きょうはⅠテサロニケ5章後半の箇所から、互いの間で平和を保つということについてお話したいと思います。パウロは5章前半のところで、主の再臨に備えてどう生きるべきかについて語りました。その基本は6節にあるように、目を覚まして、慎み深くしていましょう、ということでした。慎み深くとは「しらふで」と訳されることばです。酔ったような状態ではなく、しらふでいましょうということです。その具体的な表われが、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みをかぶるということでした。そのようにして互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことが必要なのです。
きょうの箇所はそれを受けて、ではどのように具体的に互いに建て上げていくのかが語られています。そしてここでは、お互いの間に平和を保ちなさいとあります。
きょうはこの平和を保つということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、互いに平和を保つとはどういうことでしょうか。第二のことは、それを教会の指導者たちとの間でどのように保ったらよいのか、第三のことは、教会の兄弟姉妹との間でそれをどのように保ったらよいのかということです。
Ⅰ.平和を保ちなさい(12-13)
まず12節と13節をご覧ください。ここには、「12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」とあります。
原文では12節の「兄弟たち」の前に「de」というギリシャ語が使われています。これは「それで」とか、「しかし」という意味の接続詞です。英語の聖書では「Now」という言葉が使われています。「Now we ask you ,brothers,」です。「それで、兄弟たちよ。あなたがたにお願いします」というニュアンスです。つまり、この節はその前に語られてきたこととつながりのある内容であるということです。すなわち、11節でパウロは、キリストの再臨に備えて互いに励まし合うようにと勧めましたが、その具体的な励ましの内容がここで語られているのです。それはあなたがたの指導者たちとの間に平和を保つようにということです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。そのような人たちと平和を保つようにというのです。
この平和とは、私たちが一般的に考える平和とは異なります。5章3節にも、「人々が平和だ。安全だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲いかかる」とありますが、そのような平和のことでありません。表面的にはにこにこしていても心の中では何を考えているのかわからないというような平和ではないのです。この平和はイエス・キリストによってもたらされる神との平和がその土台となっているものです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。
以前、私たちと神との間には平和がありませんでした。敵対関係にあったのです。神を神ともせずに自己中心に生きていた私たちは、神から遠く離れていました。聖書ではこれを罪と言います。その罪のゆえに、神との関係が断絶していました。いわば戦争状態にあったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。神の子イエス・キリストの血によって、このイエスを救い主と信じることによって敵対関係を解消し、神に近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、神との間にあった隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄された方なのです。敵意は十字架によって葬り去られました。私たちは、このキリストによって、大胆に父のみもとに近づくことができるようになったのです。かつて日本とアメリカは激しい戦いを繰り広げましたが、今は互いに助け合う関係になったのと同じです。これが平和です。つまり、神と正しい関係に入ったのです。これがクリスチャンの平和です。クリスチャンは、互いの間にこの正しい関係が保たれなければなりません。それは、神が混乱の神ではなく、秩序の神だからです(Ⅰコリント14:33)。
23節にも、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」とありますね。私たちの神は平和の神です。そして、教会はこの平和の神を信じる信仰の共同体なのです。ですから、私たちはこの平和の神にならって、平和の神を私たちの中心に置いて、互いの間に平和を保たなければならないのです。
Ⅱ.指導者を認めなさい(12-13)
では、どのようにしたら平和を保つことができるのでしょうか。ここでパウロは、「あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。」と言っています。
指導者たちとの間に平和を保つことによってです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。それは上下関係があるということでありません。ローマカトリック教会ではこの上下関係を明確に設けた階級制度がありますが、プロテスタントでは、聖書ではそのような階級は存在しません。私たちはみな兄弟姉妹であり、祭司なのです。これを万人祭司と言います。ローマカトリック教会では司祭と呼ばれる人を通さなければ神に近づくことはできないと教えますが、プロテスタントではすべての人はイエス・キリストを信じることで、直接神に近づくことができると教えています。神と人との間には何人も入ることはできません。イエス様だけが唯一の仲介者であって、このイエスを信じるなら、だれでも神のもとに近づくことができるのです。
しかし、教会には使徒、預言者、伝道者、牧師または教師、監督、長老といった指導する立場にある火とたちがいるということです。この人たちは別にえらいというわけではありませんが、その与えられた賜物のゆえに、その務めをゆだねられた人たちなので、その人たちを認め、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。
この「指導し」という言葉と同じ言葉が、Ⅰテモテ3章4節と5節にも使われていて、そこには、「4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―」とあります。
この「自分の家庭をよく治め」の「治め」という言葉が、「指導し」と同じ言葉です。ここには監督と呼ばれる人の資質が語られていますが、その中でパウロは、監督者というのは自分の家庭をよく治める人でなければならないと言っています。夫として自分の妻をよく治める人、父親として自分の家庭をよく治める人が、監督者としての最低の条件だというのです。なぜでしょうか?自分の家庭こそ最小の単位であるからです。その自分の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょうか。とても厳しい言葉です。これだけでも、監督者として立っていくということがどれほど難しいことであるかがわかります。夫婦関係がぎくしゃくしていたり、子供たちが全然聖書に従っていなければ、ましてや神の教会を治めていくなどできないでしょう。
ですから、こうした立場にある人というのは別に教会だけでなく、家庭の中にも、会社の中にも、学校にも、この社会の中にも、どこにでもあるのです。このように治める人がいてこそ、全体がまとまるのです。こういう人がいなかったらどうなるでしょうか。いいようで悪いです。みんなバラバラになってしまいます。それぞれが自分の言いたいことを主張し、好き勝手なことをするようになるのです。「私はこうしたい」、「ああしたい」とてんでバラバラなことを言い、まとまることはありません。そこには必ず治める人、指導する人、世話をする人、まとめる人、監督する人がいてこそ全体の調和と秩序が保たれ、健全に建て上げられていくのです。教会の場合、それが牧師とか、長老とか、監督とかと呼ばれる人たちで、そのような人たちに対して、その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。
ここで大切なのは、「その務めのゆえに」ということです。牧師だから尊敬しなさいとか、監督者だから、指導者だから、尊敬しなさいと言っているのではありません。その務めのゆえにです。それはどんな務めでしょうか。
ここではまず「あなたがたの間で労苦し」とあります。指導者の特質の第一は、教会員の間にいて労苦している人です。Ⅱコリント11章28節には、牧会者であったパウロがどれだけ労苦していたかが書かれています。彼はここで、「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言っています。「このような外から来ること」というのは、その前に語られている牢に入れられたこととか、むち打たれたこと、石で打たれたこと、難船して海上を漂ったこと、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、飢え渇き、寒さに凍えるといったことですが、このような外から来ることのほかに、日々押しかかるすべての教会への心づかいがありました。これが労苦の中でも最も重いもの、労苦が伴うものでした。「教会への心づかい」です。イエス様は「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てまい。」と言われましたが、いつも羊の間にいて、羊が守られるようにと、ありとあらゆる心づかいをします。それが羊飼いです。それによって時には命を捨てることもあります。それがどれだけ大きく、重い労苦であるかがわかります。
第二のことは、「主にあってあなたがたを指導し」とあります。教会の指導者は主にあって指導する人です。主にあって指導するとはどういうことでしょうか。主イエスにあって指導するということです。イエスのように歩み、イエスのように指導するということです。常に神のみこころは何なのかを求め、その主のみこころに従って指導するということです。
第三のことは、「訓戒している人」です。指導者とは訓戒する人です。何によって訓戒するのでしょうか。みことばによってです。訓戒するとは14節にも同じ言葉が使われていて、そこでは「戒める」と訳されていますが、聖書のみことばをもって戒め、訓戒し、警告することなのです。できればそんなことはしたくないです。そんなことは言わないで、優しい、親切な言葉だけを言いたいです。でも訓戒がなかったら立派に成長することはできません。それは子育てを考えたらわかります。親が小さなこどもに口うるさく注意するのは、その子に立派に成長してほしいからでしょう。それがなかったらどこに行ってしまうかわかりません。わがままで、勝手な道に進み、自分にも、回りにも害をもたらすようになってしまうでしょう。彼らは聞き分けのない大人になってしまいます。だから、そういうことがないように親は口うるさいくらいに注意するのです。それと同じです。
テサロニケのクリスチャンは生まれたばかりのベイビークリスチャンでした。そんな彼らにとって必要だったのは何かというと、この戒めるということだったのです。聖書のみことばからの訓戒がなかったら、いろいろな教えの風に振りまわされたり、波にもて遊ばれることになってしまいます。そういうことがないように、教会の指導者は、聖書のみことばを教えなければならないのです。そうすれば、どんなにいろいろなことを聞いても、いつも聖書からそれを確認して判断することができるようになるでしょう。それが大人のクリスチャンです。そうなるように、みことばによって教え、訓戒しなければなりません。それが牧師の主要な務めです。牧師には他にもたくさんしなければならないことがありますが、その中でも第一の務めは、みことばによって訓戒すること、みことばによって養うことです。
その務めのゆえに、です。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払わなければなりません。この「愛をもって深い尊敬を払う」というのは、最大、最高の愛と尊敬をもって、という意味です。それは、従えばいいんでしょ、従えば・・・といった表面的な尊敬のことではありません。愛をもった深い尊敬です。愛がなければ何の意味もありません。たとえ口先で敬っているようでも、それが表面的なものであれば何の意味もないのです。
レオン・モリスという注解者はこう言っています。「従う立場にある人たちが批判にさらされるとき、指導者たちは最善の働きをすることは決してできない。良い指導者に必要なのは、よく従う立場にある者たちの愛と尊敬である。」
また、イギリスの偉大な説教者のチャールズ・スポルジョンはこう言っています。「偉大な会衆は、必ずしも偉大な説教者によって作られるのではない。しかし偉大な説教者は、偉大な会衆によって作られる。」
もし教会員が自分の指導者たちに対して最高で、最大の愛と尊敬をもって扱うなら、その教会員も指導者と同じような存在になれるのです。ですから、深い愛と尊敬を払うことが求められているのです。
Ⅲ.すべての人に対して寛容であれ(14-15)
次に、14節と15節をご覧ください。ここには、指導者たちとの間ではなく、兄弟姉妹の間でどうあるべきなのかが教えられています。「14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」
原文では、14節の冒頭にも「de」という接続詞があります。これは13節までの流れを受けての「de」です。すなわち、お互いの間に平和を保ちなさい」そして、兄弟たちよ。すべての人たちに対してはこうですよ、こうありなさい、と語られているのです。それは、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい、ということです。私たちは皆、聖人君子ばかりではないということを認めなければなりません。私たちはみな問題を抱えており、そういう罪赦された罪人たちが集まっているところが教会なのです。そのことを認めなければならないのです。その上で、私たちはいったいどうあるべきなのか。
まず、気ままな者を戒めなければなりません。この「気ままな者」という言葉のギリシャ語は軍隊用語で、隊列を乱す兵士を指す言葉です。命令系統を全く無視して、勝手気ままに行動している兵士のことです。詳訳聖書という聖書がありますが、それによるとこれを、「怠け者、だらしのない者、わがままな者」と訳しています。そういう人は面倒くさいからといって放っておき、波風立てないようにせよ、というのではなく、そういう人たちを戒めるようにと言われているのです。教会の秩序を乱す者がいれば、教会の方針に従わないで勝手なことをする人がいたら、教会の指導者を無視して、自分がまるで指導者であるかのようにふるまっている人がいるとしたら、そういう人を戒めるようにと言われているのです。
次は「小心な者を励まし」とあります。詳訳聖書では、「臆病な者」と訳しています。気弱な者、いつもくよくよしている者、いくじがない者、内気で適用性に欠けた者、そういう者がいれば励ますように・・・と。この「励ます」というのは、特にことばをもってというニュアンスなので、優しく、またねんごろに語るという意味になります。内気で、気弱な者、くよくよしている人に対しては優しく、ねんごろに語るというのが「励ます」ということなのです。
次は「弱い者を助け」です。詳訳聖書では、「弱いたましいを助け」とあります。ですから、これは単に身体的に弱いというよりも、信仰的に弱い人のことです。霊的に弱さがある人です。それは聖書もろくに知らないで、勝手気ままに歩んでいる人というよりも、むしろ、律法主義的な人たちのことを指しています。
パウロはローマ人への手紙14章で、偶像にささげた肉を食べてはならないと信じていたクリスチャンを弱いクリスチャンと呼びました。そういう人たちは、自分がそう思っていただけでなく、そうでない他のクリスチャンをさばいていたのです。本来ならキリストにあって自由にされているはずなのにその自由を満喫することができず、自分の中で勝手に律法を課して、クリスチャンとして、してはいけない、ふさわしくない、と線引きしては、自分の描いた基準に合っていない人をだめなクリスチャンとして見下したり、断罪していたのです。彼らは聖書のことはよく知っていたし、厳格に聖書に生きようとしていましたが、それによって、自分と同じようにしていないクリスチャンを見てさばいていたのです。パウロはそういう人たちを弱いクリスチャンと呼び、そういう弱いクリスチャンに対しては助けなければならない、と勧めているのです。この「助ける」という言葉は、しっかりつかむというニュアンスです。これは言葉によって助けるというよりも、彼らに寄り添うようにして、しっかりとつかみ上げるようにして助けるということなのです。
そしてもう一つのことは、「すべての人に対して寛容でありなさい」ということです。教会にはあなたの寛容を脅かす人たちがいます。堪忍袋の緒が切れそうになる人たちがいるのです。そういう人に対して寛容でありなさい、というのです。詳訳聖書ではこれを、「すべての人に対して忍耐強くありなさい」と訳しています。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。愛はすべてを耐え忍ぶのです。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。気ままな人がいてもぶち切れてはいけません。小心な者がいても、ムカついてはならないのです。弱い者がいたとしても腹を立ててはいけません。すべての人に対して寛容であれ、忍耐であれ、というのです。そのようにしてお互いの間に平和を保ちなさい、というのです。
そして、15節です。ここには、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」とあります。テサロニケのクリスチャンは激しい迫害に遭っていました。彼らはテサロニケの住人からも、テサロニケのユダヤ人たちからも迫害されていたのです。いわばダブルパンチです。それでパウロは三週間しか滞在することができず、そこから逃れなければならなかったのですが、彼らはそういうわけにはいきませんでした。そのような激しい迫害の中でじっと耐え忍んだのです。そうなるとどういうことが起こってくるかというと、復讐心ですね。よ~し、今に見てろ、後でどうなるかわからないからな・・・。神の呪いがあるように・・・なんて祈りたくなるわけです。しかしここでは、だれも悪に対して悪をもって報いることがないようにと戒められているのです。それはローマ12章17~21節にもあります。
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
また、ペテロもこう言っています。Ⅰペテロ3章9節です。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
それは主であるイエスから受けた教えであるからです。マタイの福音書5章43~44節にはこうあります。「43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
それは聖書の一貫した教えであって、すべてのクリスチャンに求められていることなのです。むしろ、クリスチャンはお互いの間で、またすべての人に対して、いつも善行を行うように務めなければなりません。神の一方的な恵みによって罪が赦され、神との平和をいただいた者は、同じように兄弟姉妹を赦し、すべての人に対して善行を行うことができるのです。
私たちは主イエス・キリストによって神との平和が与えられました。平和が与えられた者として、私たちに求められていることは、教会の指導者と呼ばれる人たちを、その務めのゆえに、愛を持って深い尊敬を払い、教会の兄弟姉妹、あるいはすべての人に対して、いつも善行を行うということなのです。そのようにして私たちは、主がいつ戻って来てもいいように、互いに励まし合って、互いに立て上げていくものでありたいと思います。