いよいよレビ記の最後の学びとなりました。きょうは27章から学びたいと思います。まず1節から8までをお読みします。
1.自分を聖別しようと誓願を立てる場合(1-8)
「1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、3 その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。4 女なら、その評価は三十シェケル。5 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。6 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。
7 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。8 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」
ここには、ある人がその人の人身評価にしたがって、主に特別な誓願を立てる場合にはどうしたらよいかが教えられています。「誓願」とは、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うことです。それを人身評価に従って行うわけです。どういうことかというと、創世記28章20節を見るとわかります。ここでヤコブは誓願を立てて、「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと切る着物を賜り、無地に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と祈っています。これはヤコブが兄エサウから逃れて母の兄ラバンのもとへと向かう途上でのことです。いったいこの先どうなってしまうのかという不安と恐れの中で、彼は一つの夢を見ます。それは地に向けられて天からはしごが立てられているというものでした。その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていました。そのとき彼は、主が彼のかたわらに立っておられ、「決してあなたを捨てない」という御声を聞くのです。その時彼は眠りから覚め、そこに主がともにおられることに気が付くのです。そして、その場を「ベテル」神の家と呼びました。そして、その誓いを立てたのです。もし神がこの旅路を守ってくださり、無事に父の家に帰るようにしてくださるなら、主は私の神となられると・・・。ヤコブはもしそのようにしてくださるなら、自分を神にささげると誓ったのです。これを何というかというと、聖別すると言います。その代価がこの評価額なのです。
また、民数記3章44~47節には、イスラエルのうちのすべての初子は主のものですが、その初子の代わりに神のものとしたのがレビ人です。レビ人は主のものでなければなりませんでした。そのレビ人の数よりも初子の報が多かった場合は、それをシェケルで贖わなければなりませんでした。その場合の価格は、ひとりあたり5シェケルであると言われています。ですから、レビ記27章で言われている人身評価に従って主に特別な誓願を立てる場合というのは、彼らが主に誓願を立てるとき、その誓願がかなえられる時には自分を神にささげますという誓願を立てた場合に、その代価となる金額のことなのです。
それは年齢また性別によって異なりました。最も高いのは20歳から60歳までの男性で、銀50シェケルです。女の人なら30シェケル、5歳から20歳までなら、男なら20シェケル、女なら10シェケルです。生まれて1か月から5歳までなら、男なら銀5シェケル、女なら3シェケルです。60歳以上なら、男なら15シェケル、女なら10シェケルです。これを見て、「ああ、私は10シェケルしか価値がないんだ」とがっかりしないでください。これはあくまでも主に特別な誓願を立てる場合の、その代価の評価なのですから。なぜこのように年齢や性別によって評価が異なっていたかというと、労力に差があったからです。女より男のほうが、力があります。また老人より壮年や青年のほうが、力があります。興味深いのは、一歳から五歳までも評価があることです。もしその者が貧しくて、その評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司がその人の評価をしました。祭司は誓願する人の能力に応じて評価ししたのです。
いったいなぜこのようなことが教えられているのでしょうか。それは軽々しく誓願を立てないためです。箴言20章25節には、こう書いてあります。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」イエスさまが、誓ってはいけない、と言われたのは、このことを指しています。つまり、よく考えもしないで軽々しく、「私はこれこれをします。」と言ったりしますが、そのように言っておきながらもしそれをしないということがあったら、それは神の御名を汚すことになります(レビ19:12)。主に特別な誓願を立てる時には、それはきちんと果たされなければならないということです。
おもしろいことに、この誓いというのは決して強制的がなく、完全に自発的であるところに特徴があります。ささげることを全く行なわなくても、だれにも咎められたり、責められたりすることはありません。けれども、主が自分に成してくださったことを思うとき、感謝の思いからぜひささげてみたい、と願うようになります。だれに言われなくても、これは行ないたいという強い願いが与えられるのです。それに基づいてささげるのが、この誓願なのです。これはすばらしいことであり、奨励されるべきことであります。けれども、この誓願がいとも簡単に破られることがあるとしたら、それは主の御名が軽んじられ、汚されることになってしまいます。そういうことがあってはなりません。軽々しく誓ってはならないのです。誓いを立てる時には、それに伴う責任と自己犠牲というものをよく考えなければならないのです。
2.家畜をささげる場合(9~14)
次に9~14節をご覧ください。ここには、主へのささげ物として家畜をささげ場合どうなるかについて教えられています。その家畜がきよい動物であれば、それは礼拝に使ういけにえとなります。ですから、それらは「聖なるもの」、神のものになるわけです。後で自分が使いますので別の家畜にします、ということができません。もし他の家畜に替えようとするなら、元の家畜と代用の家畜のどちらも聖なるものとなり、主にささげられなければなりません。それは、「こっちの家畜のほうが価値が低いから取り換えよう」という欲を出さないようにするためです。
また、汚れた家畜、つまりひずめが分かれていなかったり、反芻をしない動物については、いけにえとしては捧げることはできませんが、買い戻すことができました。その場合、その家畜を祭司の前に立たせて評価し、その評価に五分の一を加えた金額で買い戻さなければなりませんでした。それはこうすることによって、「ああ、やっぱり自分でこの動物を使おう」と思わないようにするためです。
3.自分の家をささげる場合
次に14~25節までをご覧ください。
「14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。16人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。」
自分の家も主に聖なるものとしてささげることができます。そのときには祭司がその家を評価します。祭司が評価したとおりになりました。この場合祭司は不動産鑑定士みたいですね。家まで評価値するわけですから・・・。もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、家畜と同じように、評価額に五分の一を加えなければなりませんでした。それは、家であっても何であっても、主にささげるというときにはよく考えてささげなければならないということです。
土地も捧げることができました。けれども、土地の場合はヨベルの年に所有地に変換されることを覚えておかなければなりませんでした。その土地の評価は以前も学びましたが、ヨベルの年までの収穫量によって、その評価が決まりました。聖別したものを買い戻す時には、評価額の五分の一を加えて返さなければなりませんでした。もしその畑が他の人に売られていれば、それはもはや買い戻すことができませんでした。ヨベル年に渡されるとき、それは祭司の所有地となったのです。
4.義務的なささげもの(26~34)
最後に、26節から34節までのところを見て終わりたいと思います。25節までのところには進んでささげるささげもの、つまり、ささげてもよいし、ささげなくてもよい、自発的なささげものについて教えられていましたが、ここからはささげなければならないささげものについて語られています。
まず26~27節をご覧ください。
「26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。27:27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。」
家畜の初子は、主におささげすることができません。なぜなら、すでにそれは主のものであるからです。主のものであるものを、主におささげすることはできません。覚えていますか、エジプトからイスラエルが出て行く時に、主がイスラエルの初子(長男)を救い出されました。ですから、初子は主のものなのです。主のものは、主にささげなければいけません。しかし、その家畜が汚れたものであれば、いけにえとしてささげることはできないので、その家畜の評価額に五分の一を加えた額を支払って買い戻すことができました。
次に聖絶のものについて語られています。28節と29節です。「28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。」
聖絶すべきものとは、主によって完全に滅ぼされるべきものです。あるいは、聖所にささげられるべきものです。ですから、自分のものとしてはいけません。この戒めを犯したのが、ヨシュア記に出てくるアカンです。主は、エリコの町のものは聖絶されたものだ。それを分捕物としてはならない、と命じられていたにも関わらず、彼は高価な品を盗み出してしまいました。それで彼は死刑になりました。
最後に十分の一のささげものです。30~34節をご覧ください。「31人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」
地の十分の一は、それが産物であっても、木の実であっても、必ずささげなければなりませんでした。なぜなら、それは主のものであるからです。主の聖なるものなのです。具体的にはそれはレビ人に与えられました。そして、そのレビ人の中から十分の一を祭司にささけられました。それを取り戻したかったら、これまでの誓願のささげものと同じように五分の一を加えて支払わなければなりませんでした。
おもしろいことに、牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなりました。良い羊だとか悪い羊だとか選り分けできませんでした。羊飼いの杖の下を十番目に通るものが、主の聖なるものとなったのです。羊飼いの杖を横にして、それを囲いの門のところで持ちます。その下を一匹ずつ羊を通らせるのですが、無条件で十番目の羊あるいは牛がささげられたのです。
十分の一のささげものという概念は、聖書全体に出てきます。アブラハムがメルキデゼクにささげ物をしましたが、それは十分の一でした。そして旧約聖書の最後のマラキ書には、こういう約束があります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)」これは、行うなら祝福があります。なぜなら、それは主のものだからです。本来であれば、私たちのすべては主のものなのです。主のものを主のものとしてお返しするのは当然ですが、そのすべてをお返しすることはできないので、その信仰の表明として十分の一をささげたのです。
私たちが献金をするとき、主から与えられたもののささげるとき、その収入の十分の一をささげるという根拠はここにあります。これは、イエス様もおろそかにしないよう戒められていることです。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)律法学者たちの問題は、十分の一をささげていればそれで神に従っていると錯覚していたことです。大切なのはその意味を理解して、心から神を愛し、神に従うことです。彼らにはそれがありませんでした。イエス様はそのことを叱責しておられます。しかし、他のほうもおろそかにしてはいけません。それは主のものであり、主に従うことなのです。私たちは小さなことにおいても神に喜ばれる道を歩みたいと思います。それが聖とさせていただいた者としての歩みなのです。