「エルサレムとともに喜べ」
イザヤ66:6-17
Ⅰ.新しい神の民イスラエルの誕生(6-9)
「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(7-8)
これはいったいどういうことか。「彼女」とはシオンのこと、その彼女から産み落とされる子とは新しい神の民イスラエルのことである。世の終わりになると、シオンから一瞬にして新しい国、民族が産み落とされる。このシオンとは神の臨在と支配、そして礼拝の中心となるところである。それは教会のことを指していると言ってもいい。もちろん、それは第一義的にはキリストのからだなる天上の教会のことであるが、その現れである地上の教会のことでもある。この教会を通して、主は新しい神の民である霊的イスラエル(クリスチャン)を産み出すというのだ。しかも一瞬のうちに・・。地上の教会を見る限り欠陥だらけで、時にはみすぼらしいと感じることさえあるが、この教会を通して主は新しいイスラエルを産み出される。それは教会に福音宣教がゆだねられているからである。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である。この福音のゆえに、教会を通して新しいクリスチャンが産み出されるのである。
あなたはその聖なる共同体である教会を愛し、教会に仕えておられるだろうか。教会を通して与えられる神の恵みを体験しておられるか。神はシオンを通して新しい神の民を産み出してくださる。その神のみわざにともにあずかろうではないか。
Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)
「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」(10)敵の攻撃を受け荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝く。そのエルサレムとともに喜べと勧められている。なぜなら、彼らは彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。彼らは幼子が母親の乳房からおっぱいを飲んで満ち足りるように、神の豊かな乳房から飲んで喜んだ。かつて神はアブラハムに「エルシャダイ」としてご自身を現されたが、これは母親の乳房が語源になっている。私たちの神はおっぱいの神であって、幼子が母親の乳房から吸って満足するように完全な満足を与えてくれる全能の神なのである。
それゆえに神は、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(13)人はだれでも慰めを必要としている。その慰めはいったいどこにあるのだろうか。主は私たちにこう呼びかけておられる。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子をおそれるとは。」(51:12)あなたは何を恐れていますか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要など全くない。なぜなら、神があなたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められるからだ。
Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)
けれども、神に敵対する者に対してはそうではない。「まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責め立てる。」(15)その敵とは、具体的には「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たち」(17)である。すなわち、表面的には敬虔に神に仕えているようでも、実際には偶像に仕えている者たちのことである。彼らは神のことばを悟らす、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回っている。そのような高慢を遠ざけなければならない。そして、神のみことばにおののき、エルサレム(教会)とともに喜び、神の喜びと平安、慰めと満たしを経験させていただく者でありたい。