民数記1章

きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのはイスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

Ⅰコリント10章はこの民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったのか、結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったということです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離だったのです。にもかかわらず、彼らは40年も荒野をさまようことになってしまいました。なぜでしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができなかったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には12人の偵察隊を送ったとき敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできないと言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやいたのです。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければなりませんでした。それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの時代にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その後の結果が決まります。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族を誕生させたのです。

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求められていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していたものでした。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

そして、その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどいろいろです。その戦いにどのように勝利して進んで行ったらいいのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

1.人口調査(1-16)

まず1~16節までをご覧ください1節には、「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間シナイ山に導きそこで十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセはそのシナイ山のふもとの会見の天幕にいます。出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があることがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ1:1)。その内容がレビ記なのです。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発していくのです。その旅の準備が12章まで語られます。その準備の最初のことは何だったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。

「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」 これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

ここで神はモーセに、イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためだったのです。戦うためには軍隊を整えなければなりませんでした。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければならなかったのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯にも悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり教会から出てこの世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければならないのです。

そのために選ばれのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われていると思います。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにという願いが込められていたのです。

2.神に数えられている民(17-46)

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えません。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンかどうかわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンになっているということがわからなくては戦うことができません。戦うためにはまず、自分が神の民であるということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければならないのです。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。

神に仕えるためにはまずあなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせなければならないのです。そうでなければ良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にするということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神です。一定の組織に加わっていることは自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時どこに属しているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示だけ従うというのは聞こえがいいですが、自由気ままで無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあいます。報告責任と訳される言葉ですが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼では戦えないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北感を味わうためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためなのです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

その大きな一つの理由は、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときにはたった70人しかいませんでした。それから約215年の歳月が経た今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上おり、女性やこどもを含めると300万人以上に増えたことがわかります。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されたことがそのようになったのです。 これを見るとき、私たちは励まされるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士であると数えられなければいけませんでした。主は、だれが兵士なのかを数えるようにと命じられたのです。主はだれが戦うのかを知っておられその者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられます。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会か、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するために数えるのではなく、あくまでも祈るためです。集会にだれが出席され、だれが休まれたのかを数えることによって、そのために祈っていくことができます。そのために数えるのです。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに祈り合っていかなければなりません。だれが来たかなんて関係ない、自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰と言えます。互いにいたわり合って、互いに助け合って、互いに支え合っていくために、私たちは祈り合わなければなりません。そのために数えるのです。

Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分の軍事力に頼らせようとしたのです。自分がいかに強いのかを見せて、いかに優れているのか、自分たちの教会がどんなに立派なのかを誇ろうとして数えさせたのです。それは主のみこころを損なわせました。それによって疫病が蔓延し7万人のいのちが奪われたのです。

ですから、このような動機で数えるなら罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではないのです。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切なことなのです。だから、数を数える時にはその動機に注意しバランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織として荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

3.レビ族について(47-53)

最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここにはレビ人についての説明されています。
「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。 幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。イスラエルは、このようにしてすべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために軍隊を組織したのです。

それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。