イザヤ書66章6~17節「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ書の最後の章を学んでいます。きょうは6節から17節までのみこばから、「エルサレムとともに喜べ」というタイトルでお話します。この66章は65章の続きです。「主よ、いつまでですか」(6:11)というイザヤの質問に対して、主はエルサレムの荒廃とさばきのメッセージを語りますが、それで終わりではありません。その先に新しいイスラエル、霊のイスラエルがエルサレムとともに喜ぶ日がやってくることが示されます。きょうは、それがどれほどの喜びなのかをみことばからご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.神の民の誕生(6-9)

まず、6節から9節までをごらんください。 「聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。」

ここには、キリストが再臨される時の様子が語られています。キリストが再臨される時、キリストその敵に報復されます。それで町には騒ぎが、宮からは声が聞こえて来るのです。しかし、エルサレムはすみやかに回復されます。7節を見ると「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」とあります。「彼女」とはもちろんシオン、エルサレムのことです。シオンが産みの苦しみが臨む前に産み、陣痛が起こる前に男の子を産み落とすのです。これはどういうことかというと、8節を見るとわかります。

「地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

これはシオンがその子ら、すなわち神の民を産み出すという預言です。それは一瞬のうちになされます。「陣痛が起こる前に、一日の陣痛で、陣痛を起こすと同時に」産まれるのです。私は出産をしたことがありませんが、出産の前兆である陣痛がないまま出産できたらどれほど楽でしょうか。そのように神の民は一瞬にして産み出されるのです。あなたが新しく生まれた時も同じです。あなたはイエスさまを救い主と信じた瞬間に新しく生まれました。

ヨハネの福音書3章を見ると、ニコデモはイエスさまに尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と。  するとイエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

皆さん、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉は神の国を相続することができないからです。ですから、御霊によって生まれなければ、だれも神の国に入ることはできないのです。御霊によって生まれるとは、御霊のことばである聖書のことばを聞き、それを信じて受け入れることです。あなたが神の国に入るには、あなたが幼子のようにへりくだり、神のことばを聞き、そこにある神の救いを受け入れなければならないのです。そうすれば、あなたもその瞬間に新しく生まれ変わります。そして、神の国に入ることができるようになるのです。

ところで、ここにはシオンが産み出すとあります。シオンとはエルサレムのことです。神の臨在とご支配のあるところを意味しています。それは何を指しているのでしょうか。教会です。神の祝福は教会を通して流れるのです。もちろんそれはキリストのからだである天上の教会のことですが、それと同時に、この地上の教会のことであもあります。なぜなら、この地上にある一つ一つの教会はどんなに小さく、欠陥があったとしても、それは天上の教会の現れだからです。ですからイエスさまは、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:18)と言われたのです。「まことにあなたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしのなにおいて集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)  何ということでしょうか。こんな欠陥だらで、不完全な教会でも、この地上に立てられた教会のふたりが、どんなことでも、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神様は、それをかなえてくださるのです。この地上の教会の私たちがつなぐなら、それは天においてもつながれており、解くなら、それは天においても解かれているのです。この地上の教会をみる限りほんとうにみすぼらしいと感じることさえありますが、でも主はこの地上の教会が解くなら、解かれ、つなぐならつなぐと仰せになられました。この地上の教会はどんなに小さくとも、そこにキリストが満ちておられ、この教会を通して新しく救われる人たちを起こしてくださるのです。だから教会が大きいか小さいかということは全く関係ありません。大切なのは、そこにキリストのいのちが流れているかということです。キリストのいのちはキリストにとどまり、キリストのことばに従うところに流れます。イエスさまは言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

また、こう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

ですから、キリストのことばに従い、キリストにとどまるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。たとえその教会がどんなに小さくとも、この地上の教会のふたりが、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神は、それをかなえてくださるのです。私たちの教会を通して、神の祝福が流れるようになるのです。神の民が生み出さるのです。

それゆえ、3世紀の有名な教父キプリアヌスは(Thascius Caecilius Cyprianus)は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。もちろん、救いは主のわざであり、産み出される方は神ご自身です。しかし、神は教会を通してそれを行ってくださるのです。ですから彼は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。  また、あの有名な宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「教会の外には、望みもなく、罪の赦しもない。永遠の死とさばきがあるのみである。」そこまで言い切ったのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。そして、教会には福音を宣べ伝える使命がゆだねられているからです。ですから、イエスさまはペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」(マタイ16:19)と言われたのです。何を血迷ったのか、ローマカトリック教会はローマ教皇こそがこのペテロの後継者であると主張し、教皇をあたかも神のように敬っていますが、そういうことではありません。これは、「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったペテロの信仰告白を指しているのです。イエスさまはその岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。そのような信仰告白の上に立てられた教会は、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです。それは教会には福音を宣教するという使命がゆだねられているからです。神は教会を通して救われる人を生み出しておられるのです。そういう意味で、マルチン・ルターが言ったことはあながち間違いではないのです。教会はこの福音を宣べ伝えているがゆえに救いがあるのです。

皆さんはどうでしょうか。こうした教会の理解の上に立って、教会を愛し、教会に仕えておられるでしょうか。教会を通してなされる神の救いのみわざに取り組んでおられるでしょうか。教会を通して生み出される新しい神の民を待ち望み、福音を宣べ伝えておられるでしょうか。「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」このすばらしい恵みに、私たちも加わらせていただきましょう。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」とあります。

ここには、「喜べ」とか「楽しめ」という言葉が何回も出てきます。新しい神の国の中心であるエルサレムが喜びと楽しみの所となります。それまで荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝くようになるからです。すべてこれを愛する者、すべてこのために悲しんだ者が慰めを受けるようになり、喜びにあふれるようになります。

それは11節にあるように、赤ちゃんが母親の乳房から飲んで飽き足りるかのようです。皆さん、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる姿を見たことがありますか。赤ちゃんはそれさえあれば満足です。安心してぐっすり休みます。おっぱいは赤ちゃんにとってオールマイティなのです。それさえあれば満足します。そのような満足が与えられます。

おもしろいことに、かつて主はアブラハムに「エル・シャダイ」としてご自身現わされましたが、この「エル・シャダイ」とは母親が赤ん坊に乳を飲ませることがその語源となっています。「エル」は神、「シャダイ」は女性の乳房を指す言葉です。言わば、神はおっぱいの神です。赤ちゃんはそれさえあれば十分に満ち足ります。おっぱいを飲んでいれば大喜びなのです。ここで言われていることはそういうことです。おっぱいを通して赤ちゃんのすべての必要が満たされるように、神はご自身の民のすべての必要を満たしてくださるのです。

12節から14節をご覧ください。 「主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

12節の「繁栄」と訳されている言葉は「シャローム」ということばです。これはあらゆるわざわいから解放された平和な状態を表しています。新しいエルサレムはまさに川のような繁栄と平和が与えられ、あふれる流れのような富がもたらされます。

「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」また乳が出てきています。あなたがたはおっぱいを飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。つまり、神は母親が赤ちゃんを完全に養い、保護するように、イスラエルを完全に守られるのです。

13節を見てください。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」それは母に慰められる者のようです。ここには「慰め」という言葉が3回も使われています。母親は慰めに満ちています。子どもが痛い思いをしたらどこに行くでしょうか。大抵は母親のところに行きます。なぜなら、慰めてくれるからです。滑り台から落ちて、ブランコから落ちて、テーブルにつかまり立ちしていたら落ちてあびをぶつけたとき、ワンワン泣くと、お母さんのところに行きます。お父さんのところには行きません。お父さんは慰めことを知らないからです。「何やってんの。ちゃんとつかまってないからだよ。」なんて冷たい言葉を発します。あっ、お母さんも言いますね。でもその後の対応が違います。 「何やっての。ちゃんとつかまっていないからよ。」 「しょうがないわね。」 「痛い、痛い、痛かったね。」 「痛いの、痛いの飛んで行け!」 「ほら、もう直った。よかったね」 なんて言って慰めてくれます。やっぱりお母さんです。お母さんは慰めに満ちています。私たちの神はお父さんのような力強さもありますが、お母さんのような優しさも持っておられる方です。あなたを慰め、あなたの必要を満たしてくださるのです。

皆さん、いったいどこに慰めがあるのでしょうか。人はみな慰めを必要としています。みなさんの中に「私は慰めがいらない」という人がいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限りさまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のことや家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな問題を抱えながら生きているのです。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩みを打ち明けることのできる人がいなければ、やはり孤独に陥るでしょう。そんな時、いったい私たちはどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。

ある人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それもいいでしょう。しかし、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしにはなっても、真の意味で人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できないと、人はやたらと高価なものを買ったり、お酒やギャンブル、ドラッグと、もっと強い刺激を求めて走り回りますが、こうしたものも一時的には渇きをいやしてくれても真の満足は与えることはできません。それは慰めるどころか、もっとひどい状態に引きずり込んでしまうこともあります。ではほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。

ここには、「わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。慰めてくださるのは神です。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という言葉をもって始まるこのイザヤ書の後半部分には、その神の慰めが随所に語られています。(49:13、51:3、52:9他)まことに神は慰めの神です。その神がイスラエルだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンにも与えられているのです。キリストはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力あるものです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどの力です。罪の中に死んでいた者をそこから引き上げることのできるほどの慰めなのです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救いにもないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51章12節で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然(こつぜん)と姿を消しました。横田めぐみさんです。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親の早紀江さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」に基づいた話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、それは彼女をもっと苦しめました。

そんな時、ひとりの友人が、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女はすぐには聖書を開くことができませんでしたが、ある日、大きな悲しみが襲ってきたので、彼女は聖書を開いて読んでみることにしました。彼女は、それまでも聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて読んで感動しました。それはヨブ1章21節の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばです。そのとき彼女は、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

めぐみさんの失踪から20年がたち、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになり、それからさらに10年がたちましたが、めぐみさんの行方はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。彼女はこう言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」  自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さくて、不十分で、自分のためにも足りないほどですから、まして他の人に分け与えることなどできませんが、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。

Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

最後に15節から17節を見て終わりたいと思います。 「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。―主の御告げ―」

主はご自分に頼る者たちを見捨てることはされず、母のような愛によって慰めてくださいますが、敵に対してはそうではありません。その憤りが敵に向かって燃え上がるのです。

15節ではそれを「火」と「つむじ風」と「炎」という言葉で表しています。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。」「火」は神のさばきを、また、「つむじ風」は破壊的なイメージを、そして「火の炎」は激しい神の怒りを表しています。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれるのです。

いったいこの敵とはだれのことでしょうか。17節には、「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。」とあります。自ら身を聖別し、きよめているといいながら、園に行って、異教の神々に仕えていた人たちのことです。彼らは神に仕えているようで、一方では豚の肉や、忌むべき物、ねずみを食らう者たちでした。そうです、彼らは3節と4節に出てきた自分勝手な敬虔を求めていた人たちです。神によって産み出された子らと関係のない人たちです。それは言い換えると神のエルサレムとともに喜ぶことができない人たちのことなのです。神のことばも悟れず、ただ自分勝手な敬虔を求めるならば、その身に神のさばきを招くことになります。神が与えてくださるすべての祝福は、まことの教会を通して流れ出るからです。神が約束された共同体ではなく、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回る霊的な高ぶりを遠ざけなければなりません。

あなたはどうですか?エルサレムとともに喜んでいますか。神のみことばにおののいておられますか。エルサレムとともに喜べ。エルサレム、神の教会とともに喜び、神の喜びと繁栄、慰めと満たしを体験させていただきたいと思います。