きょうはイザヤ書54章から、「あなたの天幕を広げよ」という題でお話したいと思います。前回私たちは、このイザヤ書のクライマックスとも言える部分を学びました。それは、神が選ばれたしもべは苦難のしもべであったということです。主は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれたのです。いったいそれは何のためだったのでしょうか?それは、私たちのためでした。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。そして、その結果、どうなったのか?それが、この54章にあります。それは一言で言えば「回復の約束」です。神に捨てられたようなイスラエルが回復し、大いなる期待と喜びをもって祖国に帰るのです。そして、イスラエルという国をもう一度再建してくださる。いったい神はどのようにしてイスラエルを回復してくださるのでしょうか。
Ⅰ.あなたの天幕の場所を広げよ(1-3)
まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節をお読みします。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもより多いからだ」と主は仰せられる。」
「子を産まない不妊の女」とは、イスラエルのことです。また、「産みの苦しみを知らない女」というのもイエスラエルのことです。彼らはバビロンによって滅ぼされ、子を産まない女のようでした。そんな彼らに対して、主は「喜び歌え」とか、「喜びの声をあげて叫べ」と言われました。なぜでしょうか?なぜなら、夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからです。これはどういうことでしょうか?「夫に捨てられた女」、これもイスラエルのことです。彼らはB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民となりました。それはまさに、夫に捨てられた女のようでした。しかし、後の日にはそうではありません。彼らは夫のある女の子どもよりも多くなるというのです。これまで何の問題もなく子どもを産み続けた普通の女よりも、はるかに多くの子孫を生み出すのです。
それはちょうど旧約聖書に出てくるハンナのようです。彼女は不妊の女で、子どもを産むことができませんでした。夫のエルカナにはペニンナというもうひとりの妻がいて、彼女は子宝に恵まれていてたくさんの子どもがいました。そのことでハンナは辛くて、苦しくて、もうどうしようもないので、もだえながら、主の宮で祈りました。すると主は彼女の祈りに応えてくださり、サムエルという男の子が生まれました。それだけではありません。その後、七人の息子や娘を産んだのです。彼女はこう言っています。「不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。」(Iサムエル2:5)
これを他の言葉で言うなら、「とてつもない回復」というでしょう。かつてのイスラエルには考えられないほどの祝福がもたらされるのです。それは、今、住んでいるところが手狭(てぜま)になるほどです。そこで主はこう仰せられます。2節と3節ををご一緒に読みましょう。「2あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。」
イスラエルはバビロンによってすべてを失いましたが、主はもう一度回復してくださいます。彼らは右と左にふえ広がり、彼らの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするようになるのです。ですから、あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばさなければなりません。綱を長くし、鉄のくいを広げなければならないのです。
今でも、中東にはベドウィンといって遊牧民がいますが、彼らは家族が多くなってテントが手狭になったら、その幕をつなぎ合わせてさらに大きく張り伸ばします。このように、イスラエルは子孫が増えて自分たちが住むところを広げてくださるのです。そして今、その成就の一部を現代のイスラエルに見ることができます。A.D.70年にローマによって滅ぼされ全世界に散り散りに散らされたイスラエルは、神の約束に従ってパレスチナに帰還するようになり、ついにイスラエル共和国という国を樹立しました。それは1948年5月のことでした。その後、イスラエルにはさらに多くの民が帰還し1980年には375万人が、そして昨年2013年には787万人と増え続けています。まさに聖書に約束されてある通りです。彼らは右と左に増え広がり、荒れ果てた町々を人の住む所とするようになります。だから、あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければならないのです。
それはユダヤ人だけに約束されていることではありません。救い主イエス・キリストを信じて救われた者たち、すなわち神の民であるクリスチャンにも言われていることです。やがて神はイエス・キリストを信じて救われる人たちを爆発的に増やしてくださいます。今は子を産まない不妊の女のようであるかもしれませんが、やがて夫のある女の子どもよりも多くしてくださるのです。
MTCの奥山先生のお話によると、今、中国や台湾、シンガポール、マレーシヤなど、アジアの諸国では爆発的にクリスチャンが増えているそうです。特に中国では、急激な経済成長に伴ってモラルが著しく低下し、こうした現状を打開するには宗教の力がないと難しいと、宗教に対して寛大な政策をとっているのです。かつては「キリスト教徒の広がりは共産政権を脅かす」と厳しく取り締まっていたのに今ではそうではないため、国の公認教会に限らず地下教会でも爆発的に増えているのです。また、ロシアでも同じように爆発的に増えています。今では国の約7割がロシア正教徒だといいます。共産主義が崩れて以降、新しい国の立て直しをキリスト教に期待しているのです。これまでは南米やアフリカでクリスチャンが爆発的に増えていましたが、今はこうした国々でも同じようなことが起こっています。いずれ日本も必ずそうなるでしょう。それが神の約束なのですから。
ですから、私たちは天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り延ばさなければなりません。綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければなりません。そうなってからではなく、必ずそうなるのですから、その前に準備しておかなければならないのです。
ところで、このみことばは18世紀にインド宣教に行き、宣教の父と言われたウイリアム・ケアリを世界宣教に駆り立てたことばでもあります。彼はこの聖句から、次のように言いました。「神に大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」神が広げてくださるのですから、その神に大いなることを期待するように、と言ったのです。
また、救世軍の父ウイリアム・ブースの母親は、彼がまだ幼い頃からいつもこう言い聞かせて育てました。「世界があなたを待っている」と。あなたはこれからどんどん成長して、神の大きな働きのために用いられていく器になる、と言って育てたのです。彼女は、神の大いなる計画の中でウイリアムを用いてくださるということを確信して、常にそう言い聞かせてチャレンジしてきたんですね。
それは私たちも同じです。私たちも、神に対してもっと大きなことを期待すべきです。もっと大いなることを企てるべきです。神の栄光のために。私たちの栄誉のためではなく、神の栄誉のためにです。どうか、私たちの天幕の場所を広げようではありませんか。その住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしようではありませんか。そして、神が成し遂げてくださる祝福をしっかりと受け止めていこうではありませんか。
Ⅱ.あなたは恥を見ない(4-6)
次に4節~6節までをご覧ください。4節には、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分が若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。」とあります。
「若かったころの恥」とか、「やもめの時代のそしり」とは、イスラエルがバビロンに捕えられていた時のことを指します。彼らは言葉を失い、文化も失い、自由にイスラエルの神を礼拝することもできませんでした。もちろん、神殿も失いました。それは彼らにとってまさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。しかし、もう何も恐れることはありません。彼らはもう恥を見ることがないからです。
5節をご覧ください。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。」
ここで神は、ご自分のことを「あなたの夫」と言っています。「あなたの夫はあなたを造った者」であると。つまり、神とイスラエルが夫婦の関係にたとえられているのです。では「あなたの夫」はどのような方でしょうか。あなたの夫はあなたを造られた方です。その名は万軍の主。イスラエルの聖なる方であり、全地の神です。その方がイスラエル夫です。であるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる必要はありません。この方が責任をもって彼らを救われるからです。
そして、6節にはこうあります。「主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。」
神とイスラエルとの関係は、初めから夫婦の関係でした。愛と真実に基づく契約関係にあったのです。にもかかわらず、イスラエルはその夫である神に背いて姦淫の罪を犯してしまいました。偶像を拝んだのです。それで神は彼らを一時的に捨てられたのです。ですから、彼らはここで夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼ばれているのです。バビロンに捕らえられていた時はまさにそのような状態でした。しかし、神はそんなイスラエルをお見捨てにはなりませんでした。「若い時の妻をどうして見捨てられようか」というのです。勝手に裏切って結婚関係を破ったイスラエルを、新婚の時の花嫁のように見ておられるのです。どんなことがあろうとも神の愛は変わりません。私たちは不真実でも、神は常に真実です。私たちと交わされた契約を最後まで忠実に守られるのです。
皆さん、聖書には教会はキリストの花嫁だとあります。花婿であるキリストがご自身の血をもって贖ってくださいました。ですから私たちはキリストという花婿と結ばれたわけです。私は男ですが花嫁です。ちょっと変な感じもしますが、まあそれはどうであれ、結婚のように強く結ばれた関係にあるのです。ということは、花婿であられるキリストは、どんなことがあっても私たちを見捨てるようなことはされません。最後まで守ってくださいます。
ただ、今はまだ正式に結ばれているというよりも、婚約関係にあるといった方がよいかもしれません。というのは、キリストはまだ再臨していないからです。キリストが再び来られるその時、私たちは正式にキリストと結ばれてキリストの花嫁となります。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。それを黙示録では何と言ってるかというと「小羊との婚姻の時」(黙示録19:7)です。まさに結婚する時なのです。ということは、もしかすると婚約解消なんてあるんですか?ありません。なぜなら、そのための保証があるからです。聖霊様です。神様は、私たちがいつか必ずイエス様と結ばれるように、その保証として、ご自身の聖霊を与えてくださいました。ですから、それは必ずそうなるのです。その時私たちはいつまでも主とともにいるようになります。どんなことがあっても見捨てられることはない。これは本当に大きな慰めではないでしょうか。
Ⅲ.永遠に変わらない愛(7-10)
最後に7節から10節までをみて終わりたいと思います。まず7節と8節をご覧ください。「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。 怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。」
主はほんのしばらく間、イスラエルを見捨てました。70年の間、バビロンに渡されたのです。しかし、それはほんのしばらくのことでした。離縁状を与えて完全に間されたのではありません。それはほんのしばらくのことでした。ですから、見捨てたというよりも一時的に懲らしめを与えられたといった方がいいでしょう。本来なら永遠に捨てられてもおかしくなかったのに、神はそのようにはなさいませんでした。ほんのしばらくの間、彼らを見捨てましたが、その大きなあわれみをもって、彼らを集めてくださったのです。
この「あわれみ」という言葉は、「内蔵」という言葉がもとになったもので、内蔵を揺り動かすほどに心を動かし、深く同情するという意味です。一方的に神を裏切ったイスラエルを、平気で神に背いたイスラエルを、ほんのしばらくの間見捨てることはしても、その大きなあわれみをもって、再び集めてくださるのです。「自分はあんなことをして、こんなこともした。何度も何度も神を悲しませた。こんな者が許されるはずがない。」いいえ、違います。神のあわれみは尽きることがありません。無尽蔵です。無限です。それは計り知れない大きなあわれみなのです。そして、あなたもそのあわれみの対象にあるのです。
8節を見てください。ここには「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。」
皆さん、主は永遠に変わらない愛をもってあわれんでくださいます。結婚式の中では誓約があります。「あなたは今、この男女と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたはあなたはその健やかなる時も、病める時も富める時も、貧しき時も、常に助けて変わることなく愛し、敬い、慰め、助けることを誓いますか。」しかし、どれだけの誓いが果たされているでしょうか。しばらく前のことですが、日本では結婚した約四分の一のカップルが離婚していると言われています。二分四十八秒に一組の夫婦です。どちらか一方が契約を破ると、その時点で契約不履行となってしまいます。しかし、神はどんなに私たちが裏切っても、ご自分が結んだ契約を破棄されることはなさいません。最後の最後まで守られるのです。神の愛は永遠に変わることがないのです。私たちが神に従うか従わないかということと全く関係なく、神は一方的に愛してくださるのです。
それは、私たちがしばしば耳にする「もしも」の条件付きの愛ではありません。もしもお金があるなら、もしも健康なら、もしも才能があるなら、もしも自分の言うことを聞いてくれるなら、もしも料理が上手なら・・・といった条件は付いていません。それは「にもかかわらず」の愛なのです。つまり、無条件の愛です。それは、イエス様が十字架で示してくださった愛なのです。
ローマ人への手紙5章6~8節にこうあります。 「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
キリストは私たちがまだ弱かったときに、いや、神に敵対していた罪人であったにもかかわらず、自ら進んで十字架にかかって死んでくださいました。正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。情け深い人のために死ぬ人は、あるいはいるでしょう。しかし、罪人のために死ぬ人がいったいいるでしょうか。いません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人であったにもかかわらず、そんな私たちのために死んでくださることによって、神の私たちに対する愛を明らかにされたのです。つまり、愛とは、人のために命を捨てるほどの、きびしさを持つものなのです。しかし果たして、私たちの愛はそれほど真実でしょうか。
作家の三浦綾子さんが、「道ありき」という小説の中で、ご主人の三浦光世さんと二人で道を歩いていて、もし熊が出たら、ご主人をおいて逃げ出すだろう、と言っています。三浦綾子さんは旭川生まれの、旭川育ちでしたから、小さい時から、熊の話をよく聞いて育ちました。ですから、熊にはとても敏感だったようですね。その熊が出たら、旦那さんなんておいて、一目散に逃げていくというのです。この旦那さんはとても誠実な方です。三浦綾子さんが脊椎カリエスという病気で12年間も入院していたときも、療養中の彼女を5年も待って、二つ年上の彼女と結婚してくれた人です。これが、病気が治ったからいいものを、直らなかったらずっと待っていたかもしれないのです。だから、旦那さんには、もちろん感謝の思いをこめて愛しているつもりなのですが、それはあくまで、つもりであって、いざとなれば何をするかわからないというのです。熊に出会っても、「光世さん、わたしが食われてあげるから、あなたは早く逃げてちょうだい」などとは決して言わないだろう。彼を熊の方に押しやり、自分一人、さっさと逃げてくるに違いない、というのです。いざとなれば、そんな残酷さ冷酷さをむき出しにするかもしれないのが、人間なのです。しかし、神の愛は違います。神は、ご自分の最も大切ないのちを捨ててまで愛してくれるのです。これがキリストの十字架の愛なのです。
昭和29年9月に津軽海峡で洞爺丸事件が起こりました。これは青函連絡船洞爺丸が台風15号によって転覆し、死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶという、日本海難史上最大の惨事となった事件です。この洞爺丸が、函館の七重浜(ななえはま)に転覆した時、救命具が足りませんでした。この時、この洞爺丸に乗っていた二人の宣教師ディーン・リーパーさんとアルフレッド・ラッセル・ストーンは、自分の救命具を、二人の日本人青年男女に、それぞれゆずったのです。 「今の日本に、若いあなたたちこそ必要なのだ」 と、宣教師は言ったそうです。この二人の宣教師は、異郷の海でその最期を遂げました。この時リーパーさん33歳、ストーンさん52歳でした。リーパーさんは奥様と四人の子供さんを遺して亡くなられたそうです。
嵐の中で、自分の乗っている船が転覆した時、果たして、私たちは自分のつけている救命具を他の人にゆずるという、犠牲的な行為をすることができるでしょうか。みんなが必死の時です。一旦身につけた救命具を、わざわざひもといてやることは、誰も強いはしません。たとえやらなくても、誰も非難などはしません。誰も生きたいのです。他人のことなど思いやる余裕もない時なのです。そんな緊急の時に、この二人の宣教師は、見も知らぬ、行きずりの他国の若者に、自分のいのちを救うべき、救命具をゆずったのです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。
キリストはあなたや私、そして世界中のすべての人々の罪を救うために、十字架にかかり身代わりとなって死んでくださいました。あなたや私がどのような人間であるかいったことと全く関係なく、です。あなたは無条件で愛されているのです。どうかこの尊い救い主を信じて永遠のいのちをご自分のものとしてください。そうすれば、あなたも慰めを受けます。どんなに困難で絶望的な状況にあっても落ち込むことがなく、いつまでも変わることのない希望を喜び歌うことができるのです。
9節と10節をご覧ください。9節です。「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。」10たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」
「このこと」とは、神がイスラエルを二度と怒ったり、責めたりしないという誓いのことです。それはノアの日のようです。神はノアの時代に洪水によってこの地を滅ぼされましたが、もう二度と洪水でさばくことはしないと約束されました(創世記8:21,9:11)。その約束のしるしが虹でした。その虹を見るとき、そのさばきを思い直されたのです。それと同じように、神は十字架をご覧になられる時、彼を信じるすべての人を決してさばかないと約束してくださいました。十字架はその契約のしるしです。あなたが、あなたの罪の身代わりに十字架につけられて死なれたイエスを仰ぎ見るなら、あなたがイエスを自分の救い主として信じるなら、神の怒りがあなたに臨むことは決してないのです。キリストがそのさばきのすべてを一身に受けてくだったのですから・・・。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16~18)
最後に10節のことばをご一緒に読みたいと思います。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」
これはすばらしい約束ですね。たとい山々が移り、丘が動いても、神の変わらぬ愛はあなたから移らず、神の平和の契約は動くことはありません。この愛は「ヘセド」というヘブル語ですが、ギリシャ語では「アガペー」と言います。これは神が、ご自分の民に特別に与えてくださった慈しみのことです。私たちには、この愛が与えられているのです。であれば、いったい何を悩む必要があるでしょうか。
皆さんの中に健康のことで悩んでおられる方がおられますか。あるいは仕事のことや学校のこと、さまざまな人間関係で苦しんでおられますか。。「私なんかもうだめだ。神は私をお捨てになられたのではないか」という思いにさいなまれている方がおられるでしょうか。でも安心してください。あなたがイエス・キリストを救い主として信じた瞬間から、あなたは神の永遠に変わらないこの愛の契約の中に入れらました。その約束はどんなことがあっても破られることはないのです。たとえ山々が動いても、たとい丘が移るようなことがあっても、キリスト・イエスにある神の愛は、絶対にあなたから移ることはありません。ですから、たとえ目の前に本当にあり得ないと思うようなことが起こっても、あるいは、「私が会っている苦しみなどだれにも分からないだろう」と思うようなことがあっても、また、神を忘れてしまうようほどの苦しみにあったとしても、それでも神の愛はあなたから動かないということを、どうぞ忘れないでください。この神の愛が、あなたを回復してくださるのです。