きょうは、Ⅰテサロニケ5章16節から18節までの短い箇所から、「神が望んでおられること」というテーマでお話したいと思います。
Ⅰ.いつも喜んでいなさい(16)
まず、「いつも喜んでいなさい」です。これは「パントケカイレテ」というギリシャ語1語で、聖書の中で最も短い節になっています。日本語の聖書の訳で最も短い節はルカ20章30節の「次男も」という節ですが、ギリシャ語では、この「いつも喜んでいなさい」「パントケカイレテ」です。ちなみに英語の聖書で一番短い箇所は、ヨハネ10章35節の “Jesus wept.”です。訳によって長さも違いますが、原文のギリシャ語ではこの「パントケカイレテ」、「いつも喜んでいなさい」が一番短い節です。これは最も短い節ですが、この中には大切なことが語られているのではないでしょうか。
「いつも喜んでいなさい」と言われても、できません。無理です。うれしいことがあったり、楽しいことがあったら喜ぶことができますが、嫌なことがあったり、苦しいことがあったときに喜ぶことなどできません。しかし、神の命令は「いつも喜んでいなさい」です。うれしい時には喜びなさいというのではなく、いつも喜んでいなさいというのです。いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。
その鍵は18節にあります。「キリスト・イエスにあって」です。私たちの力ではいつも喜んでいることはできませんが、キリスト・イエスにあるならばできるのです。自分の力で喜ぼうとしてもできません。自分の殻に閉じこもっていたのでは無理なのです。というのは、私たちの人生には喜べないと思うようなことがたくさんあるからです。いやむしろ、そういうことの方が多いのではないでしょうか。あなたから喜びを奪ってしまう出来事がたくさんあるのです。しかし、そうした中にあってももしあなたが自分の考えや思いにとらわれることなく、キリスト・イエスにあるならできるのです。
パウロは、ピリピ4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。なぜ彼はこのように言うことができたのでしょうか。彼はこの時獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のプレッシァーがあったと思います。そうした中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。それは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなどできなかったでしょう。しかし、彼は主にあって喜ぶことができたのです。
では「キリスト・イエスにあって」とか「主にあって」とはどういうことでしょうか。それはイエス様があなたのために十字架にかかって死んでくださったその恵みにあってということです。ヘブル12章2、3節を開いてください。ここにはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
ここでへブル人の手紙の著者は、罪人たちのこのような犯行を忍ばれたイエス様ことを考えなさい。それはあなたがたの心に元気が与えられ、疲れ果ててしまわないためです、と言っています。そうすれば、むしろ感謝になります。こんな私のためにイエス様が身代わりとなって十字架で死んでくださった。私の罪はイエス様によって全部赦されました。これは恵みです。感謝なことです。このイエス様の恵みを思えばということなのです。イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともされませんでした。イエス様はあなたのために喜んで命を捨ててくださったのです。このイエスの恵みにあるならです。私たちはこのイエスにあって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを受けたのです。神が私たちとともにいてくださるのです。私たちの人生にとって最もすばらしい祝福は神がともにおられるということです。これこそ、何にも代えがたい喜びです。私たちはイエス様を信じたことによってこの恵みを受けているのです。であれば、この世のものは「ちりあくた」にすぎません。どうでもいいことなのです。私たちはイエス・キリストにあって最もすばらしい恵みと祝福をいただいているのですから、この世で遭遇する様々な問題や苦しみは、取るに足りないことなのです。私たちはこのキリスト・イエスにあっていつも喜んでいることができるのです。
私が卒業した神学校の校長であったマクダニエル先生が、今年の夏、天国に帰られました。この先生の口癖は「よ・ろ・こ・べ!」でした。いつも「よ・ろ・こ・べ」と号令をかけました。もう65歳を過ぎて、体もヨボヨボなのに、奥様の健康も思わしくないと聞いていました。神学校の運営でも相当のご苦労もあったことでしょう。でもいつも「よ・ろ・こ・べ」なのです。なぜ先生はそう言っていたのか。それはこの「キリスト・イエスにあって」だったのです。人間的はいつも喜んでいることはできないことですが、「主にあって」「キリスト・イエスにあって」できるのです。
皆さんいかがですか。皆さんはいつも喜んでおられるでしょうか。喜ぼうと思ったら顔を引きつったりして・・。もし皆さんが喜びたいならイエス・キリストを見なければなりません。自分を見たら決して喜ぶことなどできないからです。人生には嫌なことや苦しいこと、辛いことの方が多いのですから。たまに喜ぶことができても、そんな喜びはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。しかし、もしあなたがイエスを見るなら、いつも喜んでいることができます。どうぞこのイエスを見てください。このイエスを見て、喜び、楽しもうではありませんか。
ダビデはこう言いました。「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)ダビデはいつも彼の目の前に主を置きました。主が彼の右におられたので、彼の心はゆらぐことはありませんでした。それゆえ、彼の心は喜び、彼のたましいは楽しんだのです。彼がいつも喜ぶことができたのは、彼がいつも彼の前に主を置いたからなのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は喜んでいますか。あなたのたましいは楽しんでいますか。あなたは自分の思いでは喜ぶことなどできません。ただあなたの前に主を置くことによってのみ喜びにあふれるのです。それはキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエスから目を離してはいけません。いつもイエスに目を留めて、イエスがあなたのためにどんなすばらしいことをしてくださったのかを思い巡らさなければならないのです。そうすれば、あなたもいつも喜んでいることができます。
Ⅱ.絶えず祈りなさい(17)
神が願っておられる第二のことは、絶えず祈りなさいということです。絶えず祈るとはどういうことでしょうか?朝から晩までずっと祈っていることでしょうか?24時間何もしないで、四六時中ずっと祈っているということでしょうか?そんなの無理です。仕事もしなければなりませんし、勉強もしなければなりません。家族のこともしなければなりません。やらなければならないこともたくさんあるのに、いつも祈っていることなどできません。無理です。ましてそんな体力もありませんし・・。できるはずがありません。そう思われるかもしれません。もしあなたが絶えず祈るということをそのような理解しているとしたら、それ不可能なことでしょう。しかし、この「絶えず祈りなさい」というのはそういうことではないのです。
この、「絶えず祈りなさい」という原語のギリシァ語は、「隙間なく」という意味です。この「隙間なく」という言葉は、古代ローマにおいては、例えば「しつこい咳に苦しめられている人」を表現する時に使われました。ちょうど今インフルエンザの流行が始まって、あちこちで咳をしている人がいます。もし皆さんがいつも咳に苦しめられているとしたらどうでしょうか。いつも咳のことばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか。「どうしたのかな、喉がイライラする、風邪でも引いたのかな。他の人にうつさないようにしなければならない。会議の時に咳き込んでいたらヤバイなぁ・・」とか。ですから、しつこい咳に苦しめられている人は、いつもそのことを意識するようになります。その状態を表しているのです。つまり「絶えず祈りなさい」というのは一秒も休まず祈り続けなさいという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということなのです。もちろん、主と親しく交わるためには特別に時間を取って祈ることも重要ですが、しかし、思わず祈りを込めて発する言葉や祈り心から出る神への思いも、それと同じくらい重要なのです。それは私たちが常に神様を意識して歩んでいる証しだからです。
たとえば、車を運転中、教会員のだれかを見かけたとしましょう。それは主がそのように行き合わせてくださったのですから、その人のために即座に祈るのです。「神様、今あの人を見ました。随分急いでいるようでしたが、どうか事故などに遭うことがないように守ってください」とか、「あの人の今日一日が祝福されますように」「あの人の生活を通して神の栄光が現されますように」と祈るのです。それはとっさの祈りです。思わず祈りを込めて発しているにすぎません。しかし、それはいつも主の臨在を意識していなければできないことです。
あるいは、あなたが家でテレビを観ていたとしましょう。すると気になるニュースがあったとします。それで心を痛め、心が騒ぐというようなことがあったとしたら、そのために祈るのです。心の中でも、声に出しても・・・。このように絶えず祈るというのは、私たちのあらゆる出来事の中で反射的に祈ることなのです。それはいつも主を意識していなければできないことなのです。
私は家で食事をしている時、家内がよく「きょうはあの人のために祈っていた」とか、「あのことのために祈っていた」ということを聞くことがありますが、本当に驚きます。毎日忙しくて、あまり時間がないのに、よく祈れるなぁと思うのですが、それはこの祈りです。特別に時間をとってその場にひれ伏し、目をつぶって何時間も祈るということではなく、もちろんそういう時間も重要ですが、日々の生活の中の瞬間、瞬間に祈る祈りなのです。それはいつも主を意識し主の臨在の中にいなければできないことです。
ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。私たちの心に心配や思い煩いがあるとき、私たちは即座にすべての思いを祈りに変えなければなりません。あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの心を神に知っていただかなければならないのです。そのためにパウロは、コロサイの信者にも「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)と言っています。またエペソのクリスチャンには、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)と勧めています。
日々の歩みの中で不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み、苦しみに遭うとき、それらに対する私たちの最初の反応は祈りであるべきなのです。祈りを欠くとき、私たちは神の恵みに頼る代わりに、自分自身に頼るようになります。絶えず祈るということは、要するに、いつも神に信頼し、神と交わることなのです。
Ⅲ.すべてのことについて感謝しなさい(18)
神が私たちに望んでおられる三つ目のことは、すべてのことについて感謝することです。「すべてのことについて感謝しなさい」という言葉を聞くとき、人は次の二つの誤解を起こしやすいのです。一つは、感謝は神様が下さる良いものに対してのみするものだという考えです。そのため、成功したり、健康であったり、祝福があったり、財産が増えたり、素敵なプレゼントをいただいた時といった、うれしいこと、うまくいった時だけ感謝すればいいという考えです。
もう一つの間違いは、感謝は感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝すればいいという考えです。しかし、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。これはすべてのこと、どんな状況でも、どんな成り行きになっても、すなわちうれしい時でも、悲しい時にも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうしたらこのように感謝することができるのでしょうか。
ここで鍵になるのも18節にある「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝することなどできません。しかし、キリスト・イエスにあるなら感謝することができます。キリスト・イエスにあるなら、すべてのことについて感謝することができるのです。災害に見舞われても、病気になっても、愛する人と死別するようなことがあっても、思うように事が進まなくてがっかりすることがあっても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも、感謝することができるのです。
ジョン・クゥアン師が書いた「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどはすべて感謝の対象となる。しかし聖書は、このような感謝はだれにでもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる感謝とは何か。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」
これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエスにあってこのようなすばらしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある望みを見て喜び、感謝することができるのです。
先ほど、この手紙を書いたパウロが獄中にあっても喜んだということを紹介しましたが、彼の人生は苦難の連続でした。その宣教においては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したとあります。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。人生を呪えと言われて呪うことかできる人がいるとしたら、このパウロとヨブの他にいたでしょうか。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言うことができたのは、彼がこのすばらしい宝を見出していたからなのです。
「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13) これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。わたしたちに永遠のいのちを与えてくださった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。
新聖歌252番の「やすけさは川のごとく」を書いたスパフォード(HORATIO G.SPAFORD)は、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、妻と四人の娘たちがヨーロッパに行くために乗った船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行く途中、彼はこの讃美歌「やすけさは川のごとく」と作り、歌いながら感謝をささげたと言われています。
「安けさは川のごとく 心 浸す時、悲しみは波のごとく わが胸、満たす時、すべて安し、み神 共に いませば」「見よ わが罪は十字架に 釘付けられたり、 この安き この喜び誰も損ない得じ」
世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。
皆さんはいかがですか。今、皆さんには不平や不満があるでしょうか。それならこう祈ってください。「神様。不平を言わないよう、私に信仰の目を与えてください。わたしに言葉や出来事を通して、神様の考えと思いを表してくださり、いつでも感謝があふれるようにしてください。」
「愛の原子爆弾」と呼ばれたソン・ヤンウォンという牧師は、それ以前に「感謝の水素爆弾」でした。彼は二人の息子の葬式の時でさえ感謝し、多くの人々を驚かせました。どれほど大きな恵みと悟りを得れば、息子の死を前に感謝できるのでしょうか。普段から感謝できない人が、ある日大きな感謝をささげることはできません。普段小さなことに感謝する人だけが、困難な時に感謝をささげることができるのです。このソン牧師は本当に感謝の人でした。彼の感謝に関する説教には、こう書いてあります。「水を飲みながら感謝せよ。息をしながら感謝せよ。太陽の光を下さる恵みに感謝せよ。土地が与えられている恵みに感謝せよ。死に至る罪から救われた恵みに感謝せよ。今までいのちが与えられている恵みに感謝せよ。永遠のいのちの国を保証されていることに感謝せよ。」
彼の感謝を読むと、神様はすでに私たちに必要なすべてのものを与えて満たしてくださっているということがわかります。水、空気、太陽、大地などはすべて私たちに必要不可欠なものですが、私たちの努力では決して得ることはできません。これらは神様が最初から与えてくださっている贈り物なのです。このように神様は、私たちの肉体に必要なもの、霊的に必要なもののすべてを満たしてくださっています。だから私たちは、与えられている祝福を数えて感謝すればいいのです。感謝は祝福を受ける器です。感謝の器を広げる時、すべてのことが満たされるのです。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。これが神のみこころです。私たちの力ではこの神のみこころを行うことはできません。それはただキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエス・キリストによって与えられた救いの恵み、聖霊の喜び、神がともにおられることの感謝を、信仰によってささげてまいりましょう。