レビ記14章1~32節

レビ記14章1~32節

きょうは、レビ記14章1~32節から学びだいと思います。13章では、ツァラアトがあるかどうかをどのように調べるのかについて語られていましたが、この14章では、それをどのようにきよめることができるかについて教えられています。つまり、どのように罪をきよめてもらい、神との交わりの中へ、また教会の交わりの中へ加えてもらうことができるかということについてです。

1.ツァラアトからのきよめ(1-9)

それではまず、1~9節までをご覧ください。ツァラアトに冒された者がきよめられるためには、まず彼を祭司のところに連れて来なければなりませんでした。祭司は宿営の外に出て行き、彼を調べ、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じます(2-4)。

ツァラアトの人は宿営の中にいることができず、宿営の外に住まなければならなかったので(13:46)、祭司が宿営の外にいる彼の所に行かなければなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちは自分で自分の罪をきよめることはできません。ですから、主の方から私たちのところに近づいてくださいました。

そして、きよめるために必要なものは、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプです。それを土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふりました。そして、生きているもう一羽の小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、浸しました。それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけました。そして彼をきよいと宣言した後、生きている小鳥を野に放ちました。きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうすると、彼はきよめられました。そして、宿営に入ることができたのです。しかし七日間は天幕の外にとどまりました。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とします。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、そのからだに水を浴びました。そのようにしてきよめられたのです。

いったいこれはどんなことを表していたのでしょうか?これは、イエス・キリストの十字架と復活を象徴していました。まず土の器に入れられた湧き水のですが、これはキリストが葬られた墓を表しています。その水の中には杉の木がありました。これは、キリストの十字架の象徴です。キリストは木につけられて死なれましたが、その木を表しているのです。また、緋色の糸は、キリストが流された血潮を表しています。また、ヒソプは、罪を取り除くものの象徴です。ダビデは、「ヒソプをもってわたしの罪を除いてきよめてください。(詩篇51:7)」と言いました。ですから、この土の器に入れた湧き水は、キリストが十字架の上で死なれ、葬られたことを表していたのです。そして、その水の中から生きている小鳥を野に放つというのは、キリストが墓の中からよみがえられたことを表しています。このように、これはキリストの死と復活を表しているものですが、ここにはこのときの水を、きよめられるツァラアトに七たび振りかけなければなりませんでした。なぜかというと、このようにキリストの死と復活を象徴している水を振りかけることによって、キリストの死と復活に結びつけられることを表していたからです。

ローマ人への手紙6章3~11節には、キリスト・イエスにつくバプテスマについて記されてあります。すなわち、キリストの死にあずかるバプテスマを受けた私たちは、キリストとともに葬られたこと、またキリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをすることができるのです。私たちがきよめられるのは、このイエス・キリストに結びつけられることによってであるということです。それがバプテスマの意味です。ここに七たび振りかけるとあるのは、その罪の赦しが完全であることを表しているのでしょう。

しかし、七日間はまだ天幕にとどまることができませんでした。天幕の外にとどまっていなければなりませんでした(8)。そして、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうして後に、彼は宿営に入ることができました。つまり、彼は全くきれいになって、全くきよめられて、天幕に入ることができたのです。パウロは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)」と言っていますが、まさに神は、聖霊による新生と更新の洗いをもって救ってくださいました。聖霊によって洗いきよめられることによって、私たちは神の幕屋の中へ入っていくことができるようになったのです。

2.神へのささげもの(10-20)

次に10~20節までを見てください。そのようにツァラアトがきよめられた人は、神へのささげものをします。10節に、「八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。」とあります。聖書では、8という数字は新しい始まりを表しています。その新しい歩みを始めるにあたり、まずは神へのいけにえをもって始めるわけです。これは礼拝をもって始めるといってもいいでしょう。私たちが週の初めの日に礼拝をもって始めるのはそのためです。自分を罪からきよめてくださった主に心からの賛美と感謝をささげることは、むしろ自然の行為だと言えるでしょう。

その礼拝において彼がささげるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。傷のない雄の子羊二頭と傷のない一切の雌の子羊一頭です。傷がないいけにえは何を表していたのかというと、完全ないけにえです。神は完全ないけにえしか受け取られまん。傷のあるものは受け取らないのです。イエス・キリストは全く罪を犯したことのない完全ないけにえだったので、神は受け取られたのです。そのほかに、穀物のささげものとしての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来なければなりませんでした。

11節と12節をご覧ください。最初にささげるいけにえは、罪過のためのいけにえです。罪過のためのいけにえとは、自分が罪を犯したことによってもたらされる神や人への損害に対する償いのいけにえです。それによって神や人との関係が修復されるのです。罪を犯すことによって、まず私たちがしなければならないことは、この関係の修復です。これは、祭壇へのささげもの、つまり神への礼拝に優先されるべきものです。

マタイ5章23~24節には、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」とあります。供え物をする前にまず仲直りをする、つまり、罪過のいけにえはすべてにまさって先んじられるものなのです。なぜでしょうか。そうした障害物があると純粋な礼拝をささげることができないからです。

 そしてここには、それを奉献物として主に向かって揺り動かす、とあります。これは神に差し伸べているということです。これは神への賛美と感謝を表しています。私たちが賛美をささげるときにも、手を上げて賛美することがありますが、それと同じです。それは神への賛美と感謝を主に差し伸べているのです。

 その罪過のためのいけにえを、罪のためのいけにえや全焼のいけにえをほふる所でほふります。それは罪のためのいけにえ同様、祭司のものとなるからです。祭司が食べる分け前になるのです。これは主との交わりを表していて、そのきよさにあずかることを意味しています。

 14節をご覧ください。祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。なぜこんなことをするのでしょうか。なぜなら、子羊の血によらなければ罪の赦しはないからです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」もし私たちが父なる神との交わりを保ちたいなら、主イエスが流された血を塗らなければならないのです。

 ここではそれを、きよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。聖書で「右」は権威の象徴でした。そして、耳たぶとは聞くこと、親指はすること、つまり行いのことですね。そして親指は歩くこと、つまり歩みのことです。その上にイエスの血を注ぐということは、私たちのすへての罪の赦しをいただくということです。

 次に油が振りかけられます。15~18節をご覧ください。祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左手のひらに注ぎます。そして、右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかけたのです。祭司は、その手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指の上に塗りました。いったいこれは何を表しているのでしょうか?

 この油とは、もちろん聖霊のことです。罪がきよめられた者の上にこのように油を塗るのは、そのすべての歩みにおいて聖霊の注ぎと導きを求めなければならないことを表しています。耳たぶや手の親指、足の親指とは、そのすべての歩みのことです。すなわち、クリスチャンの生活とは、キリストの血によって罪赦されたことだけではなく、聖霊に導かれる生活であるということです。多くのクリスチャンは、罪からきよめられるところでストップしています。それがすべてであるかのように考えているからです。けれども、それはきよめられたクリスチャンの歩みのスタートであって、その完成を目指しての歩みが始まっただけなのです。そのクリスチャン生活はこの聖霊によって全うされるのです。そのすべての歩みにおいて聖霊に従い、聖霊に導かれていかなければならないのです。そして18節には、「残りの油をきよめられる者の頭に塗り」とあります。これは聖霊に満たされることを表しています。クリスチャンは単に聖霊の注ぎを受けて罪からきよめられただけでなく、聖霊に満たされて、キリストの証人として大胆に主を証しなければなりません。

 19節と20節を見てください。罪過のためのいけにえがささげたあとに、罪のためのいけにえをささげます。罪のためのいけにえは、私たちの罪の告白を表しています。神から罪の赦しをいただき、平安と喜びに満たされるための告白です。そして、全焼のいけにえをささげます。これは、「これから私は、イエスさまに従います。」という決心です。

 「祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。」

 穀物のささげものは、全焼のいけにえとともにささげられます。穀物のささげものは、キリストのいのちを表しています。「わたしはいのちのパンです。」と主は言われました。このささげものが全焼のいけにえとともにささげられるのは、全焼のいけにえがキリストの十字架にともにつけられている私たちを表し、穀物のささげものは、その中に復活の主が生きておられることを表しているからです。

 キリストによって罪からきよめられ、聖霊の油注ぎを受けて、主に自分自身のすべてをささげ生きるとき、そこにキリストのいのちが宿るのです。これがクリスチャンの歩みです。キリストのいのち溢れた歩みが始まります。単に罪の赦しというだけでなく、そこに聖霊の油注ぎがあり、神への献身があるとき、そこにキリストのいのちが豊かに溢れるのです。

3.貧しい人のためのいけにえ(21-32)

 次に21~32節までをご覧ください。ここには、生活が貧しくて、今ささげたいけにえをささげることができない人はどうしたらよいかについて教えられています。21~22節には、「その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。」とあります。子羊のかわりに、山鳩二羽か家鳩のひな二羽もって来なければなりませんでした。また、穀物のささげものが、十分の三エパではなく、十分の一エパに減っています。鳩の一羽は、罪のためのいけにえ、もう一羽は、全焼のいけにえとしてささげます。あとは、さきほどのいけにえの捧げ方とすべて同じです。

 ということはどういうことかというと、たとえ貧しくても、罪からきよめられ、神との交わりに入れられるためには、いけにえ(礼拝)をささげなければならないということです。それは経済的な理由で妨げられることではありません。経済的な理由で、主を礼拝できないという言い訳はできません。礼拝はすべての人にとっての特権であり、同時に責任なのです。どのような理由でも、主はだれでもご自分に近づくことができるようにしてくださいました。これは恵みではないでしょうか。