イザヤ57:15-21 レジュメ

「神の自己紹介」                                          No.91

 

Ⅰ.その名を聖ととなえられる方(15-16) 

 ここには神がどのような方かが語られている。第一に、神はいと高く、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方である。57章前半には、まことの神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿が描かれていたが、ここにはそうした偶像とは対照的に、まことの神とはどのような方なのかが示されている。すなわち、神はいと高きところにおられ、永遠に生きておられる方であり、その名を聖ととなえられる方である。これはどういうことかというと、神はずっと高いところにおられる方であり、私たちが近づきたくても近づくことなどできない存在であるということだ。よく「雲の上の方」という表現があるが、まさに神は雲の上の方である。

ところが、このように高く、聖なる方が、同時に、心砕かれ、へりくだった人とともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かしてくださる。これは全く驚くべきことである。「心砕かれる」とは粉々にされ、ちりのようになるということである。これは、完全に悔い改めた人の姿である。また、「へりくだる」とは単に謙遜になるということではなく、苦難を受け入れて低くされることを表している。つまり、めった打ちにされるということである。神はいと高く、聖なる方であられるが、その神が、心がズタズタに切り裂かれ、自分の主張などは微塵もないほどに打ちのめされ、最も惨めだと自覚できる人とともにあり、そういう人の霊を生かしてくださるのである。

人はすぐに「自分はあれができる、これができる。あれを持っている、これを持っている。」と自分を誇りたくなる。しかし、神はそのような人の心には住まわれない。ただ心砕かれて、へりくだった人とともにあり、へりくだった人の霊を生かしてくださるのである。

Ⅱ.罪をいやしてくださる方(17-18)

第二に、神は罪をいやしてくださる方である。イスラエルの苦しみは、彼らのむさぼりの罪のためであった。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。」(17)しかし、それで彼らが悔い改めたかというとそうではなく、彼らはなおもそむいて、自分の思う道に向かって行った。それで神はどうされたかというと、「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(18)普通だったら捨てられてもおかしくないのに、神は彼らを捨てるどころか、彼らの罪を赦し、彼らの傷をいやされ、その悲しむ者たちに、慰めを報いようというのだ。神はいつまでも怒っておられる方ではない。自分勝手な道に向かって行ったイスラエルを一時的に懲らしめることはされたが、いつまでもそのような状態に置かれることはなさらない。ちょうど我が子が悪いことをすれば一時的に懲らしめても、やがて許し、両手いっぱいに抱きしめて、まっすぐに歩んでいけるようにありとあらゆる助けを与えてくれる父親のようである。神はいつまでも私たちを罪に定めようとはなさらない。むしろその罪を赦し、その傷をいやしてくださる方なのである。

Ⅲ.平安を与えてくださる方(19-21)

第三に、神は平安を与えてくださる方である。「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。」(19)「くちぴるの実」とは、賛美と感謝の歌を表している。彼らは罪の結果、神の怒りによってうめく者であったが、神はそうした者をいやし(救い)、感謝と賛美をささげることができるようにしてくださる。そればかりか、遠くにいる者にも近くにいる者にも平安を与えてくださる。「平安」とはあらゆる面で欠けのない状態、完全に満たされた状態のことである。現代は、まさに大きな恐怖と不安に襲われている時代である。こうした不安な時代にあっても、決してゆり動かされることのない平安を与えてくださる。

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」(20-21)

あなたはどちらを選択しますか。イエスさまを信じ、心砕かれて、へりくだって歩みますか。それとも、こうした神の御声をないがしろにし、あくまでも自分の道に向かって行きますか。そこには荒れ狂う海しかない。神の前に心砕かれて、へりくだって歩むことができますように。神はあなたの罪をいやし、あなたの心を生かし、あなたに平安を与えてくださるのである。