きょうは「罪よりも大きな神の恵み」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロはこのローマ人への手紙の中で、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって、価なしに義と認められるということを語ってきましたが、この5章に入って、ではそのようにして罪から救われた人はどのようになるのかについて語りました。すなわち1節にあるように、信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持つことができるということです。いやそればかりではありません。患難さえも喜ぶことができるようになりました。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
きょうの箇所はこれまで語ってきたことのまとめです。12節には、「そういうわけで」とあります。「そういうわけで」というのはどういうわけでかというと、これまで述べてきたように、すべての人は生まれながらに罪を持っており、その罪のゆえに神の怒りを受けて滅びるしかない者でしたが、あわれみ豊かな神様は、ひとり子イエス・キリストによって救われる道を用意してくだり、その御子を信じる信仰によって、義と認めてくださったということです。きょうのところには、その神の恵みがどれほど大きなものなのかがしるされてあります。
きょうは、この神の恵みについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、最初の人、アダムの罪の大きさについてです。アダムが神の命令に背いてしまったことで罪が世界に入り、その罪が全人類に広がってしまいました。第二のことは、その罪にもまさる神の恵みです。第三のことは、その恵みを受けるにはどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストを信じなさいということです。
Ⅰ.ひとりの人によって全人類に死が(12-14a)
まず第一に、アダムの罪の大きさについて見ていきたいと思います。12~14節をご覧ください。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。」
ここには、最初の人アダムの罪がこの人類にもたらした影響がいかに大きいものであったかが述べられています。ひとりの人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。いや、これはアダムだけの問題ではありません。私たち全人類の問題なのです。なぜなら、アダムは人類の代表者だからです。アダムが罪を犯したということは、私たち全人類が罪を犯したことになるのです。これがいわゆる「原罪」と言われているものです。現代の人は、人は生まれながらに罪を持っているということをなかなか受け入れることができません。アダムという自分とは関係のない人が行った罪の責任を、どうして自分が引き受けなければならないのかというのです。特に知識人たちは、これを「非合理でばかばかしい話だ」と言って顔を背けます。パスカルはその著「パンセ」において、「原罪は人間の目で見ればとてもこっけいなものだ。理性でこの原罪を理解することはできない。なぜなら原罪という教えは理性に背くものだからだ。理性は、自分の方法で原罪を考え出すことはできない」と言いました。
しかし、聖書は繰り返し繰り返し、このアダムが罪を犯したことで、全世界に罪が入り、それがすべての人に及ぶようになったと言っています。そのことは、15~19節の中で「ひとりの違反によって多くの人が死んだ」という表現が5回も述べられていることからもわかります。あのアダムの罪が、私たちひとりひとりの個々の罪につながっているのです。言い方を変えますと、アダムにあって、全人類は罪を犯したのです。それは神学者のシェッドやストロングが言ってるように、遺伝的な伝わるのか、あるいはホッジという神学者が言っているように、転嫁によるのかはわかりませんが、はっきり言えることは、聖書は、母の胎に存在したときから私たちは、罪を持っているということです。
私たちが置かれている状況や環境の大部分は、自分の意志とは関係なく一方的に与えられたものです。たとえば、私たちは日本人に生まれたくてそうなったのではなく、生まれた時から日本人でした。また、お金持ちの家に生まれたくてそうなったのではなく、あるいは貧乏人の家に生まれたくてそうなったのでもありません。こうした環境や状況といったことは、自分とは全く関係のないところで起こったことなのです。同じように、私たちが罪を持って生まれたきたというのも私たちがそうしたいからそのようになったということではなく、生まれたときからそうだったのです。これは認めようが認めまいが事実なのです。それが12節で言ってることです。人類の始祖であるアダムが、神様の御前に不従順の罪を犯したことで、全人類が堕落し、その罪が転嫁されました。人類はアダムにあって一つの運命にほかならないのです。
それは、たとえばサッカーのワールドカップで、自分の国が勝った時に発する言葉を聞いてもわかるでしょう。私たちは自分の国が他の国と試合をして勝ったとき何と言うでしょうか。「私たちは勝った!」と言わないでしょうか?私たちが試合をしたわけでもないのに、「私たちは勝った」と言います。なぜなら、11 人のイレブンは、自分たちの国を代表して勝ったからです。これが代表性の原理と言われるものです。
霊的な世界において、この代表性の原理を理解することはとても重要なことです。一人の人の罪によって皆死ぬことがある一方、一人の人の従順によって全人類が救われることもあるからです。ですから、この全体の代表である一人が重要なのです。イスラエルの歴史をみるとどういう時代が祝福されたかというと、優れた指導者が統率した時代でした。すなわち、ダビデのように神様を畏れ、神様のみこころにかなった王様が指導した時は国の状態も良くなりましたが、神様のみこころにかなわない悪い王様が統率した時は、ひどい状態になりました。
これは一般の歴史においても言えることです。指導者が国を左右するのです。西洋のことわざに「獅子が統率する羊の部隊は、羊の統率する獅子の部隊よりも強い」とありますが、まさにそのとおりです。指導者で決まります。いくら獅子の隊員がしっかりしていても、指導者が羊ならば弱くなりますし、逆に、指導者が獅子のように勇敢で、野性味に溢れているなら、羊の部隊を率いてもたやすく勝利することができるのです。それは家庭でも同じです。家庭で家長がみことばに立ち、絶えず祈り、霊的にまっすぐに立っていればその家には神様の恵みに溢れるようになりますが、そうでないと、倒れてしまいます。それは教会においても同じです。教会でも牧師が神様の前に直ぐな気持ちで立って、祈りに徹し、みことばに従い、忠実に仕えるなら教会全体に祝福が臨みますが、そうでないと、教会は決して祝福されません。その鍵を握っているのが牧師なのです。これは会社の指導者であれ、地域の指導者であれ、国の指導者であれ、共同体を導く立場におられるすべての人に言えることです。立つも倒れるも指導者いかんで決まるのです。ですから私たちは、そうした指導者たちのために祈らなければなりませんし、私のためにも祈っていただきたいのです。
最初の人間アダムは、私たち人類の代表でした。アダムにあって人類は一体なのです。そのアダムが罪を犯したので罪が全世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がりました。私たちはだれひとり例外なしに、この原罪を持っているために、たとい恐るべき罪を具体的に犯していないとしても、罪人であり、死ぬべき者にすぎないのです。
Ⅱ.罪よりも大きな神の恵み(14b-21)
ではどうしたらいいのでしょうか。神様は、このような人類をあわれんでくださいました。それがイエス・キリストの恵みです。14の後半をご覧ください。ここには、「アダムはきたるべき方のひな型です」とあります。「きたるべき方」とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。このところでパウロはキリストを第二のアダムとして描き、この両者を対比させることによって、この神の恵みの大きさを説明しています。すなわち、アダムにあって全人類が罪に陥ったのと同じように、イエス・キリストにあって全人類が救いに至るようになったということです。アダムひとりによって全人類に死が臨みましたが、今は第二のアダムであるイエス・キリストによって、信じるすべての人に救いといのちが与えられたのです。
しかし、最初のアダムと第二のアダムとの間には、大きな違いがあります。それは、第二のアダムであるイエス・キリストの恵みは、満ち溢れているということです。15~17節をご覧ください。
「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
ここにはその満ち溢れた神の恵みが強調されています。15節には、「それにもまして、・・多くの人々に満ちあふれるのです」とありますし、17節にも、「なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々」とあります。20節にも「恵みも満ちあふれました」とあります。ここではアダムの違反と比べて神の恵みがどれほど大きいかが表されています。それが「それにもまして」とか「なおさらのこと」です。アダムによって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、ひとりの違反によって死が支配するようになったのだとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、イエス・キリストによっていのちが支配するのです。ちょうど光のようにです。光が差し込んでくればやみが追放されるように、どんなに死に支配されようが、イエス・キリストを信じるならば、やみが消え去るのです。なぜなら、キリストは三日目に死人の中からよみがえられて、今も生きておられるからです。このイエス・キリストにあって、なおさらのこと、いのちが支配するようになるのです。この「それにもまして」とか「なおさらのこと」という言葉はギリシャ語で「ポロー・マロン」という言葉ですが、救いのすばらしさを表すのに使われている言葉です。たとえば、同じ言葉がこの5章9節と10節でも使われています。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
すばらしいじゃないですか。私たちは罪によって神の敵でありましたが、キリストの血によって義と認められ、神と和解させられたのならば、このキリストのいのちによって救われ、大胆に神に近づくことができるのは、なおさらのことなのです。神の恵みはそれ以上なのです。もっと大きいのです。同じようにここでも、最初の人であったアダムが犯した罪というのはたった一つの罪で、それによって全人類が罪に定められましたが、神のひとり子であられたイエス様が十字架で成し遂げられた救いの御業は、アダムが犯した罪、原罪ばかりでなく、私たちが日々犯している数々の罪までも洗いきよめ、すべての罪から救い出してくださるというのです。なんと大きな恵みでしょうか。私たちのすべての罪は、キリストの十字架の上に置かれ、キリストがその身代わりとなって償いをしてくださることによって、過去の罪だけでなく、現在の罪も、いや未来に犯すであろう罪のすべての罪が赦されたのです。それが16節にしるされてある「一つの違反」と「多くの違反」の対比です。神の恵みはそれほどまでに溢れているのです。満ちあふれることが、神様が下さる恵みの特徴の一つです。特に神の恵みが最も多く記されているエペソ人への手紙の中には、この恵みについて次のようにしるされてあります。
「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(1:7)
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」(3:20)
神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことでも聞いてくださるのだろうか」と疑いながら祈ることもありますが、神様は恵みは、私たちの予想や期待をはるかに超えて、あふれるばかりに注いでくださるのです。ダビデは詩篇23篇で、
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(23:5~6)
と歌いました。また、ヨハネの福音書2章をみると、カナの婚礼においてイエス様の母マリヤが「ぶどう酒がありません」と言うと、イエス様は、80~120リットルの水がめに水を満たし、その水をぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えてくださいました。
また、ヨハネの福音書6章には、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されてありますが、男だけで五千人もの人たちが空腹であったとき、イエス様は彼らの空腹を満たしてくださいました。しかもかろうじて満たしたという程度ではありませんでした。余りが大きなかごで12もあったほどです。あまりは12かごです。全員がお腹いっぱい食べてもなお12のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神の恵みです。神様の恵みはあまりにも大きいので、あふれ出るのです。
Ⅲ.イエス・キリストの恵みによる賜物(14b-21)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですら第三のことは、主イエス・キリストを信じなさいということです。15~21節のところをもう一度見てみましょう。このところでパウロは、キリストを第二のアダムとして最初のアダムと比較させ、その救いの恵みの大きさを語っていると言いましたが、それと同時に、ここではどうしたらその恵みを受けることができるのかということについても述べています。それは主イエス・キリストを信じることによってです。アダムの場合はアダム一人が罪を犯したことで、自動的にすべての人に罪が入りましたが、キリストによる神の恵みの賜物は、自動的にもたらされるものではありません。神の恵みはすべての人に差し出されていますが、それはアダムのように自動的にもたらされるのではなく、それを受け取らなければなりません。それが「信仰」です。ここに「賜物」とあるのはそういう意味です。これは神からの賜物、プレゼントです。どんなにすばらしいプレゼントでも、それを受け取らなければ自分のものにならないように、このキリストの恵みによる賜物も、すべての人に差し出されていますが、受け取らなければそれを自分のものにすることはできません。ここにアダムの代表性とキリストの代表性の違いがあります。すなわち、アダムの代表性は自動的に私たちの上に臨みますが、イエス・キリストの代表性は、信じるときにのみその効力があるということです。ですからヨハネの福音書1章12節には、
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
とあるのです。誰に神の子としての特権が与えられるのでしょうか。「この方を受け入れた人々」「すなわち、その名を信じた人々」にです。イエス・キリストの十字架以外に救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。それは一方的な神からの恵みによる賜物でした。私たちは、それを信じさえすればいいのです。信じる者は救われます。しかし、信じない人は罪に定められます。せっかく神様が恵んでくださったのに、それを受け取らなかったとしたら、罪に定められたとしても仕方ないでしょう。 昔、荒野でイスラエルが蛇にかまれたとき、神様はモーセに「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上にかかげるように」と言いました。それを仰ぎ見る者が救われるためです。仰ぎ見ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。首をちょっと上げるだけのことです。いや首を上げなくても、目を向けるだけです。何も難しいことはありません。 また、神様は昔ノアに箱舟を造り、その中に入るようにと言われました。舟の中に入ることが難しいことでしょうか。簡単なことです。スロープもついていますから・・・。 なのに多くの人々は、こんなに簡単なことをしないのです。私たちがそんなに簡単に救われたのでは申し訳ないと、あえて自分からハードルを高くして難しくしているのです。それが人間の姿です。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないようなことを要求する新興宗教に、多くの人々が列をなして入っていくのです。しかし、救いは難しいものではありません。神様の恵みの賜物を、ただ受け取りさえすればいいのです。
皆さんは、イエス・キリストが人生の主人であり、たましいの船長だと正直に告白することができるでしょうか。皆さんを天国に導くことができる方は、イエス・キリストであると信じてください。皆さんを天国に導くことができるのは、皆さんの成功や、名誉や、財産によるのではありません。私たちが救われるために、私たちができることは何もありません。私たちができることはただ信じることです。私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じる以外にはないのです。それ以上でも、それ以下でもありません。天国に入ることができるのは、ただ一つ、「恵み」のゆえなのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
日本では今、巨大地震・巨大津波・原発事故の被害で、戦後、最大の危機を迎えています。しかし、それがどんなに大きな災害でも、神の恵みはそれ以上です。神様は必ずこの国を復興してくださいます。神の恵みははるかに大きなものだからです。私たちが属している保守バプテスト同盟のいくつかの教会が、今回の地震で被災しましたが、その中に全教会員200名とその家族がすべて、退避命令が出て、山形や会津などに避難している、福島の福島第一聖書バプテスト教会があります。その教会の牧師である佐藤先生のメールには、次のような内容が記されてありました。「なによりの奇跡は,誰からも「どうして神は私たちをこんなめに遭わせるんだ」とか、「神はいない、もう信じない」とのことばが聞こえてこないことです。所在の確認がとれたた160名の兄弟姉妹からは口々に,「主はすばらしい」とか「これからはもっと,神を信頼して歩んでいきたい」との報告が届いています。彼らはいつから,こんなに信仰が強くなったのでしょう。また、「昨日はともに旅をしている方の3名の方が涙とともに,信仰告白をし,イエス様を受け入れました。ハレルヤ。天でどれほどの喜びが起こったことでしょう。重苦しい震災の中で見る,何よりの実です。」とありました。
何と大きな恵みでしょう。この恵みが私たちを生かすのです。私たちはますますこの神の恵みに信頼して歩む者でありたいと思います。