レビ記19章1~18節

きょうは、レビ記19章から学びます。17章からレビ記の後半部分に入りましたが、その後半部分の最初で教えられていたことは、血を食べてはならないということでした。レビ記の後半部分は神に贖われた者の聖なる生き方が教えられているところです。その最初のところでこのように教えられているのは、それが神の民の生き方の土台になることだからです。すなわち、いのちとして贖いをするのが血です。その血をないがしろにしてはならないということです。もちろんこの血とは、私たちのために十字架で血を流してくださったイエス・キリストの血を表しています。その血をないがしろにすること、たとえば、善い行いをしなければ救われないとか、どんな罪を犯していても好く悪とかといった間違った考えに従うことによって、主の血をないがしろにしてはいけないのです。

そして18章では、異教的なならわしや風習でまねてはいけないということで、性についての正しいおしえが語られました。

きょうのところには再び十戒が出てきます。十戒については既に出エジプト記20章で学びましたが、ここではその具体的な適用が語られています。

1.  聖なる者となるため(1-2)

まず1,2節をご覧ください。ここには、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」とあります。ここには、これから十戒を与える目的が語られています。それは、「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」ということです。主が私たちにこうした戒めを与えられるのは私たちを戒めで縛るためではありません。そうではなく、私たちが聖なる者になるため、つまり、聖なる神との交わりを保つためなのです。

そういう意味では、私たちは既に聖められているのです。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにより、この主を信じ、主と一つにされたことによって、すべての罪が贖われ神の民とされました。私たちは自分の力によって聖くなることはできません。ただキリストにあってのみ聖くなることができるのであって、聖い生き方をしていくことができるのです。ですから、これから与えられる戒めも自分の肉によってではなく、ただ御霊によって導かれることによってのみ行うことができるわけです。このことを忘れてはいけません。

2.  神への畏敬(3-8)

それでは3節から8節までをご覧ください。ここには、神への畏敬が教えられています。

「おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、である。あなたがたがに和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目までに残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。」

これをみてまず最初に「あれっ」と思うのは、神への恐れについて戒められているはずなのに、その第一にあるのは自分の父母への恐れであるということです。しかも、ここでは父母ではなく母父になっています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。出エジプト記ではこの父母を敬わなければならないという教えは第五の戒めとして与えられていましたが、ここでは一番最初に出てきているのです。それは、父母が神の代理者であり、この父母を愛することが神の聖を現す具体的な方法となるからです。ですから、エペソ6章2節を見ると、この父母を敬うことが第一の戒めであると言われているのです。私たちが神を恐れることを学ぶのは、自分の親を通してであることを忘れてはなりません。そういう意味でこれが第一の戒めであり、最初の戒めとして語られているのです。

それにしてもここで「父と母を恐れなければならない」ではなく、「母と父を恐れなければならない」とあるのは不思議です。いったいなぜ母と父なのでしょうか?母の方が怖いから・・・ではありません。ユダヤ人の注解によると、一般的に父よりも母の方が軽んじられる傾向があったので、このように母を先に出すことによって父と母の両方の大切さのバランスを図ったのではないかと思われます。

神への畏敬(恐れ)という原理は、ここでは三つの命令によって示されています。それは、安息日を守らなければならないということ、それから、偶像に心を移してはならないということ、そして、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならないということです。

まず安息日を守ることです。これも出エジプト記20章に出てきましたが、20章では第五の戒めとして語られていました。しかし、ここでは一番最初に出ています。それは安息日を覚えてこれを聖なる日とすることが、神を神とし、神によって贖われた事実を覚え、その神を礼拝することだからです。神を敬うことの本質が、この安息日を守るということに現われていると言ってもいいでしょう。ですから、イザヤ書56章には、正義と公正を守ることの具体的な現れが、この安息日を守るということだったのです。なのに、彼らはこれをないがしろにしました。その結果、偶像を拝み、偶像に仕えることになってしまったのです。それで神は怒られ、彼らをバビロンへと渡されました。もし彼らが安息日を守り、神を神として敬い、この神に仕えていたなら、そうした過ちに陥ることはなかったでしょう。でもそうではなかった。それが彼らの問題だったのです。神に贖われた者にとって大切な第一のことは、神を神として敬い、この神のみわざを覚えて礼拝することです。

次に言われていることは、偶像に心を移してはならないということです。心を移すとは、心を向けるということです。偶像に心を向けてはならない。また、偶像を造ってもなりません。まことの神を知らない異教社会においては必ずと言ってよいほどこの偶像との関わりがあります。それが昔からの伝統であるとか、ならわしであるのに、それを拒むということで、クリスチャンは愛がないとか、冷たい、配慮がないと批判されることがあるのです。

かつて私が住んでいた町内会でもこうした偶像との関わりが強く、町内会に祭事部というのがあって、各班から毎年推薦された人が神社の世話人をしていました。その世話人の仕事の一つに神社のお札をもって各家庭に配り歩くことがありました。教会の私たちの家にも来られ、「これお札ない。1,000円です。」なんて言うのです。これには参って、「実は私たちはクリスチャンでほんとうの神様を信じているのでお札はいらないのです」といって断るのですが、それでも変な顔をするのです。「付き合いが悪い人だなぁ」とか、「キリストさんって変な人だなぁ」といった感じで・・・。それで、ある時からこう言ってお断りすることにしました。「私たちはキリストを信じているのでそうしたお札は必要ありません。でも町内会の皆様のためにいつもお祈りしていますから、これは町内会のためにお役に立ててください」と言って1,000円差し出しました。お金を出すのが嫌なのではありません。偶像を拝むこと、偶像と関わりを持つことが嫌なのです。なぜなら、聖書にそのように書かれてあるからです。ですから、どんなに断っても偶像を拒めば愛がないとか、冷たい、配慮がないといった批判は出るでしょう。でも私たちはそこを曲げることはできません。なぜなら、私たちの神は主であって、私たちを罪から救い出してくださったからです。

そのことがその次に書かれてあります。「わたしはあながたの神、主である。」このことばは、ここに何回も繰り返して出てきます。おそらくこうした異教社会の中に起こるさまざまな批判の中にあってそれでも私たちがそのように生きるのは、主こそ神であり、私たちを贖ってくださった方であるということを思い起こさせるためであったからでしょう。

次に、主に和解のいけにえをささげる時の規定が記されてあります。これによると、主にいけにえをささげるときは、受け入れられるようにささげなければなりませんでした。具板的にいうと、それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければなりませんでした。三日目まで残ったものは、火で焼かなければなりませんでした。なぜでしょうか?腐ってしまうからです。当時は冷蔵庫がありませんでしたから、三日目まで残しておけば腐ってしまいました。腐るというのは罪に蝕まれることの象徴的なことでしたから、そのようなことがあってはならなかったのです。私たちが罪にとどまること、私たちを汚し、神との交わりから、また他の兄弟たちとの交わりから断たれることを意味していたからです。和解のいけにえ、これは神と和解した者がささげるいけにえですが、この和解のいけにえは、主との正しい交わりにふさわしい方法でささげられなければならなかったのです。

3.  隣人への愛(9-18)

次に、隣人との関わりにおける戒めをみていきたいと思います。9節から18節までをご覧ください。まず9節と10節です。

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」

これは貧しい人たちへのあわれみです。土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはなりませんでした。また、収穫の落ち穂を集めてもなりませんでした。さらに、ぶどうの実を取り尽くしてはなりませんでしたし、ぶどう畑の落ちた実を集めてもいけませんでした。なぜなら、貧しい人と在留異国人のために、それらを残しておかなければならなかったからです。ルツ記2章2節のところで、ルツがナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。・・落ち穂を拾い集めたいのです。」と言っていますが、これはこのレビ記の戒めがあってのことです。彼らのように貧しい人が食べていくことができるように、神があわれんでおられるのです。ある意味でこうした態度が貧しい人へのおもいやり、愛の具体的な形となってあらわれるのです。「もったいないから全部とっちゃう」とか「これらは全部自分たちのものだから、だれにも食べられないようにしよう」というようなせこい考えを持たないで、自分に与えられたものを喜んで分かち合うということを、このような形で表したのです。これはある意味で現代の福祉とか、社会保障のあり方とその目的は貧困者を救済するということです。私たちも畑の隅々を残すような者、収穫を集めないで分かち合えるような者になりたいと願います。いや、このような教えに従っていくなら、必ずそうなると信じます。これは私たちが神の祝福に生きる道でもあるからです。

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。というのは、出エジプト記では第八、第九の戒めとして出てきたことです。盗んではいけないというのはあたりまえのことですが、意外と私たちの多くは、この戒めを破っています。それは単に物を盗むというだけでなく、他人の所有権を侵すことだからです。たとえば、借りた物を返さないとか、税金の申告をごまかすとか、そういったこともこの教えに含まれているのです。また聖書では、地とそれに満ちているものは、主のもである(詩篇24:1)とありますから、それを主に返さないとしたら、実はそれも盗んでいることになるわけです。

いったいなぜ私たちはそうしたことを兵器で行ってしまうのでしょうか。それは、神が与えてくださったものを感謝せず、自分で自分の必要を満たそうとしているからです。神は私たちのために御子をさえも惜しみなく与えてくださいました。その恵みによって私たちは救われたのです。この恵みに感謝して神と人に仕えていこうとするなら、盗んだり、偽ったりということはなくなるはずです。

パウロはエペソ4章25~29節で、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っていますが、そうした行為というのは古い人の姿、まだ救われていない人、神のことを知らない人、キリストのことを聞いていない人の姿なのであることがわかります。しかし、キリストのことを聞き、神によって贖われた者ならば、それが悪いことであって、神のみこころでないことであるということがわかり、そこから解放されるはずです。仮に、そうした罪に陥ることがあっても、悔い改めて、そこから新しい人に、神にかたどり造り出された人に変えられるはずです。ですから、こうしたことはすべて救いの問題から発しているのです。

13節と14節には、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまづく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはである。」とあります。

隣人をしいだけてはならないというのは、隣人を圧迫してはならないということです。たとえば、雇い主が、ある人にどんな賃金でも働く必要があるに違いないとみてとって、その必要を有利に利用し、正当な賃金以下で働かせたり、隣人に対して抵当をとっている人が、専門的な自分の権利を主張して畑や田んぼを手に入れようとして、あわれな負債者から不必要にお金を巻き上げようとする行為などがそうです。こうした隣人をしいたげる行為は、私たちの社会の中では無限の例を上げることができるでしょう。最近もある弁護士が来て話しをしていたら、こうしたことが弁護士の間でも日常茶飯事に行われていると嘆いていました。しかし、こうしたことは神の民にはふさわしくないことと禁じられています。

また、不当な労働賃金の遅延行為も同じです。ただ正当な賃金を払うというだけではだめで、それを即座に支払わなければなりません。そうでなければ日雇いの労働者は生活していくことができないからです。これはどちらかといえば富裕者の犯しやすい罪です。富裕者にとって少額の金の受け取りが少しくらい遅れたからといってあまり不便を感じないかもしれませんが、しかし貧しい人たちにとっては死活問題なのです。そのように賃金を送らせることによって彼らは、実際上、彼ら自身のものを彼らから盗んでいることになるのです。

それから耳の聞こえない人、目の見えない人に対して侮ってはならないと教えられています。これは弱さを抱えている人への配慮です。だれにでも弱さがあります。そうした人の弱さにつけこんで、その人をけがしたり、つまずかせたりすることは、神の民としてふさわしいことではありません。かえってそうした弱さに同情し、補っていかなければなりません。からかってみたり、言ってはならないようなことを言うことは、汚れたことなのです。

次に15節と16節をご覧ください。ここには、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしはである。」とあります。

このことについては出23章2~-3節にも、「訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」とか、「貧しい人を特に重んじてもいけない。」とありました。公正な裁判が行われなければならないということです。それでここにも、「不正な裁判をしてはならない」とあります。たとえ弱い者であってもおもねることをしてはならず、強い者であってもへつらってはいけません。意外と私たちは弱い立場の人たちの訴えを受け入れ、強い立場の人たちからの訴えを毛嫌いする傾向があります。しかし、そうした偏見を抱いてはいけません。裁判においては真実でなければならないのです。

またここに、人々の間を歩き回って、人を中傷してはならないとあります。そんなことをする人がいるのでしょうか。います。特に最近は顔が見えないことをいいことに、インターネットで平気で他人を誹謗中傷して問題になっています。中にはそれで名誉毀損で訴えたり、訴えられたりということにまで発展するケースもあります。「中傷」という言葉はヘブル語で「ラキール」で、これはエゼキエ書26:12で「商品」(レクラー)という訳された言葉と同類語です。また、足を意味する「レゲル」という言葉とも同類語で、話を商品のように、あちこちと運び歩くことを言うのです。それは隣人の血を流そうとしていることと同じです。ある意味で、中傷や悪口は人の心に血を流す行為で、汚れたことです。人を中傷したかといって警察に捕まることはないし、法律でさばかれるということもありませんが、それは偶像礼拝や殺人よりも恐ろしいことなのです。なぜなら、それは悪口を言う者、言われる者、聞く者の3人を一度に殺すからです。(ベン・シラの知恵28:13-26)

次に17節と18節をご覧ください。ここには「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。

「心の中で身内の者を憎んではならない。」ここに、「身内の者」とありますが、なぜ身内の者とあるのでしょうか。よく考えてみると、こうした憎しみというのは身内をはじめ、日頃関わりを持っている人の間で抱きやすいものだからです。全然関係のない人を憎むというのはほとんどありません。家族、親族、教会、職場、学校関係、サークル、何かがきっかけとなって知り合った人たち、そうした人たちとの間でさまざまな軋轢が生じるのです。だから「身内」と言われているのです。そうした身内の者を憎んではいけません。

心の中で憎しみを持たないこと、これが聖い歩みをする上で、とても大切なことです。なぜなら、こうした憎しみがきっかけとなってさまざまな悪しき行為が生まれてくるからです。たとえば、人を馬鹿者と言う者は人を殺しているとイエス様は言われましたが、そのような心にあることが実際の行動に表れてくるのです。

しかし、こうした憎しみは私たちを疲弊させ、私たちの心を汚し、主にある喜びや平安、愛を奪ってしまいます。ですからパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言っているのです。喜びや祈り、感謝と憎しみは共存できません。いつも心に喜びや感謝があれば、こうした憎しみに囚われることがなくなります。

では、もし兄弟に憎しみを抱くことがあればどうしたらいいのでしょうか?ここにはただ単に私たちの隣人を憎んではならないというだけでなく、あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない、とあります。これはどういうことかというと、あなたの隣人が悪を行ったらどうしたらよいかということです。

ガラテヤ6章1節のところでパウロは、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」と言っています。このことばは、このレビ記の戒めが背景にあります。もしあなたの隣人が罪に陥ったならば、御霊の人であるあなたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。ねんごろに戒めなければならないのです。そうすれば、私たちが彼のために罪を負うことはありません。逆に、そうしなければ、罪を負うことになるのです。つまり、私たちが何らかの方法で隣人の罪を阻もうと努力しなければ、そうした彼の悪事によって、私たちも共犯者となってしまうというのです。しかし、たとえその人の罪を責めるにしても、ねたんだり、憎んだり、言い争ったりするのではなく、柔和な心で戒めなければなりません。彼を自分自身のように愛さなければならないのです。

そして18節には、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしはである。」とあります。復讐してはなりません。恨んではなりません。ユダヤ教のラビたちは、「お前がしたように私もする」これが復讐で、「わたしはお前がしたようにはしない」これが恨みだと言いました。

ところで、その後のことばは有名です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」イエス様は、律法全体は、神を愛せよと、この隣人を愛せよ、の二つの戒めにまとめられると言われました(マタイ19:19,22:39,ローマ13:9,ガラテヤ5:14)。これが律法基本なのです。単に憎んではならないとか、復讐してはならない、恨んではならない、中傷してはならないということではなく、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよというのが、律法の原点にある戒めなのです。