イザヤ書57章1~14節 「道を整えよ」

きょうは、「道を整えよ」というタイトルでお話したいと思います。14節に、「主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。」とあります。道を整えよといっても、別に土木工事をしなさいということではありません。その後のところに「わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」とありますが、私たちの心の中にあるつまずきを、でこぼこを取り除くようにということです。私たちの心の中にはどれほど多くのでこぼこがあるでしょう。神に対する無関心、自分だけよければいいといった自分勝手な石、誰かに対する怒り、他人を見下す偏見の岩、自分の欲望を満たしたいという思いなど、本当にさまざまなでこぼこがあるのではないでしょうか。そのような道からでこぼを取り除かなければなりません。あなたの心の中にはどんなでこぼこ(障害物)があるでしょうか。  きょうは、イスラエルの中にあったでこぼこ見ていきながら、私たちの心の中にあるつまずきを取り除いていきたいと思います。

Ⅰ.やがてもたらされる祝福(1-2)

まず最初に、1節と2節をご覧ください。 「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もない。まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」

どういうことでしょうか? 義人が滅んでも心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない、そういう時代がやって来るという預言です。「義人」とは、神に従って生きている人のこと、「誠実な人」とは、あわれみとも訳される言葉ですが、神のあわれみと慈しみに生きる人のことです。ですから、新共同訳聖書ではここを、「神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気付く者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。」と訳しています。義人や誠実な人が滅びるときそれを悲しみ、抗議する社会にはまだ希望がありますが、それでも何とも思わないという社会というのは、もはや救いようがありません。何も期待することができないからです。ある意味でそれは死んだ社会だと言えるでしょう。何をしてもウンともツンとも言わないのですから。このとき、神の民であると誇っていたイスラエルは、まさにそういう状態だったのです。

このときユダの王はマナセと言って、ひどい王様でした。父親のヒゼキヤはイスラエルから偶像を取り除き、へりくだって神に従いましたが、息子のマナセはそうではありませんでした。彼は父ヒゼキヤが取り除いた偶像を復活させ、忌み嫌うべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行いました(Ⅱ列王記21:2,11)。そればかりか、こうしたマナセの政策に真っ向から反対し、非難した預言者たちを激しく弾圧しました。Ⅱ列王記21章16節を見ると、「罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々にみちるほどであった」とあります。預言者たちだけでなく、それによって一般市民までもが殺されたのです。もしかしたら、イザヤもこのマナセによって殺されたのではないかと言われているほどです。本当にひどい王様でした。

しかし、それはマナセの時代だけではありません。この歴史を振り返ってみると、そうしたことがずっと繰り返して行われてきたのです。たとえば、A.D.70年にはローマ帝国にってユダヤ人は激しい迫害を受け全世界に散り散りになりまたし、第二次世界大戦下では600万人にも及ぶユダヤ人が虐殺されました。そうした歴史はずっと続いているのです。そして、それはユダヤ人ばかりではなく、神を信じて生きているクリスチャンにも同じように注がれています。これまで多くのクリスチャンが迫害され、殉教していきました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです。」(Ⅱテモテ3:12)

しかし、ここに慰めがあります。たとえ人々が心に留められなくても、人々から心を向けられなくても、心に留めてくださる方がおられます。それが神です。1節の後半から2節にかけてこうあります。

「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」

56章9~12節には、イスラエルの愚かな指導者の姿が描かれていました。彼らは口のきけない犬、ほえることもできない犬でした。あえいで、横になり、眠りをむさぼってばかり・・・。貪欲で、自分の利得に走っているような者たちでした。

しかし、それとは対照的に、ここに描かれている人たちは神を信じ、神に従って生きた人たちです。神のあわれみと慈しみとに生きようとしました。そういう人たちは確かにこの世ではほとんど目立つこともなく、報いも受けないでこの世を去って行くようですが、将来的にはそうではないのです。「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」のです。これはどういうことでしょうか?「平安に入る」とか、「寝床で休む」というのは、死ぬこと、墓を意味しています。ですから、まことに義人はわざわいから取り去られて、平安に入るというのは、終末に起こるわざわいに会うことがないということです。

Ⅰテサロニケ5章9節を開いてください。ここには、「神は、私たちが御怒りに会うようにおさだめになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにおさだめになったからです。」とあります。

これはやがて来る神の御怒り、すなわち、イエス・キリストが再臨される前に起こる患難時代の預言です。そのとき、この地上には神にさばきによるさまざな災害が起こります。それはかつて見たこともないような災害で、だれも耐えることができないような苦しみが伴うものです。具体的には黙示録6章からのところに書かれている事柄です。6章17節には、こうあります。

「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

だれも耐えられません。それほど恐ろしい災害がやって来るのです。しかし、神は、私たちが御怒りに会うようにおさだめになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにおさだめになりました。主イエスを信じて神の民とされたクリスチャンはこうしたわざわいに会うことがなく、そこから取り去られるのです。これを「空中携挙」と言います。「携挙」という字は「携え挙げる」と書きます。やがてイエス・キリストが再臨される時、神を信じた人々が一挙に雲の中に引き上げられます。まず、イエスにあって眠った人たちです。次に、生き残っている人たちです。私は死を経験することなく天国に行きたいので、早くイエス様が再臨しなかなぁと首を長くして待っているのですが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、私たちは、いつまでも、主とともにいることになります。神のさばきが、大艱難時代がやって来ますが、クリスチャンはこうした神のさばきに会うことがないのです。

何という幸いでしょう。私たちはこの地上では人々から全く心を向けられないかもしれません。ある意味で寂しい人生だったと思われるかもしれませんが、しかし、やがてこのような幸いを受けるのです。まことに、義人はわざわいから取り去られ、平安に入り、まっすぐ歩む人は、自分の寝床で休むことができる。

だから、イエス様を信じても何の報いもないとがっかりしないでください。イエス様を信じても何の得もないと思わないでほしいのです。ややもすると、イエス様を信じていない人が思いのままに生き、クリスチャンである自分たちが苦しめられていることに落胆することがありますが、人生は逆転の連続です。目の前に起こっている一つ一つのことに一喜一憂しないで、やがてもたらされる栄光に目を留めるものでありたいと思います。みことばの約束に信頼して、心を尽くして、主に拠り頼みながら生きる者でありたいと思います。

Ⅱ.はかない偶像(3-13)

次に3節から13節までをご覧ください。3節と4節にはこうあります。 「しかし、あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女のすえよ。ここに近寄れ。あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開いて、舌を出すのか。あなたがたはそむきの子ら、偽りのすえではないか。」    ここに「そむきの子ら」とか「偽りのすえ」とあります。1節の「義人」と呼ばれている人や「誠実な人」と言われている人と、ちょうど対照的な人たちの姿が描かれています。

3節には「女卜者の子ら」とか、「姦夫と遊女のすえ」とありますが、これは、まことの神を捨て、偶像に走って行った人たちのことです。彼らは神を信じている人たちをからかい、あざわらいます。「神を信じましょう」と言うと、背筋がくすぐったいような感じになって嘲笑するのです。そればかりか、5節を見ると、 「樫の木の間やすべての生い茂る木の下で、身を焦がし、谷や、岩のはざまで子どもをほふっている」とあるように、性的な堕落にふけるのです。    「樫の木の間やすべての生い茂る木の下」は偶像礼拝が行われていた所です。彼らはそこで性的にみだらな行為をし、その結果、望まない妊娠をするわけですが、そのようにして生まれてきた子どもを偶像の前でほふってささげるのです。快楽を行って子どもを犠牲にする。それは今日始まったことではありません。昔からこのイスラエルでも行われていたことなのです。それはまさに神から離れ、罪に陥った人間の姿なのです。経済的祝福のために子どもを犠牲にする。もう一人は無理だから子どもを堕ろす。育てるお金も余裕もないと言って、平気で中絶するのです。そうやって世界中で多くの子どもたちが犠牲になっているのです。

6節から8節までをご覧ください。ここには、偶像に走って行った彼らの姿が描かれています。6節、「谷川のなめらかな石がおまえの分け前、そこいらの石が、おまえの受ける割り当て。それらに、おまえは、注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげているが、こんな物で、わたしが慰められようか。」慰められません。石にしかすぎない偶像にぶどう酒を注ぎ、穀物のささげものをささげても、神が慰めるられることはないのです。

7節には、「そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも、上って行ってあなたはいけにえをささげた。」とあります。偶像は比較的に高い山に安置されていますが、そのような高い所に上って行っていけにえをささげても、何にもなりません。

8節です。「あなたは、とびらと柱のうしろに、あなたを象徴する像を置いた。」とあります。彼らがとびらと柱のうしろに置かなければならなかったのは、神の言葉です。 「聞きなさい。イスラエル。主はわたしたちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(申命記6:4)  彼らはこの言葉を門柱と門に刻まなければなりませんでした。なのにその代わりに偶像を置きました。その結果彼らは、偶像とみだらな行為を行うようになってしまったのです。

9節と10節をご覧ください。 「あなたは油を携えてモレクのところまで旅し、香料を増し加え、あなたの使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた。あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。」と モレクとはモアブ人とアモン人が拝んでいた神のことです。彼らは生まれてきた子どもをモレクの偶像にささげるために、わざわざ油を携えてモレクが安置されている所まで旅をしました。長旅をすればかなりの疲れもあるでしょうが、彼らは「あきらめた」とは言いませんでした。元気を回復し、決して弱らなかったです。なぜでしょう。意外と罪の生活を送っていると元気です。もうこんな生活はうんざりだ、嫌だと思っていても、意固地になって止めようとしないからです。

そして、11節から13節をご覧ください。 「あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。わたしは、あなたの義と、あなたのした事どもを告げよう。しかし、それはあなた益にはならない。あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに、あなたを救わせよ。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」

神はイスラエルが悪を行う姿を見て、恵みのみことばをもって警告し続けてきました。しかし、イスラエルの人々の心は罪によって無感覚になり、神のみことばを聞くことができませんでした。彼らは神の警告に耳を貸しませんでした。彼らは神が黙っていると思い、その心はさらに悪くなり、神を恐れずに、さまざまな偶像に陥っていったのです。しかし、彼らが神として仕えた偶像は、実際にはむなしい、無力な存在にすぎませんでした。それは、「風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう」ほどはかないものでした。それゆえ、神は彼らをさばくために、偶像のむなしさと、ご自分が生きておられることを現そうとされました。彼らが集めたものども、それは偶像のことですが、そうしたものは彼らを救うことはできません。むしろ、風が、あるいは息が、それらをみな運び去ってしまうのです。それほどはかないものなのです。そんなはかないものに頼ったところで、いったいどんな幸せがあるというのでしょう。何もありません。しかし、13節の終わりのところを見てください。「しかし」からのところをご一緒に読んでみましょう。

「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」(13)

「地を受け継ぐ」とは、神の祝福を受けるということです。また、「聖なる山を所有する」とは、聖なる山とはシオンのことですが、これを所有する、つまり、神の臨在がその人のものとなるということです。あなたは、神がくださる祝福を受けておられるでしょうか。もしそうでなければ、自らの生き方を深く顧みる必要があります。もしかすると、偶像崇拝にかかわるものが残っているかもしれません。コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。神よりも快楽を愛したり、神よりも仕事を愛したり、神よりも娯楽を愛したりするならば、それはこの偶像礼拝をしていることと同じです。そうした思いがあれば、それは偶像礼拝に走ったイスラエルと同じ罪を犯していることになるのです。

悪魔は、こうしたむさぼりを通して私たちの信仰をゆさぶっています。かつて悪魔がイエス様を誘惑した時も、この世のすべての栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って誘惑してきました。これがサタンの常套手段なのです。そのようなサタンの策略に心が奪われて、すっかり神にそむいてしまうのです。

けれども、どんなにむさぼってもそれは一時的な快楽にすぎません。それでストレスから解放されて、人生をエンジョイしているかのように見えても、またすぐに暗くなってしまいます。そうしたものはすぐに吹き飛ばされてしまうからです。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまいます。そうしたものはほんとうにはかないものなのです。そんなものにいのちをかけているとしたら、そんなものに情熱を傾けているとしたら、何とむなしいことでしょうか。あなたがいのちをかけなければならないものは、あなたが本気になって取り組むべきものは、あなたを造られ、あなたのためにいのちをかけて救ってくださった神です。しかし、主に身を避ける者は幸いです。そういう人は地を受け継ぎ、聖なる山を所有することができるのです。

Ⅲ.道を整えよ(14)

ですから、結論は何かというと、「道を整えよ」ということです。14節をご一緒に読みしましょう。 「主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」    これは土を盛って「道」を作りなさいということです。おもしろいことに、この言葉は、今日の高速道路のように整備された舗装道路という言葉と同じ言葉です。舗装道路を作るためには土を盛らなければなりませんが、そのように土を盛って道を作り、平らにしなさいというのです。

このことはイザヤ書40章3~4節にも出てきました。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けました。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。彼はこう宣べ伝えて言いました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。(マルコ1:1-8)

バプテスマのヨハネは、イエスのために道を整えるという使命を帯びて人々のもとに遣わされました。それは、もちろん土木工事をするために遣わされたということではありません。救い主イエスが来やすいように、イエスが通りやすいように、心の中に道を整えよ、ということです。

イエス様は私たちの心に神の愛を届け、さらに私たちの心を通って私たちの周りの人々にも愛を届けるために来られました。しかし、もしイエスがやって来たときに、私たちの心の中に誰かに対する怒りの炎が燃え上がっていたとしたらどうでしょうか。イエスは私たちの心に入ることができないでしょうし、私たちの心を通って周りの人々に神様の愛を届けることもできないでしょう。もし私たちの心が他人に対する無関心の壁で閉ざされていたらどうでしょうか。もし他人を見下す偏見の岩がごろごろしていたらどうでしょうか。やはり、イエスは私たちの心に入り、私たちの心を通っていくことはできないでしょう。

イエスに通っていただくためには、私たちの心の道に置かれた障害物を取り除かなければなりません。かつてのイスラエルは偶像という障害物がありました。神が彼らのところに来てくださるためには、その偶像という障害物を取り除かなければならなかったのです。しかし、それはイスラエルだけではありません。私たちも、私たちの心に障害物があるならば、私たちの心がでこぼこになっているとしたら、その障害物を取り除き、平らにしなければなりません。あなたの心にあるでこぼこは何でしょうか?    イエスが通られるために、それを妨げるようなものをすべて取り除かなければなりません。それらを一つ一つ取り除いて、わたしたちの心の中にイエスが通るための道を整えなけばならないのです。そして、せっかくやって来られた救い主を自分から拒絶してしまうことがないように注意したいものです。救い主イエスに身を寄せ、神の祝福に満ち溢れた生涯を送ることができますように。