「道を整えよ」 No.90
Ⅰ.義人は取り去られる(1-2)
56章9節からのところには、イスラエルの盲目な霊的指導者たちの姿が描かれていたが、ここには、そうした中にあっても神に信頼して生きる義人の姿が描かれている。「まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」「平安に入る」とは死ぬことを、また、「寝床で休む」とは墓に葬られることを意味している。イザヤは、イスラエルに下る神のさばきが近いことを知り、その前に死ぬことがかえって幸いであると告げている。これは、世の終わりに起こることの預言でもある。世の終わりには、この地に対する神の怒りが下るが、イエス・キリストを信じて救われた者は、そうした御怒りに会うことはない(Ⅰテサロニケ5:8)。イエス・キリストが再臨されるその時、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになる。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになる。肉体的に死ぬことは悲しいことだが、しかし、イエス・キリストにあって死ぬ者は幸いである。義人にはこのような希望が約束されている。われわれはややもすると、神を信じていない人が思いのままに生き神を信じているクリスチャンが苦しめられているのを見て落胆することがあるが、本当の真価はやがてもたらされる。この神の約束に信頼して、忍耐しつつ、神の義を待ち望む者でありたい。
Ⅱ.はかない偶像(3-13)
ここには、神の民であるイスラエルが神から離れ、偶像に走って行く姿が描かれている。彼らは偶像礼拝に染まり、性的不道徳に陥った。しかし、それらは彼らの益にはならなかった。「あなたが叫ぶとき、あなたが集めた者どもに、あなたを救わせてみよ。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。」(12-13)彼らが神として仕えた偶像はむなしく、全く無力なものにすぎなかった。そんなものに頼ったところで、いったいどんな益があるというのだろう。何の益もない。しかし、真の神に身を寄せる者は、地を受け継ぎ、聖なる山を所有することができる。
コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある。われわれはかつてのイスラエルのように偶像を拝むということはないかもしれないが、神よりも快楽をむさぼってしまうことがある。けれども、こうした快楽は一時的なものであって、決してわれわれの心を満たしてくれるものではない。たとえそれによってストレスから解放されて楽しんでいるかのように思えても、何もかも忘れて、まるで自分が救われているかのように思えても、実際にはすぐに奪い去られてしまうはかないものなのである。風が、息が、それらをみな運び去ってしまう。しかし、主に身を寄せる者は幸いである。そういう人は、神の祝福を受けるようになるからである。
Ⅲ.道を整えよ(14)
だから結論は何かというと、あなたの道を整えよ、ということである。「主は仰せられる。『盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。』」これは40章3-4節で語られていたことである。「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」
そのとおりに、バプテスマのヨハネが現れて、悔い改めのバプテスマを説いた。バプテスマのヨハネは、イエスのために道を整えるという使命を帯びて人々のもとに遣わされた。イエスが来やすいように、私たちの心の中にある障害物を取り除くように・・・と。イエスは私たちの心に神の愛を届け、さらに私たちの心を通って私たちの周りにいる人々にも愛を届けるために来られた。しかし、もし私たちの心の中に怒りの炎があったらどうだろう。もし他人に対する無関心の壁があったどうだろう。もし他人を見下す偏見の岩があったらどうだろう。残念ながら、私たちの心の中に来ることはできない。イエスに通っていただくためには、私たちの心の道に置かれた障害物を取り除かなければならない。当時のイスラエルの人々にとっての障害物とは偶像礼拝だったが、私たちの心の中にもさまざまな障害物が横たわっている。イエスに通っていただくために、そうした障害物の一つひとつを取り除き、その道を整えなければならない。
あなたの心の中にある障害物は何か?それが何であれ、日々の生活の中で、私たちの心の中にある障害物を見つけ、一つひとつそれを取り除くこと、それがヨハネが言っていた「悔い改める」ということなのだと思う。せっかくやって来られるイエスを、自らが拒絶することがないように注意し、しっかりと道を整える者でありたい。