きょうは、イザヤ書54章後半の箇所からお話したいと思います。54章にはイスラエルの回復について語られています。主は子を産まない不妊の女のようであったイスラエルを回復し、右と左に増え広がるようにしてくださいます。だから、あなたの天幕の場所を広げるように、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすようにというのです。きょうのところも、イスラエルの回復が続いて語られます。
Ⅰ.あなたの城壁をすべて宝石にする(11-12)
まず第一に、11節と12節をご覧ください。ここには、神はイスラエルを宝石のようにしてくださると約束しておられます。
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。」
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女」とは、イスラエルのことです。彼らはバビロンによって苦しめられ、もて遊ばれた女のようでした。しかし、そんなイスラエルを主は、宝石のようにするというのです。「アンチモニー」とは黒色の鉱石です。黒色の塗料などに使われるとても美しい石です。エジプトの女性たちが使う化粧で最も特徴的なのは、目の周りを黒く塗るものですが、その塗料に使われているのがこのアンチモニーの粉だと言われていま。「サファイヤ」や「ルビー」はわかりますね。「紅玉」とはりんごではありません。「エメラルド」のことです。新共同訳ではここを、「エメラルドであなたの門を飾り」と訳しています。神は彼らをこのような宝石にするというのです。それはまるで美しく着飾った花嫁のようです。頭のてっぺんから足の先まできれいに着飾り、キラキラと輝いています。粉々に砕かれたはずの石を、神はこのように回復させてくださるのです。
ここで、黙示録21章1~2節をご覧ください。 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」 これは天国の光景です。天国は、まさに夫のために飾られた花嫁のようです。そうです、あのイザヤが見た預言は、この天国のことだったのです。つまり、これはバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放して宝石のようにするというだけでなく、世の終わりにおいて、神の民であるクリスチャンもこのようにしてくださるという二重の預言だったのです。 この黙示録21章10節以降には、この聖なる都、新しいエルサレムがどのようなものなのかがもっと詳しく語られています。11節には、「その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。また、18~21節には、「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。た、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。天国は、このような宝石のように輝いている所です。クリスチャンはやがてこの天国を相続するようになるのです。
なんとすばらしいことでしょうか。今はしばらくの間、さまざまな問題に苦しみ、もてあそばれているような状態かもしれません。毎日辛いことばかりで、どこにも希望を見いだせないような状況かもしれません。しかし、神は必ずあなたを慰めてくださいます。やがて、どれも宝石のような天の御国へと導いてくださるのです。
Ⅱ.豊かな平安がある(13)
第二のことは、あなたの子どもたちには、豊かな平安があるということです。13節をご覧ください。
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」
これもすばらしい約束です。私たちはだれでも自分ことはさておき、子どもたちには幸せになってほしいと願うものです。その子どもたちがみな、主の教えを受けるようになり、そこには豊かな平安があるというのです。今はそうではないかもしれません。学校では進化論が絶対的な真理であるかのように教えられ、真理がねじ曲げられています。「先生、私たちはいったい何のために生きているんでしょうか。」と質問すれば、「馬鹿!そんなこと考える暇があったらもっと一生懸命勉強しろ」と言われるでしょう。でも何のために勉強するのかがわからなければ、一生懸命勉強することなどできません。たとえしたとしても、そこには何の喜びも得られないでしょう。平安もありません。私たちは神の喜びと栄光のために生かされているということがわかった時に初めて、喜びと平安をもって勉強することができるのではないでしょうか。しかし、やがてそのような時がやってきます。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには豊かな平安が得られるようになるのです。
皆さんのお子さんはどうでしょうか。皆さんのお子さんには豊かな平安があるでしょうか。もしないとしたら、どこがおかしいのかを点検しなければなりません。ここには「主の教えを受け」とあります。子どもたちが豊かな平安を得るためには、主の教えを受けなければなりません。それは自動的に得られるものではないのです。主の教えを受けることによってもたらされる恵みなのです。なぜ子どもたちは親に反抗するのでしょうか?なぜ子どもたちはいつもイライラしているのでしょうか?なぜわがままに、身勝手にしているのでしょうか?そういう時代だから・・・。違います。主の教えを受けていないからです。もし主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安があるのです。
エペソ人への手紙6章1~4節にはこうあります。 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
皆さん、どうしたら子どもたちはしあわせになり、地上で長生きすることができるのでしょうか?それは、主にあって両親に従うことによってです。そしてその両親に命じられていることは何かというと、子どもたちをおこらせてはいけないということです。かえって、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。
振り返ってみると、私も随分子どもたちをおこらせたなぁと思います。穴があったら入りたいくらいです。子どもを育てるというのは本当に楽ではありません。なかなか自分の思うようにはいかないものです。しかし、そのような弱さを抱えながらも、主の教育と訓戒によって育てるならば、主が平安を与え、責任をもって育ててくださいます。もちろん、それはただ機械的に毎日聖書を読み、祈ればいいということではありません。ここに「主にあって」とありますが、それは主にある愛情と訓戒によってということでしょう。いずれにせよ、確かなことは、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受けると、豊かな平安があるということです。「まだ小さくて聖書を読んでもチンプンカンプンです!」と思う方もおられるかもしれませんが、実は、そうした小さい時こそ大切な時期なのです。何も理解していないようでも、実はとってもよく吸収しています。ですから、わかってもわからなくても、あなたが子どもに豊かな平安を持ってほしいと願うなら、主の教えを受けるように求めなければなりません。もう子どもが大きくなってしまったから遅い!という方でもあきらめてはいけません。どんなに大きくなってもその子が主にあって歩み、成長するようにと祈るなら、きっとその祈りがかなえられるはずです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるからです。だから何歳になってもあきらめないで祈りましょう。やがてそうした親の姿を見て、あなたの子どもさんも必ず主の道に歩むようになるからです。
Ⅲ.義によって堅く立つ(14-17)
第三のことは、あなたは義によって堅く立つということです。14~17節までをご覧ください。14節をお読みします。 「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」
ここには、しいたげから遠ざかるように、恐れから遠ざかるようにと勧められています。なぜなら、あなたは義によって堅く立つからです。義とは救いのことです。私たちは義によって、救いによって、堅く立つことができます。救いとは神との関係を持つことです。最初の人アダムとエバは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなりました。「あなたは、どこにいるのか」と言われても、「はい、ここにいます」と答えることができず、主の御顔を恐れて、園の木の間に隠れてしまいました。つまり、神との関係が完全に断たれてしまったのです。これが霊的な死であり、地獄のことです。地獄とは神がいない世界のことで、そこには何の喜びも、希望もありません。絶えず何かにおびえ、何をしても不安になります。けれども、御子イエス・キリストを信じて罪が赦されると、死んでいたたましいに神の光が差し込み、息を吹き返します。神とのいのちの交流が再開するのです。神がともにおられるなら、いったい何を恐れることがあるでしよう。ダビデはこう告白しました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)神がともにおられるなら、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても 恐れることはないのです。
ジョン・クゥアン著、「一生感謝」365日」の中に、「生まれてから死ぬまで感謝」というエッセイがあります。 「ごちそうを前にしても文句を言う人がいるかと思えば、乾いたパン一切れでも感謝する人がいる。健康なからだが与えられていても環境を恨む人がいれば、両手両足がないにもかかわらず感謝する人がいる。一つを失うことに怒りを抑えられない人がいれば、二つを失ってもかえって感謝する人がいる。失敗したからといのちを絶ったり絶望したりする人がいるかと思えば、過ぎ去ったすべてのことを感謝し、未来に向けて準備する人がいる。自分を非難したり害を加えたりする人と仲違いする人がいれば、敵を愛して感謝する人がいる。死を恐れる人がいれば、死をありがたく受け入れる人がいる。 私たちには感謝する理由がたくさんある。呼吸できることに感謝し、歩けることに感謝し、食べるとができ、寝ることができることに感謝し、夫と妻と子どもを感謝し、成功も失敗も感謝し、病気でも健康でも感謝する。実際、この地上に生まれてから死ぬ火まで、感謝するのみではないだろうか。」
こうした感謝というのは、まさに神がともにおられることから生まれるものです。なぜなら、死んだらすべてが終わりだという中にも、その死さえもありがたく受け入れることができるのは、死んでもともにいる神がおられるからではないでしょうか。ですから、神との関係を持っているということは、すべてにまさる喜びであり、祝福なのです。それが義であり、それが救いです。救いとは、神との正しい関係にあることであり、そのような人は何も恐れることはありません。恐れが遠ざかるからです。
皆さんはどうでしょうか。私たちは日々様々な恐れの中に生きています。お金を失うのではないか、健康を失ったらどうしよう、仕事や家族を失ったらどうしようか。そうした恐れがあります。また、こうした恐れのほかにも、自然の災害に遭わないだろうかといった不安があります。しかしこれらの中にあっても、もしあなたがイエス・キリストを信じているならあなたのすべての罪は赦され、神との正しい関係を持つことができるようになるのです。神があなたとともにいてくださいます。ですから、あなたは何も恐れることはないのです。神が私たちの味方であるなら、何も私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。 これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となることができるのです。
15~17節前半のところを見てください。 「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。」
もしイスラエルを攻める者があったとしたら、どうなるでしょうか。もしイスラエルを攻める者があれば、そのような者は逆にイスラエルによって倒されることになります。たとえば、エステル記に登場するハマンはどうだったでしょうか。彼はユダヤ人を根絶やしにしようと高さ2.5メートルの柱を立て、それにモルデカイをかけて殺そうとしましたが、逆にハマンがそれにかけられて殺されました。アブラハムを祝福する者は祝福され、迫害する者は迫害されます。ですから、もしイスラエルに敵対する者があるとしたら、そういう者は逆にイスラエルによって倒されることになるのです。なぜなら、イスラエルは神によって贖われた神の民であり、神が彼らとともにおられるからです。どんなに彼らを攻める者があっても、彼らを倒すことは絶対にできません。
また、たとえ敵がどんな最新鋭の武器を持ちだしても、それらの武器を作り出したのは神様ですから、そうした武器も何の役にも立たなくなります。だれも神に敵対できることはできないからです。したがって、何が起こっても動揺することはありません。主権者は神であって、この方がすべてをコントロールしておられるので、神に信頼していれば何も恐れることはないのです。
17節の後半のところを見てください。 「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。」
これが主のしもべたちの受け継ぐ分です。主のしもべたちには、このような祝福が約束されています。もしあなたが主のしもべであるなら、あなたにもこの祝福が約束されているのです。問題は、あなたはこの主のしもべになっているかということです。また、あなたは神の義を受けておられるかということです。
Ⅱコリント5章21節を開きましょう。 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 神が、そのひとり子であられるイエス・キリストを私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。
ですから、もしあなたもこの神の義を受けたいと思うなら、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれたイエス・キリストを、あなたの救い主として信じなければなりません。そうすれば、あなたもこの神の義を受けることができます。この義は無条件であなたにも提供されているのです。あなたがイエス様を信じて神の義を受けるなら、あなたもやがてここに約束されている栄光を受けるでしょう。あなたの城壁は宝石のようになり、あなたの子どもたちも豊かな平安を受け、あなたがどのような恐れの中にあっても決して動揺することなく、堅く立ち続けることができるのです。神がいつもあなたとともにいて、あなたを守ってくださるからです。これは何という恵みでしょうか。どうかあなたもこの恵みを受けてください。イエス・キリストを信じて神の義をいただき、この祝福を受け継ぐ人になってください。この救いはあなたにも差し出されているのです。