときに見られます。難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼びました。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとしていたからです。しかし、ヤコブは何と名付けたでしょうか。「ベニヤミン」です。「(私の)右手の子」という意味です。  苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも彼は希望を見出したのです。そのような人こそ、熟練された人です。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事でしたが、その中でもヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出したのです。そこには神に取り扱われた者の姿がありました。  このような姿を見るとき私たちは、「練られた品性が希望を生み出す」ということに対して、アーメンと言えるのではないでしょうか。

口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなりましたが、その療養中にイエス様を信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。  元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。  そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」 「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」  星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。  幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。  その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)  生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを、誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あっても、そのつらさや苦しみを、誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。  それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったのです。「ことばの雫」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。

「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」

まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。

Ⅲ.神の愛が注がれているから(5b-11)

第三のことは、その根拠です。どうしてこの希望は失望に終わることはないのでしょうか。なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」5節後半のところにそのようにしるされてあります。このことは、私たちが大きな患難に直面したとき、それに対してどのように自分の感情をコントロールしたらよいかということを、この箇所が教えているのではないということを示しています。最近では、このような心理学的なアプローチを、あたかも聖書の教えであるかのように語る人がいますが、それは福音ではありません。私たちが患難を喜ぶことができるのはそのように考え方の問題ではなく、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているという事実に基づいているのです。聖霊によって神の愛が私たちの心に満たされるとき、平安と喜びと希望に満ち溢れ、どんな患難が襲って来ようとも、それさえも喜ぶことができるようになるのです。では、その神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値とない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったとき」ということばで、もう一つは「不敬虔な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力の欠如を表していることばです。つまり、霊的無能力であったということです。たとえば、パウロはエペソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エペソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があると人間はどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にはあるわけです。

もう一つの不敬虔な者というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。1章のところで見てきたように、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりました。不敬虔な者とはそういうことです。    それから罪人ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。

このような人間には、神の怒りが天から啓示されているということについては先に述べてきたとおりですが、ここではそのような人に対して、キリストが死んでくださったことによって、ご自分の愛を明らかにしてくださったというのです。神は罪を憎まれますが、同時に罪人を愛されるのです。そしてどんなに深く罪人を愛しておられるかということは、その尊いひとり子を犠牲にされたことによって、表してくださいました。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人も、中にはいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し、神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために、死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま、私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にないのです。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。

私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活の中にその力が全然見られないではないか」・・・と。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。

秋田の松山裕先生は、「あなたを生かすこの愛」という本を買いおられますが、まさにこの愛が私たちを生かすのです。そして、この愛こそこれから復興に向かうこの国にとって最も必要なものではないでしょうか。なぜなら、この希望こそ失望に終わることがないからです。この国がこの確かに希望によって、新しい一歩を歩んでいくことを願ってなりません。